日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【群馬県太田市・太田天神山古墳】古代”毛野国”を分割したのは誰か?【東日本最大の前方後円墳】

2017-10-29 23:20:39 | 歴史探訪
 何度かお伝えしている通り、4月に催行した太田天神山古墳&岩宿遺跡のツアーが好評だったため、12月9日(土)に再び催行します。

 一昨日の時点で嬉しいことにすでに10名様のお申し込みになっていたため、催行が決定しました。

 昨日の総社古墳群&大室古墳群のツアーの際にも参加者の方々には告知しましたので、まさか早々に予約が一杯になることは無いとは思いますが、もし参加してみたいなあと思った方はこの記事の最後を見てくださいね。

*     *     *


 太田天神山古墳は女体山古墳と同じ方向を向いており、女体山古墳側から歩いて行くと、後円部側から近接することになります。

 後円部側の周溝跡は、今も往時の周溝に沿ってきちんと道路が丸くなっていることでよく分かります。





 現在の周溝跡を見ると一重ですが、往時は中堤を挟んで二重になっていたのです。



 周溝を含めるとその長さはなんと364mになり、その大きさには驚きを禁じ得ません。

 周溝跡をぶった切っている道路を渡り、後円部麓にある標柱の前に来ました。



 私はここから直登してしまいますが、左手に巻いて行くと階段でラクラク登ることができますよ。

 登る途中には葺石が残っています。



 後円部から前方部を見ます。



 太田天神山古墳は墳丘長210mを誇る、東日本で最も大きな古墳ですので、前方部が遠くの方に見えます。



 後円部墳頂に来ました。



 小さな祠があります。



 太田天神山古墳は5世紀前半の築造ですが、この巨大な古墳にはいったい誰が葬られているのでしょうか。

 東日本で一番大きな古墳ですから、5世紀前半に東日本、もしくは関東地方全体を治めていた強大な権力を持った王が葬られていたと考えることもできますが、考古学的に見ると、上毛野は古墳時代を通じて群雄割拠状態で、ましてや関東地方全体を治めることができる権力体が存在した可能性は低いです。

 ただ、上毛野各地の王たちから共立された連合のリーダーのような存在が葬られた可能性はあると思います。

 しかし私は、『古代上毛野の地勢と信仰』で関口功一氏が述べる説が非常に魅力的に思えます。



 関口氏の説では、古代、毛野という国があったのが、ヤマトの政策によって上と下に分割されて、その分割政策を担ったヤマトから派遣されてきた将軍が葬られているというのです。

 太田天神山古墳の位置は、確かに上毛野でも東寄りで、下毛野を合わせると真中くらいになりますね。

 そして、その将軍が具体的に誰かと言うと、この系図を見てください。



 ※『東国の古代氏族』(関口功一著)所収の系図を合成

 『日本書紀』を参照して、東国に派遣された皇族を見てみると、その嚆矢は第10代崇神天皇の子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。

 ただ、トヨキイリヒコに関してはそれ以上分からず、果たして東国へ赴いたのかどうかは不明です。

 つぎに、トヨキイリヒコの孫、彦狭島命(ひこさしまのみこと)も東国へ派遣されたのですが、赴任する途中で亡くなってしまって、東国へは行っていないことになっています。

 そのため、ヒコサシマの子の御諸別命(みもろわけのみこと)が実際に東国へ行って上述した毛野の分割を実施したのではないでしょうか。

 もし太田天神山古墳の被葬者が毛野を分割したとしたら、築造時期から考えて、その人物は西暦400年ころにその事業を為したと考えられます。

 そうすると、世代的にミモロワケがちょうどいいのです。

 実際のところはこの説を完璧に証明することはできないと思いますが、このように考えてみることは、まさしく古代史のロマンではないでしょうか。



 「目塚 天神宮」とありますね。 



 太田天神山古墳の名前の元になっている天神様ですね。



 私は「目塚」というのが気になります。

 本当は「女塚」じゃないでしょうか。

 そうすると、さきほどの話をさらに発展させることができます。

 ミモロワケは毛野へやってきたら当然地元の有力者の娘を嫁にしますよね。

 そのため、実は「女塚」と呼ばれた太田天神山古墳の被葬者は地元有力者の娘で、婿であるミモロワケの方が女体山古墳に葬られているのではないかと考えてみたのです。

 そうすれば、フェミニズムの方々の支持を得ることができるかもしれません。



 古墳一つを見てもこのようなストーリーを考えることができてとても楽しいですね。

 前方部は前回来た時に歩いたので今日はいいでしょう。



 でかすぎて、結構引いても全体が収まらない・・・



 お、東武線!



 やっと全身が入った。



 南側の周溝の境は良く分からないですね。



 というわけで、ここでツアーの告知です。

 「歴史への旅」10月10日号のスキャンをご覧ください。



 冒頭にお伝えしたツアーは、上の段の右側に載っています。

 太田天神山古墳も女体山古墳も素晴らしい古墳ですが、同じ日に訪れる元島名将軍塚古墳は関東地方における最古級の古墳ですので、こちらも要チェックです。

 元島名将軍塚古墳の形状は「前方後方墳」で、もしかするとその築造時期は3世紀の後半まで遡り、東海からやってきた勢力が築いた古墳と考えられるのです。

 3世紀後半というと、邪馬台国の卑弥呼が亡くなって数十年後で、ヤマト王権が芽生えてきた時代ですね。

 ですので、関東の古代史に興味がある方は、邪馬台国や初期ヤマト王権にまで視野を拡げて、一緒に古代史のロマンを楽しみましょう。

 詳細ならびにお申込みはクラブツーリズムの公式ページをご覧ください。


 ⇒クラツーの公式サイトはこちら


 あと、もう一点お伝えします。

 上のチラシのスキャンの下段に「お城EXPO 2017」というのが並んでいますが、一番左側の八王子城のツアーは私がご案内しますので、山城に興味のある方は下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラツーの公式サイトはこちら


 続いて同じ太田市内にある円福寺茶臼山古墳へ行きますよ。

 ⇒つづきはこちら
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【新田荘遺跡】円福寺茶臼山古墳・伝新田氏塁代の墓

2017-10-29 21:25:01 | 歴史探訪
 太田天神山古墳を見た後は、西へ向かいます。

 あれが以前登ったことのある太田金山城がある山かなあ。



 20分ほど走ってたどり着いたのは、太田市内の円福寺です。



 円福寺は御室山金剛院と号する真言宗のお寺です。

 古墳目当てできたのですが、実はここは「新田荘遺跡」なのだー!



 山門。



 御室山の額。



 山門から伸びる参道。



 境内にお邪魔します。

 本堂は朱色と白色ですね。





 説明板に円福寺茶臼山古墳と周辺史跡の説明が書いてあります。





 そしてここには新田氏塁代の墓があるのです。



 新田家の系図。



 こちらが五輪塔群。



 義貞の祖父基氏の五輪塔。



 基氏の法名・沙弥道義。



 享年は72歳のようですね。

 新田荘遺跡のイラストマップ。



 円福寺に隣接して十二所神社があります。



 では、墳丘に登りますよ。

 一段登ると後円部の西側裾部分に千手観音堂があります。





 後円部はこのお堂を造るために削っているのが分かりますね。

 墳丘は2段築成のため、もう1段登ると墳頂です。

 後円部墳頂に来ました。

 え・・・、く、国良親王!?



