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『院政の政争”信西”一石」川村一彦

2014-04-22 19:52:21 | 例会・催事のお知らせ
「院政の政僧“信西(しんぜい)“の一石」
平安時代は大きく分けて摂関時代と院政時代に分けられる。
摂関(せっかん)時代は藤原良房・基経から忠平・実頼・伊伊・頼忠・兼家・道長・頼通と摂関家によって引き継がれていった。
一方、院政は後三条天皇に端を発し、白河・堀河・鳥羽・崇(すとく)徳・後白河・二条・高倉らの上皇・法王らによって引き継がれていった。
こう言った引き継がれた王権と権力継承には血縁と、複雑な人間関係と主従関係の絡みの中で権力構造が形成され、事変に展開されて行った。
また登場する一人一人の人物像に、柵に生きた数奇な運命の物語に、平安時代と言う時代の趨勢(すうせい)に生きた人間像が浮かび上がってくる。
そんな院政末期の後白河院政に総師として権力に中枢にあって辣腕(らつわん)を振るった政僧「信西(しんぜい)」の特異な生き方を綴ってみた。
総師信西
保元元年(1156)保元の乱に勝利した後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令をした。王土思想を強調した宣言の新制は荘園(しょうえん)整理令(せいりれい)を主たる内容としていた。
要は鳥羽院政では荘園の乱発に加え管理が不十分で各地で国務遂行に支障が生じ紛争が多発していた。
この荘園整理令はその混乱を収拾し、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図としたもので、荘園の公領制の成立の大きな契機となった。
平安期には荘園制度は何度も荘園整理令が出された。寄進地(きしんち)系(けい)荘園(しょうえん)が諸国に点在し、しかも税金逃れに貴族たちや開発領主たちは寺社に寄進し管理を任せた。寺社領地には免税処置があって、国衙、国司の税金を逃れる隠れ蓑になった。特に興福寺などは全国に寺領は点在し大和一国とまで言われた。
特に後白河天皇は南都の興福寺や北嶺(ほくれい)の延暦寺の肥大化し寺院に僧兵を持って傲訴(ごうそ)で朝廷に狼藉(ろうぜき)の限りを尽し翻弄(ほんろう)をさせた寺領に快くは思っていなかった。南都の興福寺、北嶺の延暦寺の僧兵はそれぞれ三千人を有し豊かな財源で支えられていた。
その豊富な財源を絶つにも信西は思い切った荘園整理令を出し公領を増やさなければならなかった。
後白河天皇の思いのまま成らないもの一つに僧兵と嘆き検非違使を手もとから手放せなかったと言う。
また開発領主や貴族の朝廷より受けた恩賞などは転売されたり、寄進を装って国衙に税収されない事態に、荘園公領制に立案・推進したのが後白河天皇の側近の信西でった。
信西は改革実現に、記録書を設置ために長官に上卿には大納言・三条公教を就任させ、実務を担当する弁官からは右中弁に藤原惟方(これかた)・左少弁に藤原俊(とし)憲(のり)(信西の嫡子)が起用された。
その下で二十一人の寄人らが荘園領主から提出された書面を審査し本所間の領主間の紛争や度重なる転売で、その所有者の判定をしたり、荘園主と荘官(しょうかん)、国衙領(こくがりょう)への公領への査定を厳しく行った。
信西の言葉に後白河が「暗主」であると言う、記録所の寄人の一人だった清原頼業が後日九条兼実に語ったと言う。
信西は後白河の威光の許に強権を発動してた節があった。そして老朽化した内裏にも着手して保元二年(1157)に再建したり、新制三十箇条を出して、公事・行事の整理・官人の綱紀粛正に積極的に取り組んだ。
この間の信西の一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする信西の子俊憲・貞憲は弁官として「紀二位」(後白河の乳母)に成憲・修憲は受領になった。
信西自身は保元の乱で敗死した藤原頼長(よりなが)の所領を没収し自らも蓄財を確保した。
