日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【歴史研究のやり方】オリジナルの地図や年表を作ろう

2018-04-28 23:11:45 | 歴史コラム:古代
 本来であれば本日は栃木の古墳ツアーの日でしたが、私の力不足のせいで最少催行人数まであと数名届きませんでした。

 楽しみにしてくださっていた皆さまにはお詫び申し上げます。

 人数が集まらなかった原因はいくつか考えられますが、内容を練り直してリベンジ致しますのでそれまでお待ちください。

 ということで、今日はどこかへ出かけようと思っていたのですが、珍しく10時過ぎまで寝てしまいました。

 ところが、寝坊したことが幸いして、明日新宿の近畿日本ツーリストで行う邪馬台国の入門講座のレジュメを早めに完成させることができたのです。

 もし出掛けた場合は、明日早起きして作ろうと思っていたのですが、ギリギリにならないとやらない癖は良くないですね。

 さて、既述した通り、不催行になってしまった反省も織り込みながら、新しいコースづくりをシコシコと進めております。

 邪馬台国関連のツアーは別の先生が鋭意、面白コースを量産してくださっているようですので、西の方面はその方にお任せするとして、私は東方面をさらに開拓していきますよ(邪馬台国関連のツアーは、ツアー自体は私も引き続きご案内しますのでご安心ください)。

 その東側のツアーですが、関東の古墳ツアーを20本くらいにまで増やそうと思っています。

 そうすると、関東地方の主な古墳はすべて見ることができると思います。

 私の古墳ツアーに参加してくださった方々はご承知かと思いますが、ただ単に古墳を見て「あー、面白かった!」で終わるのでなく、古墳がそこにある歴史的意味をヤマト王権と関東地方との政治的な関わりを交えて考え、古代のロマンに浸っていただきます。

 もちろん、一言に「前方後円墳」とか「横穴式石室」と言っても、地域によって違いがありますので、そういった違いを楽しんでいただいたり、地勢や地形についても楽しんでいただきますよ。

 さらに、東北地方のツアーもガンガン造って行きます。

 私の中では東北の古代史ツアーもきちんとストーリーができあがっていて、それを実際のツアーで皆さまに開陳し、東北の古代史を楽しんでいただく目論みを具現化して行こうと思っています。

 その第一弾というか、入門編ということで、先日ご案内した一泊二日の宮城・岩手のツアーを位置づけています。

 ※なお、6月16日(土)出発分も催行決定になりました!参加表明をしてくださった皆さま、どうもありがとうございます!

 東北の古代史ツアーに関しては、一泊二日ないしは二泊三日で、10本以上のツアーを造ります。

 今企画に取り掛かっているのは福島県のツアーで、一泊二日を3本ご用意しようと思っています。

 かなりマニアックにしますので、どうぞご期待ください。

 というわけで、本日の夕方からはツアーの企画をしていたのですが、これからツアーを大量生産するに当たり、効率化を図ることにしました。

 効率化の第一歩は、自分だけの地図を作ることです。

 こんな感じで、地形地図をベースマップとして、情報を書き込んでいきます。



 字が小さくて読めなくて済みませんが、イメージとしては分かると思います。

 とくに水系は非常に大事なので、水系を把握しつつ探訪箇所を考えています。

 という作業をしていたところ、偶然にも常陸国の複数の郡衙が一直線上に位置することを発見しました。

 例えば、新治-真壁-筑波-河内のライン。



 そしてもう一つは、茨城-行方-鹿嶋のライン。



 郡衙を作ったら偶然一直線に並んじゃった、なんてことは考えられないので、これにはきちんとした理由があるはずです。

 まだ考察はしていませんが、地図を作っているとこういう発見があるから楽しいですね。

 ちなみに、歴史の研究をするうえでは、このようなオリジナルの地図作りをすることに加え、オリジナルの年表を作ると良いです。

 年表を作るのにはMicrosoftのExcelが便利です(同様なフリーの表計算ソフトでもOKです)。

 Excelはビル・ゲイツが歴史マニアが年表を作りやすいように考えて作ったソフトなのです!

 ・・・いや、もしかしたら違うかも。

 なお、年表を作るときは、出典(書名とページ番号)もきちんと書いておくといいです。

 出典が分からなくなると、それを探すのに二度手間になりますからね。

 さらに、中世以降であれば、人名事典と家系図も自分なりのものを作っておくと、後々の作業が大変捗りますよ。

 スキャナーをお持ちであれば、家系図は本に掲載されているのをスキャンしておいたり、また、いろいろな本に掲載されている図版で便利なもの(例えば土器の編年表や古墳の平面図、城の縄張図などなど)をスキャンしておくと便利です(ただし、そういったものは著作権法上の理由で個人的な使用に限ります)。

 ところで、東北地方の古墳について全体像を掴むにはこの本が便利ですよ。

東北古墳探訪―東北六県+新潟県古代日本の文化伝播を再考する
相原 精次,三橋 浩
彩流社


 200ページ近いオールカラーの本で、かなりの労作です。

 こういった本で当たりを付けたら、あとは実際に現地に行って、さらに面白いものを足で探すというのが一番効率の良いやり方でしょう。

 さて、風呂に入って寝ようっと。
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【クラブツーリズム】北目城跡・遠見塚古墳【東北古代史ツアー】

2018-04-23 23:53:18 | 歴史探訪
 一昨日と昨日の2日間(4月21日~22日)、クラツーにて東北の古代史ツアーをご案内してきました。

 クラツーでお仕事をするときは、自分で作ったツアーを引っ張っていく場合と、既存のツアーを担当して引っ張っていく場合があるのですが、今回は自分で作ったツアーです。

 クラツーと契約したのは一昨年だったのですが、そのときに東北のツアーを企画したものの、お申し込みの数が少なくて催行にいたりませんでした。

 そのため、クラツーの担当者と相談した結果、まずは知名度を上げる必要があるので、採算度外視で座学を頻繁に開催したり、料金設定が安く済む日帰りツアーを企画したりしていたところ、日帰りのバスツアーに関しては、ある回から急に多くの申し込みがいただけるようになったのです。

 さらに、人気ツアーである邪馬台国関連ツアーをやらせていただいたことにより、さらにお客様に知られていったようで、今回のツアーはリピートのお客様が多数いらっしゃり、ほぼ満席の22名様のご参加をいただきました。

 皆様、どうもありがとうございました!

 奥州は個人的に思い入れが強いため、今回は初めて奥州のツアーが催行できて私自身も非常に嬉しかったです。

 さて、今回は2日間とも天候に恵まれ、というか逆に暑いくらいでしたが、気持ちよく歴史歩きをすることができました。

 そして特筆すべきは、ドライバーさんがとても親切で、かつ運転技術が素晴らしかったため、私が下見に行った時に「ここはバスは行けないだろうなあ」と思った場所や、とんでもない狭い場所にも勇猛果敢にバスを乗り入れ、ことごとくクリアーしてくださいました。

 そのため、行程も時間通りに運ぶことができ、私も大変助かったのです。

 今回のツアーでもお客様からはお喜びの声をたくさんいただくことができましたが、ドライバーさんが素晴らしい方だっために余計に高評価をいただけたのだと思っています。

 さらに、ツアーの成功は添乗員さんのお陰でもありますし、博物館などの各施設の職員の方々や飲食店の従業員の方々、そして、クラツーの社内の方々等々、皆さんのお陰でもありますので、感謝の気持ちで一杯です。

 というわけで、どこを経めぐったか、ごくごく簡単に振り返ってみようと思います。

 なお、自らが案内している関係上、写真はあまり撮っていませんのでご了承ください。

*     *     *


 東京駅から新幹線に乗り、まずは仙台まで行きます。

 仙台には10時10分に到着。

 ここからはバスに乗って1日目の探訪を開始します。

 本日めぐるスポットはこちらです。



 遠見塚古墳、郡山遺跡、雷神山古墳、そして最後に多賀城跡周辺をじっくり歩きますよ。

 まず最初は仙台市若林区にある遠見塚古墳。

 ここは駐車場がないため、中型バスが一時的に停まることのできるポイントを下見の時に探してあります。

 ところが、ドライバーさんは私が調べておいた場所よりも良い場所にバスを停めてくれたのです。

 おー、ありがたい。

 一発目から探訪が捗ります。

 ここでは古墳の実物を見て古墳について基礎的な話をするとともに、遠見塚古墳の特徴などを簡単に話して次へ移動することにしますが、私は2年前の2016年5月12日に初めて探訪しています。

 読者の皆さんには混乱をさせてしまうかもしれませんが、今回は2年前の探訪の様子をお伝えすることにします。

*     *     *


 郡山遺跡の見学を終え、つづいては遠見塚古墳を目指します。

 住宅街のなかをニョロニョロ歩き、大きな通りに出ました。

 確かこの辺には中世の北目城跡があるはずですが・・・



 あ、見っけ!



