日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

平和祈念展示資料館/稲用章のツアー情報

2017-09-27 12:08:57 | 歴史探訪
 昨日は、D社の研修で東京本社のある西新宿の住友ビルへ出張ってきました。

 窓の外にはアイランドが。

 この角度では見えませんがアイランドの向こうにはいつもお世話にっているクラツーが入っているアイランドウイングがあります。



 お昼は49階に行ったのですが、そのとき48階に「平和祈念展示資料館」があることに気づき、食後10分くらい寄ってみました。



 展示内容はこの名前から想像できる通り太平洋戦争関連で、意外と広くて展示も立派です。

 特徴としては戦後のシベリア抑留の展示が豊富なことでしょうか。

 収容所のジオラマもあります。

 ※館内の写真撮影は禁止なので写真はありません。

 収容所は北極圏内も含めて1200~1300ほどあったそうです。

 収容所の建物の中には地面を1mほど掘り下げた上にテントを張るという簡易的なものありました。

 まさしく原始・古代の竪穴式住居のようなものですね。

 食糧は1日350gの黒パンを3回に分けて食べていたそうです。

 それに薄いスープが少量。

 最終的には5万5千人の方々が亡くなったそうですが、そのほとんどは最初の冬(1945年)に訪れたシベリアの大寒波のために倒れてしまったそうです。

 想像するだにとても過酷で、その辛さを思うと涙が出そうになります。

 時間があればゆっくり展示を見たいですが、ザーッと見るだけしかできませんでした。

 住友ビルのフロアを結構使ってやっている資料館なので家賃も相当高いと思いますが、入館料は無料です。

 受付のお姉さんにどこの組織が運営しているのか尋ねたところ、総務省ということでした。

 ところで話は変わりますが、一昨日は妻とのお付き合い一周年記念だったので、吉祥寺に出張って一緒に夕飯を食べてきました。

 店は妻のチョイスした「CRAFT & ROMANCE」です。



 入店すると、バルコニーの席に案内され、気候的にもまだ外で飲むのも気持ちが良いです。

 ここは30種類ほどのクラフトビールが飲める店で、レギュラーが400mlで800円、小さいのが250mlで500円、そして好きなものを3種類少しずつ飲めるセットが1,050円となっています。



 いつも自宅では発泡酒を飲むことが多く、また外で生ビールを飲むときもゴクゴクと飲み干して、それが美味しいのですが、クラフトビールは味わって飲めるのがいいですね。



 ここは料理も絶品。



 ハムの盛り合わせは妻も食べたことのないハムが含まれていたようで、「なんだこれ」と言って喜んでいます。



 あ、顔を映すと怒られるのでやめておきます。



 このお店があるビルは吉祥駅南口の線路に近いところで、いかにも吉祥寺らしく、PARCOと東急をパシャリ。



 私はレギュラーを4杯飲んで大満足。

 最後に飲んだサングリアもめちゃくちゃ美味かった。



 他にもサバと茄子のカルパッチョや自家製ソーセージなどの写真を撮ったのですが、暗くてうまく写っていませんでした。

 ジジが待ってるのであまり遅くまでいられませんが、2時間半くらい、お酒と料理を十分に楽しみましたよ。

 そしてジジはいつもマイペース。



 さらに一昨日はもう一つ記念日がありました。

 雷電號の納車記念日です。



 これは奈良県桜井市の箸墓古墳をバックに撮った写真ですが、雷電號はお出かけや歴史めぐりに大活躍してくれていて、1年間で1万キロくらい走っています。

 そういえば、この箸墓古墳その他を私がご案内するツアーがありますよ。



 上のチラシの左側です。

 あー、でも、実はこれはもう満席でキャンセル待ちとなっています。

 申し訳ありません。

 さらに上のチラシの右側のバスツアー2本、群馬の総社古墳群と大室古墳群は、こちらも満席・・・

 もう一方の相模方面の古代史ツアーはまだ空きがありますので興味がありましたらご参加ください。

 ⇒詳しくはこちらのクラツー公式サイトをご覧ください

 そして、それ以外のツアーにいては、「歴史への旅」の最新号(9月10日号)に掲載されているのでご覧ください。



 真ん中の邪馬台国は既述した通り満席ですが、一番上の宗像ツアー、そして下のさきたま古墳群はまだ空きがあるので興味のある方はどうぞ。

 なお、同じ宗像関連なんですが、今週末の土日にこちらのツアーをやってきます。



 これはもちろんすでに締め切っていますよ。

 今週末の福岡は天気もバッチリなようなのでとても楽しみです。

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【歴史活動・初期の記録その2(改-2) 上山城】ダメだ・・・。当時のことはほとんど思い出せない・・・【1998年12月30日】

2017-09-23 21:12:16 | 歴史探訪
 今日もジジは多忙です。

 掃除機がけ。



 さすがダスキンさん家のワンちゃんだね。

 ジジ曰く、「ダス犬ちゃん、あなたさあ、尻尾がモップになってるけど、全身をモップにする覚悟はできてる?」

 トイレ掃除。



 余りにも熱心に拭くのでガラケーのカメラでは捉えきれない。

 掃除が終わったら歴史の勉強です。



 凄まじい集中力で勉強をするのでガラケーのカメラでは捉えきれない。

 さすが稲用さん家のワンちゃんだね。

 実はさっきの米沢城の記事はジジが書いたのです。

*     *     *


 米沢城を見学し、お昼ご飯も食べたので安心して旅を続けられます。

 米沢駅からは奥羽本線に乗り、かみのやま温泉駅で下車します。



 今度は上山城へ行きますよ。

 歩き出してほどなく、丘の上に天守閣が見えてきました。



 丘を登って到着。



 上山城は最上家と縁戚の上山氏の居城でした。



 天守の中に入れるそうなので期待してきましたが・・・

 あらら。





 そうだよねー。

 今日は12月30日だからさすがに開いていないですよね。

 仕方がないので天守閣を周りから見て留飲を下げましょう。

 線路方面を望見。



 ※やはり上山城でも遺構の観察はほとんどしなかったようなので、あれから19年も経ってしまいましたが、改めて上山城を考察してみます。

 この日は米沢から上山へやってきたのですが、上山城は山形盆地の最南端にあり、米沢盆地から山形盆地に侵攻してきた敵を迎え撃つには絶好の場所にあります。

 『日本城郭大系』によると、上山城が築かれる以前は、上山城から西方1.3kmの地点にある虚空蔵山に伊達家家臣の小梁川貞伴が高楯城を築いてこの地を治めていました。

 小梁川貞伴の高楯城は享禄元年(1528)に武永義忠の攻撃によって落城し、義忠は天文4年(1535)に上山城(月岡城)を築き移り住みました。

 しかし城跡の説明板を読むと、元々は虚空蔵山には羽州探題斯波兼頼の曾孫上山満長が居城していたようですね。

 その子孫を永正11年(1514)と同17年(1520)に伊達家が攻撃したというので、これが小梁川貞伴のことでしょうか。

 でも、説明板にはこの頃の城主は上山義房とあるので、満長の子孫の義房が城主だったときに、小梁川貞伴に攻められて落城し、それをまた享禄元年(1528)に武永義忠が奪還したのでしょう。

 そして月岡城を築いて移り住んだのは武永から上山に改姓した義忠ということでしょうか。

 つまり、高楯城から月岡城に移り住んだ上山の領主は、羽州探題斯波兼頼の子孫の上山氏が代々務め、それを伊達家が奪い、すぐに武永義忠が奪還したという流れになります。

 でも、この武永義忠という人物が何者かが分かりません。

 義忠という名前からして義房の子供のように思えますが、『戦国人名事典 コンパクト版』によれば、鶴岡城主武藤氏の一族とあります。

 鶴岡の武藤氏・・・

 本当かなあ?

 『陸奥・出羽 斯波・最上一族』によれば、永正12年(1515)、最上家当主義定は伊達稙宗の妹を正室に迎えて伊達家に屈服したあと、永正17年に没しています。

 義定没後すぐに、最上家一族や最上家に従っていた周辺の国衆が反旗を翻し、その筆頭が上山義房でした。

 ところが、上の説明板にもあるように永正17年のうちには上山城は伊達稙宗に攻められて落城し、稙宗は山形城に入城しました。

 このとき稙宗勢として上山城を落城せしめたのが小梁川貞伴でしょう。

 小梁川氏は陸奥国伊達郡小梁川を本拠とし、稙宗の臣下として活躍した親朝の盛宗は、伊達家第11代持宗の三子です。

 つまり伊達一族なのですね。

 貞伴は親朝の弟か子供だと思われます。

 さて武永義忠に話を戻すと、義忠は「Wikipedia」によると義房の子だそうなのでそれでいいとして、月岡城は伊達家の支配から逃れていました。

 ところが、元亀・天正の頃(説明板の「天亀」は間違いです)には伊達輝宗に散々攻められたようで、その頃上山満兼から里見民部(里見氏部は間違いでしょう)に城主が変わったようです。

 その後、関ヶ原合戦の後、最上家は57万石の大名として徳川政権の元で存続し、元和2年(1616)には最上義光の五男兵部光広が3万石で支藩主となります。

 しかしそれも短い命で、元和8年(1622)には最上家は改易となってしまいました。

 そして江戸期の上山城については・・・

 うーん、こう言ってしまうと書いた方に失礼かと思います、正直申してここまで説明が下手で誤字の多い説明板も珍しいですね。

 「革命」は「幕命」でしょうか。

 上山城の歴史についてはこの辺でやめておいて、城自体を良く見てみましょう。

 ①「日本古城絵図」所収「出羽上ノ山ノ城」(「国会図書館 デジタルライブラリー」)より加工して転載)



 当時撮影した写真はこのページに上げているものしかなく、今となってはどんな構造になっていたのかまったく思い出せません。

②「日本古城絵図」所収「出羽上山城図」(「国会図書館 デジタルライブラリー」)より加工して転載)



 だた、私が入ろうとして入れなかった天守は、1982年に建てられた模擬天守で、二の丸跡に建っているようです。

 そして本丸には月岡神社があります。

 当日、月岡神社に行ったような行かなかったような・・・

 もう記憶がありません。

③「諸国城郭絵図」所収「出羽国之内上山絵図」(「国立公文書館 デジタルアーカイブ」より加工して転載)



 もっと広域のこの絵図を見ると結構立派なお城ですね。

 でも現在見ることのできる遺構は本丸西側に西内堀のほか、土塁や石垣の一部、それに庭園だけのようです。

 せめて写真を沢山撮っておけば記憶が蘇ることがあるかもしれませんが、何しろ今のデジカメと違ってフィルムにも現像にもお金のかかる時代でしたからね。

 24枚撮りを入れて、大事に撮っていた時代でした。

 まあ、またいつか訪れることもあるでしょう。

 ということで、次は山形城です。

最上義光 (織豊大名の研究6)
竹井英文
戎光祥出版

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【出羽内陸部最北の前方後円墳は?】出羽国置賜郡(米沢市周辺)の古代史【「置賜」は何と読む?】

2017-09-23 18:11:07 | 歴史コラム:古代
 私の脳内では近世城郭旋風が吹き荒れていることはすでにお伝えしましたが、そんななか、米沢城をアップしたら米沢の古代史について調べたくなりました。

 講座などで東北地方の話をするときはどうしても奥州がメインになってしまい、羽州は薄くなりがちです。

 史料上の制約もあることにはあるのですが、米沢市がある置賜地方に関しては興味があってもまだ自分の脳内では整理が付いていなかったのです。

 なので、非常に簡単ではありますが、置賜地方の古代史をまとめてみました。

 1.置賜の古墳とヤマト政権

 米沢市のホームページに掲載されている「城下町 ぶらり歴史探訪」によると、戸塚山は米沢市大字浅川(市域の北東)にある標高356メートルの独立丘陵で、山頂から山麓に点在する195基の古墳が戸塚山古墳群として昭和61年に市指定史跡となっています。

 古墳群内でもっとも大きな古墳は山頂にある139号墳で、墳丘長54メートル、高さ4.5メートルを測る前方後円墳です。

 139号墳の東側には、帆立貝式古墳が2基(137・138号墳)あるのですが、137号墳(墳丘長24メートル)は昭和57年の発掘調査で竪穴式石室が調査され、組合式の箱形石棺からほぼ完全な人骨が見つかりました。

 この人骨を調べたところ、身長145センチほどの女性で、推定年齢は40~50歳、骨は細く華奢だったそうです。

 137号墳は5世紀の終り頃の築造ですが、この古墳群の面白いところは、前方後方墳も一基含まれていることから、古墳時代前期の4世紀には築造が開始されて、終末期に当たる7世紀頃まで延々と古墳の造営が続いたところです。

 つまり4世紀という早い段階で、米沢市域はヤマトの影響下にあったわけですね。

 さらに、出羽内陸部における前方後円墳の北限を追って行くと、戸塚山古墳群から北に約10.5kmの位置の山形県南陽市長岡に4世紀に築造された稲荷森古墳(墳丘長96メートル)があります。

 墳丘長が96mというのは4世紀の時点ではかなりの大きさで、東北地方の全ての古墳の中でも6位の規模です。

 稲荷森古墳も戸塚山古墳群と同様米沢盆地に所在しており、さらに北限をたどれば、山形県東村山郡山辺町大寺にある坊主窪古墳群の坊主窪1号墳(墳丘長27メートル)が出羽内陸部における最北端の前方後円墳となります。

