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つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

足利氏館(鑁阿寺)@栃木県

2025-01-25 16:30:00 | 100名城
2025年1月25日

鉢形城→金山城→最後は栃木県にある足利氏館に向かいました。
こちらも日本100名城です。

現在は鑁阿寺として、栃木県の観光名所となっています。

金山城からは車で30分もかからず到着。
15時前に着いたので、計画していた通りに3城攻略できました。

実際に城を見て周るのも楽しいのですが、計画している時間も楽しいと思う今日この頃。

そして、計画通りにいった時の達成感も格別。

足利氏館は近くに観光客用の無料の駐車場がありますので便利です。


足利氏館は平安時代から鎌倉時代初期に、二代目足利義兼によって建てられた居館となります。

北223m、南211m、西206m、東175mの不整台形をしていて、周囲を堀と土塁で囲んでいます。

足利義兼は鎌倉時代に鑁阿寺を建立。
室町幕府の将軍家、関東公方家に厚く保護されてきた鑁阿寺は現在国宝となっています。



メインゲートとなるのが、南側にある八脚楼門。
水堀に架けられた橋は太鼓橋、唐破風を引き延ばしたような屋根の付いた橋は初めて見ました。



高欄を配した八脚楼門は本堂と同じ年代に建築されましたが、現在の楼門は江戸時代に再建されたとされています。

本瓦葺の瓦、何よりも特殊なのが山門でありながら鯱が上がっている点。



下から見上げると木造の重厚感があります。

寺院建築の特徴といえる、外側にせり出す彫刻のような組み方を三ツ斗組といいます。



楼門を抜けると真っ直ぐ鑁阿寺の本堂に繋がります。

本堂は入母屋造りの禅宗様式という垂直に降りてくる屋根が中間くらいで外側に曲線を描いて跳ね出すスタイル。

禅宗様式は建築士の試験でもよく出ていた定番の問題でした。



楼門と同じく本堂にも鯱が上がっています。

木造建築の難敵はいつの時代も火災。
城郭建築では火除けで鯱を上げるのが一般的となりました。

鑁阿寺も武士である足利氏の名残なのでしょうか。

最初に鯱を上げた城は安土城と言われています。
そして、日本で最初の鯱は長野県の大法寺で鎌倉末期〜室町時代に造られたものと言われています。

詳細は分からないのですが、時系列から推測すると鑁阿寺の鯱は後世に上がったものなのでしょうか。
とても、気になるところです。



間近で見ると迫力があり、同時に鎌倉時代の建築らしさを感じます。

本堂の建立は1197年。
その後、足利義氏が大堂を建立したが消失。
1299年に再建しました。
すでに720年以上経過しています。

修復などのメンテナンスは必要ですが、これだけの年月を生かし続けることのできる日本の技術の高さは誇るべき点です。

本堂は国宝に指定されています。

関東・東北の中でも、本堂が国宝指定されているのは数少ないため、とても貴重です。



本堂の軒下。
横架材で中全体を支えていますが、全ての材料で曲線を描くRが均一で配列されています。

また、木材一つ一つに彫刻が施されているのが特徴。
これは城郭建築では見ることのできない装飾。



国の指定重要文化財の鐘楼。
1196年に足利義兼が本堂に次いで創建しました。

禅宗様式の入母屋造りで、瓦は本瓦葺き、寺院建築特有の三ツ斗組。

建物は小さいながらも、当時の木造建築の技術を盛り込んだ鐘楼です。



鐘楼前の広場は綺麗な庭園となっています。

夕方に近づいたことで人も少なくなってきたので、より一層この空間には優雅な時間が流れています。



土塁の上は歩けるように整備されています。
この辺りは城郭っぽさを感じるポイント。



鑁阿寺内部からの土塁。
この時代にこの規模の館を造った足利氏は、やはり力があったのだと想像できます。

平安時代末期の武士の館の面影を今でも残しています。



栃木県の指定文化財の多宝堂。
足利義兼が創建したとされていますが、江戸幕府五代将軍の母が再建。



中には限られた日しか入ることができませんが、外観だけでも十分見所があります。

多宝堂では大日如来と勢至菩薩を祀っています。



こちらは国指定重要文化財の経堂。
足利義兼が妻の供養のために一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建しました。

