ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

多くのダニー

2019-08-17 | わたしの思い

mohonk.com

 

 

 

 

夫の長い間教育者として教育関係の仕事に携わってきた父親は、32年前の8月31日に避暑先の北アリゾナで逝去した。その葬儀には、思いがけずに大勢の参列者がいらしてくれた。葬儀では夫の長兄が、John Gillespie Magee, Jr.によるHigh Flightと言う詩を引用した弔辞を捧げ、まだまだ幼かった孫たちがJanice Kapp Perry の Where is Heavenを歌った。そしてある一人の方が、Danny Boyを歌った。これは故人の生前からのリクエストだった。

 

Danny Boyダニーボーイ、この曲は1913年に英国の弁護士だったフレデリック・ウェザリーが、英国サマセット郡バースにて作詞し、後「ロンドン・デリー・エアの歌」のメロディで今日まで歌われてきている。この詞が作られたサマセット郡バース地方は、夫の亡き父の先祖が1600年代アメリカ大陸に来るまで住んでいた地域である。詳しく言えば、亡父の母方の先祖である。この曲は、女性(母や姉妹や恋人や妻)が戦いに行く愛する男の人を見送る時の歌だが、葬儀でも良く使われる。夫の父の葬儀で、素晴らしいテナーで歌われたダニー・ボーイは、涙で目をかすませながら聴いた。最近の著名人の葬儀では、2018年9月1日に行われたジョン・マケイン上院議員の式で、ペギー・フレミングが歌った。


夫の父は長男で妹が二人いて、アリゾナの鉱山の小さな町で鉄道員の父親と、教会や近隣の住民との活動に盛んに活躍した母親のたった一人きりの息子であった。一番下の妹は10歳の時、白血病で亡くなった。もう一人の妹は高校を出るや否や、すったもんだの挙句、若くして結婚し、隣の州へ移っていった。長男だった一人息子は大学へ行くのに、生活道具一式を荷車に載せ、馬にひかせて同じアリゾナの大学へ向かった。そこの大学の修士課程に居た時、学部で数学を教え、そのクラスで出会ったのが、夫の母親であった。


以前も書いたが、二人が婚約中にデートで映画館に居た時、真珠湾攻撃を知り、翌月の1942年1月に結婚を早めたのだった。その後ダートマウスやウィスコンシン州で軍事訓練を受け、アラスカのアリューシャン列島の要所で、教育士官として軍役についた。北アリゾナの町から彼を見送った母親や新しい妻は、この曲で、戦に赴く愛する者への思いをより重く持ったことだろう。

  

Oh, Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen, and down the mountain side.
The summer's gone, and all the roses falling,
It's you, it's you must go and I must bide.

But come ye back when summer's in the meadow,
Or when the valley's hushed and white with snow,
It's I'll be here in sunshine or in shadow,
Oh, Danny boy, oh Danny boy, I love you so!

But when ye come, and all the flowers are dying,
If I am dead, as dead I well may be,
You'll come and find the place where I am lying,
And kneel and say an Ave there for me.
And I shall hear, though soft you tread above me,
And all my grave will warmer, sweeter be,
For you will bend and tell me that you love me,
And I shall sleep in peace until you come to me!
 
 

初頭にある”the pipes, the pipes are calling”とは戦いに向けて部隊を招集するのにバグパイプを使ったからで、その音が聞こえる時、家族も出兵する男たちも、せかされる気持ちであったことだろう。生きて戻ってきて欲しいという願いを込めて、その姿が見えなくなるまで手を振り、見送った愛する家族の情景が目に浮かぶ曲である。アイリッシュやスコティッシュ系アメリカ人やカナダ人にとってこの曲は長い長い間愛されているクラッシックだ。


私には三人の息子があり、孫息子も来月には五人となる。息子たちが18歳になった時、それぞれ郵便局で、Selective Service System Registration(選抜徴兵登録)をした。アメリカ合衆国の徴兵制はベトナム和平協定成立時の1973年に、廃止され、1975年には選抜徴兵登録も廃止されたが、1980年7月には復活されている。19~25歳のアメリカ合衆国国民男性および永住権を有する外国人男性は、この登録を連邦選抜徴兵登録庁(大抵は最寄りの郵便局)でしなければならず、もし怠った場合、未登録者は5年以下の禁固刑または250,000ドル以下の罰金を科される可能性がある。また連邦政府機関への就職は認められず、連邦政府からの大学等への奨学金制度を受けることができない。


