日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【多摩川沿いの古墳】地味に多くの古墳があります【青梅市から大田区まで概観】

2017-12-31 12:42:39 | 歴史探訪
 古墳というと、大きな前方後円墳を想像する方も多いと思います。



 ※群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳

 日本国内には3世紀から7世紀までの間に、15万基とも20万基ともいわれる数の古墳が造られ、そのうち、前方後円墳は5000基ほどで(諸説あり)、直径10mとか20mとかの小さな円墳が沢山造られました。

 私の住む多摩地域でもたくさんの小さな古墳が造られており、また全国を見渡してもちょっと特殊な地域でもありますので、今日は多摩川沿いの古墳についてザーッと紹介したいと思います。


 1.多摩川流域の古墳概観

 それでは、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)を参考にしながら、多摩川左岸(上流から見て左側)の古墳を上流から見ていきましょう。

 まず、青梅市内には少数の小型古墳(古墳時代後期か終末期か?)があったようですが今はもう存在せず、羽村市と福生市では古墳は確認されていないようです。

 つぎの昭島市に入ると、浄土古墳群があります。







 浄土古墳群では5基の古墳が見つかっており、浄土古墳群以外にも昭島市内には最低3基の古墳があったようです。

 つづいて、立川市内では古墳の濃密な分布はなく、最低3基の古墳があったことが確認されています。

 そして国立市以降は、古墳の分布が濃密になって行き、青柳古墳群や下谷保古墳群があり、そのほかチョコチョコと古墳が見つかっているようです。

 四軒在家(しけんざけ)古墳は、今年の6月11日に東国を歩く会の「第11回 歩く日」で訪れていますし、クラツーの甲州道中歩きでもご案内しています。











 そういえば、あきる野市内にも「四軒在家」の地名があることを偶然発見しています。



 府中市内に入ると、古墳の密度はさらに高まり、府中市内の古墳は大きく高倉古墳群と白糸台古墳群に分けることができます。

 高倉古墳群で現在見ることのできる古墳は、以下の通りです。

 ●高倉塚古墳





 ●天王塚古墳



 ●高倉20号墳



 ●首塚



 さらに、御嶽塚古墳。





 そしてもっとも有名なのは、古墳群とは離れた位置にポツンとある、武蔵府中熊野神社古墳です。



 こちらも東国を歩く会のみんなやクラツーのお客さんと訪れています。





 武蔵府中熊野神社古墳は別格ですが、本記事では説明は割愛させていただきます。

 つぎに調布市に入ると、飛田給古墳群がありますが、これは府中市の白糸台古墳群と一続きと考えられます。

 ただし、行政区画が分かれていますので、別の名前の古墳群が付いているのです。

 調布市内には、下石原古墳群と上布田古墳群、そして下布田古墳群があります。

 下布田6号墳(狐塚古墳)。









 狛江市では、昔から「狛江百塚」と呼ばれている通り、たくさんの古墳がありました。

 その中でも有名なのは、兜塚古墳。





 ここに書かれている通り、径43mの大型円墳ですが、帆立貝式古墳の可能性もあり、そうだとすると狛江という地域の古墳時代における政治的な位置づけがさらに重要視されてきます。



 亀塚古墳。





 こちらは全長40mの帆立貝式古墳で、現在のところ帆立貝式古墳としては多摩川沿いで最上流に位置します。

 さらに多摩川沿いを下って行くと、先日「第14回 歩く日」で訪れた世田谷区から大田区にまたがる荏原台古墳群ということになります。

 ⇒そのときの記事はこちら

 以上、あまり知られていませんが、多摩川の左岸にはこのようにたくさんの古墳がある(あった)のですね。

 ちょっと地理的にも形状的にも異質なものとして、三鷹市内の天文台構内古墳があります。

 天文台構内古墳は、2月12日の「第8回 歩く日」で訪れています。





 天文台構内古墳は上円下方墳の可能性が高いです。

 多摩川の支流である浅川や川口川、そして平井川沿いにも古墳があり、八王子市・日野市・あきる野市に点在します。

 あきる野市の瀬戸岡古墳群。





 ちなみに、多摩川の右岸(南岸)は多摩丘陵が展開していますが、高塚古墳は左岸と比べると極端に少なく、横穴墓が散見できます。

 右岸日野市の七ツ塚古墳。





 七ツ塚古墳のある場所は、古代末から中世にかけて活躍した日奉氏の本拠地で、日奉氏とこの古墳の被葬者との関係が非常に興味深く、かつ八王子市内の北大谷古墳との関連も気になります。


 2.多摩地域には特殊な形状の古墳が集まっている

 以上が多摩川流域の主な古墳ですが、実はこの地域は国内を見渡しても特殊な地域であることが分かるのです。

 その一つとして、国内に10基もないであろう、上円下方墳が2つもあることです(武蔵国内を見渡すと、埼玉県川越市には山王塚古墳もあります)。

 二つ目は、これまた珍しい八角墳の存在です。

 当時、八角墳は天皇が築造する古墳の形状ですから、それが多摩地域にあるというのはとても興味深いです。

 多摩市にある稲荷塚古墳がそれです。







 位置的には古墳が希薄な多摩川右岸ですが、多摩市内には塚原古墳群もあり密度が高いです。

 古墳時代における多摩川流域の特殊性については今後も探求していこうと思います。




 3.武蔵国府はなぜ現在の府中市内に置かれたのか?

 ところで、以前から私は武蔵国府が埼玉県行田市の埼玉古墳群の被葬者勢力内ではなく、それまで何もなかったように見える東京都府中市に置かれた理由を考えてきました。

 本日、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』を読み返していたところ、塚原二郎氏が非常に興味深いことを書いていました。

 府中市内の古墳は、既述した通り大きく高倉古墳群と白糸台古墳群に分けることができます。

 そして、両古墳群の間に、のちに武蔵国府が造られるわけです。

 ところが、その国府周辺地域では、本町遺跡で古墳時代前期の方形周溝墓が3基見つかっている以外、古墳時代後期後半まで竪穴住居などの人の生活の痕跡がなく、上で説明してきた多摩川左岸のなかで、もっとも大きな古墳空白地帯(および無住地帯)が拡がっているのです。

 塚原氏はこの事実について、当該地域には古墳時代前期の段階で「地元勢力を制する力」が働き、この一帯を隔離したと述べています。

 この「地元勢力を制する力」とは、ヤマト政権でしょう。

 これは武蔵国府が府中市内に造られた理由に関連してくるように思えます。

 こういうのを考えるのが古代史のロマンですね。

*     *     *


 もしかしたら本記事が今年最後の投稿になるかもしれません。

 今年も1年間、お読みいただきありがとうございました。

 来年も今まで通り、至ってマイペースで更新していきますので、どうぞよろしくお願い致します。

 来年は戌年!




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【東国を歩く会】「第15回歩く日」中世案下道の寺社を巡り八王子城攻撃軍の侵攻ルートをたどる 日帰り【参加者募集中!】

2017-12-29 01:30:30 | 東国を歩く会
 今年も早いものであと3日ですか・・・

 早い・・・

 月日が経つのは本当に早いですね。

 本年度の掃除の仕事は明日(正確には今日)でお終いです。

 D社は土曜日から6連休となりますが、もちろん私には(も)ゆっくり休める日はほとんどありませんよ。

 1月6日にクラツーで目黒の七福神参りをガイドするため、4日に下見に行ってきます。

 4日の下見ではついでに都心でちょっと気になっている史跡をいくつか見てこようと思っています。

 ちなみにそのツアーの添乗員はなんとN島さんなのです!

 ・・・もう「疲労コンパイル」な状態ですが、今年もあと1日、お掃除頑張ってきます。

 というわけで、珍しく夜更かしをしているので寝る前に東国を歩く会の告知をしますよ。

*     *     *


 本年も東国を歩く会は順調に活動を行うことができました。

 これもメンバー皆さんのご協力の賜物です。

 皆さん、どうもありがとうございました!

