retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

日比谷線広尾駅(南麻布三丁目 広尾への道)

2011-04-20 04:50:29 | Weblog
交差点を過ぎ、さらに、西へ。
途中、南西方向に伸びる道に入り、そのまま南西へと、向かう。
北側には、港区麻布運動場の美しい緑。
本当に、ここが、都心とは、思えないな。
ところで、実は、ここへ、2、3回は、来ているのだけど。
なぜか、妙に、懐かしいような感じがしてしまう。
実際、夢に出てきたぐらい。
もっとも、特に、なにか、この場所に、縁があるわけではなく、この懐かしさが、印象的なだけだろう。
このあたり、あえて、似ている場所、というと、田園都市線の沿線、東急東横線の日吉駅や大倉山駅、あたりか。
いずれも、山の手住宅街にして、緑の多い、丘陵地。
こういう場所は、郷愁を誘う、ということなのかもしれない。
ひょっとしたら、丘陵地、高台は、変化が少なく、昔から、変わらない、ということで、かつての風景が、残っているから、懐かしいのかな。
実際、古墳や、太古の遺跡も、このような場所で、見つかることが多い。
さらに言えば、昭和の時代の写真見ても、風景は、ほとんど、変わっていないし。
変わらない高台での、閑静な暮らし、というわけか。
でも、こんなところに、ずっと、いたら、いいかどうかは、別にして、世の中に対する意識、まったく、変わってしまうだろうな。
(2010年8月記)

南北線麻布十番駅(仙台坂上の交差点)

2011-04-19 06:08:20 | Weblog
古川を渡り、南北に伸びる大通りへ出る。
大通りを、いったん、南へ。
しばらくして、西へ曲がり、そのまま、西へ向かう。
通りは、上り坂。仙台坂といわれる坂だ。
江戸時代、通りの南側に、仙台藩の、広大な下屋敷があったので、そう呼ばれたのだろう。
通りの北側一帯には、元麻布の、山の手住宅街。
寺院も多く、寺町の側面もある。
ということで、一帯は、とても閑静な雰囲気。
こんな長閑な場所が、よく都心にあるなと、不思議に思ってしまうぐらい。
おそらく、ここらへんには、地下鉄が通っていないし、広い通りもないからだろう。
だから、ある意味、交通が、遮断されていて、静かなのだ。
もっとも、世田谷区にしても、文京区にしても、閑静な山の手住宅街とは、えてして、こういう感じだけど。
それに、交通が遮断されている、といっても、それは、外部から、ということで、クルマを所持していれば、内部からは、容易に、どこにでも、行ける。
一種のゲーテッドシティみたいなものかな。
そんなこと考えながら、坂を上っていくと、仙台坂上の交差点に辿り着く。
(2010年8月記)

南北線麻布十番駅(東京さぬき倶楽部)

2011-04-18 04:34:29 | Weblog
パークコート麻布十番の西側を南へ。
そういえば、この高層住宅の建つ前、通り沿いに、小さな神社があったはずだが。
どうなったんだろう。もう、なくなってしまったのかな。
と思っていると、パークコート麻布十番の南西側に、ちゃんとあった。
いちおう、新しく、建替えられたみたい。
ちょっと、ほっとした。
さらに南へ進むと、すぐに、突き当たり、東京さぬき倶楽部がある。
ちょっと前は、香川県の宿泊施設、讃岐会館だったようだ。
高度成長期の終わり頃に、開業したらしい。
そのような施設なのだが、今後、一帯を再開発するという計画がある。
最近の不景気で、どうなるかわからないけど。
ところで、それはそれとして、実は、この敷地内に、今は、田町駅近くにある、御田八幡神社の旧跡が、残っているらしい。
自分としては、そちらの方に、興味を、持ってしまうが。
再開発されれば、おそらく、御田八幡神社の旧跡も、整備されるだろうし。
もっとも、それだけ、あとは、どうでもいいことだけど。
突き当りを西に曲がり、そのまま、西に進む。
(2010年8月記)

南北線麻布十番駅(パークコート麻布十番ザタワー)

