retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

南北線麻布十番駅(麻布十番駅付近の古川)

2009-11-20 05:01:46 | Weblog
南から北へと、流れてきた、古川は、この一の橋を過ぎたあたりで、ほぼ、直角に向きを、東に変え、そのまま、東へと、流れていく。
こう見てくると、一の橋公園といい、古川の流れといい、なかなか、興味深い、景観のようだ。
そのような、麻布十番駅周辺なのだが、実は、この駅が開業する前、この近くまで、来たことがある。
六本木ヒルズの工事が始まった頃だろうか、その予定地を見に来た時のことだ。その南側の縁に沿って、歩いていて、下り坂だったので、そのまま、どんどん、下っていったら、今の、麻布十番駅近くの、交差点に行き着いた。
その後は、鳥居坂あたりを通って、六本木の方へ、向かったと思う。
ただ、残念ながら、古川は、少しは覚えているが、一の橋公園については、まったく、記憶に、残っていないのだ。
たぶん、バブルの頃や、その以前の安定期の頃は、いたるところ、オブジェを配した、人工的な空間が、出現していたので、特に、目立つ存在ではなかったのだろう。
だからこそ、その時代の、当たり前の風景として、「東京ラブスーリー」の一シーンにも登場したわけか。
そう考えると、一の橋公園が、昔からあるように、思えない、というのは、一の橋公園が、当たり前のように、あった時代が、もう、過ぎ去ってしまった、ということかもしれない。
大袈裟に言えば、まわりの雰囲気が、様変わりしてしまい、その時、初めて、変わらない、妙なオブジェのある、一の橋公園に、気付いた、ということか。
ということは、一の橋公園は、レトロになったわけだ。
たぶん、今の時代、この場所に、相応しいのは、直角に向きを変える、古川を中心にした、庭園のような、親水公園、なのかもしれない。
自分にとっては、今のまま、レトロな方が、ずっと、懐かしくていいのだけど。
(2009年6月記)

南北線麻布十番駅(麻布十番駅一の橋公園のオブジェ)

2009-11-19 04:20:25 | Weblog
高田馬場駅から東西線。飯田橋駅で南北線に乗り換える。
麻布十番駅で下車。
地上に出ると、一の橋公園。上空には、首都高の高架が、幾本も、絡み合うように、うねっている。
いつものことだが、地上に出た瞬間、方向感覚を失ってしまった。
どういうわけか、大通りの向こう、西側に伸びる、麻布十番商店街が、北へ伸びているように、錯覚してしまうのだ。
その錯覚を、振り払うのには、とにかく、近くを、流れる、古川を、渡ってしまうのが、一番いい。
渡って、そのまま、まっすぐ行けば、東側、芝公園の方へ、ということが、すぐに、頭に入る。
そういうわけで、方向感覚を、取り戻せるのだ。
ところで、今、いる、一の橋公園、いったい、いつできたのだろう。
いろいろ、妙な、オブジェが、あるところを見ると、自分が住んでいるところも、押し並べて、そうなんだが、バブル以前の、安定期の頃、なんだろうな。
ただ、どういうわけか、そんな、昔からあるようには、思えない。
そう思うのは、地下鉄南北線が、開通したとき、初めて、訪れたからだろうか。
でも、この公園、バブルの頃、一世を風靡した、テレビドラマ、「東京ラブスーリー」に、出てきたのだ。それでも、つい、最近まで、そのことに、気付かなかった。
気が付かなかった、というよりも、結び付かなかった、という方が、正確かな。
ひょっとしたら、一の橋公園、ではなくて、一の橋公園のような、妙なオブジェが置いていある公園が、当たり前のようにあった、バブル期以前の時代の、実感が持てないのかもしれない。
だから、方向感覚を失う、ということでもないのだろうけど。
でも、ちょっと、わからないな。
(2009年6月記)

西武池袋線椎名町駅(谷端川緑道終端目白西部)

