日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【那須古代史探訪 その4】水戸黄門の遺志を偲ぶ美しい墳丘【下侍塚古墳】

2017-05-31 18:42:16 | 歴史探訪
 私の周りには私よりもお金持ちで、美味しいものを食べて、行きたいところへ行ける生活をしている人がたくさんいますが、だからといってその人たちを妬んだりすることはまったくありません。

 もちろん、美味しいものを食べているのを知れば「いいなー」と、正直思いますが、私は妻が作ってくれた料理を食べたり、たかお食堂やラーメン屋などで外食すると、他の美味しそうな料理のことなどは忘れて幸せな気分になります。

 しかしどうして、他人の生活を羨んで妬む人がいるのでしょうか。

 そういう人は、おそらく想像力が足りないのだと思います。

 というのも、一見羨ましい生活をしているように見える人でも、人に言えない辛いことを抱えている可能性が高いからです。

 そんなことは例を出さなくても皆さんご自身に当てはめれば気づくはずですよね。

 それに、ある程度の年齢を重ねてそれなりに経済的余裕がある人は、それまで30年・40年と汗水垂らして、時には血を吐くような努力をして頑張ってきた結果、その幸せを享受しているわけなので、そういう大変なことをする覚悟も度胸もない人が妬んだりするのは、自らの幼児性を露呈させるとても恥ずかしい行為だと思います。

 ところで先日、職場の若い仲間と話していて、とても驚くことがありました。

 彼らがどういう人たちのことを「勝ち組」と呼んでいるかについてです。

 私はそもそも「勝ち組」とか「負け組」という言葉はナンセンスだと思っており、誰しも自分の心の持ちようで「勝ち組」になれると思っているのですが、一般的には例えばビジネスで成功してお金持ちになった人のことを「勝ち組」と呼ぶものだと思っています。

 ところが、ギャンブルに依存している彼らがいう「勝ち組」というのは、生活保護を受給したり、障害を認定されて国家からお金を支給されている人たちのことなのです。

 そういった、働かなくてもお金を得られる人たちのことを「勝ち組」と呼び、「あいつらはいいよなー」と言っているのです。

 今でこそ私は、楽してお金を得ることに魅力を感じませんし、働くことが大好きですが、若いころはやっぱり楽してお金が得られればいいなあとか、仕事に行きたくないなあとか普通に思ったこともありました。

 なので、彼らの言うことも分からないではないのですが、たまたま私は「よりよい人生」というものに気付き、現状とても幸せな日々を送ることができています。

 現在の自分の境遇について嘆く人が一番初めにしなければならないことは、

 ・今の自分の境遇は今まで自分がやってきたことの結果である

 ということをしっかりと認識することです。

 そして、

 ・他人のせいにせず、自分の生き方を反省して、今後どうするか考える

 ということだと思います。

 自分の人生について他人のせい(親や家族や境遇や会社のせい)にするのはみっともない。

*     *     *


 上侍塚古墳を出て湯津上資料館方面へ戻ります。

 湯津上資料館に入る直前に左手に見えた下侍塚古墳が次なる目的地です。



 こちらでもさっきと同じように、宇都宮大学の子たちがゾロゾロと歩いてきます。

 皆さん、すれ違いざまにちゃんと挨拶をして良い子たちですね。



 では、道路を渡って古墳に近接します。



 説明板がありますよ。



 墳丘の図を拡大します。



 下侍塚古墳は上侍塚古墳ほどは大きくありませんが、墳丘長84mの前方後方墳です。



 ここで学芸員の鈴木さんの解説があります。



 下侍塚古墳の特徴は墳丘全体に植えられた松の木です。

 一番初めに松の木を墳丘に植えたのは今回の探訪ですでに何度も名前が出てきている徳川光圀、いわゆる水戸黄門で、墳丘の維持のために松を植え、現在の松はその何代かあとのものです。

 下侍塚古墳は上侍塚古墳とともに国指定史跡に指定されており、松も大事に保護されているんですよ。

 周溝の跡。



 墳丘に登ります。



 往時は葺石で覆われていたと思われ、現在でも河原石が散見されます。



 後方部に登り、前方後方墳ならではの「エッヂ」を確認。



 いいねえ。

 東側に広がる田んぼ。



 後方部から前方部を見ます。



 時間が押しているということで午前中の最後である侍塚古墳群を見るべく墳丘から降りて行きますが、私は一瞬の隙を衝いて前方部へ行き、後方部を撮影。



 後方部の高さは9.4m、前方部は5mなので、4.4mの高低差があります。

 南側の周溝。



 少し東側へ移動し、遠景。



 緑が綺麗な美しい古墳ですね。

 時刻は11時50分を過ぎています。

 予定では12時に終了なので資料館の方々はヤキモキしているかもしれませんが、私個人としては楽しいので時間がオーヴァーしても大丈夫(無責任でスミマセン)。
 
 ⇒このつづきはこちら
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【常陸国”枢要部”探訪07】古墳に来てもやっぱり藪こぎ【二子塚古墳/丸山古墳群】

2017-05-27 17:15:14 | 歴史探訪
 とりあえず部屋の整理整頓および清掃はおしまいです。



 部屋のサイズの割には物が多いので、どうしても行き場所が無くて床に直置きになってしまう本や資料が出てしまいます。

 今日はもう疲れたのでこれでいいでしょう。

 それでは恒例の蔵書紹介です。

 お城関係や平将門の乱関係などと自治体史。



 私は自称「自治体史のソムリエ」なのです。



 博物館などで購ってきた図録など。



 はい、直置きコーナーです。



 奥はこれまた図録。

 私は図録を集めるのが好きな「図録er」(ズロカー)なんです。

 手前はエミシ関連や古代史関連ですよ。

 『多摩のあゆみ』や『武蔵野歴史地理』、古代史などなど。



 こっちも古代史。



 つづいて関東地方の戦国時代や中世史など。



 中世や邪馬台国など。



 原始時代などなど。



 江戸関係の本や地形関係も楽しいですねえ。



 コクピットに座った際に、右手にあって一番手に取りやすい本棚には、お師匠様たちが書いた本や八王子関連の本が並びます。



 これらの本はすぐに取り出して引くための本たちです。



 大ざっぱになりますが、中世、社寺、九州、東北の地自治体史など。



 そしてピンボケしちゃった奥州関係。



 さらにクローゼットを開けると、妻に内緒の秘密の本たちが・・・






























 コロタン文庫って知ってますか?

 そしてさらに機密性の高い資料はもちろん写真に収めておらず公開しません。

 という感じで、比較的多く本を持っていますが、実は私は読書が嫌いで本は読まないんです。

 なんて言ったら、頭がおかしい人だと思われるかもしれませんね。

 もちろん本が嫌いというのは小学校6年生までの話で、今は大好きで、そのせいで頭がおかしくなってしまいました。

*     *     *


 柿岡の佐志能神社の裏手には、二子塚古墳があるそうなので行ってみましょう。

 おお、藪に覆われていますが古墳がありますねえ。



 説明板を読んでみましょう。



 なるほど、墳丘長35mの前方後円墳ですね。

 でもこの藪では墳丘の形を見ることは難しいですね。

 横穴式石室の入口は塞がれているようです。



 後円部を正面から見てみます。



 うーん、なんだか良く分からない。

 それでは藪を漕いで墳丘に登りましょう。

 後円部から前方部を見ます。



 中世の山城に行くと藪を漕ぎながら斜面を登ることがありますが、古墳に来ても同じことをしていますね。

 今度は前方部から後円部を見上げます。



 ほとんど高低差を感じられません。

 おや、隣に大きな古墳がありますよ。



 次はあっちへ行ってみましょう。



 というわけで、本日のファースト古墳は完全に藪に覆われおり、その姿をはっきり見せてくれませんでした。

 多分、恥ずかしがり屋さんなんだと思います。


* * * お知らせ * * *


 8月11日(金)に西新宿のクラブツーリズム本社で「歴史Day」という講演祭りが行われます。



 私も関東地方の古代史について話しますので、興味のある方はぜひおいでください!

 ※後日註

 この講座は無事終了しました。

 みなさん、どうもありがとうございました!
 



