性能とデザイン いい家大研究

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です 
いい家ってなんだろう、を考え続けます

横浜散歩道にて_1

2007年07月21日 06時47分39秒 | 出張&旅先にて


久しぶりの横浜だったのですが、
疲れから、夜は中華料理を食べて早めに休みまして、
翌朝、あんまり人混みにならないうちに散歩を楽しみました。
やっぱり、早朝の時間はいいですね。
江戸時代には生活の工夫として
夏になると、サマータイム制に近いことをしていたと言われています。
まだ暑くなる前の早朝から働き始めて、
お昼頃までがんばる。
長めのお昼休みを取って、昼寝なども取る。
午後の仕事は早く切り上げて、
夕方くらいからは、水辺などの外で過ごして
熱帯夜をすこしでも過ごしやすくしていたのだとか。
まぁ、最近は異常気象。7月も半ば過ぎだというのに、
室内の冷房がきついと感じるような気候ですね。
いよいよ、地球の警告は臨界点にさしかかってきたのかも知れない、
と感じる昨今の季節感の異常さだと思います。
地球温暖化対策の切迫感は、まさに待ったなし。
わたしたちの星を、子どもや孫たちの世代、さらにその先まで、
生存可能で、持続可能な環境へと、人間社会システムを変えていくのは、
わたしたち、今の時代に責任ある世代の人間に
等しく課せられた重大な務めなのだと思います。

ホテルは関内周辺だったので、
横浜球場から中華街方向を目指して歩き始めて
偶然見かけた建物の写真です。
7階建てくらいはあるのですが、壁一面元気よく植物が被覆しています。
ここまでの壁面緑化は、たぶん目的意識的に取り組んでの結果ではないかと
容易に想像できますね。
目にも鮮やかで、街の風景に一服の清涼感を提供しています。
この建物のオーナーさん、良いメッセージを発していると思います。
こういうタイプの「美感意識」を涵養しなければいけないのでしょうね、
これからの社会は、きっと。


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バス停広告

2007年07月20日 06時59分50秒 | 出張&旅先にて


きのうから横浜に来ています。
住宅関係団体の年1回の総会出席でしたが、
久しぶりの横浜、って30年ぶりっていうくらいです。
まぁ、浦島太郎ですね。
学生の頃は一応、横浜の住人だったのです。

っていうことは置いて、
街角で目に付いたのが、写真左のバス停とビルボード広告。
これって、一体のモノでして、どうもNYから来て新商売として始めているらしい。
バス停って言うと、写真右のようなのが一般的ですよね。
これはたまたまの散歩道にあったモノですが、
まぁ、洒落た方と思います。
でもあきらかに左側の方が格好良くて、お金もかかっているし、
第一、電気代が相当の経費になると思います。
しかも、公共のスペースと、公共バスの停留所なので、
運営主体自体は公共。
こういうことについての許認可が、案外簡単にできてきているのでしょうかね。
先日なにげに見ていた早朝のテレビでこのサービスについて、
NYの最新情報っていうことで、やっていましたが、
もう、日本でもやっていたとは知りませんでした。
連絡先として、外資系とおぼしき名前の会社名が書かれていたので、
やはり「市場の独占」を狙って、世界第2のマーケットである
日本の首都圏に進出してきたものと思われます。

たぶん、このデザインにたどりつくまでに相当の研究が重ねられてきたと想像できるし、
なによりそのビジネスモデルが、公共サービスの空隙を狙っているところがうまい。
最近、横浜市はその配布広報誌を民間のフリーペーパー事業者に
全面的に委託し始めたりしています。
このバス停も、そういう流れからの発想であるのかも知れませんが、
民間が、公共の持っている資産を活用して、
それをビジネスに仕立て上げる手法が、
これから華やかになりそうな、そんな予感がしますね。

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クマの毛皮

2007年07月19日 06時16分11秒 | Weblog


さて、小樽の番屋、青山家漁家の主家スペースです。
青山さんというのは、山形県の旧本家もこのブログで紹介したわけですが、
この漁家がいわば本拠地だったのですね。
そしてさらに、青山さんは小樽の水族館の近くに「別邸」も建築として残しています。
都合、3軒の宏壮な建物を残してきたのですね。
すごい巨万の財をなしたということがわかります。
なかでも、可愛い娘さんのために立てたと言われる「別邸」などは、
建築当時、東京都心に建てられた百貨店の工事金額と
同じだけの金額を投じたという、贅を尽くしたモノでした。
客室の天井には、なんと、屋久杉を使っているという、
まぁ、こだわりというか、すごい建築です。
運んでくるだけでもたいへんな労力が掛かっています。
一度解体しての再建当時、見に行って、
なにげにショップに立ち寄ったら、創建当時の瓦を販売していました。
富山県で焼かれた立派な瓦で、全部に製造者の刻印がありました。
それが1枚、500円程度で売られていたので、つい購入。
カミさんから「いったいなんに使うのさ」とヒンシュクを買ってしまったものです(笑)。

