日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

金印に刻された「漢委奴国」は、「奴国」かそれとも「伊都国」か?そして邪馬台国の場所は・・・

2017-07-29 12:27:22 | 歴史の謎
 7月8日と9日にご案内したクラブツーリズム主催の福岡・佐賀古代史ツアーでは、探訪の最後に福岡市博物館を見学しました。

 福岡市博物館には国宝である「金印」が展示されています。



 ※稲用章撮影

 このような「国宝の中の国宝」と言っても良い逸品が国に持って行かれずに出土地に近い地元で展示されていることに私は感動しましたし、地元の方々にとっても誇れることだと思います。

 日本の古代史を調べる上で、まだ国内の文字史料が現れるより前は中国の文献史料と発掘調査の結果が素材となりますが、中国の正史『後漢書』によると、西暦57年に「倭奴国」の王が後漢王朝の都洛陽に遣いを送り、光武帝から印綬を賜ったとあります。



 ※『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(石原道博/編訳)に傍点を付け転載

新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
石原道博/編訳
岩波書店


 この『後漢書』に記載された印綬(金印とは書かれていないが王へ賜う印は金を使う)が江戸時代に志賀島で発見された金印であるとされているわけです。

 金印の印面はこのようになっています。



 ※『福岡市博物館 常設展示 公式ガイドブック』より転載

 「漢委奴国王」とありますね。

 これは上の図にも書かれている通り、「漢の倭の奴の国王」と読むのが定説の座をしめています。

 「倭」が印では「委」という字になっているのは減筆といわれる印を造るときにたまに行われる処置だということです。

 奴国(なこく)という国は、「魏志倭人伝」にも登場する国で、福岡県春日市の須玖岡本遺跡が本拠地と目されており、その奴国の王が光武帝から金印を賜ったというわけですね。

 ところが、金印の読み方に関しては上述した定説以外にも、金印発見直後の江戸時代以来の説として、「委奴」を「イト」と読み、「漢のイト国の王」、すなわち伊都国の王と解釈する説もあるのです。

 ツアー当日にお配りした私が作成したレジュメには定説の方を紹介しておいたのですが、参加者の方から「”イト説”もありますよね?」と指摘をいただきました。

 クラツーのお客さんは結構マニアックな方もいらっしゃいますので、こういう指摘を受けると私も刺激を受けるのでその後考察を深めてみました。

 ちなみに、ツアー当日福岡市博物館の職員の方が金印について解説してくださったときは、きちんと「イト説」も紹介しており、さすがだなあと思いました。

 では、金印を光武帝から賜ったのは奴国の王でしょうか、それとも伊都国の王でしょうか。

 それを考えてみましょう。

 「魏志倭人伝」を読むと伊都国は他の国と比べて特別な印象を受けます。

 というのも、まず「世々王がいた」と書かれているところです。

 奴国にも王はいたはずですが、奴国の項にはそう書かれていません。

 また、伊都国には朝鮮半島の帯方郡から来る使節が滞在する施設があり、さらに「一大率」と呼ばれる、魏王朝でいうところの「刺史」(州知事のようなもの)に該当するような広域を統べる特別官が滞在している点もプレミアム感があります。

 伊都国は九州における外洋との窓口となっており、個人的には現在の博多に似たような往時の繁栄の様を想像してしまうのです。

 遺跡を見ても、伊都国では王墓が三雲南小路王墓→井原鑓溝王墓→平原王墓と連綿と造られたのに対し、奴国王の王墓(須玖岡本遺跡)は副葬品を見ると伊都国王と充分に渡り合えますが、時代的には弥生時代中期後半(紀元前1世紀後半)になり、その前後の王墓が不明確なので、権力が長年に渡ってどの程度持続していたのか判断が難しいです。

 このため、「魏志倭人伝」の内容や現在見つかっている王墓を見る限りでは、倭国を代表する勢力としては伊都国王の方に分があり、現在の私は今では定説の座から降ろされている「イト国」と読む方を支持したいと思います。

 平原王墓の被葬者は誰か

 それともう一点、『後漢書』によれば金印拝受から50年後の107年には「倭国王帥升等」が生口(奴隷)160人を献じて後漢第6代皇帝・安帝に拝謁を願ったとあります。

 人名は帥升(すいしょう)しか出てきませんが「等」とあることから、帥升を代表者として倭国の王たちが連れだって洛陽まで行ったわけです(文面からすると王たち本人が行ったようです)。

 この帥升はどの国の王か。

 寺沢薫氏は『王権誕生』の中で伊都国の王としていますが、私も同じ考えです。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 理由は上で述べた通り、「魏志倭人伝」の記述および王墓の遺跡によって伊都国王が倭国の代表者として相応しいと思うからです。

 さらに想像を逞しくさせると、伊都国にある平原王墓1号墳の被葬者は帥升の子孫(孫辺りか?)ではないかと思うのです。



 ※稲用章撮影

 平原王墓1号墳はちょっと特殊な墓で、集落から仰ぎ見られる場所にはなく、まるで人目をはばかるように築造されています。

 もちろん墓域に入ってしまえば普通に目立ちますが、雰囲気的には墓に眠る王の霊が集落で生活している民や子孫を見下して加護する効果は望めないように見えるのです。

 なおかつ、40枚もの驚くべき多量の銅鏡が粉砕された形で副葬されており、どうもこの被葬者は後継者からするとあまり気持ちの良い存在ではなかったのではないかと思えます。

 なお、1号墳の副葬品には武器類があまりなく、勾玉や管玉・耳璫(耳飾り)などの装身具が多いことから被葬者は女性であると考えられているようですが、果たしてそう言い切れるでしょうか。

 1号墳の築造時期は2世紀の終わり頃ですが、「魏志倭人伝」を読むとちょうどその頃、倭国内では男の王が立ち国中がもめたためシャーマンである卑弥呼が共立されたとあるので、もめたときの王(帥升の子孫)を処刑して1号墳に葬ったのではないかと思うのです。

 あれれ、この話しの流れだと、卑弥呼が都した邪馬台国は北九州にあったという流れになってしまいそうですね!

 後になってまた変心するかもしれませんが、奈良の空気と福岡・佐賀の空気を実際に吸った感じを比べると、「肌感覚」として私は北九州説を支持したいと思うようになりました。

 さて、図らずも私が邪馬台国北九州論者であることが露呈してしまいましたが、このチラシの左側のツアーによってまた考えが変わるかもしれません。



 すでに催行は決定していますので、申し込んだのに行けなかったという悲しい事態にはなりませんのでご安心ください。

 ※後日註

 奈良のツアーと総社古墳群&大室古墳群のツアーは満席となりました。

 みなさん、どうもありがとうございます!

 大塚歳勝土遺跡&秋葉山古墳群ツアーの方はまだ少々空席があります。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 それと、上記以外の8月以降に行われる私の講座やツアーについてはホームページ「日本史大戦略」のこちらのページにまとめてありますので、興味のある方は宜しくお願い致します。

 最後に一言。

 どうも邪馬台国とヤマト王権を接続させたいと思う気持ちが強いと、邪馬台国が奈良にあったと考えたり、邪馬台国が東に遷ってヤマト王権になったと考えたくなるように思えます。

 中国の魏王朝が日本列島全部をくまなく知っていたという保証はなく、魏が把握していたのは九州地方だけであり、ヤマトの勢力のことは知らなかったと考えても良いのではないでしょうか。

 九州で邪馬台国と狗奴国がドンパチやっていたちょうどその頃、ヤマトの勢力が纒向遺跡で見られるように力を付けてきてヤマト王権を確立した、という流れのように邪馬台国とヤマト王権を別個のものとして考えても良いのではないかと私は思います。

 ただし、神武の東征の話やそれ以前にヤマトに来たというニギハヤヒの伝承、それに応神天皇が筑紫で生まれたという話などから、北九州の勢力がヤマトに入った事実はあったのではないかと考えています。