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【常陸国”枢要部”探訪06】常陸にも豊城入彦の伝承があるんですねえ【柿岡佐志能神社】

2017-05-27 09:25:40 | 歴史探訪
 もうすぐ梅雨に入ってしまうかもしれないので、お掃除がお休みの今日は梅雨前の良いコンディションで歴史めぐりができる最後の日になりそうです。

 なので、昨日の昼の段階では今日も下野方面へ出張ろうと思っていたのですが、やはり少し疲れており、また部屋の片づけや資料整理をしたいこともあって今日は一日「引きこもりデイ」にすることにしました。

 それに、一昨日、ヴェリーが病院へ行って帰ってきてから非常に調子が悪く、昨日は私が見たことのないほどの悪い容体だったため、今日は一日ヴェリーのそばにいようと思います。

 ヴェリーは特別甘えてくることはありませんが、近くに誰かがいると安心するらしく、スヤスヤと一日中昼寝をします。



 ↑一昨日、妻が雷電號で病院へ連れて行った時のヴェリー

 さて、私は休みの日となると歴史めぐりに出張ることが多いので、行くだけ行ってしまって、探訪箇所のレポートを書くのが追いつかない状況になっています。

 このブログでもレポートを公開していますが、この記事のような簡単なレポートを今まで700本くらいは書いています。

 でもまだ書いていない歴史スポットが400くらいあるのです。

 実はこの探訪してきてレポートを書くという一連の流れが私のライフワークで、周りの人が聴いたらショボイことだと思われるかもしれませんが、私は生涯をかけた仕事だと思っているのです。

 コツコツと書いて行こうと思うので、今日は思い付きで4月15日に茨城県石岡市へ出張った時のレポートの続きをお届けします。

*     *     *


 古代常陸国の枢要部である石岡で古代の史跡めぐりを企て出張ってきたわけですが、近世の一里塚や中世城郭などを探訪し、まだ本来の趣旨には沿っていませんね。

 もちろん、中世城郭も大好きなので、それはそれで良いのですが、柿岡城跡を見た後は、いよいよ古墳めぐりを開始します。

 15分ほど巡航し、八郷総合支所へやってきました。



 これは旧八郷町役場で、八郷町は2005年に石岡市と合併しました。

 この八郷総合支所の入口に、付近の古代史をめぐるための案内図が表示されています。



 グルッと一回りすると2時間20分掛かるようですが、時刻は今9時20分なので、見終わった頃にちょうどお昼ご飯時になりますね。

 ペットボトルのジュースを一本買って出発です。



 初めは佐志能(さしの)神社を目指します。

 歩きだしてすぐ、川が現れました。

 恋瀬川っていい名前ですね。



 桜はまだ辛うじて見ごろの範囲に収まっており、家族連れがカメラを持って遊びに来ています。



 きれいな桜並木ですね。



 あ、ユキちゃんだ!



 山羊の名前は何でもユキちゃんです。

 ていうか、山羊とお散歩って今流行ってるんですか?

 佐志能神社の参道に入りました。



 遠くに鳥居が見えてきましたね。



 鮮やかなピンク。



 鳥居に到着です。



 お、結構な段数!



 石段を登りつめると説明板がありました。



 私は佐志能神社という名前は初めて聞きましたが、説明板によると祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)なのでしょうか。

 佐志能神社の社殿。



 この後、別の佐志能神社へも詣でるつもりなのですが、この近辺には佐志能神社は多いのでしょうか。

 ※あとで調べたところ、ここ柿岡の佐志能神社は式内社である佐志能神社の論社で、論社は全部で4社あるということでした。

 なお、『日本書紀』によれば、豊城入彦は父・崇神天皇の命で東国を治めたとあり、その後の東国の統治に関しては、豊城入彦の孫である彦狭島(ひこさしま)が東国を治めるために下向する途中で亡くなり、その子である御諸別(みもろわけ)が東国で善政を敷いたとされています。

 この3名の皇族が実在の人物だったかどうかについてですが、ヤマト王権が東国へ進出するに当たり、皇族を将軍として派遣した可能性は高く、御諸別に関しては「ワケ」という称号が付いていることから、私は5世紀頃に実在した人物ではないかと思っています。

 おっと、今はこの辺でお話はやめておいて、丸山4号墳を見に行きましょう。

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【那須古代史探訪 その3】全国屈指の大型前方後方墳【上侍塚古墳】

2017-05-25 20:39:47 | 歴史探訪
 古墳時代初期の前方後方墳である上侍塚北古墳を見た後は、すぐ南にある上侍塚古墳へ向かいます。

 おや、上侍塚古墳から大勢の人々が降りてきますよ。



 ※後で知ったところでは宇都宮大学の生徒さんたちでした

 左手には那珂川が流れており、私たちが歩いている場所は段丘の上になります。

 上侍塚古墳の前に来ました。



 さきほど遠景を捉えましたが、近くに寄ると何だかよく分かりませんね。

 上侍塚古墳には説明板がありますよ。



 図面を拡大します。



 ご覧の通りの前方後方墳。

 後方部の墳頂は正方形ではなく長方形なんですよ。

 あと、段築はないようですね。

 西側の田んぼは周溝の名残でしょうか?



 ここで学芸員の鈴木さんの解説を聴きます。

 上侍塚古墳は上の説明板にも書かれている通り、墳丘長114mの前方後方墳で国指定史跡です。

 前方後方墳で100m級というのはかなり大きい部類に入り、栃木県内では足利市の藤本観音山古墳についで2番目、全国を見渡しても7番目に大きい古墳なのです。

 あ、ちなみに藤本観音山古墳の墳丘長は117mなので僅差ですね。

 周溝は私たちが古墳に近接してきた北側には痕跡がなく、東側はすぐに那珂川の段丘崖となってスペースがないため、そもそも周溝はなかったんでしょうか。

 西側の田んぼの地割は何となく周溝の形をかたどっているようにも見えますが・・・

 それでは、墳頂へ上がります。



 墳頂の中央は少し窪んでいて、元禄期の調査の痕跡の可能性があります。

 元禄期の調査というのは、那須国造碑のページに書いたことと関連しますが、黄門様が那須国造碑の存在を知った時に、おそらく碑の近くに国造の墓があるだろうと考えたわけです。

 でも、黄門様は忙しい人なので自ら古墳に張り付いて調査をするわけにいかず、地元の大金重貞らがこの上侍塚古墳を発掘調査しました。

 黄門様の発掘指示は非常に近代的で、担当者に遺物は一点一点スケッチさせ、きちんとした報告書を作成させたのです。

 ですから、この地は「日本考古学発祥の地」とも呼ばれているんです。

 こういう場所で黄門様の仕事を引き継いで働いている鈴木さんたちは幸せだろうし、とても誇れることだと思います。

 さて、前方後方墳の墳頂へ上がった場合、一番見るべきポイントは、後方部の角の部分です。



 もちろん現在の古墳は復元されたものもあるのですが、私はこの部分が綺麗であればあるほど「エッヂが効いてる」と喜ぶのです。

 上侍塚古墳の後方部のエッヂは結構良い線行ってますよ。

 参加者の方が侍塚という名前の由来を聞いていましたが、将軍塚という名前はよくありますが、侍塚というのは聞いたことがありません。

 後方部から前方部を見下ろします。



 かなり高低差がありますよ。

 スペック的には後方部の高さは12mで、前方部が7mなので、5mも高低差があります。

 角度を変えてみると、中世城郭の土塁のように見えますね。



 さて、今日は集団行動なので、皆さんが退却するのに私だけ前方部の墳頂へ行くわけにはいきません。

 参加されている方からも質問が相次ぎ、結構盛り上がってしまったので時間が押してしまっているようです。

 急いで下侍塚古墳へ向かいましょう。

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* * * お知らせ * * *


 8月11日(金)に西新宿のクラブツーリズム本社で「歴史Day」という講演祭りが行われます。



 私も関東地方の古代史について話しますので、興味のある方はぜひおいでください!

 ※後日註

 この講座は無事終了しました。

 みなさん、どうもありがとうございました!
 




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【那須古代史探訪 その2】特殊潜行員らしく積極参加【なす風土記の丘 湯津上資料館&上侍塚北古墳】

2017-05-23 21:49:51 | 歴史探訪
 笠石神社を出て、「なす風土記の丘 湯津上資料館」を目指します。

 目指します、といっても車ではすぐ。

 駐車場に入ると、なんか想像と違って車が多く、駐車場にいた職員の方(後で聞いたら館長さんということでした)から「今日のに参加される方ですか?」と尋ねられたので、「あ、いや、通りすがりの者ですが、今日は何かあるんですか?」と逆に聴き返してしまいました。

 ひとまず駐車場の隅に雷電號を駐めさせていただきます。

 敷地内には民俗資料館も建っており、左手が「なす風土記の丘 湯津上資料館」です。



 「大田原市」と書いてありますが、そうか、私は大田原市に来たんですね。



 と、素っ頓狂なことを言っているように思われるかもしれませんが、そもそも私は一体どこへ来たのかあまり考えていなかったのです。

 本当に行き当たりばったりな歴史探訪なわけですが、資料館のある場所は元々は湯津上村といいました。

 ※あとで調べたら、湯津上村は2005年に大田原市に編入されたのですが、なんと、明治22年(1889)4月1日の町村制施行以来、一度も合併をしたことのない独立不羈な自治体だったのです!

