日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【歴史を歩こう協会 第2回歩く日 その6<最終回>】川角古墳群・延慶の板碑・堂山下遺跡・苦林野古戦場跡・大類古墳群【埼玉県毛呂山町】

2019-04-18 13:19:54 | 歴史探訪
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 毛呂山町歴史民俗資料館には史跡めぐりのコースマップがいくつか置いてあって、そのうちの一つがまさしくこれから歩こうと思っているコースでした。

 なので、そのリーフレットをいただいて、それを見ながら周辺を歩いてみようと思います。

 では出発!



 傘を差しながらなので歩きづらいですが、好奇心が先に立っていると意外と大丈夫。

 まずは資料館西側の鎌倉街道を歩きますよ。



 なかなか雰囲気の良い道ですね。

 おや、何か石碑のようなものが見えますよ。



 庚申塔ですね。



 気が付けばこの辺一帯にはすでに古墳が散見できます。

 川角(かわかど)古墳群に侵入しているようです。

 さきほど資料館で延慶の板碑のレプリカを見ましたが、本物を見てみたいので板碑が建っている場所へ行ってみましょう。

 林の向こうにも墳丘が見えます。



 おー、ここは「古墳ポコポコ地帯」だ。



 『埼玉の古墳 北足立・入間』(塩野博/著)によると、川角古墳群には38基の古墳が現存していますが、すべて円墳で直径20mを越える中型以上のものはなく、すべて小円墳です。



 先ほど訪れた大寺廃寺跡の礎石にも黄色い石がありましたが、いろいろな石ころが落ちていますよ。



 安斉さんがこの辺の古墳の墳丘は石で覆われていることを確認して知らせてくれました。

 葺石という感じではないのですが、石を多用していますね。



 あったー!



 延慶の板碑。

 はい、オーメンさん出番ですよ!



 これもでかいですねえ。

 ラーメンを食べる前に見た嘉元の板碑とどちらが大きいか話します。



 親切な人が補記してくれていますね。



 資料館のパネル展示にはこう書かれていました。



 嘉元の板碑は3.4mとありましたが、こちらは3.64mで、こちらの方がわずかに大きいですね。

 しかしまあ、この大きさには驚くばかりです。

 そしてさらに驚きなのは、このような巨大な板碑でも横から見るとこんない薄いのです!



 中には折れてしまったのを補修して展示してあったりすることがありますが、さきほどの嘉元のもこの延慶のも折れていないのが凄いですね。

 ここからは舗装された道路を北上していきます。

 越辺(おっぺ)川に架かる橋があったので少し川面を覗いてみます。

 上流。



 下流。



 「おっぺ」というのは何か現代の日本語っぽくないですね。

 この辺には堂山下遺跡があるはずですが・・・



 オーメンさんが説明板を見つけたと呼ぶので行ってみます。



 関東ではほとんど見つかっていない室町時代の集落跡ですぞ!





 今まさしく、この説明板に書かれているルートを歩いています。



 つづいて大類古墳群に入って行きます。

 大類古墳群は坂戸市側の塚原古墳群と一体のもので、苦林古墳群と総称されており、古墳跡を含めて52基の古墳で構成されています。

 畑の中に古墳らしき土盛りが散見できますね。



 ※不可解なのは、Web上(「Googleマップ」や「古墳マップ」など)で、この2基は「大類積石塚」とネーミングされていることですが、現在のところ詳細は分かっていません。

 ※積石塚だとしたら渡来系の人びとの墓の可能性が濃厚です。

 神明台の庚申塔と馬頭観音はこちらです。



 この辺りが苦林野古戦場跡です。



 そこら中に古墳がありますね。





 十社神社に到着しました。



 おっと、ここは親切だ。

 手水の作法が分からない方向けに写真付きのマニュアルが掲示してあります。



 いいですか、15度ですぞ!



 社殿。



 そして境内も古墳ポコポコ。





 さきほどの川角古墳群はオール円墳ですが、『埼玉の古墳 北足立・入間』(塩野博/著)によると、苦林古墳群には5基の前方後円墳がありますので、せっかくなのでそれを見るためにもう少し先まで歩いてみましょう。

 先導役の私としては、歩く距離や道などは一緒に歩く人のスキルを見て決めますが、今日は少数精鋭で皆さん歩けるのでもう少し無理をしてもらいますよ。

 十社神社の裏からぬかるんだ畑の隅を強行突破して舗装された道路に出ました。



 可愛らしい前方後円墳ですね。



 大類1号墳です。



 削られてしまっているような印象がありますが、『埼玉の古墳 北足立・入間』によると、地元では「長塚」、「将軍塚」、「観音塚」などと呼ばれている古墳で、見ての通りかなり破壊されており、復元すると墳丘長は24mになるようです。



 そろそろこの古墳群内で絶対に見ておきたいポイントに近づいてきました。

 今まで見てきた古墳と比べるとやや大きい墳丘が現れました。

 墳頂に登ると説明板があります。



 はい、今登っている古墳が大類2号墳、すなわち苦林古墳です。



 よし、ここに来れば大類古墳群の探訪は果たしたと考えてOKでしょう。



 こちらも『埼玉の古墳 北足立・入間』によると、かなり破壊されており原型がよく分からないのですが、墳丘長は26mで6世紀前葉の築造とされています(説明板には現存長が23mとあります)。

 市境を越えて坂戸市側に行くと大類古墳の続きである塚原古墳群が展開していますが、今日のところは引き上げだ!



 ちなみに、塚原古墳群の前方後円墳は今日見たのよりもう少し大きいですが、おそらくイメージ的にはこの古墳群は大したことがないと思われるかもしれません。

 ところがどっこい、埼玉県内で前方後円墳を5基以上擁する古墳群は、他には埼玉古墳群しかないのです。

 つまり、埼玉古墳群と比べるとだいぶスケール感が劣るかもしれませんが、苦林古墳群は埼玉県内で2番目の大勢力になるわけです。

 ですので、今後はそういう観点からこの越辺川流域の勢力をきちんと考察してみたいと思います。

 では、雷電號が停めてある郷土資料館に戻りますよ。

 稲荷神社。



 お堂が一つポツンと建っているだけのように見えますが、大楽寺というお寺さんです。



 境内に板碑が立ててありますが、下の方は土に埋まっていますし、折れてもいますので、本来はどれも結構な大きさだったのでしょう。



 16時40分、資料館に戻ってきました。



 結局、雨の中2時間歩いてしまいましたね。

 ということで本日の探訪はこれで終了です。

 今日は雷電號で来ているので恒例の打ち上げは無しですよ。

 雨の中、オーメンさん、安斉さん、金子さん、お疲れさまでした!

 (了)


 歴史を歩こう協会「歩く日」探訪記録

 【第1回】 神奈川県海老名市 2019年2月10日(日)

   Vol.1 秋葉山古墳群

   Vol.2 金龍山常泉院

   Vol.3 水堂・瑞雲山龍峰寺・彌生神社

   Vol.4 相模国分尼寺跡

   Vol.5 相模国分寺跡・海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)

   Vol.6 瓢箪塚古墳

   Vol.7 上浜田6号墳

   Vol.8 上浜田1号墳・同2号墳

   Vol.9 鳳勝寺・八坂神社

   Vol.10 上浜田遺跡(浜田歴史公園)

 【第2回】 埼玉県日高市・毛呂山町 2019年3月3日(日)

   Vol.1 廃寺跡・女影ヶ原古戦場跡・八高線事故慰霊碑

   Vol.2 高麗神社

   Vol.3 聖天院

   Vol.4 大寺廃寺跡・嘉元の板碑・出雲伊波比神社

   Vol.5 毛呂山町歴史民俗資料館

   Vol.6 川角古墳群・延慶の板碑・堂山下遺跡・苦林野古戦場跡・大類古墳群

 【第3回】 東京都青梅市・あきる野市 2019年4月13日(日)



埼玉の古墳 北足立・入間
塩野 博
さきたま出版

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【歴史を歩こう協会 第2回歩く日 その5】周辺の史跡を散策する際の拠点となる毛呂山町歴史民俗資料館【埼玉県毛呂山町】

2019-04-18 10:55:19 | 歴史探訪
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 14時少し前、本日最後の探訪地に到着しました。

 毛呂山町歴史民俗資料館です。



 経験上、こういった町の郷土資料館がとても面白いことが多いので期待できますが、まずは屋外の展示から見てみましょう。

 古墳がありますよ。



 この近辺は実は古墳ゾーンで、詳しくは資料館に展示があると思いますが、こちらは西戸(さいど)2号墳の石室を移築したものです。



 見ての通り、墳丘の一部を復元しつつ、墳丘の中の土の盛り方がイメージできるように断面を表示していますね。

 この地域にはまだ版築工法は入ってきておらず、昔ながらの盛り方をしているようです。

 横穴式石室は見事な切石積ですね。



 この石碑は何でしょうか?



