日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【安芸・備後古代史探訪 その2】阿岐国造後裔田所氏の本拠・安芸国庁跡(田所明神社)【広島県府中町】

2019-06-27 13:55:15 | 歴史探訪
 昨日(6月26日)は、クラツーにていつもの講座をやらせていただきました。

 90分の講座を3本、延べ59名様のご参加をいただき、ありがとうございました!

 昨日は23時に起きて準備をして講座に臨んだのですが、つまり一昨日、お寺さんの大掃除をやって帰宅した後、20時に就寝し、23時に起床してそれからずっと仕事をしていたわけですね。

 私は世の中の人びとと時空がずれているのかも知れません。

 そのうち、5次元世界へ行ってしまうかもしれませんよ。

 そんなわけで、昨日は帰宅するとき電車で寝てしまって降り過ごしました。

 そして、先週の金・土・日(21~23日)は、これまたいつもの吉野ヶ里遺跡他のツアーをやらせていただきました。

 26名の皆様、ご参加ありがとうございました!

 最近のホテルでのお気に入りの朝食はグラノーラにヨーグルトをかけ、さらにジャムをかけます。



 3日目の福岡市博物館の混み具合は異常でしたね。



 十数回は行っていますが、これほどの人は見たことがありません。

 ジブリの展示の最終日でしたが、ジブリの力は凄いですし、博物館の企画力も素晴らしいと思います。

 昨日、ようやく九州も梅雨入りしたようですが、ツアーの3日間は晴れましたね。

 吉野ヶ里遺跡へは十数回行っていますが、すべて晴れです。

 しかも、今年は半年の間でツアーを42日やらせていただきましたが、パラパラっと降られたことはあっても、42日すべて雨具無しで探訪できました。

 参加してくださるお客様の日ごろの行いに加え、あの「卑弥呼様」の呪力のお陰でもあるのかなと思います。

 そしてツアー中、ついに長年愛用していた靴が壊れました。



 この靴を履いて2000か所以上は古墳やら山城やらへ行っていると思いますが残念です。

 今までありがとう。

 羽田空港からは23時発の高速バスに乗って帰宅しましたが、今回は首都高が工事中で大井JCTから直接新宿方向へ行かず、レインボーブリッジ方面へ迂回しました。

 先日、雷電號を駆って千葉へ行った帰りも通った道で、そのときは自分が運転しているので夜景を見る余裕はありませんでしたが、今回は都心の夜景を堪能できて楽しかったです。



 周りの乗客はほとんどスマホをいじっているのですが、綺麗な夜景を見ないなんてもったいないですね。

 というわけで、来週末もまた福岡へ行ってきますよ。

 さて、話は変わりますが、今年の秋も島根・鳥取のツアーを予定しています。

 昨年の秋、1泊2日でやって大変好評でしたので、今年は2泊3日に拡大して、広島の内陸部の古墳なんかもプラスしています。

 昨年の10月1日からはそのツアーの下見のために当該地域へ行ってきたのですが、そのときの探訪記事が未完成です。

 本日は続きをご報告したいと思います。

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*     *     *


 安芸国の総社跡を見た後は、すぐ近くにある国庁跡を目指します。

 国庁跡には田所明神社があるようです。

 狭い道を走りますが、レンタカーが軽で良かった。

 しかもこれと同じような形の車をいつもダスキンで乗っているので非常に運転しやすいです。

 ナヴィに従って田所明神社に到着すると、何やら作業中のようです。

 小さい神社ですが駐車スペースが何台分かあります。

 ただ、空いているのは1台分のみだったので神社で作業をしていた方に断って停めさせていただきます。

 どうやら祭礼の準備をしているようです。

 邪魔にならないように素早く参拝を済ませましょう。







 律令国家の遺跡としては国府跡と並んで国分寺跡も有名ですが、どちらかというと国分寺の遺跡の方が残りが良く、国府跡の方が遺跡が見つかっていない国が多いです。

 安芸国の場合も当初は西条にあったのが後にこの地へ移ったと言われていますが、この地で具体的に遺跡や遺物が見つかったということはありません。

 あくまでも、推定地というわけです。



 この地域には古代の終わりくらいから安芸国府の在庁官人だった田所氏が盤踞しており、同氏の田所文書は広島県の重要文化財になっています。



 田所氏は阿岐国造家であった佐伯氏の末裔とも伝わっていますよ。

 今回の旅でめぐっている場所とその周辺の国府跡および国造支配地域はこんな感じです。



 まだ府中町歴史民俗資料館がオープンする時刻にならないので、もう少し付近をめぐってみましょう。

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古代景観史の探究―宮都・国府・地割
金田 章裕
吉川弘文館



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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その14】古代史上有名な「王賜」銘鉄剣が出土した稲荷台1号墳【千葉県市原市】

2019-06-19 15:27:02 | 歴史探訪
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 戸隠神社の富士塚で滑って転んで怪我した右手の手のひらが痛いです。

 雷電號を操縦するのに不便だ。

 今日は運悪く、絆創膏がカバンに入っていないので、コンビニに寄って絆創膏を買うことにします。

 そういえば、娘がまだバブーだったころ、何かちょっと痛いとすぐに絆創膏を貼り、そうすると気分が落ち着くようでしたが、絆創膏ってそういった呪術的な効果もありますよね。

 私も呪術に頼ろう。

 しかし、怪我した位置が良くなくて、うまく絆創膏が貼れない・・・

 すぐに剥がれそうで気持ち悪いですが、稲荷台1号墳へは歩いて向かうことにします。

 住宅街を歩いていくと、おっと、目の前に小さな墳丘が!



