日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

2015年2月1日の高坂ミニ紀行【埼玉県東松山市】

2016-01-30 19:35:40 | 歴史探訪
 まだ本調子ではないのですが、今日は『日本史大戦略』の構築をしていました(掲載数が242箇所になりました)。

 なにしろ昨年の歴史めぐりの大半がまだ記事にできていないのです。

 今日は昨年の2月1日に嵐山町にある埼玉県立嵐山史跡の博物館が主催した「戦国時代は関東から始まった」というシンポジウムを聴講しに行ったときの記事を完成させました。

 武蔵嵐山駅に向かう途中に、高坂駅で途中下車して1時間ばかり、駅近辺の史跡を巡ってきました。

 その辺りには諏訪山古墳群というのがあって、まずは現在富士浅間神社が墳頂にある富士浅間神社古墳。
 


 ⇒富士浅間神社古墳 (東松山市)



 次に、同古墳群の諏訪山29号墳を探しましたが、うーん、良く分からない。



 ⇒諏訪山29号墳 (東松山市)



 そして移動途中に偶然、廃線跡を発見!



 ⇒東武鉄道高坂構外側廃線 (東松山市)

 興味がある物って、歩いているだけで向こうから寄ってくるのです。

 高坂の最後は諏訪山古墳群の高済寺古墳および高坂館跡。



 ⇒高坂館および高済寺古墳 (東松山市)

 曹洞宗高濟寺は中世の高坂館跡なんですが、前方後円墳だったと伝わる高済寺古墳を土塁の一部として利用しています。

 土塁が予想外に大きくて、なかなか見ごたえのある館跡ですよ。

 そして武蔵嵐山駅に移動して、会場に行く途中に稲荷塚古墳を見学。



 ⇒稲荷塚古墳 (嵐山町)



 ランチは嵐山のご当地B級グルメ「辛もつやきそば」を食べましたよ!




 今日は昨日に引き続き食欲がないのですが、辛もつやきそばの写真を見たら何だかお腹が空いてきました。

 下でスパゲッティを茹でて食べてきます。

 ポモドーロです。
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小型・軽量かつシンプルで吸引力抜群なプロの掃除人も御用達の掃除機

2016-01-28 23:12:46 | 雑談
 今日は面白いことが2点ありました。

 そのうちの一つについてお話します。

 今日の朝、我々が持ち回りで行っている某病院の定期現場で私が階段を掃除機がけしていると、踊り場のところで60代くらいのご婦人が近寄ってきました。

 そして、「その掃除機は階段専用なんですか?」と聴いてきました。

 我々が使っている掃除機は、基本的にどこの現場でも使用する汎用の掃除機なんですが、小型で軽量、とても取り回しの良い高性能の掃除機なんです。

 基本的には左手で本体上部のハンドルをつかんで持ちながら右手で筒を動かして吸う感じです。

 スイッチは電源のオン・オフ一つのみのいたってシンプルな設計。

 見た目が小さいので、そのご婦人は階段専用だと思ったようです。

 「私もね、以前会社の掃除をやってたんだけど、掃除機が大きくて重くてね。これがあったらよかったわ」と、ご婦人は痛く感激したらしく、「ちょっと写真撮らせてもらって良い?」と言って、携帯で掃除機の写真を撮影しました。

 その、Panasonic製の「MC-K10P」という掃除機なんですが、私は決してPanasonicの回しものではないものの、私も非常に気に入っている掃除アイテムなのです。

 ですから、実は個人的にも購入しようと思っていたところだったのですが、Amazonのレビューを見てみると、なるほどとても評判が良いです。

パナソニック 紙パック式セカンドクリーナー 肩掛けタイプ グリーン MC-K10P-G
パナソニック(Panasonic)


 我々の場合は普通に床をかけるのにも使いますが、この掃除機にはヒモが付いていて、肩にかけることができるのです。

 ですから、エアコンの洗浄前にノズルを丸口などに変えて、脚立に乗った状態で本体を左肩にかけ、右手で吸っています。

 一般のご家庭での使い道でしたら、例えば電気の傘のホコリを吸うなどの高所に使うのも良いですね。

 重い掃除機だと、それを持ち上げて使うのは多分大変だと思います。

 これだと椅子などに乗って、本体を肩からぶら下げてとても楽に掃除ができますよ。

 なにしろ小型で軽くて、全体的に丸みがあるのでぶつけてもぶつかった方に傷がつかず、そのくせ、吸引力は全然問題ありません。

 ですので、Amazonのレビューでも書かれている通り、サブの掃除機として買ったつもりがメインのゴージャスな重量級の掃除機の出番がなくなったと言っている人がいるのも頷けます。

 実際、普通の一般家庭用掃除機は、軽量を謳っていても、確かに本体は軽くてもノズル部分が太くて重い、なんてのもありますよね(我が家のがそうです)。

 さて、私はそのまま階段をかけつつ下に降りて行ったのですが、1階に着いた時にさきほどのご婦人が会計を済ませてホールに出て来て、今度は「掃除機をかけているところを撮らせて」と言って、私が掃除機をかけている姿を撮影して帰って行きました。

 昔、バンドをやっている頃には「写真撮らせてください!」なんて一度も言われたことがなかったのに、まさか43歳になって掃除機をかけている姿を撮影されるなんて思っても見ませんでした。

 そしてそれとともに、我々プロの掃除人からすると当たり前に使っている道具のなかにも、実は一般の人たちにとっても非常に役立つものがあるんだなあという新鮮な発見をしたのでした。
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【八王子市内湯殿川沿いの史跡紹介】御霊神社/近藤出羽守屋敷(浄泉寺)/椚田遺跡

2016-01-27 12:09:13 | 歴史探訪
 昨日の夜はFBでアップした通り、お掃除業界の大先輩であるT無さんと飲みながら人生相談をしてきました。

 洗剤は原理を知ってしまえば既製品の洗剤を買わずに、元となる材料をいくつか買ってきてそれを組み合わせて効果的に作ることができ、さらにその方がコスト的にもかなり安くつくという話を聴いて、今のお店でお店が用意した既製品を何も考えずに使っている私は蒙が啓かれてしまったのです。

 いかに自分がお掃除業界にあってまったく無知な存在なのかを思い知ったわけですが、T無さんは歴史も好きなので、後半は歴史の話にもなってとても楽しい夜でした。

 で、何と今日は現場が飛んでしまったのでお休みです!

 朝から歴史をやっています。

 来る2月14日のバレンタインデーに「東国を歩く会」の「第2回 歩く日」を開催しますが、まだもう少し参加される方のお席を用意できますので、気になった方は1月31日までにご応募ください。

 さて、第2回で歩くコースの中で、湯殿川沿いにある

 ・鎌倉景政館および御霊神社

 ・近藤出羽守屋敷および浄泉寺

 ・椚田遺跡

 の3つについては、2009年11月に独りで探訪しています。

 そのときの様子は私のホームページである「日本史大戦略」にアップしてあって、今日はそれに少し加筆しました。

 よろしければ見てみてください。

 ちなみに日本史大戦略では現在のところ237箇所の歴史スポットを紹介しています。



 ⇒鎌倉景政館および御霊神社



 ⇒近藤出羽守屋敷および浄泉寺



 ⇒椚田遺跡

 2009年当時はまだうつ病真っ盛りで、寝たきり状態からようやく史跡めぐりをやりたい気分になってきて、実質5年ぶりくらいに歴史めぐりをやりました。

 ただ、やはり体調は回復せず、11月に3日間歴史めぐりをやったあとはまた逼塞してしまい、次にやったのは翌年の夏です。

 私は辛かった時期のことを忘れないために、そういった時期に自分が書いた記事をたまに読み返しています。
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らーめんなぶら京王八王子店/「どこでもインターネット」に戻りました

2016-01-21 22:07:55 | 雑談
 私の職場にもみなさんの職場と同じく、ラーメン好きが沢山います。

 我々は外回りの仕事で、なおかつ日本中で一番美味いラーメン屋が集まっているエリアだと私が勝手に決めつけている多摩地域全域がサービスエリアですので、美味いラーメンが毎日食べられるわけです。

 ですので、一昨年は300杯食べ、昨年は150杯も食べてしまったのです。

 先日、私の職場においておそらく最強のラーメンフリークだと考えられる先輩が、京王八王子に「なぶら」がオープンしたことを教えてくれて、しかも「生涯味玉無料券」までもらっちゃいました。

 あれから10日くらい経ってしまったのですが、ようやく今日の夜、行くことができたので食べてきました。



 食券機を見ると、先輩から薦められたラーメンが無いので、写真の通り坦坦つけ麺を食べたのですが、辛いのが得意でない人も食べられそうな優しい味のスープです。

 見た目ほど辛くないのです。

 辛さはマイルドなもののきちんとコクがあって美味しかったので、原液のまま全部飲み干してしまいました。

 食べた後に店員さんに尋ねたところ、どうやら先輩が言っていたラーメンは名前が変わっていたみたいです。

 場所は、京王八王子駅そばのグルメシティの斜め向かいです。

 この近辺の現場にはよく来ているので、またお昼を食べにでも行こうかなあと思っています。

 最近は新規の店を開拓することがあまりなくなったのですが久し振りに新規の店に入りました。

 このお店はおしゃれな雰囲気で、店員さんも感じが良く、魚介系のスープが売りですのでその方面の味が好きな方はぜひ行ってみてください。

 さて、本日、Wi-Fiルーターの交換品が届きましたので、また明日から「どこでもインターネット」に戻ります。

 メールやFBも休憩時間にできるようになりますので、少しはレスポンスが早くなりますよ。

 それともう一点。

 FBで「東国を歩く会」のグループページをやっていますので、興味のある方はぜひ参加してみてください。


 ⇒「東国を歩く会」のグループページ


 それでは、宜しくお願いします!
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「東国を歩く会」第2回「歩く日」 <平山城・片倉城と長井氏故地を歩く> 開催のお知らせ

2016-01-18 22:58:01 | 歴史探訪
 今日の武州は今シーズン初の雪になっちゃいましたね。

 それでも何とか出社すると、会社に来ていない同僚もチラホラ。

 私は超混雑したバスに乗るのはイヤだったので、雪の中30分歩いてお店に行きましたよ。

 でも私も実は朝から「もう帰ろうかなあ」的なムードだったので、入居前の清掃で行くことになっていた午後のお客さんに延期してもらおうと思い電話したところ、「入居は明日です」と言われてしまったので、先輩と二人でスタッドレスの車を借りて行ってきました。

 私の車はノーマルタイヤなので、2年前の凄い雪のときはスリルと興奮を存分に味あわせていただきましたが、もうお腹一杯なのでスタッドレスの車を貸してくださーい!

 でも今回の雪はこれで終わりらしいので、とりあえずホッとしています。

 さて本題に移ります。

 私たちの「東国を歩く会」の第2回「歩く日」の発表をさせていただきます。

 第2回は「平山城・片倉城と長井氏故地を歩く」と題して、ヤマセミさんがすでにグランドプランを作成してくれました。

 日時は、2月14日(日)バレンタインデー、9時に京王線「平山城址公園」駅改札出たところに集合です。

 バレンタインデーということで、来る人は私のような独身かつ彼女無し男か、奥さんがいてもすでに相手にされていない人物ばかりだと思われ、すでに声を掛けてみた何人かの方には「えー、バレンタインデー?」と難色を示され拒否られました。

 コンテンツに関しては、午前中に平山城とその周辺を見たあと電車で片倉駅に移動し、午後は一番の目玉である片倉城を見た後、湯殿川沿いを周辺史跡を見ながら遡上し高尾まで歩きます。

 そして今回も打上げはたかお食堂の秘密の部屋で行います。

 前回見た初沢城と小松城も長井氏の影が見え隠れしていましたが、今回も引き続き長井氏関連の史跡が含まれていますので、長井氏の歴史について理解を深めるのも目的の一つにしたいなあと思います。

 でも縄文遺跡も見るよ!

 参加費は無料ですが、交通費とたかお食堂での打上げ代はご負担下さい。

 打上げ代は3000円で、前回お酒があまり得意じゃない参加者のためのソフトドリンクが不足しましたので、その辺はもう少し改善いたします。

 参加申し込みは、このブログの「メッセージを送る」からでも、フェイスブックやツイッターのメッセージからでも、私宛のメールでも、伝書鳩でも軍用犬でも何でも構いません。

 ただし、「稲用さんの脳に向けてイメージを発信しておきましたが届いていませんか?」というお問い合わせはご遠慮ください。

 私はそちらの方面はまだそれほど開発されていないのです。

 前回参加された方は、単に「行きます!」だけで結構ですが、初めての方は、

 ・本名
 ・緊急先電話番号(携帯電話番号)
 ・メールアドレス
 ・たかお食堂での打上げの出欠可否

 を記載してください。

 前回同様、打上げのみの参加も歓迎しますが、一点補足しますと、たかお食堂は禁煙ですので、喫煙したい方は厳冬の夜間に外で吸うことになります。

 募集人数は10名前後とさせていただきます。

 締め切りは1月31日(日)です!