 ただし、坊主窪1号墳の築造時期は6世紀なので、戸塚山古墳群や稲荷森古墳と同様に考えるのはやめた方が良いと思います。

 そのため、3世紀にヤマトにおいて発足したヤマト政権は、約100年の間に、米沢盆地まで影響力を伝播させたと考えて誤りないでしょう(陸奥側では大崎平野の江合川の流域が実質的な北限です)。



 ※墳丘長168メートルを誇る東北地方最大の前方後円墳・雷神山古墳(宮城県名取市):出羽の古墳の写真は一枚も撮ってないの、ごめんね。

 2.置賜地方と律令国家

 米沢地方は古墳時代の終末期には『日本書紀』にしっかりと登場するようになります。

 現在の米沢市周辺は奈良時代以降、置賜郡という行政区画となっており、明治11年には南置賜郡・西置賜郡・東置賜郡に分かれ、米沢町は南置賜郡に属しました。

 置賜は「おきたま」と読むのが一般的ですが、JR奥羽本線にある置賜駅は「おいたま」と読むことを鉄道マニアなら知っているかもしれません。

 一体、「おきたま」なのか「おいたま」なのかどっちなのでしょう。

 置賜の地名の初見は、『日本書紀』の持統紀3年1月3日の条で、西暦にすると669年に当たりますが、陸奥国優キ雲郡(「キ」は山偏に耆)の城養の蝦夷(きこうのえみし。朝廷に服属した蝦夷)である脂利古(しりこ)の息子・麻呂と鉄折(かなおり)の2名が出家した記事があります。

 優キ雲は、「うきたむ」と読め、これが時間とともに「おきたま」となり、ときには「おいたま」と呼ばれるようになりました。

 実は陸奥国がいつできたのかは判明していないのですが、『続日本記』によれば、出羽国も当初は和銅元年(708)9月28日に越後国から新たに出羽「郡」を作りたいとの言上があり、それを朝廷が許したことにより発足しています。

 そして和銅2年(709)以前には出羽柵が構築されていましたが、古代の東北地方においては、郡は安定地域に置かれる行政区画で、まだ不安定な地域には柵を置いて統治を始めるのです。

 そのため、ここからは私の推測になってしまいますが、このとき発足した出羽郡は庄内平野の中の最上川南岸地方で、出羽柵はまだ支配が不安定な最上川北岸地域に構築されたのではないでしょうか。

 『続日本紀』の和銅2年7月1日の条によると、蝦夷を討つため諸国から兵器を出羽柵に運ばせ、8月25日には征蝦夷将軍の佐伯石湯(さえきのいわゆ)と副将軍の紀諸人(きのもろひと)が征討を終えて都に帰っています。

 このときの征夷が果たして実際に行われていたかどうかは分かりませんが(パフォーマンスだけだったかもしれない)、もし蝦夷が騒動を起こしたための鎮圧をしたのだとしたら、前年に出羽郡を造ったことによる地元民の反発(税を取られるようになり自由を奪われる)や、その頃築造されたと思われる出羽柵に対する反発が騒動に発展した可能性が高いです。

 しかし、『続日本紀』の和銅5年(712)9月23日の条では、出羽郡は晴れて出羽「国」に昇格し、直後の10月1日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて体制が整っていることから、最上川流域の現地住民たちの騒動は鎮静化されたのでしょう。

 なお、この時の表記では「置賜郡」となっています。

 ところで、「置賜」の読みがこのようにいくつもあるというのは、もしかするとそもそもの地名がヤマト言葉では無くアイヌの先祖の言葉に由来したものだったからかもしれません。

 同様なケースとして陸奥国では767年に「伊治城」という城が築かれ、「これはり」と呼ばれましたが、その地域が安定した後は「栗原郡」が建置され、「くりはら」と呼ぶようになります。

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
宇治谷 孟
講談社
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【歴史活動・初期の記録その2(改) 米沢城】政宗は自らの居城にはあまり興味が無いのか?【1998年12月30日】

2017-09-23 15:41:02 | 歴史探訪
 今日は仕事とは関係ないことを一日中する日に設定し、完全な引きこもりDayにしています。

 今日の籠城用の兵糧は昨日のうちに搬入しているので兵糧攻めにも耐えられます。

 まあ、たまにジジと遊んだりはしていますが、概ね一日自由時間ですよ。

 そんなわけで、近世城郭ブームの続きとして、先日アップした米沢城の記事を改訂して再アップします。

 あ、そろそろビール飲もうかな。

*     *     *


 96年と97年の年末は立て続けに会津の鶴ヶ城を訪れましたが、今年(98年)は、ちょっと気分を変えて山形へ行ってみようと思います。

 なにしろ私は伊達政宗よりも最上義光の方が興味がありますからね。

 最上氏の居城であった山形城は絶対に訪れるとして、あとは山形へ行く途中の米沢と上山に立ち寄ってみましょう。

 東京駅から山形新幹線「つばさ」に乗車します。

 実は先日、三鷹駅のみどりの窓口に切符を買いに行ったところ、結構日にちが押し迫っていたこともあり山形新幹線はグリーン車しか空いていませんでした。

 出費が嵩んでしまいますが、背に腹は代えられません。

 グリーン車で行きましょう。

 ということで、「つばさ」のグリーン車のシートは右が2列で左が1列でした。

 1列の独立シート、なかなか座り心地が良い。

 おー、コーヒーもサーヴィスで付くんですね。

 仙台までは東北新幹線の線路を走りますが、仙台からは在来線の線路を走るんですね。

 しかし奥羽山脈のトンネルは長い。

 トンネルを抜けるとすぐに最初の目的地である米沢駅でした。

 乗車の記念に「つばさ」をパシャリ。





 米沢駅からテクテクと30分ほど歩き、米沢城にやってきました。



 ※ここからは絵図を元に米沢城の解説をしたいと思います。

*     *     *


 ①「日本古城絵図」所収「奥州米沢城」(「国会図書館 デジタルライブラリー」)より加工して転載)



 米沢城の中心は本丸の周りを二の丸が囲んでいる形態で、完全な平城です。

 本丸の規模は南北60間(108m)×東西75間(135m)ですので、鎌倉時代の武士の館と同等で、その周りの二の丸を合わせても非常にコンパクトなお城に思えます。

 二の丸東側の門は桝形になっており、南側の門は外側に馬出を設けていますね。

 面白いのは二の丸の北西の隅で、うまく仕切りを使って桝形のような構造にしているところです。

 本丸の南側も桝形になっていますが、二の門をくぐった先に空間を設けてもう一つ門を構えているところがチャームポイントではないでしょうか。

 米沢城がいつからあったのか確実なことは言えませんが、鎌倉幕府政所別当の大江広元の次男時広が当地の地頭職に補任されたタイミング(暦仁元年<1238>)で築城されたといわれています。

 時広は兄親広が承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇方に加わって失脚していたため、父広元が嘉禄元年(1225)に亡くなると大江氏を継いでいました。

 時広は当時鎌倉で活動していたため、当地には代官を派遣して統治させたはずですが、もしそのときに居館を建てるとなると、規模的には本丸の大きさがちょうどいいでしょう。

 時広は仁治2年(1241)に没し、嫡男泰秀が長井荘を継承します。

 それからしばらく長井氏の置賜支配が続きましたが、南北朝時代の末期、康暦2年(1380)に伊達宗遠が置賜郡の攻略に成功します。

 そして、米沢城が伊達家の本拠地となったのは、天文17年(1548)の時で、第15代晴宗の時です。

 晴宗は独眼竜政宗のお祖父さんで、政宗はここで生まれました。



 晴宗の統治以降、大町以下の城下町の形成が進んだようです。

 しかし、天下の独眼竜政宗の本拠地としては小さな城に見えますし、防御力も貧弱に思えるのですが、政宗は城に閉じ籠っているよりもガンガン外へ攻めに行くタイプなので、攻撃こそ最大の防御だったのかもしれません。

 ちなみに、政宗の終焉の地は日比谷公園内に説明板があります。



 9月10日に東国を歩く会で訪れています。



 そしてもう一つのちなみですが、伊達氏によって長井荘を追われた長井氏は、各地にあった所領の一つである東京都八王子市に逃れてきて、高乗寺(初沢町)や廣園寺(山田町)を建立して、1504年に伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされるまでの百数十年の間、八王子市周辺を治めていました。

 その当時の長井氏の本拠地は、我が家の近所にある初沢城だったと思われます。

 ②「諸国城郭絵図」所収「出羽国米沢城絵図」(「国立公文書館 デジタルアーカイブ」より加工して転載)



 図の東側に流れている川が最上川で、その内側に城下町の地割が見えます。

 いちばん外側の水堀は全周しておらず、西から南西部分は自然の川を堀と見立てていますね。

 西へ向かって一直線に向かう道の先には歴代米沢藩主の廟所があります。

 ③「日本古城絵図」所収「米沢図」(「国会図書館 デジタルライブラリー」)より加工して転載)



 こちらはもっと広く取った図で、福島県会津地方からはるばる山を越えてくると、この図に描かれている米沢盆地の南側に出てくることになります。

 天正18年(1590)に政宗が岩出山城に移ると、会津鶴ヶ城に入った蒲生氏郷の家老蒲生郷安が3万5千石で米沢城に入部しました。

 ちなみに、郷安は元々は赤座隼人という六角家の部将で、六角家が滅んだ後氏郷に仕官した人物です。

 氏郷が死に秀行の代になると朋輩との確執が深まり、秀行に寵愛されていた小姓の亘理八右衛門を殺害したことにより蒲生家を追放されました。

 その後は、関ヶ原合戦で死亡したとも伝えられていますが、確かなことは分からないようです。

 さて、慶長3年(1598)には、氏郷の跡を継いだ秀行が宇都宮に移り、鶴ヶ城には上杉景勝が120万石で入部、米沢城には景勝の側近である直江山城守兼続が入ります。

 兼続は城の一部を改修し、名前も舞鶴城と呼ぶようにしました。

 米沢城と鶴ヶ城との直線距離は49kmもあり、その間には深い山々が横たわっていますが、蒲生時代も上杉時代も米沢を会津の前線基地と位置付けているところが興味深いです。

 ところで、120万石という大大名となった景勝でしたが、それからわずか2年後には関ヶ原合戦の敗者としてここ米沢城に30万石に極端に減らされて入ることになってしまいます。

 収入が4分の1になった殿さまが家臣の城に転がり込んできたわけですね。

 翌慶長6年(1601)11月には景勝が入城し、それと同時の兼続は城の大改修を始め、外郭を囲む外堀も掘られました。

 『日本城郭大系』によると、米沢城の西南西約3kmの地点にある羽山(②図の西側に描かれている)の丘陵先端部分には館山城という別個の城があったのですが、兼続はこれも米沢城の一部に取り込んでおり、矢来という地名は館山城の二の丸土手の外側にあった矢来の名残です。

 なお、江戸時代を通じて天守は築かれず、①図で見ると本丸の北東と北西に3階建の櫓が見えますが、これらが最も高い建物だったようです。

 景勝以降、上杉家が代々城主を務めたため、奥御殿跡には上杉謙信を祭神とする上杉神社があります。

 米沢には来たことがないであろう景勝の叔父謙信の銅像。



 ※この時の探訪ではまったく城の遺構(堀など)を撮影していないので、まだ城の見方がよくわかっていなかったのでしょうが、探訪の記録の続きを記します。

*     *     *


 お腹が空いたので上杉城史苑で奮発して米沢牛ステーキを食べます。

 ※註:ちなみにこの次にブランド牛のステーキを食べたのは今年(2017年)新婚旅行で伊勢に行ったときに食べた松阪牛のステーキです。実に19年ぶりのブランド牛のステーキでした。

 米沢駅まで戻りますよ。

 相生橋から最上川を見ます。



 冬の最上川は寒々しい・・・

 雪の降る中、30分ほど歩いて米沢駅に到着。 



 つづいて上山城を見に行きましょう。

 ⇒上山城の記事はこちらです
 
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【歴史活動・初期の記録その1(改) 会津・鶴ヶ城】城の面白さに目覚めた記念すべき城郭【1996年12月30日】

2017-09-23 12:25:05 | 歴史探訪
 先日、江戸城を詳しく探訪したことにより、異様に近世城郭が楽しくなってきました。

 ここ十数年はずっと中世城郭を追いかけており近世城郭にはあまり興味が無かったのですが、もともとお城が好きになったきっかけが会津の鶴ヶ城だったこともあり、江戸城探訪のお陰でそのときの「ときめき感」を思い出してしまったようです。

 そのため、今日はもう21年も前に訪れた鶴ヶ城について復習してみようと思い、少し前にアップした鶴ヶ城の記事を改訂してみます。

*     *     *


 1996年12月30日、岩手県北上市へ向かう途上、会津の鶴ヶ城を見学しました。



 当時はまだデジカメが普及していなくて、携帯電話もカメラ機能などは無いPHSが主流だった時代です。

 私はインスタントカメラを片手に城内を走り回りました。





 ※この案内図は北が下なのでご注意ください。

 確かこの日は、タクシーで鶴ヶ城へ来たと思います。

 上の案内図の「現在地」を見ると、北出丸に進入して、追手の桝形に入ろうとしているところのようです。

 既述した通り、小学校6年生のころから戦国時代が好きだったので、そうなると自然に城へ興味が行きそうなものですが、たまたま実際のお城を訪れる機会がなかったためか、この時まで特に興味を抱いていませんでした。

