日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【奥州古代史探索 3日目 その2】青森県八戸市・是川縄文館【めくるめく「縄文美」の世界へ】

2018-07-29 21:33:15 | 歴史探訪
 この投稿で本日は最後にしようと思います。

 そして本日最後もやはり縄文時代です。

 今日の夕方は来週行く、東北古代史ツアーの下見の事前調査をしていました。

 盛岡でレンタカーを借りて、2泊3日で岩手・青森・秋田をめぐり盛岡まで戻ってきますよ。

 さて、古代東北ツアーも楽しみですが、鳥取・島根の古代史ツアーもおかげ様で催行が決定しました!

 「歴史への旅」の7月10日号の8ページの中段に掲載されているツアーです。



 2回設定していますが、10月27日(土)出発分が催行決定ですよ。

 ついに山陰地方への進出も果たせます。

 参加申し込みをしてくださった皆様、本当にありがとうございます!

 ということですが、今回の記事は話を戻して青森県の遺跡です。

 遺跡というか、博物館ですね。

 青森県八戸市にある「是川縄文館」です。

 詳細は後述しますが、この施設は非常に素晴らしい・・・

 先日書いた岩手県一戸町の御所野遺跡探訪の続きとなりますので、御所野遺跡の記事をお読みになりたい方は先にどうぞ。

 ⇒前回の記事はこちら

 それでは行きますよ。

*     *     *


 御所野遺跡を出て再び高速に乗り、糠部地方を北上します。

 途中、二戸や軽米といった、昔たぬさんと一緒に城館跡めぐりをした地域を通過していきます。

 九戸城も二人で行ったころとはだいぶ変わったようですね。

 八戸市内に入り、高速道路の終点まで行き下道に降りますが、ここはもう、たぬさんの地元。

 カーナヴィは要りません。

 途中、江戸期の一里塚の近くに来ましたが今日は割愛します。

 一里塚も大好きなんですが、優先順位を重視です。

 御所野遺跡を出て約1時間で是川縄文館に到着しました。



 ここにもずっと前から来たかったんだよな~。

 それでは入りましょう。

 常設展示室のある2階へ上ります。

 おっと、いきなり幻想的な演出だ。



 縄文時代の色といえば、やはり赤と黒ですね。

 今度はカラフル。



 最新型の博物館はカッコいいですね。

 では展示物を鑑賞しましょう。

 お、漆塗り製品がいきなり登場です。



 是川中居遺跡出土の逸品で、上が弓、下が飾り太刀で両者とも重要文化財です。

 飾り太刀の方は実用品ではなく祭祀用と考えられています。

 つづいて女性のおしゃれに欠かせない櫛と耳飾り。



 こちらも赤漆塗りの重文!

 土器もいいねえ。



 ところで、この部屋はもはや博物館ではなく美術館ですね。



 土偶もたくさんいますよ。

 全部を紹介するとまるでカタログになってしまうので、とくに好きなものを羅列します。

 いやいや、どうも初めまして。



 うちの職場にもあなたに似ている人いますよ。



 あらまあ。



 お洒落な上着ですね。



 はい、おっしゃる通りです。



 土偶と会うと私は自然と対話モードに入るので、周りから見ていると気持ち悪いと思います。

 ほかにもたくさんの魅力的な土偶たちがいるので、土偶ファンの方はぜひご来館ください!

 こういった用途不明の土器もあります。



 不思議だ。

 今度は是川縄文館における土偶の「ナンバー2」の地位にある頬杖土偶さんです。



 風張Ⅰ遺跡からいらっしゃったこの方ももちろん重要文化財の重職にあります。

 ところで、ナンバー1は誰かって?

 それはのちほど。

 風張Ⅰ遺跡から出土した素晴らしい土器が並んでいます。

 深鉢形土器。



 こちらも重文。

 いや、もう重文だらけですから、一々言わないことにします。

 これも深鉢形土器。



 素晴らしい・・・

 他の器形もあります。



 いやー、本当に素晴らしいですね。

 外から来た私が絶賛しすぎるので、たぬさんは訝しく思っているかもしれませんが、本当に凄いですよ。

 赤漆塗りの製品を復元するとこんな感じになります。





 さきほど、御所野遺跡でも赤漆塗りの復元土器を見ましたが、こういったものが数千年前の縄文時代にはすでにあったんですよ。

 日本人は凄い!

 ところで、縄文時代からだいぶ下って、古代の展示もありました。



 中央でいうところの飛鳥時代から奈良時代、そして平安初期の青森県地方にも大変興味がありますが、文献史料はほぼないので、こういった遺物をもとに歴史を組み立てていくしかありません。



 でも、その作業もとても楽しいですよ。

 というわけで、是川縄文館の土偶の中でトップの地位にある方が自室にいらっしゃるので訪ねてみましょう。

 はい、国宝の合掌土偶さんです。



 私はお会いするのは2度目ですが、覚えていてくださっていますでしょうか?

 風張Ⅰ遺跡で姿を現したときはこうでした。



 あー、楽しかった。



 世界遺産を目指し、このようなパネル展示もあります。



 ところでもうお昼を過ぎているので、昼飯はここで食べましょうか。

 1階には食堂やミュージアムショップがあります。

 おっ、せんべい汁がある!

 しかもカレーとセット!



 うーん、美味い。

 そうえいば昔、たぬさんに連れて行ってもらった八戸の居酒屋で食べたせんべい汁も美味しかったなあ。

 というわけで、念願の是川縄文館に来ることができて大変嬉しかったです。

 しかも、個人的には絶不調期から立ち直り、まったき健康体になって再びたぬさんと史跡めぐりができたのが何よりも嬉しかったです。

 午後は私は三内丸山遺跡へ行くので、ここでたぬさんとはお別れです。

 私の仕事の参考になることもたくさん教えていただきありがとうございました。

 名残惜しいですが出発します。

 (つづく)

*     *     *


 先日の御所野遺跡の記事でもお伝えしましたが、クラブツーリズムにて8月と9月に是川縄文館も併せてご案内します。



 9月の方は満席となってキャンセル待ち状態ですが、8月の方がまだお席があるようですので、興味のある方はどうぞいらしてください。

 また、9月の別日で紺野洋子先生がご案内する回もまだお席があるようですので、そちらもよろしくお願いいたします。

 ⇒クラツーの当該ページはこちら

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【東京都文京区】サトウハチロー旧居跡/弥生式土器発掘ゆかりの地(弥生町遺跡)/弥生二丁目遺跡

2018-07-29 14:14:10 | 歴史探訪
 東京都内の縄文・弥生時代の遺跡の中で、国史跡の指定を受けているのは9か所あります。

 9か所の内、8か所が縄文時代です。

 ・大森貝塚(大田区)

 ・中里貝塚(北区)

 ・椚田遺跡(八王子市)

 ・船田石器時代遺跡(八王子市)

 ・高ヶ坂石器時代遺跡(町田市)

 ・下布田遺跡(調布市) 

 ・西秋留石器時代遺跡(あきる野市)

 ・下野谷遺跡(西東京市)

 残る1か所は弥生時代の遺跡で、「弥生土器」のネーミングのもとになった弥生町遺跡の隣にある弥生二丁目遺跡です。

 上述の遺跡の内、中里貝塚と西秋留石器時代遺跡、それに下野谷遺跡はまだ現地を訪れていませんので、これでは恥ずかしくてマニアとは自称できませんね。

 ちなみに、都内には旧石器時代の国指定史跡は一つもありません。

 それでは、今回は弥生二丁目遺跡の探訪レポートをご報告しますが、当該遺跡は昨年(2017年)、クラツーのツアーでお客様をご案内しています。

 それに先立ち、同年2月26日に下見に出かけており、今回ご報告するのはその時の様子です。

 なお、上のリストの内、ハイパーリンクが付いているのはこのブログ内か別にやっている私のホームページの当該探訪ページにリンクしていますので、よろしければ見てみてくださいね。

*     *     *


 根津神社に参拝し、次は弥生土器発見の地を目指します。

 西側の台地へ登りますよ。



 階段を登っても、まだ先には一段高い台地が見えます。



 何か説明板がありますよ。



 サトウハチロー旧居跡だ!



 なぜ驚くかというと、昔、岩手県北上市によく行っていたのですが、当地には「サトウハチロー記念館」があるので、名前だけは私の中で有名人なのです。

 でもどんな職業の人かは知らず、顔を想像するとどうしても佐藤蛾次郎さんになってしまうという体たらくでしたが、詩人だったのですね。

 失礼いたしました。

 言問い通りに出ると、目的とする石碑が見えてきましたよ。



 横断歩道を渡って確認します。

 よし、見っけ!



 ここにはこの石碑と説明板があるだけですが、東大の武田先端知ビルに違う説明板があるようです。





 せっかくなので、そちらも見てみましょう。

 ところで、文京区はこういった説明板が立っていていいですね。



 さて、武田先端知ビルに来ましたが、大学の敷地ってオープンになっているところが多いですよね。

 無許可で入っちゃっていいのかなあ・・・

 念のため誰かに断ろうと思い、敷地内をウロウロしてみますが、人っ子一人おらず、むしろウロウロしている方が不審者っぽいですよね。

 まあ、さきほどの説明板に「自由に見学できる」って書いてあったからいっか。

 お、説明板発見!





 もう少し奥まで行ってみましょう。

 お、これは!



 こんなところに弥生二丁目遺跡の説明板が!



 ここは武蔵野台地の突端部分で、結構比高差があります。





 あまり長居するのは何となく気がひけるので引き揚げます。

 また何かありました。



 向岡記(むかいがおかのき)碑で、水戸藩の徳川斉昭の自撰自書だそうです。



 さすが我が国の最高学府ですね。

 これくらいの校正はお手の物です。



 それでは、このまま引き続き上野公園を目指して歩きましょう。

 (つづく)

「弥生時代」の発見―弥生町遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
石川 日出志
新泉社
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【近代日本考古学の出発点】大森貝塚【モース博士と相沢忠洋さんが通信対戦!?】

2018-07-29 13:01:45 | 歴史探訪
 今日は引きこもりDayなので、さきほど素麺を茹でて缶ビールを飲みながらランチを済ませました。

 こういう怠惰な日もたまにはいいですね。

 ところで、私は歴史ツアーを企画して現地をガイドする仕事をしていますので、日本各地の著名な遺跡のほとんどを探訪しているように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。

 元々は城マニアで、古代史などの別の時代の遺跡や寺社仏閣を訪れるようになってからはまだ10年くらいしか経っておらず、しかもマイカーを手に入れてまだ2年ですし、経済的に困窮していることもあり遠くの遺跡にはなかなか行けません。