 元々は西戸2号墳の墳頂に立てられていたんですね。



 こういった石碑も貴重なものです。

 それでは、館内に入りましょう。

 エントランスには有料頒布の資料がいくつか並んでいますが、今日は我慢。

 展示は古い時代順から見るオーソドックスなタイプですが、特に良いものは目立つように配置していますね。

 やはり、武蔵と言えば板碑。





 こちらは白綾遺跡から出土した縄文時代中期の加曾利E式土器です。



 シンプルなデザインの優品ですね。

 箱式石棺墓の蓋が並んでいます。



 箱式石棺墓というのは、北部九州では弥生時代には見られるようになりますが、その名前の通り、板状の石で箱の形に組んだ棺です。

 だいぶ傷んでいますが、この近くには古墳がたくさんあり、どうやら墓制もバラエティーに富んでいるようなのです。



 今日はこれから資料館近くの川角古墳群を散策したあと、大類古墳群も行けたら行こうと思っています。

 上の図で見ると分かる通り、本来大類古墳群と坂戸市の塚原古墳群は一つの古墳群ですので、遺跡のネーミングには小字を付けるというルールに則れば、大類・塚原古墳群と呼んだほうがいいかもしれませんが、そろぞれ自治体が違うのでそう簡単に行きません。

 なので、苦林古墳群という総称で呼んでいるようです。



 円筒埴輪も出ていますね。



 つづいて、中世の展示はパネル展示がとくに参考になります。

 ザ・武蔵武士!



 私が住んでいる八王子市周辺は横山党や西党が多いですが、この辺の毛呂氏は「その他」に分類されていますね。

 午前中に探訪した日高市の高麗氏は丹党となっていますが、それは元々いた渡来系の高麗氏とは別系統の武士です。

 鎌倉街道は今日の探訪の最初にも現れましたが、そこに続いている別の場所をこれから歩きますよ。





 おっと、また巨大な板碑が!



 でもこれはレプリカで、どうやら本物はまだ現地に立っているようですよ。

 後で行って見ましょう。



 ところで、私たちの集まりの特徴は、こういった場所に来ると結構長居することです。

 皆さん好奇心が旺盛なので、じっくり見ちゃうんですよね。

 でも、この後歩く時間が欲しいので45分で切り上げます。

 さて、これから少しの間、資料館近辺の史跡めぐりをしますよ。

 ⇒この続きはこちら


旧鎌倉街道探索の旅〈1〉上道・山ノ道編
芳賀 善次郎
さきたま出版会




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【歴史を歩こう協会 第2回歩く日 その4】渡来人の活躍があったか・大寺廃寺跡/3.4mもある巨大な嘉元の板碑/「いわい」とは何か・出雲伊波比神社【埼玉県日高市・毛呂山町】

2019-04-18 08:58:53 | 歴史探訪
 今月も引き続き、クラツーにて座学をやらせていただきました。

 6月までは、東北の歴史と日本書紀、そして関東の古代史の3本(各90分)を毎月2度続けますが、7月からはそれに加え、続日本紀と中国古代史の講座も開講しますよ。

 先週の土曜日(4月13日)は、延べ65名様、そして昨日(17日)は、延べ51名様にご参加いただきました。

 皆様、ご参加ありがとうございます!

 今回話した、「聖徳太子はいなかった」説は、聴く方によってはエグイ内容だったようですが、気を悪くされた方がいないか心配です。

 さて、本日は3月にやった「歴史を歩こう協会」の「第2回 歩く日」の続きをご報告します。

 当日は埼玉県の日高市や毛呂山町周辺をめぐりました。

 ちょっと間が空いてしまいましたが、行きますよ。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 今回は渡来人関連のものが多く見られればいいなと思っており、高麗神社と聖天院の参拝はできました。



 つづいて毛呂山町方面に北上しますが、そろそろお昼の時間ですね。

 巡航中に食べ物屋さんが現れたら寄るとしましょう。

 でも結局街道沿いには目ぼしいお店が現れず、大寺廃寺跡の近辺まで来てしまいました。

 さきに遺跡を見てみますか。

 ナヴィを頼りに大寺廃寺跡を目指していくと、道がかなりデンジャラスになってきました。

 小川に架かる橋は雷電號なら渡れる道幅ですが、柵がありません。

 「えー、ここ渡るんですか!」と後ろから聞こえてきましたが、スミマセン、突撃します。

 ところが、渡った場所から先が異様な急カーブになっており、その先はちょっとどうなっているか分からないので引き返すことにします。

 狭いところで転回し、もう一度危ない橋を渡って、やや広い道路まで戻りました。 

 とりあえず、畑の脇に路駐して歩いて行ってみましょう。

 大寺廃寺跡の場所は大体は把握していますが、初めてきたのでKKDで歩きます。

 お、説明板らしきものが向こうに見えたぞ!



 石仏。



 よし、見っけ!



 現況はほとんど雑木林で、一部が草地になっており、礎石が散見できます。



 関東地方ではある地域の最後の首長墓級の古墳が築造されるのとほとんど同じ頃、寺院の建立が行われた場所がいくつかあります。

 例えば、群馬県前橋市の総社古墳群や千葉県栄町の龍角寺古墳群です。

 今のところの私の感覚では、そういう勢力はヤマト王権から優遇されて国造に任じられた勢力が多いと感じており、ソウジャ勢力の場合は上野国府の誘致も成功しています。

 逆に強大な勢力を誇った埼玉県行田市の埼玉古墳群の近くには古いお寺がなく、サキタマ勢力はヤマトから干され、行田に国府が置かれることはありませんでした。

 さらに、7世紀や8世紀の古代寺院の場合は、渡来系の人びとが果たした役割が大きいと考えており、ここ日高市は高句麗の遺民たちのメッカであり、そういうこともあって日高市内には3つも古代寺院が造られたのではないでしょうか。

 その3つのうちの1つが大寺廃寺跡です。

 通常、「大寺」と呼ばれた場合は、単に大きい寺ということではなく、国家により保護を受けている官寺のことを言います。

 説明板には高麗氏の氏寺ではなかったかと書かれていますが、氏寺でもあり官寺でもあるということになるでしょうか。

 この辺りには「大寺」という地名も残っています。



 ところで、変わった礎石ですね。



 安斉さんも気になっているようですが、こんな黄色い礎石は見たことがありません。



 遺跡としてはこれくらいしか見るものが無いので雷電號へ引き返します。

 農家の倉庫の横を通り、そこにいらっしゃった方に挨拶すると、「何しに来たの?」と聞かれたので、「上の遺跡を見に来たんです」と答えると、「結構遠くから見に来る人がいるよ」と言い、「ちょっと待ってて」とニヤリとしました。

 そして倉庫の奥の方に行き、戻ってくると「これあげるよ」と土器片を手渡してくれました。



 ※この時いただいたもの。

 畑作業をしていると見つかるそうです。

 布目が付いているので、これは瓦の欠片ですね。

 大寺廃寺に使われていたものでしょう。

 しばしの間、会話を楽しみお礼を言って辞去します。

 先ほどの方の話によると、来るときも渡ったこの川は入間郡と高麗郡の境界だったことがあったそうです。



 入間郡と高麗郡の境界は歴史的に見るとかなり動いており、どういうわけか、中世の頃になると高麗郡の領域はかなり東まで進出して川越に迫ろうかという勢いを見せます。



 それでは、食べ物屋さんを探しつつさらに北上しましょう。

 なかなかお店がないですねえ。

 あ、先に板碑に来ちゃった。



 毛呂山町の「嘉元の板碑」です。



 これはかなり巨大なのですが、単に板碑だけ写真を撮ると大きさが分からないので、いつもはS源寺さんに並んでもらっています。

 でも今日はいないので、代わりにオーメンさん、お願いします!