 でももしかすると、心の中にはずっと城への興味が知らないうちに潜伏し続けていて、それがこの時噴出したのかもしれませんね。

 城壁の内側に左右に分かれて登る階段があって面白いなあと思ったのですが、これは大手門である太鼓門の渡櫓や帯曲輪の石垣の上に速やかに兵を展開するための工夫です。



 城内をどんな順序で駆けずりまわたっかは今となってはもう分かりませんが、本丸に3つある隅櫓のうち、茶壷櫓の堀にせり出した部分から二の丸との間に架かる廊下橋を望んで喜んでいたようです。



 これは横矢が効いていますね。

 一応、こういうアングルの写真を収めているということは、知識は薄いながらも防衛の観点から見ていたのかなあと思います。

 これは「荒城の月碑」が建つ月見櫓でしょう。



 この郷愁ただよう写真が好きで、当時のホームページのタイトル画像に使っていました。



 なお、このとき見た(登った)天守は昭和40年(1965)に再建された鉄筋コンクリート造りの建物で、中は「若松城天守閣郷土博物館」になっており、白虎隊士の肖像画なども展示されています。



 現在の天守は、平成23年(2011)に竣工したもので、瓦の色が赤だった本来の姿で復元され、このときとはだいぶ雰囲気が違っていますよ。

 この探訪から3年後に生まれた娘は、城マニアではないのですが新選組を追い駆けていることもあり、数年前に会津に行き鶴ヶ城も見てきたようです。

 とにかく、城壁に登ったり降りたりしながら走り回り、気が付くとだいぶ陽が傾いており、周りには観光客の姿がほとんど見えなくなっていました。

 後で思えば、このとき走り回った鶴ヶ城は近世の城郭なので、その後ライフワークとなる中世城郭巡りの対象とは違うのですが、そういう理屈抜きに城は面白いですね。

 今では中世城郭にこだわることなく、古代の山城から近世の城郭まで全時代の城に興味を持つに至っています。

 ところで、「国会図書館デジタルライブラリー」では著作権の切れた本を読むことができるのですが、その中に「日本古城絵図」というものがあり、鶴ヶ城の絵図もありましたので、それを加工したものを転載します。

 ①鶴ヶ城全体図その1



 この図では内郭(本丸・二の丸・三の丸)の描写に主眼があって、外郭はかなり大ざっぱですね。

 ②鶴ヶ城全体図その2



 こちらの図はきちんと外郭まで描かれていますね。

 地形的には東側が台地続きなので、そちらには二の丸と三の丸を梯郭式に構築して備えを厳重にしています。

 鶴ヶ城を最初に築いたのは蘆名直盛で、蘆名氏は鎌倉幕府で重きをなした相州三浦氏一族佐原氏の流れです。

 『日本城郭大系』によると、文治5年(1189)の源頼朝による藤原泰衡討伐の功により佐原十郎左衛門尉は会津の地を恩賞として拝領しました。

 3代目の光盛のとき、相州三浦郡蘆名の地名を取って蘆名氏を称し、康暦元年(1379)には7代目の若狭守直盛が会津に下向します。

 当初は鶴ヶ城の西方3kmにある幕内に3年、ついで鶴ヶ城の西方2kmの古館(通融寺町城安寺)に2年間滞在し、至徳元年、会津郡門田荘黒川の丘陵上に築城して移り住み東黒川館と称しました。

 東黒川館は天文7年(1538)に焼失してしまい、同12年には大々的に修築し規模が拡張したため、その後は黒川城あるいは小高木(小田垣)城などと呼ばれるようになります。
 
 この蘆名氏が居城としていた時代は、現在見られる内郭(本丸・二の丸・三の丸)のみの規模で出丸も造られておらず、大手は東側にありました。

 そして戦国末期、ごく短期間の伊達政宗の所有を経て、天正18年(1590)には蒲生氏郷が入部してきて、上の説明板の写真でも分かる通り、2年後の文禄元年(1592)には外郭部分を造り、地名も若松と改め、城の名も鶴ヶ城と呼ぶようになったのです。

 氏郷は秀吉の命により対政宗の布石として91万石(当初は42万石だったが改めて検地し加増もあり91万石となる)の大大名として会津に移ってきたのですが、中央から遠ざけられてしまったことにより出世の道(うがった見方をすれば天下を取る夢)が断たれたと落胆したそうです。

 ところが、氏郷は翌年没してしまい、子の秀行は慶長3年(1598)には宇都宮に転封になり、代わって上杉景勝が入部したものの、これまた慶長5年(1600)の関ヶ原合戦が終わった後、再度蒲生秀行が60万石の城主として返り咲きます。

 秀行の妻は家康の三女振姫なので、家康からしたら婿は優遇したいのでしょう。

 しかし、秀行の跡を継いだ子の忠郷は寛永4年(1627)に痘瘡で亡くなってしまい嗣子がおらず断絶、秀吉子飼いの数少ない生き残りである加藤嘉明(賤ヶ岳七本槍の一人)が43万石で伊予松山から移ってきました。

 嘉明は永禄6年(1563)生まれなので、このときはもう65歳です。

 老齢になってからの転封は堪えたのでしょうか、嘉明は4年後の寛永8年(1631)に没してしまい、子の明成が継ぎました。

 ③上図の本丸部分拡大図



 城郭は防衛の観点から城門は少ない方が良いです。

 本丸には3つの出入口があり、東側は二の丸方面に開口した門(氏郷入部以前の追手門)で、北と西にも出入口を設けており、そちらは両者とも出丸が構築されていますね。

 出丸というのは馬出(うまだし)とも言い、城門の外側に設けた小さな曲輪(ときとして巨大な場合もあります)のことで、城内の兵が城から打って出る際に軍勢が一時的に待機する場所で攻撃的な構えの空間なのですが、北出丸・西出丸ともに門の内側は桝形になっており、攻撃的でありながら合わせて防御力も高めています。

 両出丸ともに寛永16年(1639)の加藤明成による構築ですが、平和な江戸時代に攻撃的な構えを新たに造ったというのは面白いですね。

 出丸が造られてからは北出丸が大手口となり、大手門(太鼓門)へ至るメインのルートは北出丸の東側の門を通っています。

 『日本城郭大系』によると、鶴ヶ城の桝形のほとんどは追手門を含めて一の門(外側から入る一つ目の門)がなく、追手門は裸雁木石土居となっており、西門の二の門は本来の渡櫓門ではなく棟門になっていました。

 明成の代に現在見ることのできる鶴ヶ城の形が完成したわけですが、明成は寛永20年(1643)に改易となり、ついで保科正之が出羽山形から23万石で入部します。

 正之は徳川秀忠の庶子で、名君の誉れ高い人物です。

 蘆名氏が滅亡して以降、寛永20年の正之の入部までは、今まで見てきたように数年ごとに大名が変わるという非常に落ち着かない状況が続き、こういう状況だと町の発展にも影響が出て現代にまでそれを引きずることがあるのですが、正之以降は幕末まで安定しました。

 正之から数えて3代目の正容(正之の六男)は、元禄9年(1696)に松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を許され徳川一門に列し、9代目の容保(かたもり)の代に幕末の動乱に遭遇します。

 慶応4年(1868)5月、天下統一を目論む薩長を中心とした西国大名の東進に対して、東北と新潟の34の藩は奥羽越列藩同盟を結成しますが、団結力も軍事力も弱く、会津軍は8月21日に会津領の石筵口(母成峠)の戦いで敗れ、翌々日には鶴ヶ城での籠城戦が開始されました。

 籠城戦は約1ヶ月続いたのですが、このときに白虎隊の悲劇や薩長に凌辱されることを拒んだ婦女子の集団自決などがあり、9月22日には会津藩は降伏して鶴ヶ城は開城となりました。

 なお、このときの籠城戦の最中、鶴ヶ城を攻めた大山巌は東南にある小田山の頂上から当時最新式であった4ポンド砲を天守に何発もぶち込みましたが、天守は焼失・崩壊を免れています。

 相当丈夫だったんですね。

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)
吉川弘文館


 ⇒このつづき(米沢城)はこちら
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【なんとなく遠野へ その2】岩手県遠野市・鍋倉城【2000年5月4日】

2017-09-21 22:30:49 | 歴史探訪
 またまた過去記事を再掲します。

 2000年5月4日の遠野探訪の続きです。

 このときの旅で一層遠野や阿曽沼氏にのめりこんで、その興奮状態をホームページにアップしていたことがきっかけで、遠野のとらねこさんと知り合いました。

 当時は阿曽沼氏についてあれこれ話ができたのは、とらねこさんだけでしたが、あれ以来、阿曽沼氏に興味がある方とは全然出会いませんね。

 ただ、当時のホームページに阿曽沼氏について調べたことをまとめた記事を載せていたのですが、ご子孫の方からメールがあって、「子孫の集い」のようなものをするので、そのときに教材として参加者に配りたいから許可を欲しいというのはありました。

 阿曽沼氏の歴史調査は一段落していますが、今後改めてする機会もあると思います。

*     *     *

 横田城から遠野駅まで歩いて戻ってきました。

 結構歩いたので腹が減った感は否めません。

 食料品店を探していると、遠野駅のそばで蒸気機関車を発見!


写真1 クラウス17号

 このSLはクラウス17号といって、明治22年(1889)にドイツで製造されて、九州鉄道、東京横浜鉄道、北海道の鉱山などで働き、大阪万博にも参加し、昭和61年(1986)まで遠野で走っていたそうです。

 鍋倉城跡へ向かう途中、食料品店でパンを買って食べながら歩きます。

 鍋倉城跡へは遠野駅から南に延びるメインストリートを進んでいけば辿りつけます。

 鍋倉城跡は現在「鍋倉公園」となっており、公園の入口の左手には市立博物館と図書館、入口から少し石段を登ると南部神社があります。


写真2 南部神社

 遠野はGWが桜の見頃ですが、こう天気が悪いと綺麗な写真が撮れなくて残念です。

 さて、ここで鍋倉城跡の略図を示したあと、各部の「面白ポイント」を紹介しましょう。

 なお、略図は公園入口の脇に立っている案内板をもとに作成しました。


写真3 鍋倉城略図
結論先取りで言っちゃうと鍋倉城は山城だが公園として整備されているのでとても歩きやすく、案内板も多く建っており昔の遺構も残っているのですごくエキサイティングな城跡です。

 南部神社の社地より南に向かって石段が延びています。


写真4 頂部を見上げる

 石段を登って南部神社より一段高い郭に来ました。

 振り返ると、遠野駅が見えるじゃないの。


写真5 中腹より遠野駅を望む

 おもいっきり景色がくすんでいるが、写真の真中に遠野駅が写っています。

 さて、ここから更にもう一段高い郭に登ります。


写真6 本丸への石段

 さらに石段を上っていくと、大手門跡を通って本丸に、左にいくと三の丸に出ます。

 まずは、本丸へ行ってみましょう。

 本丸は結構広々としていますね。

 大手門跡から入ってウロウロしていると、搦手門跡の脇に土塁を発見!


写真7 搦手門跡の土塁

 この土塁は、写真左へ向かって数十メートル延びています。

 いいねえ。

 本丸の南側から下におりて、本丸を取り囲むように走っている通路に出ました。

 そこを西に向かって歩いていくと・・・


写真8 空堀

 おーっ!空堀だー!

 これは往時の佇まいを今に伝える貴重な遺構です。

 やっぱり、土塁と空堀を見ることは城めぐりの醍醐味ですね。

 往時はこの土塁に沿って老杉の大木の並木があり、堀の外側から内部の様子を窺い知ることができないようになっていたといいます。

 また、その他の防御施設としては、北側の谷地に「水留めの堀」があり、西側斜面は「イバラ」や「カラタチ」などのトゲのある植物を植えて外敵に備えていたそうです。

 さらに私は、その空堀を左手に見ながら澤里屋敷跡を目指します。

 澤里屋敷跡は本丸よりも低い位置にありますが、独立した郭になっていてとても見晴らしがいいです。


写真9 澤里屋敷跡からのヴュー

 しかし、今日は天候不順のため、こんなヴューになってしまった・・・

 晴れていればよかったのに・・・

 ここからはもと来た道を戻って東側の三の丸へと向かいます。

 三の丸には「なべくら展望台」があって、展望台の中に入ると遠野の景色を眺めながら音声再生装置で遠野の民話を聞けるようになっています。

 流石「民話のふるさと」です。

 ところで、このBGMは姫神の作曲でしょうか?

