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デュポン財閥ー4  火薬トラスト

2023-12-04 19:51:14 | 国際政治・財閥



デュポン財閥の創始者 エルテール・イレーネ・デュポン(1771-1834)

 

・デュポン財閥-2 フランス革命とデュポン
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/7211f4344bd946895ce4ad7ebc3960b6

・デュポン財閥-3 大化学会社への成功
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/6f831974d28087140f9c05d7d2cef1ca

からの続き

 


南北戦争を通じて、デュポンは一貫して「愛国者」 もちろん北軍の側に立った「愛国者」として終始しました。
デュポンは南軍への火薬の供給を拒否し、北軍には惜しみなく援助しました。

この限りでは、デュポンは JPモルガン とは違って、「死の商人」 らしくなかったように見えます。 この 「愛国者」としての一貫した立場は、デュポンをアメリカ政府と固く結びつける結果を生みました。

そこで 南北戦争 は、デュポンに大きな利益をもたらしただけでなく、戦後の利益も約束しました。 1899年、インディアン・ヘッドに政府の手で無煙火薬工場が創設された時、デュポンはこれに協力しました。

2、3年後、ニュージャージーのドーヴァーに別の火薬公寿ができたときも、デュポンはその仕事にあずかっています。

そればかりではありません。アメリカ資本主義のたくましい発展は、火薬と共に進みました。 鉄道が西へ西へと敷設され、鉱山がつぎつぎに開発されて行ったとき、デュポンの火薬トダイナマイトなしにはあり得ませんでした。

 

 

私の本のカテゴリー『ペリー来航の真実』に詳しく述べていますが、イギリスが清(中国)にインド産の阿片を売りつけ、阿片戦争を起こした1839年当時、アメリカも阿片商人が清で活躍しており、例えば有名なのは1824年に設立されたラッセル商会があり、ブッシュ一族がトルコでアヘンを栽培し、この阿片商社はトルコ産阿片を清に売りつけていました。

このラッセル商会の幹部で、阿片で財を成したのが、ウォーレン・デラノ。 第二次大戦のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領はこの一族です。 だから筋金入りの親中反日。

あと、パーキンス商会、ブライアント&スター、テント商会などがあります。1830年にパーキンス商会とブライアント&スターとラッセル商会は合併。 さらに同社から独立したオーガスチン・ハード商会、ウェットモーア商会がアヘンビジネスを行っていました。 これらが米国ビッグフォーと呼ばれていた阿片商社です。

そして,清の次日本が市場(植民地)として期待されました。 しかし清の人口は4億人と巨大で、日本はおまけか蒸気船の石炭燃料・水食糧補給・蒸気船の修繕基地として期待され、1853年ペリー来航が計画されたのです。 受験生は「嫌でござんすペリーさん」、で年号を覚えましょう。

その時、清に行くには大西洋航路より、太平洋航路の方が圧倒的早くで便利です。 だから西へ西へと開拓していったのです。

日本を開国させ、日本市場開拓とべ国政府に提案したのが、ロスチャイルド・ロンドン家の代理人であるアーロン・パーマーとペリーの娘・キャロインと結婚したベルモント財閥のオーガスト・べrモントです。 どちらもロスチャイルドの(エージェント)代理人です。

西部開拓と当初は馬車ですが、この頃になると、蒸気機関車です。 都合よく、1848年にネバダ州に近いコロマで金が発見され、ゴールドラッシュが起こり、多くの人がカリフォルニアに移動しました。


そしてロスチャイルドが融資し、アメリカ横断鉄道が敷設されたのですこれが、アメリカン・エクスプレス(アメリカ横断鉄道)です。


ただ、ペリー提督が日本に来たのは太平洋航路太平洋航路ではなく、東海岸のバージニア州の軍港・ノーフォーク港からミシシッピデ号で1852年11月に出港し、 大西洋ルートでアフリカ、インド、シンガポール、上海に行き、その後で沖縄を回り、1853年7月に浦賀沖に来ています。

 

当時のアメリカは南北戦争で忙しかったので、日本は助かりましたが、南北戦争の時期(1861-1865)がずれていれば、間違いなく日本はアメリカの植民地にされていたでしょう。 

南北戦争が終わり在庫となった大量の武器が上海のジェーディン・マセソン商会(ジャーディン・マセソンはロスチャイルドと親戚のユダヤ人)に流れます。

 