 でかいでしょ?



 なんと3.4mもあります!

 嘉元四年(1306)と刻されているのが分かりますね。



 同じ武蔵国内でも、東京都側にはこれほどの巨大板碑は存在せず、埼玉県側にはこういった巨大な板碑がこんな風に道端や境内に佇立してあることも多く、この事実の裏には重要な何かが潜んでいるような気がします。

 中世の板碑は全国にありますが、他の地域では自然石とさほど変わらないようなものもあって、武蔵の板碑が一番カッコいいかな。

 いろいろな歴史遺産のなかで、埼玉県が世界に誇れる(大げさ?)ものはこの板碑でしょう!

 これは中央にも負けない!

 と、他者と張り合っても仕方ありませんね。

 というか、そろそろ空腹の限界。

 雷電號に乗りこみ進発し、金子さんがスマホでラーメン屋を見つけてくれたのでそこへ行きましょう。

 到着!

 久しぶりのラーメンです。



 今日は寒いので味噌ラーメンがことのほか美味しい。

 そしてセットで付いてきた牛筋カレー。



 これもいける。

 カレーはカレーで普通に一人前なのでヴォリュームありますね。

 健康指導を受けているので本当はこんなに食べちゃいけないと思いますが、たまにはいいでしょう。

 私は自分に甘く、他人にも甘い。

 お腹いっぱい幸せ気分になったところで、午後の探訪を開始します。



 八高線の毛呂駅の近くにいるので、駅のすぐ近くにある独立丘に登ってみます。

 丘の上には出雲伊波比(いずもいわい)神社があるのです。

 坂道を登っていき、駐車場に駐機。

 おっとー、いきなり前方後円墳発見!



 古墳マニアはこの世のいたるところに古墳を見るのです。

 では参拝。

 安斉さんが「拝殿が参道の中心にないですね」と言ったので、正面に立つとなるほどそうです。



 なんでだろう?

 これは珍しい。



 拝殿。





 由緒書きもあります。



 なぜ武蔵には出雲の神様が多いんでしょうね?

 以前から気になっており、最近は少しずつ解明の糸口が掴めてきたような気がします。

 さらに、「いわい」というのが非常に気になるのです。

 字は違っても「いわい」という地名や神社は各地にあって、さらに福岡の筑紫君磐井も含めて「いわい」という言葉の本来の意味が気になっています。

 ところで、拝殿脇に弓矢の的のようなものがありましたが、ここは流鏑馬で有名なんですね。



 馬場がありました。





 流鏑馬は来週のようです。

 来週だったら人がすごくてここに来れなかったでしょうね。

 境内神社。



 本殿は塀で囲まれています。



 隙間から激写。



 あ、猫ちん。



 お昼寝中かな?



 モップの上に座っていて、なんか掃除のおばちゃんみたいで可愛いですね。



 同業者だ。

 ちなみに、モップは鎌倉時代にはすでにあったそうで、武士の館などの板敷きの床を掃除する際に、雑巾がけが楽になるように雑巾に柄を付けて拭いていたそうです。

 さて、雨は相変わらず普通に降っており、まったく止む気配はありませんが、この後は少し歩きますよ。

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出雲伊波比神社―毛呂山 (さきたま文庫)
柳田 敏司
さきたま出版会


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【歴史を歩こう協会 第3回歩く日 その3】謎の古墳・大塚古墳と在地の王を祀っているのか・雨武主神社鳥居場【東京都あきる野市】

2019-04-15 20:08:44 | 歴史探訪
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 瀬戸岡古墳群を見た後は、秋留台地を南下します。

 旧秋川市の中心部を歩きますが、この辺も掃除の仕事で散々来ています。

 一時は、毎週この近くの現場に来ていたので、昼飯を食べた後はあきる野市の図書館に行って資料の収集をしていましたよ。

 都道7号線を越えて路地に入ると、前方に墳丘が見えてきました。



 大塚古墳です。



 頂部を見ると多くの人びとが集まっており、何かの「祭祀」が行われているようです。

 上にはお稲荷さんが祀られているのでその関係でしょうか。

 おっ!

 説明板がない!



 悪意のある人に破壊されたのでしょうか?

 墳頂にいる方々の用事が終わって降りてくるまでの間、麓をまわって散策します。



 大塚古墳は円墳説のほか方墳説もありますが、現状みると方墳のように見えます。

 ただそれは後世の改変かもしれませんね。

 これだけの大型円墳もしくは大型方墳だとすると、古墳時代後期(6世紀)の築造と考えたくもなりますが、地元ではもともと「亀の形」をしていたと語り継がれています。

 そういう伝承があったり「亀塚」のような名称があったりするとなると、通常は前方後円墳が考えられますが、前方後方墳説も捨てがたいです。

 前方後円墳だとすると、多摩川流域最上流部の前方後円墳となり、現状の墳丘規模が33メートルですので、70mくらいの大型前方後円墳だった可能性もあります。

 そうなると4世紀の古墳かも知れず、帆立貝式だったら5世紀となるかもしれません。

 また、古墳時代前期にこの地にやってきた東海勢力が築いた前方後方墳と考えるのも面白いですね。

 ただし、古墳ではなくて古代の烽火台とか江戸期の富士塚とか様々な説も出ておりとても興味深いです。

 前方後円墳もしくは前方後方墳だったとすると、前方部は東側のこの辺りかな。



 墳頂にいた方々が下に降りたので、入れ替わりで私たちが登ります。

 上にはお一人残っていたので話しかけてみると、今日はこの神社の氏子が集まっての例祭日だったそうです。

 お話によると、氏子さんたちはこの古墳のすぐ近くではなく、少し離れた睦橋通りの方にいて、昔はこの辺一帯は一面の野原だったそうです。

 そういわれると周辺の住宅は新しいお家が多いですね。

 そして、下の説明板ですが、あれは破壊されたわけではなく、書かれていた内容が古くなってしまったので市が新たな研究成果をもとに説明板を設置しようとしているのですが、それが進んでいないということです。

 さらに面白い話として、大塚古墳の南には秋川が流れていて、その秋川の対岸の山には雨武主(あめむしゅ)神社が祀られています。

 雨武主神社はその名前がとても気になっており、以前から行きたいと思っていたため今日は対岸からそれを拝む鳥居場へ行って見ようと思っているのですが、地元では雨武主神社は「天の神」で、ここ大塚古墳の神様は「地の神」といわれているそうです。

 いやー、面白いですねえ。

 私はヤマト王権が各地へ進出する前に祀られていた在地の神様について非常に興味があるのですが、それを考える一つの素材をいただくことができました。

 他のメンバーもそれぞれ地元の方々と話をして収穫があったようです。

 安斉さんは、亀の形だったという話が聞けたようです。

 前方部があったと思われる東の方向を墳頂から見下ろします。



 ただ、オーメンさんが聞いた話では、その後調べてみても前方部の形跡は見つかっていないということで、謎が深まりますね。

 ※帰宅後、航空写真を見てみたところ、前方部があったとしたら西側ではないかと思ったりもしましたが、東側は少し墳丘が伸びており(真ん丸になっていない)それが前方部の名残のようにも見え悩ましいです。

 ※現状でも古墳の周りの道は円を描いており、そうなると前方後円墳のように見え、現在の道路は周溝の名残に見えますが、昔の説明板には周溝の跡はみつかっていないと書いてありました。
 
