日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

45年生きてきて、ようやくお喋りが役に立ち始めました

2018-02-26 13:46:12 | 歴史探訪
 先週の金曜日から、2週間連続となる2泊3日の北九州古代史ツアーをご案内してきました。



 26名の参加者の方々、どうもありがとうございました!

 もうすでに、ここ最近で何回九州へ行ったのか自分自身把握していません。

 来月も同じものが2本あるので、もはや九州へ通勤しているような感覚です。

 出張が多いビジネスマンってこんな感じなんでしょうかね。

 でも添乗員さんなんかはこの比じゃないですよね。

 体調が悪かったころは飛行機に乗って遠くに行くなんて想像するだけでもゲッソリするようなことでしたが、慣れてしまえばなんてことはないですね。

 クラツーのお陰で九州に頻繁に行けるようになったので、九州の歴史も加速度的に面白さを増してきています。

 本当にありがたいことです。



 ところで、私はツアーの最中、主として昼飯や夕飯時を使ってなるべく多くのお客様とお話しさせていただいています。



 たまに添乗員さんの判断で、隔離されてご飯を食べることもあるのですが、お客様との会話の時間がとても楽しみなのです。

 ビジネスライクな言葉でいえばマーケティングですし、個人的には仲間との楽しい歴史談義だったりします。

 とくに泊りのツアーの場合は、少し長い時間、お酒を飲みながら様々なご意見・ご感想を聴くことができるので、私自身にとっても会社にとっても非常に重要な時間となります。



 そのような会話の中で、私の強みや弱みも浮き彫りになってきました。

 例えば、私はバスツアーでも街歩きでも、ほとんどずっと喋っています。

 長いときは途切れ無しに30分間のマシンガントークになったりします。

 この仕事を始めた最初のうちは、他の講師の方々のやり方を参考にして、自分なりの「ペース」のようなものを模索していて、喋りすぎるのも嫌われちゃうかなと思ったりして、あまり喋らないでいたときもありました。

 でも、自分が一番自然にできる方法としては、元々お喋りですので、喋りたいだけ喋るやり方が合っていると気づいたため、ここ最近はツアーの最中ずっと喋っています(そもそも、私を採用してくださった会社の偉い方からは、「ずっと喋っていてください。それが仕事です」と言われています)。


 そうしたところ、それを喜んでくださるお客様が多数いらっしゃることが分かってきました。

 「話が途切れないところがいいねえ」とか、「現地ガイドの話よりも稲用先生の話が聞きたかった」とか、「歴史と関係ない雑談でもいいから話してほしい」などのご意見を直接的にも間接的(アンケートの回答など)にも多数いただけるようになったのです。

 こういった意見が多くなったため、私は遠慮なく喋るキャラクターを確立しました。

 ただ、せっかく楽しみにしてツアーに参加しても、こういった私のスタイルが気に入らなかったり、「うるさい」と思ったりしたお客様には大変申し訳ないと思っています。

 クラツーには私以外にもたくさんの楽しい先生方がいらっしゃるので、お客様の好みに合う先生のツアーに参加していただければと思います。

 小さいころから母に「あんたは口から先に生まれてきた」と言われ、お喋りが祟って女性にモテない私ですが、45年生きてきて、ようやくそれが仕事で生かされるようになりました。

 私はイントネーションがおかしい自覚がありますし(妻にもしょっちゅう指摘されます)、活舌も悪くて、「聴きやすい喋り」ができるわけではありませんが、これも個性ですので(かの稲川淳二さんもあの喋りで喋る仕事をしています)、私は私なりに今後も喋っていこうと思っています。

*     *     *


 「歴史への旅」の最新号の21ページには以下のツアーが載っていますので、興味のある方はどうぞご参加ください。



 中段の北九州ツアーは好評につき満席ですが、6月にも一本やる予定です。

 ※3月29日(木)に出発する回もあるのですが、その回は私のご案内ではありません。

 20ページの最下段の2本も私のツアーです。



 左側の保渡田古墳群ほかのツアーはキャンセル待ちの状態ですが、右側のツツジが綺麗な古墳や那須の古墳ツアーはまだ残席がありますので、お時間がありましたらどうぞご参加ください。


 ⇒クラブツーリズム公式サイト内の稲用章のツアーの検索結果はこちらです(一部関係ないのも表示されます)
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【クラブツーリズム】探訪箇所の歴史的な流れ【北九州古代史ツアー補足説明】

2018-02-22 19:43:18 | 歴史探訪
 クラブツーリズムにて先週の金・土・日の2泊3日で北九州の古代史ツアーをご案内してきました。

 それと同じコースで、明日(2月23日)から再び福岡・佐賀へ行って参ります。

 3日間ということで巡る箇所が多く、もしかしたら参加者の中には個別で見ているものが歴史の流れとして繋がりづらいと思う方もおられるかと思いました。

 そのため、探訪する主だった場所について、歴史の流れではどういう位置づけになるか簡単に説明してみます。

*     *     *


 「魏志倭人伝」に登場する九州本土の国々で王墓や中心集落の比定地が確実なのは、伊都国(いとこく)と奴国(なこく)です。

 末盧国(まつろこく)は唐津湾岸の松浦地方である可能性が高いですが、まだ少し揺れているようですし、不弥国(ふみこく)は糟屋の辺りとか宗像とか諸説あり定まりません。

 このツアーでは、伊都国歴史博物館と伊都国の王墓である平原(ひらばる)王墓、それに奴国の中心集落である須玖岡本(すぐおかもと)遺跡群の中にある奴国の丘歴史資料館を訪ねます。





 卑弥呼の死は247年頃ですので、3世紀半ば前後には邪馬台国連合という大きな塊の下に、伊都国や奴国があったことが分かるわけですね。

 邪馬台国がどこにあったのかは諸説あって定まりませんが、前回の記事で書いたとおり、私は現在北九州説を探究しています。

 もちろんそれを他人に強制するのは「ダメ研究者」の極地ですので、自分がそう考えているだけで他の方の考え方を否定することはしません。

 雰囲気的にヤマトにあったということでフィックスされている感じが嫌いなので、北九州説をもっと盛り上げたいのです。

 ただし、一言で北九州説と言っても候補地は沢山あります。

 その中で、今回のツアーで訪れる吉野ヶ里遺跡も候補地に挙げることができます。



 吉野ヶ里遺跡の環濠集落の時代はちょうど邪馬台国の時代と同じであるので、可能性を完全に捨てきることはできないのです。

 少なくとも、邪馬台国でなかったとしても、強大な国が吉野ヶ里に存在していたのは考古学的に事実ですし、もしかしたら「魏志倭人伝」の中に記されている30国のなかの一つとして中国は認識していたのかもしれません。

 なお、当時の有明海は今よりも海岸線が内側にあり、筑後川の河口付近も内陸にあったため、付近の同時代の遺跡の分布図から想像すると、吉野ヶ里遺跡から7km南に行けば、海(筑後川河口付近)であったと考えられます。

 当時は櫓の上に立てば、海が結構近くに見えたはずです。

 ということなので、ひとまず邪馬台国北九州説で話を進めますが、この頃にはヤマト(具体的には奈良県桜井市)にヤマト王権が発足し、西へ向かって版図を伸ばしているところでした。

 私は『日本書紀』に書かれている天皇の系譜をそのままでは信じませんが、実在が難しい天皇であってもモデルとなった大王はいたと考えているため、これ以降は便宜上、通説上の天皇の名前を出して解説します(そもそも「天皇」というのは天武天皇以降の呼び名でそれ以前は「大王」です)。

 初代神武から始まって、9代目の開化天皇までは、その諱(本名)や宮殿の場所、それに奥さんの実家の場所を勘案すると大和盆地内がその勢力範囲だったと考えられますが、10代目の崇神天皇の時に通婚圏が一気に畿外へ拡大し、四道将軍の派遣の伝承もあることからヤマト王権はこの頃に急拡大を始めたようです。