 たまたま、仕事の関係で最近は徐々に全国各地にフィールドが広がってきて、ようやく少しは知見が広がってきたような状況です。

 そのため、なるべく機会を設けて、著名な遺跡は見ておこうと心掛けているのですが、今年の1月4日に、大森貝塚を見てきました。

 有名な遺跡なのに、生まれて初めて行ったわけです。

 今回はその時の様子を簡単にレポートします。

*     *     *


 電車に乗って大森駅に到着しました。

 東口には以前、Princess Puddingの「海賊姫」のPV撮影のために知人のスタヂオに行ったことがありましたが、今日は西口に降りました。



 累計で2度目の降車となります。

 大森貝塚に関しては予備知識はほとんどありませんが、歴史探訪の際はむしろ予備知識がない方が楽しめるような気がします。

 ただ、大田区側と品川区側の2ヶ所に見るべき場所があることは知っていますので、まずは大田区側から見てみようと思います。

 ちなみに、大田区の大田は古い地名ではなく、戦時中まであった大森区と蒲田区が昭和22年にくっついて大田区になったんですよ。

 池上通りを北上し、ほどなくNTTデータ大森山王ビルに到着しました。



 大森貝塚の2ヶ所のポイントの内の一つですね。



 「大森貝墟碑」の説明です。



 現在では貝塚と呼ばれますが、当時は貝墟だったんですね。

 発起人の欄には著名な歴史家の方々の名前が並んでいます。

 日中であれば石碑の見学ができるようです。



 中へ潜入してみましょう。

 お、ビルの壁に説明板がありますよ。



 モース博士のことが書かれていますが、モース博士は研究だけでなく人格も優れていたようですね。

 会いたかったなあ。

 ところで、この説明板が作られたときはNTTはまだ日本電電でした。

 奥まった線路際には写真で見たことのある碑が立っていました。



 そっかー、昨年は発見140周年だったんですね。



 まずは一つ見ましたので、次は遺跡公園を目指します。

 歩道の床には縄文土器が描かれています。



 歩いていると道端に説明板を発見しました。



 凄いですね、個人の電話番号まで書いちゃいました。

 もちろん、今は通じないので安全ですよ。

 池上通りを振り返ります。



 あ、ここはもう大井6丁目なので品川区に入っていますね。

 大森貝塚の公園に到着しました。



 大森駅からここまでダイレクトに歩いてくれば10分も掛からないですね。

 そうか、ここは公園ではなく庭園なんですね。





 モース博士がいらっしゃいました。



 ちなみに、群馬県みどり市の岩宿遺跡では同じようなスタイルの相沢忠洋さんにお会いできます。



 お二人を並べると、最新の土器型および石器型の端末で対戦ゲームをしているようにも見えませんか。

 多分それは「発掘ゲーム」で、敵キャラとしてF村氏が登場して発掘現場を混乱させます。

 品川区はモース博士の出身地である米国のポートランド市と姉妹都市なんですね。



 では、庭園内を散策しましょう。





 おや、この施設はなんでしょう?



 入口の案内図でいうところの「④貝塚展示ブース」ですね。





 弥生時代や奈良時代の遺物もでているということで、それも詳しく知りたいです。



 遺跡庭園の東側には京浜東北線などの鉄路がありますが、ここから北上していくと、都内では北区までずっと縄文時代の海岸線になります。



 つまりは、西から延びる武蔵野台地の東の突端部分ということになり、家康の江戸城もこの地形を上手に活用して造られています。

 「⑨貝塚学習広場」に設置してある説明板はかなり充実していますよ。



 こちらの絵は実年代に関しては最新研究とずれていますが、土器のデザインの傾向を掴むのにはとても分かりやすいと思います。



 縄文時代と現代とは、だいぶ海岸線の位置が違いました。



 他にもまだまだ説明板が並んでいて、読み応えがあります。





 というわけで、なかなか楽しい公園でした。

 「⑨貝塚学習広場」に設置してある説明板のお陰で知識が深められるところも魅力の一つですね。

 さて、ここからさらに池上通りを北上すると品川歴史館があるのですが、今日は1月4日ということでまだオープンしていません。

 そしてさらに北上すると古代の東海道に繋がるのですが、今日はここから東へ向かい、続いて鈴ヶ森の刑場跡へ行ってみようと思います。

 (つづく)

日本考古学の原点・大森貝塚 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
加藤 緑
新泉社
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【多摩地域の熊野神社】小平市仲町熊野宮・立川市高松町熊野神社・町田市高ヶ坂熊野神社・高ヶ坂石器時代遺跡(稲荷山遺跡)

2018-07-29 10:21:50 | 歴史探訪
 今日はお掃除の仕事もクラツーの仕事もありません。

 しかも、前回お話しした通り、妻も出張に行っていていないので、普通であればこういう日はお外へ飛び出して史跡めぐりをするところですが、まだ台風が収まっていないので、今日は政所に逼塞して歴史をしていようと思います。

 というわけで、ブログを更新しようかなと思い過去の探訪時の写真を見ていたら、意外と多摩地域内の熊野神社には何か所も探訪していることが分かり、今回の記事は熊野神社三連発および縄文遺跡とします。

 それでは行きますよ。

*     *     *


 1.熊野宮(小平市仲町)

 青梅街道の小平近辺は仕事でしょっちゅう通るのですが、そのたびに青梅街道に面している仲町の熊野宮の鳥居が気になっていました。

 今日はたまたま午後のお客様がこの近くですので、昼休憩時に寄ってみましょう。



 青梅街道へ向かう参道。



 説明板もありますね。



 では、境内に失礼します。





 思っていたより境内は広いです。

 社殿。



 拝殿の前には立派な2本のケヤキが仲良く立っています。



 こっちから見たほうがいいかな。



 これは「こだいら名木百選」に選出されており、樹齢は250年から300年くらいということです。



 普通は登らないと思いますが・・・



 でも子供ならやりかねないですね。

 こちらにももう一つ説明板が。



 今でもこの近辺には小川さんがたくさん住まわれていますね。

 この近辺を開拓した小川九郎兵衛(くろべえ)は、元和8年(1622)に生まれ、 寛文9年(1670)に亡くなっています。

 小平市だけでなく、武蔵野台地は水の便が悪く、江戸初期までは不毛の地が多かったのですが、玉川上水や野火止用水などが開削された後、ようやく畑作ができるようになりました。

 一方、宮﨑さんも立川市域の五日市街道沿いに邸宅を見かけたことがありますので、今でも地元の有力者でしょうか。

 『新編武蔵風土記稿』「巻之百二十八 多摩郡之四十 小川新田」の項によると、この辺りは「一本榎」という小字で、ここの南側は「榎尻」と呼ばれ、玉川上水の堀の端は「三家」と呼ばれていました。

 境内神社もあります。



 社の向かって右側には以下の神様が祀られています。



 左側には単体で「祖霊社」とあります。

 稲荷神社もありますよ。



 しかし、いつも通る近くにこんな立派な神社があったんですねえ。



 普段、車だと素通りしてしまいますが、こういう発見は楽しいものです。



 いやー、この2本のケヤキはいいですね。



 2.熊野神社(立川市高松町)

 朝、エアコン掃除をするために立川市内をお客様のもとへ向かっていると、広い敷地の神社を見かけました。

 気になったので午後の現場へ向かう途中にチョロッと寄ってみます。



 熊野神社ですね。





 創建は享保11年ということなので1726年ですね。

 手水舎のところにあるこの看板、すごく気になる!



 私と同世代な雰囲気がします。

 ※ところで、この探訪の跡、クラツーのツアーの下見で千葉県成田市の麻賀多神社へ行ったら同じ看板があったのです!



 ※何か、神意のようなものを感じ身が震えました!

 石碑を見てみましょう。





 「大國魂神社宮司謹書」とありますね。



 狛犬ちゃん!





 この木は何でしょう?



 へー、ハガキの木ですか!



 面白いですね。

 3.高ヶ坂熊野神社

 町田市内には高ヶ坂という地名があり、「こがさか」と呼ぶのですが、以前はよくお掃除にお伺いしていました。

 今は他の加盟店との兼ね合いで私たちの縄張りではなくなったので、紹介とかリピートとかでしか行かなくなりました。

 高ヶ坂には高ヶ坂石器時代遺跡という国指定史跡があることは以前から知っていたのですが、なかなかタイミングが合わず探訪することができませんでした。

 ところが今日はたまたま近くの現場だったため、コンビニで昼休憩を取るついでに、走って遺跡を見てきましょう。

 大体の位置は分かっているんですが、遺跡が見つかりません。

 おや、神社だ。

 熊野神社ですね。







 今日は時間がないので急ぎます。

 4.高ヶ坂石器時代遺跡(稲荷山遺跡)

 熊野神社から出て走り回っているとようやく見つけることができました。

 ここです!



 戦前はまだ縄文時代の住居跡が見つかることが珍しかったので、その当時に見つかった縄文住居跡は「○×石器時代遺跡」という名前で国指定史跡になっていることがあります。

 「石器時代遺跡」という名前はややこしいのですが、これは旧石器時代ではなく、ヨーロッパでいうところの新石器時代、つまり日本では縄文時代のことです。

 そして大概は現在の遺跡はショボい(言い方が悪くてスミマセン)感じになっていることが多いのですが、ここはちょっとした史跡公園のような感じがしていいですね。



 ガイダンス施設かな?



 いや、違うようです。

 配石遺構もありますよ。



 高ヶ坂石器時代遺跡を構成する3つの遺跡の一つである稲荷山遺跡ですね。



 急いで車まで戻らないといけないのでゆっくり遺跡を楽しむことはできませんが、意外と良い遺跡で楽しかったです。

 『新編武蔵風土記稿』「巻之九十 多摩郡之二 高ヶ坂村」の項によると、高ヶ坂は応永18年(1411)と永享7年(1435)の文書に室町将軍が鹿王院領として寄進したとあるそうです。

 なぜこの周辺に将軍家の土地があったのかはまだ調べていませんが、何かご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。

 また、同書には熊野神社についての記載もありますが、上の説明板に書かれている以上のことは記されていません。


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【いまスイスに行ってます】八国山たいけんの里・下宅部遺跡・東村山ふるさと歴史館【東村山ミニ歴史探訪】

2018-07-28 23:50:03 | 歴史探訪
 木曜日から妻はお仕事でスイスというヨヲロッパのお国へ行っています。

 たまに素敵な写真が送られてくるので転載します。



 高尾の周辺とか、たまに行く福岡とか岩手ではあまりこういう景色は見れないですよね。



 高尾には猿や猪はいますが、羊さんはいません。

 この綺麗なお山は高尾山よりも高いでしょうか。



 徳川幕府の政策を踏襲して鎖国政策を取っている高尾幕府の政所別当の私からすると、外国に行くこと自体が驚きですし、夷語が分からない私は外国で仕事をするなんて想像しただけで卒倒しそうです。

 大したものだなあ。

 あ、でも、クラツーのツアーでは近いうちに外国に行くかもしれませんよ。

 歴史のためでしたら高尾幕府としても特例措置を講じることもやぶさかではありません。

 さて、妻がスイスで奮闘している間、私は東村山市の遺跡を見てきました。

 話題はスイスから東村山へ・・・

 グッと身近な話になって安堵されたでしょうか。

 本日はそのときの様子をごくごく簡単にご報告します。

*     *     *


 1.八国山たいけんの里

 まず初めにやってきたのは「八国山たいけんの里」という施設です。



 今回のテーマは下宅部(しもやけべ)遺跡なんですが、こちらには下宅部遺跡から出土した遺物が展示してあるということなので来てみました。



 ではさっそく展示を見てみましょう。

 お、籠の遺物。



 「8号編組製品」という専門的な名前になっていますが、復元するとこういう感じになるようです。



 素敵ね。

 立派な木製品も出ています。



 こちらは、7号水場遺構から出土した第23号杭です。

 酸性土壌の日本では一般的な遺跡の場合、籠や木製品などはとっくに溶けてなくなっているのですが、下宅部遺跡は低湿地だったためこういったものが残っているのです。

 湿地帯だと水で溶けてなくなりそうに思われるかもしれませんが、逆なんですね。

 そして下宅部遺跡の一番の売りが「漆」です!



 こういったパネル展示も丁寧でいいですね。



 下宅部遺跡では植物利用の研究材料も豊富に出ています。



 土器が並んでますよー。



 たのしいー。

 配石墓も見つかっています。



 縄文時代の遺物のスターといえば、呪術関連!

 土偶と石棒大集合!





 あなたたち、いい顔してるねえ。



 この部屋はまるで収蔵庫のようですね。



 こういう配慮は素晴らしい。



 縄文時代以外で面白いのは、瓦塔です!