 南北朝時代、後醍醐天皇は大勢いた皇子たちを日本各地に派遣したのですが、国良親王の父宗良親王もそのうちの一人です。

 宗良親王は、義良親王や北畠親房らとともに海路陸奥国府へ向かったのですが、座礁により遠江国に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政に庇護されました。

 その後、越後や越中などに滞在し、1344年に信濃国伊那郡の豪族香坂高宗に招かれ大河原(長野県大鹿村)に入部します。

 それ以降、1373年までの約30年間そこを拠点とし、「信濃宮」と呼ばれました。

 そして、1374年には36年ぶりに吉野に戻り1385年に亡くなっています。

 宗良親王の妻は、新田義貞と勾当内侍の子である山吹姫で、二人の間に生まれたのが国良親王なんですね。

 もちろん茶臼山古墳が国良親王の墓である可能性は低いですが、こういう伝承があるのはさすが新田の聖地です。





 墳頂から見下すと3段築成のように見えますが、黄色い社殿を造るときに後円部をガッツリ削ってしまったようです。



 こういう石は往時の葺石かもしれませんよ。



 後円部の斜面。



 墳頂。









 墳丘はこのようにかなり崩されていますが、墳丘長168mを誇る前方後円墳なんですよ。

 これは何でしょう?





 おー、馬頭観音だー。



 普通、観音様というのは優しい表情をしていますが、六観音の一である馬頭観音だけは憤怒の表情をしています。

 ところが江戸時代になると馬頭観音という名前からか、馬を供養するために馬頭観音が建立されるようになり、こちらは文字だけですが、きちんと観音様を刻した石碑を造ることもあります。

 ただ、その場合も頭の上にお馬さんの顔がついています。





 殺到ということは、苦情の電話が鳴りやまないのでしょうか。

 その場合はコールセンター業務をやっている会社に委託するのも一つの手です。



 前方部へも行ってみますか。



 麓に下りてきました。

 境内入口の池に水はありません。



 境内には遊具も置いてあって児童公園の役割も担っているようですね。



 おや、なんか近所の人たちが参集してきましたよ。



 何かやるようなので、私は退散します。

 堀口氏は新田氏4代政義の三男家貞が新田荘堀口郷を与えられ、地名を取って堀口を称しました。



 関東地方でも屈指の大きさの古墳を見に来たはずですが、新田氏の存在の方が大きい場所でしたね。

 少し走って遠景を撮ります。



 もう少し経てば桜が綺麗でしょうね。

 それではせっかく新田荘に来たので、新田氏関連の遺跡をもう少し見て見ようと思います。

新田義貞 (人物叢書)
峰岸 純夫
吉川弘文館


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「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」の歴史講演会が無事終了

2017-10-29 17:36:03 | 歴史探訪
 今日の午後は、八王子労政会館で「NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会」主催の歴史講演会が行われ、最近下草刈りにも全然行けていないことのせめてもの罪滅ぼしのため、準備を手伝うべく午前中から出張ってきました。

 準備なう。



 お昼は労政会館1階の「レストランピガール」でジャンボメンチカツを食べました。



 大きなメンチには目玉焼きが乗っていて、カレーもついていて、メンチの下には結構多めにパスタが潜んでいます。

 そしてサラダも多め。

 懐かしい感じの洋食で美味しいです。

 これで710円、いいですねえ。

 でも八王子の労政会館はあと2年くらいで無くなってしまうそうです。

 食事を終えて玄関でお客さんの誘導をしていると、食堂の片隅で中田先生と峰岸さん、それに小和田哲男先生が話をしているのを見つけてしまい、厚かましく交りました。

 峰岸さんは歴史全般(とくに中世)の師匠ですし、中田先生は城の師匠なので、このお二人と同時に話ができる機会自体、とてもありがたいのですが、それに加えて、自分が城を始めた20年近く前から著書を読み、たまにテレヴィでもお顔を拝見している小和田先生ともお話しでき、5分間くらいでしたがとても嬉しかったです。

 また、会場には滝山の会の皆さんはもちろんのこと、東国を歩く会や以前からの歴史仲間、それに私のクラツーの講座に来てくださるお客さんなど、多くの方々と会えてこれもまた嬉しかったです。

 ところで峰岸さんの最新刊が出ました!

享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)
峰岸 純夫
講談社


 今では普通に使われている「享徳の乱」を名付けたのは峰岸さんです。

 85歳で本を書き上げるのは大変なことだと思います。

 ご本人は「単独の本はもうこれで最後だ」と仰っていましたが、周りのファンは次回作を期待してしまうものです。
 
 さて、講演が始まると最初は石森市長の挨拶。

 そして歴史講演のトップバッターは小和田先生です。



 先鋒が小和田先生ってなんか凄いですね。

 小和田先生からは後北条氏と戦国時代末期の情勢について、概略的な話をお聞きすることができましたが、城に興味を持った最初の段階で、実地に歩いてとても勉強になったのが滝山城跡だという話が興味深かったです。

 もちろん、大河ドラマの裏話も。

 続いて我らが中田先生。



 暗くて姿が見えない・・・

 もちろん滝山城の話です。

 そして、トリは峰岸さん。



 いつもながらジョークを交えた話はとても楽しかったですが、内容は氏照が大石氏に養子に入って最初に居した城は、定説になった感がある浄福寺城ではないのではないか、という非常に興味深い話です。

 由井「領」と由井「郷」を混同してはならないという話はとても示唆に富み、このテーマは私も以前から気になっているので、またいろいろと考察を楽しめそうです。

 以上で、3名の先生方のお話は終わったのですが、最後の質疑応答では、会場にお客さんとしてお見えになっていた加藤哲さん(新八王子市史の中世史編を執筆)が名指しされ、3名の先生方と質疑応答を繰り広げました。



 こうやって有名な方がお客さんで来ていて名指しされるのはたまに見ますね。

 司会にとってはとても助かると思います。

 というわけで、本日は高橋さんが中田先生の絵図を引用しつつ作成した豪華パンフレットが配られました。



 高橋さん渾身の力作です。

 これは無料でお配りするものなのですが、これくらいのクオリティだと、普通は資料館などで有料で販売されますね。

 とりあえず5000部刷ったそうなので、皆さんもどこかで入手して読んでみてくださいね。

 もし、私と会う予定のある方で欲しい方がいらっしゃいましたら、あらかじめ言ってくだされば用意してお持ちします。

 なお、滝山城や八王子市内の城郭についての出版物に関しては中田先生が書いたこちらもお勧めです。

戦国の城は民衆の危機を救った―関東王国の平和を求めた八王子城主北条氏照
中田 正光
滝山城跡群自然と歴史を守る会



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【クラブツーリズム】群馬の古墳ツアー第3弾が無事終了しました【総社古墳群・大室古墳群】

2017-10-29 09:19:17 | 歴史探訪
 昨日はクラブツーリズムで群馬県古墳ツアーの第3弾として、前橋市にある総社古墳群と大室古墳群を探訪してきました。

 24名様のご参加、どうもありがとうございました!