当時その社員だったトーマス・グラバーが上海勤務から長崎勤務となり、維新軍にこれら大量の武器を売り、日本では徳川 vs 維新軍の内乱・戊辰戦争が起こりました。 これが、明治維新です。

更に言うならば、当時の世界覇権は大英帝国 vs ロシア帝国。 イギリスは頭の弱い長州率いる明治政府を金と女で懐柔し、イギリスの代理人として戦わせたのです。 これが日露戦争。


大国ロシアと戦う金のない貧乏国日本は、戦時国債を発行し、アメリカのクーン・ローブ商会(大銀行・財閥)のジェイコブ・シフ(ロスチャイルドと親戚で、フランクフルトのゲット出身のユダヤ人)がまず国債を購入してくれ、その後でロスチャイルド・ロンドン家が高い金利で購入。 すなわちロスチャイルドの資金で日露戦争を戦えたのです。


日本海海戦で大活躍した旗艦船・戦艦三笠は、ロスチャイルドGrの兵器会社ヴィッカース製(イギリス国籍)、戊辰戦争・日清・日露戦争でも大活躍したアームストロング砲、銃などもロスチャイルドGrの兵器会社・アームとロング製(イギリス国籍)。

日本が負けると投資資金を回収できないので、バルチック艦隊の石炭補給を足るところで、大英帝国を当時裏で操るロスチャイルドが邪魔してくれたので、日本海に来たときはバルチック艦隊はへとへとの状態でした。




何故、イギリスで産業革命がおこったのか? それは背化で最も良質な石炭が、かつ大量にイギリスの蚊に眠っていたからです。 また別途、紹介しますが 3~6億年前は、地球の大陸は一つの巨大大陸で、今のイギリスは赤道付近にあったからです。 約5億年前のカンブリア含む古代には 動植物が多く繁栄し、石炭・石油が作られたのであります。 

イギリスの石油の北海油田も有名ですね。 特に石炭は、地質学的には石炭紀と呼ばれる時代の動植物が石炭の原料になています。

だから石炭産業はイギリスが世界最大で、ロシアのバルチック艦隊も、イギリスから良質な石炭を購入していました。これが産業革命以降、イギリスが蒸気船で世界の七つの海を支配する原動力となりました。 もちろんオックスフォード大学からの日みう結社・円卓会議(ラウンド・ターブル)やミルナー幼稚園、さらにロスチャイルドの資金もあったのは、言うまでもありません。

 

そして日露戦争では、かおうじて日本が勝利しましたが、大英帝国・クーンローブ・ロスチャイルドに、巨額の借金をした日本は、その借金を完済できたのが、バブルに沸く1980年代後半の事です。 尚、日露戦争での日本の戦死者は9万人。イギリスの死傷者はゼロです。 

徳川埋蔵金? そんなもの明治政府が溶かして金貨にしてすべて、大英国とロスチャイルドに支払ったのに決まっているでしょうが。 明治時代は鉱山開発に力売を入れていたのだから、地下や山に隠してもすぐにばれます。 明治維新は長長州・薩摩・土佐の下層民による革命ともいわれますが、彼らの下品な女・女・女、金・金・金はご存じのように、卑しい彼らの懐に入っているのですよ。 アホでないなら、そのくらい気付きなさい。

 

 

 

話をデュポンに戻します。 デュポンが 『火薬トラスト』 のお妙で知られるようになったそもそもの始まりは、この時代に発します。

アメリカにおける生産の集積、資本の集中の開始は、19世紀の最後の10年前後に見られます。 デュポンも例外ではありません。

ウィリアム・スチーヴンスの書いた 『火薬トラスト 1872-1912年』 によれば、デュポンが火薬工業会に秩序を確立しいようとし始めたのは、1872年のことですが、早くも1907年には、デュポンは業界で再優位を占めたばかりでなく、全国の火薬会社を結集し、これを支配ないし所有するに至っていました。

この独占支配の実現の過程は、まず価格協定カルテルの設置に始まり、市価6ドル25セントの小銃用火薬は2ドル25セントでダンピングされました。

1872年に7大火薬会社で結成された アメリカ火薬販売業者協会は、このダンピングによる攻撃で中小業者を圧倒し、合併・併合が急速に行われました。

 

 

このころ、デュポンにとって手強い強敵が国外から現れました。 ケルンのケルン・ロットワイラー連合火薬会社とロンドンのノーベル・ダイナマイト・トラストの両社は共同して、ニュージャジー州ジェイムズバーグに火薬工場を建設し、デュポンの王座に挑戦してきました。