 三の丸から本丸を見上げてみます。


写真10 三の丸より本丸を見上げる

 三の丸から本丸を見上げても結構な高さがありますが、本丸の標高は343メートルで、市街地との比高差は78メートルあります。

 以上、このあたりで鍋倉城跡の紹介を終えますが、今まで紹介した以外にも八幡神社跡や全長200メートルにも及ぶ馬場の跡など見所は多い。

 総じて、鍋倉城跡はお勧めの城跡です。

 遠野へ行く機会があったら、是非登ってみることをお勧めします。

*     *     *

 さて、つづいて私は昼食を摂りに鍋倉城の近くの食堂に入りました。

 ひっつみ定食があったので注文してみます。

 城めぐりの後の食事は旨いねえ。

 また、山菜のてんぷらも美味しい。

 雨がかなり強くなってきました。

 帰ろうと思って駅に向かって歩いていると一件の本屋を発見。

 私は旅先で本屋を見つけると必ず立ち寄って郷土出版物を探すことにしています。

 店に入ってみると、絶版と聞かされていた『遠野市史』の第一巻が売っていました。

 値段は7000円。

 古書店ならもっと安く買えると思いましたが、遠野に来た記念にゲット(後で知りましたが、自治体史は古書だともっと高い場合があります)。

 そして、お店のご主人に何気なく「阿曽沼氏関係の資料を探しているんですが・・・」と話し掛けたところ、「それなら知り合いに研究している人がいるので紹介するよ」ということで、早速その方に電話をかけてくれました。

 しかし残念ながら、その方はお孫さんの所に遊びに行っていて留守でした。

 そうしたらご主人は家に戻っていって、「こんなのでよければ」と、2冊の古い書物を持ってきてくれました。

 2冊とも一般売りしていない書物で、大正9年と昭和27年に書かれたものでした。

 なんでもそのご主人のお父さんの遺していった書物だそうで、ご主人に許可を取ってお店で複写させていただきました(本当に貴重な書物をコピーさせて頂きありがとうございました)。

 ※註:この本屋で手に入れた本は阿曽沼氏について研究している私にとっては今でも宝物の一つですが、知りたいと強く思っていると、必ずそれについて書かれた本と出会うことができるという強い思いで今まで私は貴重な本とたくさん出会ってきています。

 さて、有意義な時間を過ごしたあと、酒屋で遠野の地ビール「ズモナビール」を購入して私は帰途についたのです。

 そして帰りは途中下車して飛勢城に立ち寄りました。

 ※註:鍋倉城には2003年の5月と11月に再訪し、計4回探訪しています。

 ※註:阿曽沼氏の初代広綱までの系譜と遠野入部のいきさつについては、こちらに簡単に書いてあるのでご覧ください。

 ※註:遠野の歴史や城館跡については、遠野のとらねこさんのブログ『「じぇんごたれ」遠野徒然草』をお薦めします。

岩手県の歴史 (県史)
細井 計,菅野 文夫,鈴木 宏,伊藤 博幸
山川出版社



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【なんとなく遠野へ その1】岩手県遠野市・横田城&阿曽沼公歴代碑【2000年5月4日】

2017-09-21 21:56:16 | 歴史探訪
 今回も過去のルポルタージュの再掲です。

 2000年度GWの城館跡探訪の2日目は岩手県の遠野市へ行ってきました。

 当時は、北上市の中世領主であった和賀氏の調査を始めた頃ですが、同時に遠野の中世領主であった阿曽沼氏への興味が湧いてきた時期でした。

 私はみんなが知っているようなメジャーな戦国大名より、あまり知られていない戦国領主に惹かれてしまうのですが、それに加えて、和賀氏も阿曽沼氏も近世に大名として存続することができなかった、いわば「滅亡した家」なわけです。

 滅亡に美学を感じるというと退廃的な感じがすると思われてしまいそうですが、歴史は勝者が作るわけで、滅んでしまった人たちのことを調べて、真実の歴史を探求するような姿勢がいつの間にやら身についてしまいました。

 負けた方はいつでも悪者にされちゃいますが、それは本当に事実だろうか・・・

 そんなこともあり、阿曽沼氏に興味を持った私は遠野へ出張ったわけです。

*     *     *


 2000年度GW城館跡めぐりの2日目も北上市からの出発です。

 村崎野駅6時36分発の東北本線に乗り、花巻駅で釜石線に乗り換えて遠野を目指します。

 遠野に行く途中、鱒沢館や谷地館など、横田城同様気になる館跡があります。

 しかし、天気予報によると今日は晴れているのは朝のうちだけのようなので、遠野へ直行して優先順位の高い横田城跡を訪れることにします。

 遠野駅には8時20分ごろ到着。

 運賃は950円。


写真1 遠野駅

 北上より少し寒く感じますが、晴れていて気持ちいいぞ。

 道路地図を頼りに横田城を目指します。

 駅の西側の踏切を渡ってすぐ、早瀬川に架かる下早瀬橋を渡ります。


写真2 下早瀬橋より北側を望む

 橋を渡ったあとしばらく直進し今度は左折。

 さらに遠野バイパスを渡って北へと歩きます。

 つづいて猿ヶ石川に架かる登戸(のぼと)橋を渡ります。


写真3 登戸橋

 前方にみえる山々の麓が城跡なんだろうな。


写真4 正面の丘が横田城跡
この時点で空模様がかなり怪しいね

 ようやく前方の山の入口に「横田城跡」と書いてある大きな看板が見えてきました。

 遠野駅を出てからここまで約35分。

 もうすぐのようです。

 看板の前で、どこから入っていくんだろうかとウロウロしていると、犬の散歩で通りかかったご婦人が入口を教えてくれました。


写真5 横田城跡入口

 一目見て「観光客態」な私は、ご婦人にお礼を言って教えられた方に歩いていきます。

 すると、親切に階段が整備されている登り口を発見。


写真6 横田城跡登り口

 脇にある説明板には、10分ほど歩くと薬師堂があると書いてあります。

 とりあえず登ってみよう。

 少し登ると、10分どころか、2~3分で薬師堂が見えてきました。


写真7 薬師堂の遠望

 登り道は右側が下り斜面になっていて、左側は林になっていますが、歩く左側で「ワサワサッ」と草がすれる音がして、何者かがいるような感じがします。

 歩いていると、その音も一緒についてくるような気が・・・

 しかし、姿は見えない・・・

 何者かに見張られているのか!?

 しかし、忍者だったら音は立てないよな。

 気味が悪いので足を速めます。

 まさか熊じゃないよね!

 かくして、私は小走りで薬師堂に到着しました。


写真8 本郭跡の薬師堂

 お堂は壊れかけています。

 なんだか気味が悪いなあ。

 城跡って、人畜無害そうな佇まいを見せる公園になっているところは別として、なんだか独特な雰囲気の場所が多いですよね。

 (薬師堂の建っているここの平坦地は、今は木々が生い茂って林になっていますが、後で『遠野市史』の口絵の写真を見てみたら、昭和40年代は木々が伐採されていて草地になっていました。)

 ここに来るまで、『日本城郭大系』に書かれているとおり何段かの平場がありました。

 往時はそれぞれの平場に屋敷などが有ったのかもしれません。

 城跡の平場から鍋倉城跡の展望台が見えます。

 直線距離で3キロ弱。


写真9 平場より鍋倉城を望見
写真だと展望台など見えないと思うが肉眼ではきちんと見えたぞ

 もと来た道を歩いて入口まで戻ってくると、パラパラと雨が降ってきました。

 横田城は観音山の東裾野の末端に位置し、東側には沢があり、西側は今は水田になっています。


写真10 西側水田

 さらに、空堀もあるそうですがそれは未確認です。

 ※註:2003年11月の探訪で後背部の空堀を確認しました。

 私には写真10の水田が堀跡に見えてしまいます。

 そして、城の正面(東から南にかけて)には猿ヶ石川が流れ、城跡と猿ヶ石川との間は水田地帯となっています。

 昔はこの猿ヶ石川が氾濫したことが度々だったそうです。

 雨が少し強くなってきたようだ。

 しかし、折角ここまで来たのだから、ここより南の方角にあるという「阿曽沼公歴代碑」には是非とも行ってみたい。

 てくてくと6~7分歩くと阿曽沼公歴代碑に到着しました。


写真11 阿曽沼公歴代碑

 400年近くの永きに渡り遠野を統治してきた阿曽沼氏のことなので、もう少し多くの墓石などが並んでいる姿を想像していた私としては、この歴代碑を見て少し寂しい気がします。

 しかしそれでも、地元民や御子孫の方々が頑張って作られた碑です。

 これからも大切にして欲しいと切に思います。

 ※註:この日は五輪塔を詳細に確認することはしませんでした。この歴代碑が阿曽沼家の誰を供養したものなのかご存知の方がいらっしゃいましたらぜひ教えてください。

 阿曽沼公歴代碑を見終えて遠野駅に向かって歩いていると、雨が本降りになってきました。

 我慢できず傘をさします(ちなみに、近くに江戸時代の「女性殿様」である清心尼の墓碑もありますが今回は訪ねませんでした)。

 少し歩くとカッパ淵がありました。

 そうそう、遠野といえばカッパと座敷わらしだもんな・・・

 ※註:当時の私の遠野に対するイメージはこの程度でした。

 ここに住んでいた太郎という名のカッパは、川に洗濯に来る女性に悪戯していたといいます。

 そういった太郎の行動にやきもちを焼く、「彼女カッパ」も一緒に住んでいたそうですが、惜しいことに彼女の名前は伝わっていません。

 また、太郎の子孫についての系譜も不明です。

 このあと私は、車の往来は激しいが歩行者などは殆どいない街道を、鍋倉城に向かって黙々と歩いていきました。

 ※註:横田城には2003年の5月と11月に再訪しました。

 ※註:阿曽沼氏の初代広綱までの系譜と遠野入部のいきさつについては、
    こちらに簡単に書いてあります。

 ※註:遠野の歴史や城館跡については、遠野のとらねこさんのブログ
    『「じぇんごたれ」遠野徒然草』をお薦めします。

岩手県の歴史 (県史)
細井 計,菅野 文夫,鈴木 宏,伊藤 博幸
山川出版社


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【ちょっとだけ北上の館跡めぐり その2】岩手県北上市・黒岩城【2000年5月3日】

2017-09-21 18:57:10 | 歴史探訪
 2013年の夏ころに、昔やっていたホームページ「奥州城壁癖」の復刻版をアップしていたのですが、個人的にちょっとあって復刻計画は頓挫したままです。

 今回は初期のころの探訪記事を再アップする一環で、そのときアップしていたものを文面を修正して再びアップします。

 何しろ17年も前の探訪なので物足りないと思いますが、興味のある方はお読みください。

*     *     *


 小鳥崎館をあとにした私は、北上川に架かる日高見橋を渡って黒岩方面へと向かいます。

 30分ほどペダルを踏んで、往時の黒岩城の城域に南から入ります。

 「馬場前」という名前のバス停がありますよ。

 昔ここにはその名のとおり馬場があったのでしょう。

 さらに進むと、道端に「県指定史跡白山神社跡」という標識が控えめに立っています。

 それならば、まずは白山神社から行ってみることにしますか。

 標識を頼りに進んで行くと目の前に小山が見えてきました。


写真1 白山神社遠景

 小山の麓の鳥居のそばまで行くと、「白山神社の由来」という案内板が立っています。

 それによると、平安時代このあたりに白山寺という寺があり、その鎮守として白山神社が栄えたそうです。

 そして、鎌倉時代に和賀氏が黒岩に本拠を定めると、白山神社を総鎮守として保護したということです。

 ※註:北上市内の北上川東岸には古代寺院が密集しており、白山廃寺のほかにも横町廃寺・大竹廃寺・国見山廃寺があります。探訪当時は古代寺院には興味がなかったのですが、現在は平安時代の奥州にも興味があるので北上市内の古代寺院についてももっと知りたいと思っています。


写真2 白山神社入口

 ここまで来たにも関わらず、天候を慮って少し焦っているので(いつ雨が降り出すかわからない状況なので)、社殿の場所へは登らずもと来た道を戻って黒岩城へ向かいます。

 北へ向かって注意深く進んでいくと左側に「和賀氏ゆかりの地 黒岩城跡」と書かれた白い標柱を発見!

 ちょうど、近くの家からご婦人が出てきたので声をかけてみると、標柱の脇の小道を指して、「そこから入っていくとお稲荷さんがあって、そこが館の跡だよ」と教えてくれました。

 さらに、「そこの脇の家のおじいさん、話し好きだから、訪ねていくといろいろ教えてくれるよ。あとで行ってご覧」とも教えてくれました。

 ※註:この時は筆記用具を持っておらず、また既述した通り天候も気になっていたので、件のおじいさんの家にはまた後日来ようと思って行きませんでしが、それ以来再訪していないのでこの時行かなかったのが悔やまれます。このことがあって以来、城館跡めぐりにも筆記用具とノートは持参するようになりました。

 ご婦人に言われた通り標柱の脇の道を上がっていくと、すぐに主郭跡(千曳城)にたどり着きました。


写真3 主郭跡その1

 黒岩城は、すぐ西側の断崖の下を流れる北上川から比高約30メートルの台地上にあり、城域は東西200メートル・南北500メートルという広大なもので、主郭はその北側の北上川に少し張り出した部分にあります。

 主郭には現在民家と畑があって、その真中に稲荷神社があります。


写真4 主郭跡その2

 主郭と東側との比高差はそれほどありませんが、城域の東側に広がる湿田が水堀の役目を果たしていたことでしょう。

 『日本城郭大系』には空堀跡が残存すると書いてあるので主郭の周りを歩いてみると、南側に空堀の跡らしきものを発見しました(後日、『和賀一族の興亡(総集編)』の図を見てみたところ、そこには書かれておらず空堀ではないような気がします)。


写真5 空堀跡か?