 最近では私のツアーはキャンセル待ちが出るようになり、私個人としては嬉しい反面、参加したくてもできなかった方々のことを考えると寂しい気分になります。

 ですので、今後は好評だったツアーについては別日に再催行できるように努力致しますので、それまでお待ちくださいね。

 今回は8基の古墳をご案内したのですが、そのなかで5つの横穴式石室をご覧いただきました。

 横穴式石室特集だったわけです。

 なんとマニアックなツアーでしょうか!

 昨日は残念ながら午後は雨になってしまったのですが、参加者の方々が横穴式石室に入ってとても喜んでくださる様子を見ていると、この仕事をして良かったなあと思います。

 それでは、昨日探訪した古墳の写真をザーッと列挙します。

 なお、写真を撮影した日は昨日ではないです。

 まずは総社古墳群で、最初は総社歴史館を訪れ、館の方に総社古墳について展示を見ながら説明していただきました。



 つづいて、実地で古墳見学です。

 総社古墳群のうちでも現存している古墳を新しい順から4基見ます。

 ここからは私のガイド。

 7世紀後半の蛇穴山古墳。



 全長44mの方墳です。

 石室の壁面と天井は一枚岩で、石棺はなく、棺を置く台が残っており、釘が見つかっていることから木棺がこの台の上に置かれていた可能性があります。



 石室に漆喰が塗ってあるのが大きな特徴で、大変珍しいです。

 つぎに7世紀中葉の宝塔山古墳。



 66mの巨大方墳です。



 石室は截石切組積(きりいしきりぐみづみ)という、近世城郭の石垣に匹敵するような綺麗な石積みです。



 素晴らしい技術。



 この石室も漆喰仕上げです。

 関東地方では数えるほどしかない王者の石棺である刳抜式家形石棺。



 つづいて7世紀前半の愛宕山古墳。



 56mの方墳で、ここの石室はちょっと見づらいです。



 ここも刳抜式家形石棺ですよ。

 そして午前中の最後は二子山古墳。



 全長90mの前方後円墳で6世紀後半の築造です。

 石室は現在見ることができません。

 割烹料理屋でランチを食べた後は、大室古墳群がある大室公園へ移動します。

 午後は既述した通り雨!

 それでも、皆さんと執拗に古墳を歩きます。

 午後は前方後円墳を4基見ますよ。

 6世紀初めに造られた前二子古墳。



 墳丘長94mで、長大な横穴式石室を見ることができます。



 こちらはべんがら塗布ですよ。

 発掘当時の記録から副葬品の復元が並べられています。



 その次に造られた中二子古墳。



 スペックでは墳丘長は111mなのですが、かなり大きな印象を持ちます。

 石室は見つかっていません!

 中二子古墳の次に造られた後二子古墳。



 6世紀後半の築造で墳丘長は85mです。

 こちらも石室が見れますが、奥には入れません。



 石室へ向かって墳丘が堀割られているのが特徴の一つです。



 埴輪が並ぶ小二子古墳は後二子古墳と同じ頃の築造です。



 墳丘長38mの可愛らしい前方後円墳ですね。

 「はにわ館」も見学しました。



 3Dメガネをかけて見る3Dシアターが好評でした。

 というわけで、無事にツアーを終えることができ、添乗員のKさん、ドライバーのKさんを含め、皆さんありがとうございました。

 4月、7月、そして今回の3回で皆さんと一緒に見学した古墳は以下の通りです。



 ※『よみがえる五世紀の世界』より加筆転載

 赤が第1回、青が第2回、そして黄色が今回です。

 最古のものや最大のもの、様々なタイプの古墳や特徴のある横穴式石室をたくさん見ましたが、群馬県内にはまだまだ面白い古墳がありますので、これからもご案内して行こうと思います。

 さて、次回の古代史ツアーは神奈川方面に行きます。



 このチラシの右上が昨日のツアーで、右下が次回のツアーです。

 まだお席はありますので、興味のある方はどうぞご参加ください。


 ⇒詳細・申し込みはこちらのクラツー公式サイトをご覧ください。






 
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前二子古墳/大室古墳群【東国における初期の横穴式石室が実見できる】

2017-10-23 22:22:39 | 歴史探訪
 今度の土曜日は、クラブツーリズムが催行する群馬県の古墳ツアーをガイドしてきます。

 私が企画した群馬県の古墳のツアーはすでに2度やっており、今回は第3弾となります。

 今回私がチョイスした古墳は、前橋市の総社古墳群と大室古墳群で、両古墳群とも現地へはバスで行きますが、現地に着いたら古墳群内を歩きながらいろいろなタイプの横穴式石室を楽しみたいと思っています。

 本ツアーも前回・前々回同様、ありがたいことに発売早々に完売してしまいました。

 みなさん、ありがとうございます!

 定員は中型バスに乗れる24名で、キャンセル待ちの方も大勢いらっしゃるということで、会社側も大型バスに切り替えるべく奔走してくださったようですが、残念ながら大型バスの空きが出なかったようです。

 本ツアーは好評であればまた再度実施しますので、もし今回ご予約が取れなかった方はまた機会があれば次の催行のときによろしくお願いいたします。

 ということで本日は、今年(2017年)の4月2日に個人的に大室古墳群を探訪してきたときの様子をアップします。

 このブログをご覧の方で土曜日のツアーに参加する方は、ネタバレになるかもしれないので、本記事を読まずに楽しみを土曜日まで取っておいてもいいかもしれませんよ。

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 岩宿遺跡の見学を終える頃にはまだお昼まで時間があったもののお腹が空いてきたのでお弁当を購入しました。

 誰かと一緒に出かけるときは食事をきちんと摂って、ゆとりのある歴史めぐりにしますが、自分一人だとやっぱり効率重視になってしまいますね。

 食べ物屋さんに寄ってゆっくりランチを楽しむのは時間がもったいないです。

 そのため、岩宿遺跡の駐車場に出ていた屋台でお弁当を買ったわけですが、その場では食べず、かといって運転しながらでは食べづらいため、大室古墳群の駐車場までやってきて、まずはお弁当を食べてから古墳探訪を開始することにします。



 お、少し甘くて好きな味付け。

 美味いねえ。

 では古墳を見ますよ。

 大室古墳群は大室公園という広大な公園の中にあります。



 駐車場から歩き出して最初に目に付くのは、前二子古墳です。



 大室古墳群には100m前後の大型前方後円墳が3基あって、前二子古墳のほか、中二子古墳、後二子古墳というふうに、前・中・後とネーミングされています。

 そして築造時期はそれに対応し、前二子古墳は3基のなかで最も古く、6世紀初めの築造です。

 いきなり、急角度の後円部墳丘を直登しますよ。

 後円部から前方部を見ます。



 北隣には中二子古墳が間近に見えます。



 前二子古墳は二段築成になっており、形状の復元の結果、1段目と2段目の間のテラス部分がはっきり分かるようになっています。







 前方部から後円部。 



 あ、猫ちん!



 逃げられた!



 前二子古墳の横穴式石室は、テラス部分に開口しているのではなく、1段目の法面に開口しているのが特徴の一つです。

 今もなお開口しているので中へ入ってみましょう。



 おーっ、ちゃんと電灯が点く!