で、まぁ、すごい大成功ぶりだったのですね。
山形の「青山家本家」に、青山さんの写真があって、
その写真では、真っ黒い外套を着込んでいる姿が映っていました。
ナンカ、ものすごい大成功者、という雰囲気を漂わせていました。
そのときは気づかなかったのですが、
この漁家でごらんのようなクマの毛皮2品を発見。
その写真で着込んでいたのは、クマの毛皮だったのです。
いまでこそ、動物愛護の観点から毛皮って流行らなくなってきていますが、
実用で考えたら、こういう毛皮が一番、確かに暖かそうですね。
それと、こういう敷物は、ほぅ、さすがは北海の漁業王、と
うならせるような豪放さを感じさせてくれます。
ちょっとクマさん、かわいそう。


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傘立て

2007年07月18日 05時30分03秒 | Weblog


いまはあまり見かけなくなったけれど、
すごく合理的な住まいのなかの「仕掛け」を発見。
写真は、しばらく続いている「番屋」建築の台所周囲の様子。
大きなかまどから暖気が上昇する位置に
傘が収納されておりました。
見ると、みんな立てた状態で、上下が穴にスッポリと入っていて、
実に合理的な仕舞い方。
雨水を良く切ってから、ここに収納させれば、次回使用時までに
油紙に吸い込まれた水分も乾燥して、良くメンテナンスされる。
傘は、みんな長さや仕様も統一されていたのですね。
だから、こういう仕掛けが成立する。
現代ならば、仕様は各傘メーカーバラバラに、勝手に長さも決めるから
住まいの仕掛け側は、こういう作戦は採れませんね。
気がついてみていたら、北海道開拓の村、他の家でも同様の仕掛けが
土間に面した壁などに見かけられました。
きっと、こういう仕掛けはきわめて伝統的に存在していたのだろうと推測できます。
こういう風に仕舞われている様子を見ると、
単純に美しいし、大切に使いたい物だ、と思えてきますね。
1本足りなくなっても、こうやって毎日見ていれば、
習慣化していて、足りないことにもすぐに気づく。
傘は、まさに規格化されて、デザイン的にも統一されていますね。

ここに、現代で一般的なビニール傘とかが入っていると想像しただけで、
許せないような心理が働いてくると思います。
現代住宅ではモノがあふれかえりすぎてしまっていて、
雑誌の収納特集って言うのは、定番メニュー。
いかにみなさん、整理整頓の付かない状態に陥っているか、を表しています。
モノが少なかった分だけ、むかしは大切に使うという合理精神が
社会全体に行き渡っていた、と感じられますね。
さて、そういう意味では、
わたしたちは「進歩している」と、明確に言い切れるのでしょうか?


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囲炉裏端

2007年07月17日 05時49分32秒 | Weblog

ふたたび、きのうからの続編です。
小樽市にあった、ニシン番屋・旧青山漁家内部の様子。
ここは板敷きの広間で、囲炉裏がいくつか区切られています。
上辺には「わらじ」が乾燥させるためにくくりつけられています。
手前側の壁面にはヤン衆の名簿のような木札が架けられています。
共同生活の場であり、故郷との便りのやりとりなど、
表札のようでもあったのだろうと推測できます。
この板敷き空間は相当な広さで、50坪くらいはある感じ。
これだけの大空間を支えるように、見上げると、豪快で大きな木組みが表れています。
最盛期には、1階だけではヤン衆の寝床が足りなくなって、
2階にも窓周りに寝床が造作されています。
江戸期から明治にかけて、大きな産業であった
ニシン漁の盛んな様子が視覚的にも理解される光景。
ざっと見て、100人くらいの大人数がここで寝泊まりしていたのでしょう。
これだけの大人数が集合したとしても、
天井高が10m超はありそうで、たぶん、集まったヤン衆のだれも見たことがないような
大きな構造を持った建築です。
この大空間はゆったりとしたおおらかさで包み込んでいた感じがいたします。
テレビなどの娯楽のない時代、こういう囲炉裏端で
どんなふうに食事と休息の時間を過ごしたのでしょうね。
バチバチとはぜるような囲炉裏火を囲んで、それぞれの故郷のこと、
親兄弟のことを肴に酒を酌み交わしたのでしょうか。