 そしてちょっと早いですが、第3回は3月13日(日)に、中田先生の密命をおび、埼玉県吉見町の松山城を探索します。

 これは「歩く日」というよりかは「探す日」で、見た目上はただの山の中に分け入っていき、まだ誰も見つけていないお城の遺構を探し出すという企画です。

 なので、普通に山の斜面の道なき道を藪を漕ぎながら歩ける方が参加対象となります。

 中田先生の密命がどのようなものなのかは守秘義務もありますので、当日お話します。

 さらにその次は、当会発起人の私とヤマセミさんが「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」の会員であることから、「滝山城マニアックス」みたいな今まで普通の人が見たことのない、滝山城の隠れた面白スポットを歩きまわります。

 こちらは第3回の中田先生の密命ツアーほどではないですが、すこーし、大変な歩きになるかもしれません。

 まあ、この2回分はまだ良いとしても、第2回「歩く日」はもう決定ですので、ぜひ皆さんの参加をお待ちしております。

 それでは、宜しくお願いします!



 ↑片倉城の空堀。ただしこれは夏で、今回は冬に行きます!
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【西股総生先生&いなもとかおりさん】「シロキチ企画」主催、中城&腰越城ツアー 2【埼玉県比企郡小川町】

2016-01-17 22:02:20 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 小川町駅前にバスがやってきました。

 我々が乗り込むとバスは貸し切り状態です。

 移動時間中、隣に座った方と話していると、クラブツーリズムの話になりました。

 クラブツーリズムは名前は聞いたことがあるのですが、実はどのようなものか知らなかったので内容を聴いてみたのです。

 そしてその内容を聴いて驚愕しました。

 簡単に言うと、バスや新幹線を使った日帰りや泊まりがけで行く観光ツアーなのですが、回る場所が歴史スポット中心でガイド役にその道の専門家の方が付きます。

 まあ、これだけだったら特に驚かないのですが、例えば「真田氏ゆかりの「上田城跡」「松代城跡」2日間」というツアーは、当該城跡以外にいくつか城跡などを見る一泊二日の旅で、これの参加費が約5万円なわけです。

 これのどこが驚愕ポイントなのかというと、行きたい場所には自分で行けばいいじゃん、という私の非常に固い考えが脳内にあったため、5万円も出すのか!!!!ということに驚いたわけです。

 5万円って凄い金額ですよね。

 でも最近、薄々感づいていたのですが、自分で歴史について勉強しつつプランを立てて行くということがあまり得意ではなく、できるなら誰かが全てやってくれて、なおかつ専門家の人から教えてもらいたいと思う方は意外と多くいらっしゃるのですね。

 だからこそ、クラブツーリズムのような観光ツアーが成り立つ訳であり、それのスモール版が私とヤマセミさんで始めた「東国を歩く会」なわけです。

 これは、歴史観光旅行に大金をつぎ込む人がいるという事実を知らなかった私にとってはまさに目から鱗だったわけです。

 ですから、この事実を知っただけでも私は今日の参加費はペイできたと思いました。

 さて、驚きを隠せないまま、バスは「パトリアおがわ」に到着しました。

 料金は210円ですが、当地のローカルバスであるイーグルバスは、交通系ICカードに対応していないのです。

 久しぶりに現金で210円払いました。

 バスを降りると、腰越城はすぐそこに見えます。



 ちなみに「パトリアおがわ」というのは、食事処やお風呂・プールなどがある小川町の公共施設のようです。

 バスは1時間に1本ペースであるので、これだけあればこのバスの「時刻表」はみうらじゅんさんの言うところの「地獄表」には当てはまらないですね。

 では、早速山に登りましょう。



 私は腰越城に来るのは初めてですが、事前に梅沢太久夫さんの『城郭資料集成 中世北武蔵の城』を読んだところ、大きな山城ではないものの、意外と面白い仕掛けが沢山ありそうなのでとても楽しみです。

 私は最後尾からテクテクとついて行きます。

 腰越城は標高が216m、比高は100mほどの山城なのですが、少し山に入るとその後は階段が続いています。

 階段は斜面を登るよりずっと大変ですが、斜面が急な部分が多いので、階段にせざるを得なかったのでしょうね。

 でもこの道は往時の登城口ではないなあと、登りつつ思います。

 上の写真の入口部分にある説明板によると、現在の登城口近辺は「榎木戸」という地名で、ここが大手だったとの伝承があるようですが、説明板も素直に「定かではない」と言っています。

 ※後で西股先生から、「さきほど登って来た道は当時の道ではありません」と告白されました。

 息を切らせながらようやく登り詰めたのは、城の北側にあるに2本の堀切に挟まれた郭です。

 ではここでまたいつものごとく、余湖図にご登場願いましょう。



 ※「余湖くんのホームページ」から転載させていただきました。

 余湖図の「堀切1」に登ってきて、2本の堀切に挟まれた郭にたどり着いたわけです。

 ここから北側は細尾根が続いており、ずっと先まで行っても遺構はないそうで、この堀切が城の外と内を仕切る境界となります。

 この南側はかなり高くなっていますね。



 後で分かったのですが、この高まりは2段に築成されており(余湖図には裏側になっていて描かれていません)、頂部が主郭です。

 西股先生は一旦城外に出て、北側の細尾根から主郭方面を眺めてみるように我々に促しました。



 写真だと分かりづらいですが、この細尾根にいると、主郭から矢や鉄砲の集中砲火を受けるのです。

 攻め手がもし北側の尾根から攻めてきた場合、攻め手は一列になりますが、守り手は郭の上に並列するので、圧倒的に守り手の方が有利です。

 これは近代史が好きな方であれば、日露戦争のときの日本海大海戦を思い浮かべて見れば分かると思います。

 いわゆる「T字作戦」ですね。

 ロシアのバルチック艦隊は一列で進んできたので数の多い大砲を生かすことができず(Tの字の縦棒)、反対に連合艦隊は船を横に並べたことにより(Tの字の横棒)、大砲のほとんどをロシア艦隊に向けて発射できたわけです。

 あ、でもこのとき「T字作戦」が行われたかどうかは実際のところは確実とは言えないようですね。

 だったら説明するなよ!

 と怒られつつ、話を城に戻しましょう。

 郭の上には、さきほどの中城で師匠であるマッド・西股の殺害を目論んで失敗したいなもとさんがまたもや現れ、我々に向けて小枝や小石を投げて攻撃を仕掛けてきした。

 我々はその攻撃をかいくぐりつつ、主郭の西側下を歩いて、竪堀が2本並んでいる場所に来ました。



 ここには、「ここから降りないでください」と書かれた標柱が建っており、おそらく縄張図を書くためにこの竪堀を降りるナワバリストが跡を絶たないことに業を煮やした地元の住民が、これ以上自分たちの城の機密が漏れぬように設置した標柱だと思われます。



 我々はフツーの人たちなので言われなくても降りないので大丈夫です。

 ついで階段を上り、余湖図の「3」郭に来ました。

 虎口は枡形になっています。



 ここが本来、山の麓から上がって到達する地点だと思います。

 主郭を見上げます。



 じゃあ、その主郭に登ってみましょう。



 標柱や石碑、そして説明板などがたくさん立っていてウェルカムな様子が伺えます。

 ただ、説明板の文字と図はかなり薄くなっていて消えかかっているのが残念ですね。



 うわー、素晴らしい景色!



 東側の眼下には小川の町場が見え、その先右手には青山城が見えます。

 西股先生が「向こうから敵が攻めよせて来たら動きは一目瞭然だね」と仰いました。

 小川という場所は、中世の頃は鎌倉街道上道と秩父への道が合流する場所で、交通の要衝だったのです。

 その遺風か、中城のページでも書いたとおり、この近辺の郡部の町の中では賑やかな方でしょう。

 ついで反対方向の西側を見ます。



 中央の近い山は安戸城です。

 こちらからは秩父方面への道が繋がっており、西股先生が言うには、領主である上田氏が、南から忍びよる後北条氏によって本拠地である松山城を落とされた場合、この城にこもって抵抗し松山城の奪回を目論み、さらに最悪の場合、ここから秩父方面に逃げることを想定したのではないかとしています。

 こういうのを「後背地戦略」といいます。

 ついでに先ほどの中城のページでもお見せしましたが、説明板から腰越城近辺の城マップをお見せします。



 さて、時刻は12時45分、ここで昼休憩です。

 ここまで歩いて、汗だくの参加者もいます。

 皆さん、敷物を敷いたりして、思い思いにお弁当を食べ始めました。

 食事中は格好の雑談タイムですね。

 西股先生を巻き込んで城の話などをしつつ食事をします。

 そして食事の後は、先生がオリジナルグッズである腰越城の縄張図が印刷されたクリアファイルの販売を開始ました。

 1枚350円。



 クリアファイル好きの私はもちろん購入しました。

 他にも「クリアファイルなら何でも買っちゃう」と言っている方もいるので、実はクリアファイルコレクターは潜在的には多いのではないでしょうか。

 主郭には石が並んでいる場所があり、後で先生に伺ったところ、この城にも石積みは見られるそうです(縄張図には石積みが残っている箇所が描かれています)。



 それでは午後の部の開始です。

 主郭から南側に降り、余湖図の「4」の文字のあたりにはこのような切り込みがあります。



 そこから少し下がり、「3」の方面を見ます。



 「4」郭の西側虎口(「5」の部分)から降りようとすると、郭の隅に誰かがしゃがみこんでいるのが見えました。



 見なかったことにしましょう。

 ついで、竪堀「3」の上にやってきました。



 余湖図では竪堀は8本描かれていますが、西股先生の縄張図には11本の竪堀と、竪堀かもしれないものが3本描かれています。

 つづいて、余湖図の「6」、一般的には「西の郭」と呼ばれている場所に来ました。



 ここには小祠があり、この郭の南側から先は石灰の採掘によって大きく削り取られています。

 ですので、西股先生は「この先は崖になっています」と説明して、皆を引き連れて東側の腰郭の方へ向かったのですが、私ともう1名の方で、「せっかくここまで来たのだから崖の部分まで見てこないとね」と言って、石灰が削り取られた崖の先端まで行ってみました。

 お、やっぱりここは危ない。

 下を見下ろして納得すると、急いで隊列に戻りました。

 今日の参加者の山歩きのスキルには結構バラつきがあって、崖の先端を一緒に見た方はかなり慣れている感じがしました。

 私も「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」で滝山城の下草刈りなどをやらせていただいているお陰で、以前と比べてだいぶ歩くのは慣れましたが、滝山の会の皆さんと比べたらまだまだ危なっかしいと思っています。

 おっと、またもや「4」の郭に戻ってきましたよ。

 先生は我々をどこに連れて行こうと思っているのでしょうか?



 後で分かったのですが、ここ腰越城は、侵入してきた攻め手を惑わす「迷路」のような仕組みが施されており、先生はわざとグルグルと歩かせて、攻め手と同様に迷路の仕組みを味あわせようとしたのでした(推測)。

 おっと、左手頭上から誰かがこちらを睥睨していますよ。

 またもや、いなもとさんだ!



 この追い払っても追い払っても我々の行く手に姿を現すさまは、まさしく主家山内上杉家に対し叛乱を起こし、ライバル太田道灌が没した後も伊勢宗瑞と手を組むなど、神出鬼没にゲリラ戦を展開し天寿を全うした長尾景春のそれに酷似しています。

 我々は今回も何とか大将の命を守り切り、ようやくにして東の帯郭にやってきました。



 東側にはこの城には珍しく、横堀が掘られています。



 埋没した小祠。



 これも縄張図にはきちんと明記されていますよ。

 さて、ここで暫く、西股先生から腰越城の歴史背景について説明がありました。

 そしてその後の質疑応答で、面白い質問が投げかけられました。

 「この縄張図は、だいたいどれくらいの時間で描いたのですか?」

 「腰越城の場合は1日ですね」

 おー、凄い!

 私は縄張図が描けない人間なので、縄張図が描けること自体が凄いと思うのですが、腰越城くらいだと1日で描けるんですね。

 ちなみに、滝山城の場合は、東京都教育委員会が編した『東京都の中世城館』に掲載している縄張図を描くのに2週間かかったことを前回お会いした時に聞いています。

 そしてそのついでに私は、縄張図を描いた後に地形図に乗っけたのか、地形図をベースマップとして描いて行ったのかたずねたところ前者だそうです。

 描いた縄張図がそのまま地形図の上に乗っかるというのは、これまた驚きです。

 さてそんなわけで、楽しい講義の後はしばらく自由時間となり、14時40分には下山を開始しました。

 麓まで戻ってきて道路の端を見ると、来た時には気付かなかった腰越城のジオラマを発見!



