7月3日、新しい紙幣の発行が始まる。
新5千円札に肖像が使われる津田梅子は津田塾大学の前身の女子英学塾を創設し、女子高等教育の先駆者として歴史に刻まれている。
実は2度目の米国留学で生物学を学び、研究者として将来を嘱望されていたことは知られていない。生物学者を選べず、教育者として生きた背景には何があったのか。
1894年、英国の学術誌に梅子の論文が掲載された。
米ブリンマー大学で指導を受けた准教授(当時)のトーマス・モーガンと、カエルの受精卵が細胞分裂する際に生じる溝や肛門のもとになる組織と色素の位置関係を調べた。
大阪医科薬科大学の秋山康子非常勤講師は「遺伝子やDNAの存在がわかっておらず、実験手法も確立していない時代に丁寧に観察し、分析している」と感心する。
当時、海外の学術誌に日本人の論文が載るのは珍しく、女性としては初めてだ。モーガンは「梅子のおかげでまとめられた」と語った。
梅子の担当した部分はほぼそのまま使われた。秋山氏は「論文はこんな風に書くのだなと改めて感じさせるような文章」と話す。
梅子は71年、6歳で日本初の女子留学生のひとりとして渡米した。17歳で帰国すると、英語教師として華族の子女に教えた。
しかし、良妻賢母を育てる学校の方針などに不満を抱き、再留学を目指す。女性でも学問ができるのか、試したいという思いがあった。
89年、東部のブリンマー大で2度目の留学生活を始めた。最初は教育法を学ぶつもりだったが、勃興期にあった生物学と出会う。
梅子は最初の留学時、高校でも数学や物理、天文が得意だった。科学史家で日本大学教授などを務めた古川安氏は「農学者の父親の影響もあった」とみる。
関係資料を調べた古川氏によると、モーガンをはじめブリンマー大の教授陣は梅子の研究や学問への姿勢を激賞していた。
手先が器用で分析力が高かったという。講師だったフレデリック・リーは「非常に優れた知性と科学的才能を発揮した」と評価している。
帰国前、梅子は大学に残って研究を続けるよう打診される。古川氏は「残っていれば、奨学生となり、モーガンの下で博士号も取得しただろう」と指摘する。しかし、申し出を断る。
梅子の学友で、後に来日して女子英学塾を支えたアナ・ハーツホンの手記よると、ブリンマー大幹部は「信じられないという反応を示し憤慨していた」という。
教師を休職し、国費による留学で、我が道を行くことは難しかっただろう。
女性の地位向上には高等教育が不可欠と考えていた梅子にとって、米にとどまるという選択肢はなかった。古川氏は「梅子のモラルが許さなかった」と分析する。
当時、日本では女性が科学者となる道は閉ざされていた。帰国すれば科学の道をあきらめることになる。葛藤はあったようだ。
帰国後も東京帝国大学教授の箕作佳吉の助言を得ながら、しばらく研究を続けている。モーガンにも状況を伝える手紙を書いた。その返信でモーガンは「米に戻ってこないか」と誘っている。
モーガンはその後、コロンビア大学に移り、ショウジョウバエを使った染色体の突然変異の研究で1933年のノーベル生理学・医学賞を受賞する。弟子や孫弟子のノーベル賞受賞者は8人にのぼる。
梅子の同級生らは、女性科学者の先駆けとして活躍した。古川氏は「梅子もそれなりに大成しただろう」と話す。
もうひとつの道を選んでいたら、女性科学者のパイオニアとして紙幣の顔になったかもしれない。しかし、日本社会にこれだけ影響を及ぼすことはなかっただろう。
モーガンは後に、コロンビア大時代の弟子で京都大学教授の駒井卓に皮肉っぽく語っている。「梅子があれほどの名声を得られたのは、生物学と完全に縁を切ったからだ」
梅子は女子英学塾での科学教育にも意欲を持っていたが、資金難で存命中は実現しなかった。
それから1世紀、女子の高等教育の環境は大きく改善した。とはいえ、理工系の大学に進む女子の比率は先進国では最低だ。社会も保護者も生徒も意識を変える必要がある。梅子もそれを望んでいるだろう。(編集委員 青木慎一)
日本の女性科学者
大正時代に入ると、女性科学者が登場する。植物学の保井コノが東京帝国大学で研究を続け、27年に女性初の博士号を取得した。