 本当は総集編のような記事を書きたいところですが、スミマセン、もう余力が無いです・・・

 総集編の記事はアップできませんが、次回「第15回 歩く日」について、ようやくコンテンツを決めましたので発表します。

 今回は「打上げをたかお食堂でする!」というのが前提でコースを考えた結果、以下の内容に決定しました。

 タイトル:中世案下道の寺社を巡り八王子城攻撃軍の侵攻ルートをたどる 日帰り
 催行日:2018年1月14日(日)
 集合場所:JR中央線 西八王子駅 改札出たところ
 出発時刻:9時
 昼食:未定
 参加費:500円(但し初参加の方は1,000円)
 歩行距離:多分16km(山歩きはありません)
 打上げ場所:たかお食堂(会費は多分3,000円いかないと思う)
 ※打ち上げ参加は自由で当日参加可否を決めていただいて構いません




 ルートは、西八王子駅を出発後、まずは甲州街道を追分交差点まで歩き、そこからずっと案下道(陣馬街道)をたどりながら、道沿いの社寺を訪ねます。

 案下道沿いの四谷町から大楽寺町あたりにかけては、中世の一時期、八王子の中心地として栄え、謎の地名「由井」も残っています。

 またこの道沿いは天正18年(1590)に八王子城を攻めた豊臣政権軍の北国勢が進行したルートと重なります。

 後半、川原宿交差点から美山通りに入ったあとは、残り時間によってルートを決め、高尾駅をゴールとします。

 つまり、中世の案下道を歩きながら主としてお寺や神社(ほとんどが中世に創建)を訪ねるコースなのですが、それと同時に戦国時代の八王子と八王子城の戦いについて思いを馳せてみましょう。

 メンバーからは高尾から小仏峠を越えて相模湖へ向かう甲州道中を歩きたいという意見もありましたが、春くらいにはそれをやりたいと思います。

 すでに本ツアーの予告をフェイスブックのメンバーページやメーリングリストで告知していますが、まだまだ参加者は募集中ですので、興味のある方は稲用までご連絡ください。

 もちろん、初参加の方も大歓迎です。

 参加希望の方はこのブログの左ペイン(スマホだと下の方?)にある「メッセージを送る」からでも、フェイスブックやメールなど、何でも構わないので稲用までご連絡くださいね。

 それでは参加表明お待ちしております。






 
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【東国を歩く会】川崎市市民ミュージアム、いいねえ【第14回歩く日 その5】

2017-12-27 16:29:52 | 東国を歩く会
 中原街道を歩き、江戸ティックな気分を楽しんだ後は、川崎市市民ミュージアムを目指します。

 このペースだとミュージアムを見学してタイムアップになりますね。

 当初の予定では、ミュージアムのあとに橘樹郡衙跡と影向寺へ行きたかったのですが、思った通りの展開となりました。

 私たちの歴史歩きはいつも言うように、インプロヴィゼーションなので、予定通りにいかなくても皆が楽しめればそれでOKなのです。

 歩いていると、円を描くような道路があり、その道に沿って一段低い土地が広がっているのが分かりました。



 これは実は多摩川の旧河道なのです。

 私は地形や地名が好きですので、皆さんにはこのような資料を配っています。



 これは多摩川の両岸に残る同一地名の地図です。

 川の両岸に同じ地名があるということは、かつて川が動いたことの証ですね。

 多摩川は過去、何度も大きく河道を変えており、現在の河道になった時期についてははっきり分からないようです。

 私の推測では府中市内で近世初頭に多摩川の流路が大きく変わったという記録があるので、その時期じゃないかと思っています。

 上の図を見ると、多摩川の南岸に道路が円を描く場所が何ヶ所かあるのが分かると思いますが、その線に沿って昔は川が流れていました。

 それが現在の流路(私の推測では近世初頭)となってしまったため、多摩川の両岸に同じ地名が残ってしまったわけですね。

 おや、前方に神社が現れました。



 小杉神社ですね。

 行ってみましょう。













 小杉神社に関してはまだ調べていないので分かりません。

 つづいて等々力サッカー場の前を通過。



 あ、ドラえもん!



 等々力緑地は広いですねえ。

 ようやく遠くに市民ミュージアムが見えてきました。



 ミュージアムの前に到着。

 このブリキのオブジェみたいなのは何だ?



 ※写真は完全に潰れてしまいました

 おお、転炉!



 製鉄関連、いまとても興味があるんです。

 では中に入りますよ。



 なんかバブリー。



 川崎市ってお金がありそうですね。

 河童がお出迎え。





 では、常設展示を見ますよ。



 加瀬白山神社の展示。



 前方部にも主体部がありますね。



 後円部の主体部からは三角縁神獣鏡が出ています。



 今回の歴史歩きでも何度か話題に出したと思いますが、荏原台古墳群とは多摩川を挟んだ対岸に位置する古墳です。



 周辺の大型古墳の配置についてはこちらをご覧ください。



 ※加瀬白山古墳とその周辺の古墳についての考察は前回の記事に書きましたので、よろしければ読んでみてください。

 ここの展示コーナーは見どころが満載で楽しいですね。

 古代史関連では橘樹郡衙跡は欠かせません。



 この白く紙が置かれている部分が発掘済の場所です。











 土偶!



 埴輪!



 たまたま学芸員の小薬さんがいらっしゃり、いろいろと楽しいお話を聞かせていただきました。

 私たちはみな好奇心が旺盛なので、小薬さんを取り囲んで会話に夢中になってしまいました。

 気が付くと予定していたバスに間に合わない・・・

 ま、いっか。

 小薬さんが「面白い物があります」と言うので付いていくとこんな展示がありました。



 「これは何でしょう?」ということなのですが、下にヒントがあるので分かってしまいますね。

 一応、答えは1月に発表ということなので、ここで私が答えを書いてしまうと都合が悪いかもしれませんね。

 今城塚古墳からはこんな感じで出ています。



 展示されている埴輪には足の甲に突起がついており物騒ですが、昔の相撲は足技があったそうです。

 小薬さん、お忙しいところ丁寧に解説してくださってありがとうございました!

 時間がないのでもう少しだけ見ておしまいにします。





 影向寺にも行きたかったなあ。





 木簡は川崎市内出土のものではなく、奈良のものをサンプルとして展示してあります。





 1階のミュージアムショップにより、小薬さんが著した『川崎学双書シリーズ3 県史跡・東高根遺跡』などを購入。

 今日もまた図録等で散在してしまいましたが、S源寺さんも今日は結構買ってませんか?

 というわけで、ここで今日の歴史歩きは終了です。

 皆でバスに乗り武蔵小杉駅へ向かい解散。

 本日の参加者!

 ・S源寺さん(皆勤賞!)
 ・ヒラさん
 ・スーさん
 ・さくみやさん
 ・こばやしさん
 ・岸本さん
 ・N島さん
 ・古山さん
 ・池上さん
 ・ハヤトさん
 ・K子さん
 ・稲用

 以上、12名!

 みなさん、今回もありがとうございました。

 最近は私の好みで古代史寄りになってきた感がありますが、なるべく全時代を織り交ぜるようにしますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 さて、つづいて打ち上げです。

 あー、はやくビール飲みたい!



 打ち上げ参加者!

 ・S源寺さん
 ・ヒラさん
 ・岸本さん
 ・池上さん
 ・ハヤトさん
 ・K子さん
 ・稲用

 以上、7名!

 最近入ってくださった池上さん、ハヤトさん、K子さんも打ち上げに参加してくださり、飲み仲間が増えたことを私も含めて他のメンバーも嬉しく思っていますよ!

 というわけで、次回は1月14日(日)に開催します。

 歩く場所は未定ですが、高尾周辺を歩き、打ち上げは久しぶりにたかお食堂でやります。

 メンバーにはすでに告知していますが、新規のご参加も大歓迎です。

 詳細はまた後日お伝えしますが、興味がある方は日付だけでも心に留め置いていてくださいね。
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【東国を歩く会】宝莱山古墳の被葬者像と多摩川下流の初期古墳【補足】

2017-12-23 10:55:05 | 東国を歩く会
 先日の12月10日、東国を歩く会にて東京都大田区および世田谷区の荏原台古墳群を歩きました。

 荏原台古墳群には大型前方後円墳2基を始めとして、いまでも10基以上の古墳を見ることができます。

 その中に前方後円墳としては都内最古の宝莱山(ほうらいさん)古墳というのがあります。



 現地説明板には以下の通り書かれています。



 墳丘は戦前に宅地造成のため後円部が破壊され、現在は下図のとおり無残な姿になってしまいました。



 説明板によると、築造時期は4世紀となっていますが、当日皆さんに説明した通り、私は実際には3世紀後半になるものと考えています。

 関東地方は畿内と比べて文化が遅れているという先入観が昔はあったため、かつては関東地方の古墳築造を50年から100年くらい遅らせて考える傾向があったのですが、今ではそういう時間差はほとんどないと考える研究者が増えてきているような印象を受けます。