 小さい円墳だなあ。



 説明板があります。



 なるほど、本来のサイズの3分の1で復元したのですね。

 実物大が良かったと思う人も多いと思いますが、まったく消滅させるのではなく、こういった「記念広場」のような形でもきちんと分かるようにして残したのはありがたいことだと思います。

 できる範囲でベストを尽くしたわけです。



 鉄剣銘というと、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出た金錯銘鉄剣が有名で、あちらは115文字なのでそれに比べたら文字情報の量はかなり少ないのですが、こちらは鉄剣のネーミングの元となっている「王賜」という文字があることがとくに重要です。

 古墳が造られた時期は5世紀半ばですから、埼玉古墳群の稲荷山古墳よりも少し前になり、その時期に我が国に「王」が存在したことが東国の古墳で確認できた意義は大きいです。

 もちろん、文献史学的には中国の漢書や魏志倭人伝にて「王」の存在は証明できているのですが、ヤマト王権の王と関東の豪族に何らかの関係性があったことが面白いのです。

 何らかの関係性とは何か。

 少ない文字数でもいろいろな解釈ができると思います。

 そこが古代史の醍醐味ですね。



 鉄剣には銀象嵌で、表面に「王賜□□敬□(最後の文字は安?)」、裏面に「此廷□□□□」と、合計12文字が記されていました。

 稲荷台1号墳のスペックとしては、径28mの円墳で、古墳群としては12基の古墳があったことが分かっています。

 ただし、稲荷台古墳群には大型の前方後円墳がないため、普通に考えたら稲荷台古墳群の被葬者たちは直接的にヤマト王権と結びついたようには思えないのですが、もしかすると従来の墳丘の大きさを基準に力関係を見る見方はちょっと視点を変えてみる必要があるかもしれません。

 もし、稲荷台1号墳の被葬者がこの剣をヤマトの王から下賜されたのだとすると、この被葬者の勢力自体は小さく、近辺の大勢力(姉崎古墳群か)がまとめるメンバーの一人としてヤマトへ上番したものの、卓越した働きがあったためとくに恩賞としてもらった可能性もあるでしょう。

 ただし、「王」をヤマトの王ではなく、地域の王と考える研究者もいます。

 さて、これで市原市内で見る予定だった箇所にはすべて寄ることができたので、あとは国分尼寺跡展示館と尼寺の遺跡を見て市原市内の史跡めぐりは終わりの予定です。

 時間はたっぷりあるので、余裕をもって尼寺の見学に行けますね。

 (つづく)

東国と大和王権 (古代を考える)
原島 礼二,金井塚 良一
吉川弘文館



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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その13】素晴らしい薬師堂や木造金剛力士像が拝める現代の国分寺および古代の上総国分僧寺跡【千葉県市原市】

2019-06-19 14:42:45 | 歴史探訪
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 戸隠神社の駐車場まで戻り雷電號に乗りこみます。

 つづいて上総国分僧寺跡へやってくると現国分寺の西側に駐車場がありました。

 では行きますよ。

 柱跡が表示された西門跡があります。
 


 本来は八脚門で、一番西側の柱の列だけ表示できていません。



 説明板。



 神門古墳群の3基の古墳を避けて外郭ラインが決められているのが面白いですね。



 古代の国分寺の跡やその近くに現代の国分寺が存在するケースは結構多くて、上総の場合も古代の国分僧寺跡に真言宗豊山派の国分寺があります。

 国分寺には将門関連のものがあるようなのですが・・・

 あ、この宝篋印塔ですね。



 本日最初に訪れた新皇塚古墳の上に立っていたんですね。
 


 将門塔と呼ばれているこの宝篋印塔は、説明板に書かれている通り、将門とは関係ないものであることが分かっているようですが、なぜこの地に将門伝承があるのかが非常に気になります。

 ご存知の方がいらっしゃったら教えてくださいね。

 つづいて仁王門。

 ちょうど太陽がバックにあって写真が撮りづらい・・・



 アニキだ!



 あみあみが邪魔ですが、迫力がありますね。





 この仁王門がある場所は古代の鐘楼跡です。 

 つづいて本堂。



 現在の国分寺は医王山清浄院と号し、既述した通り真言宗豊山派に属し、開創は江戸時代の元禄年間(1688~1704)です。



 山号の通り、本尊は薬師如来です。

 私が一番好きな仏様だ。

 おー、これは立派な茅葺のお堂ですねー!



 こちらが薬師堂で、今日はS源寺さんがいないので大きさが分からないと思いますが、かなり大きいですよ。



 これは一見の価値があります。



 武蔵国の国分寺も薬師堂にて再興が始まりましたが上総もそうなんですね。

 では、いよいよ古代の国分僧寺の形跡を探りに行きましょう。



 基壇跡があって礎石が見えます。



 基壇の中央にも礎石があるので塔跡でしょう。



 上総国の場合も僧寺と尼寺が近接している原則的な配置ですね。



 今では基本的に僧寺と尼寺は近くにあることが知られていますが、研究がまだ進んでいない戦前の頃は、「僧寺と尼寺が近くにあると男女の間違いが起きる可能性があるので近くに建てるはずがない!」と言っていた学者さんもいました。



 塔跡、いいねえ。



 本来はお寺で最も重要な建物は塔なのです。

 塔心礎。



 遠くを見ると塀の跡のような土塁のようなものが見えます。



 あちらにも小さな看板が見えますよ。



 行ってみましょう。

 金堂跡でした。



 金堂というのは一般的なお寺でいうところの本堂で、三尊が祀られていたはずです。

 さて、9時に国分尼寺跡の展示館がオープンするので、当初の予定ではそれまでに市原市内の見どころはすべてめぐるつもりでした。

 現在の時刻は8時50分なので、予定通りに行っています。

 微妙な時間ですが、先に稲荷台古墳を見てから尼寺跡へ行きたいと思います。

 ⇒この続きはこちら


国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
かみゆ歴史編集部
イカロス出版


 
 
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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その12】不審者出現!神門瓦窯跡および神門古墳群【千葉県市原市】

2019-06-19 13:05:29 | 歴史探訪
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 戸隠神社は独立丘の上にあるのですが、どうも巨大円墳に見えて仕方がないので丘の周りを一周してみます。

 でもこういったロームの露出を見るとやはり自然の山なんでしょうかねえ。



 地山を利用して造った円墳かもしれない・・・

 ではいよいよ、神門古墳群を目指しますよ!