寺の言い伝えでは1196年。鎌倉幕府ができてすぐに創建。

現在の建物は1407年に再建。

今回、中に入ることができました。
中は写真撮影不可でしたが、八角形の回転式の経棚があり、さらに歴代の足利将軍の坐像が祀ってありました。



北門。
足利市重要文化財で江戸末期の面影を残す薬医門。

足利義兼の息子の足利義氏は、鑁阿寺維持のために堀の外に十二の支院を造りました。

その中の十手院が筆頭であり、北門は大正時代に十手院から移築しました。

規模としてはかなり大きめの薬医門。


東門と水堀と土塁。
東門は栃木県指定文化財です。



城郭建築というより、武家屋敷の格式ある門っぽさと個人的には感じます。

鎌倉時代から室町時代になり、戦国の世の中になると城は戦う城へと役割が変わり、山城へと変化していきます。

しかし、特に鎌倉時代の建築はベースになっています。



入母屋の四脚門。
シンプルながらも礎石を使った、しっかりとした造り。



ワタクシはこの1年半で戦国の城ばかりを見てきたので、今回の訪問は原点を知れたような気がしてとても貴重でした。



最後は反対側の西門を抜けます。
西門も東門同様に栃木県指定文化財。

足利尊氏が室町幕府を開くと、鑁阿寺は足利市発祥の地として重宝されました。


寺院内には公園もあり、子どもたちが元気に遊んでいました。

国宝のお寺の中で普通に遊べるなんて凄いなと思いつつ、
何百年もこの地で歴史を見てきた鑁阿寺内で無邪気に遊ぶ子ども達の姿がとても新鮮でした。

子ども達の楽しそうな笑顔こそ、平和の象徴。

鑁阿寺は700年以上、この地で様々な出来事を見てきたと考えると、今の世の中は幸せな時代なのかもしれません。

これからも素晴らしい伝統と文化、そして何よりも平和を守り続けることは、我々の使命です。

約1時間半ほど見て周り日帰り弾丸1人旅は終わりました。




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金山城@群馬県

2025-01-25 14:30:00 | 100名城
2025年1月25日

鉢形城に訪城の跡は、またしても日本100名城の金田城へ移動。

群馬県の太田市に位置する山城で、下道で1時間程で到着。

車の場合は山の麓にあるガイダンス施設に車を停めて歩いて登るか、山頂付近に駐車場があります。

ワタクシは山頂付近まで車で行きました。

しかし、上にはどこにも金山城のパンフレットがない為、いずれにしてもガイダンス施設に寄ってから訪城するのがお勧めです。

ちなみに、御城印もこちらで購入できます。



金山城は標高235mの金山の尾根上に曲輪を配した山城。

駐車場の前には展望デッキがあり、絶景を望むことができます。

この日は快晴だったので、最高の景色を見ることができました。

金山城の1469年、新田一族の岩松家純によって築かれ、その後は由良氏→北条氏と変わり小田原合戦で滅亡した北条氏と共に金山城も廃城となりました。



駐車場のあたりは金山城の西城となり、土塁や堅堀を見ることができます。

金山城は西城、北城、本城、八王子砦に分かれています。

頂上の駐車場を起点にして、西側と東側で城郭エリアがあり、その間600m程の尾根に曲輪を配置して防御機能を備えています。

主郭となる本丸は東側になります。



駐車場から左側に進むと見附出丸跡に到着します。

見附出丸は金山城西側の守りの要。
割と広い曲輪になっていて、土塁が発見されています。

また、柵の跡も発掘調査で明らかになっています。

後の復元の可能性があるので、今は埋め戻されているようです。



見附出丸を囲む南土塁。



見附出丸の南土塁には土橋がかけられていて、土塁を切り通しています。



土塁の上から見ると、土橋になっているのが何となく分かります。



再び駐車場方面へ戻り、東側の本丸方面へ向かいます。

主郭への入口には休憩所があります。



金山城は関東にも関わらず石垣を使用している城として有名です。

道中、岩盤が剥き出しになっており、この山自体が石材に恵まれていることを確認できます。



旧道と新道の2ルートに分岐します。
当然旧道を選択して進みます。

旧道に入ってすぐに木橋が架けられています。



西櫓台 西堀切。
この堀切に木橋が架けられています。

やはり山城に来たら、堀切は絶対に見ておきたいポイント。

当時はさらに1.5m程深く掘られていたそうです。
左側の一段高い曲輪が西櫓台となります。



西櫓台
西櫓台は旧道と西堀切を上から見下ろすことのできる高めの曲輪のため、敵が攻めてきても守りやすい構造になっています。



西櫓台から馬場下通りまでの登城ルートは石畳みになっており、発掘調査によって発見されました。



物見台下虎口。

入口には立派な石垣があります。
山城の中に突如現れた石垣に感動します。



通路の左手には岩盤を切り崩して造られた物見台下堀切。

右側が物見台となります。
中世城郭では土造りの堀切が多い中で、岩盤を切り通した堀切は珍しく、剥き出しの岩盤と積み上げた石垣が同化しているのは、さらにレアなショットです。