 お菓子じゃないですよ!



 宅部山遺跡からこの立派な瓦塔(ただし破片)が出たのですが、非常に貴重なものだったので本物は国家に持っていかれてしまいました。

 レプリカはこのあと「東村山ふるさと歴史館」で見れると思います。

 上の説明にもある通り、この瓦塔の一部分がなぜか下宅部遺跡から出ているんです。



 なんででしょう。



 というわけで、まず最初に遺物を見てしまいましたが、このあと、実際の遺跡地へ行ってみます。



 遺跡地は「下宅部遺跡はっけんのもり」という名前の公園になっているようです。

 周辺マップ。



 ではお外に出ます。

 2.下宅部遺跡はっけんのもり

 遺跡へ向かうためにいったん北川の対岸に渡ります。



 5分くらい住宅街を歩いていくと目の前に公園が現れました。



 ここでしょう。

 でもこちら側の入口は裏口のようですね。

 正門へ回ってみます。

 当時の川の再現があります。



 はい、正門!









 小さな公園ですが、さきほど「たいけんの里」で読んだ通り、工夫を凝らして作っていますね。

 トイレはあります。

 駐車場はないですが、バスを一時的に停めてお客様を乗降させる場所もあります。

 ふふふ・・・

 では、いったん「たいけんの里」へ戻りましょう。

 公園内には水場遺構が再現されているということでしたが、現在はよく分からなくなっています。



 3.東村山ふるさと歴史館

 つづいてやってきたのは、東村山ふるさと歴史館です。



 思ってたより立派な施設です。

 廊下部分には下宅部遺跡の展示がありますよ。

 おーっ、この丸木舟すごいですね。



 未製品ということですが、なかなかのものです。



 そしてやっぱり漆!









 いいねえ。

 ちょうど今は夏休みということで、子供用の展示を別室でやっています。

 自分が生まれ育った場所ではなくても、こういった写真ってなぜか懐かしくていいですね。



 この写真、気になる・・・



 何が気になるって、中央に単体で映っている人物はその大きさからして生身の人間ではなく銅像か何かだと思いますが、なんで掲示板のようなものの裏手にあるんだろう・・・

 もし生身の人間だったら随分と大柄な方ですね。

 それではメインである常設展示室へ行きましょう。

 展示は郷土資料館などでよくあるのと同じ形態で、旧石器時代から近代まで時系列に展示されています。



 具体的な遺跡名が書いていないのが残念ですが、いいナイフ形石器ですね。



 縄文時代の「塩」についても興味があるのですが、分かりやすい説明がありました。



 人間は塩が無いと生きていけませんが、製塩をするのは縄文時代からです。



 では、2万年前とかの旧石器時代はどうしていたかというと、私の想像では狩った動物の血液がその代わりだったのではないかと思っています。

 間違っていたらゴメンナサイ。

 さきほど下宅部遺跡まで歩いて、その帰り道に日向北遺跡の場所に寄ってみましたが、標柱などは見つけられませんでした。

 日向北遺跡からもいい土器が出ていますねえ。



 律令時代の展示では東村山市内も通過している東山道武蔵路をきちんと押さえてありました。



 東山道武蔵路や国分寺については、9月にクラツーでツアーをしますよ。

 そして先ほども出てきた瓦塔。



 既述した通りレプリカです。



 チョコレートでこれを造ればガトーショコラになるので、東村山市の特産品として「瓦塔ショコラ」を開発してみてはいかがでしょうか。

 ・・・多分、心では思っても恥ずかしくて誰も提案できないのかもしれませんね。

 そこを何とか!

 この板碑も有名ですね。



 こちらもレプリカです。



 今日はS源寺さんが一緒にいないのが残念だ!

 そのせいで大きさがいまいち分からないと思いますが、都内で最も大きい板碑なのです。

 最後に、こういった歴史も知っておいてください。





 展示室全景。



 なかなか楽しい資料館でした。

 この周辺は見どころがまだまだたくさんあるので、東国を歩く会で歩きたいなあと思います。


縄文の漆の里・下宅部遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
千葉 敏朗
新泉社
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【奥州古代史探索 3日目 その1】岩手県一戸町・御所野遺跡【北東北の縄文時代がよく分かる遺跡】

2018-07-27 23:08:58 | 歴史探訪
 昨日はお掃除で東村山市の現場に行ったのですが、たまたますぐ近くに下宅部(しもやけべ)遺跡という縄文時代の有名な遺跡があったため周辺をチョロッと見学してきました。

 その時の様子は後日アップすると思いますが、本日は同じ縄文時代の遺跡である岩手県の御所野遺跡をご紹介します。

 今年の4月13日から15日にかけて仙台を発して青森まで探訪し、そのときの様子は一部このブログにアップしていますが、御所野遺跡にはその探訪の3日目に訪れました。

 ⇒この時の探訪記事を最初から読む場合はこちら

*     *     *


 昨日の夜は、八戸のたぬさんと、遠野のとらねこさんと一緒に物凄く久しぶりに酒を飲むことができました。

 二人と一緒に岩手・青森の城館跡を訪ねていたのは、もう10年以上前のことです。

 その後、私は体調が悪い時期が長かったこともあり、奥州の城跡めぐりもしなくなり、今回は健康体に戻って久しぶりに盛岡へやってきました。

 昔の懐かしい思い出やその後の辛かった時期を思い出すと非常に感慨深いです。

 さて、今日は青森県域に入り、最終的には三内丸山遺跡を見てから東京へ帰ろうと思っていますが、八戸に帰るたぬさんに途中まで同乗をお願いしました。

 地元の方が一緒だと心強いですしね。

 盛岡のビジネスホテルで簡単な朝食を済ませ、まずは一戸町にある御所野遺跡を目指します。

 昨夜も飲みながら久闊を叙しましたが、全然話し足らず、一戸へ向かう車の中でも話が尽きません。

 たぬさんとは元々はお互いのホームページを通じてWeb上で知り合いましたが、その時はまだ20世紀だったはず。

 初めて一緒に館跡めぐりをしたのは2001年5月4日で、まだ新幹線が開通する前の二戸駅で待ち合わせ、午前中は軽米町の館跡を見て、昼は南郷村で蕎麦を食べ、午後は八戸市内の館跡をめぐって最後は八戸市内で打ち上げをしました。

 それ以来、2006年8月12日まで、何度も一緒に館跡をめぐったわけです。

 当時の私の興味はまだ戦国時代メインだったのですが、たぬさんは縄文時代にも興味を持っていたように記憶しています。

 そしてようやく私もたぬさんに追いつき、今日は初めて二人での縄文遺跡めぐりとなったわけです。

 9時半、御所野遺跡に到着。

 微妙に雨が降っていますね。

 それでは、御所野縄文公園に行ってみましょう。

 お、雰囲気のあるエントランス。



 私は初めての探訪です。



 歩きながら足元が不安定だなあと思ったら、これは「きききのつりはし」という吊り橋なんですね。



 結構高さがありますよ。



 高所恐怖症の人は下を見てはいけません。



 御所野縄文博物館の入口に到着しました。



 ワクワクしますねえ。

 それでは中に入ります。

 ミュージアムショップもある立派な施設ですが、まずは展示室1「焼けた住居の発見」へ入りましょう。



 御所野遺跡は縄文時代中期後半(4500~4000年前)の集落跡です。

 縄文時代中期というと縄文時代で一番華やかだった印象があり、非常にバブリーな感じがするのですが、その雰囲気にやや陰りが出てきたころの遺跡ですので、どんな遺物が出ているか楽しみです。

 ※上の説明には建物跡が600棟以上見つかったとありますが、2015年3月発行の『御所野縄文博物館 常設展示図録』には、800棟以上とあります。

 これは素晴らしい深鉢型土器だ・・・



 パネル展示は分かりやすく、かつ詳細に書かれています。



 竪穴住居は土屋根だった?



 展示室2は「御所野縄文ワールド」。



 配石遺構も見つかっているようです。



 窓の外には遺跡が・・・



 あとで行くよ・・・

 階段で2階へ上がり、展示室3「火と祭り」へ入ります。

 おおっ!

 これはかの有名な・・・





 重要文化財ですぞ!

 でも御所野遺跡ではなく、同じ一戸町内の蒔前遺跡から見つかったものです。



 他にも蒔前遺跡から出土した重要文化財が目白押しです。

 皿型土器。



 何に使ったんでしょうね?

 鉢型土器。



 右は壺ですが左側はなんでしょう。



 土偶もありますねえ。

 縄文ぼいん!



 そっかー、ボインって母の印のことだったのかー。

 いやいやそんな訳は・・・

 それはともかくとして、この「縄文ぼいん」は、町内の椛ノ木(かばのき)遺跡から出土した土偶で、縄文時代後期のものです。

 というわけで、重要文化財が並ぶ素晴らしいこの部屋には御所野遺跡以外の町内の遺跡から出土した優品が展示してありますよ。



 縄文以外の展示もあります。



 何と!

 ここで「九戸政実の乱」関連のものを見れるとは!





 文書の右側の人名の羅列は、九戸城を攻めた豊臣政権の武将たちですね。

 右から、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政、蒲生氏郷でしょう。

 戦国時代の城館跡としては、たぬさんとは今から14年前の2004年4月30日に南から浪打峠を越えて糠部に入り、一戸城跡や姉帯城跡をめぐりました。

 ●浪打峠



 ●一戸城跡



 ちょうど桜が咲いていましたね。

 ●姉帯城跡



 堀跡を藪漕ぎしましたねー。

 懐かしい思い出ですが、話を縄文時代に戻しましょう。

 縄文時代にはすでに漆が実用化されていましたが、漆が塗られた縄文土器は当時はこのような美しい姿だったに違いありません。



 漆を採取してから器に塗るまでの工程は現在とほとんど変わらず、すでに縄文時代には完成の域に達していました。

 世界遺産登録を目指しております!



 それでは外に出ますよ!

 ひやー、いい雰囲気だ。



 天気は何とか大丈夫そうですね。

 御所野遺跡は3つのムラに分かれており、博物館を出て最初に現れる建物群は「東むら」と命名されています。

 確かに屋根に土が被せてある。



 ではでは、お宅訪問。



 昔、たぬさんと八戸の根城跡に行ったときに、城内本丸に竪穴住居が復元されており、そのときたぬさんは「この中に泊まってみたい」と言っていたのを思い出しましたが、今では私も竪穴住居に憧れる身になっています。



 私たち以外、見学者はいませんね。



 え!?

 なんで4月に栗!?