 西へ向かうヤマト王権は、朝鮮半島との交易のためにはどうしても北九州を押さえたいわけですが、3世紀後半になっても、玄界灘沿岸地域には邪馬台国連合諸国が頑張っています。

 卑弥呼が没した後は、男の王が立ってゴタゴタしたため台与という少女がトップに祀り上げられたのですが、ヤマト王権が玄界灘沿岸地方に触手を伸ばし始めた頃には、まだ台与が存命で邪馬台国連合というものが残っていたかもしれません。

 ヤマトは玄界灘沿岸を制圧しようとしましたが、それは無理だと悟ります。

 まだ若干、力不足だったのでしょう。

 そうと分かったヤマトは、馬韓(朝鮮半島南西部の諸国連合)から来た人びとの植民都市である西新町遺跡での交易に参加させてもらう形で、ひとまず朝鮮半島との交易を開始したと考えられます。

 場所はこちらでご確認ください。



 ※「Yahoo!地図」を加筆転載

 この交易には、すでにヤマト王権と協力体制にあった吉備を始めとする瀬戸内諸国や山陰地方の諸国も参加しています。

 そしてそれと併行して、12代目の景行天皇の時には九州の中南部へ版図を伸ばしました。

 4世紀に入り、14代目の仲哀天皇の時に、ヤマトはようやく旧邪馬台国連合の国々(伊都国や奴国)を影響下に収めることができ、366年には斯摩宿禰(しまのすくね)が半島南部の卓淳国を訪れたところ、百済が倭と結びたいと考えていることを知ります。

 すると、その翌年にはおそらく建国してまだ半世紀ほどしか経っていない百済から国交樹立の申し出があり、ヤマト王権と百済は通交を開始します。

 このとき百済からプレゼントされたのが、かの有名な七支刀なのです。

 これ以降、ヤマトと半島とのやり取りは急増したのですが、その際に活躍したのが宗像大社の宗像氏です。



 宗像氏の協力によって、ヤマトは博多湾岸にある西新町遺跡を介さずに、宗像大島~沖ノ島ルートで朝鮮半島とのやり取りができるようになりました。



 ※「Yahoo!地図」を加工転載

 普通の地方豪族であれば、このタイミングで大型古墳を築造し、ヤマトからもらった物も含めて豪華な副葬品を納めるのですが、宗像氏の場合はまだ大型古墳を造らず、朝鮮半島との中継地点である沖ノ島に大型古墳ばりの豪華な品々を収めるようになり、いわゆる「沖ノ島祭祀」が始まります。

 沖ノ島祭祀が始まったのと同じタイミングで、それまで隆盛していた西新町遺跡が一気に衰退し活動を停止します。

 ヤマトと半島とのやり取りのルートが沖ノ島経由になってしまったので、存在価値が無くなってしまったのでしょうか。

 4世紀末期から5世紀にかけては、ヤマトの軍隊が朝鮮半島で活動していたことが広開土王碑の碑文でも明らかですが、このとき宗像の海人たちも活躍したことでしょう。

 所変わって、5世紀になると筑紫南部の八女地方に石人山古墳が築造されます。



 この勢力はやがて筑紫北部にも版図を伸ばし、旧邪馬台国連合の伊都国や奴国の後裔もヤマトを離れ、筑紫国の影響下に入ります。

 そして5世紀後半には、かの磐井が誕生します。



 磐井はヤマトへ留学した経験があるようで、近江毛野とも「同じ釜の飯を食べた仲」だったようです。

 524年、新羅が加耶への侵攻を本格化させますが、第26代継体天皇は加耶を援助すべく、磐井にも協力を仰ぎます。

 ところがその要求内容には、磐井が持っている玄界灘湾岸の港を自由に使わせて欲しいとの内容が含まれており、ニュアンス的には「貸して欲しい」という感じだったと思いますが、真意として「ちょうだい」ということを磐井は察知します。

 さすがに継体の高圧的な態度には磐井も我慢できず、協力を拒否し、528年には継体は磐井を滅ぼすべく筑紫へ侵攻させ、磐井がそれを現在の久留米市辺りで迎え撃ったわけです。

 ヤマトは地方を完全に支配下に置きたいという望みはずっと持っていたはずで、ヤマト自身の力が増大し武力で地方を圧倒する公算が立ったため、何かしらの言いがかりをつけて磐井を滅ぼしたかったのではないでしょうか。

 なので、もしそのとき磐井がヤマトの命令を聴いて従ったとしても、結局はヤマトは筑紫を直接的な支配下に置くべく動いたはずなので、時代の流れ的には「磐井の乱」は起こるべくして起きた騒乱だったのかもしれません。

 磐井は戦いに敗れた後、逃亡先で殺害されたと伝わりますが、子の葛子は継体に糟屋の官家(みやけ)を献上して家を保ちます。

 官家というのは政治的な拠点のことで、継体にとっては欲しかったものが手に入ったわけですね。

 宣化天皇のときには那津の官家も構築し、これによりヤマトは再び玄界灘沿岸地域を手中に収めることに成功したのです。

 ところで、磐井の乱の後には以前書いたとおり、半島への軍事動員を円滑にするために西日本で国造制が発足します。

 筑紫(のちの令制国の筑前と筑後を合わせた地域)は、筑志国造が置かれたのですが、葛子かもしくは磐井の傍系の誰かが任じられたのでしょう。

 そして面白いのは、筑志米多(つくしのめた)国造の存在で、米多というのは吉野ヶ里遺跡の近辺でのちの令制国では肥前国に入ります。

 この当時は筑後から見て筑後川を渡った対岸の吉野ヶ里辺りは筑紫の範囲と考えられていたわけですね。

 そしてもう一つ、末羅国造というのもいました。

 これは魏志倭人伝に登場する末盧国の後裔で、末盧という地域は独立性の高い地域だったことが分かります。

*     *     *


 このツアーの次回は、以下の通り「歴史への旅」の最新号の21ページの中段に載っていますが、キャンセル待ちの状況になっています。



 6月以降もやる予定ですので、お時間のある方はどうぞご検討ください。

 ※公式サイト上には3月29日(木)出発の回も表示されますが、その回は私のご案内ではありません。

 上段の東北の古代史ツアーもありがたいことに催行が決定しました!

 久しぶりに奥州へ行けるぞ!

 20ページの最下段の2本も私のツアーです。



 左側の保渡田古墳群ほかのツアーはありがたいことに定員に達し、キャンセル待ちの状態です。

 右側のツツジが綺麗な古墳や那須の古墳ツアーはまだ残席がありますので、よろしければご参加ください。


 ⇒クラブツーリズム公式サイト内の稲用章のツアーの検索結果はこちらです(一部関係ないのも表示されます)




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邪馬台国ヤマト説を否定する根拠は?