通路の右手は堅堀。斜面に沿った縦方向の堀の両脇を石垣で守りを固めています。

中世の築城技術と近世の石垣技術が融合した素晴らしい遺構。



石垣は段々になっていて、当時は守りの為の防御機能でしたが、現代では間違いなくアートです。



堀切の上にあるのは物見櫓。
こちらも土台は石垣で形成されています。



物見台には現在展望台となっています。
発掘調査では4本の柱穴が発見されたので、物見矢倉があったと考えられています。

物見台には石垣が使われていて、火縄銃の弾丸なども出土しています。



展望台からは周囲を一望できます。

金山城は武田氏や上杉氏との戦場になっていますので、当時はここから見張っていたと考えると痺れます。

金山城は北に渡瀬川、南に利根川が流れており、さらに現在の埼玉・栃木・群馬を結ぶ交通の要所だったことから重要な場所でした。



馬場通路を進むと、馬場曲輪に繋がります。
この曲輪には岩盤をくり抜いた240個もの柱穴が発見されています。

建物は少なくとも5階の建替え、3回の造成がなされたことが分かっています。

土を掘ってそこまで分かるのは凄い調査力と発見。



馬場曲輪を取り囲む2段の石垣。
馬場曲輪は大手虎口を守る兵が待機していたと考えられているようです。



馬場曲輪の前にあるのは月ノ池。

調査前は上に汚泥が堆積した、ただの池だと思われていましたが、調査で2段の石垣が発掘され、戦国時代の池だったと判明。

下段は状態が良く、戦国期の石垣をそのまま整備。



馬場曲輪と主郭に繋がる曲輪には、完全に分断する大堀切。

馬場曲輪との高低差は高くはありませんが、右側は約15mの高さがあります。

さらに、長さは46mもある巨大な堀切です。



大手虎口は金山城最大の防御施設。

関東には石垣の城はないとされていましたが、金山城はその常識を覆したと言われています。



大手虎口の石垣。
割と大きな石材が使用されていています。

整備前の写真を見ましたが、見違えるほど変わっています。



上から見た大手虎口。
虎口には新旧の礎石が見つかっているので、門があったと思われます。



よくここまで綺麗に整備したと思います。
現存石垣と転用・新補石垣の間には鉛板を仕込んで区別されています。  


大手路の右側は南曲輪。

ちなみに、南曲輪の休憩所にて日本100名城のスタンプを押すことができます。



大手路左側は三の丸。

どこまでが残存石垣で、どこからが整備して積み上げた石かは分からないのですが、間違いなく今この景色は、迫力があって美しいアートの世界です。



大手虎口を真っ直ぐ進むと、石塁にぶつかりT字路になります。

その石塁は段になっており、細めの大手路から敵が攻めてきた際にとても攻撃がしやすい構造になっています。



こちらが大手正面の石塁。


上から見ると、守りの構造がより分かりやすい。
金山城は日本のマチュピチュと呼ばれているようです。



南曲輪を囲む石垣は、剥き出しの岩盤の上に石垣を積んでいます。



南曲輪の一段下の曲輪には復元された建築物があります。

この小屋みたいな建物は武器庫や詰所として使用されていました。

建築物の脇にはカマドがあり、井戸も近くにあるので生活感を感じることができます。



南曲輪からのショット。
向かい合う曲輪は三の丸。



南曲輪からも絶景を見ることができます。
遠くが曇ってしまっているのですが、富士山を望むことができます。

この場所は関東富士見100景にも選ばれています。



金山城の遺構の一つとして有名なのが日ノ池。
直径15m×16.5mは山の上にある池としては珍しく貴重な大池です。

石積みの井戸跡もあるので、生活用水として使用されていました。



石垣は発掘調査で発見されたものを可能な限り生かして復元。

案内板を見ていて面白いと思ったのが、水の信仰が強かった平安時代の遺物もここで発見されたこと。

この場所は築城する以前から神聖な場所であったとされています。

戦国時代では戦勝祈願の儀式などで使われました。

武田勝頼、上杉謙信から何度も狙われた金山城でしたが、一度も落城することなく城の役目を終えた金山城。

金山城は強力なパワースポットかもしれないですね。



いよいよ本丸です。
本丸の前には太田市指定天然記念物、金山の大ケヤキがあります。

最低樹齢800年。
戦国の世の中もこのケヤキは全てを見てきたことになります。

大ケヤキの前には階段があり、一段と高い曲輪に現在は新田神社があります。

参拝をしたら、本丸の下を一周します。



右側は本丸、左側は二の丸。

見事は空堀になっていて、本丸を完全に分断して孤立した曲輪にしています。



振り返っての一枚。
右側が二の丸、左側が本丸。

本丸の上には神社が見えます。

先ほどの石垣でガッチリと固めた近世の曲輪から一転して、中世山城らしい遺構を再び見ることができます。



本丸の裏手には天守曲輪下馬場があり、広いスペースには馬屋がありました。

左手には本丸唯一の残存の石垣が残ります。
奥には二の丸。

本丸の神社でお参りして、そのまま引き返さずに、是非このスポットも見て頂きたい。

帰りは登城したルートを改めて見ながら帰りました。

中世と近世がミックスしたような面白い遺構、徹底的に守りを固めた縄張り、山城の中でも異次元のテイストを持ち合わせています。

鉢形城→金山城を攻略して、時間は14時30分。
ここまでは全て予定通り。
そして、3城目に向かいます!