では何故このような信西が強権を後白河から信頼と負託されたかについては、出自と後白河天皇の関係を考察すると理解が出来る
信西に出自
信西は嘉承元年(1106)平安末期の貴族・学者・僧侶で信西は出家後の法名、号は円空で俗名藤原通(ふじわら)憲(みちのり)又は高階通(たかしな)憲(みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言が彼の出自である。
通兼(信西)の家系は曽祖父は藤原実範以来、学者一家(儒官)の家系で祖父の藤原季綱は大学頭であったが、父が蔵人所で急死し通憲は七歳で縁戚の高階家に養子に入った。高階家は摂関家の家司として諸国の受領を歴任した。
通憲は祖父譲りの学業の才能を積み重ね、保安二年(1121)には高階重仲の女を妻としている。通憲は鳥羽上皇の第一の籠臣である藤原家成と親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があった。
通憲の官位の初見は天治元年(1124)の中宮少進(中宮藤原璋子は鳥羽天皇の皇后、白河天皇の母)に仕え鳥羽院の近臣として通憲は頭角を現し、後白河天皇と通憲の信頼関係がこの頃より築かれていった。
長承二年(1133)頃から鳥羽上皇の北面の伺候(しこう)(そばについて奉仕する)するようになって評判は当世無双の博識と見識と称されその才知を生かして院殿上人・院判官代と地位を昇格させていった。
通憲の願いは曽祖父・祖父の様な大学頭・文章博士・式部大輔を志したが、世襲化の当時は高階家に入ったことがその道を閉ざしてしまった。
これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。その通憲の出家の噂を知って止めさせようと書状を送り、数日後には対面し、その才能を惜しみ「ただ敢えて命を忘れず」と涙流したと言う。
鳥羽上皇は出家を引き留めるために、康治二年(1143)正五位下を与え、翌年には藤原姓を許し少納言に任命をし、更に子に文章博士・大学頭に就任する資格を与えた。
それでも通憲の意志は固く出家し信西と名乗った。
しかし信西は俗界から身を離れることなく「にぎかふる衣の色は心をそめぬことをしぞ思ふ」心境を歌に詠んでいる。
鳥羽上皇の政治顧問が死去すると信西はそれに取って代わるように奪取し下命を受けるなどして信任を強固なものして行った。
そして後白河天皇の近臣者として采配を振るようになった信西は、国政改革の為に以前からの馴染みの平清盛を厚遇をする。
平氏一門は北面武士の最大の兵力を有していた。保元の乱後は清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と四ヵ国の受領を占めていた。
またその役割は,荘園整理、荘官、百姓の取締、神人・悪僧(僧兵)の統制で戦乱で荒廃した京都の治安維持に平氏は不可欠であった。
だがここにもう一つの別の政治勢力が存在していた。美福門院を中心とした二条親政派である。美福門院は鳥羽上皇から荘園の大半を引き継ぎ大荘園主となっていた。
美福門院は養子・守仁の即位を信西に要求し、止む得ず後白河天皇は二条天皇に即位しここに「後白河親政派」と「二条親政派」が生まれ新たな軋轢が生じて行った。二条親政派は藤原経宗・藤原惟方(これかた)が中心となって美福門院を背景に後白河の動きを抑圧した。
これに対して後白河即位は近衛天皇の急死によって継承した都合上、頼れるのは信西のみであった。
※美福門院は藤原得子の流れを汲む勢力、藤原得子は鳥羽上皇の譲位後の籠妃。近衛天皇の生母。女御。皇后。藤原北家未茂流の生まれ、父は中納言・藤原長実、母は左大臣源俊房の女、院号は美福門院。
信西と信頼の確執
しかし美福門院派の巻き返しに抗するためにも、また二条親政派に対抗するためにも信西だけでなく、ここに後鳥羽上皇は近臣の育成に抜擢起用したのが武蔵守藤原信頼であった。