 今回の旅での目玉の一つです。

 これが雷電池ですね。



 なんか畿内の前方後円墳のような佇まいですが違いますよ。

 お、本物の富士山。



 住宅街に登ると、神門瓦窯跡の表示がありました。



 近くにある国分寺で使用した瓦を焼いた窯があったんですね。



 フェンスの向こうは雷電池へ向かって崖となっており、その崖を利用した登り窯でしょうか。

 そうなると雷電池は新しいのでしょうかね。

 先ほど訪れた戸隠神社。



 うーん、やっぱり怪しい・・・

 ところが怪しいと思っていたのは私だけではなかったようです。

 近くのお宅の玄関から出てきた男性が写真を撮っている私を先ほどから不審そうに監視しているのです。

 構わず撮影。



 不審者だと思われることは慣れていますからね。

 つづいて神門古墳群の神門3号墳の跡へ向かおうと思い歩き出すと、先ほどの男性が朝の散歩のためか道路に出てきました。

 サングラス越しにジーっと私を見ているので、「こんにちは!」と挨拶すると、人の顔を直視したまま何も言わずすれ違っていきました。

 人間は挨拶ができる動物のはずなのですが・・・

 ワンちゃんでも挨拶はできますよ。

 ペロペロって。

 あ、でも考えてみればまだ朝の8時過ぎですから、「こんにちは」ではなく、「お早うございます」ですね。

 朝の3時半に高尾を出て、5時から歴史めぐりをしているので、感覚的にはもうお昼なのです。

 目の前に広大な草地が現れました。



 上総国分僧寺跡ですね。

 後で見学します。

 神門古墳群は5号墳以外はすべて潰されており、ここに3号墳がありました。



 少し目を南に転じたこの場所は4号墳跡。



 では、墳丘が残っているという5号墳へ行きます。

 おー、これですねー。



 ちゃんと説明板もあります。





 神門古墳群の3つの古墳の平面図も書かれています。



 説明板にも書かれている通り、5号墳は東日本最古の前方後円墳で、箸墓古墳よりも前の「纒向型前方後円墳」と呼ばれているものです。

 古墳じゃなくて弥生墳丘墓だという面倒くさい意見もあると思いますが、まあ、古墳でいいじゃないですか。

 3世紀の初めころ、関東南部は東海勢力に席捲されたのですが、それと同時期か直後にヤマト勢力も関東への進出を目論みます。

 ほとんど東海勢力一色だった南関東にヤマトが撃ち込んだ楔がまさしく5号墳なわけです。

 関東の初期前方後円墳としては神川県海老名市の秋葉山古墳群がありますが、あちらは何度も行ったことがあるものの神門古墳群は初の探訪となります。

 何年も前から来たかったので念願が叶いました。

 周りはフェンスで囲まれていますが、墳丘に入れる場所は無いかなあ?

 一周してみましたが無さそうですね。

 仕方ない。

 ここから入るか。



 まずは形状を確認します。

 最初道路側から眺めたときは随分と大きい古墳に見えたのですが、墳丘長42.6mということなので、それを考慮して観察してみます。



 全体像が掴めました。

 墳丘に登ります。

 前方部側からは富士山が見えますね。



 この地の古代人たちもこうやって日常的に富士山を見ていたんですね。

 前方部から後円部を見ます。



 後円部から前方部。



 纒向型前方後円墳は前方部があまり発達していません。

 さきほどの説明板を見てみればわかりますが、3つのうち一番新しい3号墳の形状は普通のスマートな前方後円墳になっていますね。

 古墳の形状も時期によって変わるのです。

 というわけで、5号墳は想像していたより残りが良くて嬉しい。

 県指定史跡なのでこれ以上破壊される心配はないですねえ?

 神門古墳群に来ることができたので、東日本の初期古墳時代を研究している私としては、これでようやく日陰の身から脱して太陽の下で堂々と上を向いて歩くことができます。

 今日もいい日だ。

 明るい晴れやかな気分で国分僧寺跡へ向かいます。

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前方後円墳と東国社会: 古墳時代 (古代の東国)
若狭 徹
吉川弘文館



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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その11】本当はこちらが上総国総社か・戸隠神社【千葉県市原市】

2019-06-19 11:53:38 | 歴史探訪
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 郡本八幡神社から再び雷電號に乗りこみ、戸隠神社を目指します。

 おー、ここは普通に駐車場があった。

 それでは参拝しますよ。

 赤い鳥居ですね。



 あ、神様ゴメンナサイ。

 裏から来ちゃいました。



 社殿も赤いです。





 戸隠神社は独立丘の上にあり、駐車場と反対側(南側)に正式な参道があります。



 立派な境内案内図。



 雷電池。

 素敵な名前ですね。

 「かみなり電池」ではありませんよ。

 あれ?

 もしや・・・



 ここにも富士塚がある!



 よし、登ろう。

 私はまだまだ富士塚初心者なのですが、それでも早くも登山する際の拘りが出てきてしまい、一合目の標柱が画角に入る写真が撮りたいのです。

 でもここは一合目への入口が少し斜面の下の方にあります。

 ・・・うわ!

 滑った!

 尻もちを付いてしまいました。

 右手の手のひらから血が・・・

 何のこれしき、かすり傷だ。

 痛いですがまずは傷口をベロベロ舐めます。

 猫ちんって怪我したときは傷口をベロベロ舐めていますよね。

 彼らはそれで怪我を治すわけですから私も真似してみます。

 さ、登ろう。



 登頂成功。



 山頂からの眺望。



 何も見えません・・・

 では続いて、境内を散策してみましょう。

 祓戸大神。



 金刀比羅宮。



 稲荷大神。



 お稲荷さんの社殿。



 こちらは天神様。





 それにしても久しぶりの血の味だな。

 おや、水道がある。

 水で洗っておこう。

 ひー。

 境内全体。



 境内からの眺望。



 正式な参道へ回ってみます。





 おっと、扁額には「総社」とありますよ。



 先ほどは飯香岡八幡宮を参拝しましたが、飯香岡八幡宮も総社と言われています。

 どちらが本当の総社なんでしょうか。

 ちなみに戸隠神社がある場所の地名は総社と言います。

 飯香岡八幡宮は国府八幡とも伝えられていますよね。

 総社と国府八幡は別にあってもいいんじゃないかなあ・・・

 これ以上はよくよく考えてみてから話そうと思います。

 拝殿には古い扁額が立てかけてあります。



 さて、ここは安心して雷電號を駐機させておくことができるので、ここからは歩いて神門古墳群を見に行くことにしましょう。

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房総の杜
千葉県神社庁房総の杜編纂委員会
おうふう

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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その10】郡本八幡神社(郡本遺跡/市原郡衙推定地)【千葉県市原市】