 中央むらには掘立柱建物が多く見られます。



 西むらまで来ました。

 博物館の展示に竪穴住居を焼く実験のことが書かれてありましたが、これがそうですね。





 西むらでは火災になった建物が見つかっていますが、失火などで火事になったわけではなく、意図的に燃やした可能性が高いそうです。

 おや、これはちょっと趣きの違うお宅だ。



 西むらまで歩きましたので、博物館へ戻りましょう。





 御所野遺跡は一般的な縄文集落と同じで丘陵上にあります。

 下を見下ろすと比高差が分かりますね。



 あれが来るときに渡った吊り橋だな。



 名残惜しいですが博物館に戻り、ミュージアムショップで資料を買い求めます。

 御所野遺跡には1時間半ほどの滞在になりましたが、クラツーでご案内する場合はこれほどの時間は取れませんので時間配分を考えようと思います。

 では、次は青森県に入り八戸市の是川縄文館へ向かいますよ。 

 ⇒この続きはこちら

 ⇒8月3日に再訪した時の様子はこちら

*     *     *


 クラブツーリズムにて8月と9月に御所野遺跡ほかをご案内します。



 9月の方は満席となってキャンセル待ち状態ですが、8月の方がまだお席があるようですので、興味のある方はどうぞいらしてください。

 また、9月の別日で紺野洋子先生がご案内する回もまだお席があるようですので、そちらもよろしくお願いいたします。

 ⇒クラツーの当該ページはこちら



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東国を歩く会次回イヴェント告知/【遠江・駿河古代史探訪 その4】御殿・二之宮遺跡【遠江国府跡か?】

2018-07-27 12:44:30 | 歴史探訪
 毎年、東国を歩く会は7月と8月は街歩きをしませんが、何かしら他のイヴェントをやったりします。

 今年は、毎年8月しかオープンしないという「河口湖自動車博物館・飛行機館」の見学を目論んでいます。

 MLではすでに告知していますが、たまにMLが受け取れないメンバーもいるようなので、一応こちらでも告知します。

 催行日は、8月の日曜日で、参加してみたい方は、希望日をお知らせください。

 参加希望者からの参加希望日を集計して、一番参加者の多い日に催行します。

 詳細は気になる方向けに個別にお伝えしますので、まずはどの日曜日なら参加できるかご連絡ください。

 なお、今回は私は参加できず、ご案内は軍事マニアのオーメン長島さんになります。

 それでは、遠江・駿河探訪の続きをお伝えします。

 ⇒前回の記事はこちら

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 府八幡宮の参拝を終えて、磐田市内ではもう一つだけ遺跡を見ようと思います。

 府八幡宮から南下し、JRの磐田駅が近づいてきました。

 磐田というとJリーグのジュビロ磐田が有名ですね。

 特段、私はサッカーについて語るだけの知識は持ち合わせていませんが、子供のころはサッカーが大好きでした。

 何しろ、球技という球技がことごとく苦手な私が唯一上手にできたのがサッカーだったため、30歳になるくらいまではテレヴィでもよくサッカーを観ていました。

 今のサッカー業界のことはほとんど何も知りません。

 あ、話がずれましたが、磐田って「天平のまち」というキャッチフレーズもあるんですね。



 サッカー一色の街だと思っていたので意外でした。

 磐田駅の北口が見えました。



 なるほど、天平チックですね。

 南口へ回りますよ。

 これから目指すのは、御殿・二之宮遺跡で、遠江の国府跡ではないかと思われているそうです。

 確か、南口に小さな公園として整備されているはずなので、適当に向かってみます。

 この辺かな・・・

 お、この公園が怪しい。



 当たり!



 奈良時代の大型建物跡が見つかっており、その柱跡の場所がわかるようになっています。



 上の説明版にも書かれている通り、この遺跡は弥生時代から続く複合遺跡で、江戸期には代官所があったんですね。



 こちらが公園の正規の入り口かな。



 この方は家康?





 南西側から見ます。



 今後の調査でもっと国府跡がはっきり分かってくると楽しいですね。

 先ほどは磐田駅の北口を見ましたが、ついでなので南口も写真に収めておきましょう。



 いやー、天平チックでいいねえ。

 以上で磐田市内で見たかったポイントはすべて見ました。

 この辺には古墳もいくつかありますが、今日のところはこれでお終いとして次へ向かいましょう。

 次は藤枝市ですよ。

 (つづく)
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【遠江・駿河古代史探訪 その3】遠江国・府八幡宮【「国府」八幡じゃないよ】

2018-07-23 16:43:35 | 歴史探訪
 今日(7月23日)の暑さは特別だなあと、外を歩きながら思いましたが、なんと、青梅で40.8℃を観測したそうですね。

 東京初の40℃越えということらしいですが、こんな記録達成で喜んでいいものかどうかは分かりません。

 だって、この暑さはかなり危険ですからね。

 今は本日初の休憩をとっていますが、これだけ暑いと掃除も危険です。

 それでは、前回の続きです。

 ⇒前回の記事はこちら

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 律令時代、各国の国府の近くには、国府八幡という八幡神社がありました。

 今回こちらに来てみて、「府八幡宮」という文字をどこかで見かけたときに、「国府」の誤字じゃないかと思いましたが、ここの場合はそれで合っていました。

 面白いですね。

 というわけで、国分寺跡と道路を挟んだ東側に鳥居が建っています。



 今日は骨董市が開催されるようで、皆さん、鋭意準備中です。



 一般的には聖武天皇が国分寺を建立したのと同じタイミングで国府八幡も勧請したといわれていたのですが、どうやら平安時代に勧請されたというのがただしいそうです。

 上の説明版に書かれている桜井王というのは天武天皇の曽孫ということですので、時代的には奈良時代半ばくらいになります。

 もしかしたら、桜井王が勧請した神社が元になって府八幡宮になったのかもしれません。



 では、境内を散策しましょう。



 この楼門(随神門)はさきほどの説明版によると、江戸期初期の建物ということで、大変貴重ですね。



 重厚で立派です。



 ※この額の揮毫は一戸兵衛という人なので、その名字が気になって調べてみると、元弘前藩士(私は南部藩士かと思いましたが外れました)で、旧陸軍では日清戦争と日露戦争に出陣して活躍し、のちのこの額にある通り、明治神宮の宮司になった人物でした

 つづいて現れた中門も楼門と同時期の建築らしいですが、こちらは江戸後期に再建されたようですね。



 ところで何だか子供たちがたくさん来ていて賑やかしいですぞ。

 拝殿の前で記念撮影をしています。

 おそらくこの後拝殿に上がるのでしょう。

 というわけで、拝殿は後回しにして、境内摂社に詣でることにします。

 おや、武内宿禰(たけしうちのすくね)を祀る神社があるようですよ。



 そうか、武内宿禰は異様に長生きしたとされているので、ボケ防止の神様になったんですね。

 こちらがそうです。



 武内神社以外に、山口神社、山神社、高良(こうら)神社が一緒に祀られています。

 つづいてこちらはどなたでしょうか。



 右から住吉神社、稲荷神社、水尾(みずのお)神社で、水尾神社は清和天皇を祀っています。

 水尾神社は、説明によると府八幡宮を建立した天平19年(747)当初から祀られたそうですが、清和天皇だと時代が合わないですね。

 清和天皇は第56代の天皇で、850年生まれです。

 清和源氏の祖として有名ですね。

 まあ、細かいことはいいか。

 つぎに現れたのはこちらの神様たちです。



 右から宇治神社、金山社と小笠神社、神明神社、皇子神社(仁徳天皇を祀る)、三保社、狩尾神社です。

 今度は東照宮ですぞ。





 遠江という土地柄、家康の地位は特別なのかもしれません。

 さて、そろそろ先ほどの子供たちはいなくなったかな。

 拝殿。



 私は額が好きなのです。



 拝殿は横から見ると変わった形をしていますね。

 奥には本殿が見えます。



 というわけで、府八幡の参拝も無事にすませたので、国府跡らしき場所へ行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら

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【遠江・駿河古代史探訪 その2】遠江国分寺跡【全国に先駆けて発掘された国分寺】

2018-07-23 10:13:48 | 歴史探訪
 昨日、遠江・駿河方面の古代史めぐりをしてきて、探訪記事の第一弾はすでにアップしています。

 今回はその続きを簡単にお伝えします。

 ⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 奈良時代の8世紀半ばに、聖武天皇の肝いりで全国に置かれた国分寺は、男の僧が運営する僧寺(そうじ)と尼さんが運営する尼寺(にじ)の2タイプがありました。

 さきほどはそのうちの尼寺の跡を探ってきましたが、つづいて僧寺の跡へ向かいましょう。

 僧寺と尼寺は近接して建てられることが多いです。

 遠江の場合は北側に尼寺があり、南側に僧寺がありました。

 この地図でご確認ください。



 ※「今昔マップ on the web」にて作成

 尼寺はその形跡も分からなくなっていましたが、僧寺は心配いりません。

 何といったって、「国特別史跡」ですからね!

 僧寺方向へ向かうと、国史跡としては当然のこととして、道路に大きな看板がありました。

 そのため、迷うことはないのですが、問題は駐車場です。

 僧寺の周辺を探ってみると、現代の国分寺の駐車場に停められそうです。

 でも、バスは無理だな・・・

 職業柄、バスが停められるかどうかとか、トイレや自販機があるかとか、そういうのは必ずチェックします。

 私の雷電號は停めることができたので、探索を開始します。



 こちらは現代の国分寺の本堂です。



 現国分寺は、参慶山延命院と号する真義真言宗のお寺で、本尊は薬師如来です。

 石仏が並んでいますね。





 草地に入ると、基壇や看板が散見でき、よく見る国分寺跡の風景が広がっていました。



 いいねえ。

 ではいつもの通り、最初は境内の南側へ向かいます。

 南側にも史跡の入口がありました。





 この建物の辺りに南大門があったんですね。





 復元図入りの説明板があります。



 今では全国的にも国分寺跡の発掘や史跡整備は進んでいますが、遠江はその先駆け的存在だったんですね。

 往時はこのような様子だったと想定されています。



 この絵で手前に描かれているのが南大門で、全体を取り囲む築地塀(ついじべい)が南大門に接続されています。

 南大門をくぐって中に入ると中門が現れますが、中門は回廊と接続されています。

 回廊には金堂(現代の寺でいう本堂)も接続され、その向こうに講堂があり、回廊の外側西(左手)に七重塔という配置ですね。

 それではこれらの遺構を一つ一つ見ていきましょう。

 どの程度残っているか楽しみです。

 南大門の次に現れたのは中門(ちゅうもん)。





 中門から金堂跡を見ます。



 金堂跡は基壇が復元されていますね。

 あとで行きましょう。

 中門は回廊と接続されています。





 回廊の内側へは入らず、回廊西側を直進すると・・・

 おっと、これは塔跡でしょう!



 基壇に登ると塔心礎が一つともう一つ礎石があります。



 国分寺マニアが一番喜ぶのは塔跡ではないかと個人的には感じています。

 そして塔心礎が残っているとその喜びは最高潮に達するのです。



 いいねえ・・・



 説明板を読む限りでは、今見た2つの礎石は往時のもののようですね。

 おや、遠くに土塁のようなものが見えます。

 もしや・・・

 おー、築地塀の復元ですね!



 私的には塔跡も好きですが、門跡と築地塀の跡も大好きです。

 北側を見ます。



 南側を見ます。



 城マニアは土塁が好きですが、私もその延長線上でこういった土塁状のものは大好きなのです。 

 そして可能であれば登ることを忘れません。

 築地塀の上から北側を見ます。



 南側。



 現在の復元ですと大した高さはありませんが、往時は人の身長の2倍はあったのではないでしょうか。

 この復元の姿からは想像しづらいかもしれませんが、これは土塁ではなく「塀」ですので、たまに古寺などで見ることのできる土塀を想像してみてください。

 それではつづいて、境内を散策します。







 現在の復元範囲では一番北側に講堂跡があります。





 講堂跡から金堂跡を見ます。





 金堂跡の基壇の上に登ります。



 ここにも礎石が見えますね。





 実は今は埋め戻されてしまった石段の跡が珍しいのです。

 これでぐるっと史跡を一周しました。



 名残惜しいですが、次に行きましょう。



 寺域に関しては、東西180m、南北250mと推定されており、



 おや、これはさっき気づかなかった・・・



 車はここから入ってきました。



 薬師堂についての説明ですね。



 つづいて、道路を挟んで反対側にある「府八幡宮」に参拝します。

 ⇒この続きはこちら

*     *     *


 遠江ではありませんが、武蔵の国分寺をめぐるツアーを催行する予定です。

 「歴史への旅」の7月10日号の9ページに掲載されています。



 下段の右側がそうなのですが、現地集合・現地解散の街歩きのようなツアーです。

 国分寺に興味がある方は一緒に歩きませんか?