2018-02-20 22:36:58 | 歴史コラム:古代
 以前もチョロッと書いたとおり、邪馬台国の所在地に関しての私の考えは、最初に興味を持った20代半ばのころから20年の間で北九州説とヤマト説の間で揺れ動き、現在は北九州説となっています。

 そう考える理由は、考古学や文献史学などのアカデミズムからの根拠と共にある種の「感情」も加味されているから始末が悪いです。

 どうも、世の中的には邪馬台国はヤマトにあったという方向に落ち着かせたいような雰囲気があるのですが、そういう風潮がイヤなのです。

 ヤマト説を支持する人が多くなるほど、私は北九州説を探求したくなる。

 ようするにひねくれ者なのですね。

 こういったことを先日の北九州のツアーの際にバスの中で話したところ、後ろの方の座席から拍手が聴こえてきて大変うれしかったです。

 まだまだ北九州説を諦めるわけにはいきません。

 今読んでいる本で面白い本があります。

 『歴史文化ライブラリー294 邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』(若井敏明/著)

邪馬台国の滅亡―大和王権の征服戦争 (歴史文化ライブラリー 294)
若井 敏明
吉川弘文館


 2010年という比較的最近刊行された本なのに北九州説を唱えている本です。

 私が持っているのは2016年の4刷なので、歴史の本にしてはかなり売れているほうですね。

 該書に書かれている「邪馬台国がヤマトになかった理由」が非常にシンプルで説得力があるものなので、今日はそれだけお伝えします。

 該書は、『日本書紀』に書かれていることを基本的に肯定しているので、その前提を承認できない場合は、該書の意見に従えないかもしれません。

 私の場合も『日本書紀』を非常に重要視するのですが、歴代天皇が神武から代々あの順番で在位したとは考えていません。

 ただし、『日本書紀』に書かれた天皇のモデルとなった人物がいたとは考えており、若井氏と同じく、ヤマトの発展の歴史は、天皇の名前や絶対的な年代などを除いては、基本的には『日本書紀』に記された順番で良いのではないかと思います。

 それを前提として該書の内容をお伝えするので、ここまで読んでご意見の違う方は読まなくても結構です。

 さて、『記紀』(『古事記』と『日本書紀』)によると、ヤマト政権は景行天皇のときと仲哀天皇のときの2度、九州へ遠征しています。

 1度目の景行天皇の時の遠征ルートを見ると、「魏志倭人伝」に登場する玄界灘沿岸の諸国は出て来ず、景行は九州の中南部を横断して帰ってきています。

 つまり、玄界灘沿岸諸国をモノにすることはできなかったのですね。

 もちろん、ヤマト説を取る場合、すでに玄界灘沿岸諸国は邪馬台国連合に入っていたわけですので、当該地域に遠征する必要はないという意見がでると思います。

 ところが、2度目の仲哀天皇のときに服属してきた諸国が玄界灘沿岸の諸国(伊都国や奴国の後裔の可能性が高い豪族たち)であると記されているのです。

 ということは、このタイミングでヤマトは北九州を制圧できたということになりますね。

 仲哀が実在かどうかは別として、百済の記録と整合させると、仲哀天皇の没年は366年か翌年になるので、この頃、ヤマトは北九州の邪馬台国連合(元邪馬台国連合?)を制圧したことがわかるのです。

 昔から、『記紀』に卑弥呼や邪馬台国のことが記されていないのは、中国に従属していた歴史を隠すために(つまり律令国家のメンツを保つために)敢えて記さなかったといわれてきましたが、そもそも卑弥呼とヤマト政権は別物と考えれば記されていなくて当然です。

 また、これは先日、吉野ヶ里遺跡のガイドの方が解説していて、私とまったく同意見だったこととして、中国が果たして日本列島の近畿地方まで把握していたかどうかは分かりません。

 中国は北九州地域のことは知っていても、それより東のことは知らなかったかもしれません。

 知らない間にヤマトの豪族(天皇家の先祖)の力が増大して、上述の景行天皇や仲哀天皇のように西へ攻めて行ったと考えることもできるのではないでしょうか。

 ひとまず、若井氏の非常にシンプルな説をご紹介して、邪馬台国がヤマトになかった可能性が高いということを述べました。

 では具体的には北九州のどこにあったのか?

 それについは今後も探求していきたいと思います。


 ※4月7日(土)に西新宿のクラツーにて邪馬台国北九州説の可能性についてお話します。

 ⇒詳細・お申し込みはこちらまで



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【クラブツーリズム】宗像大社・吉野ケ里遺跡・岩戸山古墳などなど【北九州の古代史ツアー2泊3日】

2018-02-20 15:12:15 | 歴史探訪
 我が家は建てて14年くらい経ちますから、いろいろとガタが来ています。

 3年位前に給湯器が壊れて、そのときは修理で済んだのですが、そのときに「3年くらいしか持たないかもしれません。次壊れたときは新品と交換でしょう」と言われており、その予言通り、先日の大雪の日にお湯が出なくなりました。

 ただ、その後お湯が出るようになったのでとくに交換もせずに過ごしていますが、もう時間の問題かもしれません。

 そう思っていたら、お風呂の台付きの蛇口が壊れました。

 水が止まらなくなったのです。

 こちらは新品との交換になりますが、安くても4~5万かかるのでまだ交換できていません。

 部屋の壁はジジが鋭意破壊してくれます。

 機嫌が悪いと壁紙をはがして、その向こう側まで壊してくるのです。

 屋根もそろそろかなという時期で、たまに営業の人が訪問してきます。

 家だけでなく、私自身もちょっとガタがくる時期なのかなと思います。

 最近は疲れ気味ですし、先月は掃除の仕事で大きな物損を2件やらかしましたし、歯は痛くなるし、おまけに先週の水曜日の夜、歯医者の帰り道に右膝の靭帯を損傷しました。

 治療を終え、カバン屋さんで旅行に持っていくのにちょうどよいカバンをセールでゲットできたこともあって機嫌よく街灯のない下り坂を歩いていたところ、急に足元をすくわれ尻餅をついてしまったのです。

 暗くて気づかなかったのですが、まだ氷が残っていったため、左足は「ツー」っと滑っていき、右足はアスファルトに踏ん張ろうとした結果、足が大きく開いてしまい、尻餅をした瞬間、両足の膝の内側が「ピキッ」と言いました。

 同時に痛みも走ったので、「あ、やっちゃったな」と自分でも認識し、翌朝目が覚めると右足の膝の内側が異様に痛く、可動させるのが困難です。

 朝一で整形外科へ行き検査してもらうと、外見的にもレントゲンでも異常なしですが、靭帯をやられてしまったようです。

 痛いのは確かなのでテーピングしてもらい、湿布をもらい、「安静にしていてください」との指示が出されました。

 そのため、その日はD社は休みましたが、その翌日からは2泊3日でクラツーの北九州ツアーです。

 こちらは何とか工夫して案内するしかないと覚悟し、出張ってきました。

 35名様のご参加、ありがとうございました!

 今日はそのレポートをお伝えしたいですが、私がガイドしているため史跡の写真はほとんど撮っていません。

 そのため、いやらしい食べ物写真を羅列しようと思います。

 1日目の昼飯はお弁当。





 クラツーで出すお弁当は上品なのが多いのですが、今回は珍しくガッツリ系というか、男子が喜ぶようなお弁当でした。

 1日目の夜はホテルへ向かう途中の食事処。





 鯛の刺身がとくに美味しく、鯛茶漬けでも食べられるようになっていました。





 ホテルに到着して拘束解除になったため、自部屋で飲みです。



 2日目の朝はホテルでパン食べ放題。

 昼は吉野ケ里遺跡のレストランで佐賀牛のハンバーグ。



 柔らかくて美味しかったです。

 デミグラスソース大好き。

 珍しい「菱の実」で作った焼酎を購入(帰宅後飲んだらパンチがあって美味しい焼酎でしたよ)。



 夜は自由夕食でしたので、宿泊地久留米の居酒屋へ。











 鶏肉関係がとくに美味しかった。

 生も500円で良心的ですね。

 〆は久留米ラーメン!





 このラーメンも美味かった!

