性能とデザイン いい家大研究

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です 
いい家ってなんだろう、を考え続けます

【明治6年・開拓使「勅奏邸」でガラス窓】

2019年11月21日 06時55分39秒 | Weblog

北海道住宅の最初期、というか明治政府による「開拓使」設置からの
北海道開拓殖民において決定的な要素領域であった、
「住環境」についての始原を探ってみようという企画を進めています。
もちろん、前史はかなり遡れるのですが、
今日のライフスタイルに直接つながる「住文化」を
遺されている多くの資料を目的的に活用して、活写しておきたい。
とくに高断熱高気密という日本の住宅を革命しつつあることがらが
どのようにスタートしてきたのか、明治初年から
整理整頓してみようと考えている次第です。
開拓使は北海道開拓の本府として札幌を選択して、
そこに日本民族による寒冷気候を克服した「五州第一の」都を
造営しようと企てた。(判官・島義勇)
一部のアイヌのコタンを除けば人跡がほとんど見られなかった
札幌に旺盛に都市を建設し、住居を建て続けてきた。
明治初年であり、脱亜入欧の気風が強く洋式をもって範とする考えが貫かれた。
この写真の「勅奏邸」は開拓使の現地トップがその建築でも範を垂れる
そういう意味を持たせて建設されたに相違ない建築。
この当時「ガラス邸」と通称されていた建物にいちばんふさわしい。
その鮮明な写真が、北大のデータベースに保存されていた。
上の写真は、それの前面の縁・デッキテラスに面した正面側の「窓」を
クローズアップさせたものです。
右手には「雨戸」などを収蔵する「戸袋」もありますが、
窓自体を見ると、四角く桟で区切られた様子が確認できる。
ここに「ガラス」が嵌められていたことは想像に難くない。



通称ガラス邸という記載は明治5年の「御用火事」を伝える
資料などで「ガラス邸前から」という記述が見られているので、
それ以前に建築されていることがあきらか。
天皇の機関である「開拓使」の現地駐在官トップの邸宅なので
建築の動機に於いては最初期建築として建てられた可能性が高い。
その建築においてその後の札幌都市で一貫して追及された
「洋風建築デザイン」の嚆矢として取り組まれたと思われます。
そういう意味で「北海道住宅始原の家」と称して格式的にもふさわしい。



こちらの写真は右手側壁面の様子。
戸袋や外開きの木の被覆扉もみられる。
外壁は下見板張りが採用され、その後の北海道の屯田兵屋などの
デザインがここですでに基本的に採用されている。
ただし、明治初年段階では建材としてのガラスは輸入であるのか
国産化されていたのか不明。
いずれにせよ、高価であったことは想像に難くなく、
そういう建材が周囲を睥睨するように使われ「範とすべし」と
これみよがしに建てられていたことが容易に想像される。
そういう展示効果も狙っていただろうけれど
「ガラス邸」という通称名から、透明な窓というものへのオドロキが
意図されていたのだろうと考えられる。
どうもわたしのこの「始原期の探究」からガラス窓というものの
果たした役割がクローズアップされてきます。
洋風住宅の導入ということが日本の住宅の革新であり、
住宅性能の追求が、開拓使の住宅政策の基本に存在していたと思えるのです。
今日で言えば1枚ガラスの熱的に貧相なガラス窓ですが、
それまでの障子と雨戸という「開口部」の常識からすれば、
気密、ということを日本人に意識させる効果をガラス窓は果たしていた。
このことが大きなテーマとして浮かんできたのであります。

追伸:ガラス邸の建築が判明しました。
建築史の碩学・遠藤明久先生の文献にこの建物に触れたくだりを発見。
建物としては「夕張通第壱号邸」という「和風建築」で明治5年4月に
札幌市北4条西1丁目に建てられた「官舎」。
で、当時はきわめて珍しい「ガラス嵌め込み」建具が縁側に
組み込まれていたとされる。それを展示公開していたとのことで、
多くの札幌在住者に「ガラス邸」という通称名で知られていたとのこと。
ついに疑問のひとつが解決いたしました。
本ブログで紹介の「勅奏邸」はやや完成年度が下がり
明治6年10月という記録もありました。訂正致します。


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