長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

嗚呼、下総は遠くなりにけり!

2015年08月08日 23時41分44秒 | 日記
 どうもこんばんは~。そうだいでございます。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました!
 いや~、夏休みですね。お盆も近いですね! 私は今年は、お盆もあんまり関係なく仕事があるんですが、まぁ夏は夏ですよ。暑いねぇ~、毎日、毎日!

 今日はわたくし、貴重な休日ということで、歯医者さんに行ったついでにお楽しみの温泉めぐりに行ってまいりました。今回も相変わらず山形市内で、南の青田(あおだ)という地区にある「臥龍温泉」という日帰り温泉だったのですが……まぁ~レトロな温泉だったなぁ! 内湯がひとつだけの完全なる銭湯仕様で、外観もものすごい味わいがありました。周囲の風景も昭和というかなんというか、今でも、トタン張りのああいうおうちって、家屋として機能してるんだな、といった感じのお宅が建ちならんでいて……温泉と続いてるっぽい4階建てのマンションも、長年の雨風で外壁と温泉の看板がものすごい色あせっぷりになってるし! なんともいえない空気がただよっておりました。ぬるぬるしてかなり身体に良さそうなお湯でしたね。
 しかしびっくりするのが、お盆前のこの段階で、体感する暑さがすでにいくらかやわらいできてるような気がするってことなのよね! 「山形の夏は短いぞ~。」とはよく聞かされますが、ホントにもうひとがんばりって感じなのかもしれません。いや、今週も日中に外で仕事をしてかんなりヒドい目に遭いましたけどね。まだ腕がヒリヒリする……

 山形に棲んでるっていうことで、夏はそうとう助かってるなぁ~。去年までの千葉での夏は、朝も夜も関係なく暑かったもんなぁ。ひとり暮らしのアパートも扇風機しかなかったし、あれはキツかったなぁ……などと思い起こしていたら、親しいお方から、その千葉に強くリンクした暑中お見舞いの品をいただきました。


ジョージア缶コーヒー マックスコーヒー 250ml 缶×30本ケース


 おわー!! あまい! あますぎるやつが来た!!
 まさしく、千葉といえばマックスコーヒー……ひと口飲めば、17年前の大学のサークル部屋で最初にその味に触れて、「なな、なんだず、これ!? ふつうのジョージア・オリジナルんねのが!?」と絶句したあの頃に、瞬時にタイムスリップしてしまいます。ほんとに甘いのよ、これ……成分表示のところ、「コーヒー」も「砂糖」もさしおいて「加糖練乳」が先陣きっちゃってるんだもんね。無論のこと、数あまたあるコーヒー飲料の中でも、この甘さはトップクラスだそうです。
 これ、ロゴの下にちゃんと「練乳入り」って銘打たれてるんですけど、どっちかっていうと「コーヒー入り」にしたほうが実態に即してるんじゃないかと思うんですけどね。コーヒー入り練乳飲料。

 もっとも、私が大学生だった時代は「マックスコーヒーといえば千葉県オンリー」という感じだったのですが、もともとマッコー(愛称だそうです)は1975年の販売開始から千葉の他に茨城県と埼玉県でも売っていたらしく、1978年からはそれに栃木県も加わっていました。そして、2006年からはついに東京でも販売されるようになり、2007年に北海道ときて、2008年からは(正式展開は2009年から)いよいよ全国展開されるようになったのだそうです。もう、マッコーは千葉だけのものじゃなくなったのか……そういえば、おっきなスーパーに行ったら、山形でも売ってるんだよなぁ。ちゃんと500ml ペットボトルのやつまで。500ml……もう飲めないかなぁ。

 でも、やっぱり私の中では、いつまで経ってもマックスコーヒーは千葉名産ですよ。だいたい、あれを飲みたくなるかならないか、飲めるか飲めないかで、自分の「疲労度」のバロメーターになってたもんね。「あぁ、こんなに糖分を渇望するほど疲れてるんだなぁ、今。」みたいな。

 そのへんの千葉での青春をヴィヴィッドに思い出させてくれる、非常に的確なプレゼントをいただきました。どうもありがとうございます!! まぁ、30本あるから……家族で飲んで3ヶ月でなくすくらいのペースでいきましょうかね。薬用養命酒クラスの扱いで、ちびちびいただきます。