 例えば、広瀬和雄さんの『前方後円墳の世界』は手ごろな新書でお薦め。

前方後円墳の世界 (岩波新書)
広瀬和雄
岩波書店


 私も広瀬和雄さんの本などに触発されているわけですが、なぜ宝莱山古墳が3世紀後半の築造と考えられるのか、当日は皆さんにあまり詳しく説明できなかったのでここで簡単にまとめておきます。


 1.宝莱山古墳の築造時期

 まず、上の図面付きの方の説明板を読むと、前方部が三味線の撥(バチ)のように拡がった形であることが分かります。

 これは、定形化された古墳の第1号とされる箸墓古墳の形状と同じで、3世紀中葉から造られ始めた初期古墳のデザインに共通するものなのです。

 ですから、この形状からして初期古墳であることが分かります。

 つぎに出土品から見て見ましょう。

 大田区立郷土博物館の展示パネルをご覧ください。

 2つの土器片が見つかっています。



 廻間(はさま)Ⅱ式というのは東海地方の土器のことで、赤塚次郎さんは西暦200年ごろから始まると考えており、そうすると3世紀前半には東海系の人びとがこちらへやってきた可能性が高いです。

 この廻間Ⅱ式という土器は、200年ごろから東日本に一気に拡散することが知られており、その時期に東海人が東日本の広い範囲に積極的に進出したことが分かるのです。

 つづいてこちら。



 こちらの庄内Ⅱ式というのはまさに箸墓古墳があるヤマトの土器のことで、こちらもやはり時代は3世紀前半となります。

 この土器片は、『武蔵と相模の古墳』所収「多摩川流域における首長墓の様相」によれば、初期前方後円墳として有名な千葉県市原市の神門4号墳に類例が求められるそうです。

 上述の2つの土器の年代からすると、3世紀前半の築造と考えても良さそうですが、既述した通り3世紀半ばに築造された箸墓古墳の墳丘デザインを踏襲していることから、箸墓より前ということは考えられず、ほぼ同時期、つまり3世紀後半と考えて良いと思います。

 つまり、邪馬台国の卑弥呼が活躍していたちょうど同じ頃、多摩川下流域にも強大な勢力があって、その初代の王の墓が宝莱山古墳ということになります。


 2.多摩川対岸の大型古墳との関係は?

 この周囲には大型古墳が集まっています。



 多摩川を挟んだ神奈川県側には宝莱山古墳と同じ規模の加瀬白山古墳と観音松古墳があります。

 両者とも今は跡かたもなくなっているのですが、このうち築造が早いのは白山古墳で、図の通り墳丘長は87mあったそうです。

 大田区立郷土博物館の展示パネルをご覧ください。



 目玉は何と言っても三角縁神獣鏡が出土したことなのですが、白山古墳の墳丘デザインも箸墓と同じです。

 宝莱山古墳は97mで、白山古墳は87mとなっていますが、これが若干の誤差を含んでいると仮定すると、両者とも「箸墓古墳の3分の1デザイン」という定型フォーマットを採用した古墳となり、両古墳の被葬者はすでにヤマトを盟主とした連合に加盟していたことが分かります。

 白山古墳から見つかった三角縁神獣鏡は上の説明の通り、京都府木津川市の椿井大塚山古墳のものを同范鏡で、墳丘長175mの椿井大塚山古墳は「箸墓古墳の3分の2デザイン」という定型フォーマットになっています。

 ここで興味ある問題は、多摩川左岸の宝莱山古墳と右岸の白山古墳との関係です。

 両者は広い多摩川の両岸に位置していることから、別勢力と考える人と同じ勢力と考える人に分かれます。

 左岸では大型古墳を築造した人びとが住んだ集落が見つかっていませんが、現地を歩くとあの土塁のようになった尾根上を墓域として選んだ理由が多摩川の低地からの景観を意識したためであることが理解できるはずです。

 最近、私は日本人の「海洋民族」としての面を調べているのですが、東京湾に入ってきた西日本の勢力が多摩川河口に進入した時にまっさきに目に付くのは左岸の古墳群でしょう。

 荏原台古墳群は海からのアクセスおよび川からの景観を非常に意識した古墳群であることが分かるのです。

 現代人は川や海を障壁のように感じるかもしれませんが、船を自在に操った古代人はむしろ移動しやすい場所と認識していたと思います。

 そうすると、左岸と右岸に分かれていたとしても同じ勢力として考えても不自然ではないでしょう。

 ですから、弥生時代末期、多摩川下流域の両岸を範囲とした一つの勢力が発生し、その勢力の初代王が古墳を造る際にもっとも景観に優れたその勢力の象徴ともいえる場所に宝莱山古墳を築いたのではないでしょうか。

 編年的には宝莱山古墳以降、4世紀後半まで加瀬白山古墳 → 観音松古墳 → 亀甲山古墳と続き、白山古墳の被葬者が右岸に葬られたのは、彼の出身部落の近くだったからかもしれないですし、初代王の墓を際立たせるために並べて造られなかったかもしれませんし、この辺は「古代史のロマン」としていろいろと想像してみるのが楽しいと思います。


 3.東海勢力の影響は?

 さきほど、西暦200年頃から東海勢力が東に積極的な進出を開始したと述べましたが、その理由についてはまだ考察できていません。

 非常に興味がある問題なので今後も探求していこうと思いますが、今までの説明をお読みになった方は、宝莱山古墳の被葬者は「ヤマトべったり」という印象を受けるかもしれません。

 ところがここで問題となるのは、既述した廻間Ⅱ式の土器が墳丘から採取されていることです。

 つまり、ヤマト連合の象徴ともいえる箸墓古墳の縮小版の古墳でありながら、東海勢力の影が見え隠れしているわけです。

 関東地方の全体的傾向としては、古墳時代の初めはヤマトより東海の影響が強い場所が多いです。

 イメージ的には弥生時代後期以降に東海勢力が席巻してしまった感のある関東地方の中に、古墳時代初期に虫食い状に一部分だけヤマト連合が入り込み、ヤマトはその後一気に形勢を逆転するという感じです。

 東京湾岸では対岸の千葉県市原市にもヤマトの勢力が橋頭保を築いていますが、弥生時代後期には愛知・静岡の勢力がかなり入り込んできていたのです。

 そういう下地があって、3世紀前半には廻間Ⅱ式を携えた東海勢力が多摩川河口に進出して一つの勢力を築き、その初代の王が葬られる際にはすでにヤマトの傘下となっていたため、墳墓は基本的にはヤマトの形態を取りつつも、初代王の出身地である東海地方を偲ぶ意味で、廻間Ⅱ式の土器も並べたのではないでしょうか。

 もちろん、この説は私の勝手な想像ですよ。

 なお、この勢力を支える農業的基盤の跡(水田跡など)が見つからないとしても、彼らが漁猟や交易で生計を立てる人びとであるのなら、それも不思議ではありません。

 最近の私の古代史研究のキーワードは「海洋民族」と「東海勢力」です。


 4.都内最古の古墳との関係は?

 宝莱山古墳は前方後円墳としては都内最古です。

 ところが、違う形状ではもっと古い可能性のある古墳があったのです。

 多摩川駅の東方面に少し歩くと、マンションの前に石碑が立っています。



 これは先日の「歩く日」では逆方向なので行かなかったのですが、扇塚古墳の跡地です。

 またまた大田区立郷土博物館の展示を見てください。



 扇塚古墳は、この説明では古墳の形状は不明で、かつ4世紀の築造と推定しています。

 ところがこの土器片を見てください。



 廻間Ⅲ式の「影響を受けた模倣土器」で、4世紀前半のものとあります。

 赤塚次郎さんは廻間Ⅲ式を3世紀後半と編年しており、私は「影響を受けた模倣土器」という意味が今一分からないのですが、たとえその字面通りだとしても、4世紀前半というのはあり得ないと思います。

 やはり、3世紀後半の宝莱山古墳と同じかやや下る時期と考えてよいでしょう。

 そして墳丘デザインは前方後方墳だったのではないかと考える研究者もいるようです。

 つまり、さきほどの廻間Ⅱ式につづいて、Ⅲ式を携えた東海勢力もこの地に入部したことが分かるのです。

 こちらの地形図をご覧ください。



 扇塚古墳の場所はこの図にはプロットしていないのですが、亀甲山古墳と谷地を挟んだ東側の段丘縁に位置します。

 扇塚古墳の被葬者は多摩川両岸の一大勢力の傘下として、その築造場所周辺を支配しており、自身のルーツである東海地方の文化を堅持した墓制を採用したのではないでしょうか。