 雨ざらしになっているのがちょっと心配でしたが、こういった立体模型があるととても分かりやすいですね。

 あ、いや、待てよ。

 この模型だと石灰の採掘によって失われた南側が表現されていますよ。

 これは面白いです。

 そしてまたバスに乗り小川町駅に着き、最後に主催者が挨拶をして解散となりました。

 今日はとても楽しかったです。

 多分、今日の参加者の方々とは来月の新府城でもお会いすると思いますので、そのときはまた宜しくお願いします。

 この会は「懇親会」は設定されていないということでしたので、それじゃあ帰ろうと思うと、ちょうどよく、15時35分の八高線が来ました。

 そして乗車すると、良い場所を見つけてしまったのです。



 2両編成のつなぎ目側の乗務員室です。

 キハ110系には何度も乗っていますが、これは初めて気付きました。

 なので私は喜びつつ怪しみながらこの席に座ってとてもご満悦だったのです。

 どこからか、いなもとさんの声音で「稲用さんって鉄ですか?」という囁きが聞こえて来たようでした。

 (了)
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【西股総生先生&いなもとかおりさん】「シロキチ企画」主催、中城&腰越城ツアー【埼玉県比企郡小川町】

2016-01-16 21:41:30 | 歴史探訪
 連日連夜、歴史ばっかりやっているという印象を持たれているような、そのような人の視線に恐れ慄きながら生きる昨今ですが、本日は、「シロキチ企画」が企画した城めぐり「中城&腰越城」に参加してきました。

 私は以前だったら人に案内してもらって歴史スポットをめぐるなんて考えたことすら無かったのですが、2年半くらい前に、ガイドをされる側ではなく、する側に興味が芽生えて、ついで「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」に入会したことにより、会が主催する城めぐりのガイドをやらせていただけるようになりました。

 ただ、滝山の会では私は滝山城についてビギナーですので、あくまでもサブという形で加わり、中田先生ほか、会の方々のガイドの仕方をひそかに学習して虎視眈眈と策謀を練っていたのです。

 そしてついに、滝山の会のヤマセミさんと「東国を歩く会」を立ち上げ、先日その第1回「歩く日」を開催して初めてメインでガイドをやらせていただきました。

 その様子はすでのこのブログでもお伝えしていますが、これは実は私にとっては夢の一つが実現したことなのです。

 ただ、「歩く日」に参加された方々からは、「稲用さん、歩くの速い!」と指摘され、最初から自分の気の利かなさというか、思いやりのなさというか、そういう点が残念で、別に根がドSだからという訳ではなく、中田先生以下の滝山の会の人たちと歩く基準で歩いてしまったため、ついつい先日のようなクレームが惹起されたものと思われます。

 そんなわけで、最近は歴史スポットに行ったときにボランティアガイドの方がいるときは、ガイドをお願いしてガイドされながらガイドのやり方を勉強したり、滝山の会では八王子市がいろいろと支援してくれてボランティアガイド養成講座も受けさせていただいています。

 ただ今までは無料かそれに近いガイドしか体験したことがなかったところ、今回のシロキチ企画では初めて有料の歴史歩きに参加してみて、有料でやるということはどういうことかを学ばせていただくことができました。

 今日の会の参加費は3,500円ですが、これを高いと見るか安いと見るか。

 解説は大河ドラマ「真田丸」で戦国軍事指導をやられている西股総生先生なので、まず、城の縄張の世界ではかなり突き抜けているマッド・西股先生に案内していただけるということがメリットの一つ。

 そしてこれだけの金額を払ってくる参加者は、よっぽどの城好きで、かつ比較的お金に余裕がある人たちが多いはずなので、そういう人たちと知り合えることがメリットの一つ。

 もちろん企画した方とは以前一緒に城を巡ったことがありますし、西股先生にも昨年、多摩地域史研究会の例会で津久井城を案内していただいているので、元々そういう縁もあったことと、上記のメリットを考えれば私的には3,500円はペイできると思い参加したのです。

 昨日の記事のように、100円の野菜を買うお金がないのに3,500円を払うということはどういうことか?と意味が分からない方もおられると思いますが、私は貧困であってもその少ない金銭の使い方に関しては熟慮しているのです。

 どうでもよい会社の飲み会などにはもったいなくて参加できません。

 あ、言い過ぎた。

 結果として今回の城めぐりはとても楽しく、お友達も何人かできて参加して良かったなあと思っています。

 次回は2月20日(土)に、山梨県韮崎市の新府城をやるので、興味のある方はぜひ参加してみてください。

 と、宣伝のお手伝いをしてみたりしますが、私も滝山の会のS源寺さんと一緒に行きますので、参加すれば稲用に会える、いやもっというならその不可思議な名前が謎を呼んでいるS源寺さんにも会えますので、どうぞ期待していらしてください。

 いらしてくださいって、ただの参加者のくせに何か偉そうだな!

 「シロキチ企画」のブログはこちらです。


 ⇒シロキチ企画


 さて、前振りが長くなりました。

 それでは今日のレポートです。

*       *       *


 朝10時に小川町駅に集合。

 小川町と言っても都心の地下鉄の駅ではないですよ。

 埼玉県比企郡小川町にある駅です。

 小川町駅には池袋から来る東武東上線と八王子から来るJR八高線の二つが乗り入れています。

 このブログの読者の中にはご存知の方もおられると思いますが、小川町には一昨年(2014)の12月28日に訪れています。

 そのときは嵐山町の杉山城を見て、ついで「嵐山史跡の博物館」と菅谷館を見学し、次は大蔵館に行こうかなと思っていたところ、たまたま菅谷館の中で話した方が西股先生と萩原さちこさんの共著『超入門 山城へGO!』を持っており、該書に掲載されていた小川町の中城が良いということを聞き、急きょ予定を変更し小川町へ急行したわけです。

今日から歩ける!超入門 山城へGO!
萩原 さちこ,西股 総生
学研パブリッシング


 そうしたところ、予期せぬことに埼玉県内の方墳としては最大規模の穴八幡古墳を偶然見つけてしまい、中城ともども充実した歴史めぐりをすることができました。

 なので、中城は再訪になるのですが、腰越城は見たことがなかったので、今回は楽しみにして参加しました。


 ※前回の中城レポートは「日本史大戦略」内のこちらにあります。


 話を戻します。

 出発時刻になり、中城へ向けて出発です。

 たまたま話しかけた方が嶺雲さんの友人で、某歴史バーに毎週通っているそうで、「お城業界も狭いですねえ」なんて話しているうちに、駅から徒歩10分くらいで着いてしまいました。

 このお山がそうだよ。



 探訪レポートは前回とだぶってしまうところもあると思いますがご了承ください。

 皆でズラズラとお城に入って行きます。



 本当はここで縄張図を掲載できれば今後の説明がスムーズに行くと思いますが、著作権の関係もあり勝手に使うわけにはいかないので、こういうときは頼もしい助っ人を呼びます。

 著作権フリーの余湖図です!



 「余湖くんのホームページ」から転載させていただきました(いくらフリーと言っても、きちんと余湖さんが書いたということを明記して使わないとダメですよ)。

 余湖さんとはもう17年くらい前にネット上でお互いのホームページをリンクし合う「相互リンク」で知り合ったのですが、何とまだ一度もリアルでお会いしたことがありません。

 ですので、今年こそは会いに行きたいなあ、何て考えています。

 さて、見ての通り、中城は単郭の城です。

 単郭というのは、郭が一つしかないということです。

 つまり見掛け上ワンルームなのです。

 我々は余湖図の右上から登ってきました。

 前面に土塁が見えます。



 そしてそのままテニスコートを右手に見ながら進み、右に90度方向転換すると前方に立派な土塁が立ちはだかっています。



 この土塁と繋がっている櫓台(仙覚律師堂)の前まで来ました。



 ここで西股先生から説明の開始です。

 先生はとりあえず、こういった中世城郭をあまり訪れたことが無い人がいても、そういう方にも分かるように説明をしようと考えていたようですが、そこまでのビギナーさんは一人もいないようです。

 ただそれでも、知識や経験にバラつきはありますので、その点は注意深く話し始めました。

 そして櫓台に上がります。

 ここから眺める土塁のフォルムは素晴らしいです。



 中城の最大の魅力はこの重量感溢れる土塁だと私は思います。

 余湖図でも分かる通り、土塁の外側には空堀があり、さらにその外側に土塁を構築している箇所もあり、これは珍しいのではないでしょうか。

 ただその先は畑地になっており、とくに遺構は無いようです。

 土塁から城外を見下ろすと、何やら人影が見えます。



 注視すると本日のアシスタント・いなもとかおりさんが、あろうことか師匠である西股先生のいる方向に対し攻撃を仕掛けてきたではないですか!



 我々も本日のツアーを成功させるためには大将を討ち死にさせるわけにはいかないので、必死に反抗していなもとさんの撃退に成功しました。

 さて、中城はだいたい200m四方くらいなのですが、長い防御線は単なる一直線ではなく、きちんと折りをつけてうまく横矢が掛かるようになっています。



 そして余湖図をご覧になると分かりますが、櫓台が2か所あます。

 一つはさきほど紹介した、仙覚律師堂が建っている場所で、もう一つは最初に入口として入ってきた場所にあります(こちらは余湖図では強調されていないですが)。



 この二つの配置が巧妙。

 西股先生曰く、城は少ない人数で守らなければならないことが多いので、なるべく少ない人数で効果的に守れるようにきちんと設計するそうです。

 ですから、この二つの櫓台というのは、その道のプロが寝ないで考え抜いた結果の配置なわけです。

 そして、現在郭に入ることのできる進入路、つまり土塁が切れている場所がいくつかありますが、我々が歩いて入ってきた箇所を含め、北西側の3箇所(余湖図では2箇所の表記となっています)は元々は切っておらず、仙覚律師堂の横が虎口として考えられ、あとは今は住宅が建っている南側にもあった可能性があると先生はおっしゃりました。

 それと、現在でも城の北側には本日の参加者曰く「湖」がありますが、そちら方面は往時は湿地帯で、おそらくそちら方面からの侵入はできなかったということです。



 さて、中城の城主については、『日本城郭大系』によれば、鎌倉時代に猿尾(ましお)太郎種直という土豪が居館を構え、室町時代初期になると斉藤六郎衛尉重範という人物が居城していたという伝承があるようですが、それを史料で確認することはできません。

 西股先生がおっしゃる通り、日本中に3万とも4万ともあると見られる戦国時代の城のほとんどは、城主不明・来歴不明の城です。

 中城も要するにそういった「謎の城」の一つになるわけですが、城というものは意味があってそこに造られるわけで、まずは当時の歴史背景をよく調べ、この近辺で勢力争いがあったのはいつ頃なのかをピックアップしていくのも解明の糸口になり得ます。

 中城の場合は、確かに土豪の居館としても良いかもしれません。

 なので伝承のように鎌倉時代から土豪の居館であったと見ることもできます。

 ただし、現在見ることのできる遺構からすると、どうみても戦国時代チックなので、戦国時代にこの地に君臨した領主の城だと考えても良いですが、上述の話だと室町時代初期の人物は出てきても、その後は出てきません。

 ですので、一つの仮定として、戦国時代に合戦時における臨時の城として使われた城だとすると、この地が戦乱の巷と化した時期はいつになるでしょうか。

 一番考えられるのは、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長享の乱(1487~1505)が考えられます。

 この地域は国内でも有数の城の密集地域です。

 ちなみにこの周辺の城の配置図を腰越城の説明板から紹介するとこんな感じです。



 例えば近隣では、嵐山町の杉山城や菅谷館などが長享の乱に関わってくると思いますが、実は長享の乱という時代設定に対して西股先生は否定的なのです。

 多分これは西股先生だけではなく、縄張研究家の人たちの共通認識だと思いますが、縄張を見る限り、長享の乱の時代というのは時期的に早すぎるというのです。

 ですから、今のところは決定的な証拠が出ない限り、「謎の城」でいいと思います。

 城の名前が古文書に出てくることはそんなに多くなく、そもそも「中城」という名前も江戸期以降につけられたものと考えられます。

 同時代の人はおそらく「猿尾の要害」とか「○×の山」とか呼んでいたはずです。

 以上、中城は小粒な城ですがとても面白い城で、なおかつ駅から徒歩圏という立地も恵まれていますので、もし興味のある方(とくに「土の城」ビギナーの方)は、ぜひ訪れてみることをお勧めします。

 仙覚律師堂のある櫓台からの西側の眺望も素晴らしいですよ。



 青山城が見えています。

 なお、中城は舌状台地の先端部分にあり、現在見ることのできるパーツの配置も鑑みるとこれで完全体なので、他に郭があったこと(つまり複郭であったこと)は考えられないそうです。



 さて、以上で中城の見学を終え、一旦小川町駅まで戻ってきました。

 朝は写真を取り損ねたので少し撮影。



 駅前ロータリー。



 ローソンがあるよ!