 なお、私はこの本の執筆にも参加しています。

国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
かみゆ歴史編集部
イカロス出版


 全国の国分寺についてカタログ的に編集した本ですが、こういった便利な本はあまりないと思いますよ。

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【遠江・駿河古代史探訪 その1】遠江国分尼寺跡【不審者と思われないためにはどうすればいいのか?】

2018-07-23 01:54:59 | 歴史探訪
 先週の土曜日(7月21日)は、クラブツーリズムにて群馬の古代史ツアーをご案内し、20名のご参加をいただきました。

 皆様、どうもありがとうございました!

 連日、異様な暑さが続いていますが、関東地方の中でももっとも気温が高いと思われる場所でのツアーだったため、お客様には体力的な負担をお掛けしたかもしれず申し訳ありません。

 このツアーは3回目の開催で、探訪する箇所は、

 ・元島名将軍塚古墳(高崎市)
 ・高崎市歴史民俗資料館(同上) 
 ・太田天神山古墳(太田市)
 ・女体山古墳(同上)
 ・岩宿遺跡(みどり市)
 ・岩宿博物館(同上)

 です。

 墳丘長210mを誇る東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳は、夏に行っても藪化していません。



 どなたかが人知れず整備してくださっているのでしょうか。

 そうだとしたら感謝申し上げます。

 お昼ご飯は肉々しくてヴォリュームがありました。





 ※このツアーは8月21日も催行しますが、ありがたいことにそちらはすでにキャンセル待ちとなっています

 ツアーが無事に終わり、帰宅途中に食べた夕飯は大好物のココイチのハンバーグカレー。



 ところで、このツアーの翌日(7月22日)は、久しぶりに趣味の歴史めぐりをしてきました。

 上述のツアーのように仕事での歴史めぐりは頻繁に行っていますが、仕事とは関係ない歴史めぐりを最後にしたのは2ヶ月ほど前になります。

 しかも、毎日のようにダスキンカーを運転しているものの、自分の「雷電號」で高速道路を思う存分「安全運転」したいという欲求が生じており、そんなことからやや遠い、静岡方面へ出張ることにしました。

 どこへ寄るのかはココイチでカレーを食べながら考え、帰宅してから最終的に詰め、日曜日は5時に起きて歴史めぐりをしてきました。

 本日はその時の様子を少しだけお伝えします。

*     *     *


 昨日までどこへ行こうか迷っていましたが、今後、静岡方面の古代史ツアーを新たに作ろうと思っており、その調査をしたいとずっと思っていたため、今回は静岡方面に決定です。

 結局、趣味での歴史めぐりの場合も仕事に繋がる内容にしてしまうので、多少私はワーカーホリックなのかもしれません。

 5時に起床し、5時40分に出発。

 真夏なのでこの時間ですでに日差しが強いです。

 というか、今年はとくに異常かもしれません。

 出発すると、いつものようにコンビニに寄って飲み物と朝ご飯を購入。

 高尾山ICから圏央道へ入り、東名高速方面へ向かいます。

 圏央道はよく使いますが、ほぼ毎回、関越道や東北道方面へ向かうため、東名方面へはあまり行ったことがありません。

 圏央道から東名高速に入り、順調に進んでいると、御殿場あたりで急に雲行きが怪しくなり、雨雲の下に突入しました。

 そういえば、今日は静岡方面の天気予報を見てきませんでした。

 最近ずっと晴れているので、晴れることが自明であると考えていたわけです。

 ちょっと不安になってきました。

 しかし、しばらく走ると雨雲の下から抜けたようです。

 多分大丈夫でしょう。

 高速に乗ってから1時間半以上経ち、時刻は7時半です。

 そろそろ休憩したいので日本平PAに入ります。



 初めて入りましたが小さなPAですね。

 ※後で知ったのですが、日本平とか日本坂という名前はヤマトタケル伝承に関係しているそうですね

 ではまた走りますよ。

 ところで、今日の最初の目的地は、浜松の手前の磐田です。

 浜松まで行っても良かったのですが、磐田市内には遠江の国分寺跡などがあるので、ひとまず朝一で磐田まで進出して、そこから東京方面へ戻りつつ歴史めぐりをしようと考えています。

 まずは遠江の国分尼寺跡へ向かいます。

 ただ、事前の調べでは尼寺跡はとくに史跡整備されているわけではなく、何も痕跡がないようです。

 しかしそれでも、「ここにあった」という場所には行ってみたいですよね。

 磐田ICを降り、目星を付けている場所へ向かいます。

 目的地に近づくと前面に台地が立ち現れ、上り坂を登ります。

 台地の上に上がると、国府台という住所でした。

 でも、国府台といっても「こうのだい」ではなく、「このだい」って発音するんですね。

 こういうところが地域色があって面白いです。

 さて、ここで周辺の地図をご覧ください。



 ※「Yahoo!地図」より転載

 磐田ICがある辺りは、北から南に延びる丘陵だということが分かると思います。

 ただ、ICを降りた後に南下する道は、ちょうど谷間を走っているんですね。

 なので、しばらく南下したのち、西側の台地(国府台)へ登ることになったのです。

 というわけで、目的地付近に着きました。

 完全な住宅街になっていますね。

 一応、低速で車を走らせ注意深く周囲を観察します。

 標柱とか説明板とか、そういったものはありませんねえ。

 おや、公民館でしょうか。



 ここは本町という地区で、その公会堂と書いてあります。

 本町公会堂の位置は台地の端っこに当たり、だいたいこの辺りに国分尼寺があったようです。

 公会堂から住宅街を見ます。



 こういう住宅街の写真を撮っていると、住民に不審者だと思われて咎められることがたまにあるんですよね。

 私は過去、群馬県の前橋と佐賀県の佐賀市で経験しています。

 まあ、確かに普通の人からしたら何の変哲もない住宅街ですから、そこをカメラをぶら下げて歩きつつ、普通の人が理解しえない「何か」を撮影していたら怪しい人に見られて当然かもしれませんね。

 なので、腕章でも作って身に着けようかしら。

 でも「市役所」とか書くと、それはそれで偽造になって不味いですね。

 では、「調査員」とか。

 それも怪しい。

 結局はどうやっても怪しいですね。

 いっそのこと「不審者」と背中に大書したTシャツでも着て歩いてみるのもいいかもしれません。

 あ、やっぱりこれもダメです。

 文字が大書してあるTシャツって、女性からは非常にダサいと思われるということを先日何かで知ったからです。

 そういえば、この場所は崖っぷちにあるので、もしかしたらいい景色が見られるかもしれません。

 ・・・やっぱり見れた。



 おおよそ東の方角を見ています。

 それでは、ここで近辺の地形図をご覧ください。



 ※「今昔マップ on the web」より作成

 国分僧寺や国分尼寺が台地の上にあったことが分かると思います。

 というわけで、国分尼寺跡ではその形跡を見つけることはできませんでしたが、だいたいこの辺にあったということを地形を含めて実地で確認することができたので、つづいて僧寺跡へ向かいましょう。

 ⇒この続きはこちら

*     *     *


国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
かみゆ歴史編集部
イカロス出版

 ※私も執筆に参加しています!

 
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【クラブツーリズム】座学2本終了!10月からは3本にします!日本書紀の講座も始めます!

2018-07-15 10:40:02 | 歴史探訪
 昨日(7月14日)の土曜日は、西新宿のクラブツーリズムにて月に1回やっている座学講座を2本やらせていただきました。

 午前中は、「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」講座の第7回目として「エミシのリーダー・アテルイ降伏後の奥羽」というお話です。



 朝から暑い中、25名様にお集まりいただきました。

 皆様、どうもありがとうございます!

 午後は、「目で見る日本史」というシリーズの第7回目で、「邪馬台国時代の関東地方」というタイトルでやらせていただきました。



 こちらは22名様のご参加、どうもありがとうございました!

 このうちの約半分の方々は午前中から引き続き参加してくださり本当に感謝です。

 打ち上げはたかお食堂。



 私はたかお食堂で飲むビールがお店で飲むビールとしては銀河系内で一番美味いと思っています。



 久しぶりに長居しましたよ。

 ところで座学に関しては、来月からは土曜日と平日の2回開催とします(内容は一緒です)。

 次は8月11日(土)と8月23日(木)ですよ。

 興味のある方はクラツーの公式HP内の以下のページを見てくださいね。

 ⇒「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」はこちら

 ⇒「目で見る日本史」はこちら

 このように講座やツアーをたくさんやらせていただいていますが、同じことの繰り返しをしているだけでは停滞しているのと同じで、かつ停滞は後退にもなりかねませんので、新たな取り組みを始める予定です。

 まず、以前からお伝えしている通り、今秋からはツアーや講座を平日にも開催します。

 試しに平日にやってみて、お客様の需要にマッチしていることが分かったらその後も継続していこうと思っています。

 上述した通り、さっそく8月の座学から平日開催をしますよ。

 つづいて、10月からは「目で見る日本史」シリーズを変更して「日本書紀を紐解き古代史を探ろう」というシリーズにします。

 内容はタイトル通り、日本書紀を詳細に読み込んでいって、考古学の成果と突き合わせながら神武天皇から律令国家誕生の7世紀後半までの日本の歴史を私の力の及ぶ範囲で解説していきます。

 さらに、今まで1日2本の講座をやっていますが、もう1本増やし、関東地方の古代史講座を開設します。

 つまり、1日に90分の講座を3本やるわけですが、ネックは私の喉が持つかどうかです(笑)

 今でも90分を2本やると、コンディションによっては喉が枯れてしまうので、それを克服して開催しようと思います。

 できるかどうかはやってみないと分かりませんからね。

 まあ、幼少のころから母親に「あなたは口から先に生まれてきた」と言われているので大丈夫でしょう。

 朝から夕方までですとお客様にも負担をかけてしまうと思うので、その辺も様子を見て今後のことを決めようと思います。

 さて、ツアーに関してですが、「歴史への旅」の最新号が出ました。

 このお仕事を始めた2年前はページの一部分に私のツアーが掲載されている状態で、初めの3本はすべて催行にならず意気消沈しましたが、今では皆様のお陰で誌面での版図を拡大し、今号では5ページに掲載されています。

 そのうち、8ページと9ページは私のコーナーとなっており、本日はそれをご紹介します。

 まずは8ページ。



 つづいて9ページ。



 来週の土曜日は9ページに掲載されている群馬の太田天神山古墳ほかのツアーに行ってきます。

 両日とももう3名ほどの空席があるようですので、興味のある方はぜひいらしてくださいね。

 たくさんのツアーがあって迷うかもしれませんが、8ページの中段の鳥取・島根の古代史ツアーは初めてのご案内ですので、私自身も今からすごくワクワクしています。

 宿泊はちょっと・・・、という方には日帰りで行ける関東のバスツアー(9ページ中段)や、現地集合現地解散の比較的軽めの「街歩き」的なツアーもご用意しましたので(9ページ下段)、どうぞご参加ください。

 ⇒クラブツーリズム公式HP内「稲用章のツアー」のページはこちら

 もしかするとクラツーの公式HPへの反映に少し時間がかかるかもしれませんので、お申込みはご面倒でもクラツーへお電話していただくと手っ取り早いかと思います。

 それと、ツアーの内容で「歴史」や「史跡の見どころ」などに関して一番細かいことを知っているのは私ですので、そういったことに関しては私に直接質問してくださっても構いませんよ。