 ※なお、以前設置してあった説明板はこれです。



 先ほど見た瀬戸岡古墳群もそうだし、この大塚古墳もそうですが、あきる野市の古代史も面白いですねえ。

 大塚古墳に関しては、あきる野市の正式な発表が待ち遠しいです。

 ではつづいて、雨武主神社の鳥居場へ行って見ましょう。

 南へ向かって歩いていくと、秋川の段丘縁まで来ました。

 おー、いい眺めだー。



 前方に少し目立った濃い色の森がありますが、あそこに雨武主神社が鎮座しています。

 鳥居が見えました。



 こちらですね。



 先ほども言いましたが、雨武主神社という名前が非常に気になります。



 この辺は雨間(あめま)という地名なのですが、秋川を挟んで両岸に雨間地名は残っています。

 そのため、対岸は八王子市と思いきや、対岸の雨間地区はあきる野市なのです。

 昭和46年(1971)4月1日に、八王子市高月町切欠を当時の西多摩郡秋多町へ編入し、秋多町雨間の一部を八王子市に編入したという事実もあり複雑です。

 しかし、「あめま」だったり「あきる」だったり、はたまた「せどーか」だったり、なんか現代の日本語とは違う感じがしますね。

 私は雨武主神社の「あめむしゅ」は「あめむ」の「しゅ(主)」という意味で、「あめむ」と「あめま」は語源が一緒ではないかと考えます。

 この地は昔から「あめま」または「あめむ」と呼ばれており、この地の王を祀ったのが雨武主神社ではないかと思うのです。

 さきほど大塚古墳の墳頂で氏子の方から聞いた話のなかで、天の神と地の神というのがありましたが、実は一瞬、私は違和感を覚えたのです。

 というのも、天と地で言うのであれば、古墳の墳頂の神様が天の神(つまりヤマト王権が来てから祀られた神)で、山に祀られている雨武の神が地の神(元々の在地の神)ではないかと直感したからです。

 ただこれは私の直感であり、地元の方の話の方が信用度が高いかもしれませんね。

 さて、この場所には一見、立派な神社があるように見えます。



 でも本殿は無いのです。



 つまりは、遙拝所のような形なわけですね。

 前方に雨武主神社の森が見えます。



 この石碑の文字は解読できませんでした。



 あちらに「雨武の神」がいらっしゃるわけです。



 よくある話で、家から近いため「いつでも行ける」と思っていてなかなか行けていない場所です。

 七曲りも見えますね。



 展望台のようなものが見えますが、給水塔だそうです。



 上流の眺望。



 いやー、あきる野の古代史も面白いですね。

 ここは川岸のせいかとても風が強いですが、まだ天候は持ちそうです。

 引き続き歩いてみましょう。

 (つづく)

*     *     *


 実は当日もう一点おかしいなと思ったことがありました。

 鳥居場が向いている方向が正確に雨武主神社を向いておらず、やや東に振れているからです。

 帰宅してから地図を確認すると、鳥居場はむしろ、神奈川県大磯町の高来神社の本殿へ向かっていました。

 もしかすると、鳥居場から雨武主神社を遙拝するというのはカモフラージュで、本当は大磯に祀られている渡来系の神を遙拝しているのではないでしょうか。

 これはあくまでも推測です。 

東京の古墳を歩く<ヴィジュアル版>(祥伝社新書222)
大塚初重
祥伝社



 

 


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【歴史を歩こう協会 第3回歩く日 その2】7世紀に相模湾に上陸した渡来人が北上した痕跡か・瀬戸岡古墳群【東京都あきる野市】

2019-04-15 18:33:01 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 「なか卯」での昼食だったため、食べた後に長居することができず、あまりゆっくり休憩することができませんでしたね。

 急がせてすみませんが、午後の探訪を開始しますよ。

 時刻は12時40分。

 オーメンさんと遠藤さん夫妻と合流し、瀬戸岡(せどおか)古墳群を目指します。

 私が以前こちらに見に来たときは、説明板の場所と石が積んである箇所は確認できました。

 まずはその場所へ行って見ましょう。

 ここは古墳「群」ですので、広範囲に古墳が散らばっており、こういう場所では説明板を探すのが難しいことがあります。

 以前来た時も車で細い路地をグルグル回ってようやく見つけた記憶があります。

 あ、ありました!



 東京都の黒い看板ですね。

 瀬戸岡古墳群は、北を平井川、南を秋川に挟まれた南北2㎞ちょっとの秋留台地(地元では秋留ッ原と呼びます)にあるのですが、面白いのはその立地で、秋留台地の北側の平井川方向の斜面に展開しているのです。



 もちろん台地の北側斜面に古墳を造るのは珍しくないですし、瀬戸岡古墳群の多くの古墳は平坦な台地面にあるのですが、どうせであれば日当たりのよい南側斜面の方が良いと思うのです。

 平井川の南側段丘上には瀬戸岡古墳群のほかにも原小宮古墳群があり、対岸にも草花古墳群が展開し、多摩川流域ではこの場所がほぼ最上流の古墳となります。

 少し斜面を降りてみましょう。

 のどかな風景が広がっています。



 そして所々、川原石が積まれているところがあり、古墳の残骸だと思われます。



 以前来たときはここまで見て帰ったのですが、今回はオーメンさんが下見をしてくれており、石室が露出している場所も突き止めていてくれています。

 なので、そこも行って見ましょう。

 大岳山と御岳山が綺麗に見えますね。



 南側の広い道路を渡り、住宅街の中をニョロニョロ歩いていくとありました!



 これが見たかったのです!



 瀬戸岡古墳群が築造されたのは7世紀代とされ、つまりは終末期の古墳ですね。

 約50基あったそうです。

 古墳の中には須恵器でできた奈良時代の骨蔵器がみつかったものもありますが、それは奈良時代に石室がお墓として再利用されたときのものと考えられています。



 このように横穴式石室のみが残っているわけですが、瀬戸岡古墳群では現在は墳丘を見られる古墳はありません。

 もともとは墳丘があったらしいのですが、どうやら土を盛って造った普通の墳丘ではなく、川原石を積み上げて造った積石塚であったと考えられています。

 それらの中で唯一石室を見ることができるのがこれなわけです。

 おそらく、古墳ビギナーの方はこれだけだとあまり面白くないかもしれませんが、マニアになるとこの貴重さがよく分かるのでこれを見て歓喜することでしょう。

 多摩地域ではほかにもこういう感じで石室だけが展示されている古墳があるのですが、瀬戸岡古墳群や昭島市の浄土古墳の大きな特徴は、地面よりも低い面に石室があることです。



 ※昭島市の浄土古墳

 通常、古墳(高塚古墳)というのは墳丘に覆われていますが、その土の中を覗いてみた場合、普通であれば石室の位置は地面よりも高い場所にあるのです。

 それが地下にあるというのはどういうことなのでしょうか。

 石室を地下に造るか地上に造るかというのは、かなり大きな文化の違いです。

 そして川原石の積石塚だとすると、あきらかに渡来人の墓だと私は思うのです。

 ただ、研究者の中にはこの地がたまたまそういった石が豊富に取れる場所なので、その環境のせいでこの地域独特な墓制が生まれたと言う方もおられるのですが、現在のところ私はその説には従えません。

 そうだとしたら、列島各地の同じような環境の場所には同じような古墳ができるはずですが、それが見当たらず、もしこれが現地独特の墓制だとすると、それはそれでヤマト民族でもなく渡来系でもなく「第3の民族」の墓となってしまうのではないでしょうか。

 なお、大塚初重さんはこのような状況を鑑みて、古墳と認めていないそうですが、そうすると「第3の民族」浮上でしょうか。

 渡来系の人びとの墓という線で見てみると、5世紀、群馬県高崎市の観音丘陵にいち早く渡来系の人びとが進んだ文化を携えてやってきて、当地の豪族の下で活躍したのですが、当地の剣崎長瀞西遺跡も丘陵の北側に位置しているのが気になります。

 この会では前回(3月3日)、埼玉県日高市を探訪していますが、高麗郡は渡来人によって造られた郡であり、その建郡の際にリーダーとなった高句麗の王族の高麗若光は、相模湾の大磯に上陸して、そこから北上しています。

 ⇒そのときの記事はこちら

 大磯から日高市へ行く道の途中にちょうどこの秋留台地が展開しており、高麗郡の建郡は716年なので瀬戸岡古墳群の築造時期はそれよりも前になりすが、相模湾に上陸したのち北上した渡来人の足跡の一つと見ることもできるのではないでしょうか。

 まだまとまった話はできませんが、あきる野市では渡来系の匂いがするので、今後も調べてみようと思います。

 ではつづいて、大塚古墳へ行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら


古代高麗郡の建郡と東アジア (古代渡来文化研究)
高橋 一夫,須田 勉,日本高麗浪漫学会
高志書院




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【歴史を歩こう協会 第3回歩く日 その1】青梅市郷土博物館/鹿島玉川神社/小作堰管理橋【東京都青梅市】

2019-04-15 11:09:37 | 歴史探訪
 昨日(4月14日)は「歴史を歩こう協会」の「第3回 歩く日」を催行しました。

 天候がちょっと心配でしたが、晴天とはいかなかったものの風も冷たくなく、快適に歩けました。

 本日はその様子をごく簡単にご報告します。

*     *     *


 今回の集合場所は青梅駅です。

 青梅には掃除の仕事でたまに来るのですが、電車で来たのは初めてです。

 ホームにはレトロな待合室が。



 改札を出てみると、おや、まだ誰もいない。

 まずはセブンに行って朝ご飯を買い、戻ってくるとオーメンさんがいました。

 今回、オーメンさんは事前下見をしてくださっており、パンフレット類を全員分集めてきてくれていたのです。

 ありがたいですね。

 おや、懐かしいマーク。



 青梅駅前には長崎屋があったんですね。

 そのうち皆さんが徐々に集まってきましたが、二人来ない!