 メインストリート。



 前回の探訪レポートでも書きましたがここの商店街は結構賑やかで、郷土出版物を置いてある本屋さんもあります。

 見たことが無い塗装の東武線。



 フェンスが邪魔だなあと思いつつ電車を撮っていると、さきほど撃退したはずのいなもとさんが現れ、「稲用さんって鉄ですか?」と聴かれました。

 (お、来た。)

 「単なる鉄道好きで、決してマニアではありません」といつものように答えます。

 「単なる好き」と「マニア」のニュアンスの違いが分かるでしょうか。

 マニアというと相当詳しくないといけないと思うのですが、私は鉄道についてはその外観が大好きなだけで他の知識はないのです。

 ただ、日本史に関しては大きな声で「マニアです」と言い切れるように昨日も今日も明日も日々精進していく所存であります。

 さて、バスが来ましたので、これに乗って次の目的地である腰越城を目指しましょう。

 ⇒この続きはこちら

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朝の出勤時に古道めぐりを挙行/ミカンは異様に美味いね/もうダメかも

2016-01-15 22:23:13 | 歴史探訪
 中央線というと、よく人身事故が起きることで有名ですが、私は今の職場に通い始めて2年4ヶ月の間、奇跡的に朝の出勤時に人身事故のせいで遅刻する羽目になったことは一度もありませんでした。

 ところがです。

 ついに今日、巻き添えを喰らってしまいました。

 仕方が無いので、京王線で迂回して京王八王子駅まで行き、そこからバスで行こうとしたところ、まあ、バス停からして物凄い混みよう。

 しかもケイハチからバスに乗ろうとすると、すでにJR八王子駅の方で人が乗っているので、ちょっとこれだったら歩いた方がいいなあと思い、歩いてお店に向かいました。

 今日の午前中の仕事は遅めに出発だったので、それほど急いで出勤する必要も無く、ついでということで、大和田橋を渡ったあとからは甲州街道の旧道を歩いてみました。

 そうしたら、石仏発見!



 今話題沸騰中の馬頭観音もあるよ!

 いや、馬頭観音も仏様であるので「ある」とか言ってはいけませんね。

 私は少し前までこういったものには興味が無かったのですが、ヤマセミさんと歩いてから異様に面白くなり、とくに馬頭観音が好きなのです。

 そしてこの旧道はすぐに現在の甲州街道に合流してしまうのですが、少し歩くと江戸期の「稲毛道」に分岐しています。



 稲毛道はその名の通り、ここ八王子から稲毛方面(当時の橘樹郡稲毛領)に向かって伸びていた道です。

 この道はここからハケ(崖)の上を行くのですが、すぐ隣のハケ下にも道があります。



 では稲毛道を行きます。

 ちなみにこの道自体は以前から知っていましたが、これが歴史ある道だということはヤマセミさんから教えていただきました。

 ハケの縁を歩いて行くと八高線に架かる橋が現れ、車は通行できなくなっています。



 八高線は本数が少ないので運良く電車が来るということは期待できないですね。



 ここからは住宅街の中の区画整理された道になってしまうので、おそらく往時とは道筋が違うような気がします。

 そして大きな通りに出ました。



 今日は天気があまり良くないので、振り返っても山並がくっきりと見えません。



 さて、さきほどの大きな通りはこのまま行くと浅川を渡ります。

 平山橋です。

 そして現在の川崎街道と北野街道にぶつかるわけですが、現在の川崎街道は江戸期の稲毛道です。

 今でも私は仕事でその道を使って稲城市の方だったり、よみうりランドの現場に良く行きます。

 さて、こんな感じで出勤時から古道歩きをするくらい、私はどうかしちゃっている人間なんですが、今日の仕事はなぜかバタバタして、休憩も取れませんでした。

 昼は車を運転しながらおにぎりを食べ、午後の現場はししゃうの家の近くだったので、現場近くから神武号でししゃうにメッセージを送ろうと思っていたところ、それくらいの時間も取れませんでした。

 そんなわけでようやく午後の現場が終わり、お店に向かって運転しながらカーラヂオを聴いていたところ、東大のミカン愛好会の話が放送され、それを聴いていたら無性にミカンが食べたくなり、夕飯の買い物と一緒にミカンを購入してしまいました。

 ミカン、美味すぎ。



 ミカンも私にとっては高級なフルーツなので滅多に食べられないのですが、正直、ビタミンCは相当不足していると考えられ、なおかつ野菜もほとんど食べないので、昨日と今日は野菜中心の夕飯にしています。

 私は野菜も果物も大好きなのですが、夕飯のおかずを買う時に(あるいは外食するときに)、あと100円出せば野菜が食べられるシチュエーションでも、その100円が捻出できないのです。

 したがいまして、ここ2年少しの間、あまり野菜を食べていません。

 だから昨年暮れに風邪をひいてしまったのかなあなんて思います。

 しかも未だに咳が治らないし、今日なんかは午後にお風呂を洗っている最中に食道のあたりが物が詰まったような感じになり、ライトに苦しみもだえながら掃除をしていました。

 どうもこれは変なので、退社するときに上司に「私はもう死ぬかも知れないので、私の現場の引き継ぎをちゃんとしておきましょう」と話してきました。

 さきほど、夕飯を食べながらビールを飲もうとしたら苦しくて飲めず、普通だったら考えられない話ですが、ビールを捨ててしまいました。

 数え45歳まで生きられたのでまあいいか。
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東国を歩く会 第1回「歩く日」補足説明【初沢城の歴史】

2016-01-15 00:18:56 | 歴史探訪
 「東国を歩く会」主催、第1回「歩く日」で最後に少し時間があったので初沢城(椚田城)に行きました。



 日没前の山並はとても綺麗でしたね。
 
 でもその場では初沢城の歴史背景についてほとんど解説をしなかったので、ちょろっとまとめてみました。

 まず、城主は長井氏で、長井氏は鎌倉幕府で源頼朝の側近だった政所別当大江広元の子孫です。

 そして古文書に「椚田要害」と記されているのが初沢城のことなのですが、一方で椚田要害は片倉城のことだという説も昔からあるようです。

 しかし地名からして椚田は初沢城近辺で、片倉城の場所を椚田と呼ぶのはどうも不自然な感じを受けます。

 したがいまして、ここでは椚田要害は初沢城のことだという前提でお話をします。

 ちなみに当時は文書にはあまり「○×城」という書き方はせず、文書に書かれる時は「○×要害」と書かれることが多いです。 

 さて、15世紀後半、椚田城に住み現在の八王子市近辺を支配していたのは長井広房です。広房の妻は扇谷上杉当主・持朝の女だったため、広房は扇谷家に忠実だったはずですが、子の広直の代になると、さきの「長尾景春の乱」のときの縁で山内家に従うようになったようです。そのため、扇谷山内両家が抗争を開始すると(長享の乱)、椚田要害は山内勢力の最南端に位置する重要拠点となり、相模方面に勢力を張っている扇谷家と直接対峙することになりました。

 そしてここに、あのスーパースターが登場します。

 スーパースターとは、北条早雲のことです。

 もっとも、北条早雲というのは彼が生きているときの名前ではなく、リアルタイムでは伊勢宗瑞と名乗っていました。

 永正元年(1504)9月、扇谷上杉朝良の要請を受けた駿河の大名今川氏親は、叔父伊勢宗瑞を出陣させ、宗瑞は15日には武蔵国稲毛郷に着陣、5日後には氏親も合流、27日には立河原(立川市内の多摩川の河原)で山内上杉顕定と合戦となり、顕定は敗走しました。椚田要害に拠る長井広直はその直後、今度は扇谷家のメンバーとして名前を連ねていることから扇谷家配下に出戻りしたと考えてよいでしょう。

 しかし山内家は素早く反攻を開始します。そしてその最初のターゲットとされたのが離反した広直の籠る椚田要害でした。裏切り者は捨て置けないのです。山内家の猛攻により11月には椚田要害は落城し、城主広直以下20余名は自刃して果てました。ここに大江広元を祖に持つ名家長井氏は滅亡してしまったのです。

 その後、椚田には山内上杉顕定の宿老(重臣)大石道俊が入ります。このとき大石氏は一気に溝郷(相模原市上溝)まで版図を拡げたため、領域のバランスを考えたためか椚田に本拠地を移したものと考えられます。ということは裏を返せば上溝あたりまでは元々長井氏の版図であったのでしょうか。『多摩のあゆみ 143号』所収「鎌倉・室町期の長井氏と横山荘」によると、溝郷よりも先の座間郷にある常福寺の開基は大鏡寺殿大海道光居士で、道光はすなわち長井道広なわけで、14世紀末には長井氏は座間郷まで領していたことが分かります。なお、上溝にある秀珍山寳光寺の寺伝では天文年間に道俊が開基したとされていますが、以上の政治情勢を考えると永正年間のことかもしれません。

 永正6年(1509)8月、宗瑞は初めて今川家の命ではない独自の軍事行動を起こし扇谷家を攻撃、ついに戦国大名へ向けてのいわば「独立宣言」をします。今川家から見ると叛乱で、黒田基樹先生もそう表現しています。宗瑞は翌永正7年(1510)5月頃には椚田要害を落とし、城を追われた大石道俊は由井城(浄福寺城といわれる)に本拠を移しました。それと同じ頃、宗瑞に味方した吉里一族が津久井山に籠っています。この津久井山が津久井城かどうかは分かりませんが可能性は高いでしょう。吉里一族については「長尾景春の乱」で景春に味方した吉里宮内左衛門尉の一族と思われ、現在の新潟県魚沼市に地名が残っています。のちに津久井城主として有名となる内藤氏はまだ史料に現れません。

 さて、以上が初沢城の歴史のあらまし、というか歴史の表舞台に登場した一瞬のときを記した内容です。

 ただ、上の文章を読んでも、「扇谷とか山内とかって何だ?」とか、「長尾景春の乱って何だよ?」というような疑問も出てくると思います。

 その辺ももし今後、東国を歩く会に参加されていれば、自然と分かってくるようになりますので(私とヤマセミさんで責任をもって解説しますので)、ご心配はありません。

 なお、フェイスブック上に東国を歩く会のグループページを作りましたので、いつかはイベントに参加してみたいと思っている方も含めて、よろしければグループに参加してみてください。


 ⇒東国を歩く会のグループページ


 ところで、当日お配りしたホッチキスで留めてある資料の14、15ページはどちらも初沢城の縄張図ですが、両者を見比べてみてください。

 同じ城でも書く人によって縄張図はこんなにも違ってくるのですね。

 こういった表現の違いを楽しむのも良いですし、実際に現地で自分の目で確かめて見てみるともっと楽しいでしょう。

 あと、明日(土曜日)は、「シロキチ企画」の城めぐりで埼玉県小川町の中城と腰越城に行ってきます。

 案内して下さるのは西股総生先生です。

 楽しみなの。

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東国を歩く会 第1回「歩く日」 活動レポートその4 鎌倉街道山之道探訪と初沢城およびたかお食堂

2016-01-12 21:15:23 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 小松城からはそのまま金刀比羅神社の参道を歩き、県道48号線(鍛冶谷相模原線)を目指します。

 歩いている途中、ヤマセミさんから電話があり、我々が県道に出たころに追いついてくれそうな感じでしたが、県道に出て次の目的地である下馬梅に向かって歩き始めたところ、後ろの方からヤマセミさんが手を振りつつ歩いてくるのが見えました。

 ヤマセミさんの歩く速度は、宇宙空間で3倍の速度が出るシャア専用ザクのそれに酷似しています。

 無事に合流し、下馬梅に到着。



 このように梅の木が植えられ、説明板が立っているだけです。

 そしてこの梅が一体何なのかについては、説明板をお読みください。



 八王子城が落城したのが6月23日、津久井城が落城したのが同25日ですので、この話は怪しいなあ、とか言ってしまうと興醒めですが、伝承なので妙な突っ込みはしない方が無難ですね。

 しかしこの道が旧道であることには間違いありません。



 真ん中にフェンスが見えると思いますが、あれは境川沿いのフェンスで、境川の向こう側は武蔵国になります。

 向こうに見えるマンションは都営武蔵岡アパートで、国境近くであっても武蔵であることには変わりないのです。

 下見の時はこのまま旧道を直進して町田街道に出て、そこから大戸を目指しましたが、今日は少しでも近道をするためにさきほどの県道に戻ることにします。

 県道を歩いていると、左手に物凄い煙が上がっており、近づくとどんど焼きをやっていました。



 地域の人たちが結構集まっていて賑やかです。

 さらに進み、境川を渡って武蔵国に入りました。

 武蔵国に入ってすぐ、大戸観音堂があります。



 ここで少し休憩。

 大戸観音堂の横には「鎌倉街道山之道」というのが走っています。



 鎌倉街道は、その名の通り鎌倉に武家政権があった鎌倉時代に鎌倉に向けて北関東各地から繋がっていた道で、「上道(かみつみち)」、「中道(なかつみち)」、「下道(しもつみち)」の3つが有名で、鎌倉幕府が滅びた後も中世の街道として使われました。

 ところが第四の道として、さらにその西側に「山之道」というのがあり、秩父方面を経由して上州高崎と接続されています。

 それが観音堂の横を走っているわけですね。

 ここから鎌倉方面に向かう道は現在の町田街道に重なって、現在の相原十字路辺りでは北方の八王子方面から七国峠を越えてきた道と交わり、その先ではこれまた御殿峠を越えて来た道と交わります。