 細長い石室ですね。



 前二子古墳の築造時期は6世紀の初めなので、東国に横穴式石室が伝播してきた初期のものが見れますよ。

 古墳時代終末期の7世紀になると石室の石は近世城郭の石垣のようにカッチリと加工したものが多くなるのですが、初期のものはまだ自然石を多少加工した程度で積んでいました。

 なお、壁面が全体的に赤っぽく見えるのは、ベンガラを塗っていたからですよ。

 前二子古墳の石室は明治11年に初めて調査され、そのとき副葬品の配置についても綿密な記録を残しています。

 ですので、このように復元できるわけですね。



 前二子古墳の石室の特徴の一つは、玄室の一部と羨道の床に白い凝灰岩が使われているところで、発掘時に調査した方がコンクリートだと思ったそうです。



 石室の全長は14mありますが、細長いのも特徴の一つですね。

 石室の中から入口方面を見るのも好きです。



 まさに「これから生まれる!」という感覚。

 死の世界から生の世界へ戻る前にもう一度石室を振り返ります。



 黄泉の国から戻って参りました。

 周溝を歩きます。



 詳細な説明板。



 墳丘の部分を拡大。













 こちらにも説明板がありました。





 形状が綺麗に復元された素敵な古墳ですね。

 では次に、中二子古墳を見てみましょう。

東国大豪族の威勢・大室古墳群 群馬 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
前原 豊
新泉社


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【甲州道中・高井戸~府中間 その3】金龍寺・厳島神社【可愛らしい小動物がいらっしゃいます】

2017-10-21 20:59:08 | 歴史探訪
 本日はクラブツーリズム主催の「甲州街道を歩く 第3回 高井戸から府中」をご案内してきました。

 ここのところ毎日雨ですよね。

 今日も残念ながら終日雨でした。

 シクシクと降り続ける雨の下、15名の皆さま(プラス添乗員のKさん)と歩いてきましたよ。

 皆さん、ご参加ありがとうございました!

 今日は15km以上は歩いたと思いますが、雨の中だったのでさらにお疲れになられたことでしょう。

 私は帰宅してすぐにお風呂を沸かして入りましたよ。

 さて、そういうわけで、今日のレポートを書きたいところですが、私はガイド役のためレポート用の写真はほとんど撮っていません。

 なので、先日の10月17日(火)に下見に行ったときのレポートの続きをご報告したいと思います。

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 「いるまがわ」だと思っていた「いりまがわ(入間川)」を越えてやってきたのは金龍寺です。

 甲州道中から短い参道が伸びていますね。



 おや、門はペンキを塗っているところのようです。



 ペンキ屋さんの邪魔にならないように門をくぐり境内に入ります。



 右手には閻魔大王さまが。



 金龍寺は大雲山と号する曹洞宗のお寺です。

 本堂。





 お、ここにも葵の紋!



 驚いたことに、金龍寺には徳川家康以下歴代将軍の位牌があるとのことです。



 この写真を見る限り、14名分の戒名しか書かれていません。

 ・・・一人足りない!

 これは何でしょう?



 リスちゃんね。



 リスが遊べるように作った施設なんですね。

 可愛らしい。



 お寺にはよく猫ちんがいたりしますが、ここはリスがいる珍しいお寺ですね。

 リスちゃんと遊んだ後は甲州道中へ戻ります。

 すると今度は、厳島神社参道と刻された石柱を見つけてしまいました。



 見つけちゃったら行かないと・・・

 しかも最近私はクラツーの仕事の関係で宗像マニアになりつつあるので、厳島神社と聞いたら訪れないわけには行きません。



 ※イチキシマヒメを祀る宗像大社辺津宮(8月20日撮影)

 さらにもう一つ言うと、私は「鎮守」という言葉に弱いのです。

 鎮守府将軍ってカッコいいよね。

 ・・・ああでも、この参道は結構長いな。

 テクテク歩き鳥居の前に来ました。





 小さい神社ですが、一の鳥居と二の鳥居がありますよ。



 おっと、今度は三つ鱗!



 こっちにも。



 三つ鱗の紋は鎌倉北条氏が使っていましたが、戦国時代の後北条氏も使っていますね。

 でも形状に微妙な違いがあり、これは正三角形で構成されているので鎌倉北条氏の紋と一緒です。

 後北条氏の場合は二等辺三角形になるのです。



 こぢんまりとした境内。



 では、さきほどの参道を戻り、甲州道中へ戻ります。

 昭和2年まで京王線はこの辺りは甲州街道の上を走っており、このクロスガーデンの手前辺りから進行方向右側斜めに軌道が伸びていました。



 甲州道中の高井戸~府中間には、川らしい川は仙川と野川しかなく、ここで野川が現れました。



 馬橋という橋が架かっています。



 この野川から先が布田五宿と呼ばれる宿場となります。

 野川の流れ。



 以前、東国を歩く会でもっと上流の野川沿いを歩きましたが、とても良いところでしたよ。

 もう少し上流へ行くと、野川の左岸(写真向かって右側)に崖が現れ、それは国分寺崖線と呼ばれる、武蔵野台地の武蔵野面と立川面との間の崖です。

 崖線は「ハケ」とも呼ばれ、その下からは場所によっては今でも湧水が湧いており、4万年も前の後期旧石器時代の人類の痕跡が見つかることがあります。

 きれいな湧水が出る場所は昔から人が住みやすかったんですね。

 さて、ここで少しの間甲州道中から脱線してみます。

 「脱線」なんて、これから行く場所からしたら縁起でもないことです。

 (つづく)


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就職先のことを考えて学校を選ぶべきか?

2017-10-20 19:36:56 | 雑談
 借金が増えると普通はゲッソリするものですが、今回はホッとしました。

 というのも、娘の大学の教育ローンの審査が通ったからです。

 来月受験なので、受からなければ元も子もないのですが、これで娘もお金の心配をせずに勉強の仕上げに取り組めますね。

 娘は美術系の短大に行く予定なのですが、普通に考えて、そこを卒業してもアート系の仕事につける可能性は低いです。

 そうすると、「そんな学校に行っても無駄だ」と言い出す人が必ず出てきます。

 少し前までの私もそうでした。

 やはり、就職のことを考えて学校を選ぶべきだという考えは一般的なんでしょう。

 ところが、私の知る限り、大学で学んだことと関係ない仕事についている人の方が多数派です。

 キャリアパスという言葉があり、キャリアパスを考えて働いたり勉強したりしようとする人がいますが、今の私はそういうことはバカバカしいとまでは言いませんが、重要視しません。