 残念ながら遺構はないんですよね。



 これだけ開発されていては無理もないでしょう。

 内容は説明板に書かれている通りですが、中世末期には粟野氏の居城だったのが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のときに、東軍に付いた伊達政宗がここを拠点として西軍の上杉景勝に備えたのです。

 堀が障子堀だったというのが興味深いですね。

 昭和49年に出た『仙台領内古城・館』(紫桃正隆著)によると、「広瀬川南岸に広く展開したスケール抜群の城館」としつつも、すでに遺構は残っていないと記されています。

 また、「古城書上」によると、茂ヶ崎城より移ってきた粟野大膳が天正年中まで居住し、のちに政宗腹心の屋代勘解由兵衛が置かれ、関ヶ原合戦の際に政宗が拠点としたようです。

 茂ヶ崎城は、ここより北西に2kmほどの場所にある大年寺の辺りにあったようで、上述の『仙台領内古城・館』が執筆された時点では土塁が残っていたようですが、今はどうでしょうか。

 ※クラツーの私のツアーでは北目城跡は訪れません

 さて、そろそろお昼です。

 お腹が空いてきました。

 焼き肉屋発見!

 「盛岡冷麺」って書いてる!

 食べたい・・・

 ・・・ジャーン!



 盛岡冷麺、大好物なんです。

 うまい。

 あ、そういえばここは伊達領のど真ん中でしたね。

 伊達政宗のお膝元で堂々と南部の盛岡冷麺を食べるのはまた格別です。

 万歩計を見るとお昼の時点で22,000歩を越えています(なお、この日は結局4万歩を越えました)。



 ちなみのこの万歩計はたかお食堂のマスターからいただいたものです。

 「やまなか家」というお店でした。



 「家」が付いているので家系のラーメン屋と勘違いされそうですが、それは都心部だけの話かもしれません。

 さ、元気を回復したので歩きますよ!

 「鹿の又」交差点に来ました。



 横断歩道を渡り、広瀬川に架かる千代大橋を渡りますよ。



 広瀬川。



 ここから2kmも流れると名取川に合流します。



 あ!

 ダスキンさん!



 どの地方に行っても見かける仲間の車。

 極力写真に収めるようにしています。

 25分ほどテクテク歩くと、前方の歩道橋に「遠見塚古墳」の標識が見えました。



 到着!



 お、いいねえ。

 墳丘はきれいに整備されているようです。

 まずは説明板を読みましょう。



 築造時期は4世紀末から5世紀初頭の間で、さきほど見てきた名取市の雷神山古墳と同じ時期ですが、正確な前後関係は分かりません。

 もし同じであれば、その時代の仙台平野の王は雷神山古墳の被葬者で、こちらはナンバーツーであった人物(雷神山古墳被葬者の右腕的存在か)の墓かもしれません。

 また、もしこちらが早く、雷神山が後であれば、こちらの被葬者の次の代の人物が雷神山に葬られているかもしれませんね。

 墳丘長110mというのは、説明板の通り東北地方では5番目ですが、宮城県では2番目です。

 なおかつ、築造が4世紀末だとすると、その時期では東日本全体を見渡しても関東の大型古墳と比べても遜色ない大きさですね。



 この航空写真の通り、前方部の先端は道路のために破壊されていますね。

 ちなみに、遠見塚古墳の発掘調査報告書は、便利なことにWebで読めるんですよ。


 ⇒こちらです。




 2基の粘土槨があったということで、少なくとも2人以上が葬られたことが分かりますが、それが具体的にどのような人物だったのかは、とっくの昔に盗掘に会ったせいで主体部の遺物がほとんどなかったため不明です。

 仙台市内の古墳分布。



 行政区画が違うためにここには書かれていませんが、仙台平野で最も古い前方後円墳は、名取市の高舘山古墳だと言われています。

 ですので、この地方を治めた初代の王は高舘山古墳の被葬者で、その次の代あたりが遠見塚古墳か雷神山古墳の被葬者と考えることもできます。

 国史跡の標柱。



 バーン!



 前方部に登り、後円部を見ます。



 今立っている前方部の高さは2.5mで、後円部は6mあり、高低差が激しいところが前期古墳の特徴を表していますね。

 後円部の墳頂。



 祠とかはありませんね。

 神様が祀られている古墳が多いので、何もないと寂しい感じがします。

 反対側に降ります。

 周溝跡。



 整備された当初は白い石で周溝跡を表現していたようですが、今はあまり分からなくなっています。

 なお、遠見塚古墳の周溝はちょっと変わっていて、墳丘のある場所は元々は比高差1mの超微高地で、周りの土を掘ってそれで盛土して墳丘を作ったのですが、そのときできた窪みが何となく周溝になってしまったようなのです。



 また、遠見塚古墳は埴輪も葺石も見つかっていません。

 グルッと一周してきました。

 一番好きなアングル。



 遠見塚古墳のある場所は平野の真ん中です。



 一方、雷神山古墳は丘の上にあり立地は全く違っていますね。

 この立地の違いが築造年代を確定する材料になる気がします。

 それでは、つぎに行きますよ。


 
*     *     *


 遠見塚古墳は、6月16日(土)出発のツアーで探訪します。




 ⇒詳細はクラブツーリズムのこちらのページまで

 もしご興味があればぜひご参加ください。

 ※6月16日(土)出発のツアー、催行決定しました!みなさま、どうもありがとうございます!




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【奥州古代史探索 2日目 その2】胆沢郷土資料館・角塚古墳・中半入遺跡【最北の前方後円墳】

2018-04-17 06:42:49 | 歴史探訪
 相変わらず睡眠不足ではあるものの、暖かくなってきたので早起きが苦にならなくなってきました。

 お掃除に出勤する前に、1本アップしますよ。

 ⇒前回の記事はこちらです


*     *     *


 1.胆沢郷土資料館

 時間があれば平泉をもっと見たかったのですが、今回はツアーの調査が主目的ですので、涙を飲んで平泉とお別れです。

 律令国家が8世紀末の時点で「賊地」との境界線と認識していたらしい衣川から平泉方面を見ます。



 衣川。



 県道300号線から平泉バイパスに入り、ずっと下道を北上します。

 懐かしい岩手の風景。

 古代、アテルイが治めた土地だ・・・

 なぜか岩手の民家の屋根って瓦にしろトタンにしろ、赤色が多いんですよね。

 昔はしょっちゅう走っていた胆沢の扇状地に入り、平泉を出て約30分後に胆沢郷土資料館に到着です。



 資料館は胆沢文化創造センターという複合施設の中にあるんですね。

 入館料は200円。



 展示内容は時代的には大きく分けて、原始・古代と近世・近代で、ジャンル的には歴史と民俗です。

 私はとにかく、角塚古墳関連の展示が見たくて気が急きますが、まずは呼吸を整えて縄文・弥生の展示を楽しみます。

 これは面白い。



 左のは「燕尾形石製品」、右のは「イチジク形土製品」という名前が付いていますが、要するに用途不明なので「石製品」とか「土製品」などと呼ばれてしまうわけです。

 おーっ、大好きな「顔」関係の遺物!



 縄文後期の土器に顔が描かれているのです。

 展開するとこんな感じ。



 オーソドックスな遺物とパネル中心の展示ですが、こういった小ぢんまりとした資料館は意外と楽しいのです。

 そして部屋の中央には・・・

 バーン!



 角塚古墳のジオラマ!

 5世紀第3四半期に築造された墳丘長45mの前方後円墳で、前方後円墳としては列島最北端の古墳です。

 これを見ると2段築成で、上段にのみ葺石が張られていますね。

 あとで会いに行くよ・・・

 そして現場で見られない遺物はこれだ!



 角塚古墳の周溝から出土した円筒埴輪です。



 これが見たかったのだ・・・

 上のジオラマの通り、築造当初は円筒埴輪は墳丘の縁の部分に立て並べたのですが、時とともにそれが周溝に落ち、発掘するときは割れた状態で見つかるわけです。

 朝顔形埴輪もありますよ。







 角塚古墳コーナー全景。



 珠玉の展示です。

 ここは私のツアーでもご案内しますので、参加予定の方はどうぞ楽しみにしていてください!

 というわけで20分ほど展示を見て、次は角塚古墳を見に行きますよ!