 さて、主郭を見終えたので、その周辺を少し見てみようと思います。

 主郭の南側には多田姓和賀氏の菩提所の正洞寺があります。

 ※註:正洞寺のある場所も城内の郭の一つです。


写真6 正洞寺
多田姓和賀氏の菩提寺

 正洞寺の南側に東西に道が走っていますが、この道は往時の堀切ではないでしょうか。


写真7 正洞寺南側の道
東側から北上川の流れる西側を見下ろしたところで、右側に写っているのが正洞寺の墓地

 次に、写真7の坂を下って右折し川沿いを北上してみます。

 今日の北上川は連日の雨で増水しており、川岸間際のサイクリングロードは冠水のため通行禁止になっています。

 少し走って右に90度近く曲がるカーブを曲がったところで城地を振り返ってみると、断崖絶壁の上に城があったことがよくわかります。


写真8 黒岩城を北側から見る

 また雨が降り出してきた。

 確か予報では雷注意報も出ていました。

 田んぼの真ん中で雷に会うのは非常に怖いので今日はこの辺で終わりにして急いで家に帰ろうと思います。


写真9 帰りがけに眺めた二子城(飛勢城)
二子城は城の南側の田園地帯からはどこからでも見れる

 ■黒岩城の歴史

 苅田氏系和賀氏の黒岩への入部

 「和賀氏」と一言で呼んでも、その実はそう単純ではありません。

 和賀氏には大きく分けて2系統あり、1つを「苅田氏系」、もう1つを「多田氏系」といい、苅田氏系の初代・和賀義行が和賀郡へ入部したのは貞応3年(1224)から仁治4年(1243)の間で、多田氏系はかつては平安時代という説がありましたが、事実は南北朝時代でしょう。

 苅田氏系和賀氏は奥州へ下向した当初、更木の梅ヶ沢城に入ったという説と、黒岩城へ入ったという説があります。

 そして、その後の応永年間(1394~1428)に二子城(飛勢城)へ入ったとされています。

 苅田氏系和賀氏の最初の入部地としては、『和賀一族の興亡(総集編)』でも述べられているとおり、梅ヶ沢城は立地や構造を見ても拠点城郭として相応しくなく、『小田島系図』にも書かれているように、黒岩城こそ最初の居城として適当でしょう。

 そしてその時点では黒岩城は岩崎塞と呼ばれていました(和賀川沿いの岩崎城とは違いますよ)。

 城域の南側に元館と呼ばれる地域があり、名前からするとそこが黒岩城の最初の部分であると思われます。

 『和賀一族の興亡(総集編)』では、元館は面積が狭く、空堀の設定に新しさを感じることから、最初の部分ではないとしています。

 しかし、地名を尊重すると、やはりそこが最初の部分、いわゆる岩崎塞ではないでしょうか。

 空堀の新しさは後世の改変のためとも考えられます。

 史料に現れる黒岩

 応安3年(1370)10月8日、黒岩郷内の和賀左近将監跡を鬼柳式部大夫へ譲る旨の書状が残っています(『只野文書』)。

 『北上市史(2)』によると、鬼柳式部大夫は鬼柳伊賀守の子五郎で、黒岩へ移った後、黒岩五郎と称しました。

 鬼柳氏は苅田氏系和賀氏の一族です。

 『北上市史(2)』では、和賀左近将監は苅田氏系ではなく多田氏系の和賀氏で、他の文書にも出てくる多田左近将監と同一人物であるといいます(ただし、『和賀一族の興亡(総集編)』では別人としています)。

 しかしそうだとすると、黒岩には貞応3年(1224)から仁治4年(1243)の間に初めて苅田氏系の和賀義行が入部したはずなので、その子孫がいつのまにか多田氏系になっていたということになります。

 これはどういうことでしょうか?

 また、この頃和賀左近将監は黒岩を全て所領していたわけではなく、『鬼柳文書』によると、「□経義」という人物も一部領していたということです(『北上市史(2)』では□を源としている)。

 なお、この相続の時「黒沢尻殿」が相続に反対しています(『鬼柳文書』)。

 苅田氏系和賀氏である鬼柳氏が黒岩を領した場合、黒沢尻氏には不都合な点があったということだが、黒沢尻氏が反対した理由は不明です。

 その後の黒岩城

 既述した通り、応永年間(1394~1428)、和賀宗家は黒岩城から二子城へ移ったといいます。

 この時点で、苅田氏系と多田氏系の融合はかなり進んでいたようです。

 『北上市史(2)』によると、15世紀後半、和賀弾正頼重が黒岩城に居住しました。

 また、その孫の光重も居住しました。

 『和賀一族の興亡(総集編)』によると、永禄年間(1558~70)に和賀氏宗家義勝(義治)の嫡男義信(別の書では二男説もあり)が現在主郭(千曳城)といわれている場所に入り、黒岩月斎と名乗りました。

 月斎は盲目だったため、宗家を継ぐことができず黒岩へ入部したのでした。

 『小田島家記録』によると、その際、御会釈座の小田島主殿が城内の片月館に、家臣の工藤氏が元館に居住していました。

 『和賀御分限録』(『北上市史(2)』所収)によると、月斎が黒岩へ入部する際、小田嶋(島)主殿頭はそれまで領していた平沢から立花にかけての土地を召し上げられ、飯豊村・藤倉寄・下西嶺に替地をもらい、居館のみは城内の片月館とし、そこに居し月斎を後見しました。

 なお、この時小田島雅楽と川原田源蔵も領地替となり、雅楽は広忠の稗貫氏入嗣に供して和賀を去り、源蔵は阿曽沼氏との国境付近の土地をもらっています。

 黒岩城は天正18年(1580)の豊臣政権による奥州仕置の際に上方軍に抵抗したという伝承があるようだが、実際戦ったとしても、彼我の兵力差からして戦いらしい戦いにはならなかったと想像できます。

没落 奥州和賀一族
小原 藤次
文芸社

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【ちょっとだけ北上の館跡めぐり その1】岩手県北上市・小鳥崎館【2000年5月3日】

2017-09-21 18:35:49 | 歴史探訪
 私は昔、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。

 先日来、生まれて初めての歴史めぐりから順に復刻していきましたが、今回からその続きとして2000年のGWに行った岩手県北上市と遠野市の館跡をご紹介します。

 このときめぐったのは合計5箇所で、今でこそ山城に行き薮漕ぎも平気になった私ですが、当時は薮漕ぎ以前に山の中に入って行く勇気すらありませんでした。

 なので、復刻するのは大変恥ずかしいのですが、これも懐かしい思い出の一つなので復刻することにします。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。

 その点はどうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

*     *     *


 昼過ぎ、MTBを駆って北上市内の館跡めぐりに出発!

 小雨が降ったり止んだりの中を地図を頼りにまずは小鳥崎館跡を見てみようとペダルを踏みます。

 ところが、走り出してすぐに道に迷いました。

 どういうわけか、地方に来るとよく道を間違えます。

 しかも都市部のように電信柱に住所表記とかがあまりされていなく、目標物も少ないのですぐに場所を把握できません。

 ※註:この当時はまだ地方でほっつき歩くスキルが身についていませんでした。

 結局、15分くらいで到着する予定が倍くらいかかって目標の弁財天の鳥居を発見しました。


写真1 小鳥崎の弁財天


 この裏手の山の中が館跡のはずです。

 とりあえず上に登って見よう。

 鳥居をくぐって石段を登ります。

 崩れかけて苔むした石段は、雨のせいで非常に滑ります。

 かなりなへっぴり腰で石段を登りつめました。

 そこには小さな社殿が立っており、境内から北側に入った雑木林が館跡と考えられます。

 ところが足場がぬかるんで、ちょっと林の中に入っていく勇気はございません。

 ※註:この日はスニーカーだったと思いますが、以降はトレッキングシューズを履くようになったので多少のぬかるみは大丈夫になりました。

 結局、遺構を確認できずじまいだ・・・

 小鳥崎館は、『日本城郭大系』によると方形の東西2郭からなり、面積は約4000平方メートルだといいます。

 今度はさっき登った滑る石段を降りていかなければなりません。

 登るより降る方が怖いんですよね。

 手すりなんかないし。


写真2 小鳥崎館跡を東側から見る


 とりあえず雨は止んでくれたので、次は黒岩城に行ってみようかな。

 ※註:小鳥崎館には2001年8月と2003年11月に再訪し、八戸のたぬさんと一緒に行った2003年の時は見事な遺構を見て感動しました。

没落 奥州和賀一族
小原 藤次
文芸社
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東京都三鷹市島屋敷・天神山城【2000年4月22日】

2017-09-21 18:02:06 | 歴史探訪
 前回の記事に引き続き、2000年4月22日に探訪した三鷹市内の島屋敷と天神山城のルポルタージュを当時のホームページの記事をほぼそのままに復刻します。

*     *     *


 私が三鷹市内に引っ越してから約9ヶ月経ちました。

 市内には島屋敷と呼ばれている中世の遺跡があることは以前から知っていましたが、いつでも行けると思っていながら訪れる機会を逸していました。

 しかし、今日はお日柄もよろしいこともあり、散歩がてらに行ってみることにします。





 島屋敷と呼ばれている場所には、中世のころ武蔵七党のひとつ村山党の金子氏が居館を構えていたと伝わっています。



 ところが、そういった伝承があったのにも関わらず、ろくな調査も行わずに団地を造成してしまったのです。

 そのため、もし遺構があったとしても、すべて消滅してしまったと思われていました。

 その後平成3年になって、団地の全面建替えに先立って行われた確認調査で、中世から近世にかけての遺構や遺物が多数発見されました。

 平成4年7月以降も断続的に発掘調査が行われており、現在は第4次の発掘調査が行われています。

 実はその第4次発掘調査が始まったことを知らなかったので、当地についてみると、こんな看板が私たちを歓迎してくれました。



 今日は土曜日で作業はお休みです。



 『新編武蔵風土記稿』によると、戦国時代、高橋肥後守という人物が世田谷城の吉良氏を頼ってきて、仙川を領していた金子氏の名跡を継いだという言い伝えがあるといいます。

 このあたりの高橋氏といえば、牟礼や烏山の高橋氏が有名ですが、肥後守とそれらの人々との関係は今のところ見出せていません。

 発掘調査が終わると調査報告書が出されるので、それを楽しみに待つとしましょうか。

 つづいて天神山城跡へ向かいましょう。

 天神山城は、北から続く台地が仙川の流れによって終わるその先端部に築かれた城です。

 西から南にかけては仙川の流れによって守られ、北から東にかけては台地を堀切によって切断し、土塁を築いて守りとしていました。

 「三鷹市ホームページ」によると、天神山城跡は、三鷹市内で唯一地表面観察で遺構の確認できる中世城郭だそうです。

 だからといって、現在「青少年広場」となっているこの場所には、城跡を示すような標識は何も出ていません。

 しかし、遺構は明確に残っており、まず広場の入り口のすぐ右側から西北にかけて土塁が続いているのが確認できます。



 そして、土塁の向こう側には、台地が堀切られた跡があります。



 城跡は周りの土地よりも幾分高くなっており、広場の西側からみると、郭跡が少し高くなっているのがわかりますね。



 「三鷹市ホームページ」では単郭式としているが、『多摩の古城址』では、堀切の更に北側に土塁跡があるとしているので、もしかすると複数の郭を持っていたのかもしれません。

 現在残る郭は、写真のように木々が散立する広場となっていますが、平場はきれいに整地されていたような感じを受けません。



 すぐ南を中央自動車道が通っていて少し喧しく感じますが、ここに佇んで土の匂いをかいでいると、なんだか遠足に行った子供の頃を思い出すようです。

 天気もよく、4月にしては暑いものの、木々の下で風に吹かれていると、とても気持ちが良いです。

 さて、この城の歴史背景ですが、はっきり言って何も分かっていません。

 この城について書かれた文献は無く、ただ、遺構の状態から中世のころ城館があったのでは無かろうかといわれているだけなのです。

 仙川を挟んですぐ西側に島屋敷があるので、両者はどういう関係にあったのか興味深いですね。

 例えば、島屋敷に本郭をおいて、こちらは出城として使ったとか、1537年の北条氏と扇谷上杉氏との対峙戦のときにここにも砦を築いたとか、いずれにしても推測の域は出ませんが、いろいろ考えてイマジネーションを働かせてみるのもとても刺激的です。




扇谷上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)
黒田 基樹
戎光祥出版

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【街歩きに目覚めた17年前】東京都世田谷区・烏山砦(高橋城)【2000年3月19日】

2017-09-21 13:22:18 | 歴史探訪
 先日来、歴史めぐりを始めたころのことを振り返りながら、いくつかの記事をアップしてきました。

 私は既述した通り、1996年の末から非常なスローペースで東北の城館跡めぐりを開始しました。

 しかし、東北にはそんなに頻繁に行けるわけではないので、そうなると自然に自宅近くの城館跡に興味が行くのが自然の成り行きですね。

 当時は今ほどインターネット上に情報がなく、また書籍もそれほど出ていなかったため、東京の城館跡についはあまり詳しく知ることはできなかったのですが、1999年の4月10日には都心の城めぐりの第一弾として、世田谷城跡を訪れています。

