日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【追記】滝山城の大手口/邪馬台国と古墳の関係【4月7日(土)に邪馬台国講座をやります】

2018-03-30 22:43:01 | 歴史の謎
 滝山城の話題の続きですが、前回の記事では大手口は鍛冶谷戸か専国谷戸じゃないかということを話しました。

 そう思う理由ですが、まず、城には出入り口が複数あります。

 もちろん城は防御施設ですので出入り口は極力少ない方がいいですが、とくに滝山城のような大名の居城レヴェルの拠点城郭は、利便性を考慮して出入り口がいくつかあっても良いと思います。

 ですので、現在の搦手口も天野坂も出入り口で良いと思います。

 そのなかで、鍛冶谷戸か専国谷戸方面だと思う理由は以下の通りです。

 大名級の居城には各地から大事なお客さんが来る可能性がありますよね。

 そういった、氏照からすると権力を見せつけたい相手には、鍛冶谷戸か専国谷戸から入ってきてもらうと、とても威圧感やゴージャス感を与えることができるのです。

 これは実際に現地を歩くと分かると思います。

 もし攻め手が二の丸南直下までダイレクトに行けたとしてもそこからの比高差はかなりあるので、簡単に曲輪の上に這い上がることはできません。

 そういった戦いの場面ではなく、賓客が来た場合は、大馬出へ上る道がメインルートだったと考えます。

 一方、現在大手口扱いをされることが多い天野坂は、私は勝手口だと思っています。

 今も昔も、大事なお客様は玄関から入る。

 つまり大手口から迎え入れますが、例えば近隣住民が城の保全のために入ったり、各種納入業者が入るときは天野坂を使ったものと考えます。

 このように城には複数の出入り口があり、用途によって使い分けており、鍛冶谷戸か専国谷戸が大手で、天野坂は勝手口というのが現在の私の考えです。

 さてもう一つ、次は邪馬台国と古墳の話です。

 古墳の墳丘デザインにはいろいろなものがありますよね。

 その理由として、現在はぶりをきかせている説が、古墳の墳丘デザインにはヤマト王権が決めた序列が反映しているという考えです。

 つまり、ヤマトにもっとも親しい地方豪族は前方後円墳の築造をヤマトから許され、その次が前方後方墳で、ついで円墳、方墳という序列があったという考えです。

 私はこの考えは採用しませんが、この考え方は「邪馬台国奈良説」と強く結びついているように感じます。

 邪馬台国奈良説を強く主張する白石太一郎先生は、邪馬台国連合が前方後円墳を築造し、東海にあった狗奴国に属していた豪族たち(とその後裔)が前方後方墳を造ったとしていますが、これは邪馬台国が奈良にあり、それがヤマト王権につながったというのが前提条件になっています。

 もしこの前提条件が崩れたらどうなるのでしょうか。

 私はいったん、邪馬台国とヤマト王権を切り離して考えることにしています。

 邪馬台国の場所がどこにあったとしても、考古学的に言えることは、ヤマトの巨大古墳の相似形の古墳が列島各地に散在しているという事実からして、ヤマトから設計図をもった技術者が地方に派遣されて古墳を造ったというのは事実ではないかと考えています。

 しかし、そのなかで前方後円墳と前方後方墳をヤマトがランク分けをしたという上述の説はやはり私に対しては説得力がないのです。

 これを深く考えるには、前方後円墳と前方後方墳のそもそものルーツを調べる必要があり、単純に墳丘のデザインだけを見ると、日本にこういった墳墓が登場するよりも前に北東アジアで見ることができます。

 それらが日本に渡ってきたかどうかは不明だとしても、確かなことは国内最古の前方後円墳がヤマトに出現して、それが全国に広がったという事実はなく、列島各地で同時多発的に前方後円形の墳墓が現れ、むしろ北九州のものが最も古い可能性があります。

 そうするとやはり、朝鮮半島から来たかな・・・、となるわけですが、これ以上は確実なことは言えません。

 そろそろ午後の現場に行くのでひとまずここまでをまとめると、邪馬台国奈良説がもし間違いだったとすると、その後の古墳時代の定説のいくつかも誤りであることが分かってしまうのです。

 あまりにも邪馬台国奈良説を自明のこととしてその後の日本の歴史を組み立てる学者の方々が多すぎます。

 学者の方々はそれでご飯を食べていますので、いろいろと事情がおありでしょうが、私たちはそういったシガラミがない分、自由に考えることができて幸せですね。

 なお、4月7日(土)に、西新宿のクラツー本社で邪馬台国北九州説の可能性について講義をしますが、今予約状況を見たら「キャンセル待ち」になっていました。

 ご応募いただいたみなさん、どうもありがとうございます。

 ※3月30日追記

 前回この記事を書いたときは定員に達してしまっていたのですが、その後教室を替えてくださりさらにご参加可能になりました。

 興味のある方はクラツーのこちらのページをご覧ください。



 ※写真はイメージでも何でもありません
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【保渡田古墳群などなど】5世紀の群馬県

2018-03-30 13:24:04 | 歴史コラム:古代
 明日はクラツーにて群馬の古墳ツアーをご案内してきます。

 明日見る古墳の築造時期は、5世紀から6世紀にかけてですので、その時代の群馬県周辺の古代史を昼休みの45分間で簡単にまとめてみようと思います。

 5世紀前半に築造された太田天神山古墳は墳丘長が210mあり、東日本ではもっとも大きな古墳です。



 ※太田天神山古墳

 私もクラツーでお客様をお連れしたりして、何度も訪れています。

 ツアーでは現地で話すのですが、当該墳は5世紀前半に、群馬県内の各勢力が共同して推戴した地域王の墓だと思っており、その出自に関しては元々の地元の権力者の可能性もあれば、ヤマトから政治的な意図で派遣されてきた将軍(しかも王の血縁者)である可能性もあるのかなと思っています。

 この時代は、倭国は朝鮮半島で高句麗とドンバチしていた時代なので、上毛野の豪族たちは、太田天神山古墳の被葬者に率いられ、朝鮮半島へ出征していたのではないでしょうか。

 考古学的にも上毛野では5世紀前半から半島の遺物が出土し始めているので、それらは上毛野の豪族がヤマトの旗の下、半島へ出張ったことにより手に入れたものでしょう。

 太田天神山古墳には「王者の石棺」と言われる最高ランクの長持型石棺が収められており、それはもう見ることはできないのですが、明日訪れる伊勢崎市のお富士山古墳では同じ形態の石棺を見ることができます。

 東日本では長持型石棺は確実なものは2例しか認められていません。

 お富士山古墳の築造時期は太田天神山古墳と同じころですので、当該墳には当時の上毛野のナンバーツーが収められたのでしょう。

 なお、太田天神山古墳の墳丘デザインは「古市型」と呼ばれ、河内地方の古墳と共通とされるので、ヤマト王権が河内に奥津城を築き始めた以降の政権との結びつきが考えられます。

 ところが、太田天神山古墳の被葬者から見ると孫の代のころ(5世紀末)には、関東地方の状況も変わってきます。

 太田天神山古墳のような広範囲から共立された王墓はなくなり、各地の地域ごとの豪族が力をつけて、ヤマトの大王と直接主従の関係を結ぶようになっていくのです。

 埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した国宝・金錯銘鉄剣に見られるように、各地の王の子弟が中央に上番する仕組みができてきたのです。

 上番した地方豪族の子弟たちは大王と人格的なつながりを持ったはずです。

 稲荷山古墳の被葬者は複数いますが、築造時期からすると、鉄剣を下賜された人物は明日訪れる保渡田古墳群の井出二子山古墳の被葬者と同時期の人で、また井出二子山古墳から出土した鏡と同氾鏡が、これまた明日訪れる観音塚古墳からも出ています。



 ※井出二子山古墳

 ただし、観音塚古墳自体は稲荷山古墳よりもずっとあとの6世紀末の古墳ですので、元々は観音塚古墳が属する八幡古墳群の最初の首長墓である平塚古墳の被葬者がその鏡を保持していた可能性があり、5世紀後半には、稲荷山古墳の被葬者も井出二子山古墳の被葬者もそれぞれが個別にヤマト王権と結びついており、平塚古墳の被葬者は井出二子山古墳の被葬者の影響下で、同じ鏡を所持していたということになります。