 2.角塚古墳

 胆沢郷土資料館から車で15分ほど走ると、角塚古墳の墳丘と道路を挟んだ反対側に公園らしきものがありました。



 角塚古墳公園!



 こんな公園が整備されていたんですね。



 有田焼で作っちゃったの。





 角塚古墳の説明。



 道路の反対側には角塚古墳が・・・



 いいねえ。

 道路を渡って墳丘の西側からアプローチします。

 墳丘は全体的にかなり崩れており、前方部はとくに損傷が激しいですね。



 前方部から後円部を見ます。





 墳頂。



 墳頂から北西方面を眺めまーす。



 南西方面を眺めまーす。



 南東方面を眺めまーす。



 何度も話している通り、前方後円墳を連合の証としたヤマト王権の影響力は、昨日訪れた宮城県北部の江合川が上限なのですが、江合川から65kmくらい北に行った場所に角塚古墳がポツンと存在しています。

 もちろん、今後新しい前方後円墳が岩手県内に発見される可能性もあるわけですが、現在の段階では、一基だけ飛び地のように存在するヤマト王権に属した勢力の墓ということになります。

 築造年代は5世紀の第3四半期(550~574年)頃ですが、胆沢の地は元々水田耕作に適したポテンシャルがあり、とても豊かな場所だったものの、もしかするとヤマト王権に属したことにより他に抜き出た力を身に付けたのかもしれません。

 さきほどのジオラマでは2段築成になっていましたが、現状では後円部が部分的に3段なんですよね。



 でも後円部が部分的に段の数が違うことはあり得ないためこれは後世の改変で、往時は後円部が2段で前方部が1段の古墳でよいでしょう。

 後円部から前方部を見ます。



 かなり壊されている様子が分かりますね。

 後円部のこちらか見て左側がとくにえぐられているので、こういう場合は一般的には盗掘の形跡です。

 盗人が石室をめがけて穴を掘った跡の場合が多いですが、角塚古墳がどうだかは分かりません。

 角塚古墳は主体部の調査がされていませんが、5世紀の第3四半期という段階でこの地域まで横穴式石室が進出していたかどうかには大変興味があります。

 では下に降りますよ。

 前方部はかすかに数十センチの段差が分かります。



 ところで、この角塚古墳はアテルイの墓でしょうか?

 残念ながらアテルイは8世紀後半から9世紀初頭の人物ですので、角塚古墳はアテルイが生まれる300年くらい前のお墓となります。

 そうすると、アテルイのご先祖様かな?と思うかもしれませんが、6世紀になるとこの地域の集落数は急激に減少するので、もしかしたら一旦そこで血統は断絶してしまったかもしれません。

 この時代にはアイヌの先祖がこの地域まで南下してきているのです。

 そしてまた7世紀には集落数が増えることから、645年の大化改新を経て律令国家が発展していく過程で、またこの地域に西から人びとが移住してきた可能性があります。

 これに合わせてアイヌの先祖はまた北へ撤退してきます。

 こういった時代の流れは、周辺の集落跡を含めた調査をさらに進めて行って解明しようと思います。

 なお、角塚古墳ももちろんツアーでご案内しますよ。

 では、次は中半入遺跡を目指します。

 3.中半入遺跡

 角塚古墳の北北西、約2kmの位置に中半入遺跡があります。

 事前の調査では、標柱が1本立っているだけのようなので、その標柱を探しましょう。

 田んぼの中の細い道をグルグル走り回った結果・・・

 見っけ。



 ここだ。



 来ましたよ、中半入遺跡へ!







 中半入遺跡は角塚古墳と同じ頃の遺跡で、方形の区画溝で囲まれた空間が見つかっており、もしかすると角塚古墳の被葬者が住んでいた館があったのかもしれません。

 ただ、現段階ではそれは「歴史のロマン」ということにしておきましょう。

 将来はこの遺跡もさらに発掘を進めて、面白いものが出てくることに期待したいです。

 ちなみに、中半入遺跡はご覧のとおりツアー向きではないのでツアーではご案内しません。

 つぎはいよいよアテルイ関連のスポットをめぐってみますよ。

 ⇒つづきはこちら




 ⇒稲用のツアー一覧はこちらをご覧ください(一部関係ないものも表示されます)








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【奥州古代史探索 2日目 その1】天台宗東北大本山 関山中尊寺【かなり駆け足・・・】

2018-04-16 18:28:51 | 歴史探訪
 知ってますか?

 食事するお金がないときって、お腹も空かないんですよ。

 脳ってよくできてますね。

 何ていうか、「諦めモード」みたいになると、正確にはお腹は空いているのですが、あんまり食べたくないのです。

 だがしかし!

 こんな状況でも歴史は存分に楽しみましょう。

 今日は前回の記事の続きですが、ほとんど写真の羅列のみでスミマセン。

 ⇒前回の記事はこちらです

*     *     *


 ホテルルートイン一関インターの朝ご飯は、いわゆるバイキング形式です。

 こういう形態のホテルって多いですね。



 今日は珍しくあまり食欲がないので、ご飯は2杯で終わりです。

 昨日の夜中にカップラーメンを食べちゃったからな・・・

 ホテルからの眺め。





 「ヤマト」があるよ!



 というわけで、7時30分に出発!



 と思ったら、妻から電話があり、昨日私が書いていった置手紙のイラストが「今までで一番良かった」という評価をもらいました。

 さて、今日はまずは平泉に行きますよ。

 ただ、今回の旅のテーマとは違うので、1時間の時間制限を設けて参拝しようと思います。

 というわけで、到着。

 あー、この駐車場、懐かしい・・・



 本当はこの駐車場は8時オープンなのですが、5分フライングしてしまいました・・・

 では参拝開始!



 今日は中尊寺の山のみ参拝します。



 結構、坂が急ですね。

 八幡堂!





 弁慶堂!





 衣川方面の眺望。



 1200年前の朝廷軍は今見えているこの場所を進軍して行ったのでしょうか。

 薬師堂!





 お堂が沢山あって楽しい!



 気分が上がります。

 やっと中尊寺に到着。



 あー、そうだ、昔この門の前で写真を撮ったなあ。





 阿弥陀堂!



 大日堂!



 中尊寺には阿弥陀如来もいて大日如来もいるんですよ!

 最強じゃないですか!





 金色堂は今日は参拝しません・・・



 白山神社に到着。







 では下山。

 途中トイレに寄ると・・・



 弊社製品をお使いいただき、誠にありがとうございます!

 というわけで、かなり駆け足になってしまいましたが楽しかったです。

 ゆっくり1日かけて巡りたいですね。

 では本題に戻りますよ。

 ⇒この続きはこちらです




 ⇒稲用のツアー一覧はこちらをご覧ください(一部関係ないものも表示されます)



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【奥州古代史探索 1日目】ツアー事前調査および京銭塚古墳・保土塚古墳・山前遺跡・名生館官衙遺跡・伊治城跡ほか

2018-04-15 22:24:50 | 歴史探訪
 一昨日から本日までの3日間(4月13日~15日)、奥州の歴史めぐりを堪能してきました。

 初日は仙台駅まで新幹線で行きレンタカーを借りて、3日目の歴史めぐりのあとは新青森駅で車を返却し、新幹線で東京に戻ってきました。

 3日間の走行距離は582㎞で、奥州の広さを再確認した次第です。

 奥州の歴史めぐりに関しては、一昨年宮城まで行っていますが、そのときは高速バス(行きは深夜バス)を使って極力費用を抑えました。

 費用を抑えるのは毎度のことですが、今回は12年ぶりに東北新幹線に乗りましたよ。

 今は帰宅途中の中央線の中ですが、探訪初日の様子をごくごく簡単にお届けします。

*     *     *


 6時32分の東京発はやて1号に乗るには、高尾駅からの中央線は2番電車で間に合うのですが、支度が早く終わってしまったため4時28分発の始発電車に乗って東京へ向かいます。

 早朝の中央快速線は全部各駅停車なので、高尾から東京までは1時間15分も掛かりますよ。

 それでも新幹線の出発時刻よりもかなり早く着いたので、新幹線の写真を撮ってみました。



 私は決して撮り鉄ではないのですが、カメラを持ってホームを駆けずりまわっている様子は、だれが見てもそういうのが好きな人に見えることでしょう。

 そうなんです。

 そういうのが好きなのです。

 でもまだ、デジイチはスーツケースの中で、コンデジを持って走り回っているので本格的な撮り鉄だと思われることはないと思います。

 鉄道は幼少のころから好きで、今でも好きですが、実は現在の新幹線の形式は知らないのです。

 私などは新幹線というとどうしても0系なのですが、随分と未来的なデザインになりましたね。



 ようやく私が乗るのが入線してきました。



 新幹線に乗り込むとその異様な速度のせいですぐに仙台に到着です。



 それでは、駅前でレンタカーを借りて本日の史跡巡りに出発しましょう。

 今回は2泊3日の行程で奥州へ来たわけですが、一番の目的は来週末に催行されるクラツーの東北古代史ツアーの事前調査です。

 当日ご案内する歴史スポットは過去に私自身が訪れたことがある場所なのですが、今回は駐車場などのバスが停まる場所の確認と、大通りから停まる場所までバスが通れるかどうかをきちんと調べ、またトイレや自販機についても確認することが一番の目的です。