2019-06-19 10:25:48 | 歴史探訪
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 上総国府があったと考えられる場所の近辺をさぐりつつ、続いては市原郡の郡衙推定地である郡本(こおりもと)八幡神社を訪ねます。

 郡山という地名もそうですが、「郡(こおり)」と付いているところは役場関連の施設があった可能性が高いです。

 お、シルヴァーメタリックのカッコいい鳥居だ。





 境内に入ると右手に古墳のようなものがありました。



 何だろうなあ?

 幅と高さの比率は古墳として見ても良いですが、妙に整い過ぎた方墳に見えます。

 拝殿。





 今はまだ7時半ですが、下草の刈り払いに来た方がいらっしゃったので先ほどの古墳のようなものの正体を訊ねてみます。

 おっと残念、古墳ではないんですね。

 あれは出羽三山の供養塚で、市原中学校のグラウンドの土を盛って造った物だそうで、その方の記憶では70年くらい前かなあ、ということでした。

 正確な年代はきちんと調べないとなりませんが、昭和前半でしょうかね。



 先ほどの飯香岡八幡宮でも出羽三山を祀っていましたね。

 神社を出て雷電號へ戻ります。

 道路脇には石仏があります。



 日露戦争の記念碑。



 「明治丗七八年」と刻されていますが、先日、「歴史を歩こう協会」で埼玉県志木市を歩いたときに同様な表記の石碑があり「随分アバウトだなあ」という声が聞かれたのですが、明治37年から38年にかけての戦争だったためこういう表記をするのです。



 さて、ここは市原郡衙の推定地ですが、地表面でそれとわかるものはありません。



 だいたいこの辺りにあったと推定されているわけです。



 1999年までに4次の調査が行われていますが、郡衙跡と決定づけられる遺構や遺物は出ていないようですが、墨書土器などの出土から郡衙跡である可能性は高いです。

 なお、上総国には当初(7世紀末)、市原・海上(うなかみ)・畔蒜・望陀・周淮・埴生・長柄・山辺・武射・天羽・夷灊・平群・安房・朝夷・長狭の15の郡がありました。

 ここから南西方向に4㎞ほど行くと海上郡衙の推定地があります。

 養老2年(718)には、平群・安房・朝夷・長狭の4郡を割いて安房国を分立させましたが、天平13年(742)に一旦安房国は消滅(上総国に併合)され、再び天平宝字元年(757)に安房国が造られました。

 今日はやけに八幡様にお会いしますが、次は違う系統の神様と尋ねてみましょう。

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まぼろしの上総国府を探して―解けるか?1300年の古代ミステリー
たから しげる
くもん出版



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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その9】市原八幡神社および上総国府跡推定地【千葉県市原市】

2019-06-19 05:42:29 | 歴史探訪
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 大多喜街道を南下していきますが、市原八幡神社もぜひ参拝しておきたいので寄ります。

 路駐スペースが限りなく少ないので、2秒で参拝を終わらせますよ。









 しまった、2秒以上かかってしまった・・・

 車へ戻れ!

 この市原八幡神社がある辺りは、人市場という怖い名前の小字となっています。

 戦国時代に頻繁に立っていた人身売買市とは関係ないと思いますが気になる地名です。

 市原八幡神社と街道を挟んだ東側に小字としての古甲が残っており、もしかするとそこに国庁があったのかもしれません。

 さて、前回「後程」と伝えておいた柳楯神事ですが、「国府物語」さんのHP内に詳しく書いてありましたので、それを参照させていただきます。

 ⇒「国府物語」さんのHP内「19.上総国」はこちら

 それによると、柳楯神事は中秋の名月に近い日曜日に上総国総社である飯香岡八幡宮で行われる例大祭で、600年ほどの歴史があります。

 その日の前日、25本の柳の枝を5本の青竹にくくりつけ楯の形にした「柳楯」と称する神の依り代を上総国府から出発させるのですが、現在では国府の場所も分からなくなっているので、光善寺の公民館を出発します。

 初めにここ市原八幡神社へ寄り、つづいて阿須波神社に寄りますが、その間は台地上を進んでいき、その途中にある小字「辻」を通過したことでしょう。

 阿須波神社からは市原台地を降り、古代の道を通り五所町民館で一泊し、翌日、飯香岡八幡に到着して例大祭が始まります。

 この古代の道は遺構が検出されており、幅は6mだそうです。

 五所という地名は「御所」と通じると思うのでこれはこれで興味がありますが、五所には五所四反田(ごしょしたんだ)遺跡があります。

 市原市埋蔵文化財調査センターのHP内の「五所四反田遺跡の木製品(1)」によると、低地にある五所四反田遺跡からは1000点を超す木製品が出土して、とくに5世紀(古墳時代中期)の「柄孔諸手鍬」という特異な形の「鍬(くわ)」が出土したそうですが、それが用途不明の「謎の農具」だそうなのです。

 ⇒市原市埋蔵文化財調査センターのHP内の「五所四反田遺跡の木製品(1)」はこちら

 ※しかし、市原市埋蔵文化財調査センターのHPはコンテンツが充実していて素晴らしい!