 ⇒そのときの探訪記録はこちら

 そして、そのとき世田谷区郷土資料館で購入した『世田谷の地名』という本が異様に面白く、都心の地形や河道にも興味が飛び火し、そんななか、9月からは会社から神楽坂の会社に転職して、たまたま神楽坂の会社の近くに牛込城跡の存在を知ってしまい、都心の城郭への興味が加速しました。

 ついで、翌年の2000年には城郭だけに絞らない、初の「街歩きを」を世田谷区内で実施したのです。

 ⇒そのときの探訪記録はこちら

 当時は三鷹市と世田谷区の高橋氏について調べ始めた頃だったので、3月19日には天文6年(1537)の難波田弾正の深大寺城進出のときに築造されたという烏山城(高橋城)を探訪してきました。

 本日はそのときの様子を当時のホームページの文章をなるべく生かしつつお届けします(常体を敬体に直します)。

*     *     *


 戦国時代末期に烏山を開いた高橋民部大輔氏高がこの地に城を築いたのは、扇谷上杉氏が江戸城奪還のため深大寺城を修復した天文6(1537)年頃とされていますが、それより前にこの地には世田谷吉良氏の砦があったといいます(以後、区別をつけるため、吉良氏築城を「烏山砦」、高橋氏築城を「高橋城」と呼ぶことにします)。

 今日は烏山砦と高橋城の位置を確かめるべく、現地に赴いてみます。

 京王線の芦花公園駅で下車、まずは北沢川まで南下します。

 芦花パークゴルフの前まで来ると、現在の烏山川は地表面に水の流れが見えないことが分かりました。



 ついで、そのまま南下して、芦花公園と粕谷八幡社まで足をのばします。











 それでは、本日の本題である烏山砦と高橋城について検証してみます。

 現在烏山神社がある場所には、延徳3年(1491)に、第4代世田谷城主・吉良頼高の菩提寺として泉沢寺が創建されました。





 その泉沢寺が砦として使用されていたという説は一般的に受け入れられているらしく、この石碑のように、高橋氏がその砦跡に居城していたというのが地元で信じられているようです。



『多摩の古城址』でも泉沢寺のあった場所を「烏山砦」として紹介しています。

『日本城郭大系 5』の解説では、泉沢寺故地からウテナ工場にかけてを砦跡と比定していますが、これでは烏山川を跨いだ縄張りとなってしまい、ちょっと具合が悪いですね。

 現地を歩いてみると分かりますが、あまり起伏がない土地なので、砦を築くのなら当時水量の豊富であった川や水田などを防御のために利用するはずです。

 一方、『世田谷の中世城塞』では、泉沢寺故地は砦跡ではないとし、その理由は、『世田谷の地名(下)』に詳しく書かれており、おおよそ以下のような内容となります。

 「世田谷城は周辺を川や湿地・深田で守られており、容易に敵が近づけないような位置にあるが、唯一西北方面だけ北の北沢川と南の烏山川に挟まれた台地が続いており、古府中道によって進入が容易となっている。その弱点である西北方面の守りの要として、烏山に砦を築く必要があったと思われる。そうだとすると、泉沢寺の位置は、烏山川の南岸に位置し、西北方面から突入する敵部隊を防ぐのに用をなさない」

 つまり、砦を築くとすれば烏山川を越えた対岸の民部谷(現世田谷文学館)周辺となるわけで、高橋城とも位置が重なるということなのです。

 世田谷文学館。
 


 泉沢寺は、吉良頼康によって天文19年(1550)に橘樹郡上小田中(現川崎市中原区)に移転し、移転先では周りに水濠を備えた砦として機能していました。

 寺や神社は有事の際に防衛拠点になることは多いですが、私は地形的な観点から『世田谷の中世城塞』の説に賛同したいと思います。

 しかし、世田谷城を防御する城塞群の一つとして考えるのではなく、別な意図があって泉沢寺を砦として使っていた可能性はあるかもしれません。

 そうなると先ほど否定した『城郭大系』の説をもう一度吟味してみる必要が出てきます。

 あまり信用は出来ないのですが、烏山高橋氏の記録である「烏山高橋系図」では、氏高が南の砦を守り、家臣丸山兵太武貞に北の砦を守らせたとあることから、高橋城は烏山川の両岸にそれぞれ北砦と南砦があったと考えることができ、北砦の方は、世田谷吉良氏が築砦した烏山砦を踏襲したと考えることができるわけです。

 天文5(1536)年12月17日には、難波田勢が北の砦に攻め寄せ、氏高が南の砦から出撃して難波田勢を蹴散らしたともあります。

 さて、吉良氏の烏山支配は吉良氏が北条氏に取り込まれる過程で弱くなっていったと思わます。

 その後、扇谷上杉家の深大寺城修復時には、北条家臣の高橋氏高が城主として遣わされてきました。

 恐らくこのとき氏高は、以前からあった烏山砦を強化したのでしょう。

 高橋城については、『多摩の古城址』では、最初「竜氏」という謎の土豪が拠っており、後の城主高橋氏高は、『新編武蔵風土記稿』の上仙川村の項に現れる、高橋肥後守の子ではないかと推論していますが、これは誤りです。

「竜氏」は烏山・牟礼高橋氏の元の姓である「劉氏」のことで、大陸由来の苗字です(漢字で「竜」と「劉」は同じ意味)。

 高橋氏高と高橋肥後守の関連性は今のところ見出せていない(『世田谷の中世城塞』では、吉良氏時代の守将が高橋肥後守だったのではと推論しています)。

 ところで、高橋城の中心である民部谷(字名)には、烏山高橋家の代々の墓所があります。

 世田谷文学館の隣地にある「高橋仁左衛門歴代之墓所」がそれです。

 関係者以外立ち入り禁止で、墓地の中の様子は窺い知ることはできません。

 さて、高橋城の構造についてですが、『世田谷の中世城塞』では、「邑城」だったのではなかろうかとも推測しています。

 通常、町は城の外側に作りますが、高橋城は町全体を堀と土塁で囲んでいたという説である(この形式では小田原城が有名)。

 烏山高橋氏の先祖は中国の後漢の霊帝(姓は劉)とされており、中国式の築城を適用したと思えば、推測といえども想像するだに雄大なロマンを感じさせてくれますね。

 もしそうだとすると、高橋城の大きさは最大で東西が640メートル(環八通りから芦花公園団地)、南北が490メートル(芦花小学校・中学校、ゴルフ場の北面から、芦花公園駅南口まで)となり、現在の南烏山1丁目全域と南烏山2丁目と八幡山3丁目の一部を含む広大な城域となります。

 その領域の西、南、東は烏山川や水田で守られていましたが、現在の烏山川はさきほどの写真のとおり地表面に水の流れは見えません。

 北側だけが開いていますが、北方は古府中道を東進してくる敵部隊を殲滅するために出撃する出口となります。

 地形的に見ると以上のようになりますが、さきほど烏山高橋氏の記録はあまり信用できないといいましたね。

 実は、牟礼と烏山の両高橋家の記録の間では不整合が見受けられるのです。

 前提としては、牟礼の綱種と烏山の氏高の父は高種で、弟に日栄(牟礼真福寺開基)がいるのはよいでしょう。

 牟礼では綱種の弟は種長となっていますが、童名の助七郎は烏山の氏高の童名と一致するため、氏高と種長は同一人物と考えられます。

 ただ、一番の問題は、烏山では深大寺の合戦の際に綱種の名が出てこないばかりか、氏高には系図上兄がいないことになっていることです(烏山は牟礼の「兄」を無視しています)。

 また、烏山では既述したとおり、氏高が深大寺城を攻め立てて活躍した話を載せているほか、次のような武勇伝も残しています。

 氏高は北条氏直に付き添い高野山に登る。文禄元年(1592)11月4日、太閤に招待された氏直は毒を盛られて死亡。氏高は激怒して、太閤を「猿面郎!」と罵倒。太閤に誅されるところを、北条旧臣・岡江雪(板部岡江雪斎)の言でその場を救われ、夜中に志邑又左衛門を帯し逃げ去る。長束政家これを追うも及ばず。

 氏高が秀吉を直接罵倒するシチュエーションは考えづらいことから、烏山の記録は全体的に先祖を顕彰するためにかなり盛った記述と考えて良いでしょう。

 兄である牟礼の綱種を無視していることもあり、どうも牟礼に対するライバル心というか嫉妬心がにじみ出ているようにも思えます(一般的に氏直の死去は天正19年の11月4日とされています)。

 以上で、烏山城の解説を終えますが、最後に、烏山城は他の都心の城址と同様、遺構はなにも残っていないということを付け加えておきます。

 最後に烏山城と周辺の城砦の簡単な地図をあげておきます。



北条氏綱 (中世関東武士の研究 第21巻)
黒田基樹
戎光祥出版

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【歴史活動・初期の記録その7】東京都三鷹市の牟礼砦【2000年1月1日】

2017-09-20 08:26:50 | 歴史探訪
 フェイスブックの方ではグチグチと「疲れたー」とか言っていますが、最近はそういうことをブログに書くことが少なくなってきたと思います。

 なので、このブログだけを読んでいる方や私の講座やツアーに来てくださる方は、稲用さんは能天気でエネルギッシュな人だという印象をお持ちかもしれません。

 実際、そうなんですが、いくら能天気でも私はもともとあまり体力がある方ではないので、たまには疲れるときがあります。

 4月くらいから8月くらいまで、4時間半くらいの短時間睡眠の日が多く、それを私は「高尾幕府のサマータイム」と呼んでいるのですが、お盆過ぎくらいから段々疲れを感じるようになり、睡眠時間も今は6時間は欲しいです。

 今週も明日は朝から27時までお掃除で、こういう勤務をすると数日間は回復しないのですが、それが終われば週末は3連休です。

 3連休は完全休養日にするつもりなのですが、そうはいってもやっぱり好きな歴史はやってしまうんでしょうね。

 過去の探訪の記事がまだまだアップしきれていないのでそれをやったり、クラツーの宗像ツアーも近くなってきたのでレジュメ作りもしようと思いますが、最近はこのブログに初期のころの探訪記事をたまにアップしています。

 このブログでもお伝えした通り、先日、江戸城を2日間にわたって探訪しましたが、石垣に囲まれた近世城郭を歩いていたら、今から21年前の24歳の時に会津の鶴ヶ城の中を歩き回り、城の面白さに目覚めたときのことを思い出しました。

 なので、たまには過去のことを振り返るのもいいかなと思い、今日も初期のころの記録を一つアップします。

 初期の記録としては、一番初めの1996年12月30日に探訪した鶴ヶ城から、1999年12月5日に社員旅行の帰りに訪れた伊豆の深根城と下田城までをアップしていますね。

 ⇒深根城と下田城はこちらです

 本日はその続きで、いよいよ世紀末の年となった2000年の初詣の模様を当時のホームページの記事からほぼそのまま転記します(常体を敬体に直しました)。

 しかしそれにしても、疲れている証拠として、今日は妻が作ってくれたお弁当を持ってくるのを忘れてしまいました。

 財布には57円しかありません・・・

 疲れていると事故も多いものです。

 今日のお掃除と車の運転はいつにも増して注意深くやりますよ。
 
*     *     *


 戦国時代、扇谷(おおぎがやつ)上杉家と後北条家の抗争が続くさなか、天文6年(1537)、扇谷上杉家当主朝定は、家臣難波田弾正広宗に命じ、深大寺の古城跡(調布市深大寺の水生公園の上にある深大寺城跡)を修築させ、そこに兵を詰めさせ、江戸城奪還の構えを見せました。

 それに対し、北条氏綱は家臣高橋綱種に命じ、高番山(三鷹市牟礼)に砦を築かせて深大寺城と対峙させ、これと同時に綱種の弟氏種にも烏山(世田谷区烏山)に砦を築かせ、深大寺城を牽制させました。



 現在、牟礼の砦跡には築砦時に陣内鎮護のために芝飯倉神明宮から勧請された神明社が建っています。





 私が訪ねた元旦には、初詣のために大勢の人々が集まっていました。

 砦跡への行き方は、京王井の頭線の三鷹台駅を降りて、駅前通りを南に8分程歩きます。

 徐々に上り坂になっていて、その最高所が砦跡です。

 砦跡には神明社のほか、消防署、ゴルフ練習場などがあります。

 砦跡のすぐ北側には玉川上水が流れており、この流れは当時も水の手として利用されていたかもしれません。

 ※註:当時は玉川上水を作る前に自然の河川があったのではないかと思ったのですが、地形的に見るとあの高所を自然の川が流れていたと考えるのは難しいかもしれません。

 最高所と思われる個所に立つと、今は建物や樹木がたくさん立っているので見晴らしはよくありませんが、辛うじて北側は吉祥寺の市街が望見できます。

 南側を望むと、かつては南西約3キロの地点にある深大寺城や、さらに約4キロ先の多摩川の流れまで見渡すことができたといいます。

 この付近でここより高い場所はないので、砦を築くには最適の場所でしょう。

 ※註:この尾根の最高所は三鷹市内で最も標高が高く約65mです。





 さて、対峙した高橋軍と難波田軍の趨勢ですが、北条軍の本体が上杉軍の本拠地である河越城を攻撃したことにより、難波田弾正は深大寺城を捨て河越城救援に向かいました。

 そのため、牟礼砦や深大寺城では戦は起きなかった模様です。

 ※註:地元の伝えでは三鷹市大沢で河越に向かって移動する難波田弾正とそれを追った綱種との間に戦いが展開されたそうです。

 なお、高橋氏は北条氏滅亡後、牟礼の地に根をおろし牟礼開拓の祖となりました。

 現在でもこの付近には高橋姓の家が多いです。

 ※註:当時、この記事を書いた後、私は高橋氏についての調べを進めましたので、機会があれば記事にしたいと思います。

伊勢宗瑞 (シリーズ・中世関東武士の研究)
黒田基樹/編
戎光祥出版
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【宗像古代史探訪その7】安倍宗任の墓および織幡宮【奥州から遠く離れた地での対面】

2017-09-19 12:51:37 | 歴史探訪
 先週の土曜日は、毎月1回西新宿のクラブツーリズム本社でやっている東北の歴史講座を開催しました。



 今回も19名様というたくさんの方々のご参加、どうもありがとうございました!