 それにしても、山形に戻ってきて早くも半年になりましたが、TV とかで千葉県の話題にふれるたんびに重ね重ね痛感するのが、「15年以上暮らしていたのに、おれはなんて千葉のことを知らないんだ!!」ってことですよね、ほんと。
 それはもう、だいたい千葉県のどこかが TVで扱われるとしたら、必ずお魚がらみで房総半島になるからなんですよ。要するに、昔の国名で言うところの「上総国(かずさのくに 現在の千葉県中部)」と「安房国(あわのくに 現在の千葉県南部)」ですよね。でもさぁ、この2ヶ国、まぁ~よっぽどの用事でもない限り、行くことがなかったんだよなぁ~! 私はもう、もっぱら千葉市以北の「下総国(しもふさのくに 現在の千葉県北部)」か武蔵国でしか生息してなかったです、ハイ。

 だから今日のタイトルになっちゃうわけなんですけれども、ホントに心の底からつくづく、「私は下総国の住人だったんだなぁ~。」と思っちゃうわけなんです、千葉県人じゃなくて。別にわざと、しゃれけつかして(山形方言)古い言い方をしてるわけじゃなくて、私の生活圏がまるで千葉県全域をカバーできてなかったということなんです。

 でもそんなこと言い出したら、今年からの山形県生活だって、ちゃんと死ぬまでの間に「おらぁ山形県人だず!」と公言できるようになるかどうか……山形県も広いぞ~。
 少なくとも18歳までの私は、完全なる「山形市西部の民」でした。今年になって、車を持ったり仕事を持ったりしたことによって、やっとこさ市内のあちこちとか隣接市にも足を伸ばすようになったわけですが、山だけじゃなくて日本海側にも詳しくなれるようになるかねぇ。海水浴とかで行けるようになったらたいしたもんですよ!

 あっ、そういえば、今月は初めて片道100km の遠乗りに出かける予定があったんだった! その海側に行くつもりなんですよ、庄内町。子どもの頃には行ったこともあるんでしょうが、記憶があるうちに行くのは、今回が初めて!
 残念ながらのんきな海水浴とかじゃなくて、8月22日にそこのホールで上演される知人の舞踏公演を観に行く用事なんですけどね、楽しみなんだよなぁ~、これ。たぶん、お互いに大学生だった時期以来だから、10年以上ぶりに会うことになるし。
 にしても、このわたくしが果たして、往復200km、しかも帰りは夜道という行程を難なく走りおおせられるのであろうか……ホントにこれだけが心配なんですが、道は大きなラインだけなので迷うことはないだろうし、車に乗る以上は、いつかはそのくらいできるようにならんといかんから、ねぇ。気楽にがんばるぞーいっと!


 あと、千葉といえば話題は重なるものでして、今日マックスコーヒーをいただいたかと思ったら、家で昔の CDを整理していたところ、千葉時代の個人的にはそうとう懐かしいものを発掘してしまいました。

『アンニュイに生きたい サウンドトラック』
1、フランク=エミリオ        『 En El Volga 』(1964年)
2、カンディード           『 candido's guajira 』(1971年)
3、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『 folkus 』(1978年)
4、菊地雅晃アート・カルテット    『 Flare Of The Sun 』(1998年)
5、菊地雅晃アート・カルテット    『 Lisa 』(1998年)
6、Tsuki No Wa            『 Going Home 』(2001年)
7、ザ・ビーチ・ボーイズ       『 Unreleased Backgrounds 』(1990年)
8、塚本 真一            『 When The Mornin' Comes Part2』(1998年)
9、小野誠彦アンサンブル       『 picnic 』(2000年)
10、ガビー=パヒヌイ         『 waialae 』(1973年)
11、ジャンヌ・エトワール       『バイエル91番』(1968年)
12、渡辺貞夫& Brazilian Friends   『 mostra morena 』(1968年)
13、稲毛海岸にて録音         『2001年6月17日』


 いや、これ、売り物の CDじゃなくて、『アンニュイに生きたい』っていうタイトルの大学生演劇で使われた楽曲をまとめて、記念に公演の関係者だけに配られた CD-Rなんですけれども。

 なつかしいっていうか……あんまりおぼえてない曲ばっかりだなぁ。でも、何曲かは「たぶん、ああいう感じのシーンで流れてたかな。」といったボンヤリにも程のある耳ざわりは残っています。

 これ、私が大学4年のときの2001年6月に、役者として参加した公演だったんですが、その後8月からご縁が始まることになった劇団とは全く関係のない、「なんとな~く、演劇で生きていきたいかも。」といったゆるさの人々がからみあった集まりでしたね。他のサークル活動もそうなのかも知れませんが、当時、私のいた大学の演劇サークルもだいたい4年生になったら定期公演には参加しなくなるものだったので、同期どうしで卒業記念公演をやるとか、その後もお芝居をやりたいという人たちが、サークルに関係なくぱらぱらと集まってやる、という流れがあったものでした。