 市原八幡神社は、飯香岡八幡宮の本宮と伝わっており、柳楯神事のルーツに関しては分かっていないそうです。

 600年前から始まったという伝えが正しいとすると、その頃はすでに国府は機能していなかったはずですが、中世の領主が自らの権威のために古代の祭りを再興させたのか、古代の国司と自らを伝統的に接続させるべく新たに創始した可能性があるのではないでしょうか。

 雷電號を進発さて、さらに南へ向かい、「郡本」交差点まできました。

 今走ってきた北側を見ます。



 こちら方向に国府があったかもしれません。

 東方向を見ます。



 すぐに地形が落ちているのが分かりますね。

 なお、ここから南南西方面に直線距離で1㎞ちょっと場所には上総国分尼寺がありました。
 
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まぼろしの上総国府を探して―解けるか?1300年の古代ミステリー
たから しげる
くもん出版

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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その8】蘇我稲目の子孫が建立した?光善寺薬師堂【千葉県市原市】

2019-06-19 04:44:06 | 歴史探訪
 最近はCDを買うことはほとんどありませんが、中学2年のときのお年玉でCD付きラジカセを買ってから第一次音楽活動を終える20代後半までに400枚ほど集めました。

 それらの主なものはMP3としてPCに取り込んでおり、仕事をしながら聴いているのですが、中学生の時に同級生にそそのかされて買ったエイスワンダーの曲がいま流れました。

 つい先日、エイスワンダーっていったい誰なんだろうと急に気になり、Webで調べてみたらイギリスのバンドなんですね。

 個人名かと思っていた。

 Eighth Wonderのヴォーカルはパッツィ・ケンジット(Patsy Kensit)といって、当時はまだ10代だったんですね。

 パッツィのその後を見ると、何と4度も結婚と離婚をしています。

 おそらく以前の私だったら4度も結婚・離婚したことを「しょうもない人」と評価したと思いますが、今では自らの経験を鑑みて、いろいろと大変な思いをしたのだろうなあと思いますし、それだけ人生の勉強をしたのだろうと想像したりします。

 配偶者は血のつながっていない赤の他人です。

 他人と一緒に暮らす生活というのは、一種の学びの場であり、とくに自分と全然違う考えを持っている人と一緒にいると頭に来ることも多いですが、その反対に面白いことも多いですし、勉強になることも多いです。

 まあ、パッツィの場合はいわゆる芸能人ですから配偶者と一緒に過ごす時間は少なかったのかもしれませんが。

 今の私は結婚・離婚は何度しても無駄なことはないと考えていますし、そもそも「現代の私たち」は、戦後の「現代の法律」の上での結婚制度に踊らされているだけですので、人類700万年の歴史の中ではほんの一瞬の価値観に縛られているだけに過ぎません。

 今の常識が過去の常識だったり未来の常識だったりすると考えるのは浅はかです。

 いやしくも歴史をやっている人間はそういった「今現在の事象」だけを見て物事を判断してはいけません。

 と、早朝から何の話をしているのか意味が分かりませんが、上総探訪の続きを行きますよ。

*     *     *


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 つづいて、光善寺薬師堂へ向かいます。

 雷電號を走らせていると、大多喜街道沿いに案内板が見えました。

 その通りに進むと、お寺というか、お堂がありました。

 ここですね。



 社殿の背後は土塁で囲まれているのですが、既述した市原城の遺構だと考えられています。

 あれ?

 鈴?



 薬師堂なのに鈴があるって素敵ですね。

 エンジョイ・ザ・神仏混交。

 お寺と神社を明確に区別するのは、明治以降の新しい信仰感でそれ以前の日本の伝統ではありませんよ。



 説明板にも書かれている通り、光善寺は蘇我稲目の子孫である曽我上総太郎光善という人が建立したと伝わっています。

 蘇我氏ファンとしては押さえておきたい場所なわけです。

 千葉には蘇我という地名があり(今日は蘇我ICで降りた)、飛鳥の蘇我氏と千葉県との関わりはこれから調べていこうと思っているのですが、まずはその端緒として光善寺薬師堂へ来ました。

 なんか、石燈籠が妙な存在感を醸し出しています。



 千葉県最古!



 石燈籠というと近世以降の物というイメージがありますが、これは室町時代のものと推定されているわけですね。

 こちらは何でしょう。





 この説明板には先ほど訪れた飯香岡八幡宮の「柳楯神事」との関連も書かれていますが、柳楯神事についてはまた後程。

 境内には子安神社も鎮座しています。



 なお、こちらには薬師堂しかありませんが、光善寺廃寺と呼ばれている古代寺院が7世紀末以降にあったと考えられています。

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 When the phone stops ringing/Eight Wonder


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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その7】万葉歌に登場する神社か・阿須波神社【千葉県市原市】

2019-06-19 03:51:15 | 歴史探訪
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 飯香岡八幡宮からさらに南下し、阿須波(あすは)神社へ向かいます。

 地図で確認すると、阿須波神社は台地の西縁にあり、台地の真ん中を走る大多喜街道からアプローチするより、台地の下からアプローチしたほうが到達しやすそうな気がします。

 台地西側の崖下の道を周囲を警戒しながら低速で巡航し、この辺だろうと思われるところに雷電號を駐機。

 あとは歩いて探しますよ。

 多分、この上でしょう。



 普通の民家の敷地のような道がありますが、KKDでそこへ突入すると赤い鳥居が目に飛び込んできました。



 ここだ!