 なぜならば、思い通りに行かないのが人生だからです。

 そして、その思い通りにならない人生はそれはそれで楽しいからです。

 「基本プラン」のような形で人生の将来のヴィジョンを描いて計画し実行することは大事だとは思いますが、それが破たんしても右往左往しないことです。

 むしろ、そういった人生の計画を持っていると、それは必ずその通りに行かないので、思う通りにならなかったときにどうするか、という経験ができてとてもいいですね。

 思い通りにならないことをたくさん経験すると、段々アドリブができるようになってきます。

 どんな仕事に就きたいかより、どんな生活を送りたいか、どんな人間になりたいか、そういうことを考える方がいいのではないでしょうか。

 娘はイラストレーターである元妻の影響でイラストやデザインの仕事に興味を持っており、それなりにセンスがあると親バカの私は思っています。

 ですから、就職できるとかできないとか、将来性とかそんなことは考えずに、まずは自分がやりたいことを精一杯やればいいのです。

 経験上、興味があることを勉強したり練習したりするとすごく頭に入りますし、技術が向上します。

 そして、どんなスキルであっても、人生で無駄なスキルはありません。

 私はぶっちゃけ、学士の資格がないと就けない仕事に附かないのであれば、大学に行く必要もないくらいに思っている偏屈者です。

 私自身、今まで生きてきて高卒で困ったことは一度もありませんよ。

 18歳の時点で稼げる能力があれば稼いだ方がいいです。

 その自信や能力が無くて、親に何百万円も出してもらえる余裕がある人はどうぞ大学へ行ってください。

 私が45歳まで生きて思うのは、技術や知識を身に着けることも大事ですが、それよりも「人間」を鍛える方が大事だと思います。

 感謝の心を持って誠実に生き、友達や仕事仲間を大事にする。

 これさえできれば、窮地に追い込まれても働く場所は見つかりますし、最低限の生活はできます。

 ですから、もし大学に行くのであれば、もちろんせっかくなので勉強もする方がいいですが、人間関係を学び、社会性を身に着けるのがむしろ大事ではないかと思います。

 大学生活の中で、人間としての「核」ができれば、親は数百万円払っても惜しくありません。

 別にどこに就職してもいいじゃん。

 ブラック企業を悪く言う人もいますが、ブラック企業も経験した方がいいですよ。

 失業、借金、離婚、病気・・・

 これらの経験も悪くないですよ。

 若いときはつらいことや大変な目、不条理なことをたくさん経験しましょう。

 そうすると、それを乗り越えた後はまったく怖いもののない人生になりますよ。

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【甲州道中・高井戸~府中間 その2】給田観音堂・昌翁寺・仙川一里塚【ハローウィン仕様のキューピーちゃんだ!】

2017-10-20 12:59:50 | 歴史探訪
 引き続き甲州道中を西へ向かいます。

 給田3丁目交差点を越えたあたりから仙川へ向けて地形が落ちていますね。



 今は完全に市街地化されているので往時の風景を想像するのは難しいですが、仙川の対岸を望む位置にある給田観音堂へやってきました。



 お、葵の紋ですよ。



 この観音堂は徳川家所縁らしいです。



 宝篋印塔が目立ちます。



 甲州道中へ戻り、仙川の手前で後ろを振り返ります。



 仙川。



 ここから少し上流に行き三鷹市域に入ったところには、仙川を挟んで島屋敷と天神山城という二つの中世城館跡があります。

 仙川を渡るとまた上り坂です。



 江戸期の給田村から下仙川村へ入り、大慈山昌翁寺に着きました。



 昌翁寺は天台宗のお寺です。

 門が立派。





 本堂。









 この先には一里塚の跡があるはず・・・

 ・・・ありました。





 お、歩道橋があるので登ってみましょう。

 歩道橋の上から一里塚の跡を見下ろします。



 掃除の仕事での行動範囲の東限がこのあたりですので、この甲州街道はたまに掃除の仕事で走ってるんですよね。

 新宿方面を見ます。



 この先の甲州道中は現在の甲州街道と重なっていますよ。

 分岐点が見えますが、右に行くとさきほど歩いてきた甲州道中で、左側が現在の国道20号線です。

 八王子方面を見ます。



 では再び歩き出します。

 キューピーがありますよ。



 ハローウィン仕様のキューピーちゃんだ!



 ここから下り坂になっています。


 
 右に分岐している道がありますが、そちらが甲州道中ですよ。





 おや、今度は薬師如来だ。





 今歩いてきた坂を振り返ります。



 この分岐はすぐにまた現在の国道20号線と合流します。



 国道20号線との合流点近くにある別の分岐も気になりますねえ。



 これでも河道跡じゃないかなあ・・・



 国道20号線との合流地点を振り返ります。



 中仙川の暗渠です。



 歩道橋があるので登ってみましょう。

 八王子方面。



 新宿方面。



 国道20号線の右側に入って行く道があるのが分かりますか。

 ちょっと戻ってしまいますが、歩道橋を降りて確認しに行きましょう。



 この道は、京王線の線路跡なのです。



 昔の京王線は仙川駅を出て八王子駅方面へ向かうと、現在の軌道から外れこの道を通っていたのです。

 入間川に架かる入間橋。



 私は「いるまがわ」とばかり思っていたのですが、「いりまがわ」なんですね。



 しかも上流端だそうですよ。

 これが先ほど河道跡じゃないかと思った道に繋がっているように思えるんですが、中仙川と繋がるようです。

 では、甲州道中を先へ進みましょうか。


ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次 甲州街道44次53里24町を歩く詳細地図
八木 牧夫
山と渓谷社
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もう寝てしまうので忘れないうちにYMO

2017-10-18 23:12:13 | 音楽
 もうそろそろ寝てしまうので、忘れないうちに貼り付けておきます。

 私が最も好きなバンドの一つであるYMOですが、これは比較的新しいYMOです。

tong poo - ymo (07/07/12)


solid state survivor - ymo (07/07/12)


rydeen - ymo (07/07/12)


cosmic surfin' ~ absolute ego dance - ymo (07/07/12)


1000 knives - ymo (07/07/12)


riot in lagos - ymo (08/07/12)


 そして、私が21歳の時にやったYMOのカヴァーバンドでのライヴは若さ故か異様なエネルギーに満ちていました。



 場所は下北沢のClub251で、向かって左の鍵盤が私です。

 主として教授パート(主旋律)を弾いていますよ。

 1.Tong Poo
 2.Technopolis
 3.中国女
 4.Solid State Survivor
 5.Rydeen

 20分以上あります・・・

 この日はさらに、「君に、胸キュン。」と「Cosmic Surfin'」を演りましたが割愛です。



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【甲州道中・高井戸~府中間 その1】大橋場跡・烏山神社・新一里塚

2017-10-18 12:52:23 | 歴史探訪
 ここのところ雨が続いていますが、今日は爽やかな秋晴れです。

 こういう日はお掃除&お洗濯日和ですが、私も朝からマンションの共用部をいい気分でお掃除していますよ。

 東京はまた明日からしばらく天気が悪いようなので、今日の晴れ間は貴重ですね。

 ところで、そんな雨予報が出ている今週の土曜日は、クラブツーリズムの甲州道中歩きをガイドしてきます。

 先々週は、内藤新宿から高井戸までをご案内しましたが、今回はその続きの高井戸から府中です。

 パンフレットに記載された歩行距離は15㎞となっており、実際にそれくらいは歩くと思います。

 さて、その甲州道中歩きですが、一度下見をしておきたいので、昨日の火曜日、お掃除をお休みして下見に行ってきました。

 今日は、その模様を簡単にお伝えします。

*     *     *


 今日も朝から雨ですが、予報によると昼くらいには上がるそうなので、6時に起床した後は少し下調べなどをして9時過ぎの京王線で出発です。

 前回の甲州道中歩きは新宿駅を出発して京王線の芦花公園駅まで歩きました。

 土曜日は芦花公園から再開して府中まで歩くので、まずは芦花公園駅へやってきました。



 駅を出て、旧甲州街道へ向かいます。

 旧甲州街道は歩道が狭くてちょっと危ないですね。

 お、なんかあのアーケード街、惹かれるなあ。



 今日は探訪する時間はありません。

 そして最初のポイントにはすぐに到着しました。

 甲州道中から北を眺めます。



 東京でこういう細いニョロニョロ道があると、河道が暗渠になっている場所の可能性が高いです。

 南側を眺めます。



 ここもその推測通り、烏山川の河道です。

 石仏が並んでいますね。



 ここにはかつて、石橋が架かっていました。



 大正12年に起きた関東大震災の直後、朝鮮人が騒動を起こすとの風説が流れ、震災後の混乱状態で人びとがピリピリしているなか、この場所で地元の自警団によって朝鮮人労働者を乗せたトラックが襲撃され、死傷者が出たということがありました。