現代でも、釧路が発祥といわれる
「炉端焼き屋」という飲食店のスタイルがありますが、
ちょうどこんな雰囲気、共通していると思います。
日本人が生み出してきた憩いの文化性のなかに
こういうベーシックな原風景がDNA的に刷り込まれていると思います。
北海道の冬場には、青物野菜が足りなくなって
こういうコメを大量に食べる暮らしでは
「脚気」が頻発する懸念があります。
江戸期に北海道警護の任務に就いた東北諸藩の武士は
大半がこの脚気で死んだと言われています。
ニシン漁の最盛期は3ヶ月ほどだったということなので
そういう健康面でも問題は発生しなかったのでしょうか。
暮らしのさまざまなことがらが
立ち上ってくるように想起される光景だと思いますね。


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わたしの発行する住まいの雑誌リプランHPの「家づくりwebセンター」
って、要するに北海道と東北の優良ビルダーさんとWEBを通じて「住宅相談」できる
システムがリニューアルしました。
これまでも延べ70件近い実績があるのですが、
今回は使い勝手を大幅に向上させています。
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立って半畳、寝て1畳

2007年07月16日 06時38分15秒 | 歴史探訪


さて、きのうの番屋の続編です。
写真は出稼ぎ労働者のヤン衆の寝床と食卓。
わたし、結構、このヤン衆のための空間が好きです。
見学に来られる方たちは、よく「タコ部屋みたい」という感想を述べられるのですが、
右側写真の「寝所」だけをみればそうかもしれません。
しかし、この畳分だけ、人数がびっしりそろえば確かにすし詰めですが、
いつもそうとは限らなかっただろうし、
第一、この究極的な寸法感覚がいいと思うのです。
日本の建築の規格である、畳の広さというのが、
たいへん合理的な寸法であるということを、教えてくれる気がするのです。
ヤン衆のひとたちは、行李(竹や柳で網かご状に組んだ物入れ)ひとつに
身の回り品を入れて担いでこの番屋に来て、
写真右の窓下側にある収納部分に行李を入れて、
支給された布団や寝具に身を横たえて休んだ。
「頭寒足熱」的な建築的な配置になっているので、健康にもよさげです。
朝になったら、外にある厠で用を済ませたあと、洗面し、
寝所スペースと、通路土間の反対側の大きな板敷きの囲炉裏付きの広間で、
ごらんのような据え膳で、腹一杯、米の飯と食事を楽しんだ。
動物性の栄養は目の前で取れた新鮮なさかなを、
串焼きなどで遠赤外線的にあぶって、おいしく食べられた。
食事の給仕は、飯炊き女たちがこまめに用足ししてくれた。
大人数の食事を大量に料理するわけで、一般的にはおいしく料理できます。
東横インの朝食よりは(笑)、はるかに豊かな食卓風景。
そういう日常的なことに想像力を働かせてみると、
農家の2男、3男にとって、こういう暮らしは、働いても自分の身になるわけでもない、
やがては家を出て行くことを宿命づけられていただろう、自家での労働の日々よりは、
かなり魅力的だったのではないか?
なにより、現金の収入も得られたのも大きいと思う。
場合によっては、飯炊きの娘とのロマンスのようなことだって、
夢見ることが出来たかも知れない(笑)。

さて、寝所スペースですが、
本当に「立って半畳、寝て1畳」とは、良く表現したものと思います。
布団を敷いて、ぴったり1畳で、用が足りるギリギリが
「個人用スペース」なんですね。
しかし、この番屋での暮らしの場合は、そのほかに
生存のためのくつろぎの食事スペースも開放的に用意されていたのです。
そういう意味で、確かにプライバシーは究極的にないわけですが、
案外、居心地という意味では、いい環境とも言えるのです。
みなさん、どう感じられますか?
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旧青山家漁家