 資料館のコンテンツはこのようになっています。



 付近の歴史案内図も建っていますよ。



 さて、受付に行ってみると10人以上の方々が集まっています。

 受付で「たまたま東京の八王子というところから来たんですが・・・」と、今日の催し物について聴いてみると、付近の古墳を資料館の方が案内してくれるということだったので、「私も参加させてください」と頼んで今日の集まりに加わらせていただきました。

 東国を歩く会では、N島さんに「特集潜行員」と呼ばれていますが、私は結構厚かましいので、楽しそうな集団には積極的に加わってしまうのです。

 というわけで、今日の集まりはこれです。



 資料館のガイドボランティアを養成する一連の講座のうちの第3回目ということらしいですね。

 私は資料館を見学した後、近辺の古墳を見ようと思っていたので、まさに渡りに舟でした。

 午後は下野国府跡や国分寺跡へ行ってみたいので、午前の資料館の展示解説と付近の古墳歩きだけ参加させていただくことにします。

 最初は資料館の解説です。

 十数名の地元の方々に混ざって最後列から解説を聴こうと思っていると、「今日は東京の八王子市から参加された方もいまして」と言われてしまって、これでは潜行していることがバレてしまいますね。

 いや、別にここに来ていることがバレると不味いということはありませんよ。

 ちゃんと妻にも行き先を告げています。

 写真撮影はNGなので写真はありませんが、資料館は上(かみ)と下(しも)の両侍塚古墳に隣接し、先ほど拝観してきた「那須国造碑」も至近にあることから、そららが目玉となっています。

 つづいて、企画展示の解説もしていただき、いよいよ待ちに待った古墳歩きです。

 さきほどここに来るときに視界に入った古墳があったのですが、下侍塚古墳だったんですね。



 まずは、資料館から南の方角にある上侍塚古墳まで南下するようです。

 ちょうど横を歩いていた私と年齢が近そうな方に話しかけると、資料館へは公共交通機関を使って来る場合とても不便で、資料館のすぐ近くまで来る市営バスは駅とつながっておらず、その方(S藤さん)はそれとは別のバスのバス停から歩いて1時間かけて通っているそうです。

 そして他の参加者の方もおっしゃっていましたが、こんな素晴らしい史跡とそれを丁寧に説明している資料館があることを地元の方も意外と知らないそうです。

 もちろん、地元の方のみならず、私のような歴史好きにももっと知って欲しいなあと思います。

 歩いていると、遠くに大きめの古墳が見えてきました。



 上侍塚古墳ですね。

 その左手には小さな前方後円墳のような墳丘も見えます。



 上侍塚北古墳です。



 上侍塚北古墳の前で立ち止まりました。



 まずは上侍塚北古墳の解説からですね。

 学芸員の鈴木志野さんがポータブルなホワイトボードを使って解説を始めます。



 どんなことを説明しているのかというと、上侍塚北古墳の墳丘の土の中には、すぐ横の元々は地表だった部分の土が検出されていることから、周溝を掘った土で墳丘を造ったということが分かるという話をしているところです。

 主として前方後円墳の新旧を見た目で判断するうえで、おおざっぱな見方が2点あるのですが、つづいてそれについても説明いただきました。



 絶対そうとは言い切れないので、あくまでも傾向として考えていただきたいのですが、まず、古い古墳は前方部の幅が細く直線的です。

 一方で新しい古墳はくびれが強調されます(ただし、畿内の最古級の古墳<例えば箸墓古墳>は、前方部が三味線のバチのように開いています)。

 そしてもう一点、古い古墳は前方部と後円部の高低差がかなりあるのに対し、新しい古墳は両者の差が少ないのです(そのため、前方部と後円部の高さがそれほど変わらない古墳は、横から見ると二つの山に見えるので「二ツ塚古墳」とか「二つ山古墳」のように呼ばれていることがあります)。

 これをちょうど、かわいらしい絵で解説していただけたわけです。

 ※あとで鈴木さんの図に関してはご本人から写真掲載の許可をいただきました

 でも古墳自体その名のとおり古いものなのに、「古い古墳」とか「新しい古墳」という言い方は(私もしますけど)面白いですね。

 そういえば、石室を見ると「古臭い」とか「最新鋭でカッコいいねえ」とか思うことがありますよ。

 古墳時代前半は竪穴式石室なので、非常に原始的という感じがするんですが、後半は横穴式石室になって、とくに切石積みの石室は近世城郭の石垣に匹敵するくらいの美しさがありますし、終末期の古墳はかなり仏教の影響がデザインにも現れており、当時のことを想像すると、流行の最先端である仏教の要素を取り入れてかなりモダンだったんだろうなあと思います。

 ところで、上侍塚北古墳は、全長が48.5mの前方後方墳です。

 遠目には前方後円墳に見えたのですが、ここは何を隠そう、前方後方墳の聖地である那須地方なので、本日のファースト古墳は前方後方墳でした。

 上侍塚北古墳の特徴としては、葺石が無く、周囲からは赤色顔料が付着した有段口辺壺(ゆうだんこうへんつぼ)が見つかっていることから、古い形式の古墳であることが分かります。

 古いというのは、具体的には3世紀後半から4世紀前半の可能性があるかもしれません(私見)。

 東国の初期古墳は埴輪を並べず、底に穴のあいた壺を並べることがあります。

 その壺が那須地方では「有段口辺壺」であり、例えば東国の古墳の中でも最古級である群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳では「二重口縁底部穿孔壺(にじゅうこうえんていぶせんこうつぼ)」が並べられていたわけです。



 ↑高崎市歴史民俗資料館所蔵の元島名将軍塚古墳出土二重口縁底部穿孔壺

 それでは次は、侍塚古墳群の中で最も大きい、上侍塚古墳へ行きますよ。

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* * * お知らせ * * *


 8月11日(金)に西新宿のクラブツーリズム本社で「歴史Day」という講演祭りが行われます。



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【那須古代史探訪 その1】日本三古碑の一つ「那須国造碑」【フラッと那須に来ちゃいました】

2017-05-21 09:34:19 | 歴史探訪
 昨年9月25日に高尾幕府に雷電號が配備されてから、私の行動範囲が飛躍的に拡がり、すでに奈良や伊勢へも出張った経験から関東一円だったら間違いなく気軽に出かけられる範囲となりました。

 電車&バス&徒歩移動のときは、多摩地域や都内・武蔵国内、頑張って群馬や神奈川を含めた西関東だったのですが、すでに関東地方全域が私の調査範囲として射程に入っており、かつ今後は東海地方にも侵攻して行こうと思っています。

 そんななか、昨日(5月20日)は急にお掃除の仕事がお客さんのキャンセルによって飛んだので、妻も仕事だったため急きょ下野国方面へ出張ることに決めました。

 ただ、一昨日は家に帰ってきたのが23時を回っており、通常の生活が営める最低限度の睡眠時間である4.5時間の睡眠を確保して5時に起床したため、下調べはほとんどできていません。

 若いころの私であれば、入念に調べてちゃんと行程表を作って、時間通りにポイントを見て回っていたのですが、今はかなり緩くなってしまったので、行き当たりばったりでもあまり気にしなくなりましたよ。

 もちろん、神武號(ノートPC)を持ち歩いているので、出先でWWWを活用することもできますし、雷電號にはカーナヴィも搭載されているので昔のように心配することはないですね。

 ところで、先日もお伝えしましたが、8月11日(金)に西新宿のクラブツーリズム本社で「歴史Day」という講演祭りが行われます。



 ⇒クラツー公式サイト内「歴史Day」のページはこちら

 そこで私も一コマいただいており、関東地方の古代史について話しますので、資料の読み込みだけでなく、できる限り関東各地を歩いて話す内容をまとめたいと思っています。

 そういうこともあって、昨日は下野へ行ってきたわけです。

 それでは昨日の歴史探訪のレポートをいたします。

 ※後日註

 この講座は無事終了しました。

 みなさん、どうもありがとうございました!
 

*     *     *


 5時に起床し、5時半に出発です。

 遠方に出かけるときは5時に出発することが多いのですが、昨日は寝たのが遅かったので、睡眠時間をどうしても4.5時間は確保したかったためいつもより30分遅い出発となりました。

 天候は快晴、絶好の歴史めぐり日よりです。

 今日も雷電號には活躍してもらうよ。



 今日は以前から行きたかった、下野国府跡や国分寺跡をメインにめぐろうと思ったのですが、急に那須地方に行ってみたくなりました。

 那須地方も以前から興味があり、書物を読んだ知識によって、皆さんにお話をするときに「栃木県内でも元々は違う国であり文化が独特」と話しているのですが、実際に現地に行ったことがないのでやはり現地へ行ってみたいのです。

 そのため、事前調査がほとんどできていないものの、那須と言えば「日本三古碑」の一つである「那須国造碑」であろうと思い付いたので、まずは碑がある笠石神社を目指すことにします。

 圏央道は今日も順調に巡航できます。

 久喜白岡JCTからは東北道に入りますが、我が家の至近にある高尾山ICから高速に入ると奥州へも楽にアクセスできるようになったため、近いうちに奥州へも行ってみたいです。

 笠石神社へは矢板ICで降りるようなので、宇都宮ICを越えた後、矢板ICの手前にある上河内SAで休憩を取ります。



 時刻は7時半なので、だいたい2時間くらいでここまで来れるんですね。

 上河内SAから直線距離で50kmも行けば、福島県、つまり奥州に入ります。

 雷電號の配備により、「浅い南奥」も日帰り調査の行動範囲として認識できました。

 ちなみに上河内SAにはこんなお店が入っています。



 休憩を済ませ再び出発。

 矢板ICを降りた後は、峠をいくつも越えるなどして笠石神社は意外と遠い。

 普段のお掃除のお仕事ではカーナヴィは使わないのですが、こうやって旅に出た時はカーナヴィは必須ですね。

 カーナヴィのお陰で無事に笠石神社へ到着しました。



 時刻は8時半です。

 お、説明板がありますぞ。



 説明板の写真を拡大します。



 私は記念すべき第一回那須探訪で、まずはこの「那須国造碑(なすくにのみやつこひ)」を見たかったのです。

 でも境内を歩いてみてもどこにもありません。

 ちなみに「日本三古碑」の一つである多賀城碑は昨年の5月13日に見ています。



 多賀城碑は覆屋の中にあって、写真を撮るのは難しいです。



 ちなみに、もう一つの日本三古碑は群馬県高崎市にある「多胡碑」ですが、私はまだ見ていません・・・

 那須国造碑は、このお堂の中にあるようですね。



 どうも見るためには社務所にお願いする必要があるようなので、社務所へ向かいます。

 あ、猫ちん!