2009-11-18 04:50:48 | Weblog
こぎれいな家並みの中、谷端川緑道を再び、南へと歩いていく。
そして、ついに、西武池袋線の線路に、行き当たった。
緑道は、ここまで。その先は、もう、ない。
いったん、線路に沿って、西側に向かい、踏切を見つけて、西武池袋線の南側に出てみる。
谷端川緑道の南側への、延長線に、川筋らしき、道もあるのだが。
完全に、流路を見失ってしまったようだ。
なんとなく、高台に行けば、川筋の痕跡があるかも、と思い、閑静な住宅街の中を、彷徨うが、それらしきものは、見つからない。
ひょっとしたら、公園などの中に、池でもあって、それが、水源かもしれないと、思いつき、木々が生い茂る、公園にも立ち寄ったが、無駄足だった。
さらに、南へ行くと、東西に伸びる、目白通りへ。
残念ながら、ここで、諦めるしかない。なぜなら、その先は、神田川への、下り斜面になっているから、谷端川の川筋があるわけはないのだ。
これが、結末なのか。自分には、相応しい結末なのかもしれないけど。
目白通りを東へと歩いていく。
それにしても、さっきの、目白の閑静な住宅街といい、目白通りといい、本当に、自分とは、縁遠い、場所だな。
目白駅に辿り着き、山手線で帰ることにする。
ひさしぶりに、高田馬場駅まで歩こうかと思っていたが、時間もないし、疲れたし。とりあえず、山手線で帰る。
ところで、谷端川は、どこへいってしまったのだろうか。
実は、この時、谷端川の川筋は、さらに、南側にある、と思い込んでいたのが、あとで、調べたら、違っていた。
谷端川は、西武池袋線の南側に出た後、すぐに、西へ。
椎名町駅の西側で、再び、川筋は、北へ伸びているのだった。
つまり、北から南へ、流れくだり、目白の手前で、向きを、北へ変え、さらに、板橋の手前で、再び、南へと、向きを変えていたわけである。
こんなに、大きく蛇行を、繰り返していたとは。
そのことは、目白化しつつある、池袋の街が、谷端川と、同じように、一筋縄には、いかない、というようなことを、感じさせてしまう。
たんなる、気のせいなんだろうけど。
(2009年6月記)

有楽町線要町駅(池袋西部への新しい道路予定地)

2009-11-17 05:02:18 | Weblog
池袋から西へ伸びる、メインストリートを、有楽町線要町駅付近で、越える。
明らかに、谷端川緑道の周辺の、雰囲気は、こぎれいな感じになったようだ。
南側にある、山の手、目白の影響なのだろう。
あるいは、メインストリートの南側に、立教大学の敷地が、広がっているので、そのためもあるかもしれない。
そんな街中を、再び、南へ南へと、歩いて行く。
しばらくすると、また、東へと、伸びる、更地が現れる。
こちらも、池袋へ向かう、道路の予定地らしい。
なんとなく、こちらの方が、早く、開通しそうな感じだが。
この道路予定地、立教大学の南側を通り、劇場通りと交差して、池袋駅南側を、アンダーパスしていく通りに、合流する。
南北に伸びる、明治通りより、先には、延伸はしないのだろうけど。
ただ、一帯は、もう、雑司が谷、ということになる。
つまり、雑司が谷と結ばれるわけだ。
池袋の街を、目白、雑司が谷にする計画は、着々と進行しているのかな。
また、泉麻人の著書を、思い出す。
昔は、たぶん、池袋駅の南側を、アンダーパスする通りと、目白通りの間が、池袋、目白の、境界線だったかもしれない。
自分の学生の頃の、記憶も、たしか、そういう感じだった。
バブル期に、池袋西口で、再開発が行われ、今では、駅の西側に伸びる、メインストリートまで、目白、という雰囲気だ。
まさに、隔世の感、というやつだな。
バブルの頃や、バブルが崩壊した頃までは、それでも、街が、きれいになっていくので、それはそれで、喜ばしいことだったのだけど。
でも、格差社会になって、万人が、それを、享受できるわけではない、ということになれば、話は別だ。
街が、新しくなればなるほど、居場所を失っていくことになるからだ。
できることは、昔を、懐かしむことぐらい。
それ以外、どうすることもできないな。
(2009年6月記)

有楽町線要町駅(谷端川緑道池袋西部)