 万葉遺跡とありますよ。



 令和への改元で万葉集が脚光を浴びていますが、お恥ずかしいことに私はほとんど知りません。

 説明によると、「庭中の 阿須波の神に 小柴刺し 吾は斎はむ 帰り来までに」という歌(巻20-4350)があり、上総国の若麻続部諸人が防人として九州へ向けて出立するときの歌なのですが、ここに出てくる「阿須波の神」がこの阿須波神社ではないかと考えられています。

 西側の眺望。



 眼下には水田が広がっていますが、古代条里制の名残(市原条里遺跡)で、阿須波神社を降りた地点から海の方へ向けて古代の道路が通っていました。

 また阿須波神社周辺は戦国時代の市原城跡であり、『日本城郭大系』によると、天文23年(1554)秋、北条氏康がこの地へ侵攻して久留里城の里見義弘を攻撃し、相前後して市原城も攻撃しました。

 『関八州古戦録』によると、当地の武将の忍民部少輔は里見勢として久留里城の籠城戦で戦い、後の永禄7年(1564)の第二次国府台合戦にも里見勢として参加しています。

 なお、市原城の城域については宅地化によって遺構がほとんど破壊されてしまったことによりはっきり分からないそうです。

 さて、つづいて上総国府方面へ向かいますが、上総国の国府跡はまだ見つかっておらず、候補地もいくつかあります。

 阿須波神社の南東には古甲(ふるこう)という地名があり、「甲」は「国府(こう)」に通じることからそのあたりも国府の候補地なのですが、古甲の辺りから阿須波神社を見るとちょうど西北(戌亥)の鬼門の位置に当たるのが気になるところです。

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まぼろしの上総国府を探して―解けるか?1300年の古代ミステリー
たから しげる
くもん出版


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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その6】上総国府八幡・飯香岡八幡宮【千葉県市原市】

2019-06-19 02:22:43 | 歴史探訪
 現在、夜中の2時をとっくに過ぎています。

 夜更かししているのではないかと思われるかもしれませんが、実はもう起床したのです。

 私はこれくらいの時間に起きて稼働することが普通にありますよ。

 というわけで、先日の上総探訪の続きをお届けします。

*     *     *


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 姫宮古墳を見た後は、雷電號で少しばかり南下して大厩二子塚古墳を探します。

 うーん、よく分からない。

 見つかりません。

 まあ今日は菊間古墳群の主要古墳は見たので拘泥する必要はないか。

 つづいて古墳よりも新しい時代の歴史スポットを探訪しようと思います。

 目指すは飯香岡(いいがおか)八幡宮。

 上総国の総社といわれている神社です。

 おっと、踏切に引っ掛かった。

 内房線が来ましたよ。



 22~23歳の2年間、東船橋にあったコンビニの棚卸調査会社の営業所でアルバイトをしていたのですが、当時はこちらの現場にもたまに来ていました。

 あの頃はまだ115系が走ってましたよ。

 時間帯によっては地元のやんちゃな高校生が集団で車内に座り込んでいてちょっと怖かった。

 6時24分、飯香岡八幡宮に到着。



 おや、消防署の方々が大挙してやってきて参拝している。



 朝早くからご苦労様です。

 お、この扁額はカッコいいですね。



 龍が彫刻されています。

 ところで、この近くには八幡宿という駅があり、上述の棚卸の仕事より前に勤めていたソフト会社の先輩社員でここから通っている方がおり、当時から駅名だけは知っていました。

 あれから四半世紀経った今、総社といわれている古社に関連した駅名だったことが分かり感慨深いものがあります。

 総社だけあって、一宮、二宮、三宮が遷宮した時の記念碑が建っています。



 ちなみに、一宮は長生郡一宮町の玉前(たまさき)神社で、二宮は茂原市の橘神社、そして三宮は長生郡睦沢町の三之宮神社で、3社とも外房側にありますね。

 上総には四宮はありませんよ。

 説明板がありました。



 675年の時点で八幡宮として成立したというのはなかなか難しいかもしれませんが、かなりの古社であることは確かでしょう。

 立派な拝殿ですね。



 説明板によると、元禄4年(1691)の建立です。

 「国府総社」と記されています。



 飯香岡八幡宮は、全国の国府近くに存在した国府八幡としての機能も持っていました。

 武蔵国なんかはそうなのですが、総社と国府八幡が別個にあるというケースもあります。

 本殿側に回ってみましょう。



 国指定重要文化財の本殿は拝殿よりもさらに古く、室町中期の建立で、将軍足利義政が寄進したという伝えがあります。



 ただこの通り、覆屋の中に存在するので拝することはできませんね。

 立派な樹だ。



 頼朝が手植えしたと伝わる「さかさ銀杏」。



 こちらにも龍がいました。





 池もありますよ。



 今度は「夫婦銀杏」。





 神社での楽しみの一つとして古木や大木との出会いを挙げる方も多いと思います。

 私は植物も心があると考えているのですが、樹齢何百年という樹はずっとその場所の歴史を見てきたわけで、そういった古木から何かを教えてもらえるような気がします。

 大正初期の絵が掲げてあります。



 飯香岡という地名の通り境内の場所はわずかながらの岡(砂堆列)の上で、すぐ西側は「八幡浦」と呼ばれた海が広がっており、今は建物が邪魔していますし、そもそも埋め立てが進行しているので海は見えませんが、大正時代はこの絵のような景観だったわけです。

 市原市埋蔵文化財調査センターのホームページに詳しく書いてありますが、この近辺の町場が形成されたのは14世紀で、飯香岡八幡宮はその中心となったそうです。

 ⇒市原市埋蔵文化財調査センターHP内「市原八幡宮と中世八幡の都市形成(1)」はこちら

 飯香岡八幡宮が乗る砂堆列は古代にはすでに安定していたそうなので、神社の縁起で言われている通りこの場所に古くから神社があったと考えてもいいかもしれません。

 本殿の背後には境内神社が多数祀ってありますが、こちらは一際大きいです。



 出羽三山。



 あれ、富士塚じゃないか?



 おー、やっぱりそうだ!