 逆に秩父方面の道は、まさしくこれから我々が歩いて行く道なわけです。

 ちなみに、大戸という地名ですが、鎌倉街道との関係で、中世の頃、武相国境のこの地に大木戸があったと伝わり、大木戸が縮まって「大戸」になったそうです。

 元々はこの地には中世の頃に了心庵という草庵があって、後に八王子市山田の雲津院の末寺となり祐照庵と呼ばれました。

 その祐照庵の境内に、慶長元年(1596)に観音堂が建立されたのが大戸観音堂始まりです(以上、現地説明板参照)。

 続いて、謎の城郭遺構を見に行きましょう。

 何の変哲もない山に入って行くと、山のふもとに空堀と土塁が現れました。



 これは下見に来た時も驚きましたが、一体何なのか、まったく分からないのです。

 参加者の皆さんは思い思いに感想を述べていますが、こうやって現物を目の前にしながらいろいろ想像を巡らせるのって楽しいですよね。

 でもこれについては解説らしい解説はできません。

 さて、以上で本日探訪する予定だった歴史スポットはすべて見ることができました。

 あとはひたすら町田街道(鎌倉街道山之道)を歩いて高尾、いや、たかお食堂を目指しましょう。

 あ、でもこのペースだと初沢城もチラッと見れそうですね。

 下見の時はここから町田市の大地沢青年センターまで西進し、そこから山に入り草戸峠を越え、ひたすら尾根上を北上し、拓大の敷地沿いにあるフェンス横を歩き、高尾の紅葉台団地に抜けたわけです。

 でも今日はもう山歩きはしません。

 皆さんの体力も心配ですが、何しろ下見をやった私とヤマセミさん、それに生源寺さんが懲りているからです。

 なので普通のアスファルトの歩道を北上します。

 町田市と八王子市との境界の八王子側の坂が、「恋路坂」です。



 なかなかロマンティックな名前ですが、恋路というのは元々は越路(こしじ)のことで、そう表記すると、「なーんだー」になりますね。

 山を越える路なわけですね。

 実は本日の最初に行った津久井城の本城曲輪にある説明板の図に、「こいじ(こしじ)」と書かれている場所がありました。

 ですので、「恋路」というのは各地にありそうな地名なわけです。

 その恋路坂を下って行くと前方に初沢城らしき山が見えました。



 段々陽も落ちて来て、山も良い色に染まりつつありますね。

 途中、拓大の正門方面に続く旧道に入り、紅葉台団地に近くなると、これまたとても良い感じの道になって行きます。

 貴重な寛政年間(江戸後期)の馬頭観音が路傍にひっそりと佇んでいます。



 良く見ると人の姿が刻されていますが、これは観音様の姿で、頭の上にあるのはお馬さんの顔なんです。

 私は馬頭観音と言うと「馬頭観音」と非常に自己主張を感じさせる文字で刻されたものしか印象に無いのですが、ヤマセミさんによるとこういったものも結構あるそうで、馬頭観音があるということは、すなわちそこは古道であることが分かるそうです。

 私も古道好きですが、ヤマセミさんは私の何十倍のキャリアがあり、実際凄い量の歩きをこなしているので、一緒に歩いていると私も沢山知識が吸収できて楽しいです。

 参加者の方々もヤマセミさんの説明を真剣に聴いています。

 そういえばさっきから私はほとんど説明してないなあ・・・

 その代わり、「高尾駅から拓大への通学路には幽霊が出るんですよ・・・」とか言って、歴史と関係ない話を繰り出して参加者を戦慄させています。

 疲れてきたのかな?

 でももう少しで冷えたビールが飲めるので頑張ろう!

 それにしても良い景色です。



 道も良い感じ。



 ヤマセミさんはこの道が気に入っていると言っていましたが、私を含めて皆さんも気に入ったようです。

 そして紅葉台団地に入り進んで行くと、前方にみころも霊堂の先っぽが見えました。



 あの山が初沢城です。

 結局、初沢城も見れちゃいますね。

 当初は初沢城もコースに入れていたのですが、下見の結果、難しいかなと思い今日はコースから外しておいたのです。

 でも思いのほかスムーズにここまで来れたので、ちょろっとですが、ビールを飲む前に見てみることにしましょう。

 斜面を登るのもあと少しなので頑張りましょう。

 私は初沢城には数えきれないほど行っていますが(何しろ自宅から歩いて10分ちょっとなので)、実は我が家から反対側の紅葉台団地側には行ったことがないのです。

 今日歩く前に、ヤマセミさんから中田先生が書いた初沢城の縄張図を見せられ、そこには私も見たことのない遺構が書かれていたので、今日はせっかくだからそれを見てみたいと思います。

 じゃーん、これです。



 解説するヤマセミさん。



 これは『東京都の中世城館』(東京都教育委員会/編)の縄張図にも載っていない遺構で、高尾やすらぎ霊園の南側にあります。

 中田先生、よくぞ見つけてくれました!

 ここには尾根の東側に曲輪が2段連なっているのです。

 上の写真は上の段から下の段を見たところです。

 詳しくは、中田先生が書いた『よみがえる滝山城 戦国の風雲をかけぬけた天下の名城』をご覧ください。

よみがえる滝山城―戦国の風雲をかけぬけた天下の名城
中田 正光
NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会


 というか私もこの本を持っているくせに、中田先生の縄張図に未知の遺構が書かれていることに気づかなかった!

 弟子として不覚。

 さて、日没も間近に迫ってきました。



 正面には本日の開始地点である津久井城も見えます。

 本当に良い色の夕景ですね。

 ロマンティックな気分に浸るおじちゃんたち。

 おっと、女の子も一人いましたね!

 あゆみちゃん、ゴメンナサイ。

 そして初沢山から下山すると、麓にはたかお食堂が。



 凄い、17時から打上げ開始の予定が、16時55分にたかお食堂に着いてしまった!

 これだけスムーズにいくのも珍しいのではないでしょうか。

 そしてここで、たかお食堂仲間のこばっちさんも参加し、たかお食堂の秘密の部屋で打上げ開始です。

 うわー、このヴォリュームは凄い!



 皆さん、「これ絶対赤字だよね」と心配しています。

 おそらくそうなのではないかと思いますが、マスターには申し訳ない気持ちがあるものの、やはりとてもありがたいです。

 ヒラさんが手配してこばっちさんが持ってきてくれた「相模灘」の一升瓶。



 今日は津久井から歩き始めましたが、その津久井の銘酒です。

 ヒラさんは「日本酒」も趣味なのですが、今日の歩きにふさわしい酒ですね。

 「にほんしゅ」には、「日本史(にほんし)」もインクルードされているので、実は日本酒が好きなその陰には日本史好きが潜んでいると私は確信しています。

 そしてヤマセミさんも一旦自宅に戻って日本酒を2本持ってきてくれました。

 そのうちの一本。



 広島のお酒ですね。

 ヤマセミさんの持ってきたお酒は2本とも4合瓶でしょうか。

 つまり開始の時点で少なくとも1.8升の日本酒があったので、私はまずはたらふくビールを飲んでから日本酒に行こうと考えていたところ、日本酒の減りが異様に速い。

 しかし無くなる前に気付いたので、私も日本酒を楽しむことができました。

 歩きに参加していただいた方は全員飲みにも参加していただけて、初対面の人たちも歩いている時点でかなり打ち解けていましたが、飲みの段階になったら皆さんもう昔からの友達のようになっています。

 私はこの光景を眺めながら、つくづく幸せな人間だなあと思いつつ、美味しい料理とお酒を楽しみます。

 後半はこばっちさんの自虐を含めた下ネタが全開となり、私も笑いすぎて治りかけていた咳が止まらなくなる始末です。

 結局ほとんど歴史の話は出ませんでしたね。

 でもこれで良いと思います。

 何しろ5時間も飲んだのに、全然中弛みが無かったからです。

 そして22時となってお開きなりましたが、ちなみに今日は2万6千歩くらい歩いています。

 もしかしたらちょっと歩き過ぎかもしれませんが、これに懲りずに次回もぜひ参加してくださいね。

 次はバレンタインデーにやりますよ!

 さて、最後に本日の参加者を一覧します(五十音順)。

 ・あゆみちゃん
 ・稲用
 ・こばっちさん(打上げから参戦)
 ・作宮さん
 ・生源寺さん
 ・ヒラさん
 ・makotoさん
 ・村越さん
 ・ヤマセミさん

 以上、9名。

 本当にありがとうございました!

 そしてたかお食堂のマスターとママにも、これほどまでに心を尽くして頂き、本当に感謝です。

 後片付けを手伝うこともせずに、酔っ払って帰ってしまって済みませんでした。

 それでは皆さん、次回もお会いできることを楽しみにしています。

 そしてまた、新たに次回から参加したいという方も大歓迎ですので、後日発表する記事を楽しみにしていてください。

 いやー、本当に楽しかったですね!
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東国を歩く会 第1回「歩く日」 活動レポートその3 小松城【武相国境近くにある謎の城郭】

2016-01-11 23:00:02 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 川尻八幡宮を出て、県道48号線(鍛冶谷相模原線)を北上します。

 今回の探訪箇所には山城も含まれているので靴はトレッキングシューズを推奨したのですが、午後はアスファルトの上も歩くので、その辺は参加者の方々も靴をどうしようか悩んだようです。

 次回以降はなるべく山歩きと町歩きを分けるようにしますので、今日は済みませんが我慢してください。

 道路の先には多摩の各地から良く見える大岳山が独特な山容を現しています。



 その横に見えるやや平たい山は八王子城です。

 古代でも現代でも、道を作るときは意外と目立つ山の方向に向けて意図的に作ることが多いです。

 昔であればその方が工事の際の目印になりますし、また山の上には神様がいるのでいつも神様が見ていてくださるという安心感がモチベーションアップにつながるわけですね。

 ですので、皆さんも歩く時や車を運転する時は、前方に何があるのか良く注意してみることをお薦めします。

 さて、川尻八幡宮から15分ほど歩き寶泉寺に到着しました。



 1月2日に来た時は境内を散策しましたが、今日は裏にある小松城のみ探訪しようと思います。

 墓地の西側には裏山に登る階段があります。



 150段くらいあるので、ゆっくりと登って行きましょう。

 個人的には斜面よりも階段の方がきついですね。

 でも階段登りって非常に心肺機能を高めるのに良くて、私は今の掃除の仕事をする前、体調の回復を目論んで初沢城にある高尾天神社の石段登りをやっていました。

 そのため当時は結構持久力がついたのですが、今はむしろその時よりも体力がなくなっています。

 さて、階段を登りつめるとそこは狭い平場になっています。

 小松城の概要と縄張については現地の説明板をご覧ください。



 縄張はこのように東西に細長く延びる尾根を堀切で切断し、斜面には竪堀を掘った構造で、曲輪はどれもこれも小さいです。

 ただし、南側にある階段を登り詰めた平場は、墓地の造成のために削られてしまったので、往時の状態は完全には分かりません。

 小松城は西股総生先生もお薦めしていたので、前回下見に来た時もヤマセミさんと生源寺さんとその理由について考えたのですが、現在城の曲輪群の北側はハイキングコースになっており、ヤマセミさんは「道ありきの城ではないか?」と非常に面白いことを言ったのです。

 なるほど、現在のハイキングコースをつぶさに観察すると、どうも道の外側に土塁があったり、土塁の形が虎口状に見える箇所があったり、何やら不審な点が伺えるのです。

 曲輪からはハイキングコースを見下ろすことができ、ここを通過する人は常に曲輪から監視されることになります。

 そのため、下見から帰った後、古い地形図なども参照して、もしこの道が中世からあったとすると、どことどこを結ぶ道だったのか考察してみました。

 ちなみに今は、県道からさきほどの川尻八幡宮の説明で出できた金刀比羅神社への参道となっています。

 つまりこの道の東側を走る県道は往時の古道ですので東側はそれへの連絡道として良いと思います。

 しかし問題は西側で、どうも西側がどこかにつながっている様子が伺えないのです。

 でも、明治以降の地図で道が確認できないとしても、もしかしたら甲斐地方への連絡路があったのかもしれず、城の存続時代的に甲州は関係ないとした場合、初沢城への連絡路だったと考えるのも面白いです。

 ですから、小松城は長井氏の片倉城の支城であったという伝承が残っていることから、むしろ片倉城ではなく長井氏の本拠地である初沢城の支城として、長井氏が南方の勢力と敵対関係にあった時期に築城された城だったのではないかと思っています。

 城の構造からして、城主が地域住民に対して君臨した城とは思えず、戦争のための臨時の砦的な印象を受けるのです。

 ただしこの辺は皆さんにも、「麓の集落や寶泉寺との関連をよくよく調べないとはっきりしたことは言えません」とお伝えしました。

 もし興味があったら、参加者の方々もぜひ考察してみてください。

 このように、来歴も用途も良く分からない城が日本中には万を超える数がありますので、それぞれの地域でその「謎の城」について調べるのは、実は地域住民にとっては大変エキサイティングなことだと思っています。