 ブログのコメント欄でも構いませんし、不特定多数の方々に見られるのが嫌な場合は「メッセージを送る」から私に直接メッセージを送信してくださっても構いません。

 ただし、宿や食事の内容やバスや飛行機について、それに旅行代金や保険に関することは私は答えられませんのでご了承ください。

 それでは、よろしくお願いいたします。


 

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【クラブツーリズム】ツアー初の日向峠越えに挑戦しましたが・・・【北部九州古代史ツアー 第3日目】

2018-07-09 19:16:39 | 歴史探訪
 元々私は小学校6年生の時に歴史が好きになり、20代半ばから本格的に史跡巡りを始めました。

 といっても、当初は戦国時代の城めぐりがメインで古代史には興味がなかったのですが、30代後半から古代史への興味が異様に増幅してきて、今ではクラツーでお仕事をするときはすっかり古代史の人のようになってしまいました。

 古代史は中世以降と比べても分からないことが多すぎて、かつ古い時代は文字資料が限られていることから、考古学の成果を援用しつつ、アカデミズムの偉い先生から私たちのような在野の研究家や愛好家まで、皆さんそれぞれが好き勝手なことを言えるのが最大の魅力かと思っています。

 このような古代史のツアーですが、私はいつもお客様に対して、なぜ自分は古代史を研究しているのか、どのようなことに興味があるのか、ということを最初にご説明し、ツアー中も自分の考えをはっきり言います。

 もちろん自分の考えは「答えのない歴史」において、一つの考え方に過ぎず、決してそれを押し付けることはなく、お客様の考え方を否定することもありません(もちろん、例えば「魏志倭人伝」に奴国の人口が2万と書いてあるのを5万だと勘違いされていたりする場合はきちんと間違いだとお伝えしますが、こういったことではなく「考え方」は否定しないということです)。

 さて、このような態度でご案内していると、「先生の考え方は僕と一緒だ。初めて同じ考え方の人に出会えて嬉しい」などと言われることもあり、そう言われるともちろん私も嬉しいです。

 もちろん反対意見の方もいらっしゃると思いますが、お客様のほうが私よりも人生の先輩であることがほとんどですので、その辺は大人な対応をしてくださっているのかなと思います。

 今回はお客様からある書物をお勧めいただいたので、さっそくその日の夜にAmazonで注文しておきました。

【決定版】 邪馬台国の全解決 中国「正史」がすべてを解いていた
孫 栄健
言視舎


 今日の昼に届いたのでさっきまで少し読んでいたのですが、面白い本で「なるほど」と思うことがたくさん書かれています。

 自分の考えを押し付けるようなスタイルではなく「参考までに聴いてくださいね」的な文面なのが好感持てます。

 ところで、これからツアーの3日目の様子を簡単にご報告しますが、3日目は極端に写真が少ないのでご了承ください。

 そして、伊都国歴史博物館のボランティアガイドの方と話していて、ちょっと気になったことがあったので、それについて少し調べてみました。

 それについてはルポルタージュの後に述べますので、そちらもぜひお読みくださいね。

 ⇒昨日の記事はこちら

*     *     *


 昨夜は変な寝方をしてしまい、6時半に目覚まし時計で目が覚めたものの、4時に就寝したのでまだ眠い状態です。

 ということで、今日は朝食はいいや。

 普通なら朝からモリモリ食べるのですが、今日みたいによっぽど眠い時はキャンセルします。

 出発は8時10分。

 今日も天候は晴れてはいませんが、雨は大丈夫なような感じです。

 最初の探訪地は奴国の中心と目されている春日市の須玖岡本(すぐおかもと)遺跡ですよ。

 8時55分に到着し、さっそく遺跡公園内をご案内します。

 いつもなら奴国の丘歴史資料館を見学するのですが、ちょうどいま設備更新中で7月20日まで展示室は休館となっています。

 つづいて糸島市の伊都国歴史博物館へ。

 こちらでボランティアガイドの方に展示物の解説をしていただきますが、45分しか解説の時間がなくて申し訳ないです。

 伊都国歴史博物館も展示が豊富なので、全部解説していただいたら倍くらい必要かと思いますが、今回のテーマである魏志倭人伝関連に絞って解説していただきました。

 前回来た時になかったもので、唯一展示物の写真撮影OKなのが、国内最大の銅鏡(直径46.5㎝)のレプリカです。

 製造時の状態を復元したもので、ちゃんと鏡として機能していますよ。



 分類的には内行花文鏡(ないこうかもんきょう)と呼ばれるものです。



 ただ、色味に関しては他の説もあり、果たしてこんな金ピカな色だったのかは異論もあるそうです。

 つづいて平原王墓へ行きますよ。

 今回は今までと違って中型バスなので、その利点をドライバーさんが存分に生かして道を選んでくれるお陰で、移動がスムーズにいきます。

 いいねえ。

 ところで、平原王墓は伊都国で3つ見つかっている王墓のなかでもっとも新しい墓で、時代的には卑弥呼の時代と合うとの指摘もあります。

 そのため、卑弥呼の墓と考える人もいますし、地元の考古学者である故原田大六氏は天照大神の墓だと考えていました。

 こうやって考えが広がるところが古代史の面白いところですね。

 もしアマテラスがここに眠っているとすると、今回のツアーでは、卑弥呼と筑紫君磐井、そしてアマテラスにも会えたことになります。

 ということで、見学の後はお楽しみのお昼ご飯。

 いつもの「万中」で鶏肉とキノコの鍋料理です。

 12時ピッタリに到着。



 ※この写真を含め以下4点は2018年2月19日撮影

 万中さんにもいつも良くしていただき、ここの食事はお客様からとても評判が良いですよ。







 では午後の探訪を開始します。

 いつもですと午後は福岡市博物館と板付遺跡だけなのですが、今回は先述した通り奴国の丘歴史資料館の見学ができなかったので、その穴埋めのために吉武高木遺跡を組み込ませていただきました。

 吉武高木遺跡は「やよいの風公園」という史跡公園になっており、私自身お客様をご案内するのは初めてで、もしかするとクラツー全体でも初めてかもしれません。

 今回は中型バスということで、ドライバーさんは山越えのルートを選んでくれました。

 なんと、平原王墓でいつも説明する、日向峠を越えてくれるということなのです。

 これは嬉しい計らいですね。



 日向峠が近づいてきました。



 ワクワクしてきますねー。

 ・・・ところがです!

 ここでまたハプニング発生!

 なんと、ここ数日の雨のため日向峠は通行止めになっていました!

 悔しい・・・

 仕方なく戻り、山を迂回して国道202号線を通って移動することにします。

 202号線はいつも混むので、ドライバーさんも「通りたくないなあ」と言っていましたが、その道を通らざるを得ません。

 そのため、今日はここまで順調でしたが、ここにきてだいぶ移動に時間を取られてしまいました。

 添乗員さんには言いませんでしたが、もう5分遅れたらお客様に謝って吉武高木遺跡はカットしてもらおうと思っていました。

 でもギリギリの時間で到着。

 今日の公園はなぜか賑わっています。

 私がパンフレットを取りに総合案内所へ向かうと、若いママさんたちが大勢いて、私たちのバスのほうを見て「こんな何もないところに何しに来たのかしらね?トイレ休憩かしら」と話しているので、去り際に「歴史のツアーでここを見に来たんですよ。東京から」と伝えると、驚いた表情をしている方もいました。

 地元の方でもかなり歴史が好きじゃないとこういった遺跡の価値は分からないのが普通ですよね。

 これであのママさんたちが自分たちが住んでいる場所が実は歴史的にすごい場所だということに気づいてくれれば嬉しいです。

 時間の都合で公園全体をご案内することはできずに、お客様には申し訳ありませんが、つぎの福岡市博物館へ向かいます。

 福岡市博物館に到着して、なんとかオンスケジュールに戻しました。

 そして最後は板付遺跡です。

 その時によって違うのですが、今回は弥生館にて学芸員の方から解説をいただくことができてありがたかったです。

 解説の後は実際に遺跡を見て、時刻は17時に。

 これにて今回のツアーは終了となります。

 とくに1日目は大変な目にあって、お客様にもかなり負担をかけてしまいましたが、2日目の吉野ヶ里遺跡が想定外の晴れ模様で、お客様からは「奇跡の3時間」と言われ、お客様の表情を拝見していると、最終的にはまずまず満足してくださったかなと思います。

 こういった宿泊のツアーの場合は、お客様同士も長く一緒にいますので、お一人様参加であってもそもそも歴史に興味があって参加しているわけですから、すぐに意気投合する方々もいて、3日目にもなるとバスで移動中も後ろのほうから楽しそうに話している声が聞こえてきて、そういう声を聴いて私自身も幸せな気持ちになります。

 ということで、福岡空港で飛行機のチケットをお配りして解散となりました。

 これで私も任務終了です。

 福岡空港から帰るときは、飛行機に乗る前に必ず立ち寄る店があって、そこでカツカレーとビールを頼むのがルーティーンだったのですが、そのお店が閉店してしまったため、今回は新しい店を探します。

 結果的に豚骨ラーメンの「一蘭」にしました。

 昨日も豚骨ラーメン食べたのに・・・

 カウンターで誰にも邪魔されずに食べることに集中できるお店ですね。



 面白いシステムですよね。





 あー、美味しかった。

 今度は甘いものが食べたくなりました。





 お、これも美味い!

 日持ちしないのでお土産には適していませんが、今度来た時もこれ食べようっと。

 飛行機は19時発。

 定刻に離陸しました。



 飛行機大好き。



 羽田空港に着くころにはもちろん夜です。



 ということで、無事に東京に帰ってきました。

 22名のお客様、添乗員さん、ドライバーさん、そして関係者の皆さん、今回もありがとうございました。

 福岡には何度も行かせていただいているおかげで、場所によっては資料館などで古くからの友人のように迎えてくださる方もいて、私も毎回行くのが楽しみです。

 私の母方が代々九州人だから贔屓するわけではないですが、九州の人たちは親切な方が多いですね。

 歴史好きのお客様たちと一緒にまた秋にお邪魔いたします。

*     *     *


 さて、冒頭にお伝えしましたが、伊都国歴史博物館にてちょっと気になったことを少しお伝えします。

 ガイドさんの話によると、伊都国の中心である三雲遺跡から日向峠を越えて東の方向に遺跡が一直線に並んでいるとのことでしたので、さきほど地図で確認してみました。

 今回のツアーでは惜しくも日向峠を越えることはできませんでしたが、伊都国の最初の王墓である三雲南小路王墓を起点として、東の方向に線を引っ張ってみます。

 筑紫野市と太宰府市の境には宝満山という山があり、昔から修験の山として有名で、なんとなく気にはなっているもののまだちゃんと調べていませんが、試しに宝満山まで線を引いてみました。

 その地図がこれです。



 ※「Yahoo!地図」より追記転載

 なんと、伊都国の三雲南小路王墓と魏志倭人伝には出てきませんが、サワラ国の王墓と考えられる吉武高木遺跡の王墓、それに奴国の王墓が一直線に並んだのです。

 しかも、この3つの王墓はすべて、弥生時代中期に北部九州で発生した最初期の王の墓で、被葬者はほぼ同時代に生きた人びとなのです。

 まさか、3つの国の人びとが計画的にお墓の経度を揃えたなんてことはないですよねえ・・・

 さらに、吉武高木遺跡に行くと古代から信仰の山であったことが想像できる飯盛山もその線上に並んでしまいました。



 ※やよいの風公園から見上げる飯盛山(2018年3月22日撮影)

 うわー、面白い・・・

 というかヤバイ。

 現状のところまだ考察はできていませんが、とりあえずこの事実だけお伝えしておきます。

 追記:

 この線を西へ引っ張っていくと神集島の最高所を通り、秀吉の朝鮮出兵の時に本陣となった名護屋城の本丸にぶち当たります。

 さすがにこれは偶然でしょうね(笑)