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【筑紫の国&火の国歴史探訪その6】吉野ヶ里遺跡<後編:北墳丘墓>

2017-07-24 13:59:07 | 歴史探訪
 北内郭の厳重なゲートをくぐって外に出て、中のムラを通り北墳丘墓を目指していると、甕棺を埋めた墓域に出ました。





 甕棺はこのような感じに地面を浅く掘って埋葬し、その上に土を被せて低い盛り土にします。



 ただ、土の重さで甕棺が潰れてしまうことが多く、そうなると酸性土壌のために遺骨などは消えてなくなるのですが、運よく潰れずに残っていた場合は、遺骨や装飾品が発掘されるのです。

 亡くなった方には失礼ですが、その場合は大変貴重な資料になるんですね。

 甕棺墓列の先には北墳丘墓が見えています。





 あの棒みたいなのは何でしょう。



 なお、北墳丘墓は吉野ヶ里の王が眠っているのですが、墓道が吉野ヶ里のムラの外からつながっているということは、吉野ヶ里を盟主と仰ぐ近隣のムラから参拝にきていた人がいたということになります。



 墳丘墓の北側の眺望。



 北墳丘墓は中に入れるようになってますよ!





 では、中へ入って見ますか。





 吉野ヶ里のムラの14代の王が眠っていたんですね。

 14代と言ったら江戸幕府や室町幕府に匹敵しますね。

 もともとはこんな感じだったようです。







 さきほどの甕棺墓列はこちら。



 正直、この模型はなんか気持ち悪いですね。











 この地域の特色で面白いと感じるのは、一般人も王も甕棺に葬られるところです。

 しかしそうは言っても、王の甕棺はこのよう外側を漆で黒く塗って、ゴージャスにしているんですよ。







 よし、これでツアー当日にお客さんを案内する場所に関してはちゃんと見れたぞ。

 田手川を渡り、有料ゾーンから抜けます。



 お腹が空いているのでレストランで何か食べようと思いましたが、やっぱりゆっくり食べている時間はもったいないです。

 お土産も売っていますか、ここでしか手に入らない歴史関連の書籍はありません。

 ガイダンス施設ものぞいてみます。





 ところで、古代史好きな人にとっては邪馬台国は大変面白いテーマですよね。

 私が邪馬台国について本格的に調べ始めたのは2011年でしたが、そのときは邪馬台国関連の書籍を購入したものの、奈良や北九州へ遺跡巡りをするだけの体力も経済力もありませんでした。

 何しろ体調が悪くてほとんど働けていなかったからです。

 経済力がないのは今でも同じなのですが、昨年の9月に車を購入したことにより、その翌月、ようやく念願の奈良には行くことができました。

 しかし、吉野ヶ里遺跡などの北九州の遺跡は、飛行機代も掛かりますし、行きたくても行けない場所だったのです。

 ところが図らずも、クラツーから当地方のツアーガイドを任され、そのおかげで今日はこうして吉野ヶ里遺跡に来ることができています。

 今日はとくに何の苦労もなく佐賀に来ていますが、数年前の自分の状況を思い出すと、今の自分はとても恵まれた状況にいるんだなあと痛感します。

 なので、クラツーにはとても感謝していますし、もちろんお客さんがある程度の人数が参加されないとツアー自体が催行されませんので、ツアーを申し込んでいただいた客さんたちにもとても感謝しています。

 本番では皆さんに喜んでいただけるよう、楽しくて知的好奇心を刺激する話をしようと思います。 

 今日乗っているヴィッツくん。



 スピードや加速能力を雷電號と比較したら可哀そうですが、いつも掃除の仕事で乗っている天正17年號よりかは全然いいです。

 小さな車なのでとても機動性がよく、細い道でもヌルッと入って行けるので移動距離が短い歴史めぐりをする場合には最適な車ですね。

*     *     *


 北九州の邪馬台国関連のツアーは今年はもう終わってしまいましたが、同じく邪馬台国をテーマにした奈良のツアーが12月16日~17日に催行します。



 ※後日註

 奈良のツアーと総社古墳群&大室古墳群のツアーは満席となりました。

 みなさん、どうもありがとうございます!

 大塚歳勝土遺跡&秋葉山古墳群ツアーの方はまだ少々空席があります。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 お陰様で、今年一杯の土日のスケジュールはほとんど埋まりました。

 8月以降の私の講座についてはホームページ「日本史大戦略」のこちらのページにまとめてありますので、興味のある方はぜひどうぞ。

 というわけで、すでに来年度のツアーや座学についてもう考え始めています。
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【下野国分尼寺跡】想定外の下野古代史探訪 その2【しもつけ風土記の丘資料館】

2017-07-23 22:23:09 | 歴史探訪
 下野国分寺跡を見学したため、隣接している国分尼寺跡を見ないと片手落ちになりますね。

 なので、尼寺跡にも寄らせてもらいました。

 尼寺跡は、「尼寺公園」と呼ばれているようですね。



 説明板。



 標柱がありますよ。



 説明板の一部を拡大。





 伽藍配置。



 さっきは尼寺公園と書いてありましたが、大きくは天平の丘公園というくくりなのでしょうか。



 図の中に前方後円墳のようなものが描かれていますが、本物の古墳ではないようですね。

 では行きますよ。

 中門跡。



 あれ、南門跡ではなくいきなり中門跡ですね。



 金堂跡の基壇を見ます。





 金堂の後ろには講堂が。





 一番奥は尼さんたちの生活の場である尼坊跡です。



 北側から講堂跡とその先の金堂跡を見ます。



 尼寺にも鐘楼があったんですね。



 基本的な構造は僧寺と同じですね。



 義父が車から出てきたので一緒に散策します。



 淡墨桜というのが有名みたいです。



 この桜です。



 この近くには綺麗な桜並木があって、桜の季節は結構人出があるそうですよ。

 尼寺跡を一通り見た後は、いったん車へ戻って妻たちに「ちょっと資料館で図録買ってくる」と伝えて資料館へ走って行きます。





 図録を購い、無料の資料をササッと集めると、せっかく来たので2秒で館内を見学してみましょう。



 あー、こんなジオラマを見だしたら15分くらいは平気で掛かりますね。



 国分寺と国分尼寺のジオラマもいいですねえ。



 うわー、この資料館はゆっくり見たい!

 とてもじゃないですが、2秒じゃ足りないです。





 でも今日はこれがメインで来たわけではないのでこれで満足としましょう。
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想定外の下野古代史探訪 その1【下野国分寺跡】

2017-07-23 19:08:05 | 歴史探訪
コンデジを手に国分寺跡へ向かいます。









 よし、今日は時計回りで見よう。

 スタート地点である駐車スペースがある場所は、南側のようです。

 では行きますよ。

 ・・・おっと、いきなり古墳ですと!



 国分寺に隣接した西側には甲塚古墳があるんですね。



 しかし墳丘の踏査をすると時間がかかるので、今日は素通りします。



 まずは南門。





 南門は具体的にどのような門だったのかは分かっていませんが、現在は柱を2本立てて、見学者のイメージを喚起していますね。

 南門から中心部分を見ます。



 南門をくぐると国分寺の境内です。

 今度は南大門が現れました。



 南大門の先は伽藍が立ち並んでいました。



 右上の図のように、南大門と北門の間の空間は築地塀によって画されていたのです。



 さらに進むと今度は中門。





 全国に60以上の国分寺が建てられましたが、平面プランはすべて同じではなく、下野国分寺の場合は、中門と金堂が回廊で結ばれていました。



 中門跡から回廊跡を歩き、金堂跡を眺めます。



 金堂というのは普通のお寺でいうところの本堂で、仏さまが安置されていました。

 回廊の角部分から金堂跡を見ます。





 下野国分寺は鐘楼の跡も分かっているんですね。





 僧たちが普段生活していた僧坊を北側から見ます。





 僧坊と金堂の間にある講堂。





 講堂を南東側から見ます。



 これは珍しい、経蔵です。





 金堂を北東から見ます。



 ※後で気づきましたが、金堂の説明板の撮影を落としていました!