 つづいて、今日はこのまま甲州道中を進まず、烏山川を南下してちょっと寄り道してみましょう。

 こういう立派な木を見ると、烏山川の往時の風景が想像できます。



 おっと、踏切に捕まった。

 コンデジで走っている電車を撮るのは難しいですね。



 踏切を渡って一方通行の道をニョロニョロと歩いていきますが、結構車が飛ばして走っていますよ。

 車に引かれないように歩くと、薬師堂が現れました。



 境内にお邪魔します。

 石仏がありますね。





 説明板もあります。



 道路を挟んだ向こうには烏山神社があります。



 以前このブログにも記事を再アップしましたが、2000年3月19日にここを訪れています。

 ⇒その記事はこちらです

 当時私は三鷹市民で、世田谷の吉良氏などを調べつつ東京の街歩きを始めた頃でした。

 そのときに、世田谷吉良氏の砦跡を調べて歩くとともに、北条氏綱の家臣であった高橋氏の居城跡を探しにこの辺をウロウロしていたのです。



 さすがに17年も経っていると、当時の探訪の記憶はほとんどないです。



 高橋氏について刻された石碑がこんなふうに立っていたことも覚えていません。



 石碑の後ろに隠れるように置いてある社が気になります。



 なんか訳がありそうな・・・

 本番でも烏山神社まで足を延ばそうかなあと考えています。



 ところが、ここから線路の南側を歩いて次の目的地である給田観音堂を目指すのはちょっと道が悪いです。

 多くのお客さんを引き連れて歩くには適していません。

 なので、甲州道中へ戻ろうと思います。

 おや、この自転車置き場も怪しいですね。



 旧河道か?



 甲州道中まで戻ってきました。

 甲州道中を歩き、江戸期の烏山村から給田村に入ってほどなく、新一里塚跡を発見。



 江戸初期の一里塚ではなく、明治時代に作られた「新」一里塚ですよ。



 現存するのはこれだけなので、かなり貴重ですよ。

 そしてここから南側を見ると、地形が落ちていますね。



 仙川へ向けて土地が低くなっているのです。


 ⇒この続きはこちら


ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次 甲州街道44次53里24町を歩く詳細地図
八木 牧夫
山と渓谷社
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急用ではありませんが忘れたらイヤなので・・・

2017-10-15 13:17:48 | 音楽
 急用ではないのですが、忘れないうちにちょっと音楽を貼り付けておきます。

 METAFIVE、カッコいい。

METAFIVE  Maisie’s Avenue -Studio Live Version-


METAFIVE - Luv U Tokio -Video Edit-


METAFIVE Chemical -Studio Live Version-


 そして、TOWA TEIに行き・・・

”Brand Nu Emo” TOWA TEI as METAFIVE with MIZUHARA SISTERS


"LUV PANDEMIC" TOWA TEI


 最後はなぜかDM。

Depeche Mode - Behind The Wheel (Remastered Video)


Depeche Mode - Shake The Disease (Remastered Video)


Depeche Mode - Never Let Me Down Again (Remastered Video)

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【日本の旧石器時代発見の地】岩宿遺跡・岩宿ドーム・岩宿博物館【私が相沢先生に惹かれるわけは・・・】

2017-10-14 19:11:36 | 歴史探訪
 本日は西新宿のクラツーで毎月やっている東北地方の古代史・中世史講座の日でした。



 本日は17名様のご出席、ありがとうございました!

 タイトルは「日本古代国家の東北政策 ~大化改新から三十八年戦争まで~」です。



 この「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」という講座は1月から月に1度やっており、本日で第10回目となりました。

 毎回来ていただけるお客さんも多くいらっしゃり、とても感謝しております。

 次回の11月4日(土)は東北地方の古墳を中心にお話しし、12月2日(土)は東北地方の原始時代についてお話しして今年の分は終了となります。

 受講をご希望の方は、クラツーの公式サイトをご覧ください。


 ⇒クラツーの公式サイトはこちら


 あ、今「今年の分」と言ったのが気になった方がいらっしゃるかもしれません。

 実は、2018年も毎月座学をやらせていただけることになっているのです。

 来年も月に1度、土曜に開講しますが、来年は午前の部と午後の部の2本立てにします。

 午後の方は、今年1年間やっている東北の古代史・中世史の講座を内容を増補改訂してやります。

 今年お話しした内容とはそれほど大きくは変わらないと思いますが、新たな研究成果を取り入れつつ、より面白い講座にしますよ。

 今年の各回のうち、聴き逃してしまった回を来年受講してみたり、はたまた復習のためにもう一度最初から受講してみたり、興味のある方は来年を楽しみにしていてくださいね。

 そして午前は、「テーマごとに解説 目で見る日本史」というシリーズで、毎回一つのテーマをピックアップし、それに沿って歴史の講義を行います。

 1月の第1回目のテーマは、「道」です。

 古代の官道や中世の鎌倉街道、そして近世の五街道などを素材として、なぜそこに道があるのか、政治的・軍事的な観点から道の歴史について解説します。

 この1月以降の講座は後日正式に発表になりますので、それまでお待ちください。

 というわけで、講座やツアーにお客さんがたくさん来てくださるので、ありがたいことに来年2月くらいまでクラツーのお仕事でスケジュール帳がほとんど埋まっています。

 みなさん、どうもありがとうございます!

 講座もツアーもより面白くなるように常に改善を志しながら頑張ります。

 さて、講座を終えるとクラツーの方と打合せを済ませ、お腹ペコペコ状態でランチに行きました。

 今日のお店は先月も行った「タカマル鮮魚店」です。



 この1,080円(ご飯大盛サーヴィス)の刺身定食を食べたいがために、一昨日からお金の節約をしていたのです(なお、生ビールは594円です)。

 これを食べた結果、お財布には213円しか残っていませんが、本懐を遂げることができて非常に満足です。

 今日一日を精一杯に生きればよい!