2009-11-16 04:58:53 | Weblog
実は、この道路予定地のあるあたり、仕事の関係で、何度か、訪れたことがあるのだ。
近くに、今もあるのかどうか、わからないけど、山手通り沿い、ハタスポーツプラザ、というのがあって、よく覚えている。
都心部の、今風の、テーマパーク、とは、違って、本当に、地方都市によくある、遊技場兼社交場、という感じだったな。
昭和の時代の遺物みたいで、レトロな雰囲気。
ただ、それを売りにした、テーマパーク、ではなくて、もちろん、こちらは、本物なのだが。
あとは、激安ショップだの、何十年も前からありそうな、喫茶店、中華料理屋、それに、焼肉屋。
そして、交通量の多い、山手通り、見上げれば、上空には、首都高の高架。
こうして見ると、閑静、という言葉とは、かけ離れていることが、わかるのだが。
でも、どうしてだろう、とても、とても、懐かしい。
今は、どうなってるのかな。
忘れ去られた街は、そのまま、忘れられたままなら、いいのかもしれないけど、そういった場所は、いつしか、再開発の場になる。その後は、消えてゆくものだ。
そう考えると、ちょっと、心配だが、最近、行っていないので、わからないな。
いつまでも、懐かしさに浸っているわけには、いかない。先を急ごう。
谷端川緑道を、さらに、南へ南へと、歩いて行く。
南へ進むにしたがって、気のせいか、家並みも、池袋本町付近のような、うらぶれた感じから、閑静な雰囲気に変わっていくように、思える。
もう少しで、要町。池袋駅西口から、西へ、まっすぐ、伸びる、大通りがあるはず。
ひょっとしたら、昔の、レトロな池袋の街と、目白のような、今風の、池袋の街の、分水嶺は、この、東西に伸びる、大通りなのかもしれない。
もっとも、今は、境界線であっても、将来、懐かしい街は、なくなるのだろう。
それは、仕方のないことだけど。
(2009年6月記)

有楽町線要町駅(池袋北西部への新しい道路予定地)

2009-11-15 07:34:46 | Weblog
川越街道を越え、さらに、南へと進む。
しばらく、歩いていくと、東側、池袋へ向けて、細長い更地が、伸びている。
道路予定地なのだろう。
もっとも、かなり前から、そのままなので、すぐに、開通するわけでも、なさそうだ。
昔、池袋駅から循環バスで、中丸町、熊野町に、来たのだが、そのとき、ひょっとしたら、この道路予定地を、辿って、池袋駅前に戻ったのかもしれない。ちょっと、記憶が曖昧だけど。
とにかく、一度、ここから、道路予定地を辿って、池袋駅に向かった、というのは、記憶にあるのだ。
たしか、図書館があって、神社があったはず。そして、そのまま、東へと歩いていくと、突然、東西に伸びる、幅広の通りが、現れる。
要するに、その幅広の通りが、山手通りまで、延伸する、ということなんだろうけど。
その地点から、さらに、東に進むと、南北に伸びる劇場通りがある。
劇場通りまで来ると、もはや、池袋の街、という感じだ。
最近も、何度か、歩いているので、いつもの、見慣れた、街並み。
ただ、この劇場通り、昔の池袋から見ると、あまりに、閑静すぎるような気もする。
東側に、もう一歩、入ったところに、文化通り、という通りがあるが、こちらの方が、昔の池袋を感じさせるな。
昔の池袋、というと、バブル期以前ぐらいかな、通学の途中に、池袋駅があったので、よく、途中下車したけど、特に、文化通りのある、駅北西側は、凄いところだった。
当時の状況について、泉麻人の著書に、たしか、こんな、一節がある。
池袋で、恐ろしい目に遭っても、南側、目白に逃げ込めば、大丈夫。目白と池袋の間には、見えないが、決して、越えることのできない、壁があるから。
そういう、内容だったと記憶している。
自分も、池袋から、目白、高田馬場まで、山手線に沿って、何度も歩いたことがあるので、まったく、その通りだな、と思ったものだ。
けれど、今、劇場通りの、閑静な雰囲気を見ると、山の手、目白が、確実に、池袋に進出し、駅北西側にまで、達している、ということを、感じさせる。
山手通りへの、新しい、快適な通りが、開通すれば、なおさら、そうなるだろう。
昔の池袋の街は、こうして、消えていくのかもしれない。
(2009年6月記)

東武東上線下板橋駅(谷端川緑道川越街道付近)