 今回は、アテルイと坂上田村麻呂との戦いなど、三十八年戦争について主に話しました。

 次回は10月14日(土)で、大化の改新から奈良時代初め(7世紀後半から8世紀前半)の東北地方について中央と絡めながらお話ししますので、興味のある方はぜひいらしてくださいね。

 ⇒詳しくはこちらまで!

 講座が終わった後は、妻と西新宿にある「鷹丸」に行き、私は刺身定食を食べました。

 これで1000円ちょっと!



 驚愕の内容です。

 素晴らしすぎて、次回クラツーに行った時もここに寄ってしまうかもしれません。

 そして帰宅後は、ジジを義父母に初対面させるために古河へ出張りました。

 古河でも美味しい夕飯をいただきましたよ。

 ここの中華屋さんはどれも美味しいのですが、今回は念願の酢豚が食べられ幸せでした。



 肉もさることながら、餡をからめた玉ねぎがとても良い味わいでした。

 妻の実家に戻って飲み直した後、そのまま止宿し、翌朝は超久しぶりに9時間も寝て9時20分に起床。

 夏場は4時間半の睡眠で大丈夫だったのですが、涼しくなってきてからはそれがきつくなって、最近は睡眠不足気味だったのが少し解消できました。

 義父お手製のお昼ご飯を頂いた後は、自宅に戻って妻とDVD鑑賞です。

 妻がセレクトしたかぐや姫の物語。



 そして、私がセレクトしたブレードランナー。



 ブレードランナーは中学生の時に初めて見てとても印象に残った映画で、30年ぶりに見ましたが、ヴァンゲリスの音楽とともにやはり素晴らしい映画ですね。

 そして昨日の月曜日もお休みだったので、引き続き自宅でまったりしました。



 昼飯の生姜焼きはショウガが良く効いていて素晴らしい味付けでしたよ。



 ジジは妻の実家に行っても我が家にいても、いたってマイペースです。



 昨日も伸びていました。



 こんな感じで久しぶりに妻とゆっくりと休日を過ごすことができて楽しかったです。

 というわけで、イントロが長くなりましたが、本日は宗像探訪の続きをお伝えします。

*     *     *


 沖津宮の遙拝所からは残念ながら沖ノ島を望見することはできませんでした。

 しかしこればっかりは仕方がないですね。

 帰りのフェリーの時間を多少に気にしつつ、波止場へ戻ることにします。

 でもひとまずジュースが飲みたい。

 遙拝所の近くには一機だけ自販機があるので、そこでジュースを買い、飲みながら波止場を目指します。



 峠の頂上あたりには多分水関係の施設でしょうか。



 しかしこのアート作品に注目する人はどれだけいるでしょうか。



 さて、実は大島に来るにあたって、宗像大社関連のスポット以外にもぜひとも探訪してみたい場所があるのです。

 それは安倍宗任のお墓です。

 テクテクと歩いていると、右手の住居が立ち並ぶ裏の崖の上から誰かに見られたような感じがしました。

 ん?と思い見上げると・・・



 おや、あれは安倍宗任の宝篋印塔じゃないか?



 やっぱりそうだ!

 住宅地の間から崖の上に登る道を見つけ登っていくとお寺があります。



 曹洞宗の安昌院です。



 事前に知っていた情報では、宗任の墓は安昌院の墓地にあるということでした。

 おー、宗任さまー、こちらにおいででしたかー!





 海のない奥州の内陸部で生まれ育ったのに戒名は「安昌院殿海音高潮大居士」です。

 こちらに移ってきてからはすっかり「海の男」になったのでしょうね。

 美しい戒名です。

 墓域の後ろには五輪塔が並んでいますが由来は分かりません。





 石をよく見てみますが、摩耗してますね。



 この高さからだと水面はちょっと見づらいですが、宗任はいつもこんな感じで海の方向を見てるんですね。



 安倍氏は上の説明板に書かれている通り、11世紀半ばに滅亡した奥州奥六郡(岩手県南部)の豪族です。

 前九年合戦(1052~63)で源氏に敗れ、兄の貞任は処刑され、宗任は最初伊予に流され、ついで筑紫に流されました。

 宗任は故郷の岩手県とはまったく気候も風土も違うここ福岡県で天寿を全うしたようですが、どのような後半生だったのでしょう。

 私は宗任や安倍一族を含め、東北の歴史をずーっと追いかけてきたのですが、図らずもクラツーにお仕事をいただいたことにより、宗任に対面することができました。

 対面。

 生きていようが死んでいようが構いません。

 私は宗任に会うことができて、クラツーにはとても感謝です。

 なお、宗任の血筋は中世武士の松浦党に連なっているといわれ、今の総理大臣も子孫と称していますね。

 さて、フェリーは16時半出航の予定ですが、宗任のそばをなかなか離れることができず、もう間に合いそうもありません。

 名残惜しさを残しつつ、宗任の墓所を出ます。

 坂の上から湊を望むと、ちょうどフェリーが出航していくところでした。

 しょうがない、次の船まで時間をつぶそう。

 ところで、今日は昼飯らしい昼飯を食べていません。

 とりあえず携行した菓子パンは食べましたが、お腹がペコペコです。

 湊では漁師料理の店を一件見つけましたが、お金を節約したい。

 そう思って歩いていると、何やら移動販売の店がありますよ。



 漁師サンドというらしいです。

 タルタルソースとサルサソースがありますが、サルサソースの方を一ついただきましょう!



 おー、美味そうだ。

 400円です。

 波止場の売店で缶ビールを購入。



 漁師サンド、美味い!

 東京ではまず食べられない味です。

 フェリーはまだまだ来ないので、どこかで仕事ができないか探すと、波止場の建物の2階の展望デッキが空いていました。

 よし、ここをお借りしよう。



 海を見ながら心地よい風に吹かれ、暑くもなく寒くもなく、久しぶりにリラックスできます。



 この時間は最高に贅沢ですぞ。

 さて、時間だ。

 フェリーに乗って帰るかな。









 神湊が近づいてきました。



 もうだいぶ陽が傾いていますが、織幡宮に間に合うでしょう。

 せっかく来ているのだから時間は最大限に有効活用ですね。

 安全運転で織幡宮に到着しました。



 おや、猫ちん!







 残念、逃げられちゃいました。

 というか、猫ちんを追っかけている時間はないよ!











 石段を登り拝殿の前に来ました。





 本殿。



 境内神社。



 時刻も時刻なので、参拝者は私のほかに誰もいません。



 隣には、恵比須神社があります。



 後ろの山が神体山に見えますね。



 海のサンセットを撮るぜ!







 お、バス停だ!



 これは期待できる、と思い見てみると。



 やったー、地獄表だ。

 さて、これで今日の予定はすべて消化しました。

 博多のホテルへ戻りましょう。

 それにしてもお腹が空いた・・・

 今日はホテルで朝ご飯をたくさん食べたのでまだ良かったですが、菓子パン2個とさきほどの漁師バーガーしか食べていないので、燃費の悪い私はそろそろ動けなくなりそうです。

 博多へ戻るにはしばらく下道を走るので、何でもいいから食べ物屋さんが見つかれば寄ろうと思います。

 ところが、東京と違ってなかなか食べ物屋さんが現れない。

 お、ラーメン屋発見!



 博多なのに味噌ラーメンか。

 でも車がいっぱい止まっているから多分美味しいお店でしょう。

 味噌以外にもありますが、ここはやはり一番の売りであろう辛味噌ラーメンを食べてみます。



 おー、彩りがいいねえ。

 ・・・美味い。

 味噌ラーメンは太麺が多いですが、これは豚骨ラーメンと同様な細麺です。

 でも硬めに茹でてあってシコシコで美味しい。

 スープは熊本産の赤味噌を使っているそうで甘めで美味い。

 車の運転があるのでビールは飲めませんが、とても満足です。

 そしてホテルに戻って大浴場の温泉に速攻入り、これを飲んで今日の締めくくりとします。



 いやー、今日も充実した一日だった・・・

 明日も楽しみだ。
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【東国を歩く会】第12回歩く日 甲州道中「じっくり」歩き 開催【結局、甲州道中は?】

2017-09-11 10:12:03 | 歴史探訪
 昨日(2017年9月10日)は、東国を歩く会で残暑の江戸城を歩いてきました。

 「第12回歩く日 甲州道中”じっくり”歩き」というタイトルを付けたものの、江戸城内は見る場所が多いので、結果的にはほとんど甲州道中を歩きませんでした。

 普通に甲州道中を歩くのであれば、日本橋を出発して、内藤新宿までは余裕だと思いますが、私たちの場合は多分無理だろうなと思い、私は四谷までの地図しか用意しませんでした。

 ところが、その予想を上回り、ゴールは半蔵門となってしまったのです。

 日本橋から半蔵門は直線距離では2.6㎞くらいしかありませんが、その間には巨大な江戸城が行く手を阻んでおり、迂回しなければなりません。

 しかしそれにしても、どうやら15㎞くらいは歩いてしまったようで、とくに初参加の方には「えー、こんなに歩くのー?」と疲れさせてしまったかもしれません。

 今日はこの探訪の様子を写真の羅列で簡潔に振り返ってみようと思います。

*     *     *


 今日の集合場所は日本橋駅の上にあるCORED日本橋です。



 今日は初参加の方も4名いらっしゃる予定なので、集合時間の30分前の8時30分には到着し、皆さんを待ちかまえます。

 最初に来たのはヒラさんで、以降、続々と参集してきて、予定通り15名が集まりました。

 それでは出発です。

 今日も一日、気持ちよく歩きましょう!

 まずは日本橋から。

 初っ端から晒し場を説明し、さきほどの宣言とは真逆の気持ちの悪いスタートとなりました。



 ここは死刑が決まった罪人が執行までのあいだ晒されていた場所なのです。

 ちなみに心中しようとして生き残った人はここで晒されたのち打ち首ですよ。

 私なんかは同情してしまいますが、今とは少し倫理観が違うようです。

 続いて魚河岸発祥の場所と日本国道路元標のレプリカを見て、橋の道路の真ん中にある本物の元標を望見します。



 そして高札場を見たら、五街道の起点となっている日本橋を出発し、甲州道中をいざ下諏訪へ!

 え、下諏訪って・・・

 今日はそんなところまで行けないでしょう?

 というか、せっかく甲州道中を歩き始めたのに北町奉行所跡を見た後は、数百メートルにしてすぐに脱線です。

 当初の予定では貨幣博物館へ行くはずでしたが、今日は江戸城を中心に見るために割愛させていただきます。

 博物館好きな私たちなので、多分行ったら1時間は使ってしまいますね。

 つづいて将門塚。

 将門塚に関する祟りの話は実は根拠がないこじつけばかりと説明しておきながら、「関東地方に大地震が来ないのは将門が守ってくれているから」と完全な思い込みの説を述べて、本来であれば私は歴史史料に基づいた話をしなければならない身分でありながら、こういったオカルトティックなことを平気で言うので、さらに皆さんの気持ち悪さが増したことでしょう。

 そして、今日のメインである江戸城に到着。



 平川門から東御苑に入りますよ。

 つまり、昨日一人で探訪したのと同じルートでご案内しようと思うわけです。

 平川門から入り梅林坂を登り、武蔵野台地の武蔵野面に登ります。

 1面クリアー!

 そしてみんなで天守台の大きさに感嘆した後は、昨年11月から公開が始まった多聞の中を見学し、松の廊下跡を通り、富士見櫓へ。

 さらに台所櫓跡の展望台から東側を望み、家康が入部したころの風景を想像してもらいます。

 すなわち、すぐ右下までは江戸湾の入り江が入り込んでおり、目の前に広がる低地の向こうには千葉県の下総台地の崖が見え、それが右へ流れて房総半島へ繋がっています。

 左方向には筑波山も見えたことでしょう。

 いつも言っているのですが、古代史を楽しむためには想像力を働かせて、その上にロマンを重ねる必要があります。

 これができない、目で見るものしか理解できない人はきっと「古代史はつまらない」と宣うことでしょう。

 さて、この時点すでに12時を過ぎています。

 そろそろお昼にしたいので、大手門から城外に出て、ここで自由昼食にします。

 私は極力食費を節約したいので、今日はおにぎりを握ってもらって持ってきています。

 どこか食べられる場所がないかと探しながら歩いていると、ビルとビルのはざまの遊歩道にベンチが並んでいる場所があって、しかも木陰になっている場所を発見。

 ここにしましょう。

 そしてゆっくり休んだ後は、13時半から午後の探訪を開始します。

 午後もまずは江戸城から。

 今度は皇居前広場を散策します。

 巽櫓。





 内桜田門が見えます。



 坂下門。









 伏見櫓を望見して今日は江戸城に現存する3つの櫓をすべて見たことになりますね。







 外桜田門の櫓門を内側から見ます。



 皆さん、都会の風景は見慣れているはずで、中には海外にもよく行かれる方もおられますが、松の木とビルヂングという取り合わせはなかなか見れないと、喜びの声を上げています。



 ここで皇居前広場からもお別れ。



 ちょっと遠回りになりますが、日比谷見附を見に行きましょう。

 日比谷公園内にある水飲み場。





 馬も飲めるというところが面白いですね。

 昔はお馬さんも家族の一員でしたからね。

 まあ、私は馬肉が大好きですが。

 そしてなんと!