 この一大勢力の代表者はヤマトと密接な関係があったため、「箸墓古墳の3分の1フォーマット」で宝莱山古墳を築きましたが、その傘下の扇塚古墳の被葬者は直接ヤマトとの関係が無かったため、自分たちの墓制で墓を築造できたものと考えられます。

 ただしこの推測は、上の説明板に「古墳の形状については明言を避けるべき」とあるように、慎重に考える必要があるかもしれません。

 なお、扇塚古墳からは鉄製の槍鉋(カンナ)が出土しています。



 写真がピンボケしていて済みませんが、弥生時代には木を削る道具として、チョウナや上のような槍カンナが実用化されています。

 これらの道具を使うことにより、弥生時代の竪穴住居は縄文時代のそれと違い、屋内の柱や梁などを見るとかなり新しい印象を受けることになるのです。

*     *     *


 簡単にまとめようと思ったら、ついつい力が入ってしまいました。

 今日は自宅の大掃除の日に設定しているため、これからキッチンの掃除をしてきますよ。

 最初はお風呂もやろうと思っていたのですが、さきほど妻からキッチンの清掃箇所について私の予想を越える範囲の注文が入ったため、レンジフードの分解清掃とキッチン全体をやって今日はおしまいにする予定です。


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【東国を歩く会】中原街道を行く【第14回歩く日 その4】

2017-12-19 13:47:14 | 東国を歩く会
 前回の記事で書いた通り、本年度のクラツーのお仕事はすべて終了しました。

 今年は延べにして500人以上の方々をツアーにご案内したり、その方々の前で講座でやらせていただきました。

 楽しい仕事をやらせていただき、お客様にもクラツーのスタッフの方々にもとても感謝しております。

 先週の土日は古代史をテーマにして奈良へ行ってきたわけですが、実は邪馬台国について本格的に考察を始めたのは2013年なので、私自身はまだ4年しか研究の蓄積がないのです。

 研究を始めた当初はまさか私がお客さんの前で邪馬台国について話したり、ツアーで引っ張っていくことなどは考えてもみませんでした。

 本当に僭越な限りで恐縮です。

 このように研究蓄積が少ないこともあり、実際にお客さんをご案内して自分の知識の少なさを痛感することになりました。

 今回のツアーで自分の知識の薄い場所や、お客さんが興味を持つポイントについて、多くの気づきを得ることができたので、次回ご案内するまでには知識を倍加させておこうと思います。

 このようにさらに歴史への興味が増幅することはとても幸せなことだと思っています。

 さてそんなわけで、少し間が開いてしまいましたが、本日は先日催行した「東国を歩く会」の「第14回 歩く日」のレポートの続きをお届けします。

*     *     *


 お昼を食べたあと、再び歩き出します。

 とりあえずここで今日のコースのおさらいをしましょう。



 朝9時に等々力駅を出発してから3時間以上歩いて、多摩川駅の近くでお昼を食べました。

 次に向かうのは土塁のように伸びた多摩川左岸の丘陵の突端にある浅間神社です。



 実はこの浅間神社の社殿は前方後円墳の上にあるのです。



 このあたりの大型古墳の分布はこのようになっています。



 では行ってみましょう。



 拝殿が見えました。



 拝殿は後円部の上にあり、その後ろに今は破壊された前方部がありました。

 5世紀末から6世紀ころの築造とされる墳丘長60mの前方後円墳です。

 そして、この境内からは多摩川の流れを見下ろすことができるのですが、ちょうどいい場所に鉄道の鉄橋が架設されています。





 武蔵小杉の街並みも望めます。



 ここから鉄道を眺めだすとなかなか帰れなくなるので、勇気を出して撤退し、多摩川の対岸を目指すことにします。

 お、なんだあの色は!



 飛行機。



 丸子橋を渡りますよ。



 橋を歩きつつも鉄道が気になって仕方がない。



 土塁状の尾根を眺めます。



 地形図を示すとこの通り。



 そしてまた鉄道。



 鉄道。



 鉄・・・



 丸子橋を渡ると川崎市中原区。

 中原街道を歩きますよ。

 実はここから先は私は歩いたことがなく、N島さん的表現を借りれば「未知の道」を行くことになります。

 ただ、街道沿いを歩いていれば何か面白いものが見つかるだろうという、そういう安易な発想でこのコースに決めました。

 おっと、ありましたよ!



 ここにも書かれている通り、中原街道のルーツは古代の東海道まで遡ります。



 江戸期に入っても主要な道だったのですが、五街道の東海道が整備されるとメインの道ではなくなりました。

 引き続き歩きます。

 何が現れるか楽しみですね。

 今度は何だろう?





 門の内側へ回ってみます。



 なるほど、説明の通り、母屋は移築さえて門だけが残ったのですね。

 先ほどまで古代の話をしていましたが、ここからは急に江戸時代です。

 私たちの歴史歩きは、時代に拘ることなく、現れたものはすべて楽しもうという好奇心旺盛な人には堪らないイヴェントなのです。

 また出ました。



 表札が出ていますから、まだ普通にお住まいになっているようです。



 スーさんが興味ありげに向こう側を覗き見ていますが、私たち仲間がいなければ完全な不審者ですね。



 次は何でしょうか。



 醤油屋さんですか。







 あきる野にもキッコーゴというお醤油屋さんがありますし、醤油屋さんってなんで「亀甲」が付くのかなあと言ったところ、岸本さんがスマホで素早く調べてくれました。

 それによると、土浦の醤油屋さんが亀城と呼ばれている土浦城の形をマークとしたのが全国に広まってしまったということらしいですが、これ以上のことはここでは追求しません。

 テクテクと歩いてくると、中原街道の旧道は大きく鈎の手に屈曲します。



 これは江戸時代の名残ですね。

 屈曲するところを直進すると、西明寺の参道になります。





 鉤の手の道の説明がありました。



 ここにも例の看板が。



 西明寺へ寄ってみましょう。





 門。



 アニキたちがお出迎え。



 私たちは金剛力士像のことを「アニキ」と呼んでいます。



 山門。





 三ツ鱗の地紋。



 正三角形だと鎌倉北条氏の紋で、二等辺三角形だと小田原北条氏の紋だというのを聞いたことがあります。

 境内を少し散策します。









 寺社で「ハート型」を探す人がいるそうですね。



 ありました。



 日本では何の意匠なんでしょうね?

 つづいて小杉御殿の御主殿跡を探します。

 西明寺の近くをウロつくと・・・

 きっとあれがそうでしょう。



 はっけーん。





 将軍家ゆかりの場所なので東照宮でも祀ってあるのかと思ったらお稲荷さんでした。



 だんだん陽も陰ってきましたが、次は川崎市市民ミュージアムを目指しますよ。

 ⇒このつづきはこちら

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【クラブツーリズム】奈良古代史ツアー2日間無事終了【2017年仕事納め】

2017-12-17 19:46:03 | 歴史探訪
 2日間の奈良古代史ツアーのガイド(2017年12月16~17日)を終えて、いま帰りの新幹線のなかでこの記事を書いています。

 皆さんに楽しんでいただけたか心もとないですが、私としては精いっぱいガイドさせていただいたつもりです。

 21名の皆さん、ご参加ありがとうございました!

 以前の私のツアーや講座に参加してくださった方々も何名か参加してくださり、とても嬉しかったです。

 今回のツアーで今年のクラツーのお仕事はお終いですが、DeathK!Nの仕事は29日まで続くのでまだまだ気を抜けませんよ。

 では、昨日と今日のツアーの様子を簡単にご報告しますが、私自身がガイドしているため、史跡の写真は少ないです。

*     *     *


 今日は初めて新横浜から東海道新幹線に乗り換えです。

 東京まで行って乗るよりも時間的には少し余裕があり、かつ新横浜駅は横浜線ホームから新幹線のホームが近くて楽ですね。

 8時39分に搭乗して、名古屋には10時過ぎに着きました。

 新幹線に乗れば名古屋なんか時間的には東京から高尾に帰るのと変わらないですが、リニアモーターカーができたらもっと短縮できて江戸期の旅人からしたら気味が悪いでしょうね。

 名古屋駅からは近鉄特急に乗り換えです。

 近鉄特急に乗るのは生まれて初めて。

 私は今でも鉄道が好きですが(マニアほどではない)、千葉県で生まれ育ったため、子供のころから関西の私鉄に憧れていました。

 近鉄・阪急・南海・京阪・阪神などです。

 でも今まで関西にはほとんど行ったことがないので、これらの電車に乗る機会はありませんでした。

 ですから、実は近鉄特急に乗れるのは今回のツアーでの楽しみの一つなのです。

 ホーム。



 お、電車がいますよ。



 でもこれには乗りません。

 反対側には青い電車が来ましたが、うまく撮れなかった・・・

 また来た。



 これでもありません。

 おーっ、昔のカラーだ!