信頼は保元二年(1157)に右近権中将、蔵人頭・参議・皇后宮権亮、権中納言、検非違使別当と矢継ぎ早に昇進し、元々信頼一門は武蔵・陸奥を知行国として関係が深く、源義平が叔父義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦にも活躍し、保元三年(1158)後白河院庁が開設されると、信頼は軍馬を管理する馬別当に就任する。
源義明も宮中の軍馬を管理する左馬頭で両者の関係が深まり、信頼にとって武力の切り札を得たことなる。
また義明と信頼とは親戚として婚姻のやり取りで固く結ばれていたと言う。
反信西の結成
ここに、信西一門・二条親政派・後白河親政派と平氏の武士集団と複雑に人間関係が絡んできた。
信西と信頼の確執の要因に、信頼が近衛大将を望んだがそれを断ったにあると言われ、反信西派の結成は強権総師の信西の反発の結成で、二条親政派も後白河院政派も一致していた。
そんな不穏な動きに最大の武力集団の平氏清盛は中立的立場を守っていたと言う。折も折、清盛が熊野詣に赴いていたその時を突いて、反信西派は決起した。
平治元年(1159)十一月九日に信頼とその一派の軍勢は院御所・三条殿を襲撃し後白河上皇と上西門院を拘束し、三条殿に火を放ち、逃げる者容赦なく殺害をした。警備の大江家中・平康史ら官人や女房が犠牲になった。
これを知った信西一門は身の危険を感じ逃亡していた。拘束した後白河上皇・上西門院には丁重に「すゑまいらせて」と信頼は一本御書所に擁したと言う。後白河上皇を乗せた御車には源重成・光基・季実らの護衛が付き、美福門院の家人らが関わって二条親政派の同意があってのことと推測され、信西の子ら俊憲・貞憲・成憲・修憲らは逮捕全員配流された。
一方信西は山城国田原に逃れたが源光保の追手を振り切れず、郎党藤原師光に命じて自らの遺体を地中に埋めさせること命令し自害をした。
信西の自害を知った源光保は遺体を地中から掘り起し首を切り落とし、京に持ち帰り首は大路に棟木につるされ獄門にさらされたと言う。
何故に執念を持って信西の遺体を掘り起こし首を切り落とし都大路の獄門にさらし首にしたかについて、保元の乱の処理・処遇に多くの公家・武将に反感を生んだことにある。
① 雅仁親王(後白河天皇)即位擁立には雅仁親王を養育していた信西の策動があった
② 後白河天皇擁立に立太子しないままに即位は無理がった。美福門院の反発は根強かった。
③ 鳥羽上皇の葬儀は信西が取り仕切った。
④ 薬子の変後公的死罪を復活させた。
⑤ 荘園整理令に反感を持つ荘園主がいた。
⑥ 信西は自分の子息に要職に就け、旧臣に反感を持たせた。

平治の乱とそのその後
清盛は、紀伊で京の異変を知って、動転し九州に逃れることも考えたが紀伊の武士・湯浅宗重・熊野別当の協力で帰京できた。
その後の京の軍事の均衡は乱れ、義明の軍勢は少数に過ぎず、信頼の威信は崩れ後白河院院政派にも二条親政派にも信西を排除した今は、信頼は無用の長物で御用済みはあからさまにであったが、清盛は信頼とは姻戚関係を結んでいたので、恭順の意を示した。
二条天皇も内裏を脱出し、清盛邸のある六波羅蜜に行幸した。後白河上皇も仁和寺に脱出した。この状況を藤原成頼が京中に触れ回り、公卿・諸大夫や武士集団が続々集結し、信頼・義明に追討の宣下が下された。
信頼軍は源義明・重成・光基・季実・光保の源氏を中心とした兵力と清盛を中心とした平氏軍と六波羅合戦が始まり、信頼混成軍は敗北、藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王の前に出頭し、清盛の前に引き出され、信西殺害・三条殿焼打ちの罪で処刑された。
摂関時代は藤原家の身内同士の覇権を廻って幼少の天皇の後見人なるための女御を持って天下の政治を執った。
院政派は幼少の天皇に即位することに於いて後見人として、上皇、法王の身分で天下政治を執った。
院政末期には平氏・源氏の台頭で武士の起用なしでは政治の運営が出来なくなって、武士の発言力に武力に朝廷と藤原家の衰退が顕著になって平安時代は終末に向かって、武士の時代、武布へと移って行き、頼朝の天下創設の幕が開かれた。


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