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鉢形城@埼玉県

2025-01-25 11:00:00 | 100名城
2025年1月25日

仕事休みの土曜日、埼玉県寄居町にある鉢形城に初訪城しました。

土造りの中世城郭で、日本100名城かつ関東7名城のひとつ。

鉢形城の築城は1476年。関東管領 山内上杉氏の重臣となる長尾景春によって築かれました。

その後、関東地域で勢力を伸ばした北条氏康が占領し、三男の北条氏邦が城主となります。

鉢形城は北陸、信濃の抑えとして重要な役割を担っていました。

小田原城を本城とする北条氏の支城ネットワークとして、山中城、八王子城と同じく鉢形城も有名な城です。

今回は練りに練ったルートで幾つかの城を周るため、車で6時半に自宅を出発。
8時半に到着して活動開始です。



鉢形城には幾つか駐車場があります。
今回は鉢形城歴史館に車を停めて、泉水坂から大手側に回り込み入城します。



登っている泉水坂の右手には、起伏に富んだ曲輪が広がります。

綺麗に整備された堀が多いです。

右手に見える小さな島のような場所は、弁天社跡。このあたりには水堀のように広い池となっていて、弁天社は水に浮いているようでした。

お城好きの方であれば、この堀や曲輪を見ただけでテンションが上がるのは必至かと思います。



坂を登るとJR八高線の踏切があり、大手となります。

その線路に沿って空堀があります。



八高線と空堀のベストショット。
電車本数が少ないので、レアな一枚になりました。



線路脇の空堀は土橋とぶつかっています。



土橋右側の空堀。

保存度が良好で巨大な空堀を目の前で見ることができます。



土橋左側の空堀。
奥には三の曲輪が広がります。



大手を進むと休憩所があり、その近くに三の曲輪の虎口があります。

発掘調査では、柱跡などの遺構が見つからなかったことから、礎石を使用した門である可能性が高いようです。



虎口の前には諏訪神社があります。
この場所は諏訪曲輪と呼ばれ、馬出となっていました。

重要な虎口の前に角馬出を設けるのは、北条氏の築城に見られる特徴ですね。


 
虎口から入城すると、復元された四脚門があります。

この辺りは畑だったので、耕すのに上部は削られ、石積みの土塁が検出されています。

そして、その後復元されました。

虎口の左脇には櫓があった可能性があるそうです。



四脚門は発掘調査の結果、幅5mで6段の階段や門跡の礎石が見つかったことで、復元にこぎつけました。

屋根が板敷なのが、中世の城らしさを出しています。

実際のディテールは不明ながらも、可能な限り当時のイメージを実際に復元することは、これから後世に語り継ぐツールとして重要だと個人的には思っています。



三の曲輪内部は4段の石積み土塁になっています。
全長100m、高さ4.2mの遺構が状態良く発見されました。

裏込石がなかったことを考えますと、石垣技術としては西国の名城に及ばないものの、関東で石垣を使用した城は珍しいので、とても貴重です。



三の曲輪には庭園や掘立の建築物跡が、調査で発見されています。



板敷の建築物が復元されています。
礎石を持たない掘立建築。

その建築物の前にも、もう一つの建築物の跡が発見されています。

この曲輪では宴などが行われていたとされています。



復元建築の裏手には井戸があります。



三の曲輪と二の曲輪を繋ぐ空堀付近には、復元された馬出があります。

伝承では御金蔵とされていましたが、発掘調査によって馬出と判明しました。



馬出からのショット。
やはり北条氏の特徴となる角馬出。



深さ7.4mの馬出しを囲む空堀。
ほぼV字の形状をした薬研堀で形成されています。



馬出から見た、三の曲輪(右)と二の曲輪(左)を分断する空堀。

元々、なだらかな傾斜がある場所に空堀を掘っているので、三の曲輪側がかなり高低差のある絶壁になっています。



右側が二の曲輪、左側が三の曲輪。