 ある種、国分寺の一つの見どころと言うか、華ともいえる七重塔跡。



 こんな感じの高さ60mの塔が建っていたんですよ。





 火災によって南側に倒壊したことが分かっているようですね。

 武蔵国分寺の七重塔も落雷によって倒壊したのですが、武蔵の場合は地元の有力者の支援で建て替えをしています。



 これで一通り見たかな。

 甲塚古墳、気になるけど今日は諦めます。



 また会いに来るよ・・・

 おっと、南側駐車スペースの方に詳しい説明板がいくつもあった!













 古墳もいっぱい。



 いやー、楽しかった。



 ⇒このつづきはこちら
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【筑紫の国&火の国歴史探訪その5】吉野ヶ里遺跡<中編:北内郭>【吉野ヶ里遺跡は邪馬台国か?】

2017-07-17 08:33:00 | 歴史探訪
 吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)はとても広大なので、前回の記事ですべてを紹介することができませんでした。

 なので今回はその続きをご報告します。

 ところで、今日も早朝からひとしきり歴史をしたので、日中は家の掃除をしようと思っています。

 2階のリヴィングにあるPanasonicの自動お掃除機能付きエアコンをやりますが、寝室のノーマルエアコンもやりたいと思っているものの、そっちは本体の取りつけ歪んできており、若干水漏れがしています。

 私はエアコンの掃除はできても再取り付けをすることはできず、どうしようか思案中です。

 あとはお風呂をやって、さらにキッチンのガス台の頑固な油汚れは妻には手に負えないので私の出番ですね。

 そういえばさっき、私の部屋の壁をかなり大きなムカデさんが歩いていました。

 この家に住んで13年ですが、今までほとんどムカデさんは見たことがなかったものの、つい先日も見つけてしまい、その時は仕方なくゴキブリ用の殺虫剤で殺害しました。

 息を引き取るまでかなりもがいていたため、なんだか可哀想に思えたこともあり、さっきのムカデさんは捕獲して外に逃がそうと思ったのですが捕獲に失敗しました。

 なので私の部屋のどこかに潜伏していると思いますが、かなり大きいので妻や母が見たら驚愕すると思いますし、私も再び驚愕すると思います。

*     *     *


 南内郭を出て北内郭を目指します。

 ちなみに南内郭の北側の出入口から外に出ましたが、そこは入園者が歩きやすいように作られた出入口で、当時のものではないです。

 説明板があります。



 おや、環濠に降りれるですと?



 中世の城郭が好きな人は堀を見ると降りたくなるんですよね。

 ではお言葉に甘えて。



 ここは堀の断面がV字ですが、場所によっては台形もあります。

 堀底でほくそ笑み、戻ります。

 北内郭の西側にある「中のムラ」に来ました。

 お、酒造りの家。





 中のムラから古墳のような北墳丘墓が見えますが、まずは北内郭を見てからです。



 北内郭のゲートの前に来ましたよ。



 かなり厳重になっています。





 北内郭はこの説明の通り、吉野ヶ里のムラだけでなく、このムラを盟主とあおぐ吉野ヶ里の「クニ」にとっても最もコアなゾーンです。

 なので普通の人は出入りすることはできず、警備も特別に厳重なのです。

 北内郭の堀は二重で、入口は中近世の城郭のように枡形状を呈していますよ。

 郭中に入ると非常に閉鎖された雰囲気を醸し出しており、巨大な祭殿が復元されているのに圧倒されます。





 でも現在、北内郭の建物は修復作業中らしく足場が組まれている建物もあります。

 ※7月8日にクラツーでご案内した時は、このように主祭殿が足場とシートで囲まれていました。



 主祭殿は3階建てになっており(正確には高床式の2階建てか?)、当時こんな立派な建物が本当に建っていたのかなあと疑問に思う人もいるようですが、きっとこういう建物があったのでしょう!

 ではお邪魔しまーす。

 おっとスミマセン、会議中でしたか。



 今ちょうど、吉野ヶ里のクニの王や各ムラのリーダーたちが集まって重要な会議をしているところでした。

 中央に南面しているのが王です。

 そして王から見て右側に居流れているのが、各ムラから集まってきたそのムラの代表者と従者たち。

 3列目には会議の後の打上げで演奏をするミュージシャンが座っています。

 左手の赤い服を着ている人たちが、このムラの中での幹部級の人たち。



 赤い服の人たちは男女交互に座っていますが、夫婦とか兄妹とかではなく、この頃は女性もリーダーになれたことを表現しています。

 たまたま男女がペアのように並んでいるだけです。

 ちなみに、仮にここが邪馬台国だったとすると、今の説明は少し違ってきますね。

 すなわち、王は卑弥呼の弟となり、右手の人たちは伊都国や奴国などから集まってきた各国の王たちで、左手の人たちが邪馬台国の直轄地内のリーダーたちという説明になります。

 果たして真実はどちらかな?

 さて、それはそうとして本日の議題なんですが、王の前に稲穂が置かれていますよね。

 つまり稲の実り具合を見て、刈り取りの日取りを決定するための会議が行われているわけです。

 一応、「俗」の世界である王たちが話し合って決めるわけですが、判断に迷う場合やもっと確証が欲しい場合はこの上の階にて、「聖」の世界にいる巫女(ふじょ。シャーマン)が決断を下してくれるのです。

 では、上の階へ行きましょう。



 北面して神に祈りをささげているのが巫女です。

 この方が卑弥呼かどうか。

 それについては本人にご確認ください。



 巫女は神がかりするわけですが、それを聴いて俗世の人たちとの通訳に当たるのが審神者(さにわ)と呼ばれる人です。

 巫女の右手にいる「従者」と説明書きされているのが審神者でしょうか。

 そして左手には琴を弾いている人がいますが、交霊するときは琴の音色を流します。

 審神者が琴を弾くこともあります。

 この巫女・審神者・演奏者の3名のキャストは1800年経った現代も変わらず、霊能者の方はよくご存知かと思います。



 では、稲刈りの日取りが無事に決まったようなので、私も安心して主祭殿を後にしますよ。

 ちなみに、この図を見てください。



 建物を作る際には現代でも方位を気にしますよね。

 縄文時代にはすでに信仰の面から方位というのは気にされていました。

 ここ北内郭の独特な”A”のような平面プランの主軸に線を引くと、ちょうど冬至の日入と夏至の日出を結ぶラインになるのです。

 そしてもう一点、主祭殿とこれから訪れる北墳丘墓の主軸を結ぶラインを南へ辿って行くと、ちょうど雲仙岳にぶつかるわけです。

 北内郭を造る上では、こういったことを計算した上で造っているわけですね。

 さて、先ほど主祭殿の議場でいみじくも「吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だったら」という仮の話をしました。

 邪馬台国の場所はいまだに決着しておらず、世の中的には奈良纒向に持って行くようなマスコミ報道とか国家お抱えの学者さんとかの解説がありますが、国家は何を企んでいるか分かりませんし、奈良に決めるのは個人的には早計ではないかと思っています。

 吉野ヶ里が邪馬台国であるという説はこの遺跡の凄さが露わになった30年近く前からあるのですが、その根拠の一つがこの北内郭の独特な構造です。

 邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」に叙せられ、つまり中国の魏という国家の傘下となったわけですが、そうであれば邪馬台国はかなり中国チックなクニ(あるいは都市)であったと考えられるわけです。

 北内郭の平面プランは中国の城郭と同じように、角の部分に櫓を設置するための出っ張りを設けたり、直線部分にも膨らみを設けてそこに櫓を設けたりして非常に似ていることから中国チックですね。

 でも、こんな平面プランの環濠集落なんてどこにでもあるんじゃないの?と思われるかもしれませんが、実は吉野ヶ里を中心とした佐賀平野に濃厚で、他の地域にはほとんど無いのです。

 こういったことが、吉野ヶ里が邪馬台国であったというときの根拠の一つとなっていますので、どうぞご参考までに。

 ※もっと詳しく知りたい方は、この本をお薦めします!

邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」115)
七田 忠昭
新泉社


 それでは続いて北墳丘墓へ行ってみましょう。

 ※今回もだいぶページが重くなったので、北墳丘墓は別の記事としてアップします。
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【筑紫の国&火の国歴史探訪その4】吉野ヶ里遺跡<前編:南内郭および展示室>

2017-07-16 23:40:22 | 歴史探訪
 去る7月8日と9日に一泊二日で行われた福岡・佐賀の邪馬台国ツアーは無事に終了したわけですが、邪馬台国関連のツアーとしては12月16日と17日に奈良のツアーを行います。



 まだ5ヶ月先じゃん・・・

 「歴史への旅」の7月10日号で正式発表されたのですが、昨日(15日)クラツーで講座をやったあとに担当の方に聞いたところでは、すでに4名様のお申し込みがありました。

 本当に早くからのお申し込みありがとうございます。

 埋まるペースが早いことから最少催行人数には達するだろうという目論みで、早くも催行を付けていただけるようです。

 ですので、せっかく申し込んでもツアーが中止になるということはありませんので、検討中の方もぜひお早めにお申し込みしてくだされば嬉しいです。

 ※後日註

 奈良のツアーと総社古墳群&大室古墳群のツアーは満席となりました。

 みなさん、どうもありがとうございます!

 大塚歳勝土遺跡&秋葉山古墳群ツアーの方はまだ少々空席があります。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 それと、邪馬台国関連のツアーは今後も拡張していく予定で、吉備や出雲、対馬や壱岐、そして韓国などのツアーを来年企画したいと思っておりますので、どうぞ楽しみにしていてくださいね。

 では前回の記事の続きです。

*     *     *


 当初は肥前の国庁跡を見学した後はすぐに吉野ヶ里遺跡へ向かおうと思っていたのですが、国庁跡近くに見てみたい史跡がいくつかあったため、それらを見学した結果、結構いい時間になってしまいました。

 カーナヴィを見ながら吉野ヶ里遺跡へ向かいます。

 ところで、このレンタカーのナヴィは、進行方向が常に上になる表示になっているのですが、私は常に北が上になっていないとイヤなのです。

 そうじゃないと、土地勘のない場所でいったい自分がどっちの方向へ向かっているか分かりづらいからです(太陽が出ていなければなおさら)。

 なので設定を変えようと頑張ったのですが、結局変えることができずそのままです。

 次にレンタカーを借りるときは出発時に店員さんに聞いてみようっと。

 下道を30分くらい走り、「吉野ヶ里公園西入口」交差点の近くまで来ると、向こうの方に何やら弥生チックな建物が見えます。



 いや、しかしそれにしても立派な建物だな・・・

 ※後で分かったことには、遺跡内でもっとも立派な主祭殿でした

 吉野ヶ里遺跡は吉野ヶ里歴史公園になっており、駐車場が複数あるようです。

 何しろ初めてなので良く分からないため適当に行くと、公園の正門に一番近い東口駐車場にたどり着きました。

 あれ、無料じゃないんだ。

 310円徴収されました。

 車から降りたら、まずは公園全体の地図を見たいです。

 あった。



 事前に調べた感じではとても広い公園という印象を持っていましたが、これは確かに広いですね。

 とてもじゃないですが全部は廻れないと思いますし、ツアー当日の探訪時間も90分間ですので、とくに重要な場所のみ見ようと思います。

 この範囲だな。



 南内郭、北内郭、北墳丘墓、それに展示室。

 90分ではこれだけになるでしょう。

 では行くよ!



 吉野ヶ里遺跡があるこの場所は昭和の終わり頃に工業団地を作る計画が持ち上がり、遺跡を調査した後は他の一般的な遺跡と同じように破壊されることになっていました。

 ところが、発掘調査をした結果、とんでもなく重要な遺跡であることが分かり、研究者や調査者、そして地元の方々などの努力により破壊を免れることができたのです。

 それが決まったのはちょうど時代が昭和から平成になった頃です。

 当時はまだバブルですね。

 そのせいか、入口周辺の建物はとても豪華です。

 入園料を420円支払い、「天の浮橋」で田手川を渡ります。

 右手の遠方に立派な建物が見えますね。



 さきほど道路から見えた建物でしょうか。



 吉野ヶ里遺跡は、さきほどの全体図を見ていただければ分かる通り、単純な表現をすると、東側を田手川によって護られ、北・西・南に環濠を巡らせています。

 そして、その中に環濠で囲まれた南内郭と北内郭と呼ばれる区域を持ち、それ以外にも部分的に環濠で仕切っているのです。



 まずは最初のゲートへやってきました。



 こういう謙虚なコメントは好感が持てますね。



 事実、弥生時代でも縄文時代でも、例えば住居跡は平面プランや柱の跡などは分かりますが、その上にどんな建築物が建っていたのかは分からないのです。

 ですから、いろいろな原始時代の集落の遺跡を回っていると、それぞれの復元された方々の考えによって建てられていることが分かります。

 なので私たちも鵜呑みにはせず、批判的に見ることも大事ですが、その反面、復元に努力された方々の気持ちを推しはかることも大事じゃないかなと思います。

 ところで、弥生時代の環濠集落は中近世の城郭と違って、土塁を外側にして空堀を内側に造ります。



 ちなみに、弥生時代よりもずっと後の10世紀頃の北東北の防御性集落も同様に土塁が外側なんですよね。

 防御の観点からしたら土塁が内側の方が優れていると思いますので、いつの時代か、誰かがそれに気付いたわけです。

 環濠の内側には逆茂木が並べられています。



 逆茂木が並んでいたのは発掘の成果からも分かっているようですね。



 おや、何かがこちらを見ている・・・



 鹿だ!



 猪もいるぞ!



 私の住む八王子市の高尾でも猪の目撃情報はよく聞きます。

 もし猪を害獣だと思っているのなら、食べてしまえばいいと思うのですが、何で流通しないんでしょうかね?

 美味しいのに。

 南内郭の前に一本切られている堀の前に来ました。



 しかしその前に、展示室を見学してみましょうか。



 あー、中は冷房が効いていて涼しい・・・





 次に行こうと思っている南内郭。



 北内郭はアルファベットの”A”の形をしています。



 私は昔の人が着た服に興味がありますが、弥生時代の衣装の展示があります。



 左側が一般人が着た貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる服で、麻で作られています。



 右側の上層人の衣装は絹を想定していないようですが、弥生時代にはすでに絹があったことは発掘調査により分かっています。



 私はデザインもそうですが、とくに色に興味があるんですよねえ。

 現代人の私たちはありとあらゆる色に囲まれて生活していますが、弥生人はいったいどんな色を見て生活していたのでしょうか。

 衣装は基本的には白・赤・黒だったようですが、もちろん今ほどではないですが、着物を染めるのでもアクセサリーの類でも、黄色・紫・緑などなど、文字通り色々あったようです。

