れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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平安中期 12章-1 「60代醍醐天皇と、延喜の治」

2013-12-01 | 平安時代
(1)第60代 醍醐天皇
菅原道真を流刑にした、天皇親政「延喜の治」をおこなった天皇

父帝「宇多天皇」から突然元服と同時に譲位された。
譲位に際して、摂関職を必要としなくて済むよう、天皇職のマニュアル『寛平御遺誡』を渡され、
父帝のブレーンである「菅原道真」と「藤原時平」を内覧として強制的に引き継がされている。

34年間、摂関をおかずに、天皇親政と内覧によって政治を執った天皇だった。
前半は、菅原道真と藤原時平を側近に
中間は、藤原時平を側近に、
二人が死んだ後半は、藤原忠平を側近とした。

897年、醍醐天皇即位
901年、[昌泰の変]で、菅原道真を大宰府にとばす。
    元号を「延喜」に変更
902年、律令制度の再建として「延喜の治」に着手
903年、菅原道真、没
    醍醐天皇と、藤原隠子との子「保明親王」うまれる
904年、保明親王を皇太子とする
905年、『古今和歌集』の編纂を指示
    『延喜格式』の編纂を指示
907年、唐滅亡

909年、左大臣藤原時平没/ 藤原忠平が跡を継ぐ
914年、12年に1度の班田収受だが、流行病、天変地異、飢饉の為不履行
   「意見封事」/ 国司に関する制度の見直し
923年、保明親王21歳で病死するなど、周辺の人物が相次いで急死
925年、保明親王の子で、次期皇太子の「慶頼親王」が5歳で急死
930年、清涼殿に落雷、醍醐天皇病に伏し、そのまま死亡。

(2)藤原時平

【藤原時平の家系】
藤原北家の氏の長者で、基経の長男。
藤原冬嗣----良房----基経----時平

(拡大)

【延喜の治と藤原時平】
宇多天皇が醍醐天皇に譲位する時に、引き継いだ側近で、
左大臣「藤原時平」と右大臣「菅原道真」の二人で[内覧]として、醍醐時代の政治を執っていた。

宇多天皇政権時は、菅原道真の寵愛の影で目立たなかったが、朝廷内での評価は、
小心者で消極的な道真、勇気と実行力のある器の大きな時平として、官僚達から
の人気はあったらしい。

901年1月、[昌康の変]で菅原道真を大宰府に飛ばしたあと、
その3月には、時平の妹の「隠子(おんし・やすこ)」を醍醐天皇の女御として
入内させ、天皇の外戚となることをもくろんでいる。

902年、時平は政治手腕を発揮して、矢継ぎ早に国政改革の「太政官符」を
発令した。これを延喜の治と呼ぶ。

903年、菅原道真が大宰府で亡くなった年、妹「隠子」が醍醐天皇の子を産み、
「保明(やすあきら)親王」として、生後3ヶ月で皇太子としている。
この保明親王と、娘を婚姻関係にすることで、天皇の外戚になることをもくろんでいた。

しかし、菅原道真の呪いで、時平の親族は、弟「藤原忠平」を除いてほぼ死亡したため、
時平の野望は途絶えた。
最初から最後まで、菅原道真に邪魔され続けた人生だったのかもしれない。