一番奥に見えるのが、先ほどいた馬出。



三の丸と二の曲輪前の道を挟んで、向かい側には広大な曲輪が残っています。

写真の手前に見える曲輪は、巨大な馬出。

応戦する為の兵士を置いておく重要な曲輪になります。



左側は先ほど見て周った二の曲輪。道を挟んで右側は主郭となる御殿曲輪。



御殿曲輪の土塁は壮大!
高低差もあり堅固になっているので、重要なエリアであることが分かります。



御殿曲輪にも登りました。
曲輪は2段になっていて、三の曲輪、二の曲輪も含めた城郭のほとんどを眺める事ができます。



御殿曲輪上からのショット。
上から見ると空堀なのが分かります。

当時はもっと深かったのかもしれないですね。



御殿曲輪の巨大な土塁の反対側は、荒川を望む絶景。

20m以上の崖となっており、天然の要害を巧みに利用しています。



先ほどの荒川と深沢川に囲まれていています。
深沢川は鉢形城内を流れていて、三の曲輪、ニの曲輪、御殿曲輪などの重要な曲輪を独立した曲輪にして防御を計っています。

写真は搦手橋からのショット。
搦手側で荒川と深沢川が合流します。



字の如く深沢川は、所々が深い沢になっていて、二つの川と空堀で守りを固めています。



笹曲輪は鉢形城の北東部に位置していて、張り出した細長い曲輪。

こちらは大手口に対して、搦手側となります。
搦手側の防御としての最前線と考えられています。



笹曲輪を見た後は、本郭方面へ少し戻り歴史館へ向かいます。

御殿曲輪の道を挟んだ前にはシルバー人材センターがあり、このあたり一帯も空堀や土塁などが張り巡らせた曲輪があります。


この辺りの空堀も迫力があります。
綺麗に整備されているので、遺構の形がハッキリ、クッキリ見えて分かりやすいです。



歴史館に向かうための坂を下り、左側には先ほどの空堀があるのですが、右側には写真のような、広い敷地と土塁があります。

しかし、案内板にはこの辺りの曲輪の名前は記されていません。

主郭やニの曲輪に比べると一段低い敷地。
そして、高い土塁で周囲で囲んでいる。
重要な主郭などの曲輪の付近に位置している
ことから、とても重要な役割を担っていたのではないかと推測します。

例えば、突破した敵兵を迎え撃つ為の曲輪など。


曲輪を分断する深沢川。
右手は先程までいた謎の曲輪。左側は歴史館。左側にも大きくせり出した四角い曲輪があります。

馬出でしょうか。
しかし、このあたりも案内板には何も書いていないので不明。



川を渡ると外曲輪に出ます。
開けた土地が広がります。

鉢形城の現在残っている城跡は当時の一部ですが、それでも十分な程に広大な城跡といえます。

周って飽きることがありません。


外曲輪も立派な土塁で囲まれています。 

外曲輪には下級武士の住まいがあり、外側には城下町が形成されていました。



スタート地点の歴史館に戻り、先ほど気になった曲輪を確認!

やはり、長方形の曲輪がせり出しています。



気になる曲輪の脇は分断されていて、虎口があったのではないのかと思う造り。

そう考えるとやはり角馬出なのかなと、勝手に想像してしまいます。



歴史博物館のテラスから気になる曲輪を確認。



歴史博物館の中には、復元された櫓門があります。



ちゃんと木造で造られていて、中世城郭の雰囲気を感じる門。

復元とはいえ、この時代の門はなかなか見ることはできません。



裏側からのショット。
江戸期の櫓門の前進形態。
威圧、迫力共に十分感じることができます。

御城印や100名城スタンプも歴史博物館内にありますので、是非寄って頂きたいスポット。



その他、北条氏の歴史や模型でより深く学ぶことができます。
鉢形城の全体像を立体的に見ることができるので、分かりやすい。

模型で見ると改めて天然の要害によって防御力を高めているのが分かります。


鉢形城はこれだけ防御力に長けた城でしたが、豊臣秀吉による小田原征伐の対象となり、上杉軍、前田軍、真田軍が包囲。
その後、本多忠勝軍なども合流して、圧倒的兵力差に開城を余儀なくされます。