 もしかしたら次回もこの居酒屋とラーメン屋に行くかもしれません。

 3日目の朝もホテルのパン。

 昼は鶏料理。





 ここはお客さんのほとんどの方が「美味しい!」と言っていましたが、私も同感です。

 そして福岡空港で解散となったあとは、空港内でカツカレーとビール。



 このカレーは2度目なのですが、今後も福岡空港での定番になりそうな予感です。

 というわけで、歴史のレポートはまったくしないで申し訳ありません。

 今週の金曜日もまた同じ内容でツアーに行ってきますよ。
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【栃木・思い付き歴史探訪 その3】車塚古墳・牛塚古墳【壬生町】

2018-02-14 12:20:27 | 歴史探訪
 関東地方にもたくさんの古墳があり、墳丘に登れたり、横穴式石室に入ることができる古墳も数多くあります。

 でも、実際にどこにどんな古墳があるのか、それを調べるのが大変かもしれません。

 私は今ではそれなりの数の古墳を訪れていますが、関東の古墳巡りを始めたころからずっと愛読している本があります。

 それがこちらです。

関東古墳探訪ベストガイド
東京遺跡散策会
メイツ出版


 この本は関東の主な古墳についてオールカラーで解説している本で、詳しい説明が書かれている学術的な本ではありませんが、古墳の所在地を示す簡単な地図も載っており、非常に要領よく解説されている本です。

 私自身、まだまだ未知の古墳がありますので、見知らぬ土地へ行くときはこの本がとても役に立ちます。

 先日の栃木県の歴史めぐりの際もこの本を車に積んで出かけ、塚山古墳群の次は、この本に掲載されている壬生町内の車塚古墳を目指しました。

*     *     *


 『関東古墳探訪ベストガイド』に掲載されている地図を見ながら、カーナヴィで探してみると、車塚古墳の場所が表示されました。

 結構近いですね。

 車塚古墳はとても分かりやすい場所にありました。

 しかも駐車場も広いです。

 というか、本当は駐車場じゃないのかな?

 私有地かもしれません。

 まあ、ともかく車を止めさせていただきましょう。



 直径82mという巨大な円墳で、周溝は二重だそうですよ。

 しかも横穴式石室が開口しているらしい・・・

 車塚の近辺にはたくさんの古墳がありますね。



 あとで行ってみようっと。

 すぐ隣には牛塚古墳があります。

 両者はかなり近接していますね。

 まずは車塚古墳から見ますよ。



 もともと周堤だったところが中世城郭の土塁のようになっています。

 周堤に登って周溝を見下ろすと、本当に中世城郭のようで興奮してきました。





 楽しくてついつい独り言を発してしまいますし、歌まで口ずさんでしまいます。

 葺石に使った河原石かな?



 壬生地方に特有な基壇の上に来ました。



 確かにこれは独特で、先ほどの周溝と周堤が中世城郭の空堀と土塁だとしたら、これは帯廓ですね。

 墳頂に到着。



 登ってきたところを振り返ります。





 それでは石室へ行ってみますよ!

 あった・・・



 開いてる・・・



 興奮してきました。

 この切込みは何でしょうかね。



 新しい時代の古墳になると造りも近代的な感じがしますが、それでも1300年以上は前のものですね。

 入ります・・・

 中はワンルームですね。

 切り石積みで天井石も一枚です。



 この穴は何でしょうか。



 それでは、黄泉の国から生還しましょう。



 石室から外に出ると「生れ出た」感がありますよね。



 お母さん、生んでくれてありがとう。

 この石はなんでしょうか。



 入り口を塞いでいた石でしょうかね。

 しかし石室には独りでは長く入っていられませんね。

 だいぶ昔のことではあっても、遺骸が置かれていた場所ですから独特な雰囲気があります。

 魂は残っていて見学者を不思議そうに眺めているかもしれませんよ。

 怒られないことだけを祈ります。

 しかし車塚古墳は墳丘もいいですねえ。



 周溝に降りると、城跡の空堀を歩いているような気持になります。



 これも葺石かな。



 標柱と墳丘。





 では次にお隣の牛塚へ行ってみましょう。



 こちらは墳丘長60mの帆立貝式古墳です。





 おっと、ここより北側にも古墳がたくさんありますね。



 でも今日は時間の都合で逆戻りすることはできません。

 また後日探訪しようと思います。

 では牛塚古墳の墳丘に登りましょう。



 後円部墳頂。



 後円部から前方部を見る。



 車塚古墳。



 川越市にも牛塚古墳という同じ名前の古墳があるのですが、川越市博物館の図録には「牛」というのは高貴な人を現す「大人(うし)」のことではないかと推測しています。

 あとは「主」(ぬし)が「ウシ」に訛ったのかもしれませんね。

 あ、車塚古墳の外側の周溝が見れないかな。

 この部分は二重になっているのが分かりますね。



 では次は、先ほどの説明板の地図に書いてあった愛宕塚古墳を見に行ってみましょう。

 (つづく)
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【栃木・思い付き歴史探訪 その2】墳丘一面にツツジが植えられた塚山古墳ほか【宇都宮市・塚山古墳群】

2018-02-13 19:01:43 | 歴史探訪
 昨日は久しぶりの休日でした。

 天気も良かったため、ジジを連れて妻と一緒に近所のスーパーまで散歩して、スーパーにあるドッグランでジジを遊ばせてみました。

 ジジも私も初めてのドッグランです。

 ドッグランには他のワンちゃんが3匹いて、ジジは最初は戸惑って固まっていましたが、そのうち調子に乗ってきてみんなと楽しそうに追いかけっこをしていましたよ。

 今までの人生で一番運動したんじゃないの?



 買い物のついでに私はスーツケースを購入しました。



 飛行機の機内に持っていけるサイズです。

 一泊旅行だと普通のリュックで賄えますが、今後決まっているだけで2泊3日のツアーが4本ありますし、今後はさらに増えると思うので、小さめのスーツケースを買ったわけです。

 クラツーの仕事をするまで飛行機には3往復しか乗ったことがなかったので今まで必要性を感じなかったのですが、やはり2泊だと飛行機の場合はこういったものがあったほうが便利かなと思いました。

 ちなみに現品特価で安かったですよ。

 しかしこんなに頻繁に大好きな飛行機に乗れるようになるなんて、クラツーに感謝です。

 さて、前回の記事の続きで、栃木の歴史探訪の続きをお伝えします。



*     *     *


 栃木県立博物館が予想以上に楽しかったため、もう11時半を過ぎてしまいました。

 博物館のレストランでは1000円でランチが食べられるようですが、ゆっくりご飯を食べると時間がもったいないし、食費も節約したいし・・・

 そんなことを想いつつ、結局コンビニでおにぎりを2個買いました。

 これからは県内を南下しながら古墳を見て回ろうと思います。

 まずは宇都宮市内にある塚山古墳です。

 大雑把な場所しか把握していないのですが、栃木県運動公園の近くのはずなので、まずは運動公園の駐車場までやってきました。

 あ、見えた!



 墳丘にツツジが植えられているのですぐにそれと分かります。

 しかしこの駐車場から古墳の方へ向かう出口がない・・・

 ちょっと回って古墳の前へやってきました。



 なんだ、ここは塚山古墳単体ではなく、古墳群だったのですね。



 嬉しい。



 この図の通り、前方後円墳の塚山古墳のほかに、帆立貝式古墳の塚山西古墳と塚山南古墳、それに小さな円墳である6号墳の4基があるんですね。

 予備知識なしで来るのも楽しいですよ。

 主墳である塚山古墳の前方部前には6号墳。



 一部分が削られていますが、周溝まできちんと残っています。

 説明板によると直径20mで円筒埴輪と土器が出土しているようです。

 それでは、主墳である塚山古墳は最後にするとして、帆立貝式古墳から見てみましょう。



 まずは塚山西古墳。







 奥には塚山南古墳が見えます。



 横から見ると帆立貝式古墳の形状に見えますね。



 古墳群の下には宇都宮環状外線がトンネルとなって通っていますが、当初は古墳群をぶち壊して普通に道路を造る予定だったのを、景観を維持するためにトンネルに変更したそうです。