 ちなみに、横浜市のシルク博物館に行くと、各時代の衣装の復元を見ることができて楽しいですよ。

 考古展示。



 甕棺ですね。







 おや、この方は首が無いですね。



 弥生時代は米や財物をめぐって組織的な戦いが始まった時代とされています。





 なお、吉野ヶ里遺跡は中世の遺跡でもあります。



 では、展示室を出ましょう。



 南内郭に闖入しますよ。



 と、その前に説明板を読んでおきましょう。







 説明板に書かれている通り、環濠内のさらに環濠内ということなので、南内郭は特別な区域です。

 吉野ヶ里のムラは、この地域のムラを束ねる拠点的なムラでしたので、それらを統べる王が存在しました。

 その王や「大人(たいじん)」と呼ばれるムラの幹部級の人、そして彼らの家族が住んでいたのがこの南内郭です。





 立派な家は大人の家です。





 お宅拝見。



 弥生時代の前の縄文時代も同じような竪穴式住居に住んでいたように思えますが、縄文時代はまだ伐採してきた木を加工することはあまりできなかったものの、弥生時代になると木を削る釿(ちょうな)が普及したので、柱や梁をほとんど現代と変わらないように作ることができました。



 ちなみに、まだ鉋(かんな)はありませんよ。

 4基ある櫓のうち、2基は登れるようになっているので登ってみます。

 おー、いい景色だ。

 南の方角には、吉野ヶ里のムラを盟主とあおぐムラが点在しており、こうやって標高の高い位置から睥睨していたわけですね。



 現在は南南西の方角、約20kmに有明海がありますが、弥生時代はもっと海岸線が内陸にあったはずです。



 西側の山地。



 これから行く北内郭方面を望みます。



 また下へ降りて、お宅拝見の続きです。

 今度は王の妻の家ですぞ。





 「妻の家」ということは、王は奥さんとは別居だったんでしょうか。

 さらに柵で囲まれた区画に入ります。



 今度は王の家ですよ。



 お邪魔しまーす。



 おっと、団らん中に失礼しました。

 今日はオフのようでラフな格好をしていますが、首飾りは一般人は身につけることはできず権力者の証であります。

 王の家は調度品も良いのです。



 この時代の寝床は土間に敷物を敷いて寝るのでなく、低いベッドのようになっていますね。



 でもこれはシングルサイズだな。

 やっぱり奥さんとは一緒に寝ないのかな。

 いや、多分、日本は中世前半までは夫が妻の家に通うのが普通だったので、きっと王がさきほどの妻の家に夜な夜な通っていたのではないでしょうか(勝手な推測でスミマセン)。



 では、次は北内郭へ行ってみましょう。



 ※画像を貼り過ぎると表示がかなり重くなるのでこの続きは新たな記事を起こします。


 ⇒このつづきはこちら


 ※吉野ヶ里遺跡について知りたい時はこの本が便利です。

邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」115)
七田 忠昭
新泉社


 オールカラーで図版や写真が多いし、厚くないし、実際に調査した方が書いているのでお薦めできます。

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【筑紫の国&火の国歴史探訪その3】肥前国分寺跡/古代西海道/鍵尼遺跡

2017-07-16 13:41:50 | 歴史探訪

 築山公園を出ると何やら石碑が。



 うーん、何でしょうか。

 お、国分寺の交差点がありますよ。

 少し歩くと、説明板が立っているのが見えました。



 きっとあれが国分寺跡の説明板でしょう。

 やっぱりそうでした。



 平面図を拡大。



 手元の『国分寺を歩く』によると、とくに目に付くような遺構は残っていないようです。

 これは塔心礎のように見えなくもないですが、ちょっと違うかな・・・



 講堂跡。



 こちらが金堂跡。



 基壇の一部が残っているようです。

 それでは、金堂跡の横の道を南へ向かいましょう。



 こういう普通の人が見たら何の変哲もない道路の写真を撮っているから不審者と間違えられるんでしょうね。

 石仏が現れました。



 今歩いてきた道を振り返ります。



 何の形跡もありませんが、この道には途中中門跡と南門跡があるはずです。

 そしてこの石仏が面している東西の道が、古代の西海道ですね。

 東を見まーす。



 西を見まーす。



 いや、でも何かこの道の南側を並走する道の方が何となく気になる。

 そっちを歩いてみよう。

 ところが、少し歩いてもあまり魅力を感じません。

 なので、さきほどの道へ合流します。

 おっと、説明板発見!



 だいぶ痛んでいるのが残念です。

 ちょっとした公園になっていますね。



 ここには鍵尼遺跡といって、平安時代始めから鎌倉時代にかけての遺跡があるんですね。

 東オッケー。



 西オッケー。



 それでは、車に戻りましょう。

 あれは先ほど見た「成富兵庫頭茂安碑」が立っている築山ですね。





 ということで、駐車場まで戻ってきました。

 やばい、時刻はもう12時40分だ。

 急いで本来の下見の目的地である吉野ヶ里遺跡へ向かいましょう。

 ⇒このつづきはこちら

 ※ちなみに私はこの日持ち歩いていた『国分寺を歩く』の執筆に加わっています。

国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
稲用章ほか
イカロス出版


 全国の国分寺を網羅的に紹介した分かりやすいガイドブックは他にほとんどありませんので、興味のある方はぜひどうぞ!

 




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【福岡で国際感覚を取り戻す】福岡・佐賀古代史ツアー その2【肥大化する野望】

2017-07-10 20:03:55 | 歴史探訪
 結局昨日も寝たのは25時で、今朝は睡眠不足なはずなのに自然に6時に目が覚めてしまいました。

 今日は8時半に出社すれば良かったので、出勤前に少し歴史をやりましたよ。

 ところで、お陰様で今年の私のスケジュールはもうパンパンになりました。

 クラツーのお仕事も前回の記事に書いた宗像大社と月見のおわら以外にもたくさんいただいています。

 とりあえず、直近のものは今週の土曜日(7月15日)の10時半から、月に1度やっている「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」の第7回目として、「富める奥羽を狙う源氏 ~前九年・後三年合戦~」というタイトルで、前九年合戦や後三年合戦のころ(11世紀)の東北地方の歴史を話します。

 ※後日註

 2017年は引き続き月に1度、東北の古代史・中世史の講座を開催しています。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 つづいて、8月19日(土)もその第8回目として、「エミシのリーダー・アテルイ降伏後の奥羽」というお話をしますが、それよりも一週間前の、8月11日(金)の山の日は「歴史Day」と称して、「関東地方はいつ日本になったのか?」を話します。

 下のは「歴史への旅」の5月10日号のスキャンです。



 さらに、8月27日は(日)は、「グランデ&学び旅フェア」という企画で、「「神宿る島」宗像・沖ノ島と開運遺産群を旅する」と題して、世界遺産認定ホヤホヤの宗像大社についてお話しします。

 みたいな感じで、今週末から8月一杯は外をプラプラするツアーはありません。

 冷房の効いた涼しい部屋での座学だけですね。

 ※後日註

 歴史Day、グランデ&学び旅フェアともに無事催行できました。

 ご参加いただいた皆さん、どうもありがとうございました!


 さらに10月以降は、「歴史への旅」の7月10日号に載っています。



 ※後日註

 奈良のツアーと総社古墳群&大室古墳群のツアーは満席となりました。

 みなさん、どうもありがとうございます!

 大塚歳勝土遺跡&秋葉山古墳群ツアーの方はまだ少々空席があります。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 というわけで、前回の記事の続きで、一昨日・昨日のツアーのご報告の続きをします。

*     *     *


 第2日目は朝目覚めると、結構雨が降っています。

 上がってくれることを祈りつつ、7時過ぎに食堂へ行きバイキング形式の朝ご飯をいただきます。

 結構美味しいですが、それほど食欲があるわけではないので、ご飯は一膳のみで、最後に大好物のパイナップルを食べ、コーヒーを飲んでおしまいです。

 出発前にトイレに行くと・・・

 おっと、どうもありがとうございます!



 雨の中、8時15分に出発。

 あらま、お仕事ご苦労様です!