2007年07月15日 07時44分32秒 | Weblog


北海道開拓の村でもひときわ大型の建物。
看板には、「・・・住宅」と記載されていますし、
確かに建物の右手側は、当主である青山家の私的生活領域ではありますが、
全体としては、生産手段と一体となった兼用住宅。
というよりも、むしろ、ニシン網元の工場といったほうがやはりふさわしい。
中央頂部には煙出しがありますが、そこからさかんに
大人数のための煮炊きの煙が上がっていただろうと想像できます。
労働力としての季節労働者~ヤン衆と呼ばれた~を集めるための
いわば労働条件の切り札として、
「コメは、ただでいくらでも腹一杯食べさせますよ」というキャッチだったそうです。
貧しい時代、農家の2男、3男といったひとたちにとって、
こういう条件と、現金収入の魅力はこたえられなかったでしょうね。
この条件を維持するために、青山さんは上川地方に
専用のコメ農場を持っていたと言うことです。

ニシン網元として、大成功を収めた当主の青山さんは、
山形県から、はじめは出稼ぎ人として当地に来て働き、
やがて財力を溜めて漁場を賃借りして、さらに富を貯え、
やがて漁場を入手して、さらに拡大していった、という漁業王。
かれが活躍した当時は、綿花生産のための畠の肥料として、
ニシンが大きな利益を生む産業だったのですね。
江戸や、上方地域のファッション文化が花開き、
そのための原材料として綿花生産が、農家の大きな副業収入源になり、
とくに上方地域で盛んになったと言うことです。
綿花生産のためには、大量の肥料が必要だったのですね。
そういう意味では、明治以降に工業地帯になった京浜・阪神地域の工場に、
石炭を供給していた北海道の役割の、先駆的な経済形態だったのかも知れません。
青山さんは、ニシンの大量捕獲漁で成功したと言われます。
ただ、このような乱獲の影響もあったのか、
その後、北海道のニシン漁は急速に廃れてしまいます。
急激な成功の代償も大きかったのかも知れません。
そして、このような乱獲型の産業というのは、
北海道の経済や産業にとって、どういう意味があったのかと考えてみると、
いささか、疑問を感じる部分もあります。
北海道でこのように成功し、資本形成したひとたちは大部分、
その後は、横浜などの貿易資本に衣替えするケースが多かったと聞いたことがあります。
けっして、北海道発展のための資本にはならなかったということ。

われわれに残されているのは、こうした遺構建築くらいでしょうか。
そう考えるとやや、もの悲しく感じられる部分もあります。
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玄関前の敷石

2007年07月14日 07時13分52秒 | 住宅取材&ウラ話


写真は、北海道開拓の村、旧松橋家住宅のもの。
今回見学に行って、一番感じたのが、
「札幌軟石」のさまざまな利用のされ方だったのですが、
この家では、立派な玄関先(右写真)に敷き込まれて使われていました。
で、左側は「勝手口」側なんですが、
こちらは、どうも基礎工事などでこの地盤面を掘り返したときに
出てきたゴロタ石を取っておいて使った、という感じ。
こういう明確な素材の分け方って、
物事への判断基準が明確に峻別されていることを表していて、
一種、生きる上での哲学の明確さを伝えてくれます。
この敷石で言えば、正面玄関を通って入ってくる
「ハレ」の存在への畏敬の表現というものと、
日常使いのものへの質素の強調、とでも言えるでしょう。

こう見てくると、現代の住宅建築で、
こういう社会規範要素が設計上の与条件になる、ということは少ない。
ちょっと、飛躍してしまうかも知れないけれど、
床の間とかは、「家の格式」とか、生きていく規範を
住み暮らすものの意識に植え込んでいく装置ともいえたもの。
いまや、そういう存在に建築的敬意を払う、という習慣はほぼなくなった。
北海道では、和室自体、予算的に無駄、と計画されない家が多い。
歴史的に言えば、封建的な価値観の廃棄とでもいえるのでしょうか?
ただし、このような「しきたり」に属するようなものは
どんな年代の古民家にも共通するものであって、
狭い意味での「封建」というような価値観ではくくられないと思う。
家、とか家族、の基本的な存続に関わるような規範性でもあったと思う。
そういう考え方から、このようなハレと、日常の
「秩序感覚」もおのずと育まれてきたものなのだと言えます。
そして、その考え方には、かなり合理性もあったのだと思えます。

勝手口、というようなハレと日常の隔て装置はいま、ほとんど意識されない。
敷石の果てまで、そのような秩序感覚が貫徹しているのと
秩序感覚がほぼ消滅したような社会。
どちらのほうが、「文化的」といえる社会なのか、
ちょっと、考えなければいけないポイントなのかも知れませんね。
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石炭ストーブ