 素晴らしい決断ですね。

 つぎに塚山南古墳。







 盗掘の跡でしょうか。



 前方部の形が変わっていて、造出のようなものがあります。



 後世の改変でしょうか。





 ではここで塚山南古墳の墳丘に登りますよ。

 後円部墳頂。



 後円部から前方部を見ます。



 トンネル。



 塚山古墳は木に隠れて見えません。







 そして今度は塚山西古墳の墳丘に登ります。

 後円部墳頂。



 前方部を見ると、上からは形が良く分かりません。



 塚山古墳を望見。



 では次はいよいよ、塚山古墳を見ますよ。



 ツツジのシーズンは大層綺麗だそうです。

 周溝の跡。





 塚山古墳は前方部と後円部の高さがほぼ一緒で、後期古墳の特徴が出ています。



 前方部へ登ります。



 塚山西古墳を見下します。



 塚山古墳は前方後円墳なのですが、「剣菱型」といわれる前方部が尖った変わった形の前方後円墳で、剣菱型の古墳は非常に少なく、代表的なのは大阪府高槻市にある今城塚古墳です。

 今城塚古墳は26代継体天皇の墓と言われている6世紀前半に築造された古墳ですので、塚山古墳の5世紀後半より後になります。

 この辺をどう理解するか。

 そして東国では、埼玉古墳群にある中の山古墳が剣菱型の可能性がある古墳ですが、中の山古墳は6世紀末から7世紀初めの築造とされています。



 遠くには日光男体山が綺麗に見えますね。



 ズーム。





 後円部へ行き、前方部を見ます。



 後円部の先端は少し削れていますが、本来の墳丘長は98mありました。



 実は今日は予備知識なしで塚山古墳群に来たのですが、一度も来たことが無いのにツアーに組み込んでしまったのです。
 
 こちらの右下のツアーです。



 那須の古墳や郡衙、それに那須国造碑をお客さんにお見せしたくてツアーを企画したのですが、那須へ行く途中に面白い古墳を探したところ、塚山古墳は墳丘全体にツツジが植えられていて、開花シーズンはとてもきれいなことが分かったので、歴史的な背景などを考えずにツツジの開花日に合わせてツアーに仕立ててしまいました。

 でも今日こうやって見に来た結果、古墳「群」になっていますし、非常に興味がそそられる古墳ですので、ご案内当日までにはそれなりの見解を述べられるようにしておきます。

 ⇒塚山古墳群をめぐるクラツー公式ページはこちら

 塚山古墳群は姿川の流域ですが、姿川は思川に合流し、思川は利根川に注いでいます。

 思川流域は栃木県内でもとくに古墳が多い地域で、国府や国分寺も思川流域に営まれました。

 いま、私の中で古代の思川が大変クローズアップされてきていますが、如何せん、現在のところ手元に資料が無い!

 これから資料集めをしますよ。


 ⇒この続きはこちらです


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【栃木・思い付き歴史探訪 その1】歴史系と自然系が合わさった見応えのある栃木県立博物館

2018-02-12 10:01:15 | 歴史探訪
 一昨日(2月10日)は、クラブツーリズムにて2本の講座をやらせていただきました。

 午前は「東北地方の古代史・中世史」のシリーズの第2回目として、室町時代の東北地方について話しました。



 8名様のご参加、ありがとうございました!

 今回は全12回のうち、おそらく一番地味な時代で、パワポも文字ばっかりになってしまい、面白みに欠けたかもしれません・・・

 お昼は「たかまる鮮魚店」。



 このヴォリュームで1,080円!

 お腹一杯になった後は午後の講座です。

 今度は、古代の役所について話しました。



 国府や郡家の歴史や遺跡、役人の仕事内容についてお話しし、こちらは10名様のご参加をいただき、どうもありがとうございました。

 講座が終わった後、アンケートを拝見したところ「これからもマニアックな講座を!」というご意見もあり、それに背中を押されてさらなるマニアックな講座をやっていきたいと改めて思いました。

 さて、明けて昨日は、東国を歩く会の「第16回 歩く日」を開催する予定だったのですが、歩く場所の青梅の山城が先日の大雪の影響で足場がまだぬかるんでいるという情報を事前に得て、さらに天気予報によると催行前日から当日朝まで雨が降ると言っていたので順延としました。

 そのため、1日空いてしまったのですが、ちょうどインフルエンザが治った妻がシュナウザーのジジと一緒に古河の実家へ帰っていたので、彼女らを迎えに行くついでに栃木の歴史探訪をしてみようと思い立ちました。

 本日はその模様を簡単にお伝えします。

*     *     *


 前日の夜、どこを探訪しようか考えたのですが、現在クラツーで企画中の千葉県方面にするか、茨城県の水戸あたりにするか、栃木の国府辺りにするか迷いました。

 結局、妻の実家に近いということもあり、栃木をプラプラしてみることに決めました。

 寝坊してしまい7時に起床。

 8時過ぎに家を出て、高尾山ICから圏央道に乗っかり、久喜白岡JCTから東北道へ移り、鹿沼ICで降りたち、最初に訪れたのは宇都宮市にある栃木県立博物館です。



 ここまで我が家から1時間45分で来れました。

 圏央道の威力はやはり凄いですね。

 私の経験では県立の博物館はそれほどグッと来ないことがあるので、あまり期待はしていません。

 むしろ、町の小さな資料館が異様に楽しかったりすることが多いのです。

 ところであの土塁は何でしょう?





 県立らしい立派な玄関。



 入館料は250円です。

 なんか、恐竜が飛んでるぞ!



 栃木県立博物館は自然系と歴史系が合わさった博物館です。

 写真撮影に関しては歴史系展示はダメだということです。

 それでは、らせん状の登りスロープになっているところから歩いてみましょう。



 なるほど、ここは登って行くにつれて標高が高くなって行くんですね。

 小平市の「ふれあい下水道館」の階段と逆パターンです。

 戦場が原は標高1,400メートル。





 戦場が原というと、小学校6年生の時に日光へ修学旅行に行ったのですが、その帰り道、戦場が原で休憩しました。

 そのとき、鬼ごっこをしたのを覚えています。

 当時は歴史に興味を持ち始めた頃だったので、「戦場が原って古戦場なのかな?」と思っていました。

 それから30年近く経った数年前、たまたま戦場が原の由来を読んでようやく謎が解明できました。

 『日本の神々(11)』の群馬の赤城神社の項によると、むかし、下野国の二荒山と上野国の赤城山の神が中禅寺湖をめぐってお互い自分のものだと主張して戦いになってしまい、その戦場となったのが戦場が原だったのです。

 戦いの趨勢は、はじめは赤城の神が優勢でしたが、二荒の神は鹿島の神の助言によって小野猿麻呂という弓の名人の加勢を得、反撃に転じました。

 二荒の神は蛇の姿になり、赤城の神はムカデに姿を変えて戦いましたが、赤城の神は猿麻呂に左目を射抜かれて、ほうほうのていで逃げ帰ります。

 その赤城の神が負った手傷をいやした湯が老神温泉だそうです。

 この伝承は非常に面白い内容だと私は思うのです。

 下野と上野は元々は「毛野」という一つの領域であったわけですが、その中で抗争が起きており、下野は鹿島の神(もしかするとヤマト?)の手を借りて上野をやっつけます。

 これは古墳時代前半の4世紀、まだ「毛野」という一つの大きな塊ができるよりも前の豪族同士の戦いが伝承として残ったのかもしれません。

 あ、熊さん!



 というわけで、グングン歩いて行くと白根山の山頂に到着しました。



 まさかこんな軽装で楽々と白根山に登れるとは思いもよりませんでした。

 つづいて地質コーナーですがここもまだ写真撮影はOKです。





 おっと、恐竜出現!