 なので、まずはこれをこなしましょう。

 仙台市若林区の遠見塚古墳と同じく太白区の郡山遺跡についてはオッケー。

 つづいて名取市の雷神山古墳です。



 雷神山古墳は墳丘長168mを誇る東北で最も大きい前方後円墳です。



 前方部の突端部分が墓地になっているため、ややスケール感が損なわれていますが、それでもやはりでかい。





 東側にはかすかに太平洋が見えます。



 今年は桜の開花が早かったため、惜しくも次週のツアーの時には桜はもう終わっているでしょう(その代わり、岩手県域で満開が見れるはずです)。





 つぎに多賀城跡へ向かいます。

 多賀城跡は広大なので、近くにある多賀城廃寺跡や館前遺跡、アラハバキ神社や陸奥総社宮、それに東北歴史博物館を含めて、歩く順番を確認するために来ました。



 極力、一筆書きで歩けるようにコースを考え、多賀城跡も確認完了。

 ちなみに今日の車はダイハツのブーンです。



 まだ2万キロも走っていない比較的新しい車で、居住空間が広く乗り心地もいいですね。

 加速力に関しては、そういう設計思想の車ではないので気にしないようにしましょう。

 さて、これでツアー初日に探訪する場所の確認が終わったので、残る時間は以前から気になっている宮城県北部の遺跡をいくつか巡ってみることにします。

 いつものごとくカーナヴィに脳内を支配されながら土地勘のない大崎地方を走っていると、視界左手に史跡の標柱らしきものが飛び込んできました。

 路駐して見てみます。



 標柱には「大郷町指定文化財 阿弥陀堂遺跡」とあります。

 11世紀に建立された阿弥陀堂の跡のようです。

 石仏が転がっているのが痛々しい。



 しかしまあ、大崎平野は広いですね。



 ところで、古墳時代の前方後円墳の北限は明日訪れる予定の岩手県奥州市の角塚古墳ですが、当該古墳はやや異例な感じがして、それを除くと、大崎平野の江合川のラインの南岸が前方後円墳の北限と考えていいです。

 つまり古墳時代半ばの5世紀までにヤマト王権の影響力が及んだ範囲は、江合川までといえるのです。

 ただ、そのあとの6世紀に国造制が展開されたときは、国造の北限はもっと下がって、阿武隈川のラインとなります。

 古墳というと前方後円墳が代表的だと思いますが、私がとくに気にして追いかけている前方後方墳では最北端の古墳が美里町の小牛田にあります。

 それを見にやってきました。

 ここだ・・・



 墳丘長66mの京銭塚古墳。



 現状はお寺になっているようなのですが、個人のお宅のように見えたので、あまり奥まで行きません。

 というところで、そろそろお昼にします。

 時刻は13時半を回っています。

 時間がもったいないのでファミマで弁当を買って車内で食べます。

 奥州に来てまで、いつもD社でやっているのと同じだ・・・

 素早く昼食を済ませ、この近辺の遺跡をもう少し探ってみます。

 この近辺には他にも古墳があり、遺跡が集まっている地域なのです。

 バーン!



 保土塚古墳。



 この古墳は円墳です。

 径50mあるので、かなり大きな円墳ですが、説明板によると元々は前方後円墳だったという説があるようです。

 墳頂。



 見下ろすと段築がありませんが、普通考えたらせめて2段築成ですよね。



 今日はちょうど桜祭りをやっていたのでしょうか。

 おっと、こんなところにC11が!






 つづいて山前遺跡を探します。

 確かこの辺だと思うのですが・・・

 標柱発見!

 ここでしょう。

 おや、でも「新山前貝塚」って書いてありますよ。





 公園になっているので奥へ行ってみましょう。



 やっぱりここで良かったようです。





 山前遺跡の目玉はこの大溝です。



 これが見たかったのだ。

 古墳時代の集落を取り囲むような大溝で、現在のところこういう遺構は珍しいですが、中世の集落跡からも溝が検出される例が増えているので、もしかしたら珍しいものではないのかもしれません。

 つづいては、大崎市にある室町時代の大崎氏の本拠地・名生館跡へ向かいます。

 あ、なんだろうこの神社は。



 山神社・・・



 主祭神はオオヤマツミかと思ったらコノハナサクヤヒメでした。





 これ以上のことは今は分かりません。

 こうやって気になるものを見つけたときに一々立ち寄っているといくら時間があっても足りませんね

 もうそろそろ時間が無くなってきたので名生館跡の詳細な調査はできませんが、説明板だけでも撮りたいです。

 ・・・おっと、ありました!



 昔、奥州の館跡をめぐっていたときに、ここにも来たかったんですが当時はなかなか来れず、今日ようやく来ることができました。

 感慨深いです。

 遺構の探索の時間はありませんが、振り向くと土塁!



 こっちには空堀!



 よし、今日はこれでいいでしょう。

 ここ名生館跡は古代の官衙跡でもあるので、それに関する説明板を探しましょう。

 見っけ。



 内容が同じ古い説明板が民家のガレージに立てかけてあります。



 こちらの農家は遺跡についてご理解のある方なのでしょうか。

 周囲の風景を眺め、古代の様子を想像しましょう。



 時計を見ると16時10分。

 もう一ヶ所行けるので、本日の宿泊地である岩手県一関へ向かう途中にある伊治城跡を目指します。

 と思い車を走らせていると、え?

 小野小町の墓?



 ひやー。



 また引っかかってしまった・・・



 先に進まなければ。

 ひとまず埋蔵文化財センターを目指してやってきましたが、とっくに閉まっています。



 伊治城跡も説明板の写真だけでも抑えたい。

 車に乗って遺跡地を巡回しますが、説明板も見つかりません。

 ただ、お寺の前の説明板に関連することが書いてありました。



 ああもうタイムアップだ。



 ホテルへ向かいます。

 高速に乗りしばらく走り、金成PAで休憩。

 金売吉次の説明板あり。



 ラーメン屋があるのでついでに夕飯を食べちゃいます。

 仙台辛味噌ラーメン。



 お腹が落ち着きました。

 売店でこっちローカルの「龍泉洞」缶コーヒーが売っていたのでゲット。



 では再び高速を走ります。

 宿泊地であるホテルルートイン一関インターは、その名の通りインターを降りたすぐ近くにあります。

 おっとー、ホテルの向かいには岩手県内でチェーン展開している「ヤマト」があるではないか!

 ここで盛岡冷麺を食べればよかったかなあ・・・

 まあ、盛岡冷麺は明日食べよう。

 というわけで、ファミマでビールとつまみを買ってホテルへ。

 すぐに大浴場へ行き気持ちよくなった後は、ようやく一人打ち上げです。



 初日から充実した楽しい一日でした。


 ⇒この続きはこちらです





 ⇒稲用のツアー一覧はこちらをご覧ください(一部関係ないものも表示されます)


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【クラブツーリズム】土日に講座を3本やりました【埼玉県神社庁】

2018-04-09 12:56:26 | 歴史探訪
 先日の土日は、講座を3本やらせていただきました。

 土曜日は月に1度の西新宿クラツー本社での講座です。

 午前中は「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」の第4回目として鎌倉時代の東北地方についてお話しました。



 12名様のご参加、ありがとうございました!

 そして午後は、「邪馬台国北九州説の可能性を探る」というお題で、こちらは23名様のご参加をいただきました。



 どうもありがとうございました!