 DeathK!Nに勤め始めてから、行く先々で仲間の車が目に付くようになりました。

 全国どこへ行っても見かけますね。

 できる限り写真に収めるようにしていますが、できればお店を見つけるたびに「お控えなすって!」って挨拶したいのですが、そんな時間はないですね。

 さて、雨の中やってきたのは、奴国の丘歴史資料館です。

 ここでもボランティアガイドの方に資料館の中と外にある須玖岡本遺跡を案内していただきます。

 かなりベテランのガイドさんらしく、軽妙な語り口でキャラクターが確立されており、みなさんも笑いながら説明を聴いています。

 アカデミックな説明も良いですが、面白い説明もまたいいですね。

 つづいて、板付遺跡へ移動。

 板付遺跡でバスを降りると、やったー、雨が止んでいました!

 でも今回は以前の失敗もあるので「晴れ男」であることを皆さんに自慢したりしませんよ。



 まずは資料館で大きなジオラマを囲んで、実際に発掘をなさった方の解説を聴きます。

 今回は先ほどと違ってアカデミックな説明でした。

 解説の後は、遺跡をKさんに案内していただきました。



 (Kさんには下見の時にもお世話になりありがとうございました。)

 しかしここは福岡空港が近いので飛行機が間近に見えます。

 無謀にもコンデジで撮影に挑みます。







 ところで、今シーズン初めて蝉の声を聴きましたよ。

 東京ではもう少し先ですね。

 板付遺跡の次は、お待ちかねのランチです。

 昨日は車中での自由昼食でしたが、今日はカフェですよ!

 伊都国歴史博物館にほど近い場所にある「集(つどい)」です。



 古民家を改修したような感じですね。

 なかなかお洒落な雰囲気で、女性陣が特に喜んでいます。

 入口にはこんな貼り紙が。



 これを読んでいたら、ある女性参加者から「先生は入っちゃダメですねー」と言われました。

 確かにガイドをしている私が一番最年少なのです。

 皆さんからしたら息子だったり年の離れた弟のようなものなんですよね。

 でも妹からは「お兄ちゃんは小学5年生で止まってる」とよく言われていたので、一応小学生には達していると思います。

 さて、食事はお客さんと私たちスタッフは違うものを食べます。

 私とN津さん、それにドライバーのHさんはカレーです!



 これがなかなか身体に良いように工夫されたカレーで、サラダも付いていてとても美味しいです。

 野菜は地元のものを使っているそうですよ。

 デザートの甘夏ゼリーもミントが良いアクセントになっていて美味しいです。



 お客さんたちはもっと良いものを召しあがっているはずですが、私的にはこれで満足です。

 とても美味しかった!

 というわけで、お腹一杯になったあとは、伊都国歴史博物館を見学です。



 ここでもボランティアガイドの方に館内の解説をしていただきます。

 先ほどの奴国の丘のガイドさんも話が面白かったですが、こちらのガイドさんもとても面白い方でした。

 こういう楽しい雰囲気での見学ってすごくいいですね。

 もっと時間が欲しいくらいでしたが、次は平原王墓へ移動します。



 ここは私が解説します。

 と言っても、さきほど詳しくお話を伺ったので、実物(といっても盛り土は復元ですが)を見ていただいて、補足説明をする程度でいいかなと思います。

 かなり日差しが強くなってきたので、短い時間で済ませたほうが良いですね。

 そんなわけで、またバスに乗り込み、本ツアー最後の探訪地である福岡市博物館へ向かいます。



 ここでも職員の方に国宝の金印だけ解説をお願いします。

 ちなみに入口にある4つの像は有名な芸術家が作ったもので一体1億円ですよ。

 バブル期に建てられた博物館なので立派ですね。



 参加者の方が「福岡って活気があるね」と仰ってましたが、私も同感です。

 その方は前日の夜、久留米の街を歩いたそうですが、ちょうど祭りをやっていたこともあるせいかとても活気を感じたそうです。

 私も福岡は都市圏から離れた場所でも元気があるように感じます。

 ただ単に勝手な思い込みかもしれませんが、やはり金印を光武帝からもらった奴国王の時代から朝鮮半島や大陸との窓口でしたので、2000年間、ずっと活気が続いているのかなあなんて思います。



 さて、ミュージアムショップで妻へのお土産を物色します。

 その結果、金印の刺繍の入ったミニタオルをチョイスしました。



 ピンクもありますが、ピンクはあまり妻らしくない気がして、こちらの方が何となく妻が好きなティファニーブルーに似てるかなと思ったのでこの色にしました。

 というわけで、17時まで目いっぱい見学した後は、福岡空港へ向かいます。

 一応、ここでお客さんとは解散となります。

 皆さん、2日間どうもありがとうございました!

 お腹ペコペコの私は、一人で担担麺を食べながら生ビールで打上げです。



 流石九州。

 ひき肉の下味も甘いですし、スープも甘いです。

 九州は全体的に甘味で、私は母が宮崎の人間のせいか、こういった甘味の料理が大好きなんです。

 帰りの飛行機もボーイング777-200です。

 そしてまたまたあっという間に羽田に到着。

 羽田空港ではお客さんよりも早く到着口へ行き、添乗員のN津さんとともに皆さんを見送ります。

 今回は現地の学芸員やガイドの方に解説をお願いしたことが多かったので、「稲用さん、仕事してないじゃん!」とか言われそうですが、幸いなことに皆さん満足げな表情をしています。

 20名全員を満足させるのは難しいと思いますが、私もサーヴィス業の人間ですから、別れ際に握手を求められたりして、「ありがとう、楽しかったよ!」とか、「また参加させてもらうよ!」とか言ってくださると、下見やレジュメ作成などの下準備から今日のガイドまで睡眠時間を削ってやった仕事が報われた気がして、むしろ私の方がみなさんに感謝する気持ちが溢れます。

 本当にありがとうございました。

 皆さんを見送りN津さんと別れた後、モノレール乗り場を目指しましたが、リムジンバスの切符売り場を見つけました。

 私は飛行機自体ほとんど乗ったことが無いこともあり、リムジンバスは一度も利用したことが無いのです。

 時刻表示を見ると、ちょうど高尾行きに乗れます。

 なのでチケットを購入。

 羽田空港から高尾駅まで1750円なので、JRとモノレールを使うのとそれほど変わりませんね。



 で、初めて乗ったので最後列に座ったのですが、2つの点で失敗しました。

 1点目はトイレが近いのでくちゃい。

 2点目は結構揺れる!

 大人になってからは乗り物酔いはしなくなったのですが、ちょっと気持ち悪くなってしまいました。

 1時間15分で高尾についたので、道が空いている夜中はリムジンバスはとても良いですね。

 次乗るときは前の方にしよう。

 というわけで、23時に帰宅したものの、何だかんだで寝たのは25時。

 そして今日は既述した通り、6時には起きてしまいました。

 あー、睡眠不足は解消できていないなあ。

 今日こそ早く寝ようと思いますが最後に一点。

 私は海外旅行の経験が無く、パスポートすら持っていません。

 先日、クラツーへ行ったときにT治さんが「ゆくゆくは海外も」と仰ってくれたのですが、とてもありがたいと思うものの、海外はちょっと腰が引けます。

 ところが、福岡・佐賀に行って弥生時代の遺跡をめぐった結果、妙に韓国の遺跡にも興味が出てきてしまいました。

 というのも「魏志倭人伝」を探究するには韓国の遺跡を実際に目で見る必要があると感じたからです。

 そうなってくると、もう妄想が止まりません。

 北朝鮮は無理としても、もともと30年以上前から三国志が好きな人間なので、中国の遺跡も見たいと思うようになってしまったのです。

 しかし中国と言っても、私が見たいのは公孫氏が居た遼東や匈奴のいた内モンゴルなどの遺跡です。

 というのも、私は昔から「辺境好き」なので、それ以外にも西域にも行ってみたいですし、ロシアへ入ってバイカル湖も目でみたいです。

 そうなると、チンギスハーン関連のツアーなんかやってみたくなります。

 何しろ、中学・高校で、ゲーム「蒼き狼と白き女鹿」にハマり、井上靖の西域に関する小説を読み、しかも、「バイカル」、「アルタイ」、「タリム」と言った曲を作るくらい好きだったので、福岡へ行って「国際感覚」を取り戻した結果、このようなとんでもない野望が鎌首をもたげてきてしまったわけです。