 嬉しいことに乗るのはこれでした。





 新しいのとくっついていますね。



 運転台を覗きます。





 さすが古い車両だけあってシートは年季が入っていますね。

 椅子には「TABLE」が。





 ノートPCを置くのにちょうどいい。

 車内では名古屋駅から積載されてきたお弁当を食べます。



 美味しいなあ。

 もちろんビールは飲まないですよ。

 12時10分、大和八木駅に到着。





 迎えに来ていたバスに乗り込み、歴史探訪開始です!

 ここからはナビゲーターをするので写真はほとんど撮れませんよ。

 最初は唐子・鍵遺跡。

 現在工事中です。

 つづいて西山古墳。

 前方後方墳としては日本最大の190mの古墳で、皆さん墳丘に登りたいということなので、足場はとても悪いのですが、皆さんで墳丘に登りました。
 


 マニアックな古墳ですが、皆さんとても喜んでくださっています。

 つぎは黒塚古墳展示館を見学して、黒塚古墳へ。

 こちらはきちんと整備されているので歩きやすいです。

 そして本日の最後は橿原考古学研究所附属博物館。

 ここの展示は素晴らしいですよ!

 博物館の安田さんに案内していただき、ジョークを交えたとても分かりやすい解説で、皆さんとても楽しそうでした。




 
 ミュージアムショップでは、妻への土産を購入。



 本日訪れた西山古墳のマグネット。

 昨年の10月、妻と結婚する前のことですが、奈良へ一人で行ったときに、ウワナベ古墳のマグネットをお土産に買って帰り微妙な雰囲気になりました。

 そのため、今回もマグネットをチョイスしたわけです。

 きっと喜んでくれるでしょう!

 というわけで、全行程を終えてホテルへチェックインし、18時からは夕飯です。

 なんと今日はコース料理!

 久しぶりにフォークとナイフが横穴式石室の中に置かれた副葬品の鉄刀のように並べられた光景を見ました。

 そしてデザートは前方後円墳のケーキ!



 隣の方が「段がないね」とおっしゃったので、「3段築成にして、周溝で囲んだら本格的ですね。さらに円筒埴輪を並べて」などと言いながら食べました。

 食事をして部屋に戻ると、今度は独り飲みです。



 そしていつものように22時には睡魔に襲われ就寝、翌日は4時半に起床しました。

 昨晩は大浴場に行かなかったので、5時のオープン直後に行ったところ、こんな朝早いのにもう何名かの方が入っています。

 いやー、温泉は気持ちいいですねえ。

 朝食は6時半から。

 美味しそうなものが沢山並んでいますよ。

 いつもはご飯を3杯食べますが、2杯にとどめておいて、そのかわりグラタンを食べ、味噌汁も美味しかったのでおかわりし、デザートのみつまめも2杯食べました。





 美味かったー。

 コーヒーは自室に持ち帰れるように考慮されており、こういう心遣いはとても嬉しいですね。

 さて、2日目の探訪の始まりです。

 8時半に出発。

 最初に向かったのは大神神社です。

 まだ9時前なのに境内は結構な人出でした。

 晴れていて空気が澄んでいるので展望台からの眺望もバッチリ。





 大勢で囲んでも動じない猫ちん。



 つづいて、桜井市埋蔵文化財センターへ行き、学芸員の武田さんから纏向遺跡について詳しく教えていただきました。

 巻向駅近くの大型建物跡の復元模型。



 パカッ!



 これは武田さんが開けてくれたものなので、入館者は絶対に勝手に開けないでくださいね!

 昼飯は三輪そうめん山本。

 柿の葉寿司。



 そしてにゅうめん。



 なんか今回のツアーは昨日の夜のコース料理やこのにゅうめんなど、豪華なものを食べさせていただきとてもありがたいです。

 食後の第一弾は箸墓古墳。



 国津神社、ホケノ山古墳を見て、箸墓古墳に戻ってきました。

 墳丘を見上げると、段築がはっきり分かります。



 皆さんと「墳丘に登りたいですねえ」と冗談を交わしていると、「先生、あそこから入れますよ!」と言われ、見てみると確かに扉の横に隙間があります。



 もちろん愚かしい真似はしませんのでご安心ください。

 一度バスへ戻りました。

 いやー、寒かった・・・

 しばらくバスの中で休憩。

 つづいて、纏向古墳群を散策です。

 でも、気持ちよく散策という感じにはならず、寒さを耐えながら歩きます。

 石塚古墳、勝山古墳を見て、矢塚古墳へ。

 矢塚古墳は季節柄、墳丘の形が少しわかります。



 さて、当初の予定ではこれで終了だったのですが、お客さんから、さきほど「パカッ」と屋根が取れた大型建物跡が見つかった場所を見てみたいとのリクエストがあり、時間的に余裕があるので巻向駅の近くまで歩いてみることにしました。

 お、遠くに説明板が見える!

 ありましたよ!



 説明板の前での解説が終わると、ちょうど電車が来ました。



 やったぜ!



 カッコいいー。



 以上で本日の探訪は終了!

 最後に猫チンがお見送り。



 大和八木駅まで戻ってくると、身体がすっかり冷えているため、ラーメンか何か、温かいものが食べたい・・・

 うどんか・・・



 昼はにゅうめんだったけど、なんかカレーうどんが食べたくなった。



 おっ、このカレーうどん美味い!

 うどんも腰があるし、スープも絶妙だ。

 旅の最後に、追い打ちを受けたように美味しいものが食べられました。

 駅前のオブジェ?



 電車が来る間、皆さんは椅子でお休みになっています。

 一方私は電車を撮りまくり!











 私は決して撮り鉄ではありません!

 しかしながら、この記事を読まれたら歴史ツアーに行ったのではなく、鉄道を撮りに遊びに行ったように誤解されるかもしれませんね。

 ちゃんと2日間仕事してきましたよ!


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【東国を歩く会】都内でもっとも規模の大きな田園調布古墳群【第14回歩く日 その3】

2017-12-12 21:35:43 | 東国を歩く会
 ⇒前回の記事はこちらです

 武蔵野台地から多摩川の沖積地へ降り、ここからは用水に沿って歩きたいと思います。

 お、なんだこの異様に細長い直線道路は!



 江戸期の水路跡でしょうかねえ。

 それにしてもこの水路沿いの道はいいですね。



 住所は世田谷区尾山台から大田区田園調布になりました。

 掃除の仕事で田園調布に来たことがありますが、対応したのは女中さん(お客さん本人は姿を現さない)で勝手口から出入りしました。

 富裕層のお宅の場合、業者は玄関を通してくれないんですよね。

 高級外車が路地から飛び出してきて、普通に一時停止を無視して走り去っていきました。

 おい、富裕層だからって好き勝手はさせねえぞ!

 吹き矢でも持っていたら放ってやりたいです。

 凄い、こんな形で石仏が残されている!



 庚申塔ですね。



 そろそろまた段丘に登ろうかな。



 遠くに見えるあの森に古墳がポコポコあるはずです。



 振り返ると武蔵小杉の街並みが見えます。



 坂はまだ続きますよ。



 振り返ると皆さんが息を切らせながら登ってきます。



 16パーセントって書いてありますが、パーミルじゃないですか?

 え、16パーミルって凄くない?