 社務所へお伺いすると奥様がいらっしゃり、「那須国造碑」を見たい旨を伝えると宮司さんが来てくださいました。

 拝観料は500円です。

 はじめ宮司さんから碑についての解説があり、当初は20分くらいの説明ということでしたが、私は好奇心が旺盛なためついついオーヴァーしてしまいました。

 さて、碑は江戸期には横倒れになって放置されており、地元の人たちもその存在は知っていたものの、近づくと良くないことが起きると言われており、ずっとほっぽられていました。

 ところが、延宝4年(1676)4月に岩城出身の旅の僧である円順がこの地へやってきてその噂を聴きつけ、その場所を訪ねたことにより、この日本古代史上記念すべき碑の発見へと繋がるのです。

 ●黄門様はテレヴィジョンの中でなくても偉い人だ

 円順が碑を見てみるとどうも高貴な人物の石碑のように感じます。

 さすがお坊さんだけあってそういった勘に優れていたであろう円順は、里正大金重貞の屋敷を訪ね、このことを報告。

 重貞は学者としても名が知られていた人物であり、碑を実見するために現地へ向かいます。

 そして苔を落として良く見てみると、何と文字が刻されているではないですか。

 重貞はその後、碑の調査を進めたのですが、天和3年(1683)6月に水戸藩の水戸光圀、いわゆる黄門様がこの地にやってきたのをチャンスととらえた重貞は、黄門様に自著『那須記』を献上します。

 黄門様は自ら日本の歴史をまとめた『大日本史』を編してしまうくらい非常に歴史に造詣が深かったため、碑について大変興味を持ち、歴史的な重要性を察知しました。

 また当時の人としては珍しく文化財の保護にも理解がある人だったので、碑を護るためにお堂を建ててくれたのです。

 それが元禄4年(1691)のことでした。

 そして翌年、碑を御神体として笠石神社が創建されたというわけです。

 ところで、今まで私は「那須国造碑」を「見る」と表現していましたが、碑は笠石神社の御神体ということなので「見る」という表現は不適切であり、今後は「拝する」という言葉を使います。

 ちなみに、黄門様の指示で大金重貞とやり取りをしたのはドラマでも有名な助さんですよ。

 と言うと、ちょっと違うかもしれませんが、助さん・格さんはモデルとなった人物がおり、助さんは佐々介三郎宗淳、格さんは安積澹泊がモデルであり、宗淳と重貞がやり取りした手紙が今も残っています。

 さて、碑は明治44年に国宝に指定され、戦後一旦重要文化財に下がったものの、昭和27年に再度国宝に指定されました。

 「日本三古碑」の中では唯一の国宝です。

 では、その国宝那須国造碑を拝ませていただきたいと思います。

 碑は先ほど境内を歩いたときに思った通り、この中に安置されています。



 御神体なので当然のことながら写真撮影はダメですよ。

 碑は日本の古代史を解明する上で非常に貴重な文字資料なわけですが、この花崗岩に刻した文字が大変美しいことから、書画の方面の方々からも絶賛されているそうです。

 確かにとても綺麗な文字で、しかもジーッと見ていると、薬研掘り(断面を見るとV字になっている)で掘られているせいか光が反射して文字が浮き出てくるのです。

 すごい、1300年前に3D技術を駆使しちゃったよ!

 使われている漢字自体も現在の字とは微妙に違うものがあって、それを探すのも楽しいですよ。

 ●那須国造碑とは何か

 さて、ではこの碑は一体何なのかというと、那須国造に任じられていた那須直韋提(なすのあたいいで)の子とされる意斯麻呂(おしまろ)たちが、亡き父を顕彰するために造営した墓碑です。

 そのため、碑には韋提を顕彰する言葉が刻されているわけですが、その中に古代史のロマンがたくさん含まれているのです。

 まずは、のっけから出てくる「永昌」という元号ですが、これは日本のものではなく唐の国で使われたものです。

 西暦にすると689年に当たるのですが、しかも永昌は10ヶ月しか使われなかった元号で、日本国内の全史料をあたってもここにしか出てきません。

 さらに文章自体とても難しい漢文なので、当時この文章を考えることができた人はやはり渡来人と考えて良いでしょう。

 その証拠に、この笠を頭にのっけた形状の碑は、新羅の500年代の碑として半島に5~6個あるそうです。

 ●「評」と大化改新

 そして私が最も惹かれるのは「評」の一文字です。

 『日本書紀』を読むと、645年以降の大化改新にて日本国内では「国-郡」という行政区画がすぐにも完成したような印象を受けるのですが、それがきちんと制度として確立するのはまだまだ数十年かかったと考えるのが現在の一般的な考え方です。

 以前は大化改新当初から「郡」という行政区画があったとされていたのですが、戦後の研究により、どうも当初は「評」と呼ばれていたらしいことが分かってきました。

 「郡」も「評」も「こおり」と読むので読みは一緒なんですが、郡の長官は郡司であり、評の長官は評督(こおりのかみ)と呼ばれていたのです。

 いつから評が郡になったのかとか、そもそも評って信用していいのかとか、喧々諤々の議論があったところ、那須国造碑に「評」が使われていることと、奈良平城京で見つかった木簡などの考察から、大化改新によって発足した孝徳政権によって「天下立評」が行われ全国に「評」という行政区画が誕生し、その後それらが「郡」に変わったことがはっきりしました。

 ちなみに、国造(くにのみやつこ)というのは大化改新以前の蘇我政権の時代に列島各地を治めた有力者で、彼らはまだ半独立的な勢力で、彼らがいるがために中央政府は地方から直接税金を取ることができなかったのです。

 大化改新のコンセプトのなかでもっとも重要なのはそういった地方の有力者の支配を解体させ、中央集権的な国家を作ることでした。

 つまり列島各地から直接税金を取りたかったのですね。

 そして列島各地の中でもとくに東国の支配を強化しようとしたことが読み取れます。

 ですので、国造という人たちは大化改新後は評督、そして郡司へと、つまり「地方の王」から「地方公務員」へ転換して行ったわけですが、碑で顕彰されている国造の韋提は689年に評督に任じられたわけなので、大化改新以降の行政改革の進行度合いはそれほど早くなかったことが伺えます。

 なお、国造という役職はその後も完全に無くなったわけでなく、旧来の権力者が宗教面を引き継いで存続したケースもありました。

 というわけで、予備知識が無く来たため、宮司さんから聴いた内容の受け売りと、以前から大変興味を持っている大化改新前後の知識を織り交ぜてご説明しました。

地方官人たちの古代史: 律令国家を支えた人びと (歴史文化ライブラリー)
中村 順昭
吉川弘文館

 ↑郡や評の長官はどのような仕事をしていたのかなどが分かりやすくまとめてある本です。

 時刻は9時20分。

 つづいて、すぐ近くにある「なす風土記の丘 湯津上資料館」へ行ってみましょう。

 ⇒つづきはこちら
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【相模古代史紀行 その9<最終回>】秋葉山古墳群【地味な作業を偏執的に続けています】

2017-05-07 11:23:39 | 歴史探訪
 この記事をアップすることにより自分の中でGW中にアップしようと思っていた記事を全部アップすることになります。

 このGW中、4月29日、5月3日、4日と3回歴史探訪に出掛けていますが、いつも外に出てばかりでブログの方が全然追いつかないため、せめてこの3日間の探訪記事はすべてアップしようと決めていたのです。

 3日でめぐった箇所は以下の通りです。

 【4月29日】

 ・寒川神社(神奈川県高座郡寒川町)
 ・前鳥神社(神奈川県平塚市)
 ・相模国府跡(同)
 ・平塚市博物館(同)
 ・塚越古墳(同)
 ・海老名市温故館(神奈川県海老名市)
 ・相模国分寺跡(同)
 ・相模国分尼寺跡(同)
 ・秋葉山古墳群(同)

 【5月3日】

 ・河原子台Ⅱ-3遺跡(千葉県白井市)
 ・旧御子神家住宅および旧平野家住宅(千葉県印旛郡栄町)
 ・岩屋古墳(龍角寺105号墳)(同)
 ・龍角寺101号墳(同)
 ・旧学習院初等科正堂(同)
 ・龍角寺53号墳(同)
 ・風土記の丘資料館(同)
 ・みそ岩屋古墳(龍角寺106号墳)(同)
 ・龍角寺(同)
 ・浅間山古墳(龍角寺111号墳)(同)

 【5月4日】

 ・野本将軍塚古墳(埼玉県東松山市)
 ・女体山古墳(群馬県太田市)
 ・太田天神山古墳A陪塚(同)
 ・太田天神山古墳(同)
 ・保渡田八幡塚古墳(群馬県高崎市)
 ・井出二子山古墳(同)
 ・かみつけの里博物館(同)

 以上、26記事をアップすることができました。

 私は歴史めぐりを本格的に始めてから極力レポートにまとめるようにしており、このブログとHP「日本史大戦略」を合わせると、現在481本のレポートをWeb上に晒していることになります。

 もちろん簡単な記事もあれば異様に詳しい記事もあるのですが、それに加えて、過去「奥州城壁癖」というHPをやっていた頃は、そこに200以上のレポートが上がっていたので、合わせると700本くらいはレポートを書いてきたことになります。

 こんなことはとても些細なことなのですが、粗末なものでも書き続けていたお陰で、歴史ツアーの仕事をしたり講演をしたりするときの素材として大いに役立っているのです。

 本当に私は地味な作業を偏執的に続けることができる奇妙な男だと思います。

*     *     *


 相模国分尼寺跡を出て急いで秋葉山古墳群へ向かいます。

 実はあまり正確な場所に着いては知らないのですが、上今泉4丁目というところまでは分かっているのでとりあえずそこへ行きますよ。

 秋葉山古墳群は尾根の上に古墳が並んでいることも知っていますので、上今泉4丁目まで来たら、あとはひたすら高い場所を目指したことろ・・・

 見つけました!