 と言いつつも、まずはできる範囲からですね。

 5年後、10年後になってしまうかもしれませんが、海外のツアーもぜひやってみたいと思います。

 ※高校生の時に作った「月のタリム」

 

 HUVOの3rdアルバム「カルシウマンの丘」に収録されています。

 さすがに稚拙ですが、大人には作れない異様なエネルギーが内包されています。

 なお、写真は大人になってからライヴ活動をしていた時のものでキーボードを弾いているのが私で、ベースは高校1年からの学友です。





  
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【『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群】福岡・佐賀古代史ツアー その1【祝!世界遺産決定】

2017-07-10 12:33:46 | 歴史探訪
 今日の朝、出勤前にNHKのニュースを見ていたら宗像大社関連の世界遺産が決定したことを放映していました。

 どうもこの範囲だけになるのではないかと言われていましたが・・・



 こんな感じで、結構外国の方々が支持してくださり・・・



 最終的には日本の希望通り、以下の8か所がすべて世界遺産となったのです。



 やったね!

 これで日本には世界遺産が21個となりますが、実はクラツーでは今度、宗像大社のツアーをやるのです。

 7月10日発行の「歴史への旅」の21ページをご覧ください。



 上の段に似たようなツアーが二つ並んでますね。

 左側が最初に造成したツアーなのですが、かなりの反響らしく、クラツー的にも「もう1コース作っちゃえー!」ということになり、私にガイドの話が来て、1泊2日で「みあれ祭」を含めて宗像大社のツアーができました。

 左側は2泊3日ですが、私の方はダウンサイジングされた1泊2日で、古墳の見学も加味されています。



 もし、世界遺産に認定されたことで記念に宗像大社へ行ってみたいと思っている方は、ぜひこの機会一緒に行ってみませんか?

 ※後日註

 このツアーは無事に終了しました。

 ご参加いただいた皆さん、どうもありがとうございました!


 あと、上記以外に3つのツアーと1つの座学が「歴史への旅」の最新号に掲載されており、「歴史への旅」に掲載されていない座学やツアーもいくつかあるのですが、今回のところはお知らせは以上にさせていただき、一昨日(7月8日)と昨日の2日間で私がナビゲートした福岡・佐賀の邪馬台国をテーマとした古代史ツアーの様子をお伝えします。 

 「歴史への旅」の5月10日号に掲載されていた、こちらの左側のツアーです。



 詳細ヴァージョンはまた後日ということで(でもそうはいっても探訪があまりにも多いのでレポート作成が追い付かない)、今日はザーッと流すにとどめます。

*     *     *


 実はまだクラツーでのツアーのお仕事はそれほどやっておらず、確か今日で9回目になります。

 しかも飛行機を使ってのツアーは初めてなのですが、とりあえず4時半に起床して、5時過ぎに家を出て、中央線、山手線、モノレールと、オーソドックスなルートでJALに乗れる第1ビルまでやってきました。

 待ち合わせ場所まで行くと、本日の添乗員さんであるN津さんがいらっしゃいました。

 だいたい添乗員の方はいつも違う方で、先日の群馬の古墳ツアーのときのU木さんのみ珍しく2回目だったのですが、私は誰とでも合わせられると思っているので、それがストレスになることはありません。

 私が到着すると、なんとお客さんは一人を除き、すでに飛行機のチケットを受けとっているということです。

 皆さん早いですねえ。

 もしかして自分で気づいていないだけで、私は遅刻したのか?

 一瞬そう思いましたが、私もチケットをいただいて、保安検査場を通り、搭乗口で飛行機を待ちます。

 この間、もちろん飛行場を眺めてますよー。

 働く車。





 子供のころ、こういう車のトミカ(ミニカー)を持っていましたが、多分まだ屋根裏に仕舞ってあると思います。



 今日乗るのはこの娘ですね。



 ボーイング777-200です。

 働くおじさん。





 こういう自分が経験したことのない仕事をしている様子を見るのが好きです。

 搭乗が始まったので私も一緒に流れて行きます。

 席に着くと、周りにもクラツーのお客さんらしき人が沢山いますが、隣の二人のご婦人は、話している内容からして別のツアーのお客さんのようです。

 出発は10分ほど遅れましたが、飛んでしまうと福岡空港はあっという間ですね。

 福岡空港に着いて、ようやく皆さんにご挨拶です。

 今日は20名のご参加ということですが、以前の私のツアーに来てくださった方のお顔もたくさん見えてとても嬉しいです。

 ドライバーさんの誘導の元、みなさんで駐車場まで移動し、バスに乗り込みます。

 つい先日の豪雨で北九州地方は大きな被害を被り、場所によってはまだ復旧していません。

 まだ雨雲が居座っていると聞いていたので、天気は期待してこなかったのですが、運よく晴れ間も見えています。

 ただ、雨が上がった後なので東南アジアのような湿気。

 あ、東南アジアには行ったことがないので、あくまでも想像です。

 それではいよいよ出発。

 最初に向かうのは佐賀県吉野ヶ里町と神埼市にまたがる国特別史跡・吉野ヶ里遺跡です。

 吉野ヶ里遺跡は吉野ヶ里公園という広い公園になっているのですが、ガイドは付かないので私が案内します。

 ところが、北内郭が工事中になっていて通れない場所があり、私は表示を見間違って皆さんを遠回りさせてしまいました。

 再度道を間違ったらまずいと思って、念のためN津さんに管理センターに電話していただいたところ、心配した係りの人が駆けつけてくれて、ちょうど北内郭で合流したので、ついでと言ったら失礼ですが、少しだけ説明をしていただき面白い話を聞くことができました。

 吉野ヶ里公園では1時間半の時間を確保したのですが、やはりこれでも短いかな。

 つづいて向かったのは福岡県八女市にある岩戸山古墳です。

 おっ、ダスキンさん!



 ここでは岩戸山歴史文化交流センターの学芸員の方に、まず岩戸山古墳を案内していただき、つぎに館内を案内していただきました。









 地元の方にとっては筑紫君磐井は郷土の英雄なので、とても力の籠った解説を聴くことができて楽しかったです。

 つづいて、石人山古墳の横にある資料館へ行き、ここでも学芸員の方にガイドしていただきます。



 館内および、石人山古墳。



 そして弘化谷古墳。



 こちらでもとても興味深い話を聞くことができて、とても良かったです。

 最後、館内でDVDを見せていただき、それが終わったところで17時。

 久留米市のホテルへ向かいます。

 18時から宴会場で参加者全員と私の合計21名で夕飯が始まりました。

 こういうときは、添乗員さんとドライバーさんは別のところで食べるんですね。

 一緒に食べたほうが楽しいと思うのですが、旅行会社の風習なんでしょうか。

 とくにドライバーさんは地元の方なので、地元の話を聞きたいですねえ。

 お客さんたちは、すでに飛行機の中やバスの中でお友達になっている方もいて、基本的には同じ趣味の人たちなので夕飯時もとても和気藹々としていて楽しいですね。

 私はなるべく控えめに下座の一番隅に座り、近くの方々との会話を楽しみます。

 1時間もするともうデザートも食べ終えて部屋を出ていく方が現れ、やがて気が付くと6名だけ3つのグループに散らばって酒を飲んでいる状況になっていました。

 なので、皆さんに声をかけて一つのテーブルに糾合していただき、その後もしばらくお酒を楽しむことにしました。



 でも宴会場は21時に閉めるということなので、皆さんでひとしきり飲んで各々の部屋に散っていきましたが、私はエレヴェーターを降りるときに皆さんに挨拶したところまでしか記憶がなく、気が付いたらベッドの上に寝ていて、時刻は1時半でした。

 最近はだいたいいつもこのパターンで、帰宅してリヴィングに寝転んで1時とか2時に目が覚めます。

 ここ一週間くらい、3時間か4時間くらいの睡眠だったので、その影響もあるかもしれません。

 というわけで、今日はひとまずここまでです。

 ⇒このつづきはこちら
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【筑紫の国&火の国歴史探訪その2】印鑰神社/肥前国分尼寺跡/成富兵庫頭茂安碑【不審者?】

2017-07-02 09:25:08 | 歴史探訪
 昨日(7月1日)は、クラブツーリズムにて群馬の古墳ツアーをご案内してきました。

 こちらの右側のツアーです。



 中型バスに乗れるお客さんの人数は24名なのですが、嬉しいことに予約は満員御礼となりました。

 ただ、お一人だけ直前に都合が悪くなってご参加できなくなり、実際には23名様のご参加となりました。

 みなさん、どうもありがとうございました!