 なお、竪堀はみな、これくらいの規模です。



 といっても写真では全然分からないと思いますが、古風な形態の城ではありますが、竪堀を多用していることからそれが使用年代特定のヒントになるかもしれません。

 ちなみに、小松城も西股先生ほか著の『神奈川中世城郭図鑑』に掲載されていますので、興味のある方はどうぞ。

神奈川中世城郭図鑑 (図説 日本の城郭シリーズ 1)
西股総生,松岡進,田嶌貴久美
戎光祥出版


 ところで、今日は寶泉寺の本堂方面には行かず、すぐに墓地裏から山に登りました。

 実は本堂方面には猫ちんが沢山いるため、そこに行ってしまうと猫好きの方が動けなくなってしまう恐れがあるので今日は敢えてそちらには行かずすぐに裏山に登ったわけです。

 後で聞いたら今日の参加者は結構猫好きが多かったので、もし興味があれば個人的にこちらにやってきて猫に戯れてみるのも良いかなと思います。

 ここの猫はみな人に慣れているので、猫カフェならぬ猫寺状態で癒されると思いますよ。

 さて、参加者の大半はこういったマイナーな小規模城郭は見たことなく、面白さを伝えきれたか自信はありませんが、小松城はここで終わらせて次を目指すことにしましょう。

 ⇒この続きはこちら

※なお、この記事は後日、私のホームページ「日本史大戦略」に移動すると思います。
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東国を歩く会 第1回「歩く日」 活動レポートその2 春林横穴墓群・川尻八幡宮・川尻八幡神社古墳

2016-01-11 16:42:52 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 津久井城の探訪を終えて、11時40分、津久井湖観光センターに戻ってきました。

 津久井湖畔の陽の当たるベンチに座って、お昼ご飯を食べます。

 たかお食堂仲間のヒラさんは山登りが趣味なのですが、山でよく作って食べているというカレーうどんを作って皆さんに振る舞ってくれました。

 一人ずつ、紙コップに入れていただいたのですが、こういった冬の屋外で飲む温かいカレースープはとても美味いですね。

 しかも紙コップの良いところは、箸が無くても麺をすすることができるところです。

 皆で談笑しながらランチを食べた後、ちょろっと津久井湖観光センターに寄り、12時23分のバスに乗車しようとしたところ、参加者の一名が山に落とし物をしたことに気づき、手袋を片方失くしていたヤマセミさんが、自分の手袋を探すとともにその落とし物を探すためもう一度登ってくると言いました。

 ですので、ここからはしばらく私一人でガイドをします。

 実はここからの区間はヤマセミんさんが詳しいのでちょっと心細くなりましたが、一緒に下見をした生源寺さんもいるので大丈夫だと思い、津久井湖観光センターから10分弱バスで移動し、城山総合事務所入口で下車しました。

 次に見るのは春林(しゅんりん)横穴墓群です。

 横穴墓は、「よこあなぼ」と発音する人と「おうけつぼ」と発音する人がいて、専門家は「よこあなぼ」と呼ぶことが多いような気がします。

 そしてそれがいったい何なのかというと、横穴墓は古墳の一種です。

 古墳というと土で盛ったものを想像すると思いますが、そういうものは正確には高塚古墳と言います。

 まあでも、現状古墳と言ったら暗黙的に高塚古墳のことを差すことが多いので、あまり気にする必要はないかもしれません。

 古墳時代は3世紀半ばくらいから始まるのですが、最初古墳は地域の権力者の墓でした。

 一般人は作れなかったのです。

 それが関東地方では7世紀くらいから崖の急斜面に横穴を掘って埋葬するのが流行り出し、一般人もその墓に入れるようになったのです。

 埼玉県吉見町の吉見百穴(よしみひゃくあな)をご存知の方もおられると思いますが、あれなんかは有名な横穴墓の一つですね。

 そういうものがここ旧城山町にあるわけです。

 住宅街を歩き、川尻小学校の裏道を進み、墓地を横目に山に近づいて行くと、春林横穴墓群の説明板があります。



 概要はこれを読んでいただくのが早いとして、戦時中は防空壕として利用されたそうです。

 また、横穴墓の中に住み続けた夫婦もいたそうで、あるとき骨が見つかって供養したという話も残っています。

 昭和の頃までは子供たちの遊び場だったそうですが、現在は説明板に書かれている通り、崩落の危険性があるので近寄らない方がいいです。

 なので、今回我々はこの説明板を読んだだけで、次の川尻八幡宮を目指すわけですが、実は下見の時は横穴墓を見てきました。



 こういった藪に覆われた斜面にあるわけですが、ヤマセミさんが以前穴を見たことがあるそうで藪を漕ぎながら探ったところ、一つ見つかったのです。

 早速私も斜面を登ってヤマセミさんのところに向かいましたが、かなり急です。

 この急斜面をどうやって重い遺体を運んだのでしょうか。

 骨になってから埋葬したんじゃないかなあなんて思うくらいの急斜面です。

 そしてこれが横穴墓です。



 入口はかなり狭いですが、中は2mくらいの高さがあるそうで、人が住むのも不可能ではないでしょう。

 さて、話を元に戻して、春林横穴墓群の説明板を見た後は、川尻八幡宮に向かいます。

 畑や野原の広がるのどかな道を歩き、川尻八幡宮の境内に入りました。

 1月2日に来た時は初詣客で賑わっていましたが、今日は静かな感じです。



 今日は本殿を覆う覆屋の格子扉が閉まっていて本殿ははっきり見えませんが、1月2日のときは解放されていました。



 この本殿は相模原市登録有形文化財で、宝暦10年(1760)の建立、この辺りでは最も古い木造建築物です。

 川尻八幡宮自体の歴史としては、説明板によると創建は大永5年(1525)とされ、北条氏綱が江戸城を奪取したのがその前年ですので、時期的には北条氏の勢力がこのあたりにおよび始めたころになりますね。

 北条氏が奥三保での影響力を高めるにはなお時間が掛かるものの、北条氏が支配者としてこの地域に進出してきたときに地域の人心を得るために建立したのではないでしょうか。

 しかし私の予感では、川尻八幡宮の前身となる神社がかなり古くからあったような気がします。

 というのも川尻八幡宮近辺はこの地域における信仰の中心地だからです。

 そう思う理由をいくつか挙げますと、まず約1kmもつづく川尻八幡宮の参道のラインが面白い。



 毎年、二十四節季の雨水の日と霜降の日は鳥居の正面から旭が登るそうで、ちなみに雨水の日は太陽が雨となって大地に恵みをもたらす日です。

 そして参道の直線を山側にたどっていくとその線上には金刀比羅神社があり、その近くには雄龍籠山(おたつごやま)と雌龍籠山(めたつごやま)という山があり、それぞれが境川と相模川という二つの異なる水系の分水嶺となっています。

 このように計画的に各神社が配置されていたり、雨や水に関する信仰に関連するものが多かったり、かつ相模国内での重要河川の境川と相模川の水源地帯だったりすることからヤマセミさんは雄龍籠山と雌龍籠山を仰ぎ見る農耕信仰が相当昔からあったのではないかと考えています。

 ちなみに、1月2日に下見した時にはこのあと「雨降」という土地を歩いたのですが、大山阿夫利神社の「あふり」とは「あめふり」のことだそうです。

 雨に対する信仰は、農耕が生業となった弥生時代以降に発生したと私も思うので、そうすると川尻八幡宮の土地は弥生時代から何かしら祭祀場があったと考えても良いのではないでしょうか。

 しかも上記の話をヤマセミさんから聴く前に私も事前調査をしていて、川尻八幡宮の参道の延長線上には町田市の箭幹八幡宮の社殿があることを知りました。

 いよいよ何かあるような気がしてきました。

 そして面白いことに、境内には古墳があるのです。



 川尻八幡神社古墳と呼ばれているこの古墳は、現在では盛土がなく石室が露出していますが、往時は直径10mほどの円墳で、古墳横の説明板には奈良時代の物とありますが、境内入口の説明板に書かれている7世紀前半という方が正しいと思います。

 この地域で現在古墳とはっきり分かるのはこれだけなのですが、かつては古墳のような塚もいくつかあったとされ、古墳時代後期から終末期の群集墳の一つだった可能性があります。

 そしてこの古墳の特徴は多摩川水系の古墳と相模川水系の古墳の両方の特徴が見出されるようです。

 というわけで、現在も神社があるこの場所は、弥生時代以降、農耕信仰の祭祀場であった可能性もあり、また古墳時代は墓域であったことは間違いないです。



 このようにいろいろと考える材料が沢山あるわけですが、ちょっと説明がマニアック過ぎたかもしれませんね。

 次はまた戦国時代に戻り、小松城を探訪しましょう。

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 ※なお、この記事は後日、私のホームページ「日本史大戦略」に移動すると思います。
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東国を歩く会 第1回「歩く日」 活動レポートその1 津久井城【関東における代表的な戦国期山城の一つ】

2016-01-11 13:41:42 | 歴史探訪
 昨日はかねてよりお伝えしていました、「東国を歩く会」の第1回「歩く日」を決行しました。

 テーマは「相州奥三保から武州多摩郡椚田村を目指す!」です。

 嬉しいことに参加を表明していただけた方の参加率は100%で、かつ、たかお食堂での打上げ参加率も100%、さらに打上げではたかお食堂仲間のこばっちさんも駆けつけてくれて、とても充実した一日を過ごすことができました。

 参加された皆さん、昨日はお疲れ様でした!

 そして、積極的にこのイベントに関わっていただけて本当に感謝しております。

 私はほとんどの方とは以前から遊んだり飲んだりしていましたが、参加者同士では当然初対面という状況も多かったものの、皆さんがまるで昔からの友達みたいに楽しく話しているのを見て、私自身すごく幸せなことだなあと思いました。

 さて、それでは昨日の探訪を写真とともに振り返ってみます。


*     *     *



 8時半に橋本駅北口1番バス乗り場の前に集結、予定よりも1本早いバスに乗り込み、20分ほど乗車して津久井湖観光センター前で下車しました。



 観光センターの裏にあるお庭で本日の説明や自己紹介などをしたあと、早速津久井城に登ります。

 この山に登るよ!



 ※本記事の写真の中には、以前探訪した時の写真も混ぜてありますので、その点はご了承ください。

 津久井城の全体図は現地の案内図で確認できます。



 津久井城は、標高375mの本城曲輪のほかに太鼓曲輪と飯綱曲輪という3つのピークからなる山城で、比高は200m以上あります。

 3つのピーク以外にも東側には現在鷹射場(たかうちば)と呼ばれているピークもあり、本城曲輪から鷹射場まででも東西の長さは600m近い本格的な山城で、天正18年(1590)6月25日に徳川勢の本多忠勝や平岩親吉らに攻め落とされた(あるいは開城させられた)時の最終形態を見ることができます。

 まずは鷹射場からの景色を眺めたいので、宝ヶ池のすぐ下まで登り、そこから尾根伝いに鷹射場を目指します。

 津久井湖観光センターからの登り道は、城が機能していた頃の道ではなく後世に整備された道で、本来のメインの登城ルートは南西側の城主の屋敷から登る道です。

 ただ、そちら方面はバスの便が悪いので、津久井城に公共交通機関で行く場合には津久井湖観光センター行く方が便利で、そうするとどうしても北側のハイキングコースから登らなければなりません。

 ただし、登っている途中にも大きな竪堀がいくつか見られるので、そういうところを注意しながら登ると良いでしょう。

 なお、城の周辺を含めた全体図に地名が乗っかっている絵が本城曲輪にありますので、さきにそれを提示します。



 さきほどは3つのピーク+鷹射場で東西600mと言いましたが、上図のとおり小倉口の曲輪群まで含めるとさらに巨大となり、さらに城下町を入れると相当大きな城になりますね。

 さて、息を切らせながらひたすら登ります。



 山登りって歩きだした最初は結構きついんですよね。

 40分ほどかけてひとまず宝ヶ池の東側の尾根まで到達しました。

 ここには堀切が切ってあり、この堀切が津久井城の絶対防衛ラインで、ここより西側がメインの城域になります。

 我々はその堀切を越えて東側に進み、東方の平野が一望できる鷹射場にやってきました。

 今日も晴天に恵まれ、風もほとんどなく、歩くには最適な日ですが、残念ながら遠くの方は少し霞んでおり、スカイツリーが薄く見えるくらいでした。

 昨年の12月5日に来た時はもう少しくっきり見えましたので写真を載せます。



 1月2日の下見の時は、三が日ということもあり都心の空気がもっとも綺麗になる日だったので東京湾がキラキラ光り、房総半島まで見えましたが、その時はなぜか写真を撮るのを忘れました。

 鷹射場は東側の相模平野上に南北に走る街道を監視できるので、もしその方面から敵が近づいてくればその姿は丸見えで、敵が攻めかかるまでには防衛体制を整えることができます。

 先ほどお見せした図にもある通り、ここから麓に向かう下の方には曲輪がいくつも段々になっている、いわゆる馬蹄段があるようで、東側は往時も「小倉口」と呼ばれる登城口の一つだったようです。