 以上が明日のツアーに関連する地域の5世紀の状況です。

 やっぱりこれだけの簡単な文章を書くのにもそれなりの時間がかかってしまいますね。

 とても6世紀まで書けませんでした。

 午後の現場に行かなければならないので、この辺でやめておきます。

 ※本記事は下記書物を参照しました。

東国から読み解く古墳時代 (歴史文化ライブラリー)
若狭 徹
吉川弘文館


 吉川弘文館の歴史文化ライブラリーシリーズは平易な文章で分かりやすい本が多いのでとくに好きなシリーズです。

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城めぐりの資料、どうしようかな・・・その2

2018-03-27 20:40:02 | 歴史コラム:中世
 昨日は今度のクラツーのツアーでお客様に配布する資料について悩んでいる様子をお届けしました。

 実はあのあと、もう一ついいものを見つけました。

 こちらも国土地理院のサイトからダウンロードできるのですが、こちらは「傾斜量図」というものです。

 それを多少加工して文字をプロットするとこんな感じです。



 こちらの方が昨日のより曲輪の形がはっきり分かり、小宮曲輪の西側の空堀や櫓台跡の出っ張りも良く分かります。

 文字を取っ払うとよく分かりますね。



 縄張図もそうですが、こういう図を見るのって楽しいですよね。

 攻撃側は城内の詳細な地図は持っていないと仮定すると、防御側の観点から見ると面白いです。

 どこから進入してきたら、どこで防ぐか。

 曲輪と曲輪の絶妙な配置や、馬出や桝形などの虎口の工夫。

 ここは横矢が効いているとか、この道を通ると袋の鼠だなとか、こういう図を見るのが大好きな方は、おそらくいつまでも見続けることができると思います。

 滝山城の縄張で面白いと思う箇所は沢山あるのですが、とくに気にかかっているものの一つとして、往時の大手口です。

 今は一般的には、天野坂と書いてある場所が大手口と考えられ、中田正光先生もそれを推しています。

 西股総生先生に尋ねた時は、「そもそも、大手とは何のことですか?」と逆にさらに一段階深い質問をされてしまいました。

 別な先生で、搦手の方を大手と考えている先生もいらっしゃるようです。

 そして、地元で伝わっているのは鍛冶谷戸からの侵入経路で、江戸期の『武蔵名勝図会』では、大池がある専国谷戸を大手口としています。

 このように滝山城は大手口がどこかすら百家争鳴の感があるのですが、それがどこかは実際に現地に行って皆さんの目で確かめつつ考えてみましょう。

 一応、私の考えをお伝えしますと、地元で伝わっている鍛冶谷戸か、もしくは『武蔵名勝図会』の専国谷戸じゃないかなあと思います。

 中田先生が言うには、これらの道は二の丸というコアゾーンの直下にダイレクトに入って行けるのでありえないということです。

 また、大池にはその名の通り池があったと考えていらっしゃるので、そうなると進入は不可能ですね。

 以前、滝山の会で滝山城跡をご案内した時、ある参加者の方が大池に対して、「ここは本当に池だったのかなあ?」と批判的な見方をしていましたが、そういう見方も大事かと思います。

 仮に大手口が鍛冶谷戸だとすると、確かに二の丸南側直下までダイレクトに行けそうですが、辿りついたとしても、東側の大馬出や西側の千畳敷南部の曲輪から完全包囲です。

 この大馬出は非常に攻撃的な構えですが、防御力も高いのでそう簡単には突破できないでしょう。

 鍛冶谷戸に進入した敵が、御岳神社がある尾根(鍛冶谷戸の西側)に直登し、尾根伝いに北進しても、千畳敷南側曲輪の突端部分にはおそらくトーチカのような強固な防衛陣地が構築されていたと考えられるので、そこを突破するのは難しく、それを嫌がって東側の谷に降りると3方から一斉攻撃を受けますし、西側の谷に降りると本丸からは遠ざかってしまいます。

 軍記物に武田が滝山城を攻めた時に二の丸まで迫ったと書かれているのは、鍛冶谷戸から侵入したことを言っているのではないでしょうか(ただし、史料では城下で戦いが起きた程度のことしか書かれていません)。

 といった具合に、こういった図を見ながらいろいろ考えるのは楽しいですね。

 中世城郭の楽しみは図面を見て想像をめぐらすこともありますが、もちろん実際こ現地を歩くともっと楽しいですよ。

 中世城郭の初心者の方は、私のツアーに参加してくだされば、国内屈指の戦国城郭である滝山城跡を教材として、実地で城の歩き方や見方、つまりは「楽しみ方」をお伝えしますよ。

 ⇒クラブツーリズムの滝山城跡探索ツアーはこちら

 私はクラツーでは古代史の講師というイメージがあると思いますが、実はお城は古代史よりももっと長く20年ほどやっているのです・・・

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城めぐりの資料、どうしようかな・・・

2018-03-26 20:04:04 | 歴史コラム:中世
 前回の記事にチラッと書いてしまいましたが、今まで黙っていて申し訳ありませんでした。

 実はひっそりと「歴史への旅」のGW特集コーナーで告知していたのです。



 何しろ山城歩きですから、足の状態も心配でしたので自分からは告知はしなかったのですが、催行が決定してしまった以上は黙り通すわけには行きませんね。

 足の調子も山城を普通に歩く程度には回復しましたので大丈夫ですよ。

 さて、城のツアーをやる上で問題になるのは皆さんにお渡しする資料です。

 流石に他の研究者が描いた縄張図をタダで使わせてもらうわけにはいかないので、自分でそれに代わるような資料を作ってみようと思いました。

 今のところはこんな簡単な模式図のようなものでやろうかと思っています。



 これは国土地理院から5mメッシュの地形データをダウンロードしてきて、同じく国土地理院が提供しているビューアーで表示させたものです。

 それに文字を入れて加工しました。

 こう見ると縄張図よりも優れている点もあれば、劣っている点も明らかですね。

 優れている点は、ズバリ高低差が分かりやすい点です。

 縄張図では高低差が読み取りづらく、図を見ただけでは判断が難しい箇所もでてきます。

 もちろん、現地に行けば解決するのですが、この図だと高低差が一目瞭然です。

 そして5m間隔ということで、空堀の中でも巨大なものはきちんと高低差が表現されて、いわゆる「絶対防衛ライン」はこれでも読み取ることができます。

 小宮曲輪が大きく3つに造作されているのも良く分かります。

 ただ不思議なのは、小宮曲輪の西側の空堀の高低差が現れていないところですね。

 何でだろう。

 反対に劣っている点は、土塁や空堀などのパーツがほぼ分からないところです。

 つまり細かいところはこれでは一切分からない。

 既述した通り、東馬出の南から二の丸と三の丸の南を通って伝大手(天野坂)の方まで伸びている巨大な空堀はよくわかりますが、小さな空堀は判断できませんね。

 でもあとは、現地で解説するのでそれで理解していただくことにしたいと思います。

 それと、この図を見ていると気づくのは、本丸や沢を挟んだ西側の造作がキメ細かいのに比べ、中の丸や二の丸などの他の部分が平坦でダイナミックに造作されていることです。

 こういった造りから、滝山城の2段階築城説が出てくるわけですね。

 大石氏が入部した当初は本丸周辺だけだったのが、氏照入部後に拡大されたという説や、氏照入部後に大きく改変されたといった説です。

 これらの謎の多くは発掘調査によって判明することが多いと思いますが、学術発掘は自治体の予算の関係で実現は難しいでしょう。

 1億円程度で構いませんから、どなたか寄付していただけませんか?

 さて、こういった戦国城郭だけでなく弥生の集落遺跡や古墳など、全国に無数にある史跡を守っているのは地元のボランティアの方々であることが多いです。

 下草刈りやゴミ拾いなど、そういった大変な作業をボランティアの方々が行って史跡の保全をしているのです。

 滝山城跡も「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が中心となって少ない戦力で10年以上保全をしてきた結果、ようやく最近は八王子市や東京都が動いてくれるようになりました。

 もう1年以上、下草刈りに参加していない幽霊会員の私が言うのも何ですが、史跡に行って綺麗な景観を見た時は、ボランティアの方々の苦労を少しでも思い浮かべていただければ嬉しいです。

 なお、「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」では体験参加を含め随時メンバーを募集していますので、興味のある方は、こちらのノッチさんの公式ブログをご覧ください。

 会の活動に参加すると、中田正光先生から直々に現場で城について教えていただけるチャンスもありますよ。

 中田先生の著書もぜひご覧ください。

よみがえる滝山城―戦国の風雲をかけぬけた天下の名城
中田 正光
NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会


滝山城戦国絵図―中世城郭のからくり
中田 正光
NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会


 という感じで、昨日までは頭の中は邪馬台国で、今日の午後からは戦国城郭にカチッと切り替わってしまいました。

 歴史は一つの時代に固執して楽しむだけでなく、原始・古代から近代まで横断して考えると楽しさが100倍しますよ!