その後、戦国を代表する北条氏の滅亡と共に鉢形城も廃城となります。

400年以上の時を経て、鉢形城は大規模な発掘調査によって城は蘇りました。

この広大な城を整備するのは大変だと思います。
しかし、綺麗に整備がされており土造りの城がこんなにも美しいのかと感じました。

そこまで高低差もないので攻城しやすいかと思います。

最近、北条氏に関わる城を連続して攻めています。

石垣も、天守も、城門も全てが大好きですが、中世城郭の魅力を伝えてくれたのは、北条氏の城。

約2時間半ほど歩いて周って、次の城に向かいました。



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茅ヶ崎城@神奈川県

2025-01-18 16:00:00 | その他城
2025年1月18日

午前中に小机城を訪城した後は、茅ヶ崎城に移動!
電車で30分くらいで行けるので、ぜひセットで周って頂きたいですね。

地下鉄ブルーライン センター南駅が最寄りになります。
住所は神奈川県横浜市都筑区。

駅から10分程度で茅ヶ崎城に到着です。



センター南周辺はニュータウンですが、その住宅街の中にポツンと現れる森。

現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。



標高は約35mなので、これから中世城郭に足を踏み入れるビギナーさんも、訪城しやすいと思います。

公園化されているので、至る所にベンチもありピクニックもできそうです。



公園入り口から階段を上がって進むと、中郭と西郭に向かう道で分岐します。

まずは中郭を目指します。



中郭の下には北郭があり、広めな曲輪が広がります。



北郭の前には中郭があります。
茅ヶ崎城は資料が少ないため、解明されていないことが多い城でもあります。

中郭は茅ヶ崎城のメインとなる本丸の可能性が高いエリア。



かなり大きな土塁が中郭を取り囲んでいます。
約4mほどでしょうか。当時はもっと大きな土塁であった可能性が高いです。



中郭も公園として、大きな広場になっています。草木の茂みで分かりづらくなっていますが、全面的に土塁で囲んでいます。

この場所が重要な場所であったことが分かります。



中郭南側には石で区画されています。
発掘調査でここには建物の跡が発見されています。

礎石チックな石垣並んでいますが、実際は掘立柱の跡が発見されているので、礎石の持たない建物でした。

この遺構は倉庫の跡だったようです。

茅ヶ崎城では居住となる遺構はまだ発見されていないようです。

続いて、中郭南側より西郭へ向かいます。



中郭南側出入り口。

土塁が途切れた間には虎口があったのではないかと連想させる造り。



中郭の土塁沿いを西側へ歩きます。
右手には中郭の綺麗な土塁を見る事ができます。



右側が中郭、左側は西郭。
この辺りの遺構は良好で城郭の形がハッキリと分かります。



西郭内部。
左側は土塁なっています。
右手は広い曲輪になっていますが、入ることはできません。



中郭と西郭を分断する空堀は、現在公園の通路になっています。

城跡だと認識して眺めると、綺麗な空堀になっているのが分かります。

北側に向けて傾斜になっているので、もしかしたら割と深い空堀だった可能性があります。



先には虎口跡があります。
手前左側が中郭、奥が西郭。その間に虎口があり、道もグイッと曲げてあります。

案内板もしっかり建てられているので、かなり分かりやすいです。



再度、中郭に戻ります。
やはり中郭を囲む土塁は高さがあり迫力があります。



東郭に行くには、中郭から行くのが近道です。
中郭の南側より出て、左手に進むと東郭に行く事ができます。

階段で下って、すぐに階段を登るので、V字になっているのが分かります。

ここも中郭と東郭を分断する空堀だったとも思われます。

何気なく下って登るだけの階段ではありますが、城の形状を想像しながら歩くと中世の山城らしさを感じる事ができます。



東郭は完全に孤立した曲輪になっていますね。

東郭は茅ヶ崎城で最も高い位置にあることから、物見台の役割があったようです。
現在は木々が多いですが、周囲を一望できる見晴らしの良さがあります。

また、籠城戦の際に最後の最後に逃げ込む曲輪だったとも考えられています。

北側の下には行くことはできませんが、腰曲輪が配されています。



茅ヶ崎城に来た際は、ぜひ見て欲しいスポットがあります。

見過ごしてしまいそうなほど、住宅街に馴染んでいるのですが、北郭の道路には土橋跡があります。



これのどこが土橋跡かというと、台形のコンクリートの形そのものが土橋の形になっています。

つまり、この道路そのものが空堀だったと思われます。



この角度から見ると、よりイメージがつきます。

台形のコンクリートになっている、土橋跡は、右側の住宅地まで伸びていて、住宅地のあたりはもう一つの曲輪であったと思われます。

ニュータウンに馴染みすぎた遺構ですね。
これはこれで面白い保存の仕方です。

コンクリートの上に小さく土橋跡という看板があります。

これ一つあるだけで、まったくイメージが変わります。
この他にも城内には至る所に、丁寧に看板が配されているのは素晴らしかったです。



最後に茅ヶ崎城の南側にある、正覚寺をサラッと見てまわります。
城の麓にありますが、直接行くことはできないので、ぐるりと城の周りを歩いて向かいました。

素晴らしい惣門を見る事ができます。
まるで城門のように立派です。

正覚寺の創建は室町時代とされています。