 伊達政宗終焉の地を発見!





 そして日比谷見附。





 どこからか、「見附、見ーつけ」という声が聞こえてきます。

 いや、幻聴でしょうか。

 それともN島さんでしょうか。

 再び、お堀沿いを歩きます。





 外桜田門を今度は外から見ます。









 この辺で有名な「桜田門外の変」が発生したんですね。

 またお堀沿いを歩きだしますが、一応ここは甲州道中です。







 憲政会館には先ほどの現場で殺害された井伊直弼の屋敷がありました。



 国会議事堂方面へ行くので、またまた寄り道。

 え、グミ?





 最近発見された「江戸始図」の解析により、一番初めの天守閣の高さは69mほどあったと推測され、国会議事堂と同じくらいになります。

 国会議事堂はそれほど高いように見えないんですがね。

 国会の裏からちょっと急な坂を下り振り返ります。



 つぎに日枝神社。

 おー、S源寺さんが石段を駆け上がってる!

 動画に撮ればよかった・・・



 日枝神社では15分ほど休憩します。





 皆さん段々お疲れモードになってきましたでしょうか?

 もう少し歩きますよ。

 歩道橋の向こうに赤坂見附が。











 そういえば、さっき国会議事堂の写真をちゃんと撮ってなかったな。



 また坂だ。





 こういう標柱が立っている坂を見るとつい写真を撮ってしまいますね。

 標柱に反応するのは東北の城めぐりをやっていたころからずっと習性になっています。

 平河天満宮。



 もともとは今日の午前中に歩いた江戸城内の梅林坂附近に太田道灌が勧請した神社ですが、家康が入部した後平川門の外に遷され、つづいてここへやってきました。





 そして半蔵門に到着。

 時刻は16時半。

 今日はここまでにしましょう。

 結局全然甲州道中歩きになりませんでしたね。

 本日の参加者!

 S源寺さん
 ヒラさん
 こばやしさん
 おおもりさん
 岸本さん
 スーさん
 N島さん
 A斉さん
 遠藤さんご夫妻
 稲用

 そして初参加の

 I上さん
 T橋さん
 Kさnご夫妻

 以上15名。

 皆さんご参加ありがとうございました!

 今後も第2日曜日は歩く日のためにスケジュールをすべて空けてありますので、月に1度のペースを守って開催していこうと思います。

 今回参加できなかった方も、ぜひ次回ご参加ください。

 ということで、恒例の打ち上げです。

 半蔵門駅から帰る人たちと四ツ谷駅まで歩く人たちに分かれます。

 四ツ谷駅まで向かっているとまたもや坂。





 そして四ツ谷駅手前の居酒屋で打ち上げ!

 ひやー、ビールが美味い・・・



 打ち上げ参加者。

 S源寺さん
 ヒラさん
 岸本さん
 I上さん
 T橋さん
 稲用

 以上、6名。

 I上さんとT橋さんは初参加で打ち上げまで参加してくださりありがとうございました。

 私たちも飲み仲間が増えて嬉しいです^^

 いや、その前に歴史仲間ですね。

*     *     *


 というわけで、今日からは今週の土曜日のクラツーの講座のために脳内を「江戸城モード」から「エミシ・モード」に切り替えます。

 今回は律令国家とエミシとの「三十八年戦争」をメインで話しますよ。


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 東北の古代史に興味があるかたはぜひいらしてください!
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【江戸城】皇居東御苑:竹橋門~平川門~梅林坂【1面クリアー!】

2017-09-09 18:39:31 | 歴史探訪
 明日は東国を歩く会の「第12回歩く日」を催行します。

 日本橋駅に集合して、甲州道中を西へ向かおうと思っており、ゴールは内藤新宿、というか新宿駅のつもりなんですが、もしかすると四谷くらいまでしか行けないかもしれません。

 なぜかというと、日本橋を出てすぐに江戸城が待ち構えているからです。

 江戸時代の一般の旅人はもちろん江戸城のコアゾーンに入ることなどできませんから、普通に内堀の外側を迂回して歩いて行きますが、私たち現代人は非常に恵まれていることに、江戸城のコアゾーンの一部分に潜入することができるのです。

 私たちの会は完全趣味の集まりなので、一箇所に引っ掛かってなかなか進まなくなることがあります。

 皆さん好奇心が旺盛なので、引っ張って行く方もある程度は仕方がないかなと思い、予定のスポットをすべて回りきることに拘泥しないのです。

 というわけで、明日は江戸城でだいぶ引っかかる可能性が推測できますが、そうであるのなら私も事前に予習しておいた方がいいなと思い、今日は急きょ、7時20分に家を出て江戸城の東御苑および大手町・日本橋界隈を徘徊してきました。

 今日はその一部をお伝えします。

*     *     *


 7時31分高尾発の中央特快に乗り、まずは中野駅を目指します。

 明日の集合場所が日本橋駅なので、今日も日本橋駅を起点に歩こうと思います。

 中野では東西線に乗り換え。

 しばらくすると竹橋駅に到着しました。

 そうか、今日は別に日本橋駅出発に拘る必要が無いな、と急に思い立ち、平川門はきちんと見たことがなかったので竹橋駅で下車します。

 1a出口から地上へ。



 時刻は8時半。

 土曜日の中央線には中央特快が朝から多く走っているため、結構速く到着しちゃいました。

 今日は地図も持参していますが、案内図で現在地をチェック。



 この地図は北が下ですな。

 竹橋といっても石橋ですよ。



 竹橋は大正15年(1926)5月に竣工し平成5年(1993)に改修しています。

 平川濠を見ます。



 いつ見ても江戸城のお堀は広いねえ。



 おや、説明板がありますよ。



 この説明板に寄ると、竹橋門は「内曲輪15門」のうちの一つとありますが、「御門御定書」(1721年)によると本丸・二の丸には、

 1.大手門
 2.内桜田門(桔梗門)
 3.皇居正門

 の3つの門があり、三の丸・西の丸下曲輪には、

 1.和田倉門
 2.外桜田門
 3.神田橋門
 4.常盤橋門
 5.馬場先門
 6.日比谷門
 7.半蔵門
 8.田安門
 9.竹橋門
 10.呉服橋門
 11.一ツ橋門
 12.鍛冶橋
 13.数寄屋橋門
 14.清水口
 15.雉子橋

 の15門があり、さらに外曲輪には、

 1.幸橋
 2.山下
 3.虎
 4.芝口
 5.赤坂
 6.市ヶ谷
 7.四ツ谷
 8.牛込
 9.小石川
 10.筋違
 11.浅草

 の11門があったようです。

 さて、平川門をきちんと見学に来るのは今日が初めてですが、平川門周辺の遺構で私が一番気になっているのは、平川濠を分断する形で平川門の脇から伸びている帯曲輪と呼ばれている部分です。

 これよ、これ!



 帯曲輪が伸びている先(私が立っている側)からは進入できませんね。



 『東京都の歴史散歩(上)下町』によると、この帯曲輪は藤堂高虎の発案らしく、こういった防御施設は江戸城以外には彦根城にしかないそうです。

東京都の歴史散歩〈上〉下町
山川出版社


 なるほど、戦国城郭の二重空堀とはまた違います。

 私たちは上空から見た平面図を見てこれがどういうものか知っていますが、帯曲輪はその対岸から見ると内側の曲輪本体に見えるので面白いフェイクですね。

 攻め手としたら上の写真の部分を占拠した場合、つづけて帯曲輪の上を縦列になって突撃していくことになりますが、そうすると対岸から一斉砲火を浴び、しかも行きつく先には平川門が立ちはだかっているので、ああやんぬるかな状態に陥るわけです。

 ところで最近発見された「江戸始図」という最も古い「家康江戸城」の図面がこのところ話題になっていますが(あれ、なってない?)、それにはまだ上の帯曲輪は登場しません。

 では、平川門へ行ってみましょう。











 おー、太田道灌のことを紹介しているのはグッドですね。



 はい、平川門はまだ開門準備中です。





 この説明板にある通り、江戸城のコアゾーンに入るための門は、ここ平川門と大手門、そして北桔橋門(きたはねばしもん)の三つしかありません。

 開門まであと4分あるので、写真を撮って時間をつぶします。



 9時ジャスト、開門となりました。







 橋を渡った先では手荷物検査がありますよ。

 武器弾薬とかは持ってちゃ中に入れませんよ。

 そして、見られたら恥ずかしいものをカバンの中に入れっぱなしにしておくのはやめましょう。

 「今日は暑いので熱中症に気を付けてください」と若い警官はニコヤカに通してくれました。

 ・・・良かった、通過できた。

 良かったって、別に私は不審者ではありません。

 平川門は江戸城の多くの門と一緒で枡形形式を取っています。



 まずは一の門である高麗門を朝の空いている時間帯をいいことに、無駄にたくさん撮ります。



 人が写り込む場合は、そのお陰で大きさが分かるというメリットもありますので、意図的に人と一緒に写すこともあります。

 例えばS源寺さんを巨大板碑と並べて撮らせていただくことがありますね。



 今日はS源寺さんがいないので比較対象がありませんが、簡単に言うと、でかいです。

 二の門、本当にでかいです。



 でかいって、具体的な大きさを数値で示して欲しいですね。

 適当でスミマセン。



 お、さっきの帯曲輪の上空写真ですぞ。



 いいねえ。

 説明板にある通り、平川門は奥女中の通用門として使われたり、城内で死んだ人や罪を犯して流されていく人が通過した門です。

 なので「不浄門」という通称も付いていたのですが、例えば以下の方々が通過して行きました。

 ・貞享元年(1684)、若年寄稲葉正休に刺殺された大老堀田正俊さん(ただし遺体)
 ・元禄14年(1701)、切腹するために芝田村町の田村右京大夫邸に向かった浅野長矩(ながのり)さん
 ・正徳4年(1714)、風紀紊乱の罪により、白無垢一枚に裸足姿で信州高遠へ配流された大奥年寄の絵島さん

 しかし、言ってみれば勝手口みたいな門ではありますが、御三卿が登城するときもここを通ったそうです。

 (以上、『東京都の歴史散歩(上)下町』より)

 二の門を内側から見ます。



 平川濠。





 ここで入園券をもらいます。

 もらいますと言っても出るときは返すんですよ。

 平川門を通りまっすぐ歩くと右に屈曲します。



 さらにもう一回右に屈曲します。



 水面は見えませんが、天神濠があります。


 
 そして少しずつですが上り坂になっていますよ。

 門跡を通過すると、今度は左に屈曲。

 日傘を差した瀟洒な女性が早足で私の横を通り過ぎて行きます。



 あんなに急いでどこへ行くのだろうか・・・

 職員でもなさそうだし。

 またまた門跡。



 門柱の跡をみると片側に6個ありますよ。



 ここで二の丸方面と北桔橋(本丸)方面へ分かれます。

 梅林坂を登って本丸方面へ行きましょう。





 門跡を通過。



 ここにも柱穴跡があります。



 振り返る。



 10mくらいは登りました。



 と、ここでこの10mという比高差の正体が一体何なのかご存じでしょうか?

 実は今私は、沖積低地から武蔵野台地に登ってきたのです!

 武蔵野台地の武蔵野面に登ったということで、これぞ本当の「1面クリアー」ですよ!



 ※『江戸城 その全容と歴史』西ヶ谷恭弘著・東京同出版刊より転載

 上の図を見て江戸城の本丸部分に向けて武蔵野面の台地が伸びているのが分かるでしょうか。

 本丸部分は台地の突端になっており、二の丸は一段低くて沖積地にあるんですよ。

 なので、平安時代末期に一番最初にこの場所に館を構えた江戸氏は、この本丸部分の先端に館を構築したに違いないでしょう。

 その後を襲った太田道灌の江戸城の中心地もやはり江戸期の江戸城の本丸の部分だったはずです。

 このあと武蔵野台地の面白さがもっと分かる場所に行くと思うので、またその時にお話します。

江戸城―その全容と歴史
西ヶ谷 恭弘
東京堂出版


 おや、何か建物がありますよ。



 宮内庁書陵部だ!



 視界が開けて天守台が現れました。



 はい、今回の記事はここまで。

*     *     *


 クラブツーリズムの「歴史への旅」最新号(9月10日号)が出ました。



 右下の一枠のみ私のツアーではないので、まだまだ1ページ全てを占拠するまでには至りません・・・

 もっと頑張ります!


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