 

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【クラブツーリズム】やはり「卑弥呼」の呪力は凄まじかった【北部九州古代史ツアー 第2日目】

2018-07-09 08:55:04 | 歴史探訪
 昨日は福岡発の飛行機がいつもより1時間早かったお陰で、羽田空港からのリムジンバスは21時35分に乗ることができ、23時15分には帰宅することができました。

 帰宅するとジジが熱烈なお出迎えをしてくれました。

 帰宅後はすぐに風呂に入り、妻が作っておいてくれたゴーヤチャンプルーを食べつつビールを飲み、0時30分にはもう耐えられなくなって就寝。

 でも今日も普通に7時に起きてしまい、いつものことで2度寝ができないため、さっそく昨日の記事の続きを書くことにします。

 ⇒前回の記事はこちら

 今日はD社を休みにしておいてよかった・・・

 さきほど妻はジジに向かって「パパと遊んであげてねー」と言って出社していきました。

 今日はジジとダラダラ過ごそうと思います。

*     *     *

 
 7時に起床。

 まだ寝足りない感じがします。

 今日は3日間のなかで一番の山場である吉野ヶ里遺跡へ行き、3時間ほど歩き回る予定ですが、昨日の天気予報では雨だったので、どういうふうに歩こうかと考えます。

 ところがです。

 カーテンを開けてみると、雨はやんでいました。



 お、ラッキー。

 天気予報を見ると、にわか雨は降るかもしれませんが、何とかなりそうです。

 7時半にホテルの朝食会場へ行きます。



 あるお客様からは「昨日の魏志倭人伝を読んだのは楽しかったわ。漢文なんて読んだのは高校生の時以来かしら」と感想をいただきました。

 渋滞のためになかなか動かないバスの中でも歴史を楽しんでくださったようで私も嬉しいです。

 ということで、9時にホテルを出発し、最初は吉野ヶ里遺跡へ向かいます。

 途中、筑後川を渡ると・・・

 何だこりゃ!



 水がパンパンじゃないですか。



 地元出身のドライバーさんも驚いています。

 昨日も宗像大社が水浸しになっていましたが、地元の方々皆さんに尋ねても「こんなに雨が降ることは滅多にない」とか「私が生まれてから一番降った」などという感想をいただいていますので、私たちはとんでもないときにツアーに来てしまったということが分かりました。

 それでもいつもと同じく9時半に吉野ヶ里遺跡へ到着し、バスから降りると晴れ間ものぞいており、すでに暑いくらいの気温になっています。

 吉野ヶ里遺跡に来るのは7度目ですが、今日の起床時の段階では、ついに初めての雨かと思っていたのですが、さすが「卑弥呼」さんの呪力は凄いなと思いました。

 ここに来ると、北内郭の主祭殿の最上階にいらっしゃる「卑弥呼」さんに「次回も晴れにしてください」とお願いしているのですが、今回も「卑弥呼」さんのお陰で晴れになりました。

 「昨日の天気予報だと雨だったのにね」と、お客様も大変喜んでいます。



 ※2017年6月17日撮影

 それでは、今回もいつもと同じルートを歩きますよ。

 展示室、南内郭、北内郭、甕棺墓群、北墳丘墓という順です。

 「先生、帽子もかぶらないで大丈夫ですか?」と尋ねられましたが、ツアーの準備をしているときにどうせ3日間とも雨だろうと思い、先日妻にツアー用として買ってもらった帽子は持ってこなかったのです。



 失敗しました・・・

 吉野ヶ里遺跡公園は素晴らしい公園ですが、大勢で一緒に休める場所があまりないのです。

 いつも、北墳丘墓の見学を終わった時点で、休憩らしい休憩を取ります。

 見どころが多くて、「三内丸山遺跡よりも広いわね」と感想を述べる方も多く、「3時間も時間を取ってあって多いんじゃないかなと思ってたけど、これだったら1日欲しいわね」とおっしゃる方もいます。

 もちろん三内丸山遺跡も楽しい遺跡ですが、公園の規模や復元・展示の量と質、そしてスタッフの方々の人柄や知識や熱意などを総合的に見た場合、私が知る限りでは吉野ヶ里遺跡公園は国内ナンバーワンの史跡公園じゃないかと思っています。

 さて、残り時間は1時間。

 つづいて、中のムラ、倉と市、そして今日はいつもより若干早く進んだので(参加者の数が今までは最大で40名くらいでしたが、本日は21名<1名はホテルで休養>だったため、機動力が高まったのかもしれません)、南のムラを少し多めに見ようと思います。





 南のムラで個人的に注目しているのは、祭壇と呼ばれている土壇のようなものです。





 復元されている状態では高さはあまりないですが、大きさ的には北墳丘墓ともそん色なく、「これ、古墳じゃないの?」とおっしゃるお客様もおり、現状では祭祀用と思われる土器が出ていることから祭壇と思われているものの、さらに調査を進めたら面白いものが出てくるかもしれませんね。

 将来が楽しみです。



 暑い中歩き回りエントランスに戻ってきました。

 昼食までもう少し時間があるので、ミニシアターで涼みながら休憩です。



 12時半となり昼食。



 公園内にあるレストランは、こういった感じのレストランとしては非常にクオリティが高いと思っています。

 今回はいつものハンバーグではありませんでしたが、こちらの定食も小鉢がたくさんあってとても美味しいですよ。

 ところで、あるお客様が途中「絵を描いてくる」と言って抜けていたのですが、その方が完成品を見せてくださいました。



 30分ほどで描いたそうで、きれいですね。

 感動したのでブログへの掲載の許可をいただいて写真に撮らせていただきました。

 歴史ツアーをお客様の工夫で楽しく使っていただき、とても嬉しかったです。

 さて、1時間ほどの昼休憩のあと、午後の探訪を開始します。

 いつもでしたらこの後は八女市の岩戸山古墳へ行くのですが、今日は順番を入れ替えて、先に広川町の「こふんぴあ広川」と石人山古墳、そして弘化谷古墳を見学します。

 高速道路が相変わらず不通なので下道を行きますが、筑後川を渡った先が通行止めになっており、止む無く迂回します。

 しかし、川沿いの低い場所の被害は大きいようです。

 水がパンパンの場所が多い。



 ここは池のように見えますが、水田のはずです。

 車窓からは床上浸水となってしまった商店や工場などが見えます。

 こふんぴあ広川に到着し、担当の方に「大変でしたね」と心配されましたが、こんな日でも資料館や古墳を案内してくださりむしろ逆に恐縮してしまいます。

 初めて石人山古墳に来たときも夏でしたが、物凄い蚊の大群に襲われ、まともに見学もできない状態だったため、今日は先日那須に行ったときに買っておいた「着る防虫」を試してみます。



 これを試したくてウズウズしていたのです。

 結果的にはいつもより蚊は少ないようでしたが、あまり蚊は気になりませんでした。

 お客様もそれぞれ防虫対策はしてきていますし、こふんぴあ広川でも防虫スプレーをお借りすることができ、全体的にそれほど大きな被害はなかったようで安心しました。

 つづいて本日最後の八女市にある岩戸山古墳および「いわいの郷」の見学です。



 資料館を見学した後は、古墳を見学しますが、今回は初めてお会いする九州弁バリバリのボランティアの方もいらっしゃり、いつにも増して楽しい古墳見学です。

 さきほど川述館長から「今日は岩戸山古墳の周溝の一部に水が溜まっていますよ!」と聞いていたのですが、確かに水が溜まっていますね。



 館長によると、以前周溝を発掘調査した時にトレンチ(遺跡の一部を効率よく確認するために細長い範囲を決めて土を掘る)を切り、そこを埋め戻したときに若干高さが出てしまい、それが堤のような役割になって水が溜まったのではないかということでしたが、こんな状況は見たこともないそうです。



 周溝に水があるとまるで奈良の古墳を見ているようですね。

 終了予定の17時を少しオーヴァーしてしまいましたが、本日の探訪も無事に終了しました。

 私たちが行く先々では皆さん親切にしてくださるのですが、とくに広川とこちらのスタッフの方々からはいつも心のこもったおもてなしをいただくことができて感謝しております。

 それでは、ここからまた連泊の久留米のホテルへ戻りますよ。

 今日の帰路は順調。

 予定通り18時にはホテルに着きました。

 いつもなら行きつけの居酒屋に行くところですが、今日は昨日のこともあって結構疲れているのであまり飲みたい気分ではありません。

 なので、これまた久留米に来たらよくお邪魔する「麺志」で久留米ラーメンを食べて今日はおしまいにしようと思います。

 そう思って向かっていると、商店街でお客様とすれ違い、その方と一緒に入店しました。



 ここのラーメンは最高です。

 そしてスタッフの方々がとても元気が良くて親切なのでいつも気分よく食事ができるのです。

 もう少し遅い時間に来ると行列になっていることもありますが、18時過ぎならまだテーブル席でゆっくり食べられます。

 1時間ほど歓談してホテルへ戻り、ベッドに横になると知らないうちに寝てしまい、気づくと25時を過ぎていました。

 変な寝方をしてしまったなあと思いつつ、しばらく調べ物をして、さすがにこのまま朝まで起きているのはまずいと思い、4時には就寝しました。

 ⇒この続きはこちら

*     *     *


 今回のツアーは、次回は9月3日(月)出発と10月12日(金)出発の2本設定されています。

 9月の方は初の平日開催で、10月の方はすでに催行が決定しています。

 内容に関してはほぼ一緒ですが、宿泊するホテルや食事、まわる順番などが変わる可能性もあります。

 もし興味がありましたらクラツーのHP内のこちらのページをご覧ください。
 

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【クラブツーリズム】とんでもない日に九州に来てしまいましたが負けてはいけない!【北部九州古代史ツアー 第1日目】

2018-07-08 22:44:07 | 歴史探訪
 先週の金曜日(7月6日)から2泊3日で、クラブツーリズムにて北部九州の古代史ツアーをご案内してきました。

 すでにニュースでご存知の方もおられると思いますが、ここ数日は列島各所で記録的な豪雨となり、北部九州も大変なことになりました。

 水害で大変な目にあっている方々を目の当たりにして史跡巡りを楽しんでいるのは後ろめたい感じもしましたが、私はプロとして東京から大勢のお客様をお連れしましたので、その方々のために、旅が楽しくなるように精一杯やらせていただきました。

 今回は22名様(うち1名様は東海圏からのご参加で福岡にて現地合流)のご参加をいただき、ありがとうございました。

 いつものツアーとは違う意味での思い出ができたと思います。

 皆様、本当にお疲れさまでした。

 本日はツアーの初日の様子をごくごく簡単にご報告します。

*     *     *


 最近は羽田空港で集合の場合は高尾駅発4時のリムジンバスに乗ることにしています。

 その次の5時10分に乗ると、福岡に行くときの待ち合わせ時間にピッタリに着くのですが、その場合は少しでも渋滞に巻き込まれると遅刻の恐れがあるので、4時発に乗ることにしているのです。

 そうすると羽田空港には5時半には着いてしまいますが、適当に資料などを読んで待つことにしています。

 天気予報では、今日から3日間、福岡は雨のようなので少し気が重いですが、案内する私のテンションが下がってしまってはお客様に悪い影響を及ぼしてしまいますので、元気を出して、かつ雨でも楽しめるように工夫をしながら歴史巡りをしようと思います。

 というわけで、福岡空港には予定時刻通りに到着。

 ところがです!

 到着早々トラブル発生!