 私が子供の頃の40年近く前も恐竜ブームがあり、当時は少し興味を持っていましたが、その後興味が失せてしまっています。

 ところが、最近地球の地質について気になりだしているので、その関連で、億単位に古い時代の地球の生物にも興味が出てきてしまいました。

 でかいのが4体並んでいますが、一番手前がステゴサウルスです。





 その隣の2体は両方ともアロサウルスですが、2通りのポーズで展示してあるのです。





 こちらが「ゴジラ型」と呼ばれる姿勢で、尻尾を引きずって鈍重な感じです。



 ところが最近の研究では、尻尾を持ちあげて軽快に動き回っていたことが分かっているそうです。



 説明はこちら。



 考えて見ればゴジラのような動きをしていたら、高速で走り回る他の動物を捕まえることなんてできないですよね。

 肉食動物は動きが機敏でないと生きていけません。

 人間もそうでしょうか。

 以前から興味があるナウマンゾウ。



 日本にもサイがいたんですね。





 というわけで、これからいよいよ歴史系の展示コーナーへ行きますが、ここからは写真撮影NGです。

 原始時代から近代まで豊富な展示があり、入館する前はあまり期待していませんでしたが、町の郷土資料館の展示物の量が大量になったような雰囲気の博物館でとても楽しいです。

 ちなみに、私は最終学歴を「足利学校卒」と公言しているのですが、足利学校の庠主の16代と18代は八王子出身だったんですね。

 こうやって自分の地元と関連した事柄が出てくると嬉しいものです。

 歴史系の展示のあとは、自然系を見ます。

 私は古墳の横穴式石室をご案内する機会が多いのですが、自分の岩石に関する知識が薄いことを恥ずかしく思っていました。

 そのためこういった本を読み、現在岩石に関して勉強中です。

三つの石で地球がわかる 岩石がひもとくこの星のなりたち (ブルーバックス)
藤岡 換太郎
講談社


 栃木県立博物館は岩石についての展示も豊富です。



 代表的な3つの石について詳しく説明してありますよ。







 こういった説明も親切ですね。



 そのほか、綺麗な石が一杯。



 私はアクセサリーの宝石に関してはあまり興味はありませんが、そういったアクセサリー類より遥かにきれいな石が沢山並んでいて楽しいです。



 イノシシとツキノワグマって大きさに極端な違いが無いですね。



 小学生の時に教科書に乗っていたカブトガニ。



 その他、化石も豊富に展示してあります。

 以上、私の場合、見学に1時間40分くらい掛かりました。

 近世と近代と自然の大部分はザーッと見ただけだったので、それもじっくり見たら2時間半コースでしょう。

 とても楽しい博物館でしたよ。

 ではこれから古墳めぐりをしましょう。


 ⇒このつづきはこちらです

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古墳時代から律令時代への地方制度の流れ【別・国造・国司など】

2018-02-08 01:10:34 | 歴史コラム:古代
 今週の土曜日(2月10日)は、西新宿のクラツー本社にて、2本講座をします。

 

 午前中は東北の中世史で午後は「古代の役所」をテーマに話します。

 国府や郡家の遺跡についての解説とそこで働く役人さんたちの仕事内容をメインに話そうと思っていますが、今日はそれに関連したお話を少ししようと思います。

 私の講座やツアーでは国造(くにのみやつこ)という言葉がしょっちゅう登場するのですが、国造とは「大化改新以前に列島各地を治めていた地方の有力者(豪族)」で、ヤマトとの関係は「半独立」という感じで説明してきました。

 ただ、便宜上はそれでもよいのですが、今日はもう少し詳しく、国造から国司への歴史の流れをお話しします。

 主に参考にした書物はこちらです。

国造制の成立と展開 (古代史研究選書)
篠川 賢
吉川弘文館


 1985年の本なので、今の研究水準からすると少し時代遅れなところがある可能性もありますし、著者の篠川氏の独自見解が述べられている箇所もありますが、国造について基本的なことを押さえるのには適した本だと思います。

 まず、4世紀から5世紀にかけて(古墳時代の中期頃)、列島各地の大型前方後円墳を築造できるほどの有力な豪族は、「ワケ(別)」という称号を名乗っていました。

 これはヤマト政権の指導者も地方の首長もみな一緒です。

 力関係的にはヤマト政権の指導者がトップにはいるのですが、それでも地方の首長から隔絶した権力は持っていなかったのです。

 それが通説上の21代雄略天皇の頃には、ヤマト政権の指導者は「大王(おおきみ)」と名乗るようになり、地方の首長との力の差が大きくなってきます。

 雄略は5世後半に活躍した人物です。

 そしてつぎに国造が現れるわけですが、国造の出現時期については5世紀や6世紀という説があります。

 『日本書紀』によると、国造が登場する大事件が東西で発生しますが、西の事件が「筑紫君磐井の乱」で東の事件が「武蔵国造の乱」です。

 「筑紫君磐井の乱」の勃発は通説上の第26代継体天皇の21年(527)で、「武蔵国造の乱」は、通説上の第27代安閑天皇元年(534)の出来事とされ、『日本書紀』では磐井のことを「筑紫国造」としていることから、これらの事件以前にはすでに国造が存在したと考える人が多いようです。

 ところが、上述の篠川氏の研究では、国造はむしろ、磐井の乱の鎮定を契機として、まず西日本でほぼ一斉に設置されたとします。

 そして設置の理由は、朝鮮半島への軍事行動を強化するためであり、軍事的な制度として国造を創出し、それがのちに行政官となったとします。

 東日本での設置は少し遅れ、崇峻天皇の2年(589)に見える、近江臣の東山道への派遣等の時点と考えています。

 東日本での国造の設置が589年だとすると、国造の地位を一族内で争ったという「武蔵国造の乱」の発生時期は、そういった事件があったとしたら6世紀末期以降となり、ちょうど埼玉古墳群の周辺に大型古墳が築造されて、埼玉古墳郡の被葬者一族による武蔵国内での独り勝ち状態が崩れ出したという考古学的な事実と一致して興味深いです。

 なお、国造の下位には稲置(いなぎ)と伴造(とものみやつこ)が置かれ、伴造に関しては古代の政治制度である「部民制」と深く関わってきて、ここでその話をすると話題が拡がり過ぎるので今回は割愛します。

 さて、私は「大化の改新後は律令国家によって国造制度は消滅して「国-郡-里」の行政区画に移行し、701年の大宝律令によってその制度が整った」という説明を今までしてきましたが、これについてもう少し詳しくお話しします。

 まず、645年の乙巳の変のあと、孝徳天皇の時代に評制という制度ができ、郡の前身となる評という行政区画ができました。

 ちなみに、郡も評も「こおり」と読みます。

 評の役所のことを評衙(ひょうが)と呼び、評の長官を評督(こおりのかみ)・評造(こおりのみやつこ)・評司(こおりのつかさ)などと呼びます。

 この時代以降の話は土曜日の講座でも話そうと思っていますが、評衙の遺跡も各地で見つかっており、それが郡衙に発展するケースもあります。

 そしてここからが面白いところなのですが、評という行政区画を列島各地に設置して行っても、国造はいなくならなかったのです。

 つまり、評制を導入する代わりに国造制を廃止したわけではなく、国造の下位にあった稲置や地方の伴造が評へと移行していき、国造はそれら複数の評の上位者として君臨しました。

 『日本書紀』では、天武天皇の12年から14年にかけて(683~85)、国境確定の記事が記されていますが、このときに国造制の廃止が決まり、令制国の国(武蔵とか相模などの60余州)へ移行しました。

 ともすると、大化改新のあと、すぐに全国的に令制国が設置されたと思いがちですが、令制国の設置はこのような段階を踏んで、国造に取って代わって定められたのです。

 令制国の幹部のことを国司と呼びますが、国司が発足したのは大宝律令後でそれ以前は国宰(くにのみこともち)と呼ばれていました。

 国宰制の発足は、篠川氏は天智天皇9年(670)の庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成時としています。