 お、親切な説明板ですね。

 左半分。



 右半分。



 もうだいぶ陽が傾いていますが日没までにこの古墳をすべて見ましょう。

 秋葉山古墳群は座間丘陵の細尾根に乗っかっているのですが、古墳群のある場所は海老名市内で最も高い位置であり、標高は80mほどあります。

 まずは1号墳。



 墳丘長59mの前方後円墳で、古墳群では一番新しい古墳ですね。

 前方部に登って後円部を見ます。



 後円部から前方部を見下します。



 墳丘から東側の眺め。



 つづいて2号墳。



 墳丘長50.5mの前方後円墳です。



 前方部に登って後円部を見ます。



 後円部から前方部を見下します。



 って、さっきと同じ動作をしていますね。

 墳頂には碑が建っています。



 説明板によるとこの古墳を秋葉山と呼んでいるようです。

 秋葉神社でもあったのでしょうか。

 墳丘から石段を見下すと意外と高いですよ。



 ついで3号墳。



 現況を見ると円墳なんですが、本当は前方後円墳でした。



 3号墳は細尾根の屈曲部にあるのですが、この部分だけやや尾根が広くなっており、それをうまく利用して前方後円型のデザインにしています。

 ただし、前方部は短めで、いわゆる帆立貝型のようになっており、元々の墳丘長は約50mだったようです。

 墳丘長は1号墳や2号墳と同じくらいですが、3号墳の後円部の直径は40mもあるので、この直径で普通の前方後円墳を築造していたら古墳群でもっとも大きな古墳になったことでしょう。

 墳頂にはどなたかの銅像の台座のようなものがありますね。



 戦時中に供出されてしまったのでしょうか。

 それと、3号墳のみ墓壙(竪穴式石室)の調査が実施されており、北東から南西に主軸を持つ長辺が9m、短辺が6~7mほどの大きな墓壙があるそうです。

 また、墓壙のスコリア層からは高坏と台付鉢が見つかっており、高坏は在地化が進んだ東海系の高坏です。

 やはりどうしても東国の初期古墳には東海地方の勢力の影が見え隠れしてしまいます。

 ただし、周溝から見つかった5つの壺は弥生時代後期からの地元の系譜をひく土器でした。

 説明板の編年では一番古い古墳となっており、前方後円墳の3号墳と同時期に前方後方墳の4号墳が築かれていることになっていますが、さきほど郷土資料館の方とも話したのですが、一般的に見た場合は前方後方墳の4号墳の方が古いと考えられますね。


 ただもし、同時期に造られたとなるとこれは日本の初期国家と東国との関係を考える上で非常に面白い素材になり、いろいろな歴史ロマンを想像してしまいます。

 墳丘から西側の眺め。



 今日散々見てきた大山です。





 ここで一旦道路に出ます。



 つぎに5号墳。



 一辺が20mの方墳です。



 尾根の上に古墳が並んでいる様子は、以前訪れた同じ神奈川県内の稲荷前古墳群に雰囲気が似ています。



 そして最後は、もっとも楽しみにしていた4号墳。



 秋葉山古墳群でもっとも古い墳丘長37.5mの前方後方墳です。



 でも残念ながら墳丘は住宅開発のために少し削れていました。



 後方部から前方部を見ます。



 墳丘から東側の眺望。



 既述した通り、秋葉山古墳群があるこの尾根上は海老名市内で最も標高の高い場所で、東西ともに眺望に優れています。

 ここよりさらに北にも6号墳があるらしいですが、これにて駐車場へ戻ります。

 今知りましたが、ここは「上今泉自然公園」って言うんですね。



 日没までにギリ間に合いました。





 駐車場はこんな感じで結構広いです。



 秋葉山古墳群は海老名市内にある3つの古墳群の中で最も古い古墳群です。

 秋葉山古墳群の中でも最も古い4号墳は3世紀後半の築造とされており、これは関東地方の古墳の中でも最初期に当たります。

 私はとくに初期古墳が大好きで、先日のクラツーのツアーでも群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳をご案内しました。

 関東地方の発生期古墳は前方後方墳が多く、遺物を見ても前方後方墳の聖地である東海地方の影響がかなり強いです。

 ところが、その20~30年後には前方後方墳を築いた勢力も畿内の勢力の影響の強い前方後円墳を造ることになるのです。

 ということは、関東地方はヤマト王権の支配下に入るより前に、東海地方の政権の影響下にあった可能性が濃厚になります。

 東海地方の政権とはいったい何か。

 ロマンが膨らみますね。

 ということで、帰途に着きます。

 帰りは下道で帰っても良かったのですが、何となく圏央道に乗ってしまいました。

 せっかくなので厚木PAに寄って夕飯を食べます。



 お、B級グルメか、美味そうですねえ。



 勝浦タンタンメンに決定!



 実は勝浦タンタンメンはカップラーメンはしょっちゅう食べていましたが、こうしてお店で食べるのは初めてなのです。

 やっぱり辛いラーメンは美味しいですねえ。

 お腹一杯になったし、早く家に帰ろうっと。

関東古墳探訪ベストガイド
東京遺跡散策会
メイツ出版

 ↑関東の古墳をめぐるに当たり、どこへ行こうか考える際に便利なオールカラーのガイドブックです。初級者の方はまずはこの本で紹介されている古墳をめぐれば、徐々に関東の古墳の面白さにハマって行くことでしょう。秋葉山古墳群も紹介されています。

 ※後日註

 2017年11月18日(土)に、クラブツーリズム主催で、ここ秋葉山古墳群も探訪するツアーが催行されます。



 このチラシの右下のがそうです。

 他に、大塚歳勝土遺跡や相模国分寺跡などもめぐりますよ。

 興味がある方は、下記リンクからどうぞ。

 ⇒クラブツーリズムの公式サイト

 なお、他の2本はすでに満席となっており感謝です。



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【相模古代史紀行 その8】一部だけでも保存されていることが嬉しい相模国分尼寺跡

2017-05-07 09:25:46 | 歴史探訪
 相模国分寺跡を見学した後は急いで国分尼寺跡を目指します。

 車では数分の距離です。

 現地に着いて周囲を走ってみましたが、郷土資料館の方に聴いていたとおり、駐車スペースがありません。

 仕方がないので極力邪魔にならない場所に駐車して急いで見てくることにします。



 賑やかしかった国分寺跡に比べると国分尼寺跡はまったく閑散としており、人っ子一人いません。



 中央にはお堂があります。



 庚申堂だそうです。



 現在こうして尼寺跡として敷地が確保してあるのは金堂跡とその周辺だけだと思いますが、この範囲だけでも保存されているのは嬉しいですね。

 礎石らしいものもあります。



 全国には場所が分かっていない国分寺尼寺跡もありますからね。



 男の僧侶のいる国分寺に対して尼寺である国分尼寺は規模が小さく、また廃絶の時期も早い傾向にありますので、遺跡が見つからない場所もあったりするのです。

 中国でも国分寺のような寺はあったのですが尼寺は無く、日本の場合は多分、聖武天皇の奥さんが「えー、男だけ寺を造ってずるいわー」とベッドの上で愚痴ったのが国分尼寺創建のきっかけではないかと私は勝手に考えています。

 聖武天皇はきっと優しい旦那さんだったのでしょう。

 さて、車のことが気がかりで長居できませんし、なおかつ今日中に秋葉山古墳群を探訪したいので、サラッとこの辺で探訪を追えます。



 時刻はもうすぐ17時半になります。

 つい数週間前までだったらすでにアウトの時間ですね。

 秋葉山古墳群へ向かいましょう。


国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
稲用章ほか
イカロス出版

 ↑全国の国分寺と国分尼寺を網羅したガイドブック的な本です。こういった読みやすい本は近年では出版されていませんので、国分寺に興味を持った初心者の方や全国の国分寺について網羅的に知りたいという方にお勧めです。私も一部分執筆しています。

 ⇒このつづきはこちらです
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【下総古代史探訪 その10<最終回>】龍角寺浅間山古墳まで2秒の間に走って戻ってくることはできなかった・・・

2017-05-07 08:07:35 | 歴史探訪
 昨日、8日間の乗船勤務を終えて帰着した妻はヘロヘロになっており、寝不足&過労状態で昨夜は21時過ぎには就寝してしまいました。

 私も22時には眠くなったので寝たのですが、私は早起きさんなので5時半に普通に目が覚め、昨夜は構ってもらえなかったので横で寝ている妻にちょっかいを出したところ怒られてしまいました。

 そうですよね、一晩寝たくらいでは復活しませんよね。

 なので、私はスゴスゴと自分の部屋へ来て早朝から歴史を始めたわけです。

 もう8時を過ぎましたが、ヴェリーともどもまったく目が覚める気配がありません。

 今日は原稿を書く仕事を少しして、あとは庭の草むしりをして、今度の土曜日にクラツーの講座で東北地方の鎌倉時代について喋るので、その資料を作ろうと思います。

*     *     *


 龍角寺ではボランティアガイドの方から面白い話を聴かせていただき、会話も弾んでしまったためにもっと詳しく見たかったのですが、まったく興味が無い母と妹を待たせているので、今度また一人で来てじっくり探訪したいと思います。

 そしてようやく帰れると二人は思ったと思いますが、ところがどっこい、やっぱり浅間山古墳を見たい。

 せめて説明板を写真に収めるだけでもいいので、現地へ向かいます。

 最初から行く道が分かっていれば房総のむらから歩いて行ったのですが、既述した通り行き方が分からず断念したため、改めて龍角寺側から車で向かってみます。

 ところが、古墳の近くまで来たところ駐車スペースがありません。

 なので路駐させ、2秒で戻ってくるつもりで古墳までダッシュです。

 林の中にありました!



