
2024年2月24日




そして、復元された南門。


政庁南面大路には発掘調査で石垣が発見されていたので、今回の整備で復元されました。


大路の右側は城内エリアとなり、多くの柱穴が発見されているエリアで、建築物跡のイメージがつくように復元されています。
政庁の下あたりに位置するこの場所には、多くの建築物がありました。

メインストリートとなる南大路。

入り口には政庁南門跡があります。

政庁の礎石も一部は当時のものが残っています。


反対側から見た東門跡。
大畑地区だけでも広大な空き地で、さらに土の中に遺構は眠っているので全て調査するのは難しそうです。

大畑地区の東門跡近くには、陸奥総社宮があります。
江戸時代になると仙台藩初代藩主の伊達政宗による領内寺社整備が行われ、陸奥総社宮には歴代藩主の尊崇が篤く、親拝代参などがあったそうです。

総社宮を後にして、作貫地区から駐車場へ戻ります。

この作貫地区には小さな小屋があり、空堀覆屋と書いています。

中を除くと地中に眠っていた発掘調査で出土した空堀が、小屋内で保存されて公開されています。

二本松城に登城した次の日は、宮城県の多賀城にやってきました。
多賀城は奈良時代の政庁で、宮城県においては仙台城と同じく、日本100名城に選定されています。
日本三大史跡といえば、福岡県の太宰府、奈良の平城宮、そして宮城の多賀城です。
多賀城跡に来た理由は二つ。
ワタクシは小学校、中学校の時に多賀城跡に来たことがあります。
むしろ、多賀城跡の前にある道路に関しては1000回以上は軽く通過しています。
実はワタクシは高校の時に仙台育英の多賀城キャンパスに通っていた為、毎日多賀城跡の前を自転車で通っていました。
当時の印象は「何もない」でした。
さらに、高校の時は城も歴史も興味がなかったので、そんな薄い印象しか無かったとも言えます。
そんな多賀城跡に南門が復元され、城内も整備されたので、一度行きたいと思っていました。
そして、もう一つの理由は2024年に多賀城碑が国宝に認定されたこと。
この石碑も小学校の時に見た時は、その辺にある石くらいにしか思っていませんでしたが、まさか国宝クラスの代物だったとは思いもしませんでした。
多賀城跡は現在も整備が進めらており、無料の駐車場もあるので今回は車で向かいました。

無料駐車場から政庁側に向かうと、水堀のようになっていて土塁が残っています。
この土塁上に、かつては築地塀があり四方約900mを囲んでいました。
左側には国宝の多賀城碑があります。

幾つか石碑が並ぶ中で、お堂の中に大事に守られているのが国宝の多賀城碑になります。

小学生以来に拝見しましたが、一見はただの石にしか見えません。
しかし、この石に刻まれた古文書が実は凄い内容でした。

小学生以来に拝見しましたが、一見はただの石にしか見えません。
しかし、この石に刻まれた古文書が実は凄い内容でした。

よく見ると薄らですが文字を確認できます。
内容としては、
・多賀城の創建された年や、修造された年が刻まれている。
・京や蝦夷との距離が示されている。
・多賀城の所在地が示されている。
・この石碑が建立された日が示されている。
長年、偽物とされていた石碑でしたが、研究結果から本物であることが証明されました。
多賀城の造営に関する記録が無いことと、そもそも奈良時代の金石文が珍しいことから、この石碑の重要さが認められて、重文から国宝に認定されました。
地震が多い地域にも関わらず、1300年もの間残っているのは貴重です。
そして、普段は石垣に思いを馳せているワタクシですが、改めて石の凄さを感じました。
石に刻まれたメッセージは、雨風にさらされながら果てしない時を経ても、ちゃんと我々に届いています。
本物は別場所に保管してレプリカをこの地に置くという噂もあるので、早めに見に来ました。

そして、復元された南門。
4月一般公開開始に向けて準備万端そうです。

まだ近くに寄ることはできませんが、奈良時代の素晴らしい門の、築地塀が復元されています。
高さ14.5m、幅11mで礎石の上に造られた八脚門です。
門が復元され、多賀城碑が国宝に認定されるなど、間違いなく多賀城には機がきています!

政庁南面大路には発掘調査で石垣が発見されていたので、今回の整備で復元されました。

多賀城跡のメインストリートなる大路の下部には水が溜まる為、雨水を処理する枡が発見されました。
発掘調査に基づいて、石組枡も復元されました。

大路の右側は城内エリアとなり、多くの柱穴が発見されているエリアで、建築物跡のイメージがつくように復元されています。
政庁の下あたりに位置するこの場所には、多くの建築物がありました。

メインストリートとなる南大路。
復元した南門から真っ直ぐ伸びていて、政庁跡に繋がります。

政庁があった場所は土塁で囲まれています。

政庁があった場所は土塁で囲まれています。
東西103m、南北116mのほぼ正方形で、築地塀を巡らせて区画されていました。

入り口には政庁南門跡があります。
奈良時代後半には礎石で建築され、北側は当時の礎石がそのまま残っています。

正殿と後殿の跡。

正殿と後殿の跡。
この他にも、脇殿や楼などが計画的に配置されていました。

政庁の礎石も一部は当時のものが残っています。
多賀城跡は幾つかの地区に分かれています。
政庁跡から管理棟の脇を抜けて、大畑地区に向かいます。

大畑地区には外郭東門跡があります。
こちらも土塁で囲まれています。
門の形式は八脚門。
隅には櫓が設置されていて、築地塀を巡らせていました。

反対側から見た東門跡。
普段、戦国・江戸期あたりの城を巡っていますが、門一つとっても規模が巨大です。

大畑地区も発掘調査したのは、これでもごく一部。

大畑地区も発掘調査したのは、これでもごく一部。
大畑地区だけでも広大な空き地で、さらに土の中に遺構は眠っているので全て調査するのは難しそうです。
世紀の発見の可能性も、まだまだあるということでしょうか。

大畑地区の東門跡近くには、陸奥総社宮があります。
こじんまりとした神社ですが、この陸奥総社宮が実は凄い神社!
建立時期は神社のホームページを見ても、ハッキリとは分からないようです。
Wikipediaを見ると諸説あるようですが、平安時代に陸奥国100の神社の祭神を合祀して創建されたと伝えられいます。
現在の拝殿は江戸時代の享保19年(1734)に建てられたもの。
江戸時代になると仙台藩初代藩主の伊達政宗による領内寺社整備が行われ、陸奥総社宮には歴代藩主の尊崇が篤く、親拝代参などがあったそうです。
難しい内容ですが、仙台藩伊達家にはお隣の塩釜市にある塩竈神社に参拝していました。
塩竈神社の参拝前には陸奥総社宮で参拝する習わしがあり、領民もその習わしの通りに陸奥総社宮で参拝したそうです。

総社宮を後にして、作貫地区から駐車場へ戻ります。

この作貫地区には小さな小屋があり、空堀覆屋と書いています。

中を除くと地中に眠っていた発掘調査で出土した空堀が、小屋内で保存されて公開されています。
橋脚跡も記されています。

小屋の上から覗くこともできます。
これは斬新な展示方法。
大体は調査が終わると埋め戻しを行いますが、このような形で一般公開しているのは素晴らしい。
約1時間半ほど散策して今回は終了しましたが、広大な土地の為全てを周ることはできませんでした。
改めて大人になって史跡を見ると、こんなに広い敷地だったのかと感じました。
現在復元された南門の前にはガイダンス施設が造られている途中でした。
多賀城はこれから、さらに熱いスポットになることは間違いないでしょう。
また改めて訪城したいと思います。
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