 ものすごい標高差を登った気がしますが、ようやく多摩川台公園に到着しました。



 公園に入ってすぐ目の前は宝莱山(ほうらいさん)古墳です。





 古墳の鞍部を超えて反対側へ行きましょう。



 この図面の通り、後円部はかなり破壊されていますが、もともとは墳丘長97mの前方後円墳です。

 説明板には4世紀とありますが、3世紀後半まで遡るんじゃないかなあ。

 でかいんだけど状態がよくないから今一見た目が悪い。

 皆さんにはもっとカッコいい古墳を見せてあげたいのですが残念です。



 ここから先は多摩川台古墳群と称される小さな古墳がポコポコと続きます。

 一々写真を撮って解説するのは今回は割愛。

 この古墳群がある場所は、多摩川左岸の丘陵の上なのですが、この地図で分かる通り丘陵の上がさらに土塁のように細尾根状になっているのです。



 眺望は最高。



 その土塁のようになっている場所を使って古墳が築造されています。





 地形マニアには堪らないですね。

 そして亀甲山(かめのこやま)古墳に来ました。



 これも墳丘長107mを誇る大型前方後円墳です。



 説明板には5世紀の築造とありますが、いやいや、4世紀でしょう。



 もうお昼を過ぎてしまいましたが、古墳展示室を見学します。

 そして見学の後はお昼。

 一番初めに見つけたのはこのラーメン屋さんでした。



 N島さんだけ弁当を持参したということなので、残りの11名で入店。

 スミマセン、私たちでほとんど満席にしてしまいました。

 ここのラーメンは家系ですね。



 最初は一度辛いラーメンを頼んだのですが、喉が痛いことを思い出してノーマルに変えてもらいました。

 しかしそれでも、ここのスープは濃いめでまろやかな感じよりかは尖がった感じです。

 隣のテーブルではS源寺さんとヒラさんが生を飲んでいますが私は我慢。

 一応、体調が悪い時は自制するようにしていますよ。

 さて、美味しいラーメンを食べてお腹いっぱいになったところで、午後の探訪を開始しましょう!

 ⇒このつづきはこちら


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【東国を歩く会】等々力不動尊・御岳山古墳ほか野毛古墳群【第14回歩く日 その2】

2017-12-12 12:16:30 | 東国を歩く会
 昼休みを利用してこの記事を書いていますが、どうもまだ身体の調子が戻りません。

 午前中の現場に向かうとき、現場の場所を勘違いして走っていました。

 幸い、方角は間違っていなかったため若干の軌道修正で収まりましたが、頭がボーっとしています。

 それでも現場に入ればいつものように動いてしまうから不思議です。

 では、前回の続きなの。

 ⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 野毛大塚古墳をはじめとして、野毛古墳群の古墳の多くは多摩川を望む武蔵野台地の段丘上のヘリにあります。

 ちょうど住宅が切れて多摩川方面が見えました。



 もう一度等々力渓谷に降りますよ。





 降りてすぐの左岸に横穴墓の1号と2号があり、3号は中が見れるようになっています。





 横穴墓というのは、古墳時代の終わりのほうに盛行したお墓で古墳の一種です。

 普通、古墳というと先ほど見た野毛大塚古墳のようなマウンドのあるものを想像すると思いますが、ああいうのは高塚古墳といいます。

 でも通常、古墳と言ったら高塚古墳のことをイメージする人が多いのであまり気にする必要はないかもしれません。

 上の説明板が言うように農民の間でも富裕な人々の家族墓ということでよいのかどうかは分かりません。

 もう少し後の9世紀や10世紀には富裕な農民が登場してきますが、7世紀や8世紀は果たしてどうだったのでしょうね。

 古墳時代の社会については分からない点が多く、これはとても面白いテーマです。

 あ、誰かが穴を覗き込んでいる。



 熱心に穴を覗き込んでいたS源寺さんが私たちに見られていることを察知して離脱しました。



 ではもう少し等々力渓谷を歩きましょう。





 こんなところに野毛大塚古墳の説明が。



 等々力不動尊に来ましたよ。





 不動の滝では滝行ができるそうです。



 2本の滝がありますが、スーさんが、「左の滝に打たれると頭がよくなり、右は長寿」みたいなことを言ったため、それを真に受けた小林さんが滝の真下へ突入しました。

 ところが、スーさんがその場で考えた説だということを知った小林さんは落胆です。

 こういう説は下手するとインターネットで拡散して信じられてしまうかもしれませんね。



 崖からは相当な量の水が染み出ているので、滝は水道水を流しているのではなく、本物の湧水だろうと皆で話します。



 急な石段を上がりますよ。

 途中にもお不動さんが。



 登りきると、12月10日だというのにまだ紅葉が見れました。



 等々力不動尊のジオラマ。



 ちなみに、等々力不動尊で名前が知られていますが、満願寺という真言宗のお寺ですよ。



 満願寺は寺伝では平安末の創建で、室町時代に世田谷吉良氏がこの地で中興したと伝わっています。







 しつこいくらいに等々力渓谷の説明があります。



 そして、満願寺の山門から外に出ると、目の前には御岳山古墳が!



 御岳山古墳もさきほど言った通り、段丘のヘリにあるため、南側の多摩川方面の地形が落ちているのが分かりますね。



 この先にはダスキン玉堤支店がありますが、この近辺の方は玉堤支店にお掃除を頼んでいただくときに「旭が丘支店の稲用さんのブログを見たのですが」と言っても割引などの特典はなく、電話に出た人も「?」となりますので、どうかそういうことは言わないでください。

 スーさんが逸早く向かって説明板を熱心に読んでいました。





 ここは残念ながら墳丘に入れないんですよね。



 どうやら等々力不動尊の管理地のようです。

 御岳山古墳は野毛大塚古墳のページでも述べた通り、野毛大塚古墳の次の首長墓と考えられています。

 時代的には5世紀の後半で、この御岳山古墳の築造を最後にして、荏原台古墳群では大型古墳の築造が止みます。

 そして令制の武蔵国の領域の中心地は埼玉古墳群へと移るわけです。

 ただし、律令国家は7世紀後半に武蔵国を作りましたが、それ以前の国造時代は、武蔵国の北と南はもともと別勢力だったと考えることもできます。



 さて、続いて野毛古墳群の現存古墳を見ながら田園調布方面へ向かいましょう。

 おっと、前方に下り階段が現れました。



 降りる途中、大日堂を指し示す標柱があります。



 でも私有地っぽく、なんとなく大人数で行くのは気が引けたので割愛して階段を降ります。

 階段を降り切りました。

 ここは明らかに谷底ですね。

 左手は丘陵側。



 右手は多摩川方面。



 そして前方を見ると急な登り坂です。



 登り切って振り返ると、皆さんが下を向きながら登ってきます。



 考えてみれば先ほど歩いた等々力渓谷も不思議な地形ですね。

 私たちも地形好きが集まっているのですが、ハヤトさんも着目した通り、武蔵野台地に等々力渓谷のような深い渓谷は大変珍しく、この谷も等々力渓谷ほどではないですが、かなり面白い地形で、これらの地形の成り立ちについて非常に興味が湧いてきました。

 ※この谷の場所は下図の「皆が喜んだ谷」です



 この「歓喜の谷」(勝手に命名)を越えた先には狐塚古墳があります。



 周囲はカットされていると思われ、もとの状態はわかりませんが、それなりの規模の円墳だったのではないでしょうか。



 しかし、世田谷区尾山台という高級住宅地に古墳が残っていることが奇跡ではないかと思います。

 だって、この土地を売れば相当なお金になりますよ。

 そうせずに残っている理由についは何も知りませんが、ずっとこの古墳を残しておいてくれたらなあと思います。

 墳丘からの眺めもいいですね。



 何度も言っている通り、ここも段丘のヘリです。



 古墳を降りて次へ行きましょう。

 坂の下から見上げます。



 お、カッコいい車だ!



 ダイハツのマークが付いていますが、みなさん「見たことがない車だなあ」と言います。

 デザイン的には私が子供のころの車でしょう。

 さて、野毛古墳群の最東端の古墳にやってきました。



 ここは八幡神社古墳と言う円墳で、宇佐神社の社殿の裏山が古墳なのです。



 この神社の本殿は一段高い場所にあります。



 ここの墳丘には登れなくなっていますよ。



 ここまでが野毛古墳群と呼ばれており、ここから東は田園調布古墳群となります。

 両古墳群はシームレスにつながっており、もちろん古代にはまだ世田谷区や大田区はありませんが、現在の行政区画ではここまでは世田谷区でここから東は大田区になるので古墳群の名前も二つに分けているのかなと思います。

 もしそうじゃないもっと学問的な理由があるのでしたら教えてください。

 ところで、先ほどから五重塔が見えていたので行ってみます。



 これですね。



 大きな塔ではないですが、立派ですね。





 残念ながらお寺の由緒についてはわかりませんでした。

 ⇒この記事の続きはこちらです


東京都の歴史散歩〈中〉山手
山川出版社


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【東国を歩く会】世田谷区内に奇跡的に残った野毛大塚古墳【第14回歩く日 その1】 

2017-12-12 08:29:53 | 東国を歩く会
 前回の記事では先週の土曜日に催行したクラブツーリズム主催の群馬古代史ツアーについてお伝えしましたが、本日はその翌日に行った、東国を歩く会の「第14回歩く日」の様子をレポートします。