 豪雨の影響で福岡近辺の高速道路が不通となっており、私たちの今日の移動も困難が予想される以外にも、お弁当屋さんが予定時刻までに空港に到着することができませんでした。

 そのため、私たちは下道で行くことになり、お弁当屋さんは途中で合流していただくことになりました。

 では行きますよ。

 最初の目的地は宮若市の竹原古墳です。

 途中、山の中の道を走っていると、左側の崖からすごい量の水が流れ落ちている場所があり、一部では軽い土砂崩れが起きています。

 この道はこのあと、通行止めになるだろうな・・・

 何とか竹原古墳に到着し、見事な装飾壁画を皆様に楽しんでいただき、つづいて宗像の鎮国寺へ向かいます。

 鎮国寺へ向かっている途中、宗像大社の神宝館の建物が近づいてきたころで、今まで車内でのトークに夢中になっていた私も外の異常に気付きました。

 田んぼがある場所だと思いますが、水浸しになっているのです。



 なんだこりゃ。

 大変なことになってる・・・



 向かって右側が釣川で、辛うじてまだ道路が体をなしていますが、左側の水田の水も溢れる寸前なので、この道が水没するのも時間の問題かもしれません。

 こんな状況ですので、古代はこのように釣川の氾濫原は神湊から続く入江のようになっていたと思われることから「古代の風景はこのような感じです」と解説します。

 鎮国寺に到着しました。

 ここでお弁当屋さんと合流。

 雨の中、鎮国寺を参拝し、宗像大社へ移動します。

 このツアーは、いつもであれば福岡空港から竹原古墳へ向かうバスの中で早めの昼飯を摂っていただくのですが、こんな事態になってしまったため、今日は宗像大社の駐車場に停めたバスの中でお昼とします。

 お腹ペコペコだー。



 お弁当屋さんが必至な思いで届けてくれたことを思うと、なおさら美味しいです。

 では、宗像大社を参拝しますよ。

 雨はまったく勢いが衰えず、しかも、さきほど車の中から見たときの嫌な予感が的中し、「まさかの神宝館休館!」という情報も来ました。

 こういう雨の日こそ、屋内の施設が有効かと思ったのですが、神宝館の入り口付近が水浸しになって建物内に入れないそうです。

 しかも、神社の境内もところどころが水浸しになっており、現地にいたボランティアガイドさんの助言で、迂回して拝殿にたどり着くことができました。



 雨にもめげず、いつもと同じ分量の解説をしようと思いますが、さすがに今日は難しいです。

 そして、宗像三女神が天から降りてきたと言われている高宮斉場を目指しますが、おおー、通れない!



 お客様の一人が果敢にもアタックを試みますが危険です。

 趣味の仲間と来たのであれば突撃しますが、さすがに旅行会社で来ていますので無理はせずに引き返すことにします。

 神宝館へも高宮へも行くことができず、私としても非常に悔しいですし、お客様にも大変申し訳なく思います。

 そのかわり、海の道むなかた館で、ヴァーチャル・リアリティを体験していただき、3Dシアターも観ていただきました。

 つづいて宮地嶽神社へ向かいます。

 途中、新原・奴山古墳群の真っ只中を通るので、バスの中からミニ解説。

 宮地嶽神社に着くと、相変わらずの雨に降られながらの参拝です。



 こんな日に参拝に来る人なんていないですよね。

 私たち以外、参拝者は一人もいません。

 しかし、こんなコンディションでも古墳のあるところまで登りますよ。

 宮地嶽古墳まで来ると、ありがたいことに石室は拝めるように開いていました。

 よかった・・・

 そしていつものごとく、古墳の横の説明版で宮地嶽神社と宗像大社との関係や、「九州王朝説」について語りますが、お客様は傘をさして聴いてくださっていますので、通常の半分くらいの長さとしました。

 では、バスに戻りますよ。

 いつもはここで17時ですが、今日は途中の道路事情を考え、16時45分に終了としました。

 夕飯は「博多はねや総本家」です。

 ところが、いつもなら1時間で到着するのが、高速道路が不通のため、下道に車が集中している関係もあって、なかなか進みません。

 ようやくいつもの2倍近くの時間がかかって18時30分過ぎに到着。

 あー、お腹ペコペコ。





 お客様に「あれ、先生は飲まないの?」と聞かれましたが、原則としてホテルに戻るまではアルコールは我慢するのです。

 美味しい夕食をいただき、ついでに今晩の「おやつ」を購入。



 これであとはホテルに戻るだけです。

 おそらく、このあとも渋滞に巻き込まれるだろうと予測したので、暇つぶしと言ったら何ですが、レジュメに魏志倭人伝の原文(もちろん全部漢字)を転載していますので、それを全文読みつつ、解説を加えていこうと思います。

 そして一通り読み終わり、その間、全然車窓を見なかった私は愕然としました。

 え、まだ板付!?

 1時間経ったのに、ほとんど進んでいない・・・

 そのうち、ドライバーさんから「これだと今日中にホテルにつかないですね・・・」と焦りの言葉が発せられました。

 今晩泊まるのは久留米ですが、確かにその可能性は高いかも。

 そこで、添乗員さんも交え相談し、最寄りの電車の駅まで行って、そこから久留米まで電車で行こうと決めました。

 ところがです!

 頼みの綱の西鉄が私たちが行きたい方向が不通になっている!

 それでは、JRはどうかと、鹿児島本線を調べると、なんとこっちも止まっている!

 最後の手段は九州新幹線か・・・

 新幹線は動いているようです。

 でも新幹線に乗るには博多まで戻らなければなりません。

 ドライバーさん曰く、博多まで戻る方向は道が空いているとのことです。

 というわけで、添乗員さんが会社に連絡し、新幹線を使うことに決定しました。

 こんな事態に不謹慎かもしれませんが、私は九州新幹線に乗ったことがないので、内心嬉しいと思いました。

 そして博多まで戻り、21時47分の新幹線に搭乗。



 ところが、新幹線も激混みで、辛うじてお客様全員が乗れた状況です。

 初めて九州新幹線に乗れた喜びを味わうこともできず、すし詰めの車内で身動きの取れないまま20分ほど我慢。

 ようやく久留米に到着しました。

 でもまだ安心はできません。

 久留米は久留米でも、JRの久留米駅なので、ホテルのある西鉄久留米まで行かないとならないのです。

 タクシーがあればよいのですが、タクシーは皆無。

 しかたなく路線バスを待ちます。

 しかしいつまで経ってもバスが来ません。

 そのうち私は我慢できなくなり、お客様の中にも歩いていきたいという意見も出たので、雨に降られながら2㎞ほど歩くことに決めました。

 添乗員さんはバスに乗りたい人たちを率い、私は別動隊として、歩きたい人たちを率いて行動開始です。

 土地勘がない場所ですが、幸いなことに地図を見るとほぼ道一本です。

 ところが私は歩行時間を読み間違えてしまいました。

 2㎞なので、25分で行けると単純に考えたのですが、お客様をお連れして自分のペースで歩くわけにはいかないのだ!

 途中、お客様に「早いよー」と言われつつも少し無理していただきます。

 傘を差しながら黙々と歩く私たち一行の眼前に西鉄久留米駅のビルが見えたころ、添乗員さんから電話があり、バス組がホテルに到着したとのことでした。

 ただ、バスはバスで相当待ったらしく、そのバスの運転手さんは4時間も運転していたそうです。

 つまり、路線バスも道路が異常に混んでいるためなかなか進まなかったわけですね。

 JR久留米駅から西鉄久留米駅まで歩くという、面白みも何もないサディスティックなオプションツアーに参加してくださった皆様と一緒にようやくホテルに到着。

 クッタクタになって部屋に入って時計をみると、えーっ、もう23時20分じゃないですか。

 もしかして40分近く歩いてた?

 何もなければ20時にはホテルに入っていたはずですが、大変な思いをして深夜に到着したわけです。

 今回の参加者の中では私が最年少ですが、この私でさえ正直疲れました。

 なので、お客様は明日大丈夫かなあと心配しつつ、ドライバーさんや添乗員さんも相当疲れただろうし、明日が心配だと思いつつ、シャワーを浴びます。

 そして皆様の健康状態に加えて、明日はせっかくの吉野ヶ里遺跡の日なのに、天気予報では雨ですので、そういった気象状況もとても心配です。

 まあでも、今日はもう寝ますよ。

 ⇒この続きはこちら
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【筑紫の国&火の国歴史探訪 2日目その3】上岩田遺跡【福岡県小郡市】

2018-07-03 21:49:08 | 歴史探訪
 神社マニアのことを「神社er」と呼んだりしますが、私は古代官衙マニアなので「官衙er」でしょう。

 きっと今後は「官衙ガール」とかも出てきますよ。

 古代史では古墳や埴輪がブームになっていますが、次は絶対官衙が来ます!

 ⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 小郡官衙遺跡を見た後は、一連の御原郡衙のなかで最初に造られた役所の跡である上岩田遺跡へ向かいます。

 この公園が怪しいなあ。

 公園名が書かれた標柱があります。



 「ふれあい磐戸公園」か・・・

 違うかなあ。

 でも遠くに基壇のようなものが見えますよ。

 あ、電車!



 しかも1両編成!

 それはそうと、これは基壇だよなあ。



 やっぱりここだ。



 説明板発見!



 しかし、やっぱり電車が気になります。



 電車じゃないですね、気動車ですね。



 いいねえ、ローカル線のホーム。



 甘木鉄道の松崎駅です。

 古代史に戻りましょう。

 下高橋官衙遺跡でもお話しした通り、古代御原郡の最初の役所がここ上岩田遺跡でした。



 昔から瓦が出土することが知られており、古代寺院跡だと思われていたのですが、発掘の結果、寺院の機能を備えた役所であることが分かり、時代的には大化改新(645)の少し後なので、郡がまだ評と呼ばれていた時代に当たり、正確には郡衙とか郡家などとは言わず、「評衙」とか「評家」などと呼ばれ、全国的に見ても珍しい遺跡です。

 しかも、寺院としても評の役場としても北部九州では最古級のものなのです。

 遺跡はⅠ期(7世紀後半~8世紀前半)、Ⅱ期(8世紀中ごろ)、Ⅲ期(8世紀後半)、Ⅳ期(9世紀前半)というように変遷し、Ⅰ期は天武7年(678)の筑紫国地震を境にⅠa期とⅠb期に分かれます。

 基壇の上に登ってみます。



 この基壇はⅠa期のもので、東西18.2m、南北15.3m、高さ1.3mを測り、基壇上には金堂(仏堂)が建っていたと推定されています。

 見つかった無数の地割れ痕は、筑紫国地震の被害を物語っており、この地震で金堂は倒壊したという説が有力です。

 筑紫国地震のあと、役場の機能は小郡官衙遺跡へ移りましたが、寺院としての機能はどうなったのでしょうか。

 小郡市内井上に井上廃寺跡という遺跡があるのですが、倒壊した建物に使っていた瓦は、井上廃寺を建立するために使われたと考えられています。

 なお、現在見ることのできる基壇は公園の整備のために綺麗に復元されたもので、発掘調査の結果からは基壇の周辺に建物跡がいくつも見つかっています。

 既述した通り、上岩田遺跡は9世紀前半まで存続していますが、役場や寺院の機能が移転した後も、役場の「支所」的な施設として存続したようです。

 ※今年(2018年)3月22日に小郡市埋蔵文化財センターを見学し、上岩田遺跡から出土した遺物を見ました。そのときのルポルタージュは、こちらをご覧ください。

 お、大砲ラーメンがありますよ。



 食べたいなあ。

 でも時刻はまだ7時22分です。

 早朝から稼働したので、この時間までにもう3か所も遺跡を見てしまいましたよ。

 今日はまだまだ見まくるぞ!



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