 会場は1階のエントランスに入ってすぐ右側にある比較的大きなお部屋でした。

 改装後、講座会場として使うのは初めてだそうで、まだ「新築の匂い」がしていましたよ。

 私にとっては、引き渡し清掃に行ったときによく嗅ぐ匂いです。

 土曜日はこのような形で、いつもと同じように講座をやったのですが、日曜日は大宮の氷川神社まで出張ってきました。

 埼玉県神社庁とクラツーとの共催で「神社DAY」というイヴェントが開催され、そのなかで講座をやらせていただいたのです。

 今日はその時の様子をごくごく簡単にご報告します。

*     *     *


 私の出番は15時からですが、早めに大宮に着いたのでまずはさいたま市立博物館を見学。



 とくに考古遺物と中山道の大宮宿の解説は興味深く拝見しました。

 図録もたくさん売っており素晴らしい。

 ああ、散在してしまった・・・

 つづいて、氷川神社へ詣でます。

 今日はイヴェント開催日ということで、参道にはたくさんの出店が並んでおり、とても賑やかです。

 楼門。



 拝殿。



 そして一番の注目は、境内神社の門客人神社です。



 ここの祭神は現在はテナヅチとアシナヅチですが、昔はアラハバキだったのです。

 さらに言えば、氷川神社のもともとの主祭神がアラハバキだった可能性もあります。

 アラハバキに関してはこのあとの講座で話そうと思っていますよ。

 つぎに、埼玉県立歴史と民俗の博物館を見学します。



 近代的なつくりの博物館ではありませんが、中身はかなり充実しています。

 埼玉の縄文土器が草創期から晩期まで展示されており、素晴らしいラインナップです。

 編年を目で見て確認できるのですごく楽しい。

 土器マニアには堪りませんな。

 展示コーナーが結構広くて、しかも私は考古遺物をかなり丹念に見ますので、中世以降のコーナーを見る時間がなくなってしまいました。

 というわけで、そろそろ出番の時間が近づいてきたので、本日の講座会場である社務所の2階へ向かいます。

 クラツーの歴史チームの方々は総出で働いていらっしゃいます。



 埼玉県神社庁さんが作ったチラシは、来るときに鳥居の下で神社の方が配っていたのをいただきました。



 自分の名前を見るとちょっと気恥ずかしい・・・



 埼玉県神社庁さん、どうもありがとうございます。

 さて、講座は定員140名様というところが、キャンセル待ちが数十名も出てしまったという大盛況フィーバーでした。



 皆さま、ご参加ありがとうございました!

 お題は「神社と古代史」ということで、実際には神社ができるまでの神社前史と、東北地方の神社とさきほどチラッと言ったアラハバキについて話させていただきました。

 いつもとお客様の様子が違うのは、若い女性がたくさんいらっしゃったことで、やはり神社は若い女性にも人気があるんですね。

 私は講座では基本的に質疑応答を設けませんので、今回は終わったあとに6名もの方が個別に来てくださり、こんなに熱心な方々が聴いてくださったことをとても嬉しく思いました。

 そのときにも話したのですが、アラハバキというのはいまだ私もよく実態をつかめておらず、またアラハバキについてまとまった書籍を探してもほとんどなくて、あったとしても非常に著者自身の「ワールド」を展開しているものだったりして、なかなか決め手となるものはありません。

 ですから、今後もフィールドワークをしながら「足」で稼ぎつつ研究を続けていこうと思っています。

 というわけで、終わった後はこちらに出張っていた妻と一緒に大宮駅近くで軽く飲んで帰りました。



 お腹ペコペコだったのです。





 このお店の蕎麦、リーズナブルですがとても美味しい。



 睡眠不足のせいか、中生3杯と日本酒1合でほろ酔いになりました。

 ところで、今回はようやく100人規模での講座をすることができたので、次なる目標は1000人規模のお客様の前で話すことです。

 聴いてくださる方は多ければ多いほど私も楽しいですし、また一度に多くの方々に歴史の楽しさを伝えることができるのでやりがいが増えますね。

隠された古代―アラハバキ神の謎
近江 雅和
彩流社



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音楽を聴きながら・・・

2018-04-06 19:46:50 | 音楽
 さて、明日のレジュメを作り始めますぞ。

 というわけで音楽を聴きながら作業。

 ■Run Away ft. Anderson .Paak/DJ Soak

 さっき、車の中のJ-WAVEで偶然聴いて気に入りました。



 ■片目で異常に恋してる/ジェニーハイ

 このバンド、カッコいい。



 ■Lullaby/Sigala, Paloma Faith

 うん。



 ■戦ってしまうよ/ゲスの極み乙女。



 車の中でドラムを真似したんですけどスピードについていけなかった・・・

 ■パラレルスペック/ゲスの極み乙女。

 先入観で今まで聴かなかったけど、聴いてみるとこのバンドもカッコいいんだなあ。

 みな楽器上手いし、私は女性がドラムを叩いている姿に弱いのです。

 あんな靴でペダル蹴ってる!



 ■モノノケダンス/電気グルーヴ

 お地蔵さんがエナジードームを被ってる!



 ■人間大統領(Video Edit)/電気グルーヴ

 電気、カッコいい・・・

 やっぱり凄いね。



 ■春雷/米津玄師



 男ヴォーカルでは好きな声だ。

 ■Shoes(Music Video YouTube Ver.)/雨のパレード

 私も愛用していたRolandのJUNO-106だ!

 このシンセが一番好き。

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土地・祖霊・稲に対する信仰は仏教の登場によりどう変化したか

2018-04-03 12:58:28 | 民俗コラム
 昼休みのちょっとした時間を利用して、今思いついたことをチョロッとお話しします。



 大雑把に言って、関東地方の場合は古墳時代の前半(3世紀半ばから5世紀)は古墳の石室は竪穴式で、6~7世紀は横穴式となります。

 前方後円墳では、竪穴式石室の場合、被葬者は後円部の中央下に葬られることが多いため、お祭りをするときは前方部正面からその後ろに見える後円部を仰ぎ見たのではないかと思います。

 それが横穴式石室になると、石室の入り口がくびれ部分に設けられることが多いので、そうすると祭祀を行う場所も造出部分に移ってきたのではないかと思います。

 ところで、古墳で行われる祭祀というのはどういった目的で行われたものなのでしょうか。

 昨日お話しした通り、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の墓前でも祖霊に対する祭祀が行われていました。

 その伝統は古墳時代になっても引き継がれたはずで、古墳の前での祭祀というのは祖霊に対するものであったと思われます。

 そして前方後円墳に葬られている人の多くは地域の首長ですから、祖霊にプラスして土地の神様という意味付けもできるはずです。

 昨日お話しした、稲作農耕民の3つのカミのうち、祖霊と土地のカミがここに出てきました。

 では、もう一つの稲魂を古墳に祀るということはあったのでしょうか。

 今までそういった目で古墳を見てこなかったため、私の記憶には残っていないだけかもしれませんが、古墳からはそういった形跡は見つからないような気がします。

 ということは、稲魂は集落や田の近くに祀られていたのかもしれません。

 ところが、稲魂はその名の通り稲の魂なわけですが、民俗学的には昔から田んぼを守ってくれる神様は祖霊です。

 では、稲魂というのはいったい何なんでしょうか。

 稲魂というと稲荷神社の祭神であるウカノミタマを思い浮かべると思いますが、稲荷神社とウカノミタマが結びついたは結構最近ことで、室町時代からのようです。

 いまのところ稲魂に関しては私も調査ができていないので保留するとして、面白いのは現在の神社では自分たちの先祖を崇拝することはしませんよね。

 現在では先祖崇拝の場は神社ではなくお寺です。

 一般的にはお寺には仏様が祀られていますが、私たちの先祖の「カミ」を祈る場はお寺なんですよね。

 そうなると、仏様とか神様とか、より一層話が複雑になってきます。

 古墳時代に話を戻して、土地の霊(首長霊)や祖霊に対する祭祀は6世紀になっても引き続き古墳で行われていたわけですが、6世紀には日本列島に正式に仏教が入ってきます。

 いわゆる「仏教公伝」なわけですが、もちろんそれ以前にもローカルには仏教は日本に入ってきたと思います。

 7世紀には関東地方にも寺院が作られ始めますが、例えば群馬県の総社古墳群では古墳を築造しつつ、同時期に寺院も造っているのです。

 仏教が進出してきたことにより、祖霊信仰は仏教に持っていかれてしまったように思えますが、そもそも神社ができたのは7世紀後半ですので、神社には当初から祖霊崇拝の役割はなかったものと思われます。

 そうだとすると、弥生時代から日本人が「カミ」としていた、土地の神・祖霊・稲魂のうち、祖霊に対する信仰を神社は引き継がなかったことになり、仏教寺院は日本に登場した当初から祖霊を祀る役割を持っていたものと想像できます。

 なんかあまり練られていない歯切れの悪いお話しになってしまいましたが、そろそろ午後の現場に行ってきます!