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【クラブツーリズム】宗像大社・吉野ヶ里遺跡・岩戸山古墳などなど濃密な3日間【北部九州古代史ツアー】

2018-03-24 22:55:21 | 歴史探訪
 昨日の3月23日から2泊3日で、クラブツーリズムにて北部九州の古代史ツアーのご案内をしています。

 昨日も今日も快晴!

 明日も予報では快晴のようです。

 最高のコンディションの下、30名様のご参加ありがとうございました!

 皆様からは「濃密なツアーだね」とよく言われるのですが、3日間の行程のうちで吉野ヶ里遺跡はことのほか喜ばれます。

 立派なエントランス。





 南内郭にある物見櫓からの眺望。





 先月から今月にかけての4回のツアーでは、吉野ヶ里遺跡の探訪日はすべて快晴でした。

 実はこれには訳があって、私は主祭殿の最上階にいらっしゃるシャーマンのH弥呼さんに、呪術で晴れにしてくださるように毎回頼んでいたのです。



 これでH弥呼さんの呪力がもの凄いものだということが証明されたと思います。

 H弥呼さん、今後ともよろしくお願いいたします!

 え?

 「卑弥呼さん」なんて決して言っていませんよ。



 白いタンポポがあるということをお客様に教えていただきました。



 最近は甕棺が面白くなってきましたぞ!



 こちらに来ると嫌と言うほど甕棺を見るのですが、よくよく見ているうちに形状で弥生時代の初めから終わりまでのいつの時期に造られた甕棺かということが少し分かってきました。

 土器でも何でも、遺物は編年が目で見て分かってくると俄然面白さが増しますね。

 それでは明日は最終日をご案内してきます。

 まだお客様には伝えていませんが、何と明日は天照大神(アマテラスオオミカミ)に会えますぞ!

 ところで、私のツアーの今後の予定ですが、奈良纏向ツアーの5月19日(土)出発分の催行が決定しました。

 「歴史への旅」最新号の23ページの中段に掲載されているツアーです。



 さらに、6月2日(土)の千葉の古墳ツアーが早くも催行決定となりました。

 22ページの下段左側のツアーです。



 個人的には下段右側に掲載されている4月28日(土)の那須の古墳ツアーもお勧めで、あと数名のご参加で催行となりますので、興味のある方はよろしくお願いいたします。

 古代史をやる上では那須地方の文化的独自性を実際に現地の遺跡で確かめることは重要だと思いますよ!

 そしてもう一点。

 実はこのブログでは全然宣伝しなかったのですが、5月5日(土)の滝山城跡&津久井城跡ツアーも催行が付きました。

 近畿日本ツーリスト八王子営業所では滝山城跡や八王子城跡をご案内したことがありましたが、クラツーでは初めてとなります。

 以上、お申し込みをしてくださった皆様、どうもありがとうございます!

 それでは明日も早いのでそろそろ寝ますよ。

 ⇒稲用のツアー一覧はこちらをご覧ください(一部関係ないものも表示されます)



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【福岡面白史跡探索 その3】筑紫野市歴史博物館・吉武高木遺跡(やよいの風公園)【筑紫野市・福岡市西区】

2018-03-22 22:29:19 | 歴史探訪
 私はこんな感じのブログの記事を書くのが楽しくて仕方がありません。

 文章を書くのって面倒くさいことだと思いますが、私は幸い、まったく苦にならないのです。

 今日も歴史探訪をしてきて、普通ならせっかく博多に来ているのですから、夕方からは美味しいご飯とお酒をゆっくり楽しみたいところですが、一刻も早く今日一日のことを文章にぶちまけたいと思ったため、急いでホテルにチェックインしました。

 しかし今はノートPCを持ち歩けて、どのホテルでもWiFiがあるから便利ですね。

 お陰で趣味も仕事も昔よりも断然捗ります。

 というわけで、本日の探訪記録の最終回をお届けしますよ。

 (⇒前回の続きはこちら

*     *     *


 7.筑紫野市歴史博物館

 今日の早朝、羽田空港でパンを2個食べましたが、もうお昼をとっくに過ぎているというのに、まだお昼ご飯を食べていません。

 歴史めぐりのためにせっかくこうやって遠くに来ているときは、ゆっくり昼ご飯を食べるのは時間がもったいないです。

 本当はもっと心の余裕を持って歴史めぐりができればいいと思いますが、これは性格の問題なので仕方がないと自嘲したりすることもあります。

 一ノ口遺跡の説明板を見た後、すぐ近くのセブンに寄って、おにぎりを2個買います。

 運転しながら食べれば時間も短縮できる。

 ダスキンの仕事でも忙しいときはこうなので、何とも思いません。

 筑紫野市歴史博物館に到着したのは15時20分。



 実は今日中にどうしても行ってみたい遺跡が一つ残っていて、そこには16時半までにいかないといけないので、あまり時間に余裕がありません。

 慌ただしいのはあまり良くありませんが、ササッと見学しましょう。

 筑紫野市歴史博物館の入館料は無料です。

 今日はいくつも資料館とかを見ましたが、九州歴史資料館のみが有料で、他はすべて無料ですね。

 常設展示室はそれほど広くないですが、きれいに整っています。



 筑紫野市には隈・西小田遺跡群という弥生時代から古墳時代にかけての遺跡があります。

 第3地点109号甕棺からは人骨が見つかり、細形銅剣が1本と諸岡型貝輪が8個副葬されており、この人物は40代の男性首長と考えられています。



 時代は弥生時代中期前半なので、だいたい紀元前2世紀頃です。



 この第3地点から見つかる遺骨は戦死したり戦いに巻き込まれて死んだと思われる形跡が数多く残っており、弥生時代中期前半のこの辺は戦争状態になっていたことが想像できます。



 弥生時代中期前半というと、墓に青銅器が副葬され始めたころで、吉野ヶ里遺跡では北墳丘墓が築かれたころです。

 隈・西小田遺跡では上述のような立派な甕棺が見つかっているものの墳丘墓は見つかっていないので、首長ではあっても果たして「王」と呼べるのかは微妙かなと思います。

 なお、伊都国や奴国の王墓が築かれるのはもう少し後の弥生時代中期後半になってからです。

 こちらは同じく隈・西小田遺跡の第7地点祭祀遺構で出土した23本の銅戈(武器の一種)を一堂に展示。



 重要文化財ですぞ。

 この画は鹿かな?





 ここの素晴らしいところは、無料の展示解説シートが大量にあるところです。

 バーン!



 もちろんすべていただきました。

 中世以降は、うーん、時間がない!

 8.吉武高木遺跡

 車に戻って、ナビに吉武高木遺跡を入力すると、到達予想時刻は16時半と出ました。

 間に合うか間に合わないか・・・

 よし行くぞ!

 高速道路を捕まらない速度で走って時間を短縮し、16時25分に到着!



 間に合った・・・

 ここは「やよいの風公園」という遺跡公園になっています。



 公園を眺めてみると結構広いぞ。

 そして、ところどころに説明板が置かれているのが望見できます。

 期待できそうだ!

 上の図のとおり、1番から6番まで順番に見ていくと良さそうなのでそうします。

 公園内を時計回りという感じですね。

 まずやってきたのは大型建物が見つかった場所。



 でもここは微妙に公園の敷地の外になっています。



 公園内にはこのような透明の説明板があって、タブレットなどの文明の利器を使わなくてもヴァーチャルに往時を想像することができます。



 飯盛山は、ここまで車を走らせているときも気になったんですよね。



 2番目の場所は王墓が見つかった場所です。





 ここも微妙に公園の敷地外というところが・・・





 なんか、ここは野外の博物館みたいで楽しいです。

 3番目は弥生時代の河道跡。



 そして4番目はこの近辺の弥生時代以外の歴史を紹介したコーナー。



 5番目は甕棺ロード。

 ここの解説の仕方は独特で面白い。











 そして最後は総合案内的な場所。



 ここにはリーフレットも置いてあるので、最初にここを訪れてもいいですね。

 いやー、この公園は楽しいですよ!