 どうやら乗る電車を間違えてしまったようです。

 青梅に来る電車は本数も少ないので、ひとまず現在集まったメンバーで出発しましょう。

 最初の目的地は青梅市郷土博物館です。

 遅れてくるお二人は、駅に到着次第、土地勘のあるオーメンさんが連れてきてくださるということで出発。

 駅からまっすぐ南下していくと、多摩川の対岸に「かんぽの宿」の建物が見えてきました。



 博物館はあの近くです。

 お、桜はまだ少し見れますね。



 この場所は多摩川が大きく「Ω」の字に蛇行している場所で、面白い場所です。





 博物館に到着!



 今日は企画展示はやっておらず、2階へ行って常設展示を見ます。

 ここの売りの一つはこれ!



 159㎝!

 国内で2番目の長さの石棒が青梅で見つかっているんですね。



 石棒好きには堪りません。

 でも、あまり「石棒が好きだ」と言っていると変態だと思われる可能性もあるので、それほど強調しないようにしています。

 これはその形状からして男性の物を表現していると考えられ、考古学者は子孫繁栄に関する祭祀で使用されたものではないかと説明することが多いです。

 縄文土器も数は少ないですが良いものがありますよ。



 市内駒木野遺跡で出土した縄文中期の深鉢です。

 2階で説明していると後続が到着し、これで予定通り13名となりました。

 今回の参加者は、

 ・大森さん
 ・小林さんさん
 ・オーメンさん
 ・S源寺さん
 ・安斉さん
 ・金子さん
 ・池上さん
 ・岸本さん
 ・遠藤さん夫妻
 ・スーさん
 ・稲用

 そして、初参加として、上の縄文土器が造られた時代から代々4500年もの間、勝坂の集落に住み続けている女性(かなり推測)を含め13名です。

 今回は多摩地域での開催ということもあり、多摩の人間が多いこの会としてはいつもより参加者が多くなったのかなと思います。

 では、1階へ移動します。

 1階にはこちらの目玉のもう一つとして、B-29と飛龍のエンジンが展示してあります。

 B-29のエンジン。





 日本陸軍の四式重爆撃機「飛龍」のエンジン。





 飛龍の模型。



 ここで軍事マニアのオーメンさんからB-29について簡単に説明していただきます。

 私も飛行機は好きなので、オーメンさんの解説はいつも勉強になります。

 こういう話を聴いていつも思うのは、日本とアメリカの技術力や工業生産力の差です。

 あまりにも差が激しいので、こないだの戦争はやはり日本にとってはかなり難しいものでしたね。

 解説が終わると、スーさんが「この中で、B-29を見たことがあるひと?」と皆さんを見渡しました。

 さすがに誰もいません。

 でもスーさんは何度も実機を見ているのです。

 例えば、東京大空襲の時、下町に住んでいたスーさんは間一髪で生き延びたそうで、日本の戦闘機が上昇して行って、B-29の高度まで行けずに引き返したり、高射砲がB-29編隊よりも下の高度で炸裂しているのも実際に見ているわけです。

 八王子大空襲も経験して、終戦間際には自身もP-51の機銃掃射でやられそうになったこともあったそうで、戦後の朝鮮戦争の時は、横田基地から飛び立つB-29を見上げていたそうです。

 こういった実体験に基づく話が聞けることは貴重ですね。

 さて、それではここからはしばらく歩きますよ。

 博物館を出て、多摩川の段丘を急な階段で登り、吉野街道に出ました。

 ここから東へ向かい、満地峠を越えてあきる野市を目指します。

 この道は車では掃除の仕事で数えきれないくらい通っていますが、歩くのは初めてです。

 経験上、歩いていると何か面白いものが見つかることが多いので、あらかじめの調査によってとくに見るべきものは無いことは分かっているのですが歩いてみます。

 歩き出してすぐ、前方にハッピ姿の人びとが見え、山車も見えました。

 「上長渕」と書かれています。

 今日はお祭りなんですね。

 さらに歩いていると、今度は「下長渕」の山車が見えました。

 博物館から2㎞弱歩き、掃除の仕事の際にたまにお昼ご飯を食べる台湾料理屋さんの前に到着。

 ここから山の方を見ると鳥居が見えるのですが、今まで気にはなっていたものの一度も訪れていませんでした。

 今日はお祭りをやっていて賑やかしい雰囲気です。

 寄ってみましょうか。



 鹿島玉川神社っていうんですね。



 鹿島って、あの鹿島かな?

 警備員の方が「この辺は昔は調布村といってね、今日はこの辺一帯みんなお祭りをやってるんだよ」と教えてくれました。

 調布と言うと多摩川下流の調布市が思い出されますが、現在でもこの辺りには橋の名前で「調布」という名前が残っていたりします。

 「調」というのは古代の税のことで、税として布を納めたということで地名として残っているわけですね。

 説明板がありました。



 創建年代については実際かどうか分かりませんが、ちょうど平将門の乱の頃ですね。

 ちなみに、この辺の戦国領主であった三田氏は将門の子孫を標榜しています。

 あー、やっぱり祭神はタケミカヅチだった。



 こちらには将門と戦った源経基の名が見えますね。

 拝殿。



 宮司は玉川さんって言うんですか。



 玉川上水を造った玉川兄弟のご子孫?

 境内には八雲神社もあります。





 付近を見て戻ってきた金子さんが「ビール売ってないですねえ」と言い、確かに一見した感じでは出店の前にビールはないですね。

 もう11時なので、出店を眺めていたらお腹が鳴りました。

 岸本さんも「たこ焼きのタコが大きそう」というので、冗談で「ここで昼飯にしましょうか?」と言いましたが、串に刺さって焼かれている肉がこれまた美味そうで、それを売っているおじさんも「そろそろランチタイムだよー」と声を発しています。

 今日は満地峠を越えるのに路線バスを使う予定ですので、その時刻の都合もあってあまり長居できません。

 ここからは明治時代の地図を参考にして少しの間旧道を歩きます。

 旧道の脇は小川になっており、安斉さんが「ハヤがいますよ」と言ったので見下ろしてみると、小さい魚が群れをなして泳いでいるのが見えました。

 しかしここまで歩いてきて、今日は石仏一つ見つかりませんね。

 そう思っていると、ようやく馬頭観音に巡り合いました。



 見ての通り新しそうな形状をしており、横を見ると実際に昭和時代に造られたものでした。

 現在の吉野街道から分岐する道の横にあります。



 この道も古い道かな?

 単なる散歩のようになっていますが、博物館を出て約1時間半後、恵明学園前のバス停に着きました。

 ここまでですでに5㎞歩いています。

 バスが来るまでの間に多摩川の流れを見てきましょう。

 この辺もよく車で通っており、じっくりと多摩川を眺めてみたいなあと以前から思っていたのです。





 ところで、この橋は何の施設でしょうか?