2009-11-14 07:21:36 | Weblog
植え込みの間を、延々と歩いていく。
やがて、谷端川緑道は、徐々に、向きを、南側へ。
池袋の街の、西側に達した、ということだな。
そのまま、道なりに、南へ南へと、進んでいく。
しばらくすると、西へ伸びる、交通量の多い、幅広の、川越街道。その上には、首都高池袋線の高架が、伸びている。
首都高池袋線の高架の方は、すぐ、西側を、山手通りの上空を、南北に伸びる、首都高中央環状線に合流しているのだが。
このように、高架に、別の高架が、直交するように合流しているので、川越街道と山手通りとの交差点の上は、幾本もの高架橋が、のたうっているように見える。
そんな交差点の、北西側には、熊野神社。
その熊野神社に因んで、一帯も、熊野町、という町名だ。
通りを挟んで、南側には、中丸町、という町もある。
これら二つの町は、どの駅からも、中途半端に、遠い。歩けなくはないが、(今、自分もこうして、歩いてきたわけだが)、でも、普通に歩くような、距離でもない。
だから、池袋駅から、熊野町、中丸町への、循環バスが、頻繁に、やってくる。
そういうわけで、住所は、板橋区なのだが、たぶん、池袋の街の範囲内なのだろう。
そんな、熊野町、中丸町なのだが、かなり、昔、どんなところか、興味があって、実際、その循環バスに乗って、行ってみたことがある。
もっとも、せっかく行ったものの、覚えているのは、バスで行った自体と、天気が、どんよりしていたことぐらい。帰りは、たしか、歩いて、池袋駅まで戻ったと思う。
時代から取り残された街、という印象は、あったのだが、もはや、忘却の彼方。今度、機会があったら、もう一度、訪れてみたいな。
ところで、話は変わるが、中丸町、というのは、もとは、中の丸、という、地名だったらしい。
中の丸、といえば、城塞の区画、本丸とか二の丸、という名称の一つなのだろうか。
そうだとすれば、お城でもあったのかな。
あったとしも、鎌倉時代。そうとう、古いし、そもそも、そんな、記録も痕跡もない。
もし、また、今度、訪れることがあったら、その点についても、見てこよう。
楽しみが増えたが、訪れるのは、いつになるか、見当もつかない。
(2009年6月記)

東武東上線下板橋駅(谷端川北緑道池袋本町付近)

2009-11-13 06:09:25 | Weblog
下板橋駅を過ぎても、緑道は、まだまだ、続いている。
さらに、西へと歩く。
南側一帯は、池袋本町。
町名からも、察せられるのだが、池袋発祥の地、ということらしい。
実際、明治時代の地図を見ると、今の、池袋駅周辺は、雑司が谷、といったほうが、近いように思える。
ところで、池袋本町が、池袋の元祖だとして、では、池袋の地名の所以は、どういうものだろうか。
今、歩いている緑道、谷端川が、大きく関わっていたようだ。
谷端川は、池袋の西側を、北へと、流れ、板橋の南側で、カーブを描き、今度は、南へと向きを、変える。そして、大塚駅あたりを、通過していく。
その湾曲した、内側に、池、あるいは、沼沢地があったらしいのだ。
もしかすると、もともと、大きな沼があって、そこを埋め立て、排水路を外側に、付けたのが、谷端川、とも考えられるが、わからない。
どちらでもいいが、つまり、川が、ぐるりと、まわりを、流れ、袋小路、のようになっている。そこに、池があったので、「池袋」、というところかな。(地形図を見ると、湾曲部の内側は、高台になっている。池があったとすると、川辺なのだろうか。やはり、真ん中なのだろう。ちょっと、わからない)
命名には、もう、一捻りぐらいの、紆余曲折は、あったかもしれないけど。
ただ、池袋本町の方を、見やると、いかにも、かつて、湿地帯だった、という、じめじめした、雰囲気がするのも、確かだ。
もっとも、現在の池袋、この、じめじめした、池袋本町よりも、雑司が谷や、目白の方と、繋がりたがっているように、思えてしかたがない。
(いけふくろうは、雑司が谷の鬼子母神、ススキみみずく、を思わせるし。)
だから、池袋本町は、忘れ去られ、時代に、取り残された場所、という感じがするのかな。
でも、自分にとっては、むしろ、こちらの方が、ほっとするような気がする。
それは、自分も、今や、すっかり、時代に取り残されてしまった、ということか。
そういうことかもしれない。
(2009年6月記)