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日本人は何に「カミ」を感じるか

2018-04-02 22:12:09 | 民俗コラム
 昨日の話しの続きのようになってしまいますが、今日もお掃除を終えて帰宅後、日曜日の講座のコンテンツ作りをしています。

 私は漢字が好きで(ただし、決して詳しくはなく漢字検定は受けたこともありません)、漢字が気になるとすぐに白川先生の本で調べてしまいます。



 ※ジジも愛読している白川静先生の著書(軽く2万円越えの『字通』は20代半ばのサラリーマン時代にボーナスで買ったのが役に立っています)

 今日は「土」という字の語源を調べようと思い、『字通』を見てみたところ、やはり思った通りで、本来は「土」というのは地面にあるあの土のことではなく、土地の神様の意味でした。

 現在では神社のある森のことを「杜」という字で表しますが、「森」は単に木が沢山生えている様子を想像できる一方で、「杜」は土地の神様と、いわゆる「神木」がセットになっている字だということが分かりますね。

 私は「ルーツ・マニア」で、プリミティヴなものが好きなのですが、もちろん神社のルーツにも大変興味があります。

 ただ、神社のルーツの場合は、昨日の話しのように律令国家の発生までしか遡れません。

 それでは、神社が出現する7世紀より前の日本人の信仰はどのようなものだったのでしょうか。

 ところで、昨日は「神社」の「社」という字の意味をお話ししましたが、「神」という字の本来の意味を調べてみましょう。

 『字通』によると、神の「申」の部分は電光が屈折して走る形で、神意の現れとしています。

 やはり「神」という字は地面のカミ(神祇の「祇」)ではなく天帝のイメージでしょうか。

 ここまで話してくると、「神」という漢字の使い方にも注意が必要になってきたと思えてきたので、わざとカタカナで「カミ」と表記することにしますが、『カミの誕生 原始宗教』(岩田慶治/著)によると、諸外国では稲作農耕で生活する人びと(私たち日本人の場合は弥生時代以降)のカミには3種類あります。

 1.土地のカミ

 2.先祖のカミ

 3.稲のカミ(稲魂)

 日本人の場合は、上述の3つを合一して考えているそうです。

 確かにそうですね。

カミの誕生―原始宗教 (講談社学術文庫)
岩田 慶治
講談社


 さて、日本人の先祖は・・・といっても単純な話ではないのですが、私たちの先祖に繋がる一派は、弥生時代に大陸から稲作の技術や青銅器の製造技術などを携えて九州へ上陸しました。

 その故地である中国では、彼らが日本列島に上陸する前からすでに祖霊を「カミ」として祀っていたのです。

 中国では、いわゆる「漢字」という統一された文字が創られるより前のプリミティヴな文字が刻まれた考古遺物がたくさん見つかっています。

 例えば、青銅器に刻まれた文字を「金文」というのですが、紀元前11世紀から8世紀の間の西周という国があった時代に造られた「大克鼎(だいこくてい)」という3本足の青銅製の器(上海博物館蔵)には290文字が刻まれており、それには祖霊をカミとして祀っていた様子が刻されています。

 西周が衰退すると春秋時代となり、やがて戦国時代というように時代は流れていくのですが、私はその間の紀元前473年に滅びた呉や紀元前334年に滅びた越の人びとが日本列島へ渡ってきた可能性にロマンを感じます。

 もちろん中国大陸だけでなく、朝鮮半島でも多くの動乱があったので、大陸の各所から日本列島へ人びとが来たと思いますが、大陸から来た人びとが上述の3種のカミの概念を日本に持ち込んだことは想像に難くありません。

 ではそれを実際の遺跡で確認することはできないでしょうか。

 弥生時代の遺跡を見ると、吉野ヶ里遺跡では祖霊崇拝があったことが分かります。

 吉野ヶ里遺跡では「北墳丘墓」と呼ばれる大型の墳丘墓が見つかっており、「王」と呼べるような身分の14人の甕棺が埋葬されていました。

 この北墳丘墓の前面には1本の柱の跡が検出されており、現在はこのように復元されています。



 この柱のさらに前面には祠堂の跡と推定されている拝殿のような建物が復元されており、さらにこれらは吉野ヶ里のムラのもっともコアな建物である北内郭の主祭殿から見ると、主祭殿の南北の軸の延長線上に、祠堂・柱・北墳丘墓の南北の軸が綺麗に並んでいるという特徴を持っています。

 さらにもう一つ付け加えると、主祭殿から北墳丘墓とは反対方向に線を引っ張って行くと雲仙岳にぶつかります。

 古代人は方位には非常に敏感だったのです。

 さて、北墳丘墓の築造時期は弥生時代中期前半で、墳丘墓の東側の土壙には中期中ごろから後期後半までの300年に渡って捨てられ続けた祭祀用土器が見つかっていることから、その間、祖霊に対する祭りが継続して行われていたことが分かります。

 つまり、弥生時代中期前半(実年代については諸説ありますが、遅く見積もっても紀元前100年代頃)には、私たちの先祖は祖霊崇拝を始めていたことが分かるわけですね。

 こういった祖霊崇拝が縄文時代まで遡るかは分かりませんが、弥生時代には稲作も日本に入ってきていますから、上述の3つの「カミ」のうち、弥生時代には祖霊と稲魂をカミとしていたと考えていいと思います。

 では、もうひとつの土地のカミについてはいつから信仰が始まったのでしょうか。

 現代の私たちが土地に対してカミを感じる瞬間とはどんなときでしょうか。

 私たちの場合は産土神というのに比較的馴染みがあって、それは私たちが誕生した地域の神様で、引越しを繰り返したとしても一生、産土神との縁は切れないと考える人もいます。

 日本人が想う所の土地の神というのは亡くなった地域の王ではないでしょうか。

 上述の北墳丘墓に葬られた王たちは、ムラの上層部の人たちからすると祖霊となり、地域の住民からすると土地の神ということになったのではないでしょうか。

 日本人は今でもそうですが、偉業を成し遂げた人が亡くなると神として祀る習慣がありますよね。

 若い人たちが特殊な才能の持ち主のことを「神だ!」と言ったりするのも2000年以上の伝統の上に成り立っているかもしれず、また、若い人たちが性的で偏執的な事件を引き起こした犯罪者に対しても「神だ!」と言ったりするのは、もしかすると平安時代以降の怨霊信仰の名残かも知れません。

 話を戻して、日本人は実在した人物を死後に神として祀るのが好きなので、そうなるとやはり偉大な王は神様となる資格は充分にあると思います。

 弥生時代が終わり古墳時代になると、墳丘墓(この時代には古墳)は異様なほどに巨大化して、それはまさに地域住民が現実に偉大な「カミ」を感じる装置としての機能も果たしていたと考えれらます。

 というわけで、そろそろ夕飯なので今日はこの辺で。

 【追伸】

 実は私は信仰とか神話とか、そういったこともだいぶ前から興味があって、少しずつ本を読み続けています。



 もともと小学生の頃は「オカルト少年」でしたので、ちょっとアンダーグラウンドな「呪い」とかそういったことにも興味がありますが、現在は誰のことも呪っていませんのでご安心ください^^

 【追伸 その2】

 ちょっと先になりますが、6月9日(土)に西新宿のクラツー本社において「日本神話と神社の歴史 ~古代・中世を中心として~」という講座をします。

 興味のある方はどうぞこちらからご応募ください。

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「神社」とは何か

2018-04-01 21:01:58 | 歴史コラム:古代
 来週の日曜日(4月8日)は埼玉県神社庁とクラブツーリズムとの共催で、大宮の氷川神社にて「神社DAY」というお祭りのような行事が行われます。

 そのなかで、3本の講座が行われるのですが、そのうちの「神社と古代史」というお題で私もお話しさせていただきます。



 先週の時点で90名様ほどから参加申し込みをいただいているようで、ノミの心臓の私は今から緊張しています。

 コンテンツについてはこの仕事をいただいてから潜在意識の方に企画を任せておいたのですが、そろそろ顕在意識でも考えないといけないですね。

 というわけで、ネタ探しのためにまずは『「神道」の虚像と実像』(井上寛司/著)の再読を始めたのですが、井上氏によれば神社と律令制は双生児だということで、神社は天武朝以降、つまり7世紀後半に国家により造られたとしています。

 神社と共に神道という言葉もよく出てきますよね。

 孫引きになってカッチョ悪いのですが、該書が引くオスロ大学のマーク・テーウン氏の論によれば、

 ・「神道」の語はもとは中国で用いられていたのが、そのまま古代日本に導入されたもので、その読みも当初は濁音の「ジンドウ」であった。

 ・その意味するところは、「仏教下の神々をさす仏教語」である。

 ・この「神道」が室町期、十四世紀ごろの日本で、清音表記による「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。

 ということらしいです。

 ※詳しくはこちらを読んでください。

「神道」の虚像と実像 (講談社現代新書)
井上寛司
講談社


 私は以前から「神道」という言葉の使い方に対して非常に難しいと感じており、歴史のツアーなどでも「神社信仰」という曖昧な言葉を使っているのですが、神社自体が7世紀後半以降にできたものだとすると、なおさら用語の使い方が難しいなあと思いました。

 しかし、その「神社信仰」の発展も仏教と密接に関わっていたというのは以前から私も感づいており、「神道」がそもそも仏教の用語だとすると、平安時代に本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が定着してしまったのも分かる気がします。

 となると、「神社と古代史」というお題で話すとなると、大宝令が制定された701年以降の話をするのが素直なところだと思いますが、ここはちょっとフェイクになってしまう感があるものの「神社前史」、言いかえると「神社ができるまで」という内容で古墳時代やそれ以前の信仰について話そうかと思っています。

 ところで、「神社」の「神」は神様のことであると皆さん思っていると思いますが、「社」って何でしょうか?