ハッキリとした史実は分からないのですが、茅ヶ崎城主の菩提寺という話もありますし、北条氏との関わりがあったとも言われています。

その他、ネットでは豊臣秀吉の話もありました。

不明確な部分が多いので、気になる方は調べてみて下さい。



近くには早淵川が流れています。
時を忘れてしまいそうなくらい穏やかです。

約2時間ほど、ゆっくり散策。
住宅地に囲まれた公園ではあるものの、しっかりと遺構が残っていたので、楽しむことができました。

茅ヶ崎城は今でも謎に包まれています。
小机城の支城という説が有力でしょうか。

小田原合戦の際の、戦の記録がないので小机城と同じく小田原合戦の際は戦わず放棄された可能性もあります。

城の全容はベールに包まれていますが、豊臣の大軍勢に対抗するには規模が小さいかなと思います。

しかし、ここには間違いなくこの地を守り抜いた城の息吹を感じる事ができます。

北条氏の滅亡と共に、茅ヶ崎城も廃城となったようです。

謎多き中世城郭は、謎そのものが楽しみ方の一つでもあります。

最後は歩いて15分くらいのところにある、横浜市歴史博物館に行きました。

近いので、併せて楽しめるかと思います。
茅ヶ崎城の御城印も歴博で購入できます。

とても充実した、素晴らしい1日でした。
茅ヶ崎城の中郭で食べたコンビニのおにぎりが、格別に美味しく感じました。



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小机城@神奈川県

2025-01-18 12:30:00 | 続100名城
2025年1月18日

今日は初めて神奈川県横浜市にある小机城に訪城しました。

小机城は室町時代に築城。
長尾景春の反乱に対して、太田道灌が攻め落としたことで、小机城は一度廃城。

その後関東一円を支配する北条氏によって、再び城として復活しました。

小田原を本城とする北条氏は、城代として笠原信為を任命。

しかし、小田原合戦で豊臣によって北条氏が滅ぼされた事で、やはり小机城も廃城となります。

今残っている遺構は北条氏時代のものになるので、是非行ってみたいとずっと思っていました。

続日本100名城に選定されています。

JR横浜線 小机駅から歩いて10分ほど。
小机駅は新横浜駅からも一駅と、かなりの好立地です。



小机駅のホームから見た小机城。
奥にある小高い山の上が小机城になります。

標高は約50mの山城。



小机駅に着いたのは10時頃。
まずは駅近くにある、地区センターに行きます。

ロータリーを右手に行けばすぐです。
地区センターには続日本100名城スタンプがあります。

そして小机城のパンフレット。
これは事前に持って訪城するのがベストかと思います。

麓には「小机城のあるまちを愛する会」が創ったパンフレットを置いてある民家があります。
こちらのパンフレットの方が、より分かり易かったです。



大きな看板などはないので、登城口がやや分かりづらいですね。

住宅街に囲まれているので、迷惑にならないように節度ある行動が必要です。

そして、この住宅街あたりは当時も根小屋(集落)であったと考えられています。



城内看板で全体の縄張りを把握。



道なりに登っていくと、帯曲輪のように横長の曲輪が広がります。

お城らしく右へ左へと食い違いになっている道を進むと、大きな空堀の前に出ます。

左手は本丸(西曲輪)、右手は二の丸(東曲輪)に分かれます。

まずは、左手の本丸を目指します。



空堀沿いを歩くと、先には土橋が見えます。
右手は本丸(西曲輪)。

本丸を仕切るための空堀なので、かなり深く掘り込まれています。

高低差は約6m。こちらがら本丸南側の空堀となります。



土橋の前には角馬出があります。
虎口などの前に設けることが多く、敵を迎え撃つ重要な防衛ラインといえます。

そして、虎口や土橋の前に設ける角馬出は、北条氏の城でよく見る築城スタイルといえます。



土橋の手前、馬出あたりからのショット。
奥は本丸(西曲輪)になります。

左右が空堀となっていて、本丸に行くにはこの細い土橋を渡るしかありません。

この細い土橋では並んで進むのは不可能ですので、1人ずつ進軍するしかないですね。
これぞ「守り易く攻めにくい」

城とは戦うための軍事施設。

城の本質は、意外と中世城郭の方が強く感じることができます。


土橋から見た右側の空堀。
見事な空堀なのが分かります。

左側は草木でやや分かりづらいかな。



土橋を渡ると、当時をイメージさせる冠木門があり、いよいよ本丸になります。

おそらく、実際は冠木門の手前にある土塁のライン上に本丸虎口があったのではないかと思われます。



本丸は広めの曲輪となっており、周りは土塁で囲まれていています。



本丸北側の空堀。深く急勾配に削り込まれています。

こちらは、立ち入り禁止エリアになります。

本丸北側の空堀は発掘調査対象区域で、令和4年の調査で堀底付近は約49°で急勾配になっているそうです。

2m以上掘っても堀底を確認できなかったということは、相当深い空堀であったと思われます。

これからの発掘調査で様々な事実が明らかになってくることに期待したいと思います。



本丸(西曲輪)と二の丸(東曲輪)の間には、細長い曲輪があり土橋で繋がっています。

整備もされていて、遺構が分かりやすいのが良いですね。



左右には曲輪を分断する空堀があります。
左側が本丸。



右側が本丸。

実際は発掘調査実績が少ない小机城では、本丸も断定はできていないそうですが、空堀でぐるりと囲まれ、独立した曲輪で守りを堅固にしていることを考えると、本丸と想定するのは妥当かもしれません。