 ここはぜひクラツーのツアーに組み込みたいです。

 明日からご案内するツアーも面白ポイントが満載ですが、さらにもう一歩踏み込んだ邪馬台国ツアーを造るときは、ここ吉武高木遺跡や平塚川添遺跡を入れてもいいかなと思います。

 というわけで、時刻は閉園時刻の17時となり、本日の歴史探訪はこれで終了です。

 森高號を返しにレンタカー屋さんへ戻ります。

 途中、見つけたラーメン屋さん、ようやく今日初めての食事らしい食事をします。



 オーソドックスな味噌ラーメンですが、濃い味で私の好みの味です。

 今日は意外と外が寒くて身体が冷えています。

 スープも飲み干してしまった。

 九州に来てまで北海道ラーメンだったのだ!



 でも美味しかったので満足です。

 森高號を返したらすぐにホテルにチェックインして今日一日の記事を書こうっと。

 (おわり)



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【福岡面白史跡探索 その2】九州歴史資料館・小郡市埋蔵文化財調査センター・一ノ口遺跡【小郡市】

2018-03-22 21:24:51 | 歴史探訪
 明日から2泊3日でクラツーの北九州古代史ツアーをご案内してきますが、今回はこの通り、すでにツアー前日に福岡に来ています。

 10時くらいにいつもの空港のバス乗り場へ行けばいいのでこうやって前日に来れていると体力的に楽ですね。

 ところで、先日、私は右ひざの靭帯を痛めたとお伝えしましたが、最初は順調に治っていたものの、毎日身体を使う仕事をしているためか、ある時期からまったく回復せずに、むしろ悪くなっているように感じていました。

 そのため、今週の月曜日にブロック注射なるものを打ってもらったのです。

 朝、出勤する前に打ってもらったのですが、20分くらいしたらものすごく痛くなってきて、その日は一応仕事はしたものの、普通に歩くのすら痛くてつらい状況でした。

 ところが、火曜日からは効き目がでてきたようで、本日(木曜)は朝から一日動きましたが、90%くらい回復したように思えます。

 まだちょっと痛いし、動きも変なのですが、これくらい戻れば明日からのツアーも問題なくできると思っています。

 というわけで、前回の記事の続きです。

 (⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 4.九州歴史資料館

 朝倉市の歴史スポットを巡り、続いてやってきたのは小郡市にある九州歴史資料館です。



 なかなか立派な施設・・・

 でも写真撮影ができない場所が多いのです。

 入館料は大人200円です。

 常設の考古展示は九州各地から逸品が集結し、重要文化財も並んでいますよ。

 ほほすべて実物だそうです。

 企画展では仏像の展示が圧巻でした。

 写真撮影がOKな箇所はこちら。



 九州歴史資料館は大宰府にも力を入れているようです。





 九州歴史資料館の最大の特徴は、遺物の調査をしている作業部屋を外から覗けるところでしょうか。

 中庭から各部屋の作業風景を見学することができます。



 これは実際にどういうふうに調査をしているのか知らない人たちにとってはとても興味深いことではないでしょうか。

 最新の機材も置かれていて、こういった世界もどんどんハイテク化が進んでるんだなあと思いました。

 2階に上がって第3展示室に入ると、ここも写真撮影はダメなんですが、弥生土器が最古の夜臼式や板付Ⅰ式から始まって、実物で編年を理解できるようになっています。

 これは土器好きには堪えられませんぞ。

 2階には近辺の歴史博物館や資料館の紹介コーナーがあります。

 一つひとつ見ていくと、知らない施設がいくつかりますよ。

 お、筑紫野市歴史博物館か・・・

 ここ行きたいな。

 おや、犬の骨。





 我が家に先代のヴェリー(シュナウザー)が来てから、私は犬にもとても興味が湧いてしまい、それ以来、犬関係の資料を集めています。

 故・ヴェリー。



 二代目のジジ。



 1階に降りて第4展示室を歩いていると、床面に展示ケースが並んでいました。

 発掘された時の状況が再現されており、旧石器時代の礫群もありますよ。



 旧石器時代はまだ定住生活をしていないので、建物跡、すなわち集落跡は見つかりません。

 その当時の遺跡といえばこういった狩りとった動物のお肉を焼いた跡が代表的なものなのです。

 こういった展示は面白いですね。

 さて、この時点ですでに14時半。

 当初の予定では、このあと古代山城である基肄(きい)城跡へ行こうと思っていましたが、もう全然時間がないです。

 天気も時折小雨が降っていますし、基肄城は諦めるとして、九州歴史資料館へ来るときにチラッと見えた小郡市埋蔵文化財調査センターへ行ってみましょう。

 5.小郡市埋蔵文化財調査センター



 こちらは入館料無料です。

 まずはジオラマがお出迎え。



 弥生時代の一ノ口遺跡。

 面白いのは道の跡のような遺構が検出されていることです。



 小郡市埋蔵文化財調査センターの展示は、数は少ないのですが、内容はとても面白いので、九州歴史資料館を訪れたときはこちらが開館していれば絶対に寄った方が良いですよ。

 私は昨年福岡の史跡巡りをしたときに上岩田遺跡を見ているのですが、当該遺跡の出土品がたくさん展示してあって嬉しいです。

 上岩田は瓦が出土することから、最初は古代寺院跡だと思われていたのですが、これが出土した瓦です。



 いいねえ。

 上岩田遺跡はその後の調査で御原郡の郡家の前段階の評家であることが分かっています。

 この刻書土器は生々しい。



 この土製品もまたいいねえ。



 これを作った人は、多分自分でも「面白いものができたなあ」と満足だったと思いますが、千数百年経ったあとの私たちもその気持ちが想像できるのですから、とても楽しいですね。

 下からのアングル。



 この口の造形が可愛い。

 以前こちらに来た時も感じたのですが、小郡市はとても歴史に理解があるように思います。

 こちらにも無料のパンフレットがたくさん置いてあり、こういった製作物から郷土愛をとても感じるのです。

 ところで、敷地内にはこんなものも建っています。





 では、次はさきほど九州歴史資料館でその存在を知ってしまった、筑紫野市歴史博物館へ行きますよ。

 6.一ノ口遺跡

 と思いつつ、車を走らせるとすぐ右手に「一ノ口遺跡」と大書された看板を発見!



 路駐して見てみます。



 さきほど埋蔵文化財調査センターでジオラマを見ましたね。

 この辺が遺跡だったのです。



 完全に住宅地になっていますが、説明板を設置してくれているだけでもありがたいですね。

 それでは、再度出発!

 ⇒この続きはこちら


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【福岡面白史跡探索 その1】甘木歴史資料館・小田茶臼塚古墳・平塚川添遺跡【朝倉市】

2018-03-22 20:29:07 | 歴史探訪
 ここのところ、クラツーのお仕事で邪馬台国関連をやらせていただいており、北九州へも何度も行っています。

 その関係上、当該地域の歴史についてさらに詳しくなるように努めているのですが、まだツアーで訪ねていない歴史スポットで面白い場所を探すには、現地に行くのが一番良いので、本日は早朝に起床し、福岡へやって参りました。

 今は一日の探訪を終えて、祇園のホテルでこのブログを書いているところです。

 探訪箇所はなるべく早いうちに記録を残しておかないと忘れてしまうので、簡単に本日巡った場所を振り返ってみます。

*     *     *


 当初の予定では福岡空港には9時には着くことになっていました。

 ところが今日は運が悪く、福岡空港到着が30分も遅れてしまったのです。

 まあ、飛行機の運行に関しては仕方がないので、とにかく急いでレンタカー屋さんへ行きます。

 福岡空港には何度も来ているのでレンタカー屋さんも簡単に見つかると思っていたら・・・

 あれれ、こっちじゃないなあ。

 こっちかなあ・・・

 結局、15分ほどロス。

 レンタカー屋に来ると、何だこれは!

 凄い混雑っぷりです。

 ようやく車で出発できたのが10時15分。

 正直、イライラしていますが、とにかくナビに朝倉市の甘木歴史資料館をセットして急いで向かいます。

 ナビを見ながら高速道路へ乗ると・・・

 あらら、反対方向へ行っちゃった!

 このナビの地図は進行方向が上になるタイプで、絶えず上を北にして表示することができないのです。

 地図の上がちゃんと北になっていれば方角で気づいたのに、本当にこのナビは頭にくる。

 と、ナビを読み違ったのをナビのせいにします。

 あー、これでまた時間のロスだし、都市高速代の620円を無駄にした・・・

 次のICで降りて再度乗ります。

 よしよし、今度は快調だ。

 でも途中、やや渋滞。

 何事かと思っていると、どうやら反対車線で事故があったので、それを見るために皆さん低速になって渋滞になったようです。

 あなたたち、馬鹿じゃないのか!