 私は語源が知りたい時は必ず白川静先生の『字通』を引くのですが、該書によると、『説文解字(せつもんかいじ)』(中国で2000年くらい前に書かれた漢字辞典)に「地主なり」とあるそうです。

 つまり産土神、その土地の神様という意味なんですね。

 日本では「神祇」という言葉があり、「神」がアマツカミ(ヤマトが信奉する天皇家の神)で「祇」がクニツカミ(ヤマトに征服された地方の神)という意味で使っていますが、「社」は「祇」と同じ意味でした。

 厳密には違うかもしれませんが、おおよそそういった理解でいいのではないでしょうか。

 また、国家のことを「社稷(しゃしょく)」と言ったりしますが、「社」というのは上述した通り土地の神で、「稷」は五穀の神のことで、国の重要な祭祀、あるいは国家そのもののことを表します。

 その土地の神様を表す漢字が「社会」とか「結社」などという言葉に使われているわけで、それを知ると「我々の社会は」とか言う時に、もう一段階深い思索ができそうです。

 さて、律令制の神社が誕生するまでの「神」の歴史ですが、人間はいつから神様の存在を考えるようになったのでしょうか。

 一般的には、まだ農耕社会になる前から、人間は自然現象に対して畏敬の念をいだいており、太陽、月、星、風、雨、雷といったものに「神」を感じたと考えられていると思います。

 そういった自然の脅威に対して祈りを捧げたわけですが、人間は静かに祈るだけではなく、力で神と向き合おうとしたこともあったと考えています。

 いきなり時代が下って古墳時代の話になりますが、少し前に話題になった「日本のポンペイ」と言われる群馬県渋川市の金井東裏遺跡のことをご存じでしょうか。

 ちょうど昨日のツアーの内容とも地域的にも時代的にもかぶるのですが、群馬県の榛名山は6世紀に2度大きな噴火をして、近隣に大変大きな災害をもたらしました。

 そのうちの2度目の噴火のときに、火砕流に襲われて壊滅した村の遺跡から甲冑を来たままの男性の骨が発見されたのです。

 彼はその地域の首長で、本来であれば大型の前方後円墳に葬られるほどの身分の「王」でした。

 彼はヤマト王権から下賜されたと思われる当時最新鋭の挂甲という鎧に身を固め、完全武装して怒れる山の神に対峙していたのです。

 この遺跡については書きたいことは沢山あるのですが、本記事のテーマにあった話だけをしますと、発掘状況からして、最初噴火が始まり火山灰が降りだした時、彼は鎧兜に身を固め、最強の兵器である愛馬とともにその地へ赴き、高価なお供え物を神に捧げて首長として神の怒りを収めるべく必死に祈ったことが想像できます。

 完全武装しているのは、神に対して祈るだけでなく、自らの武力を誇示して神にそれを認めてもらうという考え方もあったのではないでしょうか。

 首長が領内の民の命を守る義務を持つことは古代も変わりません。

 完全武装して神と対峙し、自らの命と引き換えに地域を守ろうとする強い信念を感じるのは私だけでしょうか。

 という感じで、こういう話も織り交ぜようかなと思っていますが、持ち時間は60分なので、よくよく吟味しないといけませんね。

 ツアーのバスの中でもついつい30分とか45分とかマシンガントークをしてしまうこともあるので、60分はあっという間なのは理解しています。

 ところであなた、リラックスしすぎじゃないの?



 あ、気付いた?




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【クラブツーリズム】群馬古墳ツアーが無事終わりました【八幡古墳群探訪レポート】

2018-04-01 15:23:41 | 歴史探訪
 昨日の3月31日は、クラブツーリズムにて群馬の古墳ツアーのご案内をしてきました。

 天候は晴天。

 桜の開花が早まったお陰で行く先々できれいな桜を見ることができ、また帰りはこれも見事な満月をバスの車窓から眺めることができました。

 今回は中型バスが満席の24名様のご参加ありがとうございました!

 お客様の4分の3が女性ということで、男性陣は間違って女性専用車両に乗り込んでしまったような錯覚に陥ってしまったかと思いますが、古墳が女性に人気があるということを実証することができたツアーとなりました。

 めぐった場所は、まずは伊勢崎市のお富士山古墳。



 桜、バッチリ。

 ここでは東日本で唯一残る長持形石棺の実物を見ました。

 つづいてお昼ご飯を挟んで訪れたのは高崎市の八幡(やわた)古墳群です。

 まずは館長さんのご案内の下、観音塚考古資料館を見学し、つづいて東日本最大規模の横穴式石室を内蔵する観音塚古墳へ行きました。



 ここも桜が見事で、墳丘の裾では地元の方々が敷物に座ってお花見をしており、東京からやってきた私たちを物珍しそうに見ていました。

 「こんなところ見るところあるの?」と言う若いお母さんに対し、旦那さんらしき人が「何言ってるんだよ、ここは有名な観光地なんだよ!」と言っているのが聴こえてきました。

 少し時間に余裕があったので、お客様には告知していなかったものの、八幡古墳群を構成する二子塚古墳も外観だけ見て、同じ高崎市の保渡田古墳群へ移動。

 ここでは、最初にかみつけの里博物館で館の方から丁寧で楽しい解説をいただき、つづいて八幡塚古墳と井出二子山古墳を見学しました。



 直近では2泊3日の北九州のツアーを4回連続でやったため、日帰りのバスツアーとなると、何か呆気なく終わってしまった感じがして、物足りないような気がしました。

 帰路、お客様からは「もっと見たかった!」という元気な声があがるとともに、「はー、疲れたねー」という声も聞こえ、できれば私ももっと濃厚なツアーにしたいのですが、大体このくらいがちょうど良いのではないかと思っています。

 というわけで、次回の古墳ツアーは4月28日(土)に栃木県の那須地方へ行く予定ですので、物足りなかった方はぜひどうぞ。

 水戸黄門が発掘した前方後方墳・下侍塚古墳や那須国造碑、それに那須郡衙など、古代史好きの方に満足していただける内容だと自負していますので、興味のある方はぜひご参加くださいね。



 ・・・実はあと3名様ほど参加表明をいただければ催行となるのです。

 ぜひ、宜しくお願い致します!

 ⇒詳しくはこちらをご覧ください

 ところで、昨日訪れた八幡古墳群ですが、昨年のちょうど同じころの4月2日に下見に訪れています。

 本日はそのときの様子を簡単にレポートしますので、昨日のツアーに参加された方は復習がてらご覧ください。

 また、昨日は時間の関係などで説明しきれなかったことも書きますのでよろしくお願い致します。

*     *     *


 高崎市歴史民俗資料館を出たのは14時45分でしたが、思いのほか移動に時間が掛かり、観音塚考古資料館に着いたときにはもう15時35分になっていました。



 この場所には八幡(やわた)古墳群があり、大型の前方後円墳が3基あります。

 そのなかの観音塚古墳では、戦時中の昭和20年に防空壕を掘っていたところ偶然横穴式石室が見つかり、未盗掘の状態で300点もの見事な副葬品が出土しました。

 それらは一括して国の重要文化財に指定され、それらを保存し、一般の方々に公開するための施設として昭和63年に観音塚考古資料館が造られたわけです。

 おや、お庭に何かありますよ。



 横穴式石室ですね。



 なるほど、敷地内に八幡遺跡20号墳の石室を移築して保存しているようです。



 ※註:『小さな古墳の物語 群馬の群集墳を考える』によると、八幡古墳群には大型前方後円墳3基以外にも小型の前方後円墳1基と円墳が20基確認されており、その多くは7世紀後半の築造で、それらの中で最大規模の17号墳は径31mの3段築成の円墳です。