 先日、「歴史を歩こう協会」で埼玉県志木市を歩いたときに、田子山富士塚という埼玉県指定史跡になっている素敵な富士塚を見学して何となく富士塚への興味が湧いてきているところなのですが、今日も富士塚に遭遇してしまいました。





 もちろん登りますよ。



 はい、今日も富士山に登りましたよ。







 ※翌日、木更津市の学芸員の方からこちらの地域は富士山や出羽三山の信仰が篤く、それを詳しく研究していた出羽三山の先達も勤めていた方がいらっしゃったそうですが、亡くなったあと著述物や研究資料が散逸してしまい非常に残念がっていました。

 飯香岡八幡宮はなかなか魅力的な神社ですね。

 このあとは少し寺社巡りをしてみたいと思います。

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房総の杜
千葉県神社庁房総の杜編纂委員会
おうふう


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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その5】雑草の繁茂状態はMAXだが説明板は新しい姫宮古墳【千葉県市原市】

2019-06-19 01:12:06 | 歴史探訪
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 東関山古墳につづいて姫宮古墳を確認しに行きましょう。

 今日は生まれて初めて市原市の古墳めぐりをしていますが、『房総の古墳を歩く』が大活躍しています。

 ありがたい。

 姫宮古墳も該書の地図を参考にしながら探してみます。

 多分、あの森じゃないかなあ・・・



 でも近接するための道は個人の敷地のようなので雷電號で入って行くのは憚られます。

 辛うじて路駐できる場所がありました。

 走って見に行きます。

 お、説明板発見!



 やっぱりここで良かったんですね。

 しかしそれにしても、雑草がすごくて説明板に近づくのも大変。

 ひやー、植物で文字が隠れてしまう。



 今日見た説明板の中では新しいですね。

 市原市も少しずつ整備をしているのでしょう。

 最初に見た部分は後円部で、説明板があるのは前方部の側です。



 ※下の文字が切れていますが、③は東関山古墳で④は菊間天神山古墳、⑤は新皇塚古墳です。

 この古墳も侵入するのは困難です。

 この説明板で数字が振ってある古墳は本日すべて探訪しましたが、今日はまだ一度も墳丘に登っていませんね。

 古墳めぐりとしては不完全ですが、再三述べている通り、やはり冬に来るがベストでしょう。

 ただ、これくらいの繁茂状態だと冬に来ても侵入できないかもしれません。

 姫宮古墳も台地の縁の部分に築造されています。



 北側眼下には菊間団地が見えます。



 では、この近くの古墳をもう一箇所見てから次の地域へ行きたいと思います。

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房総の古墳を歩く(改訂版)
『房総の古墳を歩く』編集委員会
芝山町町立芝山古墳・はにわ博物館友の会

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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その4】千葉県指定史跡・東関山古墳【千葉県市原市】

2019-06-17 07:46:31 | 歴史探訪
 朝ご飯を食べてきました。



 ルートイン木更津は、味噌汁の具がアサリだった!

 元々アサリの味噌汁は好きなのですが、最近貝塚づいているのでとても嬉しかった。

 あと、鳥のささ身を大葉で巻いた竜田揚げと、珍しいところで煮卵が美味しかったですよ。

 サラダのドレッシングも美味しかった。

 デザートは定番。



 そしてルートインはお部屋にコーヒーを持って帰れることを忘れてはなりません。



 というわけで、そろそろ本日の探訪のプランを立てようと思いますが、出発前にもう一本ご報告します。

*     *     *


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 北野天神山古墳と並ぶように東関山(とうかんやま)古墳があります。

 本当はこういう古墳が密集している場所は神社の駐車場などに車を停めさせていただいて、歩いて回るのがベストなのですが、この地域には車を置いておけそうな場所がありませんね。

 まあでも、東関山古墳はすぐ隣なので、このまま走って見に行ってしまいましょう。

 あの森がそのはずです。



 はーい、標柱発見!



 今日は古墳めぐりに来ていますが、まだ墳丘に登ることができておらず、こうやって「標柱めぐり」をしていると、昔、岩手・青森の館跡をめぐっていた頃を思い出します。

 向こうのマイナーな館跡は標柱すら立っていないことが多く、標柱を見つけると非常な達成感を覚え、説明板があれば狂喜したものです。

 ここも標柱の別面に簡単な説明が書いてありますね。



 古墳時代中期に築造された墳丘長61mの前方後円墳とあります。

 『房総の古墳を歩く』によると、平成5年に市原市教育委員会が発掘調査をしており、幅10m、深さ2mの周溝が見つかったそうです。

 東関山古墳は千葉県指定史跡なので、それを示す石柱もありますよ。



 『房総の古墳を歩く』には、菊間古墳群のなかで最も歩きやすいと書いてありますが、今日は無理ですね。

 冬に来た方が良いでしょう。

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房総の古墳を歩く(改訂版)
『房総の古墳を歩く』編集委員会
芝山町町立芝山古墳・はにわ博物館友の会



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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その3】菊間古墳群最大の古墳の可能性がある北野天神山古墳【千葉県市原市】

2019-06-17 06:38:51 | 歴史探訪
 朝ご飯は6時半からですが、微妙にお腹が空いていないので、もう少ししてから行こうかと思います。

 自室のテレヴィ画面から朝食会場の状況が監視できるのですが、結構混雑していますよ。

 この「朝食会場監視システム」は警備員気分を味わえる面白いシステムです。

*     *     *


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 この周辺は新しい住宅地ではなく、古くからの集落という趣で、おそらく道も昔のままなのでしょう。

 対向車が来たらすれ違えない路地を走らせながら引き続き古墳を探します。

 おや、怪しい森。

 はい、標柱発見!



 北野天神山古墳、別称権現山古墳です。

 標柱の別面に簡単に解説が書いてありますよ。



 現状では直径41mの円墳ですが、前方後円墳の可能性があると書いてありますね。

 この古墳も進入して確認するのは難しいです。



 季節柄、仕方がない。

 『房総の古墳を歩く』によると、墳丘長90mの前方後円墳に復元できるとして、そうなると菊間古墳群では最大規模の古墳となります。

 築造年代は世の中的にでかい古墳の築造が流行った5世紀。

 また、該書によると、菊間古墳群を構成する古墳を形状ごとに数えると、前方後円墳が4基、円墳が14基、方墳が2基だそうです。

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房総の古墳を歩く(改訂版)
『房総の古墳を歩く』編集委員会
芝山町町立芝山古墳・はにわ博物館友の会


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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その2】円墳か、それとも前方後円墳か・菊間天神山古墳【千葉県市原市】

2019-06-17 06:05:07 | 歴史探訪
 4時半に自然に目覚めました。

 7時間半寝たので睡眠はバッチリです。

 今日も上総国は晴れですよ。

 まずは朝風呂を浴びてきました。

 おっと、自販機にはマックス・コーヒーが売っている!