 あー、なるほど、堰になっていますね。



 小作堰管理橋です。

 そういえばこの水門から上流は満々と水を湛えていますが、下流は一変して水の量が少ないですね。



 面白い・・・

 ※帰宅後、Webで調べたところ、多摩川の流れはこの小作堰によって左岸(上流から見て左側)に寄せられ、もう一本の農業用水に分岐しています。

 ここまで歩いてきて遺跡を見ることはできませんでしたが、午前中の探訪の最後に面白いものが見られましたね。

 なお、この辺の道は歩いてきた吉野街道の続きですが、名称は滝山街道となっています。

 あ、バスが来た。

 満地峠を越えてあきる野市側へ入たっところでもうお昼の時間になりました。

 池上さんは午後から所用があるということで、このままバスに乗って秋川駅まで行くそうでお別れです。

 今晩飲めるメンバーが一人減ってしまいましたね。

 いや、この会は別にそれが目的ではありませんよ。

 残る12名は瀬戸岡で降車。

 オーメンさんと遠藤さん夫妻はお弁当を食べるということで平井川の方へ向かい、残る9名で「なか卯」に入りました。

 混雑していましたが、何とか全員席に着くことができました。

 あー、お腹ペコペコ。



 炭火で焼いた鶏肉の親子丼、美味しかった。

 では、午後の探訪を始めましょう。

 今日は午後の探訪がとくに面白くなる予定ですよ

 ⇒この続きはこちら

多摩の歴史遺産を歩く―遺跡・古墳・城跡探訪
十菱 駿武
新泉社



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邪馬台国の所在地を考える上では三角縁神獣鏡の問題が大きくのしかかってきてこれがまたよく分からないのです

2019-04-07 17:56:52 | 歴史コラム:原始
 今日は日がな一日、こんなものをメモりながら日本の古代国家について考えていました。



 ベースは白石太一郎先生の編年です。

 数字がたくさん書いてありますが、以前クラツーの古墳講座の時にお話ししたことを今日はさらに深く考えていたわけです。

 まとまったらまたお話しいたします。

 ところで、2世紀の終わり頃、現在の福岡県糸島市にて平原王墓が築造されました。



 正確には、平原遺跡にある平原1号墓ですね。

 平原王墓は墳丘長の長辺14m✕短辺10.5mの長方形をした方形周溝墓で、私はクラツーでのご案内などで十数回訪れています。

 ここからは破砕された銅鏡が40面も出土しており、古代中国では女性のみが使用する耳璫(じとう=ピアス)も見つかっていることから、女性のシャーマン的な要素を持った伊都国王が葬られていたのではないかと言われています。

 ちなみに私は、一般的に言われているような男性が世俗の政治権力を行使し、一方女性が巫女的実務をこなしたというような明確な分業による二頭体制が普通であったとは考えておらず、ケースバイケースで、シャーマン的女性が巫女であると同時に王として政治権力を握り、戦となれば軍勢を率いて戦場に立ったこともあったと考えています。

 古墳時代前期の被葬者の半分が女性であったり、日本書紀に女性の酋長が戦う記述が出てくることから(神功皇后もそうですね)、この状況は古墳時代前期まで続いたと私は考えています。

 さて、北部九州に歴史めぐりで行かれたことがある方は、博物館や資料館でたくさんの銅鏡を見ると思います。



 ※直径46.5㎝もある国内最大の銅鏡のレプリカ(内行花文鏡<ないこうかもんきょう>=伊都国博物館にて撮影)

 弥生時代中期後半以降、北部九州の諸勢力は中国大陸から競って鏡を輸入し、日本人の鏡好きは当時の中国人もよく理解していたようなニュアンスが魏志倭人伝では読み取れます。

 それが弥生時代の終わりごろには鏡は伊都国に集中されるようになり、平原王墓が築造された時点では、その被葬者が北部九州中の鏡を一人独占したような状況となっていました。

 平原王墓以降、あれだけ鏡が好きだった北部九州の諸勢力がほとんど鏡を持たなくなるわけですね。

 平原王墓の被葬者が卑弥呼であるという説もありますが、時代的にはちょっと合わないです。

 原田大六さんは天照大神の墓だと確信されました。

 2世紀の終わりごろというと、中国の歴史書がいうところの「倭国大乱」の時代です。

 西暦107年、倭国王帥升等が後漢王朝に出向いていますが、帥升は奴国の王と考える人と伊都国の王と考える人がいます(松木武彦さんは吉備の楯築墳丘墓の被葬者と考えており、他にも諸説あると思います)。



 ※岡山県倉敷市の楯築墳丘墓

 この問題は57年に下賜された金印の問題とも絡んでくるわけですが、北部九州に度々訪れている私の感覚では、確かに奴国は経済的な強国ではあっても、魏志倭人伝を読む限りでは、やはり伝統的にもっとも政治権力が強かったのは伊都国ではなかったかと考えます。

 ですので、帥升は伊都国の王であり、諸王を率いた代表者として大陸に渡ったのではないでしょうか。

 そうなると、金印の読み方も「漢のイト国王」と読む説を支持することになるかもしれません。



 ※国宝の金印(福岡市博物館にて撮影)

 それでは、平原王墓の被葬者が誰か考えてみようと思います。

 世代的には帥升の子か孫当たりになると思いますが、当時はまだ世襲制があったとは考えられないものの、以下の仮説を考えてみました。

 (1) 2世紀後半、帥升の孫の世代に当たる女性が伊都国の女王であった時代、中国大陸にて184年に起きた「黄巾の乱」の影響は極めて重大で、東アジア全体で政情が不安定となり、倭国内においてもいわゆる「倭国大乱」の混乱状態が惹起された。

 (2) その際、伊都国の女王は諸王をうまく調整することができず混乱状態が続いた。

 (3) やがて大乱は収束へ向かっていった。

 (4) そして、諸王の話し合いの結果、最終的には強力なシャーマンでもあった伊都国の女王に責任を取ってもらうとともに後継者を共立することでまとまり、倭国の政情が落ち着いた。

 (5) 伊都国の女王の責任の取り方は、すなわち「死」であり、後継者は卑弥呼であった。

 以上の背景があり、平原王墓に伊都国の女王が葬られたのではないでしょうか。

 その際、鏡の呪力を信じていた諸王がそれぞれ鏡を持参し、女王が死後にその呪力で諸王たちを祟らないように鏡を破砕して、死後一定の儀式を行い埋葬したと考えます。

 遺跡で見つかっている柱跡の遺構はそのときの儀式の形跡でしょう。

 もしかすると、卑弥呼は殺害された平原王墓被葬者の一族の娘だったかもしれません。

 王の世襲は無かったかもしれませんが、特殊能力である霊能力に関しては特定の家系の人物がそれを継承するというケースは各国で見られるためこのような想定ができますし、魏志倭人伝によると卑弥呼の後継者となった台与は卑弥呼の一族の娘です。

 さて、諸王に共立された卑弥呼ですが、彼女は魏志倭人伝に書かれているところの「邪馬台国」と呼ばれる一種の庁舎のようなものを築造し、そこで呪術を使いながら諸王の調整に当たったと考えます。

 三国志の編者である陳寿は「邪馬台国」という国家を連想されるような用語を使用していますが、それは三国志が編纂された当時の政治情勢が背景にあり、晋国の司馬王朝の実質的な太祖である司馬懿の功績を大きく持ち上げるためにねつ造された、「幻想の国家」であったと私は考えます。

 人口が7万余戸(人口にすると35万人くらいか)というのはどう考えても多すぎますし、そもそも一体どこの誰が日本の人口調査をしたのでしょうか。

 もし、中国から来た役人がやったとしたら、それは日本が中国の植民地であったことになってしまいますし、当時の倭国の諸王が果たして人口調査をしたのでしょうか。

 私は邪馬台国がなかったと言っているわけではありません。

 私の考える邪馬台国とは、現代人がイメージする領土を持ち国民を抱えた団体ではなく、既述した通り、卑弥呼が諸王の調整のための政務を見る庁舎のようなものと考えており、それは実際の遺跡的には小さな環濠集落の可能性もありますし、吉野ヶ里遺跡の北内郭(やそれに類するもの)であっても良いのではないかと考えているわけです。



 ※佐賀県の吉野ヶ里遺跡

 話がなぜか邪馬台国に行ってしまいましたが、そもそも私は鏡のことを話したかったのでした。

 魏志倭人伝では、卑弥呼は100枚の銅鏡を下賜されています。

 日本人の鏡好きを知っている中国皇帝の粋な計らいなわけですね。

 昔はこの100枚が各地で出土する三角縁神獣鏡ではないかと考えられたこともありましたが、あまりにも多くの三角縁神獣鏡が出てしまった今となっては、話はそう単純ではありません。