 では、考古資料館へ入ります。

 ここは残念ながら写真撮影NGです。

 ※註:2018年3月31日にクラツーで訪れた時は撮影OKとなっていました

 ではつづいて、観音塚古墳から見てみましょう。

 考古資料館から3分ほど歩くと古墳に到着です。



 まずは説明板を確認。



 観音塚古墳は八幡古墳群にある3基の前方後円墳の中で最後に築造された古墳で、その時期はもう6世紀末。

 関東地方における前方後円墳の最終形態を見ることができます。

 最終形の前方後円墳ということで墳丘の平面形を見ると分かる通り、前方部が異様に広くなっています。



 墳丘長が105mなのに対し、前方部の幅も105mあるのです。

 そして後円部が3段築成なのに対し、前方部は4段築成という他ではあまり見ることのできない面白いデザインとなっています。

 しかし、興味深いのは墳丘だけでなく、横穴式石室です。

 お、開いてる開いてる・・・



 ワクワクしてきましたぞ。

 右手には中世の五輪塔などが固まっています。



 中に入る前に、横穴式石室の図面を見てみましょう。



 長さはなんと15.3mで、東日本では最大級の大きさの横穴式石室です。

 なお、全国で見ると、奈良県橿原市の見瀬丸山古墳の横穴式石室が28.4mあり、現在見つかっている横穴式石室の中ではそれが最長ですが見学はできません。

 ※註:見学できるものとなると(期日限定公開を含む)、私がクラツーで何度もご案内している福岡県福津市の宮地嶽古墳の石室が22mあって、それが最長かと思われます。

 まあ、数値は良いとして中へ入ってみましょう。



 ここは懐中電灯必携ですが、忘れた方はさきほどの資料館で借りることができます。



 羨道から玄室を見ると、前室入口の上に仕切りの石がありますね。



 それに頭をぶつけないように気を付けて玄室に入ります。

 おー、広い・・・



 奥壁に染みのようなものが見えますが、壁画ではありませんよ。

 天井石すごいね。



 一番大きなものは8畳ほどの広さで(説明板では10畳)、重量は55トンもあるそうです。

 石材の凝灰岩はすぐ近くでは取れず、烏川を10kmほど遡った場所で切り出して運んできたそうです。

 右側の壁面。



 左側の壁面。



 玄室の天井の高さは2.8mあり、まったく圧迫感を受けません。

 玄室の床の真中には仕切りのような石が並んでおり、2つの区画に分けられています。

 一番奥へ入って外側を見ます。

 フラッシュ点灯。



 フラッシュなし。



 仕切りの石を内側から見ます。

 

 なお、玄室からは鉄でできたフックのようなものも見つかっているので、おそらく埋葬時に壁にフックをひっかけて、それに布をぶらさげ、もがりのようなことをしていたのだと思います。

 では、黄泉の国から生還しますよ。

 出てきました。



 お母さん、生んでくれてありがとう。

 つづいて墳丘へ登ります。

 うわ、あからさまな葺石。



 後期の古墳は前方部と後円部の高さが変わらないので、どっちが後円部かパッと見では判断できないことがあります。

 では東側の後円部から参りましょう。

 小詞が並んでいますね。



 安政4年というのは江戸末期の1857年。



 安政の大獄が起きる前の年ですね。

 後円部から北側を眺めます。



 後円部から前方部を見ると、まるでその逆で眺めているように思えるほど、前方部が高いです。



 後円部の高さは12mなのに対し、前方部は14m。

 面白いねえ。

 前方部にも祠が並んでいます。



 ※註:この写真は2018年3月31日撮影

 葺石の数もすごいですね。

 お、観音様。



 古墳の名前の元になった観音様でしょうか。

 元々は観音堂があったそうです。

 前方部から平塚古墳を見ます。



 後円部を見ると、やっぱりいつもの逆の感覚。



 前方部の麓の畑部分を見下します。



 ※註:この写真は2018年3月31日撮影

 ちょうど畑の幅が周溝の幅なんですが、観音塚古墳は二重堀だったことが分かっています。

 そうすると、周溝を含めた大きさは、長辺が墳丘の105mの倍の210mくらいはあったと見て良いはずです。

 見てこの前方部の裾のダイナミックさ!



 ※註:この写真は2018年3月31日撮影

 素晴らしい・・・

 前方部が4段なんて素敵じゃないですか。

 前方部からの眺望。



 前方に学校の校舎が見えますが、その向こう側には烏川が流れており、この古墳がある場所は丘陵の上なのです。

 ということで、ここで周辺地形をご覧ください。

 まずは八幡古墳群の近辺。



 西の浅間山から伸びる丘陵の上に3基の前方後円墳が三角形を形作って並び、その真中に観音塚考古資料館があります。

 ※註:クラツーのツアー時に次の保渡田古墳群へ向かうためにバスは北側の烏川の沖積地へ坂を下って行きましたが、かなりの比高差がありました。

 もっと範囲を拡げてみましょう。



 ここは律令時代には方岡郡の範囲で、烏川の対岸は群馬郡です。

 八幡古墳群のなかの前方後円墳の構築順は、まず5世第4四半期に平塚古墳が築かれ、つづいて6世紀半ばには二子塚古墳が築かれ、最後にここ観音塚古墳が築かれました。

 約100年の間に大型古墳を3基築いたわけですね。

 この古墳は素晴らしいので、ここを含めたクラツーのコースを造ろうっと。

 ※註:この旅のあとコースを企画し、2017年7月1日と2018年3月31日の2度催行しています。

 では、続いては、二子塚古墳を見てみましょう。

 ■八幡二子塚古墳

 歩いてもすぐ近くの距離です。

 住宅街を歩いて行くと・・・



 おー、墳丘!



 いいねえ。



 ここには説明板はないようです。

 まずは登ろう。



 ここにも葺石が散乱していますね。



 葺石のほか、円筒埴輪と形象埴輪を表面採取されています。

 前方部から後円部を見ます。



 八幡古墳群の3基の前方後円墳は、みな同じ方向を向いています。



 二子塚古墳の墳丘長は66mで、この前段階の平塚古墳よりもかなり小さくなってしまいましたが、築造時期から想像すると、二ツ岳の噴火の影響をもろに受けた可能性があり、そのために規模を縮小して造ったということがあったのかもしれません。

 しかしそれでも3段築成を維持しているのはこの地域の王の支配者としての矜持を感じます。

 調査がされていないので詳しいことは分かりませんが、6世紀前半の築造と考えらるので、石室は横穴式を採用しているでしょう。



 今度は後円部から前方部を見ます。











 では最後に、平塚古墳へ行きますよ。

 3基の前方後円墳に囲まれた三角地帯は現在では完全な住宅地となっています。

 この三角地帯からは冒頭お伝えした通り、小型の前方後円墳1基のほか、20基の円墳(群集墳)が見つかっており、その被葬者たちは先祖の巨大古墳に囲まれた安心できる場所に墓所を営んだわけです。

 もちろん先祖と言っても実際に血がつながっていない擬制的なものも含まれると思います。

 前方に平塚古墳らしき杜が見えてきました。



 振り返ると二子塚古墳。



 はい、到着。



 麓は公園になっているようですね。



 あー、でもここは藪化しているようです。



 登り口が見つかったので墳頂へ行ってみましょう。



 ここはちょっとよく分かりませんね・・・

 個人のお墓もあるようですし、探訪には向いていません。

 平塚古墳の墳丘長は観音塚古墳と同じ105mですが、5世紀第4四半期の築造ということで、墳丘の平面形は全然違います。

 まだそれほど前方部は発達していないのです。

 ここにも葺石や円筒埴輪および形象埴輪が確認されており、石室は竪穴で舟形石棺が2基埋葬されていました。

 石室からは当時貴重品だった挂甲小札(鎧)が出土しており、ヤマト王権との密接な関係が想像できます。

 また、観音塚古墳から出土した鏡は、保渡田古墳群の井出二子山古墳から出土した鏡と同氾鏡であり、時代を考えるとその鏡は、もともとは井出二子山古墳と同時期の築造である平塚古墳の被葬者が所持していたものの可能性があります。

 というところで、そろそろ17時です。

 もうお家に帰りますよ。

 途中、「ららん藤岡」で休憩。



 初めてきました。



 食べ物屋さんもあって、時間があればゆっくりしていきたいですが、今日は(も)先を急ぎますよ。



 夕陽がきれい・・・



 というわけで、本日の群馬古墳探訪も無事終了です。









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