2011-04-17 07:33:54 | Weblog
高田馬場駅から東西線。
飯田橋駅で、南北線に乗り換える。
麻布十番駅で下車。
地表に出ると、相変わらず、方向が、わからなくなる。
何度も、降りている駅なのだが、いまだに、慣れない。
そういえば、麻布十番駅、開業して、10年。
もう、そんなになるんだな。
その間、幾たび、この地に立ったことだろう。
たいてい、高層ビルを見るため訪れたのだが。
ところで、麻布十番駅ができる前、ここに来たことは、ほとんど、ないと思う。
実際、南北線、あるいは、都営大江戸線が、開通していなければ、来るのは、かなり、面倒なのだが。
唯一、記憶に残っているのは、六本木ヒルズの予定地を、見るために、六本木を訪れたとき。
南側に出て、坂を、下っていったら、十番商店街に出たのだ。
そのまま、東に、進んでいけば、麻布十番。
もっとも、来たのは、覚えているが、詳細は、ほとんど、覚えていない。
あんまり、特徴のあるような風景でもないし。
そんな、今までのことなど、思い出しながら、古川の、南側を、東西に、伸びる通りに入り、東へ。
すぐに、通りの南側、パークコート麻布十番ザタワー。
最近、竣工した、高層住宅だ。(工事中はこちら
そして、この界隈では、最後の、高層ビルとなるだろう。
(2010年8月記)

常磐線北千住駅(北千住の西口メインストリート)

2011-04-16 07:24:31 | Weblog
商店街の中、北へ。
東西に伸びる、北千住のメインストリートに出る。
北千住駅周辺には、主だった道路は、このメインストリートだけ。
たぶん、それは、北千住駅が、もとの、旧市街、千住宿の、ごく近くに設置されたからだろう。
だから、広い通りを、作れなかったのかな。
たとえば、他の主要駅は、たいてい、旧市街の外れに、作られている。もともと、何もないので、駅前広場や、放射状に伸びる通りが、できたのだ。
ひょっとしたら、北千住駅、という名前になったのは、実は、千住宿の位置から、北側に、設置される予定だったからかもしれない。
荒川が、開削されることになったので、やっぱり、やめて、千住宿の、すぐ近くに、なったのかな。
駅名は、変更できず、そのままになってしまったのだ。
本当かどうか、わからないけど。
ただ、さっきの赤煉瓦塀の寺院をみると、モダンなことが、とても、好きな街らしい。
そういうわけで、鉄道の駅に対しても、拒否反応を示さなかった、そう考えた方が、なんか、楽しいが。
でも、そんな街も、バブルが崩壊した後、失われた10年を過ぎて以降、急速に、衰退してきているように思える。
結局、郊外の整備された街、みたいになっていくのだろうか。
なんか寂しいけど、仕方のないことだ。
北千住駅から帰ることにする。
(2010年8月記)

常磐線北千住駅(千住二丁目 駅南西側の商店街)

2011-04-15 06:08:55 | Weblog
勝専寺の赤煉瓦塀、明治時代の終わり頃にできたら、ということだ。
今あるのが、当時のものかどうかは、わからないけど。
ところで、北千住は、江戸時代に、日光街道が、開通し、千住宿が、設置されて、かなり、栄えたらしい。
その、千住宿の、北側にあるから、北千住、かと思ってしまうが、実は、千住宿の中心が、今の、北千住。
なんで、このような、名前になったのだろうと思ってしまう。
もっとも、江戸時代の、終わり頃には、千住宿は、拡大し続け、今の、南千住も、呑み込んでしまったようだ。
だから、千住宿の北側部分として、北千住、でも、いいのかな。
現在の、町名も、千住だし。
明治時代になり、また、さらに、栄えたらしい。
その痕跡が、当時としては、かなり、モダンな、勝専寺の赤煉瓦塀だ。
他にも、昔の、建造物は、少なからず、残っている。
そういえば、北千住に、初めて、来たのは、いつだっけ。
失われた10年の頃、かな。
路線バスを制覇しよう、なんて、思っていた時期だ。
そのとき、バスで、北千住にも、来たんだっけ。
たしか、年末だったような記憶が、微かにある。
とても賑やかな下町、そういう雰囲気。
今、歩いている、北千住駅南西側の商店街も、来たなあ。
でも、なんか、ずいぶんと、あの頃と、比べて、静かになった気がする。
(2010年8月記)

常磐線北千住駅(千住二丁目 勝専寺)

2011-04-14 05:08:44 | Weblog
南東へ。再び、南北に伸びる、幅広の、交通量の多い、日光街道。
日光街道を北へ歩き、しばらくして、東へ。街中に入っていく。
ところで、なんで、日光街道あたりから、西は、森林だったんだろうか。
丘陵地だったので、開拓から、取り残されたのかな。
あるいは、鎮守の森、という感じかもしれない。
明治時代の地図を見ると、もはや、森林、というよりも、荒地、みたいになっている。
ひょっとすると、疎林のような状態だったのかも。
そんな一帯なのだが、たしか、戦前まで、残っていた、ということだ。
戦災で、焼失した後は、復元されず、住宅地となって、今に、至っている。
残っていれば、歴史的な、テーマパークになっていたかもしれない。
ちょっと、わからないけど。
街中を、北東へと、歩いていく。
すると、突然、赤煉瓦の塀に囲まれた、勝専寺。
赤煉瓦の塀は、いつできたのか、わからないが、勝専寺自体は、鎌倉時代の終わり頃の創建、と思われる。
とすると、さっき、訪れた、不動院、慈眼寺、と同じだ。
この時期、やはり、一帯には、何か、大きな転換が、あったのだろう。
もっとも、今となっては、もう、歴史の中に、埋もれてしまっているが。
(2010年8月記)

