復活日本 ~その日まで~

日本復活のその日まで、玉石混交の色んな情報を拡散します。

内記正時様のコメント抜粋・・・・大和心への回帰ブログから

2017年03月03日 | 日記
示した図の真ん中が日本(霊的中心)、外輪が外国というイメージになる。

149.化けの皮への内記正時コメント全文


(日の霊人と月の霊人-日本と外国の宗教観の違い)
主様のブログは、政治ブログでありながらも形而上の視点が入っていますから、読者のコメントの中には「宗教」に関する疑問や問題点を指摘しているものがあります。今回は私も、日月神示から見た日本と外国の宗教観の違いについて愚見を述べてみたいと思います。まずは次の神示をご覧下さい。

>(霊界で)神の歓喜を内的に受入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。神の歓喜を外的に受入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生まれてくる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生まれ出ることは、極めてまれである。月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性をそのまま受け継いでいる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をそのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いを持たない。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜として受け入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。ために、二義的の歓喜となる。故に日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創りだすが故に、原則としては、互いに交通し得ないのである。(第十七巻「地震の巻」第一帖)

日月神示によれば、霊界には「日の霊人」と「月の霊人」という二種類の霊人が住んでいます。日の霊人は「神の歓喜を内的に受け入れ、その生命に吸い取るから、そのまま神に抱かれ神にとけ入る」のに対し、月の霊人は「神の歓喜を外的に智の中に受け入れ、これを味わわんとして批判的となり、その歓喜は二義的となる」とあります。端的には、日の霊人は「内的に神の光を直に受ける」のに対し、月の霊人は「神の光を外的に受け頭で考えて理解しようとする」と言うことができます。

地球の人口は約73億人、国の数は国連加盟国だけでも200近くありますが、ではこのことと、上記「日の霊人」と「月の霊人」との関係をどのように捉えればよいのでしょうか?
私は以前のコメントで、神の側から見た国の区分には「神国(=日本)」と「外国」しかないと述べています。霊的な中心となる国が日本であって、それ以外の国は全て日本の外に位置する「外国」であるという意味です。これは「霊格、霊的位階」の秩序によって定まるものですが、実は私は、前述の「日の霊人」が「神国日本の民(=真の日本人)」として生まれ、「月の霊人」が「外国の民」として生まれるのが原則であると解釈しています。人口比から言っても、地上人として多く生まれる「月の霊人」が外国人であり、稀にしか生まれない「日の霊人」が真の日本人であるという図式が成立します。

なお上記神示の後半に、「日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創りだす」とありますが、これは霊的法則が支配する「あの世(霊界)」のことであって、地上世界では、異なる霊格の身魂同士が混在・混合して住むことが可能であることに注意してください。つまり「何でもあり」が地上世界の実相であり、それ故に混乱や混沌が生じますが、同時にそれによって「身魂」を磨くことができる訳です。これが地上世界存在の意義でもあります。

多くの日本人は、自分は無宗教だと言いながら、正月は神社に詣(もう)で、結婚式は教会で挙げ、葬式は仏教の世話になることを不思議とも何とも思わない精神性を発揮します。このような日本人の宗教的な無節操さが、外国人にとっては理解できない訳ですね。
しかし「内的に神の光(=歓喜)を受ける」という「日の霊人」の霊的性質に照らして考えれば、日本人の多くが、神道であれ、仏教であれ、キリスト教であれ、その他どんな宗教であっても、内的に神と直結するものを認めるならば、それらを拒む理由は何もなく、素直に受入れてしまうことが理解されるはずです。要するに「神の光を直に受ける」のですから、教義や教理がどうのこうのという小難しい理屈はどうでもよいのが日本人なのです。ですから日本に外来宗教が入って来ても、政治的理由は別として、一般人の感覚では特段の違和感もなく同居、或いは習合してしまうことになります。「マリア観音」などという、キリスト教徒が聞いたらぶっ飛びそうな「合体」現象さえも、日本では平気で起こっていたのですから。

ところで、日本古来の「神道」には明確な教義や経典がなく、また教祖となる人物もいないため、外国の宗教と比較して未熟だとか、遅れているなどと批判する学者や知識人がいますね。しかしこれは全く愚かな見方であって、事実は正反対、日本の神道は外国の宗教などより遥かに進んでいる(=民の霊性が高い)のです。これは日の霊人としての霊的性質を考えればわかることで、つまり、自分自身が神の光を内的に受け、神と繋がり、神によって生かされているという信念があるのですから、ことさら教祖や教義・経典などを必要とする訳がないのです。生き方そのものが「惟神(かんながら)の道」に通じています。これ以外には、せいぜい共同体の祭祀を掌(つかさど)る神官や神主などがいれば事足りるのです。

俗に宗教の三点セットとは、「教祖」、「教義(教典)」そして「信者」と言われていますが、この三つが揃わなければ成立しないのは「外国」の宗教です。外国人は「月の霊人」の霊的性質を有しているため、神の光を外的に受け、頭(智)で理解しようとするため、どうしてもそれを説く教祖と文書化した教義(教典)が不可欠になります。ですから外国の宗教は、カタチとしての三点セットが揃って完全なものが多いように見えますが、それはあくまでカタチだけの話です。むしろこの三点セットが凝り固まれば、独善的、排他的な宗教に堕ちることになり、現実にそのような宗教はいくらでもあります。

教祖がいなくても、教義がなくても、一人一人が神の光を内的に受け、神と繋がることができる。それが「真の日本人」なのです。これは真の「信仰」であって、宗教などと呼ぶべきものではありません。岩戸が開かれ新世界の到来が進むに連れて、カタチに凝り固まった宗教は消えていき、替わって真の「信仰」が芽生えてくるでしょう。今はそこに向かっている過渡期ですから、まだしばらくは混乱が続くとは思いますが―。

最後に私事で恐縮ですが、2月26日、千葉県成田市の麻賀多(まかた)神社で私の講演会が開催されたことをお知らせ致します。この神社は日月神示発祥の地でもあり、縁あって今回で五度目の講演となりました。講演テーマに政治的マターはありませんが、皆様の関心が高い「身魂磨き」の本質について熱く語っていますので、ご参考になるのではないかと思います。当日の参加者のお一人が、youtubeにアップしてくれましたので、宜しければご覧下さい。「内記 講演」で検索すれば見つかります(4編、約1時間30分)。

2017年03月02日 19:01