 ちなみに、事故の現場は見ないほうがいいです。

 見ると自分の潜在意識が悪い方へ働き、自分も事故を起こしますよ。

 ですから、事故車を面白げに見るのもダメです。

 貴方が面白げに見た事故車が、明日の貴方の車の姿です。

 1.甘木歴史資料館

 ゴールド免許ですので捕まらない速度で走り、最初の目的地である甘木歴史資料館に着いたのは11時20分でした。



 なんてこった、当初の目論見では10時には着くと思っていたのに。

 とにかく見学だ。

 入館料は無料です。

 あれ、普通は入館の時に館内案内のリーフレットをもらえますがくれなかったぞ。

 カウンターにはそれらしいものが置いていない・・・

 ま、いっか。

 私が一番興味があるのは考古展示です。

 そんなに広くないですが、この地域独特な遺物が並んでいますよ。

 甕棺とか銅剣・銅戈とか・・・

 これは面白いなあ、丹塗りの土器。



 丹(硫化水銀)で塗っているのです。

 同じ赤色の顔料でもベンガラと違って丹は希少品ですよ。

 弥生時代関連では、この後訪れようと思っている平塚川添遺跡から出土したものが並んでいます。

 おや、朝倉市には国史跡の古墳があるんですね。



 小田茶臼塚古墳か。



 よし、あとで現地へ行ってみよう。

 小田茶臼塚古墳からは武具が出ています。



 1階のロビーへ戻ると、朝倉市を紹介するヴィデオが流れていました。

 一通り見て朝倉市の文化や歴史を頭に入れます。

 斉明天皇の行宮もあるようですが、ちょっと遠いな。

 そういえば、さきほどここの敷地に入るときに「卑弥呼ロマンの湯」という温泉施設の看板があったのですが、ヴィデオを見ていて思い出しました。

 ここは安本美典さんが邪馬台国の比定地にしていた場所でしたね!

 やっぱり興味があるものには知らないうちに引き寄せられてしまいます。

 私は美典さんの信奉者ではないのですが、邪馬台国候補地に来ることができて嬉しい。

 というわけで、つづいてさっき知った小田茶臼塚古墳へ行ってみましょう。

 2.小田茶臼塚古墳

 ナビのお陰でなんなく到着。

 この小さな前方後円墳が小田茶臼塚古墳ですね。



 説明板発見!



 全長55mという可愛らしい前方後円墳です(資料館では63mとありました)。

 墳頂へ上ります。

 後円部。



 後円部から前方部を見ます。



 資料館の説明によると5世紀後半の古墳ということですが、前方部と後円部の比高差が大きいことから、古墳時代前期の古墳に見えます。

 2段築成に見えますが、さきほど資料館で見たジオラマでは後円部は3段築成でした。



 これは石室に使った石材の一部じゃないかなあ。



 前方部から後円部を見ます。



 横穴式石室は埋められているようで、なんとなく名残があります。



 この辺に開口していたかな。



 古い古墳に見えますが、横穴式石室ということなので、そうなるといくら最古期といっても4世紀末でしょうか。

 いや、でも墳丘の形状からすると4世紀前半のような気がしますねえ。

 もし、4世紀前半に横穴式石室を備えていたということになると、これはこれで面白いことになりますが、考古学の方が遺物から判断してそんなに古い古墳だと言っていないのならそうなのかもしれません。

 真横から見ます。



 いやー、この古墳も興味をそそられるなあ。

 というわけで、次は当初の予定通り、平塚川添遺跡に行ってみますよ。

 3.平塚川添遺跡

 またまたナビに脳内を支配されてたどり着いたのは結構広い史跡公園でした。

 ガイダンス施設のようなものも立派です。



 中にはミニ展示コーナーがあります。



 平塚川添遺跡は、吉野ケ里遺跡と壱岐にある原の辻遺跡とともに姉妹都市ならぬ姉妹遺跡を組んでいるそうです。

 面白いですね。

 そして、この投票結果がまたいいですねえ。



 邪馬台国はどこにあったと思うか、という投票なんですが、何と、ここ朝倉市が1番だったのです。

 やはり美典さんの影響力でしょうか。

 では公園を歩いてみましょう。



 広いなあ・・・

 順路に従って歩きます。

 ちょっと支石墓チックなオブジェ?



 平塚川添遺跡の特徴は濠が何筋もあるところです。



 低地の集落跡らしい特徴ですね。

 ところで、福岡は朝まで結構雨が降っていたようで、今は小康状態ですが足元はかなりぬかるみます。

 これも低地の遺跡らしい感じですね。

 木製品がたくさん残っていたのは湿地だったお陰なんですよ。

 建物が10棟ばかり復元されており、王の居館や祭殿などと設定がされているようです。



 当初はかなりの意気込みで立派な遺跡公園にしたと思うのですが、歩いてみるとちょっと寂しい感じが否めないかな。

 吉野ケ里遺跡は各建物の前にきちんと説明板を置いて、「王の家」とか「王の妻の家」などときちんと解説が書いてあってそれが楽しいので、ここももう一工夫すれば面白くなるのになあと思います。

 でも、濠に丸太を渡して「落ちても自己責任」と言いたげな、デンジャラスなところは好感がもてます。



 お花がきれい。



 ちなみに桜はもう少しです。

 ここ数日寒いので開花が遅れたかな。

 なお、本日の車はヴィッツ。



 今日みたいに地方に来てレンタカーを借りるとヴィッツ率が高いのですが、スピード云々は置いておいて、機動性というか取り回しの良さは素晴らしいので、狭い路地にグイグイ入っていくような史跡巡りにはとても向いている車だと思いますよ。

 熊本ナンバーということで、清正號と名付けましょうか。

 くまモン號でも森高號でもいいですよ。

 ⇒この続きはこちら


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【クラブツーリズム】月に1度の座学が無事終わりました

2018-03-18 23:15:05 | 歴史探訪
 昨日の土曜日(3月17日)は、西新宿のクラブツーリズム本社にて2本の講座を催行しました。

 午前は、「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」の第3回として「建武の新政と奥州小幕府」というタイトルでお話ししました。



 8名様のご参加、ありがとうございました。

 内容的には今回は東北の話の割合が低かったので、もしかしたらご不満の方もおられたかもしれませんが、南北朝時代という複雑な時代を説明するには、どうしても中央の話をする必要があるのでお許しください。

 午後は、「日本の「城」変遷史」ということで、12名様のご参加ありがとうございました。



 こちらはタイトル通り、日本の城の変遷を吉野ヶ里遺跡から安土城までお話ししたあと、滝山城を例にして戦国時代の城の構造や戦い方について話し、最後は「江戸始図」を元に最新の江戸城研究の成果をお話ししました。

 滝山城については、まだ催行が付いていないのですが、5月5日に津久井城と三増峠とともにツアーをする予定となっています。

 もう数名のご参加で催行となりますので、興味のある方はぜひお申込みください(目立たないですが、「歴史への旅」のGW特集のページ<4ページ>に掲載されています)。

 ところで、明日は妻の誕生日ということで、今日は何とか調整して夫婦同時に休みを取り、妻へのプレゼントを買いに行くのを兼ねて軽井沢のアウトレットに行ってきました。

 アウトレットから見えるこの山がどうしても気になって仕方がありません。



 これは人工物じゃないでしょうか?