本丸と二の丸の間には、細長の曲輪が伸びていています。



謎に設けられた小さな曲輪。

しかし、実際にこの曲輪に立って見ると、二の丸と本丸両方を見渡すことができ、攻撃しやすい曲輪なことが分かります。



先端には櫓があったとされています。



謎の曲輪の左側。
急斜面の崖になっていて、二の丸方面から攻めてきた敵を上から容易に攻撃できます。



謎の曲輪の右側。

反対側には本丸。間には広大な空堀。
こちらも、本丸と謎曲輪の両方から攻撃が可能になっています。



二の丸に向かうと、曲輪の入り口に櫓跡があります。



二の丸(東曲輪)で櫓跡だけ小高くなっています。



二の丸も令和の発掘調査されていて、掘立ての建物があったとされています。



二の丸を降りると、空堀の底を歩くことができます。



竹林が広がっていますが、道も含めて綺麗に整備されています。



空堀が張り巡らされていて、曲輪を分断する圧巻の景色!
堀底からの高低差は約10m。

当時はもっと深かったと考えられます。

横堀で囲んで曲輪を独立させることで、向かい合う曲輪同士は堀切となって分断されるこの築城スタイルもまた、北条氏らしさが溢れています。



芸術的で、アートのように美しい設計です。






もはや言葉はいらない。

これが歴史の表舞台から消え、400年もの間眠り続けた城。

逆を言えば表舞台から姿を消したことで、この良好な保存状態だったとも言えますね。

南側の空堀は、後ほどまた周ります。


東側〜北側の空堀をぐるりと周ったら、一度本丸に行き、もう一つの小机城に向かいます。

小机城はこれだけではありません。

一番最初に本丸に行くために渡った土橋の手前を真っ直ぐ進むと、一度麓に下山させられます。

そして、トンネルを抜けて反対側に行きます。


トンネルを抜けるとすぐに、かなり急な階段があります。



階段を登り切ると先ほどいた小机城の本丸が一望できます。

右奥には横浜スタジアム。



下には高速道路の第三京浜が走っています。
トンネルは第三京浜の下を抜けるためのものでした。



実は小机城は横長に広がった城でしたが、城を破壊して高速道路を開通させたことで分断されました。

今では高速道路が最強な堀切の役割をしています。


細い道を進みます。
主郭があるエリアには人が多かったのですが、皆さんこちらには来られないようで、人の気配が全くありません。



高く山になっている場所は富士仙元。

上には石碑があるのですが、ワタクシは行くのを控えました。



どんどん先に進みます。
小学校の時に知らない森を、友達と探検しまくっていた頃を思い出します。



道の行き着く先は、私有地の駐車場でした。

この辺りは開けたスペースになっていて、最初に見た看板ですと出城の部分にあたります。



主郭側から見た、出城方面。
再び、主郭側に戻って残していた南側の空堀を見に行きます。



本丸から謎の中曲輪まで伸びた南側の空堀。



先には腰曲輪があり、開けたスペースになっています。



左側は腰曲輪で先ほど通ってきた道。右側は中曲輪でこの先端の上には櫓がありました。

堀底を歩けるようになっていたので、当然堀底を歩きます。



さらに先に進みます。



分断された曲輪は、左側が本丸(西曲輪)で右側が謎の曲輪(中曲輪)になります。



急な崖になっているのが中曲輪で、この最頂部に櫓がありました。



北側も素晴らしい空堀を見ることができましたが、南側も芸術的な造りをしています。

コンパクトな城ながら2時間半ほど散策。
見どころは沢山ありました。

発掘調査が今までされて来なかったので、まだ史跡にもなっていないのが現状ですが、令和になって調査が開始されたので、これからの調査結果が楽しみな城です。

現状でもかなりハイレベルな空堀を見ることができますが、当時は20mクラスの空堀だったとも言われています。


森の中を周っている時のワクワク感というものは、年齢を重ねても変わらないもの。

小学校時代の探検好きの少年心は、30年経っても血は変わらないことを実感します。

これだから山城は楽しい!

標高50mくらいなので、山城を行った事がない方でも、十分楽しめると思います。


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