 三角縁神獣鏡に関しては、今でもそれが中国製なのか仿製(国産)なのか決着がついていません。

 中国から1枚も出土していないことから(不確かなものは見つかっていますが)、国産ではないかと考えることもできますが、中国で生産したものはすべて日本にプレゼントしてしまったと考える研究者もいるわけです。

 倭国の青銅器の製造技術は低くなかったわけですから、最初にもらった100枚を真似して、国産化したということは考えられないでしょうか。

 これ以上は現在の私の知識では手に負えない問題ですが、既述した通り、北部九州での銅鏡の大量埋納は平原王墓で終焉を迎えます。

 その後は、三角縁神獣鏡が日本各地の古墳や遺跡から見つかるようになるわけですが、三角縁神獣鏡に関しては、その分布の中心は畿内なわけですね。

 ですから、この辺の事実から邪馬台国東遷説を補強することもできるわけです。

 現在のところ私は東遷説は支持しておらず、邪馬台国を盟主とする北部九州の諸王の連合は、形を変えつつもその後も続き、その最終形態が筑紫君磐井の統治だと考えています。



 ※磐井が造らせた岩戸山古墳(福岡県八女市)

 つまり、6世紀前半に継体大王が磐井に喧嘩を吹っかけて武力で滅ぼしたことにより、ようやく北部九州はヤマト王権の完全なる支配下に入ったと考えているわけです。

 かと言って、古田武彦さんの九州王朝説を支持するわけでもありませんが、それを頭から否定するのはおかしいですし、よく吟味して正当に評価すべきだと考えます。

 さて、話を鏡に戻して、新たな鏡の中心地となった畿内ですが、当時の畿内で勃興したのがヤマト王権ですね。

 そしてヤマト王権の中心は纒向遺跡だったと考えています。



 ※纒向精機

 これは多くの方々と同意見かもしれませんが、実は纒向遺跡はまだ全体の2%しか調査されておらず、分からないことがたくさんあるのです。

 でもまあ、ヤマト王権の実際の証拠としては、奈良盆地内にある巨大古墳の数々をみれば、そこが王権の墓域であったことは間違いないと思いますが、肝心かなめの大王の宮殿跡が、纒向遺跡をのぞくと、21代目の雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と考えてられている朝倉の脇本遺跡まで一つも見つかっていないので、ここは「ヤマト王権は大和でなかった!」と言いたい方には良い突っ込みどころかもしれません。



 ※雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡にある春日神社

 また話がずれましたが、三角縁神獣鏡に限ってみると、奈良県天理市の黒塚古墳から33面、京都府木津川市の椿井大塚山古墳から36面以上も出ており、その時代の列島各地の古墳から出土するものと同范(同じ鋳型で作ったもの)が多数含まれています。



 ※黒塚古墳墳丘



 ※黒塚古墳展示館の実物大石室模型

 黒塚も椿井も3世紀後半の古墳ですが、同じ頃の九州からはあまり多くの三角縁神獣鏡は見つかっていません。

 少ない中でも見つかったその一つが福岡県福岡市博多区の那珂八幡古墳です。



 ※那珂八幡古墳

 ただし、那珂八幡古墳は「纒向型前方後円墳」と呼ばれる形状のもので、黒塚よりも前の築造です。

 確かに量的には北部九州より畿内の方が断然多いのですが、北部九州は鏡の本場ですし青銅器の製造技術が高かったので、既述した通り当初は魏から下賜されたものがベースにあったにせよ、そのほとんどは北部九州産であり、北部九州勢力のヤマト王権に対する最も価値の高い輸出品だったのではないでしょうか。

 奈良盆地のどこかでも北部九州のどこかでも三角縁神獣鏡の製造工場跡が見つかれば面白いんですが、あまりにも謎が多くてついつい推測ばかりになってしまいます。

 でもそれが古代史の楽しいところなわけです。

 結局今日は鏡について考え始めたのによく分からないままとなってしまいましたが、邪馬台国がどこにあったかのかを考えるためには、やはり最低でも奈良の纒向遺跡と北部九州の魏志倭人伝の国ぐには訪れてみたほうがいいでしょう。

 クラツーにて私が両方ともご案内していますので、よろしければクラツーの公式サイトを見てみてください。

 ⇒纒向ツアーはこちら

 ※纒向のツアーでは上に掲載した写真のうち、纒向遺跡と黒塚古墳が含まれています

 ⇒北部九州の吉野ヶ里その他のツアーはこちら

 ※吉野ヶ里のツアーでは、上に掲載した写真のうち吉野ヶ里遺跡や岩戸山古墳のほか福岡市博物館、平原王墓、伊都国博物館も含まれています

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【神奈川古墳探訪 その1】今となっては実態の解明は困難な相模の王墓・ホウダイヤマ古墳【神奈川県厚木市】

2019-04-07 09:08:30 | 歴史探訪
 昨日の土曜日(4月6日)は、神奈川県の相模川流域の古代史ツアーをご案内してきました。

 今回はいつもの古墳特集ではなく、旧石器・縄文・弥生の遺跡をめぐってきましたよ。

 お昼は珍しく私がリクエストしたお店で、相模原市南区当麻にある川魚料理の「飄禄玉(ひょうろくだま)」でした。

 メインはマスの唐揚げ。



 昔、沖縄料理屋でグルクンの唐揚げをよく食べましたが、こういうのは多分20年近く食べていませんでした。

 丸ごと全部食べられて、揚げ方も絶妙で美味しかった。

 鯉のあらい。



 川魚の刺身と言うと癖がありそうですが、これはまったくそういうものを感じず美味しかったですよ。

 鯉と言えば、昔食べた秋田の鯉の甘露煮は美味かったなあ。

 そして味噌汁も絶妙。



 とろろ芋がついていたので、ご飯をお替りしてしまいました。

 こういった料理が苦手なお客様には申し訳ありませんでしたが、多くのお客様が喜んでくださり私も安心しました。

 個人的にもまた行きたい^^

 ということで、18名様のご参加ありがとうございました。

 今回の相模川シリーズの続編もありますので、またのご参加をお待ちしております。

 さて、このツアーに先立って、4月2日(火)に直前下見に行ってきました。

 本日はその時の様子の一部を簡単にご報告いたします。

*     *     *


 今日は4月6日のツアーの下見に行きますが、ついでなので近辺の古墳を見てこようと思います。

 相模川中流部にはこのように古墳が展開しています。



 それでは雷電號で出発。

 最初はまず勝坂遺跡の駐車場の確認をしにいきます。

 雷電號や徒歩で行ったことがありますが、駐車場の入口が狭いため、万が一バスが入れなかったときのことを考え、近辺で路駐できる場所も探しておきます。

 まずは、駐車場の入口がある道路へ左折する交差点の確認。



 中型バスで来る予定ですが、角度や道幅はもちろんのこと、高さだったり、樹木が道路にはみ出ていないかなどを確認し、標識も確認します。

 トラックは左折できませんが、バスは大丈夫ですね。

 こういうのを見落とすと当日面倒なことになるのです。

 駐車場の入口。



 こちらも幅や進入角度などを見ておきます。

 私自身大型車は運転しないので確実な感覚は持っていないのですが、ここはちょっときつそうなので、念のため近辺に停められそうな場所を探しに行きます。

 というわけで、一通り調べは付いたので、古墳めぐりに移行しましょうか。

 ※ツアー当日、この日の心配は杞憂に終わり、ドライバーさんはスルっと駐車場に入れてくれました(ツアーが成功するかどうかは意外とドライバーさんの人柄や技術に掛かっていたりするのです)

 まずは厚木市のホウダイヤマ古墳へ向かいます。

 古墳は「ぼうさいの丘」公園にある、というか、あったようなので、ぼうさいの丘公園を目指します。

 あった、という過去形は古墳なので当たり前かもしれませんが、ホウダイヤマ古墳は墳丘は残っていないのです。

 墳丘の残っていない古墳を見に行って何が楽しいのかと思われるかもしれません。

 もちろん古墳本体も重要ですが、古墳の立地や周辺地形、眺望、反対に古墳が周囲からどういうふうに見られるかなどの景観を確認することは非常に重要ですし、その場の「空気」を吸うこともとても大切です。