 日本最大の古墳だったら楽しいなあ♪

 それはさておき、9時から16時まで滞在してショッピングと食事を楽しんできましたよ。



 ここはワンちゃん同伴で入れるお店も多いですし、一緒に食事ができるレストランもあるのでジジも連れて行けます。

 ジジは普段、日中は昼寝をしている(と思う)のですが、今日はずっと歩きっぱなしだったので、帰宅するために車に乗せたらすぐに寝てしまいました。





 今はこのブログを打ち込んでいる私の後ろで寝ています。

 さて、次のツアーは今週の金・土・日の2泊3日での北九州の古代史ツアーです。

 このツアーを担当するのは4回目になり、福岡もだいぶ馴染みの土地になってきたような感があり、飛行機に乗って行くのもまったく苦になりません。

 今回は私は前日の木曜日の早朝に福岡へ行きます。

 下見をするためです。

 福岡・佐賀では気になる史跡や資料館がまだまだありますので、それらの様子を見てきて新たなコースの造成をしますよ。

 なお、邪馬台国関連では、北九州を探訪した方は次は是非、奈良へ行ってみましょう。

 やはり、両方見てみないと邪馬台国の所在地について自分なりの判断は下せないと思うのです。

 こう言うと北九州派の方々から「裏切り者!」と怒られそうですが、奈良へ行ったら行ったで、全力で奈良の可能性についてお話ししようと思います。

 こちらの「歴史への旅」のスキャンの中段がそのツアーです。



 なお、下段の東北の古代史ツアーについては、4月21日出発分に関しては残席わずかとなりましたが、6月16日出発分に関してはまだまだ余裕があります。

 詳細・お問い合わせはクラツーの稲用ツアー検索結果ページをご覧ください(関係ないものも表示されるのでご注意ください)。



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【クラブツーリズム】邪馬台国を探しに北九州へ行ってきました

2018-03-13 12:55:41 | 歴史探訪
 先週の金曜日から日曜日にかけて(3月9日~11日)、2泊3日でクラブツーリズム主催の北九州古代史ツアーをご案内してきました。

 このコースをご案内するのは3回目ですが、今回は36名様のご参加を頂きました。

 皆さま、どうもありがとうございました。

 今回も古代史に詳しいお客様が多数ご参加されて、私もいろいろと教えていただいたり、示唆に富む話を聞かせていただいたり、むしろ私の方が勉強になった旅ではなかったかと思っています。

 また、頻繁に北九州へ行かせていただけるようになって、ここ最近、急激に当該地域の古代史について詳しくなりました。

 とくに今まであまり積極的にやってこなかった九州の弥生時代について自分の脳内が相当面白いことになっています。

 仕事として行かせていただいているわけですが、報酬をいただきながら同時に勉強をさせていただけているという、とても恵まれた環境にいるわけです。

 また、九州のドライバーさんは親切な方が多く、こちらの我儘を嫌な顔もせずに聞いてくださるのでとてもありがたいですし、資料館や博物館の方々や飲食店の皆さんもとても良くしてくださりますので、そういった方々を含めて、皆さんに感謝しております。



 私の母が宮崎出身なのが関係しているかどうかは別として九州大好き。



 この内容のツアーは、3月23日出発でもう1本ご案内してきます。

 それが終わると次は7月になってしばらくは九州へ行くことはなくなるので、九州の古代史については机上で研究を続けようと思います。

 ところで、クラツーの「歴史への旅」の最新号が出ました。

 まずは23ページです。



 上段のツアーが今回のツアーとほぼ同じ内容のツアーで、中段がテーマとしては同じく邪馬台国ですが、今度は奈良へ行ってきます。

 そして下段が東北の古代史ツアーで、4月21日出発分については催行が決まっています。

 つづいて22ページ。



 上段と中段に宮田太郎先生のツアーが載っていますが、こちらもお勧めです。

 私も宮田先生のツアーには何度か参加したことがあるのですが、驚くほどに知識がありますし、話も上手で面白いので興味があるコンテンツであればどうぞご参加ください。

 そして下段の古墳ツアー2本が私が企画したツアーです。

 関東地方には素晴らしい古墳がたくさんあるので、もし古墳に興味がある方ならば楽しんでいただけると思いますよ。

 お問い合わせ・お申込みはクラブツーリズムまでどうぞ。

 ⇒クラツー公式サイト内の稲用検索結果ページはこちらです(一部関係ないものも表示されます)

 それでは、これからも歴史を楽しみましょう!

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【何のために来た?】弥生時代の渡来人【何を持ちこんだ?】

2018-03-03 11:48:08 | 歴史コラム:原始
 昨年から今年にかけて、お仕事で北九州に何度も行っていますが、やはり現地に行くと部屋に籠って本を読んでいるだけより何倍も理解や考察が深まり、かつ新たな疑問も浮かんできて、さらに歴史の面白さにハマって行きます。

 北九州の弥生時代の遺跡には渡来人の影響、というか遺跡がまるごと渡来人の遺跡ではないか、と考えられるものが現れますが、昔流行った「100万人渡来説」は間違いだったとしても、元々の九州人にとって渡来人の影響は計り知れないものがあったことが理解できます。

 現在でも北九州と韓国南部は日常的に買い物や食事・レジャーで交流があることを知り、国境のなかった大昔においては尚更のことだったと思います。

 今日は渡来人についてお話ししようと思いますが、今日も主として参照する書籍はこちらです。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 私には2000冊以上の蔵書がありますが、実は弥生時代について書かれた書物は比較的薄くて、最近は仕事の都合で購入を強化しているものの、昔から愛読している寺沢薫氏のこの本が分かりやすく、そして楽しく読める本かなと思っています。

 さて、北九州に頻繁に行くようになって、地元の人たちと話す機会ができたこともあり、一口で北九州と言っても、玄界灘沿岸地方と有明海沿岸地方でかなり違うなあと感じるようになりました。



 ※「Yahoo!地図」を加工して転載

 これはかなり昔、東北地方に頻繁に行っていた時期に、一口に「東北地方」と言っても北と南では全然文化が違うのを知ったときと同じような感覚です。

 外部の人間には地元に行かないと分からないことが多いですね。

 上述の書では、玄界灘沿岸地域と有明海沿岸地域の違いを載せており、それをまとめると以下の通りとなります。

 【玄界灘沿岸地域】

 ・形質は長身で顔が細く華奢な「北九州タイプ」(中国の山東半島・東北部・朝鮮半島起源か)
 ・米は丸く小さい(半島のものに近い)

 【有明海沿岸地域】

 ・形質は顔面がやや横幅が張り彫りが深い「西北九州タイプ」 (山東・半島・中国の長江流域起源か)
 ・米はやや長めで大きい(長江や淮河流域のものに近い)

 北九州タイプの人びとは山口県にもいたので、方位を考えると、朝鮮半島の人たちが玄界灘沿岸へ進出し、中国江南地方の人たちが有明海沿岸に進出したという構図が見えてくるかと思います。

 もちろん正確に言うともっと細かい表現が必要になると思いますが、単純に考えるとこのような形かと思います。

 ではなんで弥生時代に大陸から日本列島に人びとが渡ってきたのでしょうか。

 たまに「ボートピープル」という表現が出てきますが、着の身着のままで流れついたそういった人びともいたとしても、やはり私は組織的な行為が多かったと考えます。

 半島や大陸では戦乱が絶えず起きていました。

 例えば、あなたが半島のどこかの国の王だとします。

 周辺諸国との戦いが続き、形勢がかなり悪くなり、冷静に考えてもこのままだと落城も近いかもしれない・・・

 そろそろ脱出の準備をしなければ・・・

 という場面で、家族・一族や特殊技能者を引き連れ、財宝を携え逃げる場所を考えたときに、すでに交易などで倭国に渡っている自国出身者が基盤を作っていれば、彼らの手引で倭国へ逃げるというのも一つの案として浮上するはずです。

 これは現代人もそうですが、行き当たりばったりでバタバタしてしまう人もいれば、先の先まで考えてあらかじめあらゆる手を打っておく人もいますよね。

 後者のタイプであれば、用意周到に計画だって倭国に渡った可能性もあるのです。

 ですから、威風堂々といったら大げさですが、落ちぶれたとは言え、鳴り物入りで倭国に渡ってきた半島や大陸の王族もいたはずです。

 そして彼らが九州地方の新たな支配層になった可能性は高く、こう言うと感情的に許せない人もいると思いますが、彼らが天皇家の祖になった可能性もあるわけです。

 感情だったり心の問題も大切ですが、まずは冷静に考古学の研究結果を見て科学的な判断をするのがいいかと思います。

 さて、話を戻して、渡来人は稲作以外にも以下のものを日本にもたらしました。

 ・金属器
 ・弥生土器の原型になったといわれる無文土器
 ・支石墓(しせきぼ)
 ・環壕集落と松菊里(ソングンリ)型住居

 これらのうち支石墓は縄文時代晩期に糸島半島・唐津平野・有明海沿岸から天草諸島におよび、弥生前期から中期には福岡平野にもわずかにおよびますが、そこから東へは波及せずに終わります。

 半島でも西南部に集中していることから、その地方と密接な関係があったのでしょう。

 支石墓は支配者層の墓なので、上述したような半島の支配者が日本列島に渡ってきてその集落を統治したのちに葬られたように思えるかもしれませんが、人骨を分析すると、元々の九州の人が葬られていることもある(つまり地元の人が半島の墓制を採用している)ので、その辺をどう考えるか、これも古代史の楽しみだと思います。

 一定地域に分布をとどめてしまった理由も知りたいですね。

 松菊里型住居というのは、平面形が楕円の二本主柱の竪穴住居で、最古の環壕集落である粕屋町江辻遺跡では集落の一角に11軒の松菊里住居が集まっており、一つの環壕のなかに半島南部から渡ってきた人びとの生活エリアがあったことが分かります。