 もちろん今日は墳頂には登れません。





 よし戻るぞ!

 惜しくも2秒では帰ってこれませんでしたが、これにて本日の「下総古代史探訪」は終了です。

 手元にはこの本があるんですが、今日はまったく活かせていませんね。

最後の前方後円墳 龍角寺浅間山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」109)
白井 久美子
新泉社


 時刻はもう13時になります。

 二人もお腹が空いたことでしょう。

 待たせてゴメンナサイ。

 私も掃除の仕事の時であれば空腹になるとスニッカーズのCMのようになって仲間から怖がられるのですが、なぜか史跡めぐりのときは多少お腹が空いても動けます。

 さて、帰りは千葉県からグルッと圏央道を通って高尾を目指します。

 途中、食べ物屋さんが現れたら寄ることにしましたが、結局現れないまま神崎ICまで来てしまいました。

 いいや、もう高速に乗っちゃいます。

 しかし、圏央道にも全然食事ができそうなPAが現れません。

 そうこうしているうちに、トイレにも行きたくなったし空腹も我慢できなくなってきたので、茨城県から埼玉県へ抜ける手前の五霞ICで降りました。

 ここは古河市にある妻の実家に行くときに利用するICです。

 ICを降りたところに道の駅がありますから、そこへ寄りましょう。

 と言いつつ、「道の駅ごか」に寄ったことは一度もないのです。

 駐車場は満杯なので、端の方のちょっとしたスペースに留めます。



 時刻はもう14時20分です。

 ようやく昼飯!



 バターコーンの味噌ラーメン、美味いじゃん!

 ようやく一心地つき、お土産に五霞の蕎麦焼酎を購入。



 ※この次の日にS源寺さん・ヒラさん・岸本さんと群馬に古代史ドライヴに行った帰りに打上げで飲みました。

 それでは出発。

 高尾の自宅に帰着したのは16時半でした。

 今日は祖母の墓参りが主たる目的でしたが、私的には思いのほか充実した歴史めぐりになりました。

 ただ、付き合わされた母と妹はつまらなかったかもしれませんね。

 昨年9月に雷電號を購入してから随分と行動範囲が拡がりました。

 今までえらく遠いイメージがあった千葉県方面も車があれば意外と近いですね(電車で行くと確かに遠いです)。

 今後は、関東一円を気軽にめぐろうと思います。
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【下総古代史探訪 その9】国宝級の仏像によって護られている東国最古の寺・龍角寺【千葉県栄町】

2017-05-07 07:36:23 | 歴史探訪
 このブログはgooブログなんですが、各ブログの管理者は全gooブログの中での現在のアクセスランキングをリアルタイムで知ることができます。

 一昨日は一日で8本も記事をアップしたので、そのせいだと思うのですが、昨日の朝、たまたまリアルタイムのアクセスランキングを見てみたら、瞬間最大風速で350位まで上がったのを見てしまいました。



 そのキャプチャーを取るところがいやらしいですが、gooのブログは全部で270万ブログあります。

 270万個もあるブログの中で350位というのはなかなかの成績ではないかと思うのですが、それがどうしたの?と言われたら「自慢しているだけです」としか答えようがありません。

 まあ、ベスト10に入るくらいなら自慢しても良いですが、たかだか350位で自慢するのはみっともないですね。

 ちなみに、このブログを開いたのは2011年の6月で、その頃はまだ体調不良期間でした。

 それ以前にも何度かブログは立ち上げたのですが、すべて続かず、ようやくこのブログが初めて軌道に乗ったブログとなったのです。

 お陰さまで、そろそろ総PVが140万に届きそうで、この数字は実は眉唾で実数はだいたい半分なんですが、しかしそれにしても延べ70万人の方々にこのブログをご覧頂けていることになります。

 1日辺りの延べアクセス数は500から1000くらいでそれほどでもないのですが、細々とでもこのブログをやっているがために、探訪先の史跡で初対面の方に「あのブログの方ですか?」と言われたり、こちから営業をしなくても歴史の仕事の依頼が来るようにりました。

 そしてもっと嬉しいのは、東国を歩く会のメンバーのうち何名かはこのブログがきっかけで知り合いましたし、クラツーや近ツーの講座およびツアーもこのブログで知って参加してくださった方がいらっしゃることです。

 また、私と一度も会ったことがない方とでも、初めて会った際に「いつもブログを見ているので初めて会った気がしない」と言われ、すぐに打ち解けて話が弾むこともあります。

 私は1998年に最初のホームページを立ち上げて以来ずっと実名を出してやっていますが、それも結果的に良かったのかなと思います。

 世にも妙チクリンなブログですが、このブログが縁で知り合った方々に支えられていることも私が生きるための原動力となっています。

 今後とも宜しくお願い致します。

*     *     *


 浅間山古墳の探訪に失敗し、みそ岩屋古墳を見た後は、高尾へ戻るべく雷電號に乗り込みましたが、実は風土記の丘資料館を見学していて、どうしても龍角寺を見てみたくなったのです。

 なので母と妹にはもう少し我慢してもらいましょう。

 房総のむらから車で数分走り、龍角寺へやってきました。



 母と妹はまったく興味が無いため、車の中で待機しているということだったので、「ちょっと写真だけ撮って5分くらいで戻ってくる。もし友達に会ったら長くなるけどね」と言って、まさか友達と会うことは無いと思うのですぐに車へ戻るつもりで探訪を開始します。

 参道を塞ぐように車が留まっていますが、ここからまっすぐ参道が伸びており、さきほど歩いた「白鳳道」に接続しています。



 龍角寺の創建は何と和銅2年(709)と伝わっており、東日本でもっとも古い寺なのです。

 仁王門跡には礎石が残っており、古代寺院マニアであれば、まずここでほくそ笑むと思います。



 では、ざっと説明板で龍角寺のプロフィールをご紹介。







 浅草の浅草寺も東京一古い寺と言われており、龍角寺と同じくらい古いのですが、残念ながら浅草寺の場合は証拠がありません。

 ところが、龍角寺の場合はかなり確度が高いのです。

 その証拠の一つが金堂跡の基壇。



 礎石らしきものも見えます。



 さきほど訪れた風土記の丘資料館には金堂の礎石が展示してありましたね。

 そして三重塔跡の礎石のうち、柱を立てる芯礎が残っているのです。









 さて、境内をフラフラしていると、ガイドボランティアの方に声を掛けられました。

 当初は写真を撮ったらすぐに車に戻るつもりだったのですが、ガイドの方の解説が面白く、会話が弾んでしまったので境内を案内していただきながら、ついつい長話。

 ガイドの方の解説によると、三重塔の芯礎に開いている柱を差し込む部分の直径は80cmあり、それに40を掛けた数字が塔の高さを表しているとされ、そうするとこの塔は32mはあったはずで、三重塔としてはちょうどいい高さになるとのことです。

 中世の頃、龍角寺の北を流れる利根川は周辺の湖や沼を合わせて「香取海」という広大な内海を形成していたのですが、対岸の常陸側からもここの三重塔が見えたそうです。

 さらにもう一つ、龍角寺の古さを表しているのは本尊である銅像薬師如来坐像でしょう。

 国の重要文化財に指定されています。



 これだけ立派な白鳳仏は関東地方にはあまりありません。

 有名なのは東京都調布市の深大寺にある銅像釈迦如来像です。





 これは今年の2月12日に東国を歩く会で深大寺を訪れた時に撮影したものです。

 実は深大寺の仏像の方は、上の写真の説明の通り、私たちが深大寺を訪れた時は重要文化財だったのですが、つい先月、国宝に格上げされたとガイドさんに教えていただきました。

 ガイドさんは国宝格上記念の展示を見に行ってきたそうです。

 私たちも深大寺を拝観しながら、「これだけの仏像は国宝級だよね」と話していたのですが、国もそれを認めたということですね。

 ガイドさんの希望としては、龍角寺をもっと整備して大勢の観光客に来ていただくとともに、貴重な白鳳仏の存在を世の中に知って欲しいとのことでした。

 そうすれば、こちらの仏像も国宝になることもあるかもしれません。

 地元の方でも龍角寺の歴史について知らない方が多く、ガイドさんも定年を迎えてから龍角寺の歴史を知りガイドを始めたとのことです。

 そしてもう一つ龍角寺についての面白い話は、やはり雨乞いの伝承でしょう。

 聖武天皇の在世(8世紀前半)に日本中が疫病の蔓延で大変なことになったことがありました。

 最初の方にお見せした説明板にも書かれていますが、そのとき雨もまったく降らなくなってしまったため、朝廷からの指名で龍角寺で雨乞い祈祷をすることになったのです。

 すると、身長が2m40cmもある龍の化身が現れ、「望みを受け入れるが、そのために私は死んで身体が3つに分断される」と言い姿を消しました。

 それからすぐ、雨が降り注いできたのですが、龍の化身が言った通り、龍角寺には龍の頭の部分が空から落ちてきたのです。

 それまでお寺の名前は「龍閣寺」と書いていたのですが、この時以来「龍角寺」としました。

 そして、その龍の頭は何と、今現在もお寺に保管されているのです!