 『日本書紀』の大化改新の記事には「国司」という言葉が出てきますが、『日本書紀』は7世紀末期から8世紀初頭の政治意図や政治知識で書かれているため、書かれた当時に制度としてできていた「国司」という言葉を使ってしまったわけです。

 大化改新のときに各地に送り込まれた「国司」というのは同時代には「惣領」と呼ばれていました。

 惣領は評制を全国に及ぼすために、複数の国造を担当範囲として各地へ送り込まれたのです。

 さて、以上話してきたことを時系列にまとめてみると以下の通りとなります。

 ・4世紀~5世紀 各地の有力者は「ワケ」を称号として持つ
 ・5世紀後半 ヤマト政権の指導者が「大王(おおきみ)」として卓越した力を持ち始める
 ・527年以降 磐井の乱を契機として、西日本で国造が設置される(国造の下位には稲置と伴造)
 ・589年以降 東日本で国造が設置される
 ・645年以降 稲置と地方伴造の評への転換が始まり、その政策を推し進めるために惣領が複数の国造領域を管轄範囲として各地へ派遣される
 ・670年 国宰制が発足し国造制と並立する(国造の立場が弱まって行く)
 ・683~85年 国境が確定し国造制の廃止が決まる(「国-評」の行政区画となる)
 ・701年 大宝律令制定後、「国-郡-里」の行政区画が造られ、国宰は国司へ、評司は郡司となる

 以上の通り、7世紀末には国造制は廃止されてしまいましたが、史料上には9世紀半ばまで国造が現れます。

 この国造制廃止後の国造の実態についてはまた後日お話しできればと思います。

 以上の歴史的経緯を実際に国府の遺跡から見てみると、例えば武蔵国府の場合は、簡素な掘立柱建物によって役所らしいものができ上がるのは8世紀前葉なので、国司がまだ国宰と呼ばれていた時代には、役所は設けられていなかったことが分かります。

 史料上で認められる最初の武蔵守(国の長官)は大宝3年(703)の引田朝臣祖父なので、この頃に役所の建物を造り始めたのでしょう。

 武蔵国府の中心建物が立派な基壇の上に建てられた瓦ぶきの荘厳な建物になったのは750年頃です。

 陸奥国府の場合は、郡山遺跡の第Ⅱ期の構築が7世紀末とされ、やはりこれも国境画定後の造作となります。

 というわけで、そろそろ眠くなってきたのであとは土曜日にお話しますので興味がありましたらぜひいらしてください。

 ⇒クラブツーリズムの当該講座のページはこちらです


*     *     *


 あ、でも最後にもう一点。

 4月8日(日)に埼玉県神社庁とクラツーの共催で「神社Day」というイヴェントが催されます。



 場所は大宮の氷川神社です。

 上のチラシには名前が載っていませんが、「神社と古代史」というテーマで私も講演させていただきますので、こちらも興味がありましたらぜひどうぞ。


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千葉県の古墳分布と国造の配置を整理してみました

2018-02-03 21:32:02 | 歴史コラム:古代
 夕方から今年のツアーの企画を考え始めました。

 クラツーのお客様から千葉県方面のツアーをして欲しいとのリクエストをいくつかいただいたので、今年は千葉県方面にも出張ってみようかなと思っています。

 一応、私は千葉県出身なのですが、地元の歴史をきちんと調べることもなく、24歳のときに千葉県を出てしまいました。

 たまに千葉県の歴史の本を読むと自分の生まれ育った地域にも面白い歴史が沢山あったことを知るのですが、私の住んでいる高尾から千葉県は都心を通過して行かなければならないので、心理的に遠いため今まであまり探訪していません。

 なので、知識が薄いのです。

 そのため今日は少し千葉県の古墳について調べてみました。

 メインとなる資料は千葉県内の博物館で入手することができる『房総の古墳を歩く[改訂版]』(芝山町立芝山古墳・はにわ博物館友の会/編)です(Amazonでも古書で手に入るようです)。

 古墳時代後半の地域の代表(有力者)と言ったら国造(くにのみやつこ)という豪族ですが、千葉県は国造が多い地域なのです。

 そして、前方後円墳の数は日本一で、中世城郭も軽く1000箇所を越えて、今なお人口も多いことから分かる通り、古代の昔から人がたくさん住んでいる先進地域でした。

 国造は時代によって増減したと思うので確かなことは言えないのですが、平安時代に書かれた『先代旧事本紀』によれば、千葉県内には9つの国造がいました。

 ちなみに、群馬県内は1つ、栃木県内は2つ、神奈川県内は2つという感じで、千葉県は全国的に見ても国造が密集していた地域なのです。

 そのため私は、平成の大合併で千葉県内の自治体の合併があまり進まなかったのは、古代以来の千葉県の歴史が関連しているのではないかと思っています。

 さて、千葉県の古代史についての知識が薄いため、まずは代表的な古墳の把握と、国造の場所を整理しようと思い、前述の『房総の古墳を歩く[改訂版]』に掲載されている千葉県の古墳マップを拝借して、国造をプロットしてみました。



 見事に古墳密集地域と国造が一致しましたね。

 それでは、この地図を眺めながら気付いたことを何点か述べてみようと思います。

 まず、上海上(かみつうなかみ)国造と下海上(しもつうなかみ)国造という、元々は一つじゃなかったの?と思われる国造がいます。

 もし、両者が一つの勢力だったとすると、国造は6世紀に配置されるものなので、それ以前に千葉県北部の広範囲を版図とする「海上」という勢力があったことが想像できます。

 手元には千葉県の古代史について書かれた資料がほとんどないので、Webで調べてみると、そういう説があるようですね。

 面白いので今後も調べてみようと思います。

 つぎに、千葉国造と長狭(ながさ)国造はその支配地域に目立った古墳がないことが分かりました。

 手元の『先代旧事本紀』を読むと、その2つの国造は載っていません。

 これもWebで調べたことなので無責任な話になってしまいますが、その2つの国造は新しい国造のようなのです。

 古墳時代が終わってから任じられた国造であれば古墳がなくても当然ですね。

 国造は大化改新によって解体が進んだのですが、宗教的権威者として地域に残るケースもありましたし、律令国家が何かしらの政治的な意図を持って国造に任じた可能性もあるのではないでしょうか。

 れこも今後の研究テーマにします。

 そして私の出身地である松戸市周辺の東葛飾郡地域(千葉県北西部)がどの国造の勢力範囲だったかというと、『房総の古墳を歩く[改訂版]』では千葉国造の支配地域としています。

 ところが、そこで生まれ育った私の肌感覚ですと、千葉方面よりかは、川によって繋がっている印波国造と関わりが強かったように思えます。

 東京に引っ越してからのことですが、千葉県の中世城郭について調べているときに、千葉県北西部の地形図をたくさん買ってきて、地形について調べました。

 さらに千葉県の中世史の本を読んでも、中世の頃は利根川流域が「香取の海」という内海になっていて、東葛飾地域の河川も今よりも水量が豊富で、香取の海に接続していたことを知りました。

 つまり、中世のころまでは松戸辺りからでも船に乗れば霞ケ浦まで行くのもそれほど大変なことではなかったと想像できます。

 したがいまして、北西部地方は千葉国造ではなく(そもそも6世紀に千葉国造はいなかった?)、印波国造の支配地域だったと考えられます。

 ところで、印波国造の墓とも言われる岩屋古墳は7世紀に築造され、方墳としては全国で2番目に大きいのですが(一辺が78m)、岩屋古墳が築造された時点では天皇の墓よりも巨大なのです。



 なぜ地方の豪族が天皇の墓をしのぐ大きさの古墳を築くことができたのでしょうか。

 こういったことを考えるのも古代史の楽しみの一つですね。

 なお、千葉県の古代史を楽しむ上ではこの本も参考になるかなと思います。

房総の古代・上海上氏族
古川 庄次
国書刊行会

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【常陸国”枢要部”探訪】常陸国府跡(府中城跡・府中陣屋跡)・ふるさと歴史館

2018-02-03 15:02:11 | 歴史探訪
 車を運転していて踏切の一時停止を忘れてしまったら、渡った先にお巡りさんがいて「はい、こっち」みたいに駐車スペースみたいなところに誘導されました。

 私は「あー、やっちゃったー」とガッカリしつつ、車を止めます。

 そうしたら女性職員が来て、「あら、窓が汚れているわね」と言って雑巾で車の窓を拭き始めました。

 すると、あまりにも力強く拭いたせいか、「パリン!」と運転席側のドアの窓ガラスが割れてしまったのです。

 もう一人の男性職員は「あーあー」と呆れたあとに、私にファミレスのメニューのようなものを差しだして、「とりあえず、処理が終わるまで食事でもしていて待っていてください。好きなのを選んでいいですよ」と言い、行列になっている他の人たちもメニューを見ながら料理を選んでいます。

 私はウニ・イクラ丼を頼もうとしたのですが日本酒もセットになっています。

 まだこれから車を運転するのに日本酒飲んでいいのかな?