 私は関東の人間なので知らなかったのですが、松菊里型住居は弥生時代中期前半まで西日本各地の弥生遺跡で見られ、その分布から渡来人は前期前半(紀元前3世紀頃)には和歌山県にまで進出していたことが分かっています。

 さて、そろそろお昼ご飯の時間です。

 お腹が空いてきたので今日のお話はここまでとします。


 



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魏志倭人伝に登場する二大強国・伊都国と奴国

2018-03-02 20:44:55 | 歴史コラム:原始
 明日は元々、東国を歩く会の「第16回 歩く日」を予定していたのですが、私の足がこんな状態なので、皆さんには中止のお知らせをして申し訳なく思っています。

 明日も今日に引き続き幕府に引き籠って養生していようと思いますが、明後日の日曜日はお掃除に行ってきます。

 そして来週の金・土・日はまたまた福岡へ行って参ります。

 たまたまかもしれませんが、九州の歴史関係の方々やバスの運転手の皆さん、そして飲食店の従業員の方々などなど、皆さんとてもいい人が多く、九州で仕事をしても不愉快な思いになることがほとんどありません。

 九州に行くとまた楽しい方々に会えるのでとても楽しみです。

 もう何度もお見せして辟易されるかもしれませんが、「歴史への旅」に掲載されているこちらのツアーで九州へ行きます。



 こちらの中段に載っているツアーです。

 ※なお稲用がご案内するツアーに関しては、クラツー公式HP内の稲用検索結果ページをご覧ください(システムの都合上、関係ないツアーも少し表示されます)

 ⇒クラツー公式HP内の稲用検索結果ページ


 さて、このツアーのテーマは、

 ・宗像大社
 ・邪馬台国(魏志倭人伝の国々)
 ・筑紫君磐井の乱

 なのですが、邪馬台国関連のトピックとしては、「魏志倭人伝」に登場する2つの国の故地(遺跡)を訪れます。

 邪馬台国の故地は訪れないのですか?

 と聴かれそうですが、邪馬台国は今のところどこかは分かっていませんからねえ・・・

 奈良に決まっているじゃないか!とカッとなったら、熱いシャワーを浴びたあとに冷たい炭酸水でも飲んで一旦冷静になってください。

 話を戻して2つの国というのは、奴国(なこく)と伊都国(いとこく)です。

 現在発見されている遺跡を見ても両国が非常に重要でかつ強国であったことが分かるのですが、今日はその辺の話を寺沢薫氏の『日本の歴史02 王権誕生』を参照しながらお話ししようと思います。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 以前、中国の正史である『漢書』や『後漢書』を元にして朝鮮半島の古代史についてブログ内のこちらに簡単に書きました。

 その内容とも一部重複しますが、日本(当時は倭国)が中国と関係を持つようになったのは、中国の漢王朝の第7代皇帝・武帝の頃です。

 武帝の頃の漢王朝は経済も充実し非常に勢いに乗っており、武帝の好戦的な性格も相まって、国外に攻めてどんどん領土拡張を図っていました。

 その過程で、紀元前108年に朝鮮半島を支配していた衛氏朝鮮をやっつけて楽浪・臨屯・真番・玄菟の4郡を置きます。

 これにより倭国の王たちは中国の皇帝へのアクセスが以前より容易になったわけです。

 と言っても、これ以前の倭国には、そもそも「王」と呼べるほどの人物がまだ登場していなかったのですが、偶然にもちょうどこの頃、「王」と呼べる他者を圧倒した力をもった統治者が登場するのです。

 中国では武帝が縦横無尽に権力を振りかざし、日本列島内でも王が登場するというのは、世界史という単位で見ると何かそういう時代性のようなものがあったのか興味深いです。

 日本の時代区分でいうと、弥生時代中期後半ということになり、研究者によっては弥生時代を大きく前後に分けた場合の後半の始まりの時期となり、まさに時代の画期でもあったわけです。

 ツアーで訪ねる、奴国の王墓である須玖岡本遺跡の王墓はこの頃造られ、伊都国で確認されている3つの王墓のうち、最初の王墓である三雲南小路遺跡の王墓もこの頃に築造されます(三雲南小路遺跡の現場にはツアーでは行きません)。

 この当時、北部九州にはたくさんの国(いくつかの集落が連合した組織)がまだドングリの背比べのような感じで、どこかが突出していたわけではありませんでしたが、彼らは漢王朝への接近を開始したのです。

 武帝が朝鮮半島を制覇してから約100年後には漢が滅亡し、新の建国、そして後漢の勃興と中国や朝鮮半島でも混乱時期が長く続き、それを収拾したのが、後漢の名将・祭肜(さいゆう)で、祭肜の活躍については、ブログ内のこちらに書いてあります。

 祭肜の活躍によって再び朝鮮半島の政情は安定し、朝鮮半島の各国(韓や高句麗など)と同じように倭国も後漢王朝へ遣いを送ります。

 それが西暦57年の奴国の遣使です。

 そのとき、後漢王朝の初代皇帝光武帝は使者に金印を授け、それが志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印というのが定説となっていますが、読み方についてはまだ決着していません。

 決着していないというのは、「漢の倭の奴の国王」と読めば、奴国の王ですし、「倭」が「委」と彫られているのを印の作成に用いられる「減筆」という処理ではないとするのなら、「漢のイトの国王」と読むこともできるからです。



 強引なまとめ方をすると、奴国であっても伊都国であっても、どちらでも当時の倭国の情勢を考えればおかしくないと思います。

 というのは、その頃の倭国では奴国と伊都国が2大強国になっていたからです。

 「魏志倭人伝」では、伊都国には世々王がいて、朝鮮半島から派遣されてきた中国の役人が必ず留まるということで、もしかしたら大使館のようなものがあったかもしれず、また諸国を検察し諸国から恐れられる一大率という特別な役人もいる国として記録されています。

 つまり朝鮮半島との窓口として開かれた国で、主として交易によって力を付けたのだと思います。

 卑弥呼が生まれる少し前の西暦107年に「倭国王帥升等」が後漢の安帝に会いに渡海していますが、この帥升は伊都国の王だとする説もあり、時代的にはこの時点で倭国を代表する人物としたら伊都国の王であってもおかしくないです。

 さて、ツアーでは伊都国歴史博物館と、3つの王墓のうち最も新しい時期の平原王墓を訪れます。





 平原王墓はこれがまた特殊でロマンがあるのです。

 何しろ40枚という鏡を木端微塵に打ち砕いて副葬しており、なにか死者に対する残された者の恐れのようなものを感じますし、副葬品には女性が身につける装身具が多いことから、女性が埋葬されていたと考えられています。

 まあ、そう言っても私は必ず現場で「男性でもアクセサリー類が好きな方がいらっしゃいますからね」と微妙な可能性を示唆したりします。

 平原王墓は故原田大六氏は「天照大神(アマテラス)の墓だ!」と言っていますし、古代史を考える上でとても面白い素材ですよ。

 一方奴国は、「魏志倭人伝」での記載はあっさりしていますが、既述した通り、西暦57年には後漢王朝に使いを送っていますし、遺跡の調査結果からは奴国の王都である須玖岡本遺跡は「弥生最大のテクノポリス」と呼ばれる、今風にいえば「工業都市」であったようで、福岡平野で出土する青銅器の鋳型の7割は須玖岡本遺跡から出ています。

 そのため、奴国は祭祀や呪術が国の運営で重要だった当時において、それに使用する青銅器の生産を一手に請け負い、それにより経済的な豊かさを実現していたと考えられるのです。

 ツアーでは奴国の丘歴史博物館と須玖岡本遺跡を見学します。



 では、肝心の邪馬台国はどこなんでしょうか。

 北九州と奈良と、実際に両方を歩いてみながら思索すると楽しいですし、奈良在住の研究者の中にも九州説の可能性を捨てきれない方もいらっしゃいますよ。

 ちなみに「魏志倭人伝」を読みたい場合に手ごろな本はこちらです。

新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
石原道博
岩波書店


 初版は1951年という大変古い本ですが、私が購入した20年くらい前の時点で何と61刷というとんでもなく売れている本です。

 古代史をやる上で物凄く重要な「隋書倭国伝」も収録されています。

 なんたって、「隋書倭国伝」を読むと推古天皇と聖徳太子はいなかったんじゃないの?って思うようになる可能性がありますからね・・・




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【福岡県宮若市】著名な装飾古墳・竹原古墳と犬鳴川流域最大の円墳・八幡塚古墳

2018-03-02 15:01:59 | 歴史探訪
 今月は有給休暇が補充されたので、今日はD社をお休みさせていただきました。

 あ、でも日曜日に出勤するから、今日は有休じゃなくて振休としてもらうかも。

 昨日寝るときは、今日は朝から群馬方面の博物館めぐりをしようと思っていたのですが、膝の痛みがなかなか引かず、車の運転も長時間になると膝へのダメージが大きくなると判断し、朝から政所に引き籠って歴史調査をしています。

 その一環で、福岡県宮若市にある著名な装飾古墳・竹原古墳とその近くにある八幡塚古墳について、「日本史大戦略」にアップしました。


 ⇒「日本史大戦略」内「八幡塚古墳」のページはこちら


 ⇒「日本史大戦略」内「竹原古墳」のページはこちら


 竹原古墳ではこんな素晴らしい装飾壁画を見ることができるんですよ!