 実は群馬のツアーの前日の夕方、会社から帰ってきたら喉が痛いことに気づき、喋るのが仕事なのに喉が痛いのはまずいなあと思いつつ土曜日は出かけて、喉の薬を舐めつつバスの中でも史跡の前でも喋りまくりました。

 日中はどうも熱が出てきたような感覚もあったのですが、そんなことを気にしていては仕事はできません。

 個人で仕事を請け負っている人間は多少の体調不良で仕事を休んだり手を抜いたりすることは許されないのです。

 そして喉が痛いまま東京に帰ってきて、それでも帰りがけにビールを飲みながら夕飯を食べ、帰宅後は風呂に入ってすぐに寝ました。

 翌日の日曜は「歩く日」で、幸いなことに喉の痛みは和らいでおり、とにかく今日一日は頑張ろうと思い外出したわけです。

 東国を歩く会も私がいないと成り立たないわけで、多少の体調不良などは歴史の楽しさで吹き飛ばすべく、東急大井町線の等々力まで出張りました。

 それではレポートの開始です。

*     *     *


 等々力駅に最近来たのは、もう3年くらい前だと思いますが、ここから歩いて結構遠い場所にダスキンの支店があり、そこへ研修で来たことがありました。

 東国を歩く会のメンバーは多摩地域にお住まいの方が多いので、等々力駅はまあまあ遠いのです。

 でも、立川か分倍河原から南武線で武蔵溝ノ口まで来て、大井町線に乗り換えてすぐなので、通勤だったら嫌でしょうが、遊びで来る分にはあまり負担にならないと思います。

 東急はあまり乗らないので記念に撮影。



 日の丸構図になってしまった・・・

 ヒラさんが山手線の遅れのため、迂回して来るそうでやや遅れるということだったので、9時ちょっとすぎにスタートしました。

 本日めぐる予定の場所はこちら。



 等々力駅からスタートして多摩川左岸の古墳を贅沢に味わった後、丸子橋で多摩川を渡り、中原街道を西へ進み、川崎市市民ミュージアムを見学した後、橘樹(たちばな)郡の郡衙跡とその郡寺であった影向寺まで歩きます。

 まあ、実際はどこまで行けるか分からないのですが、行けるところまで行きましょう。

 まずは等々力渓谷に降ります。



 思い返せば、私が生まれて初めて生で見た芸能人は、子供のころに海水浴場でテレヴィ番組の撮影をしていた轟二郎さんでした。

 うわっ、地形マニアにはたまらない解説。



 等々力渓谷の「等々力」は「轟く」が語源だとも言われていますが、戦国期の世田谷吉良氏の「兎々呂城」という城が語源だという説もあります。

 いずれにしても、轟二郎さんとの近縁性は確認できませんが、何かご存知の方がいらっしゃいましたらご教示ください。

 だた一つ言えるのは、轟二郎さんの顔を思い出そうとすると毒蝮三太夫さんの顔が浮かんでしまうことです。

 ところで、等々力渓谷は看板に「23区内で唯一の渓谷」と書かれていますが、それじゃあ、北区の音無渓谷は何なんだ!と言いたい。

 音無渓谷も渓谷だと思うのですが、数に入らないんですかねえ。

 まあ、それはそれとして、なかなか雰囲気の良い場所ですね。



 私たちの街歩きの特徴はかなりペースが遅いことです。

 これは歩く速度が遅いわけではなく、皆さん好奇心が旺盛なので何かを見つけるとすぐに引っかかってその場から動かなくなってしまうからです。



 しかし私たちは趣味の集まりなので、私は一向に構わないと思っています。

 その代わり、旅行会社が企画する街歩きよりも長時間歩くし、休憩も少なかったりしますよ。



 そうこうしているうちに、ヒラさんが合流しました。

 このまま進むと等々力渓谷3号横穴が見れるのですが、まずは野毛大塚古墳を見たいと思います。

 なので、この辺で道路に上がる道はないかなあと思い古山さんに尋ねると、道路沿いのイタリアンレストランに上る階段を教えてくれました。

 府中歩きのとき以来の参加の古山さんはこの近辺にお住まいなので今日はとても心強いです。

 道路に上がり玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳へやってきました。



 今日は天気も良くて、しかも下草もきれいに刈られているので、墳丘がとてもきれいに見えますね。



 下草を刈るのはボランティアの方々でしょうか。

 本当にありがとうございます。



 説明板にも書かれている通り、野毛大塚古墳は墳丘長82mの帆立貝形の前方後円墳で、3段築成です。



 往時は葺石で覆われ、埴輪も立っていました。

 5世紀前半の築造ということで、埼玉古墳群で最も古い稲荷山古墳の築造の50年から80年くらい前になるでしょうか。

 この頃はまだ南武蔵の多摩川下流部の有力者は相当な力を持っていたことがこの古墳の大きさを見れば分かります。

 帆立貝形でこの大きさは関東では大型の部類に入るのです。

 野毛大塚古墳の周りにはポコポコとたくさんの古墳があり(大多数が隠滅)、野毛古墳群を構成していました。

 そして、野毛古墳群はこれから行く予定の田園調布古墳群と合わせて荏原台古墳群という大きな塊として認識されています。

 多摩川下流の大型古墳の分布はこんな感じです。



 この図の右上には多摩川とは関係ありませんが、東京タワーの下にある芝丸山古墳をプロットしてあります。

 もちろん今日は探訪しませんが、芝丸山古墳は墳丘長125mの都内で最大の古墳です。

 芝丸山古墳もその北の上野公園にある摺鉢山古墳も海から見た景観を意識していははずで、多摩川両岸の古墳もやはり東京湾から多摩川に船で入ってきた人びとから見られることを意識して築造したはずです。

 なんたって、日本人は海洋民族ですからね!

 では、墳丘に上がってみましょう。

 関東の5世紀の古墳の石室はまだ竪穴式です。

 調査の結果、4つの主体部(棺を納めた場所)が見つかりました。



 墳丘にあるこの説明を見ると、主体部が重なってしまっていますが、これは高低差があるからです。

 中心の主体部がこの古墳の本来の被葬者で、もっとも深い場所に眠っており、他の被葬者はその人物の家族などの近親者でしょう。

 墳頂からは富士山が見えますね。



 (トリミング)



 古代人も私たちと同じように富士山を眺めていたんですね。

 さて、この古墳の次の首長墓はこの後訪れる予定の御岳山古墳なのですが、御岳山古墳は形状は帆立貝形を維持するものの大きさは54mと縮小されて、それ以降大き目の古墳はこの地域に造られなくなります。

 そしてそれにちょうど合わせるかのように、武蔵国内最大の埼玉古墳群の築造が始まるわけです。

 つまり、武蔵国内での勢力の中心が南部から北部へ移動してしまったわけですね。

 この考古学的事実により、『日本書紀』に記されている「武蔵国造の乱」と結び付ける考えもあります。

 武蔵国造の乱では、武蔵国内で2つの勢力が武蔵国の国造(くにのみやつこ)という今でいう地方自治体の長をめぐって対立したとされており、その二大勢力が、ここ荏原台古墳群の主と埼玉古墳群の主という考えです。

 ちなみに国造がいたのは6世紀で、その当時は武蔵を「无邪志」や「无射志」などと表記していました(「武蔵」に文字を変更したのは奈良時代で、「武蔵」に「むさし」の「し」は含まれておらず、無理やり2文字にしたために「し」が落ちてしまいました)。

 では、墳丘を降りて次へ行きましょう。



 周溝も一部分がきれいに残っています。



 おや、発掘中ですね。



 何か見つかることを期待しています!