 以上、ガイドの方から聞いた話なので私が聴き間違っていたらゴメンナサイ。

 さて、その問題の龍の頭ですが、普段は見ることができないので写真を見せていただきました。

 何かの動物の骨のように見えます。

 以前その骨を専門機関で分析してもらったそうです。

 ところが、結局何の動物の骨か分からなかったそうです。

 おーっ、こういう話しって面白いですねー!

 河童のミイラとか、これに類似した話って他にもありますよね。

 こういうのは謎のままにしておいた方が良いのかもしれません。

 なお、龍角寺は現役のお寺です。



 徳川時代には20石の寺領を持っていたこともあり、広大な寺域を形成していました。

 末寺も多かったそうで、少し前まではお寺の方が駅に行くまで他人の土地を踏むことはなかったそうです。

 駅というのは下総松崎駅でしょうか、それとも安食駅でしょうかね。

 いずれにしても相当広い土地です。

 往時の復元イメージ。



 最後に栄町の案内図。



 ガイドさんとの話がつい長くなってしまったので、5分のつもりが30分になってしまいました。

 母と妹が待ちくたびれていると思うので、急いで車へ戻ります。

 ガイドさん、どうもありがとうございました。

 またお会いすることがありましたら、今度はもっとお話しをお伺いしたいと思います。

 それではいよいよ帰途に付きたいと思いますが、やっぱり浅間山古墳は見てみたい・・・
 
 ⇒このつづきはこちら
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【下総古代史探訪 その8】岩屋古墳の縮小版のような「みそ岩屋古墳」【千葉県栄町の龍角寺古墳群】

2017-05-06 16:02:57 | 歴史探訪
 風土記の丘資料館では欲しい資料が売ってなかったのですが、たまたま最後に浅間山古墳を見に行こうと思っていたところ、普通にAmazonや本屋で買える『シリーズ「遺跡を学ぶ」109 最後の前方後円墳 龍角寺浅間山古墳』が売っていたのでそれを購入し、浅間山古墳を目指すことにします。

 風土記の丘資料館が建っている辺りは、龍角寺古墳群の中でもとくに古墳密集地域ですので、ポコポコと古墳が行く手に現れます。

 63号墳。



 66号墳。



 62号墳。



 小学6年生の時の遠足で来た時は、古墳の上でみんなでお弁当を食べました。

 こんな感じの風景だったような気がします。



 でも、当時はもっと墳丘が大きかったような記憶があるんですが、今見ると小さいですね。

 お、この古墳には説明板がありますね。



 65号墳。

 ちょっと特別な古墳でしょうか。



 58号墳。



 70号墳。



 こちらは立て札が写真に写っていないので補足しますと、墳丘長43m、高さ2.7mの前方後円墳です。

 まあまあ大きいですね。

 引き続き、古墳ポコポコ。



 71号墳。



 73号墳。



 75号墳。



 説明する言葉も出てこないまま、比較的大きい道路に出ました。

 この道路を渡った先に浅間山古墳があるはずですが、墳丘は林の中にあるようで外から見えず、また、そっち方面へ行く道が見つかりません。

 仕方がないので、諦めて帰りますか。

 ※後で知りましたが、道路に出る手前に左側の低地に分岐して下りていく遊歩道があったのですが、そこを下りて行くと道路の下をくぐって浅間山古墳へ行けたようです。

 母に電話してそろそろ戻る旨を伝えます。

 とりあえず、元来た道を帰りますよ。

 お、何だこれは。



 地図を見るとこの直線道は龍角寺の参道の延長線上にある道なのですが、白鳳時代からの古道だと言われているようですね。



 古道大好き。



 古墳群についてちょっと解説。



 69号墳。



 67号墳。



 風土記の丘資料館まで戻ってきて78号墳。



 龍角寺古墳群には100基以上の古墳があるのですが、特別な愛称が付いている古墳は少数で、「みそ岩屋古墳」と呼ばれている古墳が車を駐めている場所の近くにあるようなので、そこへ向かいます。

 あ、これですね。



 106号墳、通称「みそ岩屋古墳」です。



 この立て札、今までお見せしたものと違うことが分かりますか?

 そう、四角なのです!

 つまりは方墳ということですね。

 横穴式石室は一応開口していますが、ここに入るのは危ないです。





 一辺の長さは岩屋古墳の半分ですが、切石を積んで造った横穴式石室を持ち、築成も3段なので、岩屋古墳の縮小版みたいな古墳です。



 この図をると、みそ岩屋古墳の下に小さな円墳のようなものが並んで描かれていますね。



 これが結構紛らわしいのですが、古墳ではなく中世の塚だそうです。



 古墳群の中に中世の塚をたくさん築造してしまったので、一見どっちがどっちか分からなくなってしまいました。



 中世の人も紛らわしいことをしますね。

 約束の12時を10分ほど過ぎてしまいましたが、母と妹を駐車場へ呼びます。

 最初はこれで帰ろうと思っていたのですが、探訪中にどうしても見てみたい遺跡が一つ増えてしまいました。

 それは東日本最古の寺院、龍角寺です。


関東古墳探訪ベストガイド
東京遺跡散策会
メイツ出版

 ↑関東の古墳をめぐるに当たり、どこへ行こうか考える際に便利なオールカラーのガイドブックです。初級者の方はまずはこの本で紹介されている古墳をめぐれば、徐々に関東の古墳の面白さにハマって行くことでしょう。龍角寺古墳群も紹介されています。

 ⇒このつづきはこちら
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【下総古代史探訪 その7】風土記の丘資料館【展示は素晴らしいけど・・・】

2017-05-05 23:26:31 | 歴史探訪
 10時に探索を開始してちょうど1時間、ようやく風土記の丘郷土資料館に到着しました。



 事前に龍角寺古墳群について詳細な資料を入手できなかったので、本当は順番的にはここに最初に来て資料を入手し、それから古墳の探索をすると良かったのかもしれませんが、今日は母と妹を比較的退屈しない場所で待機させておかなければならない手前、ここまで車で来ることは難しいと思い結局後回しになってしまったわけです。

 おや、お庭に石棺がありますよ。



 説明板には石室とありますが、組合式の石棺ですよね?



 いや、やっぱり石室か。

 もう一つあります。





 ジュースを買って水分補給をしたら、資料館へ入館です。

 ここは写真OKですね。



 先ほど見た、101号墳から出土した埴輪たちがお出迎えです。



 展示品の写真は片っ端から撮っていきますが、全部を紹介すると気味が悪いと思われるので、私がとくに注目した展示のみをお伝えします。

 まずはこの辺の地形模型。



 今いる房総のむらはこの辺です。



 つぎに千葉県内の古墳と古代寺院分布図。



 多分、字は小さくて読めないと思いますが、緑色が古墳でオレンジ色が古代寺院なので、おおよその分布の傾向が読み取れると思います。

 千葉県内には1万基以上の古墳があり、古代寺院は40もあったそうですよ。

 武蔵、負けてるじゃん!

 古墳時代最古の土器。



 千葉県内の大規模古墳6選。



 ・内裏塚古墳(富津市)
 ・三条塚古墳(富津市)
 ・天神山古墳(市原市)
 ・大堤権現塚古墳(山武郡松尾町)
 ・稲荷山古墳(富津市)
 ・九条塚古墳(富津市)

 千葉県内で最も大きな古墳は内裏塚古墳ですが、上の展示はとくに「ベスト6」というわけではないようです。

 しかしそれにしても富津市強いね。

 つづいて岩屋古墳のページで触れた国造の図。



 この写真だと字が読めないと思うので、北から羅列すると、

 ・下海上
 ・印波
 ・武社
 ・千葉
 ・菊間
 ・上海上
 ・馬来田
 ・伊甚
 ・須恵
 ・長狭
 ・阿波

 となっています。

 岩屋古墳を今作ると・・・



 古墳作りは大変ですな。

 岩屋古墳の後に創られ始める寺院はお金に加えて技術力が必要になってきますが、それに比べたら古墳の場合はほとんど力仕事ですね。

 求人サイトに募集広告を出すとしたら「誰にでもできる簡単な仕事です」というお決まりのキャッチコピーが使われそうです。

 これはすごいよ、千葉県内最古の文字資料!