 もし、鷹射場が危なくなった時は、守備兵は尾根伝いに逃れ、西方にある飯綱曲輪に撤退します。

 その間の尾根は細尾根で、攻め手は一列になって進まなければならず、飯綱曲輪の前衛になっている小さな曲輪から鉄砲で一人ずつ撃ち倒されるわけです。

 しばし絶景を堪能した後は、我々も飯綱曲輪へ向かいましょう。

 飯綱曲輪の直下には宝ヶ池と呼ばれる湧水があります。



 こんな標高の高いところに水が湧き出てくるのは不思議ですが、水が確保できないと山城を築くことはできません。

 説明板によると、津久井城の城山は非常に水に恵まれているそうです。

 それでは、津久井城の3つのピークの1つである飯綱曲輪に登ってみましょう。

 飯綱曲輪には東西の二つの入口がありますが、東側の虎口(入口)は土塁が喰い違いになっています。

 通常、虎口は防御力を高めるためにまっすぐにはせず、わざと道を屈曲させることが多いです。

 飯綱曲輪という名称は狭義には飯綱権現が祀ってある平場だと思いますが、尾根上には他にいくつか平場あり、それらを総称して呼ぶ場合もあるようです。

 南側の曲輪にはベンチが置いてあり、南方の眺望が優れています。

 ここからは三増峠方面も丸見えで、永禄12年(1569)に、甲斐の武田信玄は小田原攻めの大遠征をおこなった後、退却時に三増峠を越えて逃げるルートを選択し、峠付近で北条側の追撃隊と合戦になりました。

 有名な「三増峠の戦い」ですが、このとき戦場に一番近い城である津久井城には北条側の内藤氏がいました。

 ところが、そのとき内藤氏が出撃した記録は無いのです。

 もしその時内藤氏が出撃していれば、信玄は挟撃されることになりもしかしたら命は無かったかもしれません。

 一応は、信玄の家臣が内藤氏が出られないように麓を押さえたようですが、どうも津久井城の内藤氏はそもそもが半独立勢力ですので、おそらく信玄側があらかじめ調略しておいて出撃しないことになっていた気がします。

 そして、信玄が富士山のふもとを回って甲府に帰る道を選ばすに、三増峠を選択した理由の一つとして、三増峠周辺を治めていた津久井城主とは別の内藤氏が、それ以前から武田と北条に両属する勢力であったことが『北条氏所領役帳』で明らかなので、信玄にとっては三増峠越えが安全性の高い退却路だった可能性があります。

 さて、そのような説明をした後は、飯綱曲輪の頂部に登りましょう。

 飯綱曲輪の頂部には曲輪の名前の元となった飯綱権現が祀ってあります。



 ここで参加者から「飯綱権現はお城があった頃から祀られていたのですか?」という質問を受けました。

 私もヤマセミさんも確実なことは言えませんが、飯綱信仰は戦国の頃にはすでにあり、高尾山はそれで有名なので、城が作られる前からこの山に祀られていた可能性は高いと思います。

 神様は大概、山の一番高いところに祀りますので、もしかしたら当初は本城曲輪の方にいたかもしれません。

 それを城を作った時に現在の場所に遷した可能性もあると思います。

 ところで今回は、参加者の方々が積極的に質問をしてくださるので会話が弾んで楽しいですね。

 次に真ん中のピークである太鼓曲輪に向かうため飯綱曲輪の西側虎口へ向かいます。

 そこには現在はまっすぐな道が付いていますが、こちらも往時は喰い違いになっており、その道も残っています。

 そして飯綱曲輪から見て左側には長い縦方向の土塁が築かれているのも面白いです。

 太鼓曲輪は3つのピークの中で一番面積が狭いのですが、その名の通り太鼓が設置してあったと思われます。

 八王子城にも太鼓曲輪がありますね。

 太鼓の音はご存知のように非常に大きな音なので、太鼓によって周辺に情報を伝えることができます。

 叩き方によって何を示しているのかあらかじめ決めておけば、音を聴いただけで城内や城下での第一次対応ができるわけですね。

 太鼓曲輪は城域の真ん中なので、太鼓を設置するのに適していると思います。

 参加者からは「太鼓のような形をしているから太鼓曲輪なんですか?」と聴かれましたが、これも面白い発想ですね。

 太鼓曲輪の名前の由来については上述した通り太鼓が設置してあったからというのが一般的ですが、こうやって違う可能性を考えるのも楽しいです。

 峰岸純夫さんは、「発見する歴史学」というのを提唱されていますが、こうやって歩きながら考え、そして何かを発見するというのは歴史歩きの醍醐味であると思います。

 太鼓曲輪から本城曲輪を目指します。

 途中大きめの堀切がありますが、昨年の12月5日に西股総生先生に案内していただいたときの話によると、津久井城の特徴の一つは、堀切をあまり使わずに虎口を喰い違いなどにして厳重にする方式を採用している点が挙げられるそうです。

 そう言われるて改めて縄張図を見ると、尾根上に作られた城なのに堀切が少ないですね。

 なお、この辺の話は西股先生たちが書いた『神奈川中世城郭図鑑』にも書かれているので興味のある方はお読みください。

神奈川中世城郭図鑑 (図説 日本の城郭シリーズ 1)
西股総生,松岡進,田嶌貴久美
戎光祥出版


 さて、本城曲輪の下にある土蔵曲輪にやってきました。

 ここはその名の通り土蔵があったことが発掘調査でも分かっており、今も直線に並ぶ礎石が残っています。

 そしてこの山の最頂部は本城曲輪の西から南にめぐっている土塁の上で、現在碑が建っている場所は少し土塁の幅が膨らんでおり、おそらく櫓が建っていたと思われます。

 ちなみに津久井城は曲輪に土塁を構築している箇所が多いのですが、虎口を除いては城外から見える方位に限られています。

 これはもちろん防御力を高める効果もありますが、見栄えを良くする(威圧的にする)効果もありますね。

 時刻は10時40分、そろそろ下山する予定時刻になりますが、津久井城の特徴の一つである畝状竪堀群を見てみましょう。

 津久井城は非常に沢山の竪堀を掘っているのですが、本城曲輪の北西側斜面には竪堀を何本も並べた特異な遺構があるのです。

 西股先生は関東では4例しか思い浮かばないと仰っており、その貴重な遺構を皆さんに見ていただきましょう。

 少し頑張って曲輪を降りて行きます。

 「これが畝状竪堀群です!」と説明しましたが、皆さん反応が微妙です。

 竪堀の下の方に回って見るとそのディテールがよく分かるのですが、そこに行くのはかなりの探検ごっこになるので、上の方から見ていただいたわけです。

 でもやっぱりあまりピンとこないようですね。

 ですので、「何を見たのか良く分からなくても、関東に数例しかない貴重な遺構を見たという事実だけは記憶しておいてください」と皆さんに伝えました。

 抽象的すぎるかな・・・

 では、本城曲輪に戻りましょう。



 なお、現在は土に埋もれていますが、本城曲輪の通路部分には発掘調査の結果、石敷きが見つかっています。

 川原石を敷き詰めた通路なわけですが、おそらく八王子城や滝山城もそうなっていたのではないかなあと、我々城仲間は話しています。

 では、ここからは下山になります。

 本城曲輪から北側に連なっている曲輪を藪こぎして直に降りて行くと近道なんですが、まさかそんなことを皆さんに強要することはできませんので、元来た道を戻り、太鼓曲輪の東側からハイキングコースをたどって下山します。

 少し歩いていると、左手上部に曲輪の段々が見えてきて、やがて本城曲輪の北側に段々になっているいくつもの曲輪の一つに到達しました。

 ここからは、今回の探訪で唯一の「探検ごっこ」をしようと考えています。

 一段下の曲輪の西側土塁にはかなり見ごたえのある石積みが残っているのでそれを見ていただきたいのですが、急角度な斜面を降りる必要があります。

 ですので、希望者のみ付いてきてくださいとお伝えしたところ、皆さん付いてきてくれました。



 そしてこれをご覧いただいたわけです。



 西日本の立派な石垣を見慣れている方からすると、「へー」みたいな感じだと思いますが、これだけの石積みでも関東の中世城郭ファンからするととても面白いのです。

 技術的な問題やそもそも石が取りづらいこともあって、関東地方の山城ではほとんど石積みは使わないので、これだけでも感動ものなのです。

 ちなみに私が見た関東の山城のなかで最も石積みが凄かったのは群馬県太田市の金山城です。

 もちろん復元した箇所も多いのですが、金山城くらいになるともう立派な「石垣」ですね。

 あとは、八王子城でも「殿の道」を登って山頂を目指せば、凄い石積みを見ることができますよ。



 これで津久井城の全メニューは終了となります。

 ハイキングコースを降りて津久井湖観光センターに戻りましょう。



 お腹空いた。

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 ※なお、この記事は後日、私のホームページ「日本史大戦略」に移動すると思います。


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【東国を歩く会】1月10日の最終連絡および注意事項【相州奥三保から武州多摩郡椚田村を目指す!】

2016-01-08 22:41:50 | 歴史探訪
 前回記事を投稿した時点で、私は体調不良を訴えていましたが、そのまま出社できず、結局解雇されてしまったという結末ですと、意外性があってネタにはうってつけなんですが、とりあえずスローペースで仕事をしつつ回復を図っている次第です。

 どうも、咳だけが全然治らず、もしかすると日曜日は咳き込みながら案内するかもしれないので、その場合は私から100メートルくらい離れてお話を聴いていただければうつる心配はありません。

 しかしそんな体調の中、今日はビルメンみたいな仕事をして、私はあまりマンションの共用部でポリッシャーを回すことは無いのですが、後輩(といっても掃除業界では大先輩)のKさんから、「稲用さん、体調が悪いようですが、今までで一番いい動きをしてますね」と褒められました。

 ちなみにKさんは私より一回りくらい下ですが、私はもはや人間の年齢はどうでもよくなってきているので、褒められて嬉しかったです。

 彼と現場に行くと結構色々なことを教えてくれるので、掃除が大好きな私にとってはとても面白く仕事ができます。

 さて、話が少し遡って、5日の初出社の日は今年最初のラーメンを食べました。

 といってもつけ麺ですが、「楓」の辛つけ麺です。



 写真は大盛りです。

 楓は人気店で、駐車場が5台分位しかないので、コアタイムに行くとダメな日が多いのですが、5日は幸運にも1台分空いていました。

 この辛つけ麺のスープは山椒やコリアンダーなどが入っていて少し変わった味で、たまに無性に食べたくなるのですが、それに加えて麺が凄く美味しいのです。

 味わって食べることのできる麺です。

 そんな感じで今年のラーメン人生も始まったわけですが、今日までまだ楓しか食べていない・・・

 カップラーメンはほぼ毎日ですが。

 そして今年最初のビッグニュースを話しますと、フェイスブックの友達の方は既知だと思いますが、スマホを持っていない私も、とうとう「どこでもインターネット環境」が整いました。

 というのも、昨年の2月11日にノートPC(神武号)が届いて以来、それをずっとスタンドアローンで使っていたのですが、とうとう私もWi-Fiのルーターを買ってしまったのです。

 そのためどこでもノートPCを使ってインターネットにアクセスできるようになりました。

 凄く便利です。

 メアドも今までずっとプロバイダのメールを使っていて、それだと自宅のPCからでないと見れなかったのですが、Gmailのアカウントでどこでもメールができるようになりました。

 これだけでも非常に便利ですね。

 通勤の時や仕事の休憩の時にメールが打てるだけでも私の稼働時間は大幅にアップしました。

 素晴らしい。

 さてそんなわけで、随分と前振りが長かったですが、いよいよ10日の日曜日は、冒頭チラッと書いたとおり、城めぐりを実施します。

 参加者の方々にはすでに告知していますが、私たちのこの企画には「東国を歩く会」という名前を付けました。

 そして、今後は月に一度は歴史めぐりを企画し、それを「定例活動」と称し「歩く日」というイベント名にしました。

 その記念すべき第1回「歩く日」がいよいよ明後日に迫ったわけです。

 参加される人数は当初私とヤマセミさんが希望していた人数になり、歩くのにも飲むのにもちょうど良い人数です。

 「東国を歩く会」は特別、城に特化した会ではないですが、今のシーズンは城歩きにちょうどいいので、冬場は城をやります。

 しかも本来の字義でいうところの「城郭」の「城」部分だけ、つまり城本体だけを歩くのが普通の集まりですが、我々は「城郭」の「郭」部分、つまり城下町を含めて歩く会も企画するつもりです。

 「城下町歩きって普通にあるじゃないですか?」と思われた方もおられると思いますが、確かに江戸期の城だったらありますね。

 でも我々は中世城郭でそれをやるのです。

 つまり普通に人が知らないような面白スポットをえぐり出して紹介しようと目論んでいるわけです。

 それと春・秋には古道歩きがメインになると思いますし、梅雨時と猛暑時は屋内でできるディスカッションや講義、お茶会や飲み会をやろうと思っています。

 私とヤマセミんさんの歴史人脈をフルに活用し、関東各地の歴史仲間に協力を要請して面白いイベントを開催するつもりです。
 
 ちなみに飲み会に関しては、歩いた後は開催が必須で、今回は歩く方々の実に100%が打ち上げに参加してくださります。

 しかも日中は歩かずに、飲み会だけ参加という方もおられます。

 まあ、そういった、ようするに飲んだくれの集まりのように思われてしまうような行為に及ぶわけですが、以前からお伝えしている通り、私は酒飲みではありませんので誤解なさらないでください。