東武東上線下板橋駅(下板橋駅前)

2009-11-12 04:56:15 | Weblog
進んでいくのは、いいんだけど、どうやったら、板橋駅の西側に出られるのだろうか。
さっぱり、わからない。
いったん、北側に向かいかけたが、やめて、駅前に戻る。
今度は、南側へ。
線路に沿って、南へ向かうと、果たして、西口への地下通路を見つける。
地形的に見て、ひょっとしたら、この地下通路の部分、谷端川が、流れていたのかもしれない。
だとすると、川から見て、板橋駅の東口は、ちょっと、高台にあるわけだ。
高台にあるから、なんとなく、下町っぽくなかったのかな。
地下通路を抜け、西口に出る。
ここから、谷端川跡は、緑道になっているので、辿りやすい。
板橋駅西口には、何回か、来たことがあるけど、そのときは、さっきの東口とは違って、ちょっと、下町っぽい、と感じたものだが。
たぶん、かつては、谷端川が流れていて、低地だったからだろう。
もっとも、昔、来たときは、谷端川のことは、まったく、知らなかったな。
ところで、なんで、板橋まで、来ていたのか、というと、駅北側、中山道上を通る、首都高中央環状線の、高架建設工事を見に来ていたのだ。
バブルの頃から、工事が始まったのかな。
王子から、板橋まで、延々と、高架を建てていた。
たいてい、王子で降りて、そのような工事現場を辿りながら、明治通り、中山道を経て、板橋まで、歩いていたものだ。
ただ、工事よりも、魅了されたのが、王子の、時代に取り残されたのような、街並みだったけど。それに、妙に、ローカルな、板橋の街にも、惹かれたなあ。
あれから、何年経ったのだろう。
懐かしい気持ちで、いっぱいになりながら、植え込みの間を、歩いていくと、東武東上線の下板橋駅前に出た。
ここを過ぎると、いよいよ、池袋の本拠地へ、入ることになる。
(2009年6月記)

埼京線板橋駅(埼京線板橋駅東口)

2009-11-11 05:00:20 | Weblog
きれいに整備された、滝野川桜通りを、北西へと歩いていく。
意外と、閑静な、雰囲気がする通りだな。
ところで、さっき通ってきた、明治通りと、滝野川桜通りとの交差点近くには、鎌倉時代、南北に、鎌倉街道中道が、通っていたらしい。
今の池袋の南東側にある、鬼子母神から、北へ、まっすぐ、かどうか、わからないが、とにかく、北へ伸びてきた、鎌倉街道中道は、この場所で、谷端川を、越えていくのだ。
たぶん、その後は、東へと、向きを変え、王子に達していたのだろう。
王子、というと、王子の地名の由来となった、王子神社が、有名だ。
鎌倉時代、その、王子神社を迎えたのは、一帯に威勢を揮った、武家の豊島氏、なわけだが、実は、今日、初めに訪れた、大塚天祖神社を、連れてきたのも、その豊島氏、ということだ。
「豊島」、という名前は、さらにその昔の、平安時代の豊島郡、からだろう。
その豊島郡の中心は、王子神社の南側、西ヶ原、という場所にあったらしい。
豊島郡の中心地を拠点にしていたので、「豊島」氏、を名乗るようになったのかな。
という風に見てくると、今の王子あたりは、大昔から、一帯の、中心だった、ということが、察せられる。
さらに言えば、街道伝いだが、王子と、今の大塚が、結ばれていた、とも考えられる。
今の、大塚は、そういう位置関係だったのか。
なんとなく、絡まった糸が、ちょっとだけ、解れた、という感じだ。
もっとも、昔は、湿地帯しか、なかったわけで、だから、どうだ、と言われれば、それまでなんだけど。
そんなことなど、思いを巡らせながら、気持ちのよい通り、滝野川桜通りを、さらに、歩いていく。
通りは、徐々に向きを、北に変え、道なりに、北へと進むことになる。
やがて、埼京線板橋駅の東口に達する。
この駅の西口には、何度か、降り立ったことがあるが、こちらは、初めてだな。
初めて、といっても、郊外にあるような、普通の駅前なんだけど。
今は、地表から、姿を消している、谷端川の上流を、目指して、さらに、進んでいく。
(2009年6月記)