 古墳から出土した土器に文字が書いてあること自体珍しいこともあって超貴重です。

 石棺。



 パーツとして使われている石の重さは平均すると300kgあるそうです。

 経筒。



 左のは天王・船塚11号経塚からの出土なのでいいとしても、右側の神崎町の武田古墳群2号墳から出土したというのは、古墳から経筒が出るということが驚きですね。

 あ、でも中世に埋めたものかも。

 そして梵鐘。





 これは凄い・・・

 宝亀5年(774)ですよ!

 これがなぜ肥前(長崎県)からここまで運ばれて来たんでしょうね。

 にこやかに迎えてくれた仏さま。





 東日本最古の寺・龍角寺のコーナー。



 龍角寺金堂の礎石。



 古代寺院コーナー。





 いやー、なかなか充実した展示でした。

 つづいて2階へ上がります。



 3万年前の旧石器も展示されています。



 龍角寺古墳群の航空写真。



 やったー、ナウマンゾウがお出迎えだ!





 ここでもゾウさんに会えて嬉しいねえ。

 2階は古墳時代より前の原始時代の展示が多いです。



 弥生時代の機織り風景。





 原始じゃないけど古代の道路。



 というわけで、なかなか楽しい資料館でした。

 30分で見ましたが、1時間は欲しいね。

 ただ残念な点もあります。

 それは展示図録が売り切れており、また龍角寺古墳群についての資料がほとんど売っていないことです。

 私的には有料でもいいから「古墳群マップ」みたいなのがあったら嬉しかったなあ・・・

 まあ、仕方がないですね。

 逆に散財しなくて良かったです。

 まだ30分ありますので、「最後の前方後円墳」と称される浅間山古墳を見に行こうと思います。


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 ↑関東の古墳をめぐるに当たり、どこへ行こうか考える際に便利なオールカラーのガイドブックです。初級者の方はまずはこの本で紹介されている古墳をめぐれば、徐々に関東の古墳の面白さにハマって行くことでしょう。龍角寺古墳群も紹介されています。

 ⇒このつづきはこちら
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【下総古代史探訪 その6】龍角寺古墳群第53号墳とかわいい古墳たち【千葉県印旛郡栄町】

2017-05-05 22:31:32 | 歴史探訪
 朝6時からブログ作成をはじめ、ほとんどノンストップで19時半までやり、夕飯のレトルトカレーを食べながらなおも作業を続行。

 21時半に風呂に入りましたが、今日は一人で入ったので15分で上がり(いつもは大切なコミュニケーションの時間なので45分は入ってるかな)、またもやPCにかじりついてもう22時半です。

 私のメインの仕事はD社でのお掃除の仕事ですが、万が一歴史の仕事オンリーになってしまったら、今日みたいな日が多くなって、私は病気に逆戻りするかもしれません。

 PC作業はぜったい身体に良くありませんからね。

 なのでもし歴史の仕事が多くなったとしても、フィールドワークで外を歩き回るんだろうと思います。

 毎日朝から夜中までPCを操る仕事をしている方は、ぜひ休日の日は外を歩いたりスポーツをしたりすることを忘れないでくださいね。

 と、「経験者」は語ります。

*     *     *


 旧学習院初等科正堂を見て、小学6年生のときに遠足に来たのは龍角寺古墳群(というか、房総のむら)だったことを思い出し、懐かしい思いに浸ったあとは、今度こそ風土記の丘資料館を目指します。

 遊歩道を歩いていると、またもや古墳が現れました。

 85号墳です。



 つづいて86号墳。



 これは前方後円墳かな?



 墳丘が低くて分かりづらいですが、辛うじて前方後円墳の形をしているのが分かりますね。



 墳丘長22mの前方後円墳である84号墳でした。



 82号墳。



 81号墳。



 まさに円墳が次から次へと投擲されてくるようなイメージです。

 80号墳。



 ここは古墳群なんだから当たり前ですよね。

 55号墳。



 まだまだ出てくるよ。



 なんかちょっと趣の違う古墳が現れました。



 全長31mの前方後円墳である53号墳です。



 組合式の石棺が見えていますね。



 小さな円墳ばかり見ていると31mの前方後円墳も立派な古墳に見えてきます。



 つづいて53号墳と同規模の前方後円墳が現れました。



 54号墳ですね。



 多分、このページを見ている人はどの古墳も一緒に見えると思います。

 52号墳。



 いい加減、飽きてきましたか?

 58号墳。



 ようやく風土記の丘資料館の建物が見えてきました。

 資料館の前には大きな前方後円墳がありますよ。



 岩屋古墳の前でも言いましたが、仰る通り、古墳はお墓なんです。



 ここまで歩いてくる中で小さな古墳をたくさん見たせいか、この前方後円墳はとても立派に見えます。



 でもこの57号墳の墳丘長は48mしかないのです。



 畿内の巨大古墳を見慣れている人からすると驚きの小ささかもしれませんが、関東の古墳では中規模の部類だと思いますよ。

 ただ、高さ6.3mというのは結構高いですよ。

 というわけで、ようやく風土記の丘資料館にたどり着きました。

 でもここに来るまでに写真をたくさん貼り付けてしまったので、風土記の丘資料館のレポートはまたもや次回!


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【下総古代史探訪 その5】そっかー、小学6年生のときに来た古墳群はここだったのかー!【旧学習院初等科正堂】

2017-05-05 18:35:20 | 歴史探訪
 先日、自分はいつから古墳に興味を持ったのかなあと考えて、それを思い出して記事しました。

 ⇒こちらです

 意識的に目的を持って古墳めぐりを始めたのは2009年なのでまだ8年くらいしか古墳探訪はやっていないのですが、子供のころに古墳へ行ったことがあることを覚えています。

 小学校6年生の時の担任だった木村先生は歴史が大好きで、私たち生徒によく歴史の話し(雑談)をしてくれました。

 6年生から日本史の授業が始まりますが、教科書的な話しから雑談に逸れて行って、結局ずっと授業とは関係ない話しをしてしまうこともあったのです。

 私的にはそれがとても楽しく、そのお陰で歴史が好きになったようなものなので、木村先生にはとても感謝しています。

 その6年生の時に学年でバスに乗ってどこかの古墳群に遠足に行ったことがありました。

 ただ、当時のことを思い出そうにも、いったい自分はどこへ行ったのかまったく思い出せなかったのです。

 私が通っていた小学校は千葉県松戸市にあり、遠足は千葉県内だったことは確かです。

 さて、今回祖母の墓参りの帰途に千葉県内の古墳を見ようと思ってWebで調べていたところ、この機会に龍角寺古墳群にある岩屋古墳をどうしても見たいと思いました。

 そのため、房総のむらのWebサイトを見たのですが、その中に見覚えのある建物が写っていたのです。

 洋風な古い建物で、私たち生徒は確かその前で記念写真を撮りました。

 101号墳を見たあと、風土記の丘資料館へ向かって歩いていると、前方に30年以上前に見た建物が現れました。



 そうそう、確かこれです。



 やっぱり、6年生の時の遠足はここだったんですね。

 今日は来園者が多く、この建物の前も駐車場になっているようで、どんどん車が入ってきて埋まっていきます。



 これは重要文化財に指定されている「旧学習院初等科正堂」という建物でした。



 しかしそれにしても、説明が簡素過ぎますね。

 隣で見ていた女性が「え、学習院ってここにあったの?」と言っていましたが、移築したとは書いてあっても元々どこに建っていたのかとか、もう少し詳しく書いて欲しいですね。

 ※帰宅後Wikipediaを読んでみました。それによると、明治32年に東京市四谷区尾張町(現在の新宿区)に建てられたあと昭和和12年に遠山村に移築され、遠山尋常高等小学校の講堂として、戦後は遠山中学校として使われ、昭和48年に6月2日に国の重要文化財に指定され、昭和50年に現在地へ移築されたとのことです。

 まるで館跡のように土塁があります。



 順番的には看板が最後になりました。



 いやー、それにしても長年の謎が解けて良かったです。

 ある意味、龍角寺古墳群が私の古墳めぐりのルーツとも言えるんですね。

 では次こそ、風土記の丘資料館へ行きますよ。

 ⇒このつづきはこちらです
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【下総古代史探訪 その4】龍角寺古墳群第101号墳で埴輪に歓待を受けました【千葉県印旛郡栄町】

2017-05-05 17:54:21 | 歴史探訪
 積年の夢であった岩屋古墳と出会えてとても気分が良いです。

 風土記の丘資料館へ行こうと思いますが、その前に101号墳が復元されているようなのでそれを見に行きましょう。

 おっと、小さな前方後円墳がありますね。



 103号墳。

 草が茂っていて墳丘の形はあまり分かりません。



 今度は102号墳。



 前方に少し大きめな墳丘が見えてきましたよ。



 ありましたー。



 埴輪が樹立していますね。



 まるでステージの上にいる楽団に歓待を受けているようです。



 多分正面中央の家型埴輪はDJブースだな。

 101号墳はかなり詳細に調査しているようですよ。





 説明板によると一度築造されたのが、のちに改築されているようです。

 墳丘の直径は25mと小型ですが、4つも主体部があるんですね。

 随分と利用尽くされた感があります。

 せっかく作った古墳をちゃんと再利用しておりエコですね。

 当初は周溝が二重だったということで、これが周堤の名残でしょうか。



 101号墳からはたくさんの埴輪が出土しているようで、その一部が風土記の丘資料館に展示してあるようですね。

 それでは、その風土記の丘資料館へ向かいます。


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