 幼少のころから飲んでいる千葉のソウルドリンクです。



 最近私は甘い缶コーヒーを全然飲みたくなくなったのですが、これだけは飲みたくなります。

 練乳入りですから他の甘い缶コーヒーとは一線を画しているのです。

 さて、朝ご飯が始まる時間までまだ少しあるので、昨日の続きをお届けします。

*     *     *


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 新皇塚古墳は探訪したとはいえないかもしれませんが、現在の様子をうかがい知れただけでも成果としましょう。

 つづいて菊間天神山古墳を探してみます。

 細い道をゆっくりと慎重に走りつつ周囲を警戒していると、前方に古墳らしき森が見えてきました。



 少し道が膨らんでいる場所に路駐し、確認しに行きます。

 やっぱりこれで良かったんだ。



 この説明板によると、直径が39mほどの円墳ではありますが、もともとは前方後円墳だった可能性があるというようなニュアンスで書かれています。

 一方、手元の『房総の古墳を歩く』では、6世紀初頭に築造された径40mの円墳としています。

 墳丘に入って確かめるのが一番ですが、入るのは難しそうですね。



 山城といっしょで古墳に来るのは本当は冬がいいのです。



 冬は下草が枯れており、寒いのさえ我慢すれば楽しく歩けますから、古墳は山城と一緒で本当は冬に来るのがベストなのです。

 手元に詳細な資料がないので検討しづらいですが、地形図を見る限りでは前方後円墳という感じはしませんが、もし市原市が言う通り、前方後円墳だったとすると、墳丘長は80mくらいになるかもしれません。

 ところで、菊間古墳群は村田川に向かって南から北へ伸びる台地の先端部分にあり、とても眺望が良いです。

 北西側。



 まだ5時を少しまわっただけですが、太陽は結構高い位置にいます。



 つぎは北野天神山古墳を見つけてみましょう。

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房総の古墳を歩く(改訂版)
『房総の古墳を歩く』編集委員会
芝山町町立芝山古墳・はにわ博物館友の会


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【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 その1】新皇塚古墳(菊間古墳群)【千葉県市原市】

2019-06-16 20:29:59 | 歴史探訪
 今夜は木更津でお泊りです。

 本日(6月16日)が仕事が休みだということはもちろん以前から分かっていたので、一週間ほど前からどこかへ行きたいなあと考えていました。

 天気予報によると晴れになっていたこともあり、雷電號を少し長い間巡航させたかったので、最初は信濃方面の博物館および資料館めぐりをしようと思っていました。

 ところが、直前になって行き先を上総へ変えました。

 というのも、私的にはまだ上総方面の探訪経験が少なく、当該地域の有名な古墳もほとんど見れていないので、この機会に見てこようと思ったからです。

 ただし、季節柄墳丘に入れない場所が多いだろうと予測し、まずは当該地域の博物館や資料館を見学して、資料集めをするのも意味があることだろうと思いました。

 今回は予備調査という位置づけですね。

 というわけで、朝の5時に上総に着き、16時半まで走り回ったところ結構疲れてしまいました。

 帰ろうか泊まろうか悩んだのですが、たまたま最後の探訪地であった木更津でホテルルートインを見つけ、電話をしてみるとシングルが空いていたため宿泊することにしました。

 プライヴェートでホテルを使うときはいつもは東横インなのですが、どこにでもありそうな東横インが意外とこちらには無いんですよね。

 ルートインは東横インより少し高いですが、部屋もその分ちょっと素敵。



 ルートイングループはクラツーのツアーで良く泊まりますよ。

 作業スペースも広めです。



 そして何といっても、大浴場があるのがとてもありがたい!

 【大浴場の中の写真 No Photo】

 ヘトヘトになってチェックインしたため、まずは風呂へ行って気持ち良くなってきましたよ。

 湯船で足が伸ばせるって贅沢ですねえ。

 というわけで、ビールを飲みながら本日の探訪の様子をごく簡単にご報告します。



*     *     *


 今回の行き先は上総なので、雷電號を巡航させる時間はあまりないですね。

 ただし途中、空いている首都高を楽しむことができるので、運転時間は妥協しましょう。

 というわけで、3時30分に出陣。

 八王子の関へは3時50分には進入できたので、高速料金が深夜割引適用となります。

 早朝の高速道路は快適でいいですね。

 走っているうちに、空も白み始めました。

 八王子の関を通過してから1時間かからずに蘇我の関を通過しました。

 本日の大雑把なプランとしては、市原市の上総国分尼寺跡展示館が開くのが9時なので、それまでに市原市内で行ってみたい遺跡は全部めぐろうと思っています。

 まず最初にやってきたのは市原市の菊間です。

 菊間にも多くの古墳があり、菊間国造の本拠地とされている場所ですが、初めは新皇塚古墳を目指します。

 今日は『房総の古墳を歩く』を持ってきているのですが、該書によると、新皇塚古墳は見学できないそうです。

 まあでも、とりあえず場所だけでも分かればいいですし、古墳の立地や古墳からの景観などを確認することは必要でしょう。

 地図を頼りにやってきたのは、団地の中でした。

 団地の裏は一段高くなっており、その高い場所に新皇塚古墳があると思われます。



 こちら側から上へ登る階段はないようです。

 念のため、丘の上の道をたどり、古墳に近接できないかやってみます。

 うーん、ダメですねえ。

 該書によると、新皇塚古墳は4世紀中葉に築造された前方後方墳ということですが、面白いのはそのネーミングですよね。

 新皇といったら、平将門のことを指します。

 もちろん、将門が古墳に葬られた可能性は極めて低いわけですが、市原市辺りに残っている将門伝承を知りたいです。

 さて、新皇塚古墳は早々にあきらめて、つづいて菊間天神山古墳へ向かいましょう。

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房総の古墳を歩く(改訂版)
『房総の古墳を歩く』編集委員会
芝山町町立芝山古墳・はにわ博物館友の会



 
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