retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

横須賀線新川崎駅(北加瀬一丁目 住宅地)

2015-07-21 05:04:34 | Weblog
途中、西へ曲がり、住宅地の中へ、入っていく。
郊外にあるような、住宅地だ。
明治時代初め頃の地図を、見ると、一面、田圃。
昭和の初め頃に、広大な、操車場が、できても、景観は、変わらなかっただろう。
急速に、変わり始めたのは、やはり、高度成長を達成した、安定期の頃かな。
最寄り駅として、新川崎駅も、開業したし。
西へ西へと、歩いて行く。
(2013年3月記)

横須賀線新川崎駅(北加瀬一丁目 新川崎駅近くの新しいマンション群)

2015-07-20 05:58:36 | Weblog
高度成長を達成したので、都心近郊には、操車場は、いらなくなったのだろう。
これは、どこでも、同じことだ。
そうした場所は、再開発の、対象となる。
それが、バブルの崩壊まで、続いていくわけだが。
などと、昔のことを、思い出しながら、鹿島田跨線橋を渡り、南へと、歩いていく。
東側、線路側には、新しいマンション群。
整備された、郊外、という感じだ。
古き良き、時代。
さらに、南へと、歩く。
(2013年3月記)

横須賀線新川崎駅(新川崎駅駅舎)

2015-07-19 05:46:11 | Weblog
鹿島田跨線橋は、新川崎駅東側に、広がる、新鶴見操車場の、上に、架かっている。
新鶴見操車場、昭和の初め頃、完成しているので、鹿島田跨線橋も、その頃、作られたのだろう。
ただ、その後、架け替えられている、ということだ。
さらに、今も、新しく、工事を、やっているみたい。
ちなみに、新鶴見操車場、高度成長を達成した後の、安定期に、操車場としての、機能は、なくなっている。
新川崎駅が、出来た頃。
今は、信号場、となっている。
(2013年3月記)

横須賀線新川崎駅(鹿島田 鹿島田跨線橋)

2015-07-18 07:22:49 | Weblog
南へ、南へと、歩いていく。
その先には、新川崎駅。
一つの駅としては、お互い、離れているのだろうか。
離れていても、蒲田駅、京急蒲田駅、というのもある。
そういえば、一方の、新川崎駅が、開業したのは、高度成長を達成した後、安定期の頃だ。
鹿島田とは、時代の、隔たりが、あるのかもしれない。
などと、考えているうちに、新川崎駅。
さらに、その先には、鹿島田跨線橋。
(2013年3月記)

南武線鹿島田駅(鹿島田 鹿島田駅前商店会)

2015-07-17 05:02:23 | Weblog
巨大な高層住宅、そのかたわらには、今も、昔からの、商店街が、残る。
京浜臨海部としての、川崎から、ほど近い、商店街だったのだろう。
高度成長期あたりが、もっとも、賑やかだったのかな。
いつしか、閑静な山の手の、川崎が、勢力を増し、いつしか、鹿島田も、飲み込まれたようだ。
高層住宅が、並び建ち、街は、整備されていく。
それでも、まだ、バブルの頃までは、景気がよかったので、残っていたのだが。
バブルが崩壊して以降は、都心部に、再開発が、集中。
郊外、地方は、衰退。商店街も、姿を、消していくのだ。
鹿島田の、商店街も、消えていくのだろう。
工事現場に沿って、南へ向かう。
(2013年3月記)

南武線鹿島田駅(パークタワー新川崎工事現場)

2015-07-16 04:39:41 | Weblog
中央線で立川駅。
立川駅で、南武線に乗り換える。
南武線に乗るのも、ひさしぶりだ。
多摩川を越え、列車は、川崎へと、進んでいく。
昔は、田園、という景観だったが、今は、整備された、郊外。
ずいぶんと、変わるものだ。
登戸、溝の口を過ぎ、高層ビルが、林立する、武蔵小杉。
ここらへんが、もっとも、変わったのかも。
さらに、列車は、進み、鹿島田駅へ。
鹿島田駅で下車。
改札を抜け、駅西側へ。
一帯、パークタワー新川崎の工事現場が広がる。
(2013年3月記)

京王線明大前駅(京王線明大前駅改札)

2015-07-15 04:47:24 | Weblog
賑やかな、商店街、南へ向かうと、京王線明大前駅。
京王井の頭線の駅でもある。
もともとは、陸軍省和泉新田火薬庫が、近くにあったので、火薬庫前駅だったが、しばらくして、やはり、駅名として、相応しくない、と考えたのだろうか、松原駅となっている。
京王井の頭線の方は、西松原駅。
京王線と、京王井の頭線は、直行しているので、なぜ、西松原駅なのか、ちょっと、不思議だ。
ひょっとすると、京王線の、駅は、東側に、ずれていたのだろうか。
そんな話は、聞いたことないので、なんとも、言えないけど。
京王線で、帰ることにする。
新宿駅経由。京王井の頭線で、吉祥寺、というのでも、いいかな。
とりあえず、新宿駅行きの、列車に、乗り込む。
(2013年3月記)

京王線明大前駅(松原一丁目 明大前商店街)

2015-07-14 05:03:21 | Weblog
甲州街道を渡り、南側へ。
すぐに、明大前商店街、となる。
明治大学和泉校舎があるためか、なかなか、賑やかだ。
開業したの、大正時代。
明治大学和泉校舎が、完成する前。
当時は、火薬庫前駅、という名前。
和泉校舎が完成する前は、火薬庫だったので、そのまま、駅名になったのだろう。
和泉校舎が、開校すると、程なくして、明大前駅になっている。
明大前商店街、南へと、向かう。
(2013年3月記)

京王線明大前駅(永福一丁目 甲州街道)

2015-07-13 04:42:45 | Weblog
玉川上水跡、ここからは、甲州街道の北側、道路沿いに、伸びているようだ。
その先、さらに、辿ろうとしても、もう、日が落ちかけている。
帰るしかない。
次、玉川上水跡を、訪ねるとすれば、ここらへんから、ということかな。
そちらの方、見てみると、歩道や、歩道の北側、それとなく、玉川上水の跡、という、感じではある。
ただ、甲州街道沿いの部分、道路の拡幅されて、痕跡は、あまり、残らないのかも。
次、来たとき、確かめてみよう。
(2013年3月記)

京王線明大前駅(永福一丁目 明治大学和泉校舎)

2015-07-12 06:15:59 | Weblog
甲州街道の、北側には、明治大学和泉校舎の、敷地が広がる。
明大橋は、甲州街道と、明治大学和泉校舎の、間を、流れる、玉川上水に、架かっていたのだろう。
ちなみに、明治大学和泉校舎が、完成したのは、昭和の初め頃。
京王井の頭線の、開通と、同じ頃だ。
都心に対する、郊外化の、流れ、ということか。
それ以前は、陸軍省和泉新田火薬庫の、敷地。さらに、その前、江戸時代は、和泉新田御焔硝蔵、だったらしい。
(2013年3月記)