この登録は、有事に備えての貯蓄的なことであり、今日現在合衆国軍兵士たちは、みな志願して入隊した者であり、2014年10月28日ラルフ・リグビー准尉が退役したのに伴って、合衆国陸軍の徴集兵士はいなくなっている。連邦議会では、議員も大統領も、国防総省も、徴兵制の復活は必要がないと、繰り返し述べるが、アメリカ合衆国は、そのテリトリーを攻撃・侵略されれば、即座に有事となり、国土を死守することだろう。

 

息子達はボーイスカウト活動でも夫にならいイーグルスカウトまで三人共獲得し、合衆国への忠誠心を持つが、有事にはその資格が満たされれば、立ち上がることと予想される。私の姉の亡夫は、徴兵制の許、二回ベトナムへ行った。幸いにして生きて帰国できたが、自国を守るだけでなく、民主主義が脅かされる外国からの要請があるならば、アメリカ軍人として銃を取る覚悟を持っていた。「それが自由を守ることで、死守すべき平和なんだ。平和は空から落ちてくるのではなく、戦ってでも守っていくものだ」と信じていた人だった。


今平和の中で生活する私たちは、この平和が多くのダニー・ボーイズによってもたらされていることを忘れてはならない。



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4 コメント

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Unknown (eriko-eriko-eriko)
2019-08-19 11:42:09
こんにちは。
今年の練習曲(リコーダーアンサンブルに入っています)にダニーボーイが入っていて練習しています。
そういう曲だとも知らずに吹いていました。今年中に知れてよかった…(*^^*)
ありがとうございます。
コメントをありがとうございました。 (ままちゃん)
2019-08-20 00:15:18
エリコ様、

リコーダーで奏でるダニー・ボーイはとても本来の曲風にあっているかもしれません。アイルランドやスコットランドの歌は、なにか日本人の心に訴えるものがありますね。演奏、頑張ってくださいね。
Unknown (ムベ)
2019-08-22 14:26:12
私もよく聞いてきたダニーボーイが、このように深い意味があったことは知りませんでした。心が千切れるほどに切ない歌だってのですね。
私は戦争で親も財産も無くし(間接的ですが)中学を卒業したときから、一人ぼっちで生きねければなりませんでした。

戦争を心の底から憎んでいます、それは今も悲しんでいます。
ただ、平和は戦争に反対するだけで守れるものではなく、敵に無抵抗であるだけで守れるものでもないことは分かります。

戦争を起こさないための、あらゆる忍耐強い努力がなされて、そこに人類の英知が現われるようにと、息子たちのためにも孫のためにも切に願っています。
先日読ませていただいて、ずっと心に残って思い巡らせていました。
コメントをありがとうございました。 (ままちゃん)
2019-08-23 00:25:21
ムベ様、

お辛い少女期をお過ごしになったのですね。私は二十数年前、南カリフォルニアのとある町に住んでいた折、うちから3時間ほど北へ行ったアリゾナの僻地に戦時中の日系人収容所跡を訪ねていったことがあります。私が住んでいた所は日系人が砂漠の地で初めて苺を栽培したこともあり、その周辺には一世、二世、三世がまだたくさんおりました。そのおひとり二世の婦人が話してくれたことは今でも忘れられません。彼女が収容所へ入れられたのは、ちょうど最初の子供が生まれてすぐの時で、授乳もままならず、ミルクの配給も足りず、夜泣きをする我が子を胸にしっかりと抱き、バラック小屋の外で途方に暮れて夜を過ごしたことが何度もあったそうです。その時のくやしさや悲しさが五十年経っても去らない、とのことでした。お話なさった当時彼女は70歳少しでしたが、くやしさはひとつも癒されていないと。戦争は、長い長い時間が経っても、癒えることのない傷を人々に与えますね。どちらの側にもそうです。ロングフェローの歌詞、クリスマスの鐘が聞える、のように、それでも神は眠っているのでもないし、死んでもいないのだ、ということは、ひとつの希望です。結局人間が争いを起こすのですから。

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