 しかも警察がそれを勧めるなんて・・・

 子供のころと違って今は寝ているときに夢を見ても起きたら内容を忘れているか、そもそも夢をあまり見ない気がします。

 ところが昨夜見た夢はこんな感じで内容を覚えていました。

 実際の私はゴールド免許で、踏切や一時停止で油断することはありませんが、いつも気にしているから夢を見たのでしょうか。

 また、先日レンジフードの清掃をしていたときに、脚立を具合よく立てることのできない狭いスペースだったのですが、清掃が終わって組み立てるときに、立ち位置が悪くなかなか部品を付けれなかったので、足をガス台の上にかけたら、誤ってガラストップを踏んでしまい、「パキパキ!」という音とともにヒビを入れてしまったのです。

 ガラストップの交換は5万円くらい掛かります・・・

 これを気に病んでいるからこんな夢を見たのでしょうか。

 IHのときは気を付けているのですが、普通のガスコンロだったので盤面の材質をよく確かめずに上に養生をしてしまった私の完全なミスです。

 というわけで話は変わりますが、今週の土曜日はクラツーで古代のお役所である国府や郡衙についての講座をします。

 そのため、そろそろレジュメ作りをしようかと思っているのですが、昨年訪れた官衙関連の遺跡のルポルタージュをアップしながら構想を練ろうと思います。

 今回は昨年4月15日に訪れた常陸国の国府跡をアップします。

 ちなみに、この日の探訪レポートはすでに途中までですが書いています。

 ⇒石岡の探訪レポートはこちらです


*     *     *


 常陸国分寺跡を見学し、つづいて国府跡の現状を見てみたいと思います。

 といっても、何も残っていないことは事前の調査で分かっていますよ。

 常陸国府跡がある石岡小学校に到着しました。

 車から降りて散策開始です。

 「常陸のみやこ一千有余年の地」の碑がありますよ。





 土塁が残っていますね。



 でもこの土塁は国府のものではなく、中世の府中城の遺構です。



 この説明板に書かれている通り、中世の石岡は大掾氏が治めていました。

 大掾氏の「大掾」というのは国府に勤める役人の職位の一つで、大掾氏の先祖が常陸国大掾に任じられていたことから、それを苗字にしたのでしょう。

 国府の幹部は国司(こくし)と呼ばれ、以下の四等官からなっていました。

 ・守(かみ)
 ・介(すけ)
 ・掾(じょう)
 ・目(さかん)

 さらに書記官である史生や博士などの役職があり彼らは中央から派遣されてきます。

 国のトップである守は下級貴族が任じられるのですが、常陸国の場合は「親王任国」といって、守は皇族が任じられたので現地には下って来ず、親王任国の場合は介が実質トップとなります。

 大掾氏の先祖はある時期に中央から下ってきた人物だと考えられ、系譜上では将門によって殺害された平国香が祖となっており、その孫である維幹が常陸大掾職に任じられています。







 これは何でしょうか?



 石仏なんですね。



 こちらには古墳の石棺がありますよ。





 この石も石棺のパーツでしょう。






 さて、常陸の国府跡にはとくに復元展示などもありません。

 石岡小学校の校庭。



 ここに往時、国府の中枢部構成する建物群が建っていたのですね。

 では次に、敷地内にある「ふるさと歴史館」を訪ねてみましょう。
 


 中はそれほど広くないですが、遺物とパネルが濃密に配置されています。

 1階は企画展のような内容でしょうか。

 本日訪れてきた国分尼寺関連です。





 これから訪れる予定の常陸総社宮の随神像は250年ぶりに修復されたそうです。



 右大臣は半壊状態、左大臣は全壊状態から修復されたのですね。



 2階へ上がります。



 2階は常設展のような内容だと思われ、旧石器時代から近世までの遺物が並んでおり、石岡市の通史を実際の考古遺物を通して学ぶことができます。

 充実した内容ですので、全部を紹介することはできないため、今回の探訪に関係があるものをピックアップしてご紹介しましょう。

 石器の素材となる岩石で、珍しい「メノウ」が展示されています。



 石岡に持ち込まれた石材。



 岩手県の久慈はヒスイの産地として有名で畿内の古墳からも出土していますが、茨城県の久慈はメノウの産地なんですね。

 宮平遺跡出土の縄文時代中期の土器。



 私は講座やツアーで古墳のルーツについて話すことがありますが、そういうときは必ず弥生時代中期以降の方形周溝墓の話もします。

 ところが何と、茨城県内では弥生時代の方形周溝墓が見つかっていないそうです。



 不思議ですねえ。

 弥生時代の茨城県域では弥生時代の中期から末期にかけて「有角石器」というものが造られます。



 これは茨城県のほか、千葉県からも出土され、他の地域からの出土例が非常に少ないという不思議な石器です。



 こういう地方色が強い独特なものに出会えるととても嬉しいです。

 今日はこの後、茨城県で最も大きい古墳である舟塚山古墳を訪れようと思っていますが、舟塚山古墳は41基の古墳からなる舟塚山古墳群を形成しているのですね。



 舟塚山古墳(16号墳)は墳丘長186mの巨大古墳ですので、見学するのが楽しみです。

 16号墳ではありませんが、8号墳出土の埴輪があります。



 そしていよいよ、古墳の造営も終わりへと向かい、代わって仏教に伴う寺院の建築が地方でも始まるようになります。

 石岡市内にも茨城郡の郡寺が造営され、遺跡は茨城廃寺跡と呼ばれています。







 7世紀後半には国府が整備されてきます。



 先ほど見た、石岡小学校の校庭に国庁正殿(国の政治を行う中心建物)があったのです。

 さすがに校庭を史跡整備するわけには行きませんね。

 瓦が出土しています。





 国府周辺のツアーをクラツーでやりたいです。



 つづいて、国分寺関連の展示に移ります。



 常陸国の国分寺跡は、こちらに書いてある通り、国分寺跡としては珍しく国の特別史跡になっています。



 七重塔はどこにあったのでしょうね?





 つぎに国分尼寺。



 そして中世の石岡。







 ここ、ふるさと歴史館がある場所は、府中城の本丸の位置です。



 さきほど見た供養塔の全体写真がありました。



 確かに、他では見たことが無いような供養塔です。

 ふるさと歴史館の近くにある陣屋門関連。





 見応え十分な資料館でした。

 1階では資料の販売もやっていますので、面白そうな本は買って行こうっと。

 つづいて、陣屋門を見てから総社宮へ行ってみます。

*     *     *


 既述した通り、今度の土曜日(2月10日)に、国府や郡衙について講座をします。

 興味がありましたらぜひいらしくださいね。



 ⇒クラブツーリズムの公式ページはこちら
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