 ※現地説明板の写真を撮影

 実はクラツーにて竹原古墳をご案内する仕事が来るまで、私は装飾古墳についての知識はほとんどありませんでした。

 興味の幅は広い方ですが、ノーマークだったのです。

 ところが、仕事でやることが決まってから勉強を開始した結果、少し詳しくなりました。

 装飾壁画の世界もなかなか面白くて、歴史って全般的にそうですが、興味を持って新しいジャンルをやり始めると、今までの知識との相乗効果もあり、さらに面白さが増すんですよね。

 これが歴史をやる醍醐味なので、城しかやらない人とか古墳しかやらない人は、それはそれで専門知識が深くて尊敬できますが、他のこともやった方が楽しいのになあと余計なお世話に思ったりします。

 試しに、古墳にあまり興味がない方は、ぜひ一度私の古墳ツアーに参加してみてください。

 そうすれば、多分その日から古墳好きになり、歴史の楽しみが倍加するようになると思いますよ。

 ところで、上述の竹原古墳の壁画を見られるツアーは、3月にも2本やるのですが、ありがたいことに両方とも満席となりました(タイミングによってはキャンセルが出た隙に申し込めることもあります)。

 ただし、私のご案内でなくてもよろしければ、29日(木)からのツアーがまだ少し余裕があるようなので、そちらをお申し込みください。

 なお、私がご案内するツアーの次回は、7月6日(金)~8日(日)となっております。

 まだ募集はかけておらず、3月10日発行の「歴史への旅」にて募集開始になると思いますので、興味がある方はもう少々お待ちくださいね。
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今日から「弥生」なので弥生時代の定義についてチョロッと話します

2018-03-01 20:50:10 | 歴史コラム:原始
 クラツーの古代史ツアーにはかなり詳しいお客様も参加しており、マニアックな質問をよくいただきます。

 そういう質問をしてくださる方は、ご自身で興味がある特定の分野をかなり突っ込んで研究されている方が多く、そういう方でも分からないことを質問してくるわけなので、浅学かつ非才の私は答えられないことがあります。

 私は知らないことは知りません、分からないことは分かりませんとハッキリ言いますが、例えば博物館の見学中の場合はすぐに学芸員の方やガイドの方を捕まえてそれについて聞いたり、泊まりのツアーの場合はホテルの部屋に帰った後にWebで調べて翌日お答えして出来る限り問題解決に努めます。

 質問されたことによって自分の興味の幅が拡がることも多いので、ツアーではむしろ私の方がお客様から様々なことを教えていただいていると言えますね。

 そういう意味でもお客様には感謝です。

 そういえば、先日のツアーの最終日、一番最後に訪れた板付(いたづけ)遺跡で、お客様から「ところで、今回のツアーでは登呂遺跡の話が一つも出てこなかったけど、何でなの?」と聴かれました。

 私は「登呂遺跡について知識が無いからです」と普通に答えましたが、確かに登呂(とろ)遺跡というのは弥生時代の遺跡のなかでも一世を風靡した遺跡なんですよね。

 やはり、知らないでいるのは恥ずかしいので、今度時間を作って静岡までひとっ走りして見てこようと思います。

 ところで、考古学では日本列島にホモ・サピエンスが住み始めて以降、古い方から旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と呼んでいます。

 今日から3月、つまり弥生の始まりなので、今日はこれらのうち、弥生時代の定義についてこちらの本を参照しながらお話ししてみようと思います。

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)
石川 日出志
岩波書店


 弥生時代というは、そもそもは「弥生式土器」を使用する時代ということで付けられた名称です。

 明治17年(1884)、現在の文京区弥生町向ヶ岡貝塚から採集された1個の壺が、それまで見つかっていた石器時代(今で言う縄文時代)の土器とも古墳から出土する土器とも違う種類の土器であることが明らかになり、さらに両時代の間の時代であることが判明したため、その土器を「弥生式土器」と命名し、その時代を「弥生式土器時代」と呼ぶようになりました。

 その後、戦後間もないころに私が無知な登呂遺跡が発掘され、今まで見つかっていた集落跡と高床倉庫跡以外にも水田跡が見つかり、「弥生時代は水田稲作による農耕の時代」という考え方が広まります。

 登呂遺跡での水田跡の発見は考古学者たちを大きく刺激し、その後、東海から北九州にかけて弥生時代の遺跡の発掘調査が進み、1951年から54年にかけて私たちが訪れた板付遺跡の発掘調査が行われました。



 このとき、板付Ⅰ式という土器が夜臼式(ゆうすしき)という土器と一緒に出てきました。





 ※上の写真は板付遺跡弥生館に展示されている土器です。





 夜臼式土器は、当時は縄文式土器としてはもっとも新しい土器とされていたので、それと一緒に出てきたことにより板付Ⅰ式土器は弥生式土器としては最も古い土器だということが分かったのです。

 ところで皆さんは、「弥生時代は何をもってその開始時期とするか?」と尋ねられたら、「弥生土器が使われ始めたことにより」と答えるより「水田耕作が始まったことにより」と答えるのではないでしょうか。

 おそらく、後者の稲作開始を弥生時代の開始時期という考えが一般的ではないかと思います。

 そうすると、一番古い水田耕作の跡を探していって、古いのが見つかればその都度弥生時代の開始時期が遡って行くことになってしまいますね。

 板付遺跡では1977年から翌年にかけて再び調査が行われたのですが、このときの発掘により弥生時代の定義についてさらに混迷の度が深まってしまいました。

 以前見つかっていた水田跡よりさらに深い、夜臼式土器しか出ない層から灌漑水田跡が見つかってしまったのです。

 つまり、その当時は夜臼式土器は縄文土器とされていたので、稲作は縄文末期から始まっていたと考えていいのか?という新たな問題が出てきてしまったのです。

 これ以降、土器を指標にして縄文時代と弥生時代を区別することは困難として、「弥生式土器」という言葉は使われなくなり、「弥生土器」という言葉が定着しました。

 上の写真の通り、板付では夜臼式土器の時代を弥生時代早期としていますね。

 板付では夜臼式土器が出た時代は昔の定義の縄文時代ではなく、弥生時代としているのです。

 現在の編年の一例を『列島の考古学 弥生時代』(武末純一・森岡秀人・設楽博己/著)から転載します。



列島の考古学 弥生時代
武末 純一;森岡 秀人;設楽 博己
河出書房新社


 ここでも夜臼式土器の時代は「弥生時代早期」としていますね。

 ところで、この図には絶対年代が書いていませんね。

 歴史好きからすると、「板付Ⅰ期というのは、何年から何年だ?」と具体的な年代を知りたくなるものですが、考古学の人たちは意外と拘泥しない方が多いです。

 絶対年代は科学的に土器を分析することにより分かりそうに思えるのですが、そんなに単純ではないようです。

 弥生時代の年代の中で現在とくに論争になっているのが、「弥生時代の開始はいつからか?」という問題で、古くからの考えでは紀元前3世紀頃からとし、現在一般的に支持されているように思える説が紀元前5世紀頃からで、比較的新しい説としては、国立歴史民俗博物館が提出している紀元前10世紀という考えがあったりして、まったく収拾がつかない状況となっています。

 水田跡が見つからなくても土器に稲の痕跡が付着してると、それを年代決定の根拠にしたりするわけですが・・・

 これ以上は言及しません。

 今まで私はツアーの時に弥生時代の絶対年代について話しませんでしたが、やはりもう少し分かりやすく説明する必要があると思ったので、今後は「一つの説として」と断った上で、絶対年代についても説明しようと思っています。

 


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