 ということで、負け惜しみを言ったあとは話を変えて、以前からお伝えしている通り、私は数多くの歴史スポットを探訪していますが、ブログへのアップが全然追いつきません。

 なるべく時間を見つけてアップしているのですが、なかなか捗りませんね。

 それでも書かないことには進捗しませんので、今日は今年の4月2日に訪れた群馬県みどり市にある岩宿遺跡についてご報告したいと思います。

*     *     *


 群馬県太田市にある小金井史跡公園(中溝・深町遺跡)を見学した後、30分ほど雷電號を巡航させて岩宿博物館の駐車場にやってきました。

 なにやら今日はお祭りでもあるのか、賑やかな雰囲気がしており、これはもしかしたらもう少し遅く来たら車を駐めるところがなかったかもしれません。

 それでは、まずは岩宿博物館から行ってみましょう。



 どこが入口かなあ・・・

 ありました。



 入館料は一般300円です。

 ここは写真撮影がOKのようですよ。

 全景。



 バーン。



 岩宿遺跡は日本の旧石器時代発見の地ですので、岩宿遺跡で発掘された遺物を中心に展示しているのかなと思いきや、旧石器時代に生きた動物関連の展示の方が目立つような気がします。

 最近のマイブームとなっている象さん(ナウマンゾウ)の牙ですね。





 岩宿で出たものではなく、出土地は島根沖とあります。

 つづいて、ナウマンゾウの臼歯。



 浜松市出土です。

 そして、マンモスの全身骨格!



 いいねえ。



 でも、レプリカなんです・・・



 いやいや、レプリカでもこれは見応えがありますよ!

 という感じで、なぜか石器ではなく象さんに興奮してしまいました。

 ちなみに、もし都心で岩宿遺跡出土の石器を見たければ、御茶ノ水駅近くの明大博物館へ行けば見れますのでどうぞ行ってみてください!

 博物館を見学した後は、旧石器発見の地へ行ってみましょう。

 途中、広場があります。



 「岩宿人の広場」というらしいです。

 おや、これは何でしょう?



 へー、旧石器時代の家屋を復元したものなのですね。



 日本ではなくウクライナのものです。

 あ、猫ちん!

 逃げられた・・・



 なお、「岩宿人」という言葉が出てきましたが、縄文時代より前の時代は一般的には「旧石器時代」と呼ばれており、一部ではまだ「先土器時代」という呼び方もされています(日本で縄文時代に当たる時代をヨーロッパでは「新石器時代」と呼ぶ)。

 ところがここ岩宿では、その時代を「岩宿時代」という独特な呼び名で呼んでいるのです。

 そのため、岩宿博物館を見学する際も、そういう前提があるということで見学したほうが説明の意味を理解しやすいでしょう。

 つまり、ナウマンゾウなどの展示が大きくされているのは、「岩宿遺跡」の博物館ではなく、「岩宿時代」の博物館だからだと思います。

 広場から1分も歩くと、道路の切り通し部分に来ました。



 ここの関東ローム層が露出した部分で、相沢忠洋さんは旧石器を発見したんですねー。



 あー、なんか感慨深い。



 一言で「岩宿遺跡」と言っても、ここはA地点と呼ばれている場所です。



 他の地点については説明板を参照してください。



 B地点には、「岩宿ドーム」という施設があります。



 あ、相沢先生!



 芹澤先生が文章を贈っています。



 相沢先生と芹澤先生の仲は実は・・・

 おっと、こういうことはブログに書くべきではないですね。

 詳しくは書けませんが、私の師匠は相沢先生のお弟子さんですので、まったくおこがましいことに、私は相沢先生の孫弟子になるのです。

 相沢先生とは残念ながら面識はないのですが、師匠からいろいろとお聴きしています。

 さて、戦前までの常識では、火山灰が絶えず降り注いでいるような旧石器時代の日本には人類などはいるわけがないと思い込まれていました。

 そのため、発掘調査をするときは、縄文時代に堆積した黒土を掘り進め、関東ローム層という火山灰によって形成された粘土質の土が現れると、それ以上は掘らなかったのです。

 ところが、自転車で納豆の移動販売をしつつ、空いた時間に発掘調査をしていた相沢忠洋青年が戦後間もない頃、さきほど見たあの切り通しで、露出したロームの間から旧石器を発見しました。

 これにより、日本にも旧石器時代に人類がいたことが証明されたわけですね。

 相沢青年はお金がなかったため、東京に用事があるときは自転車で通っていました。

 朝早く群馬を出ると、午後には東京に着くそうです。

 私の師匠の奥様は、「昔はそういう人はよくいたのよ」と言っていましたが、昔の人の体力ってすごいですね。

 お金がなくても気合と体力でカヴァーできる!



 私が相沢先生に惹かれるのは、やはり私と同様「在野の士」であり、かつお金に苦労しながら、いわば副業で歴史の研究をしていたところです。

 そういうライフスタイルでも世紀の大発見はできるし、研究の礎となって後進たちの役にも立っているし、何よりも歴史愛好家にロマンを与えているところにとても惹かれるのです。

 ただし、貧困という点に関しては、私は家族のためにも何とかそれを脱したい・・・

 これ以上は今は詳しくお話しませんので、興味のある方はぜひこの本を読んでみてください。

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて (講談社文庫)
相沢 忠洋
講談社


 この本は、歴史好きであれば必読の書であると思っています。

 ちなみに相沢先生は昭和元年に生まれて平成元年に亡くなっているんですよ。

 まさに「昭和という時代を生きた男」なわけです。

 あ、岩宿遺跡よりも相沢先生について熱く語ってしまいましたが、岩宿ドームの中に入ってみましょう。

 こちらにはボランティアガイドさんが常駐しており、中では岩宿遺跡を解説したヴィデオを見ることができるとともに、保存された地層の本物を見ることができます。



 これで岩宿の見学はおしまいです。

 もう一度記念すべき発掘現場を振り返りましょう。



 まだお昼まで少し時間がありますが、なんとなくお腹が空いてきました。

 駐車場まで歩いて戻ると、何やら出店がたくさん出ています。



 よし、ここで何か買って車の中で食べよう。

 これはこの土地の名物かな?



 中は空洞になっており軽い食感で甘味のソースが掛かっており好みの味です。

 そしてメインは豚丼。



 駐車場が混みあっているので、この弁当は次の大室古墳群で食べよう。

*     *     *


 この探訪から6日後の4月8日、私はクラツーで岩宿遺跡や太田天神山古墳などをガイドしました。

 バスを使ったツアーでガイドするのは初めてだったのですが、ありがたいことに参加された方々からはとても喜んでいただき、さらに当日参加できなかった方から「あの日は都合が悪くて参加できなかったから、できれば別の日も用意してくれればありがたいんだけどな」というようなご意見もいただきました。

 そのため、急きょ12月9日(土)に、4月のツアーと同じコンテンツでツアーを発表しました。

 私のツアーが掲載されている「歴史への旅」は、通常は奇数月の10日発行なのですが、10月だけ臨時で発行されています。

 いつものよりはページ数は少ないのですが、それに12月9日のツアーも掲載されています。



 上の段の右側ですよ。

 こちらも嬉しいことに発表してほとんど時間が経っていないにもかかわらず、すでに今日の時点で7名様のお申し込みをいただいています。

 ですので、あと数名のご参加があれば催行できますので興味のある方はクラツーの公式ページをご覧ください。


 ⇒クラツーの公式サイトはこちら


 なお、この日合わせて探訪する太田天神山古墳は東日本で最大の前方後円墳(墳丘長210m)で、かなり見応えがありますよ。



 そして、元島名将軍塚古墳は関東地方における最古級の古墳で形状は「前方後方墳」です。

 邪馬台国の時代に近い古墳なので、邪馬台国の時代の東日本を考える上ではぜひ見ておきたい古墳です。

 関東の古代史に興味がある方はぜひこの機会に一緒に古代史のロマンを楽しみましょう。

 あと、最後にもう一点。

 上のチラシのスキャンの下段、「お城EXPO 2017」というのが並んでいますが、一番左側の八王子城のツアーは私がご案内しますので、山城に興味のある方は下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラツーの公式サイトはこちら