 それで、この集まりは劇団というほど強いくくりではなかったのですが、オリジナルで脚本を書いていた方が中心になって年1回ほどのペースで4作くらい上演していて、私は役者として、そのうちの第2回(2000年)と、この第3回『アンニュイに生きたい』に参加していた、というわけです。
 ちなみにこの集まりには、私と同じ時期に芸術家の吉村熊象さんも参加していて(同じサークルの同期でした)、特にこの『アンニュイに生きたい』では、さびれたサバの加工工場のセットを作りたいということで、いっしょに大学のグラウンド脇で建材の柱を焚き火でいぶして守衛さんに怒られた、といういい思い出があります。いや、広い野っぱらだから火事にはならないと思ったもんで……

 どんな話だったかなぁ……確か、良くも悪くもない業績のサバ加工工場の社長が、サバ缶で世界を革新しようとする、とかいうやつだったような。

 台本も引越しの中でどっかにいっちゃったし、はっきりしたことはいっさい記憶にないんですが、私、その公演の小道具も担当してたもんで、6月の時期にアパートに100尾くらい本物のサバを買い入れて、少しでも腐敗が遅れるように内蔵をズルズル取り出して、代わりに新聞紙を詰め込んで小道具にしていた記憶だけは、あのにおいと一緒に今でも鮮烈に残っています。新世紀のしょっぱなだっていうのに、ひでぇ夏だったぜ……

 ただこの公演って、内容の記憶がうすい割に、なぜかミョ~に私は「悔い」だけが残っておりまして、特にこれこれこのシーンで何かをトチるとかいう明確は失敗はなかったのですが、いや、そういう失敗がなく大過なく終わってしまったという時点でな~んかダメだったという感触は今でもあるんですよね。台本もよく読まないくせに、自分勝手なおもしろがりかたしか追ってなかった、という感じ。
 「あの頃に戻ってやり直したい。」なんていう虫のよいことは思いませんが、せめて、あの頃の私を思いっきりひっぱたいて「ちゃんとよく周りを観ながらふざけろ!!」と喝を入れるくらいのことをしていたら、その後の生き方もちったぁマシになっていたのかも、という思いははっきり今でも持っている公演です。
 これはもう、その後の本格的な劇団活動の中で経験したどの公演よりも強く持っています。ドしろうとなりにも、志は絶対に高く持っていなければ、何をやってもちっともおもしろかないだろうと。

 この公演は、4月の曇天にみんなで幕張に集まって、チラシ用の写真撮影をした日から作品作りが始まったのですが、結局、3ヶ月時間をかけたけどあんまりうまくいかなかったなぁ、みたいな感触だけ残って、私は次の日々に移りました。でも、その20代はじめの3ヶ月の損失感は、そのあと演劇をやっていくにあたって、もっと重大に、アホはアホなりに深刻に受けとめるべきだったんじゃないかと思うんだなぁ。でも、わかんなかったのよねぇ。アホだから。


 そういう、記憶はないのに思い入れだけはある公演のサウンドトラックなわけなんですが、この公演は確か、現在デザイナーとして活躍されている中原寛法(ひろのり)さんが音響を担当されていて、たぶん中原さんが脚本の方と打ち合わせて選曲されたんでしょうが、なんだか「はいはい学生学生。」とかたづけていられないものを感じたので、なんの意味もなく、その内容を備忘としてここにとどめておくこととしました。ジャズって私、今でもぜんぜんわかんないんだよなぁ~。
 中原さんは大学の演劇サークルにはいっさい関係のない場所にいらっしゃった先輩だったのですが、たぶん、私が学生時代に交流した方々の中でもトップクラスに感度のよろしいお方だったと思います。野坂昭如の『マリリン・モンロー・ノ・リターン』(1971年)の存在を私が知ったのも、中原さんのおかげでした。ご本人はいたって温厚な紳士然とした先輩だったのですが、話をしたり自分の演技を見られるたびに、私のどこを見通されているのかわかったもんじゃない、という緊張を勝手に持ってしまう特別なお方でしたね。

 この公演にかかわった人たちの中で、2015年現在も演劇を続けている人はだぁれもいないんだな、ということに思いを馳せながら、あの頃のことを思い出そうとしてボーっとする。そういう貴重な作用をもたらしてくれる1枚なのでした。

 ラストトラックの、約10分間の稲毛海岸の波音の録音だけはこの公演のためのオリジナルなわけですが、たぶん、海のさざ波は14年たった今でもまるで変わってないんだろうなぁ。変わるは人の世ばかりなりけり。

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