2007年07月13日 06時14分46秒 | 住宅性能・設備


写真は、北海道開拓の村で撮影した石炭ストーブです。
いまや暖房といえば、セントラルヒーティングかオール電化。
地中熱ヒートポンプ、さらには無暖房の実現まで
北方住宅の性能向上の努力は刮目の領域ですが、
ほんの40~50年前までは、
こういうストーブだったんです。
アメリカから北海道開拓の基本的な考え方を導入した頃、
初めて日本にこういうストーブというものが持ち込まれた。
欧米社会では、石炭というエネルギー源が発掘・産業化されており、
暖房熱源が豊富に提供されていました。
それはそのまま、産業用のエネルギーにもなっていた。
かれら社会のシステムを支える基本エネルギーが石炭だった。
そういうことから、日本でも国を挙げて石炭発掘に全力を挙げ、
北海道の夕張を中心とする石炭産業が勃興しはじめた。
当初は黒いダイヤ、といわれ、まさに全産業を支える存在だったのですね。

わたしが3才まで過ごしていたわが家は、
空知地方の産炭地に隣接した地域だったのですが、
流れている川の河原には、石炭が流れてきていて、
そういう石炭を拾い集めてくれば、買う必要がなかったということでした。
まぁ、のどかな時代の話ですね(笑)。
そんなふうに入手できるものだから、
北海道の人の冬場の石炭消費は、相当に豪快だったと言えるかも知れません。
写真のようなストーブに、左側にある石炭箱から
石炭を「くべて」、ガンガン、鋳物製などのストーブ本体が
真っ赤に変色するくらいに、盛大にエネルギー消費するのが一般的。
その後、札幌での都市生活に移転したわけですが、
生活文化的には、エネルギー多消費というのが、
寒冷地では当然である、という考えが強かったと言えますね。

いま、こうして石炭ストーブを眺めていたら、
こういう時代も、また一瞬にすぎない歴史のなかのワンシーンだったのだ、
というような思いが強く起こってきますね。
もちろん、これからの時代はエネルギー消費を押さえる方向に進むべきであるのは当然ですが、
しかし、この石炭ストーブを囲んで、
冬の寒さをともに過ごす隣人たちや、
家族全員で、燃える炎の力強さに勇気づけられて
乗り越えてきた、というのも事実だったのです。
そういう北国らしい、おおらかな人間関係を育む側面もあったと思います。
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旧開拓使札幌本庁舎

2007年07月12日 05時33分36秒 | Weblog

「北海道開拓の村」建築探訪シリーズです。

最近の発掘研究によると、札幌という場所は、
縄文の時代からひとびとにとって住みやすい環境だったそうですね。
開拓と開発が優先してきたので、
建築の時に基礎部分を掘って、たとえ、考古学的な遺物が発見できても、
そのまま埋め戻していろいろな建物を建ててきたのが常だったのだとか。
実際には、先人たちの豊かな生活痕跡が発掘される地域なんです。
縄文の頃には、いまよりも平均気温が高く、
いまの8度程度が、12度くらいだったということ。
現在の平均気温で言えば、仙台くらいの場所に相当します。
そのうえ、水利の便がよく、農耕痕跡も発見されるほど、
定住性も高かったそうですね。
水利は、遠く北方アジア世界、本州以南地域との交流にも繋がっていた。
このあたり、もっと調べてみたい欲求が募ってきます。

そんな「文字を持たない豊かな生活文化」の地域に、
明治政府の強い意志としての北海道開拓は行われたのですね。
なぜ、札幌の場所を明治の首府に選定したのか、
やはり、さまざまな条件が一番似合ったのでしょうが、
先人たちの経験値、ということが大きい部分を占めていたことに相違ないと思います。
現在残されている、明治期の歴史は
いきなり、明治がスタートの記述になっていますが、
土地の古老の言葉を取材するとかのかたちで、
こういうものが、判断の基礎部分を構成しただろうと容易に推測できます。

そういう開拓の意志を明確に示したのが、この建物。
アメリカ北東部の建築スタイルを持ち込んできたデザイン。
それまでの日本の城郭建築的な「政庁」とはまったく違う。
最上部のドームのような部分は、実に特徴的。
国会議事堂とか、権力の中心、的な印象を持つデザインですね。
開口部周りも、入念にデザインされています。
坂の上の雲を追うように、欧米をキャッチアップしようとした、
明治以来の日本の国家意志そのものを具体的に見せてくれています。
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