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「第13回 歩く日」は延期します・・・

2017-10-12 23:43:40 | 歴史探訪
 東国を歩く会のメンバーおよび会に興味がある方々向けの記事です。



 さきほど、メーリングリストおよびフェイスブックでもお知らせしましたが、今度の日曜日に予定しております「第13回 歩く日」の開催は雨予報のため見送ることにしました。



 したがいまして、第13回は11月12日(日)に開催予定とさせていただきます。



 というわけで、事務的な連絡のみで味気ないですが、宜しくお願い致します。



 ※本文と画像は関係ありません。
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【新宿駅から甲州道中を歩く その4】幡ヶ谷~笹塚の地形を楽しむ

2017-10-06 20:13:15 | 歴史探訪
 旗洗池で八幡太郎と東郷平八郎閣下とのコラボを実見しましたが、その折に、旗洗池の湧水が神田川に注いでいたということを話しました。

 明治時代の地図で確認すると、往時の様子が想像できますね。



 それではつづいて、近辺の面白地形をもっと歩いてみましょう。

 まずは「本町一丁目」交差点あたりの地形からです。



 交差点を南側に渡り、南東方向へ伸びる道路を見てみましょう。



 落ちているのが分かりますか?

 落ちているというのは、地形が低くなっていっているということです。

 この部分をさきほどの地図で確認してみてください。



 本町一丁目交差点あたりがちょうど谷頭となっており、代々木本村と書かれている台地と代々木八幡の乗っかている台地の間に水の流れがあるのが分かりますね。

 この図の範囲だけで、代々木八幡の台地をはじめ3つの舌状台地が見えますが、これらの舌状台地は中世城郭マニアからすると、城を築きたくてウズウズする地形じゃないでしょうか。

 代々木八幡へ行ったことがある方は分かると思いますが、周囲は結構急な崖だったと思います。

 かなりの要害性を誇っているんですね。

 台地上にある代々木八幡へ登る石段はこの通り。



 登って振り返ると結構高い。



 そして社地の東側の切り通しもご覧の通り。



 ただ、代々木八幡の台地は城郭を築くには幅が狭いですね。

 それならば、代々木本村の台地の方がちょうど良いように思えます。

 私の手元には多分15年くらい前の仕業かと思いますが、地形図上の城館跡にシールが貼られており、代々木本村の台地にも貼られてるんですよね。

 これは私が貼ったのに違いないのですが、なんでここに貼ったのか思い出せないのです。

 城郭の伝承とかあったっけなあ・・・

 でも地形を見ると自然の形で本丸・二の丸・三の丸というふうに区切れるんですよね・・・

 さて、話を戻します。

 ここからは玉川上水跡を歩いてみましょう。



 上水跡はずーっと帯状の公園になっているようです。

 新台(しんだい)橋。



 こちらのお宅の木が立派で気になる・・・



 お、猫ちん。



 スレンダーだねえ。

 幡ヶ谷駅の近くまで来ました。



 ここには玉川上水について書かれた説明板があります。



 西原通り。



 ひきつづき上水跡を歩きますよ。

 美寿々橋。



 代々幡橋。



 この辺りには、戦前には井村病院という精神病院があったのですが、戦災で被害を受けたまま閉院してしまったそうです。

 分かれ道。



 これ以上上水跡を歩いて行くと、甲州道中からだいぶ離れてしまうので、右手の道を行きたいですが、ちょっとだけ上水跡を歩いて地形が落ちているのを望見してみましょう。

 ふふふ・・・、落ちてる・・・



 さきほどの分かれ道に戻り、右手の道を行きます。



 明治時代の地図を見るとこの辺りには阪川乳牛場があるので、牧場があったのかもしれません。

 こちらの道もやはり少しずつ落ちて行きます。

 というのも、笹塚駅へ向かいたいので中野通りへ出ようとしているのですが、中野通りの道筋は谷底だからです。



 中野通りとの十字路に出ました。

 北の笹塚駅方面を見ます。



 京王線が見えますが、京王線の高架は勾配を登っていますね。

 南側を見ます。



 これが谷底の道です。

 ここでまたまた地図を見ましょう。



 左側の「牛窪地蔵尊」と書かれている辺りを見てください。

 現在地はそこのすぐ南側です。

 さきほどの本町一丁目を谷頭とした谷は南の渋谷方面へ向かって流れていましたが、こちらの谷は北の神田川方面に向けて流れていますね。

 そして面白いのは玉川上水です。

 この辺りでは大きく「U字」を描いていますが、谷を避けて台地上の尾根筋のような箇所に構築していますね。

 あ、そろそろ甲州道中歩きに戻りましょうか。


デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖 (The New Fifties)
芳賀 ひらく
講談社
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【新宿駅から甲州道中を歩く その3】旗洗池跡【幡ヶ谷の地名の由来は八幡太郎だったのね】

2017-10-06 18:23:47 | 歴史探訪
 荘厳寺(幡ヶ谷不動)の前の道は「ふどう通り」と呼ばれ、商店街になっています。



 時刻はまだ8時なので、もちろんお店は閉まっており、通勤する男女が早足で駅へ向かって歩いて行きます。

 住宅街の中をニョロニョロと歩いて行くと、私がお目当てにしているらしきものが見えました。

 多分、あれだろうな・・・



 おー、ありました!



 これです。



 説明を読んでいただけば分かるのですが、幡ヶ谷の地名の由来が書かれていますね。

 源氏の白旗伝説は都内各所に残っており、ここもその一つです。

 後三年の役というのは、今では「後三年合戦」と呼ばれることの多い、古代奥羽での戦乱のことで、11世紀後半に奥羽の広い範囲を治めていた清原氏という豪族が、源義家(八幡太郎)に滅ぼされた戦いです。

 と、簡単に言うとそんな感じなんですが、清原氏が滅亡したことにより藤原清衡という人が奥羽で台頭してきて、彼が奥州平泉藤原氏4代の祖となります。

 ここの石碑は道路側から見ると何も刻されていませんが、確認のために反対側へ回ってみましょう。



 お、ありましたね。

 これは説明板にも書かれている通り、東郷平八郎の筆ですよ。

 それと、説明板には神田川に注ぐ湧水とありますが、明治時代の地図で確認すると、確かに小笠原邸の裏は谷地となっており、北西方向に流れて神田川と合流しています。



 さて、私は地形マニアでもありますので、ここからはこの近辺の地形の面白ポイントを探ってみたいと思います。



 ※渋谷金王八幡神社(2001年1月6日撮影)


 ⇒このつづきはこちら


京王線歴史散歩 (史跡をたずねて各駅停車シリーズ)
関根 治子,滝沢 仁志
鷹書房
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