 4月の古代史ツアーに参加してくださった方や、月に1度の座学に参加してくださっている方も多く参加してくださり、とても嬉しかったです。

 初めて私のツアーに参加してくださった方やまだ参加されたことが無い方も含め、次回は10月28日(土)に今回と同じく群馬県内の古墳をめぐりますので、もしお時間がありましたらご参加くださいませ。

 ※詳しくは7月10日に出る予定の次の「歴史への旅」をご覧ください。

 さて、今週の土曜日には上のチラシの左側のツアーが催行となります。

 20名様のご参加予定となっており、早速レジュメ作りを開始しようと思っていますが、その前にこのツアーの下見に行った時の様子をブログに少しだけアップしようと思います。

*     *     *


 初めての佐賀県歴史探訪での一発目は肥前国庁跡を訪ねました。

 最初の予定では国庁跡を見たら本来の下見の目的地である吉野ヶ里遺跡へ向かおうと思っていたのですが、国庁跡資料館で付近の散策マップをいただいてしまい、なおかつ係の人からそれについて教えていただいてしまったので、もうこれは行ってみないと気が済みません。

 お薦めスポットをすべて訪ねることは無理としても、いくつか探訪してから吉野ヶ里遺跡へ向かいます。

 まずは車で印鑰(いんにゃく)神社へ向かい、ここからは歩いて付近を探索してみましょう。



 「印鑰」なんて言われても聴いたこともない言葉だと思う方も多いでしょう。

 まずは説明板をご覧ください。



 先ほど訪れた肥前国庁跡は肥前国府の中心部なわけですが、律令国家はいわゆる「文書主義」といって、何でもかんでも文章を起草して政治的な事務手続きを遂行して行くため、今で言う県庁のような国府ももちろん同じようにしました。

 お役所勤めの方や会社で事務方をやっている方は、「なんでこう、いちいち文章化してやるのかねえ」と、面倒くさいと思うことがあるかもしれませんが、それは1300年くらい前からの日本の伝統であり、なおかつその源流は中国の古代国家なわけです。

 なので、面倒くさいと思ったときは、「三国志の時代みたいだな!」と、古代中国の歴史ロマンに思いを馳せてみると少しはやる気が起きるかもしれません。

 ただ、あまり思いを馳せ続けていると、仕事にならずに上司からゲンコツを食らうかもしれませんのでご注意ください。

 あ、話が逸れましたが、国府の役人が文章を起草した際、責任者の印鑑が必要になるわけですが、最重要書類には国司の印鑑が必要となります。

 やがて律令国家体制が崩壊して行き、国府が稼働しなくなったあとにその印鑑とそれ納めていた蔵の鑰(鍵)を御神体としたのが印鑰神社と呼ばれるものです。

 平将門が940年に常陸国府を襲った際は、まっさきに印鑰を奪いましたが、印鑰があればその国の政治は思うがままに動かせるわけですね(余談ですがこのとき将門に生け捕りにされてしまった常陸介藤原維幾は系譜上は私のご先祖様です)。

 印鑰神社は肥前だけでなく、他の地域にもありますよ。

 社殿に向かって左側の木は立派ですね。



 樹齢300年のクスノキです。



 右側の木もまた同じような樹齢の木でしょうか。



 拝殿。



 側面から本殿の覆屋を見ます。



 境内の様子。



 それではここからしばらくこの界隈をウロウロしてみようと思います。

 手元のマップを見ながらまずは国分尼寺跡へ行ってみましょう。

 住宅街の中を歩いていると、向こうの駐車場に車を止めて出てきたご婦人とすれ違いました。

 すると、すれ違った後にいきなり「何をしてはるんですか?」と声を掛けられました。

 こういった地元の人しか歩かないような住宅街で住民に声を掛けられた経験は過去もあるので、「あ、きた」と思いつつ、手元のマップを見せて「歴史関係の仕事をしている者ですが、国庁跡資料館でもらってきたこの地図を見ながら国分寺跡を探してるんです」と応えました。

 そうしたらご婦人は理解できなさそうな表情を浮かべて少し沈黙した後、「不審者かと思って」と非常に直接的な表現をし、私も歴史歩きでたくさん歩いているため不審者に見られる自覚はあるのですが、一応、「怪しい人に見えました?」と尋ねると、その私と同じくらいの年齢の美しいご婦人は「カメラぶら下げてはりますんで」と言って早足に去って行きました。

 こういう経験をすることはたまにあるのですが、住民の方の気持ちは分かるものの、やっぱり正直不愉快ですね。

 「新!治安維持法」のような変な法律ができたら私なんかすぐに通報される気がします。

 さて、ちょっとムカムカしつつ歩いていると、国分尼寺跡の説明板を発見しました。



 資料館の方に聴いたとおり、肥前国分寺跡の形跡はこの説明板のみです。



 このように普通の民家の前なので詮索はできず、説明板の写真だけ押さえて次へ行きます。

 次は国分寺跡を目指しますが、歩いていると右手に土盛が現れました。

 え?前方後円墳?



 なんでしょうか。

 でも、公園の名前は「築山児童公園」とあります。



 一応、上に登ってみます。



 うーん、なんか微妙。

 おや、碑がありますよ。



 成富兵庫頭茂安って誰だろう。

 何しろ佐賀に来たのは初めてなので、誰のことかサッパリ分かりません。

 ただ、昔「信長の野望」をプレイしまくっていた記憶から、確か竜造寺の家臣に成富って居た気がします。

 しかしこの碑以外に説明板はありません。

 結局この築山が何なのかは分からないまま、先へ行きます。

 ※帰宅してから成富茂安について「Wikipedia」で調べました。それを要約すると以下のようになります(内容の信ぴょう性については裏を取っていませんのでご了承ください)。

 永禄2年(1559)に龍造寺隆信に仕える信種の次男として生まれ、元服前の12歳のときに許可なく合戦場へ行ってみたり、博打に興じる大変な暴れ者で、あまりにも素行不良の度が過ぎるので一族は隆信に茂安殺害の許可を取りに行きましたが、隆信は「もう少し様子を見て、それでも改まらなかったら私が殺す」と言いました。

 それを伝え聞いた茂安は改心して勉学や武芸に励むようになります。

 やがて、天正12年(1584)の「沖田畷の戦い」で隆信が戦死したあとも家中で出世をつづけ、また各地の戦場で武功を重ねて行きました。

 鍋島藩士となったあとは、慶長15年(1610)以降、筑後川の堤防を工事するなどして水害の防止を講じ、灌漑施設を造り新田を開発し、また上水道を建設するなどして、茂安の手がけた工事は細かい物も入れると100ヶ所を超えるともいわれ、現在でも稼働しているものもあることから、鍋島藩の民政の基礎・基盤を造った人物とされています。

 寛永11年(1634)に76歳で死去したときには家臣7人が殉死しました。

 ・・・お、なんか凄い人じゃん!

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