常磐線北千住駅(千住宮元町 千住神社)

2011-04-13 05:06:34 | Weblog
さらに西へ。
南北に伸びる、交通量の多い、幅広の、日光街道を渡り、北西に向かう。
すぐに、西側、千住神社。
創建は、平安時代の終わり頃。かなり、古い神社だ。
その昔、ここから、西側一帯は、丘陵地で、森が、あったらしい。
神社がある、ということは、それなりに、集落があったのだろう。
隅田川もあり、船運や、漁撈を営んでいたのかな。ちょっと、わからないが。
ただ、今のところ、あたりに、古墳や、古代遺跡は、見つかってはいないみたい。
ありそうな気がするけど。あるとすれば、やはり、神社のあるあたりかも。
ところで、当時は、千崎神社、といっていたので、ひょっとしたら、地名も、千崎、かもしれない。
鎌倉時代の終わり頃には、東側に、寺院が、いくつか、創建されているので、集落も、東側に移ったように思える。
さらに、時代は下り、江戸時代、日光街道、千住宿が、できると、ここらへんは、西森、と呼ばれるようになった。
もう、完全に、集落の中心は、東側に、移ったのだろう。
つまり、千住の中心からみて、西森、なのだ。
ちなみに、千崎神社の名前も、西森神社になっている。
時代は、さらに、下り、明治時代。
その頃の、地図を見ると、森、というよりも、草原、荒地、みたいになっている。
今は、もう、そんな、森も荒地も、すっかり、なくなってしまった。
西森神社から、名前が変わった、千住神社が、この地に、残るばかり。
(2010年8月記)

常磐線北千住駅(千住一丁目 慈眼寺)

2011-04-12 06:09:01 | Weblog
通りを西へと、歩いていく。
しばらくすると、北に伸びる参道。
参道に入り、そのまま、北に向かうと、その先には、不動院がある。
ところが、その手前には、東から西に伸びる参道。
こちらの参道は、慈眼寺に至る。
参道の交差点なんて初めてだ。
どうして、こんな風になったのか、いわれは、わからない。
両方とも、創建は、鎌倉時代の終わり頃。
創建した時期が、近いので、やはり、このような配置、なにか、理由があるんだろう。
もっとも、当時、たとえば、鎌倉街道は、南側を流れる隅田川の、さらに、南側を東西に伸びていたわけで、この場所は、かなり、辺鄙な場所だったはずだ。
たぶん、鎌倉街道から、隅田川を渡った先にある集落、という感じだろう。
あるいは、隅田川の船運と関係していたのかもしれない。
今となっては、よく、わからないけど。
一帯が、賑やかになったのは、江戸時代。日光街道の開通からだ。
千住大橋も架橋され、千住宿も設置されている。
大いに賑わったことだろう。
そして、それから、かなり時代が下り、現在。
また、静かになったようだ。
(2010年8月記)

常磐線北千住駅(北千住駅南側大踏切)

2011-04-11 06:08:02 | Weblog
駅に沿って、南へ南へと、歩いて行く。
駅前から遠ざかるにつれ、だんだん、寂れていく街並み。
バブルの頃なら、全体的に、賑やかになったものだが。
昨今の、駅前再開発の場合、中心が栄えていくと、逆に、その周囲は、衰退していく。
北千住も、その例に洩れないようだな。
しばらくすると、東西に伸びる通り。
その通りに入り、西へ向かう。
すぐに、踏切。
この踏切が、ものすごく、幅広なのだ。
まず、東武伊勢崎線の踏切があり、すぐその先に、常磐線の踏切がある。
本来、別々の踏切なのだが、北千住駅で、二つの路線が、合流しているので、踏切も、倍の、広さになったのだろう。
さらに、この踏切の上、日比谷線、つくばエクスプレスの高架が通っている。
見ているだけで、あっちからもこっちからも、列車が、入ってきて、本当に、目まぐるしい。
踏切とは関係ないけど、地下には、千代田線もある。
まさに、交通の要衝だ。
だとすると、今後も、北千住駅周辺、大きく変わっていくように思える。
そんなことを考えているうちに、ようやく、遮断機が、上がり、踏切の西側へ。
(2010年8月記)