 その場所に行くことにより、古代の王から何かしらのインスピレーションをいただけることもあります。

 あ、私は霊能者ではありませんよ。

 いつものごとく、ナヴィに脳内を支配されながら7時半に「ぼうさいの丘公園」に到着。



 確かに丘の上だ。

 公園の案内図を確認。



 古墳は公園最高所の「季節の丘」にあったそうなので、そこを目指します。

 こちらに向かってくる間も気になっていましたが、今日は山々が綺麗に見えます。

 大山さん、今日もお綺麗ですね。



 桜もちょうど見頃です。



 あら、孔雀さん、おはよう。



 遠くに説明板らしきものが見えます。



 ここが最高所ですので、この辺に古墳があったんでしょう。

 説明板。







 ホウダイヤマ古墳は以前から気にはなっていたものの、自宅から近いこともあって逆になかなか訪れませんでした。

 ところが、先日私の講座やツアーによく来てくださる方から「ホウダイヤマ行ってきましたよ!」とお話をいただき、内心「しまった!先を越された!」と思い可及的速やかに探訪せねばと思っていたわけです。

 いや、来てみるとやはりここは非常にいい場所ですね。

 古代の王墓の立地として最高です。

 相模川流域ですと、左岸の海老名市にある秋葉山古墳群が東海に出自を持つ当地方最初の王で、なおかつ、関東諸王の中ではいち早くヤマト王権に協力した様子がうかがえるのですが、立地からするとホウダイヤマの王の方が権力的には上だったのではないかと思います。

 ただ、説明板に書かれている通り、ホウダイヤマはこのような姿になってしまい、詳細は分かりません。

 秋葉山古墳群の編年はこのようになっています。



 ※現地説明板を撮影

 秋葉山古墳群の中で、もっとも大きな古墳である1号墳の墳丘長は59mで、ホウダイヤマ1号墳とほぼ同じです。

 仮に秋葉山1号墳の築造時期が4世紀前半でホウダイヤマ1号墳が4世紀後半だとすると、4世紀の半ば頃、秋葉山勢力が力を落としてホウダイヤマ勢力が相模川流域の覇権を握ったとも考えられなくもないですが、秋葉山古墳群のすぐ南には同じ座間丘陵上に上浜田古墳群があり、その中で最も大きな墳丘長80mと推定される瓢箪塚古墳がもしかするとホウダイヤマ1号墳と時期的に被るかもしれません。



 ※現地説明板を撮影

 だとすると、4世紀後半の時点で、相模川流域の両岸にそれぞれ上浜田勢力とホウダイヤマ勢力が並び立っていた様相が想像できます。

 私の印象では神奈川県は古墳の調査があまり活発ではないように思われ、かつ、超重要な古墳が次々と破壊されてしまった印象があります。

 そのため、古代史像を組み立てようとしてもなかなか難しいところがあります。

 まあ、愚痴を言っても過ぎたことは仕方がありませんから、現在残った資料で神奈川県の古代史像を少しでも明らかにしていきたいと思います。

 こちらが2号墳かな?



 さっきは逆光だったので東側に回って撮影。



 ホウダイヤマの王も崇めたであろう大山。



 本当にこの場所は気持ち良い!



 少し北側の眺望。



 東側の眺望。



 このわずかな丘が前方後円墳に見えてしまいます。





 ビールを飲みながら花見でもしたい気分ですが、そうも行っていられないので次へ行きますよ。



 おや、今度はウサギさん。



 警戒して腰、というか前脚を浮かせた!



 大丈夫、何もしないよ・・・

 子供が遊ぶ遊具も揃っていますね。



 駐車場まで戻ってきました。



 それでは次は地頭山古墳へ向かいますよ。

 (つづく)

神奈川の古墳散歩
相原 精次,藤城 憲児
彩流社




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【クラブツーリズム】梵天山古墳群の高山塚と円塚は実は一基の双円墳か?【茨城の古墳ツアー】

2019-04-01 14:17:08 | 歴史探訪
 新しい元号が発表されましたね。

 意表をついて久しぶりに4文字だったら面白いなと思いましたが、オーソドックスな2文字で「令和」に決まりました。

 皆さん、パソコンの辞書にはすぐに登録しましたか?

 「令」の字はいままで使用されたことがない文字で新鮮ですし、「和」は「昭和」を思い出させる字で、聖徳太子が言ったとされる「和を以て貴しとなす」を思い出させる良い字だと思います。

 さて、いろいろ言いたいことはありますがこの辺でやめて、昨日(3月31日)まで1泊2日で茨城の古墳ツアーをご案内してきました。

 このツアーはコースを造った私的にもとてもお勧めのツアーで、関東の装飾壁画の中でも非常に珍しい彩色系が残るひたちなか市の虎塚古墳の壁画公開日に合わせて設計しました。

 なので、次回やるとしたら秋の公開日になると思います。

 今回は15名様のご参加をいただきました。

 皆様、ご参加ありがとうございました!

 すでに壁画は見たことがあるという方が何名もいらっしゃいましたが、他にあまり知られていなくて、かつ公共交通機関では行きづらい茨城の古墳を多数めぐりますので、そういうところに興味をもって参加してくださったようです。

 おそらく、目玉である虎塚は既に見ているので参加する必要が無いと思う方が多いと予想し、そういう中でもわざわざ来てくださる方はかなりのマニアであるわけですから、そういった方々に喜んでいただけるようによくよく考えてコースを考えたわけです。

 ということで、今回のお客様はほとんどがリピーター様でしたので、いつもとは違う要素を入れてみました。

 クラツーなのに「歴史を歩こう協会」(旧:東国を歩く会)の要素を入れてみたのです。

 つまりは、私も行ったことがない場所をぶっつけで歩いて、皆様と一緒に古墳を探すという試み。

 ぶっつけといっても、旅行会社で行っていますから、常識から逸脱しない範囲での行動ですよ。

 何をしたのかというと、2日目最後の梵天山古墳の探訪が終わった後、予定よりも少し早めだったため、徒歩で行ける近辺の古墳群を歩いてみたわけです。



 説明板の図を見ると近辺には多数の古墳があります。



 先日もこのブログにチョロッと書きましたが、3号墳と4号墳という二つの円墳が、実は一つの双円墳である可能性があるそうなのです。

 もし双円墳であれば国内を見渡しても極めて珍しい例となるため、それを確かめるべくお客様と一緒に森の中を探索しました。

 皆様と周辺図を見ながら、あーだこーだ言いながら散策。

 面白いですねえ。

 これが問題の古墳で、右が3号墳(高山塚)で左が4号墳(円塚)です。



 角度を変えて、手前が4号墳で奥が3号墳。



 確かに一つの双円墳に見えなくもないですが、皆様と実物を見て話し合った結果、別じゃないかなあという声が多数聴こえてきました。

 別に多数決で決めるわけではありませんが、おそらく別の円墳でしょう。

 もし双円墳であればそれはそれで非常に面白い資料ですから、できることなら双円墳であって欲しいですね。

 いやー、面白い。

 ところが、双円墳云々を抜きにしても、この3号墳は巨大ですよね。

 見た感じだとかなり大きく、もしかすると直径は80mくらいはあるんじゃないでしょうか。

 国内屈指の巨大円墳でしょう。

 このことが「古墳業界」のなかで話題にならないのはおかしいですね。

 今後何か分かったら皆様にフィードバックします。

 というわけで、このように古代のロマンについて皆様と話して楽しめるところもこういったツアーの醍醐味だと思います。

 なお、今回宿泊したホテルは水戸駅南口のダイワロイネットホテルだったのですが、朝ご飯はビルの1階にある居酒屋「はなの舞」と提携しており、意外と美味しかったです。



 私的にはここの朝食は好きだな。

 クリームシチューが特に美味しかった。

 外観は普通の居酒屋ですね。



 ところで、先月はクラツーのツアーは11日稼働しました。

 関東各地、奈良、九州、いろいろ行けて楽しいですよ。

 福岡へは今年になってからすでに3回行っていますが、今月から7月までは月に1度行くことが決まっており、その後も多分行けると思います。

 ということで、今日は仕事がお休みなので、その福岡の古代史を調べつつダラダラと過ごしています。

 鏡が気になって仕方がない・・・

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