今夜は新人の歓迎会で少し遅くなった。
その帰り、そこかしこで満開の桜が夜にたたずんでいた。
この季節が来るたびに繰り返し考えるのだが、
いったいこの夜の桜の持つ妖しさは何であろう。
もちろん昼間の桜も相当な妖気をはらんでいる。
しかし夜、それも月や灯火の薄明かりの下で見る、
白い花はゆらりとなまめかしい。
どこか完璧に美し過ぎて怖いのだ。危うさを感じる。
きっと美しいものの裏には、醜いものが隠されている。
何物にも陰と陽があるはずだが、桜には陰がない。
いやあるのかもしれない。
しれないが、その圧倒的な満開の容姿を前にすると、
そんなものは微塵も感じない。
恐らく梶井基次郎もそんな不均衡な感覚から、
“桜の樹の下には屍体が埋まっている”
と書いたのだろう。
そんな妖気を追い払うかのように
桜とそれを見やる私の間を、
一陣の冷たい夜風が吹き抜けていった。
家路を急ごう。
詩というほど大したものではないです。
ブログを書いて投稿してから、
うーんあの表現はちょっと違うな、
あっこっちの言葉のほうが適切だ!
などと思い返して書き直すことがよくあります。
大抵は次の日、自転車を漕いでいる時などに、
思い起こすので直したりしませんが・・・
感情にぴったりの言葉を探すって、
難しいけど楽しいなと思う今日この頃です。
この記事を書いてからずっと考えていたのですが、
私は陰がないと書きましたが、昼間の桜が陽で、
夜の桜が陰かも知れないですね。
ちょうど「もののけ姫」に出てくる、
シシ神とディダラボッチのような関係。
昼は生で、夜は死を表す。
といったイメージでしょうか。
いずれにしても綺麗の裏側を、
連想してしまうのは何故でしょうか?
ブログではもったいない程の文章表現に感服しました。