 ⇒この続きはこちら 


知識ゼロからの古墳入門
広瀬和雄
幻冬舎


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【クラブツーリズム】まだまだ勉強が足りません・・・【太田天神山古墳・岩宿遺跡ほか群馬古代史ツアー無事催行】

2017-12-11 18:49:11 | 歴史探訪
 一昨日の土曜日(12月9日)は、クラブツーリズムにて群馬の古代史ツアーをご案内してきました。

 このカタログの左下のツアーです。



 このツアーは以前4月にやったのですが、その時に参加できなかった方々からもう一度やって欲しいという大変嬉しいリクエストをいただいたため、再度催行しました。

 一昨日はその前の週に催行した埼玉古墳群のときと同様、大変天候に恵まれ、参加者の方々も気持ち良い程度の寒さの中、初冬の歴史探訪を楽しんでいただけたものと思います。

 最初に訪れたのは東国最古の古墳の一つである元島名将軍塚古墳(前方後方墳)で、つづいて高崎市歴史民俗資料館を見学。

 つぎに太田市へ移動してホテルで昼食を食べた後、太田天神山古墳へ。



 太田天神山古墳は東日本で最も大きい墳丘長210mの前方後円墳です。

 私たちのバスと東武線。



 順番的には、まずは隣の女体山古墳(帆立貝形古墳では日本で二番目に大きい)を見学してからです。



 そして最後は、岩宿遺跡と岩宿博物館を見学。



 上野には予定通り19時に帰ってくることができました。

 19名の皆さま、ご参加ありがとうございました。

 ちょっと早いですが、来年も宜しくお願い致します。

 お腹ペコペコの私はそのまま「ねぎし」へ行って独りで打上げです。





 ねぎしは多摩地域にはほとんどないため、牛タンが大好物の私は都心に出張った時にお店を見つけると欲望を抑えきれないのです。

 ご飯がお替り自由なのでこれもまた嬉しいですね。

 さて、今年のクラツーのお仕事は今度の土日の奈良古代史ツアーが最後になります。

 今年はクラツーにてたくさんのお仕事をやらせていただき、歴史好きにとってはこんなにありがたいことは無いです。

 会社やスタッフの方々、そしてもちろん参加してくださるお客さんたちにもとても感謝しております。

 私は多くのお客さんと比べるとまだまだ人生経験を積んでいない若造ですし、歴史の知識も足りていないため、多分お客さんからすると不満だったり、大目に見ていただいていたりしていると思います。

 沢山のお客さんをご案内する過程で、自分の足りない点も数多く見えてきました。

 それはサーヴィス業に従事する人間としての至らない点も含まれますが、知識の場合をとっても、お客さんから質問されてそれに答えられないと、それがきっかけとなって今まで未知の領域についても勉強をし始めます。

 実は人に教えるということは自分が一番勉強になるのです。
 
 ですので、どこかにお勤めになっている方は社内研修の講師などを買って出るといいですよ。

 私は歴史以外にも植物や動物にも詳しくなりたいですし、古墳の石室をご案内しているのにもかかわらず「石」についての知識がないことが恥ずかしいと気付いたため、石についても学び始めました。

 大好きな地形についもなぜ山や海や川などができるのかもっと理解を進めたいですし、ヤマト王権が「鉄」で勢力を伸ばしたという推論を展開しているのにもかかわらず、鉄製品はどうしてできるのか何も知らないため、たたら製鉄などの鉄を作る方法についても今後学んでいきます。

 そして古墳が大好きなのにもかかわらず、古墳を作る具体的な方法についてもまだまだ知らないことが多いため、土木の観点から古墳築造について勉強を始めました。

 あとはとくに最近興味があるのは「色」や「ウルシ」です。

 やらしい方の「色」の歴史も実は興味があるのですが、それはそれとして、建築物やモノに塗る「色」や着る物を染めるための「色」に詳しくなりたい。

 古代人はとくに赤色を神聖視していたようです。

 安価なベンガラにたいして高価な水銀朱。

 これらの使い分けやそれを使用しての彩色。

 ウルシだって日本人は1万年も前から実用化していました。

 漆の木から樹液を採取し、それを精製し、器に塗るときは下地を塗ってから本塗りするということがすでに行われていました。

 漆を塗ると丈夫になるし、しかも殺菌作用もあります。

 こんな感じで興味は拡がる一方ですが、学んだことを講座やツアーで皆さんにお話しして、歴史をもっと楽しんでいただけるように努力します。

 勉強したことが自分の頭だけに有ったり、論文を書いて一部の研究者の中でしか共有できていないというのはとても寂しいことですね。

 自分の知識や経験が多くの方々の役に立ってこそ、自分が生きている意味があるのではないかと思っています。

 実は今日は体調が悪く、頭がボーっとしているためか話がとりとめなくなってきたようです。

 なのでこの辺で終わりにしますね。
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【クラブツーリズム】いやらしい写真ばかりでゴメンナサイ【近況報告】

2017-12-05 18:07:37 | 歴史探訪
 だいたい一ヶ月のうち29日くらいはお掃除か歴史の仕事をしています。

 お仕事をいただけるということは大変ありがたいことですね。

 感謝されるために働くのではなく、働かせていただけることに感謝するようにしています。

 先日の土日もクラツーのお仕事をやらせていただきました。

 土曜日は月に1度やっていた東北の古代・中世史講座の最終回です。



 今回も19名様という多くの方々にご参加いただきました。



 みなさん、どうもありがとうございました。

 来年も西新宿のクラツー本社にて月に2本、座学をやらせていただきますので、興味のある方は「旅の文化カレッジ」をご覧ください。



 そして恒例の「たかまる鮮魚店」での昼飯。



 1,080円の刺身定食・・・



 美味すぎる・・・

 私は経済的理由で月に1度くらいしか妻を外食に連れて行ってあげられないのですが、夜は妻のリクエストで八王子駅北口にある「関根精肉店」へ行きました。



 安くて美味いホルモンの有名店ですが、ホルモン以外にも美味しいお料理がたくさんあります。







 当然、もつ鍋は絶品。





 と、締めに入る前にラムチョップが食べたくなりました。





 ラム肉が好きな方はぜひここで食べてみてください。

 1人前700円くらいですが、その辺のそれなりの価格の牛ステーキよりも全然良いと個人的には思っています。

 そして、さきほどの鍋のスープにコラーゲンを足していただきチャンポンで締めです。



 というふうに、いい気になって飲み食いしたわけですが、翌日曜日はクラツーの埼玉古墳群ツアーをご案内してきました。

 探訪した個所は、川越市の山王塚古墳、東松山市の野本将軍塚古墳。



 そして、「関東の石舞台」と言われる、行田市の八幡山古墳。



 この横穴式石室の素晴らしさには皆さん感嘆しており、これだけ喜んでいただけると本当にこのツアーを企画してかつご案内した甲斐があったと、私自身も大変嬉しかったです。

 つづいて、メインの埼玉古墳群。

 さきたま史跡の博物館では犬の埴輪がありましたね。



 これ以上ないくらいの古墳散策日和で、8基の前方後円墳や日本最大級の円墳である丸墓山古墳などを2時間ほどかけてご案内して、ここも皆さんとても楽しそうに歩いていらっしゃいました。

 最後は真名板高山古墳を見てちょうど日没です。

 というわけで、23名様のご参加、ありがとうございました。

 今後もまだまだ関東の古墳ツアーをやりますので楽しみにしていてくださいね。

 なお、以前やって好評を得て、かつ再催行の希望もいただいていた保渡田古墳群・観音塚古墳・お富士山古墳のツアーを3月31日に予定しましたので、正式な発表をお待ちください。

 道路も混んでおらず、新宿には18時には帰着できました。

 北方領土展をやっていたのでちょっと見学。



 そして神楽坂に出張っていた妻とたまたま時間が合致したので中野の激安中華屋さんに行きました。



 生ビールが190円で、一品料理が400円くらい、ラーメンが290円などなど、異様に安いのでちょっと不安でしたが、お料理もなかなかの味でしたよ。









 辛いつけ麺(610円)もオリジナリティがあって美味しかった。



 私はまあまあ食べるほうなのですが、ビールを適量飲んでも妻と二人で二千数百円でした。

 このお店です。



 なんと、八王子にもあるようなのです!

 というわけで、今日は食べ物写真ばかりですみませんが、直近のクラツーのお仕事についてお知らせします。

 「歴史への旅」の最新号、ありがたいことに1ページすべて占有させていただいています。



 最上段の北九州の2泊3日の旅は、2回設定させていただいていますが、ありがたいことに80名様ものお申し込みがあり定員オーヴァーとなってしまったため、3月にもう2回設定していただく予定です。

 ですので、2月に参加できなかった方はどうぞ3月でよろしくお願いいたします。

 その下の宗像ツアー、こちらは大島へ渡るツアーですが、こちらも催行が決定しております。

 つづいて、最下段左の群馬の古代史ツアーは今度の土曜日に行ってきます。

 多分、もう3名くらいは余裕があるはずなので、気になった方はお申し込みください。

 そしてその右が上述した日曜日に催行したツアーです。

 同じ内容で1月13日にもやります。

 こちらもまだ定員に達していないので、興味がありましたらよろしくお願いいたします。

 あと、東国を歩く会の「歩く日」についてはこのブログのひとつ前の記事に載せています。

 趣味の会でよければ、どうぞご参加ください。

 それではまた。

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