これはデュポンにとって大きな脅威でした。デュポンはどのようにして子の脅威を回避したか。 この回避策は 『死の商人』の『国際性』を示すうえからいっても、またその後、デュポンが徹底的な「国際主義」の実践者として一貫したことからも忘れてはならぬものです。


1897年にデュポンは、ヨーロッパのライバルとの間に、次のような協定を結びました。

(1)どちらのグループも相手の領域内に工場をつくらない事。

(2)一国の政府が外国の火薬製造業者に入札させることを決定した場合、その外国の業者はその国の業者が付けてい 
   る価格を確かめ、その価格以下で入札しないようにすること

(3)高性能爆発物の販売に関して、全世界を4つの区域に分割する。 アメリカおよびその属領、中央アメリカ、コ
   ロンビア、ベネズエラは、アメリカの火薬製造業者の独占的販売市場とする。 その他の世界はヨーロッパの
   業者の独占にゆだねる。 尚,このほか、一定の区域は自由競争地域とする。


この協定によってデュポンは、アメリカを完全な支配下に置くことができ、国内における独占ができるようになりました。 1903年から1907年にかけて、デュポンは100のライバルを買収し、そのういち64をただちに閉鎖しました。

その結果、残るものは、デュポンの子会社あるいは協力者ばかりになりました。 デュポンのこのやり方は冷酷極まりないものであったといわれています。

反抗する業者は無遠慮に踏みつぶされました。 有名な機関銃の発明者であり、彼自身 『死の商人』 であったハイラム・マキシムは、このデュポンのすさまじい併合のの過程を次の油に書いています。

 

「フェニックス火薬会社という会社が、向こう見ずにもデュポンに挑戦しようとした。 これはちょうど。小さな牛が機関車にはむかおうとするよりに馬鹿げた考えだった。 機関車が小さな牛をあとかたもなく踏みつぶしてしまう以上にデュポンはフェニックスを完全に踏みつぶしてしまったのである」。


その結果、1905年までに、デュポンは政府の火薬注文を完全に独占してしまっていた。 もちろん、このような独占は1890年に制定されたシャーマン・反トラスト法に触れる筈のものでした。 m田、実際、連欧政府は1907年にはデュポンを反トラスト法違反で告訴しています。

しかしデュポンはすでに、ライバルをほとんど全部買収し、解体してしまっており、それ以前の状態に戻すことは不可能でした。

1912年、デュポンは反トラスト法の規定から逃れるため、ヘルクレスおよびアトラスの両火薬製造会社を分離独立させました。

しかし、「火薬トラスト」デュポンの実体はもちろん変化しませんでした。 第一次大戦中、デュポンは連合国が使った弾薬の40%を供給しましたが、その後もアメリカ軍当局にたいする軍需用爆発物の主要な供給者でした。

戦争中、デュポンの使用労働者数は5000人から10万人に増えました。 1914年にデュポンが生産した火薬の量は226.5万ポンドでしたが、浴1915年には連合国からの注文が殺到し、そのため生産高は1.05億ポンドに激増しました。

1916年には、前年の約3倍の2.87億ポンド、さらに1917年にアメリカが沙bb船するするや否や、生産高は一層増加して3.87億ポンドとなり、1918年には3.99億ポンドとなりました。

こうして、戦争の4年間にデュポンは年平均5800万ドル以上の利益を上げました。 これに対し、戦前の4円間の平均利益はその約1/10の609万ドルに過ぎなかったのです。

 

デュポンがあげた戦時利益がどんなにぼろいものであったかは、次の数字が雄弁に語っています。 戦争中、政府はデュポンに対して、火薬1ポンドにつき49セントの割で支払いましたが、生産費は1ポンドにつき36セントでした。

戦争を通じて、デュポンの株は50倍になりました。 なにも不思議ではありません。このような戦争景気の真っただ中で、それにふさわしい挿話が生まれたのは当然の事でしょう。 まだロシア軍が崩壊する前の事でありました。

デュポンはロシア政府から大量の注文を受けていました。 ある日のこと、デュポンの重役室に1通の手紙が届けられました。小切手の数字には6000万ドルという巨額の小切手が振り出されたことは会社の歴史上、初めての事でした。

 

 

 

(関連情報)


・デュポン財閥-1  概要
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・デュポン財閥-2 フランス革命とデュポン
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・デュポン財閥-3 大化学会社への成功
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・デュポン財閥ー4  火薬トラスト
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