 というわけで、参加される皆さんはどうか余裕を持ってお出かけください。

 それと若干補足しますと、ヤマセミさんから手袋と帽子はあった方が良いと連絡がありました。

 手袋は以前から告知しているのですが、斜面の上り下りで木を掴むこともあり、中にはトゲトゲの植物もあったりしますので、手袋(作業用の皮手袋などがベスト)はあった方が良いです。

 帽子に関しては、私は被ると取ったあとに汗でぬれた髪型が惨状を呈しますので被りませんが、こちらも植物から頭部を守るためにはあった方が良いと思います。

 そして雨は心配ないようですが、雨具は念のため持参いただき、靴は山を歩ける靴、そしてお弁当は忘れずにお持ちください。

 朝集合する場所の近くにローソンがありますが、前回下見の時に寄ったらおにぎりとかお弁当とか凄く品数が少なかったです。

 飲み物は最悪、津久井城に登る前の観光センターにビールも含め沢山売っているので心配ありません。

 あ、ビールは余計でしたね。

 私は明日も7時から仕事なのでそろそ寝ますが、日曜日はお会いできるのを楽しみにしています!
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津久井城主内藤氏の系譜 ~津久井内藤氏は3系統あった~

2016-01-04 18:09:44 | 歴史探訪
 年始早々、体調不良です。

 明日会社行くのやめようかな。

 嘘。

 実は冬休みになった途端、気が抜けたのか、今までの疲労がドッと出たのか、風邪気味となってしまい、そのまま年を越して1月2日はあまり体調が良くないまま一日歩いてきました。

 多少体調が悪い時は軽い運動をした方が良いからです。

 昨日は朝から津久井内藤氏の研究を始め、昼には娘が遊びに来ましたが、鼻水が怒涛の勢いで流れ続け、微熱も出てきたので午後は寝てました。

 今日も超珍しく9時まで寝てしまい、起きだすと朦朧とした頭脳のまま内藤氏の研究を続け、さきほどようやく一段落しました。

 今回、1月10日に津久井城を案内する上で、城主の内藤氏に関しては基本的なことは知っておこうかなと思って、今まではほぼ何も知らなかったのを2日間の研究で論文を書いてしまったものですから、当然ながらそういった付け焼刃的な内容はヤバいと思います。

 でも陳腐な内容でも一度人前にさらすとどういうわけか研究が進みますので、今日は5000字あまりの「津久井城主内藤氏の系譜 ~津久井内藤氏は3系統あった~」という論文を掲載します。

 論文なので「あれ、いつもの稲用さんと雰囲気が違う」と思われるかも知れませんが、私の「津久井内藤氏研究2日間」の集大成をどうぞお楽しみください。


※       ※        ※



津久井城主内藤氏の系譜 ~津久井内藤氏は3系統あった~

1.はじめに

 津久井内藤氏(以下、単に内藤氏と称す)についての研究のうち、一番良くまとまっているのは『城山町史 5 通史編 原始・古代・中世』(以下「通史編」と称す)で、「第4章 内藤氏の津久井領支配」では内藤氏について出自からその後の展開まで細かに考察されている。この章の執筆者は、後北条氏の研究で著名な下山治久氏であるが、該書が出版されたのは1995年であるので、述べられている内容は最新の後北条氏研究から見ると訂正が必要な部分もあるものの、内藤氏を知る上では必読の文章であることには変わりない。
 該書では内藤氏に関係する古文書を一覧し、それらが誰が発給した文書なのかを分類して解説しているが、従来通説となっている直線的な系譜関係から自由に離れて考察するには至っていない感がある。そこで、本論では現在知られている内藤氏関係の文書を読みなおし、内藤氏の系譜についての再検討を試みる。
 なお、史料は『津久井町史 1 資料編 考古・古代・中世』(以降「資料編」と称す)に掲載されたものを参照し、本文で数字が振っているものは該書の史料番号を示す。

2.内藤氏の初見文書

 内藤氏についての初見文書は、大永4年(1524)12月9日付「内藤大和入道寄進状」である(34)。青山之村(津久井町青山)の光明寺に土地を寄進する旨が記載された文書であるが、土地を寺社に寄進しているということは、当然ながらこの時点で内藤氏は津久井に勢力を有していた。後述する通り、功雲寺の寺伝では天正18年(1590)に津久井城が落城した時の当主は大和守景豊であるので、大和入道は景豊の先祖にあたる人物と考えられ、この大和守の系統がいわば津久井においての本家筋にあたるものと考えられる。
 次に内藤氏が現れる文書は、6年後の享禄3年(1530)2月18日の日付のある「熊野堂棟札銘写」で、祥泉庵(津久井町中野)にある熊野堂に収められた棟札の写しである(37)。これには「地頭藤原朝臣朝行」とあり、内藤とは一言も書いていない。したがってこの「朝行」という人物が果たして内藤氏かどうか考察する必要があるが、朝行は年不詳12月16日付けで井上雅楽助宛てに雅楽助任官の書状も発給しており(88)、『資料編』では、任官は守護の職にあるものしかできないことから朝行は相模守護の扇谷上杉朝行としている。しかし、扇谷上杉氏の系図に朝行は現れず、後述する康行の名前が出てくる棟札から考え、朝行は康行の父で、「朝」は扇谷上杉朝興からの偏諱だと考えた方が素直だろう。ただし、朝行が井上氏を雅楽助に任官する権力の源泉は分からない。なお、井上雅楽助の所領は現在の清川村役場付近である。
 当時の政治状況を見ると、大永4年(1524)正月に北条氏綱は扇谷上杉朝興から江戸城を奪っているが、朝興はその後反攻に転じ、大永6年(1526)9月には小沢城(川崎市多摩区・東京都稲城市)を攻略し、その後氏綱が一度取り戻したようだが享禄3年(1530)正月には再度朝興は世田谷城とともに攻略している。朝行が熊野堂の造営に関わった時期はちょうどこの時期であり、朝行が扇谷家の元で力を発揮していたのは間違いないだろう。なお氏綱は江戸城を落とした後は朝興に押されていることが多く、江戸城こそ奪回されなかったものの、本拠地の小田原城の眼と鼻の先まで蹂躙されるありさまで、劣勢は天文6年(1537)6月の朝興の死まで続く。棟札には代官大野氏の名前が見え、その後の熊野堂の棟札に現れる代官は必ず大野氏である。

3.左近将監景定と九郎五郎康行

 「快元僧都記」には、氏綱が天文元年(1532)から鶴岡八幡宮の再建を開始し、その費用を各地の豪族に募ったことが記載されており、それを見ると内藤左近将監にも呼び掛けている。氏綱が呼びかけた相手はすべて独立勢力であるので、内藤左近将監はこの時点では北条氏の家臣ではなく、独立した領主であった。この左近将監とは誰か。
 津久井城の北麓にある功雲寺は、寺伝によると元々は応永15年(1408)に宝ケ峰西麗に建立された耕雲庵で、これを津久井城主内藤左近将監景定が開基となって現在地に移し、同時に功雲寺と改めたという。寺によると景定は天文6年(1537)に没しているので、氏綱が奉加を呼び掛けた内藤左近将監はこの景定であると考えられる。
 一方でその頃、内藤康行という人物が存在する。天文10年(1541)11月27日、愛川町の八菅山大権現の棟札に「大檀那遠山甲斐守藤原朝臣綱景」とともに「当地頭内藤九郎五郎藤原朝臣康行」が見える(41)。綱景は江戸城代で北条氏家臣の中でも大身の存在である。つまりこの頃、津久井城に居城し、北条氏からは別勢力として認められている内藤左近将監景定という人物以外にも、江戸城代遠山氏の支配下で八菅山大権現のある愛川町八菅山近辺の地頭を務める内藤九郎五郎康行という人物がいたことになる。しかも康行は左近将監景定と違い、九郎五郎を称し官途を名乗っていないことから単純に両者を比べると景定の方が地位が高い。
 ここで両者が領域的に棲み分けていればまだ分かりやすいのだが、不可解なのは天文5年(1536)8月5日付で康行が青山の光明寺に寺家の安堵をしており、天文17年と22年には中野の熊野堂の棟札に名前を連ねていることだ。青山も中野も津久井城から歩いてもすぐ行けるような近接した地域であり、康行は景定の居城である津久井城のすぐそばまで宗教的に介入している。
 光明寺は、さきに見た通り内藤大和入道が寺領を寄進しており、大和守の系統は津久井城に居城し、北条氏からは独立勢力として認められていた。そのすぐ近くまで江戸城代遠山氏の権力を背後に持った別系統の康行が支配の手を伸ばしてきているのである。
 この康行の系統を図化すると以下のようになる(あまり適切な表現ではないかもしれないが仮に「遠山与力系」と呼ぶ)。

 朝行 ――― 康行 ――― 定行

 天文5年には甲斐の武田信虎が甲斐から国境を越えて相模国青根(津久井町青根)に侵攻してきており、足弱を100人ばかり拉致しているので、これを考えると、このときおそらく光明寺の住職は北条氏側の内藤康行に対して寺領の保全を請願したものと考えられる。本来であれば光明寺は大和守系内藤景定の保護下にあるものだが、津久井城の景定にはその力がないと判断した可能性がある。翌年景定は没していることから考えようによってはこの時の合戦の傷が元で亡くなった可能性もあるのではないだろうか。

4.大和守系

 ここで時間を一気に進める。天正18年(1590)6月24日に津久井城が落城した時の城主は、内藤綱秀であったことが古文書によって明らかである。また綱秀は受領名を大和守としたことは、古文書によって確実だ。そして功雲寺の寺伝によると、景定の子大和守景豊のときに、津久井城が落城したという。そうすると綱秀と景豊は同一人物なのだろうか。あまり確実性はないが年齢の考察をしてみると、景豊の父景定は天文3(1534)年に没しているので仮に1470年頃の生まれとし、景豊は1500年頃の生まれとすると、景豊は天正18年時点では高齢すぎる。景定は大永4年(1524)時点ですでに入道していることから、上記の仮定より若いとは思われず、さらに景豊は天正18年1月に功雲寺に文章を発給しているので当時はまだ現役であるのが分かる。そうすると、大和守の系統(津久井城主)は、景定-○-景豊(別名綱秀)、あるいは景定-○-綱秀-景豊と考えることができる。綱秀の綱は北条氏綱からの一字拝領であろう。両系図のどちらを取るにせよ、功雲寺の寺伝にあるように「景定の子景豊」というのは誤りとなるが、親子関係が後世に正確に伝わらないケースは多い。ここでは両系図のうち後者を取り、当主綱秀は小田原城に籠り、その子で跡継ぎだった景豊が津久井城に籠り落城したと考えたい。さらに、『資料編』では天正7年(1578)に法讃という出家が見えるが、もしかすると彼が景定の子で景豊の父かもしれない。天正7年の時点で出家であれば年代的に整合する。
 以上までで、大和守系として遅くとも大永4年(1524)以降津久井城に居城した系統として以下の大和守系の仮説系図を記しておく。

 景定 ――― 法讃 ――― 綱秀 ――― 景豊
 大和入道

5.内藤家の矜持

 天正14年(1586)12月26日付けの光明寺宛ての判物には左近将監直行の名が見えるが、この左近将監は津久井城主の受領名である大和守と同様、代々の官途であったと考えられる。天正14年時点で「直」を名乗っていることから、これは北条家当主氏直からの偏諱と考えられ、なおかつ左近将監を称しているため、直行は津久井城主内藤家の後継者であったことは間違いない。これを上述の仮説系図に繋げると、直行は景豊と同じく綱秀の子である可能性が高い。そうなると、直行と景豊は同一人物ではないかと考えられる。当初は北条氏直から偏諱を受け左近将監を称していた直行は、内藤家は本来であれば独立勢力であるので、北条家の将来が閉じてしまったことを悟った綱秀は、息子を津久井城に置いて小田原城に入る際に直行の諱を元の景を通字とする景豊に改名させ、大和守も襲名させた上で小田原に入ったのではないだろうか。ただし、綱秀は小田原に入った後も自身の発給する文書には大和守と記していることから、小田原城内では北条家に気取られないように行動していたと思われる。

6.田代内藤家

 今まで仮に提示した2系統の内藤氏のほかに、もう一つ「田代内藤家」あるいは「三郎兵衛系」と呼べる内藤家があった。こちらは愛川町の田代城および半原の細野城を中心に中津川両岸を支配した勢力で、『役帳』の津久井衆に入っておらず、半役被仰付衆という北条と武田の両勢力に属する勢力として分類されている。
 『新編相模風土記稿』には、下野守秀勝、その子三郎兵衛秀行と記され、秀行発給の文書は2通残っており、角田村の日月神社と愛川町田代の永宝寺に関連する文書であり両社寺は位置的にも近く、永宝寺は秀行開基と伝わる。『日本城郭大系 6 千葉・神奈川』「細野城」の項では、秀行の子は定行とするが、その根拠については記しておらず、定行は中野(津久井町中野)の清雲庵に文書を出しているので遠山与力系ではないだろうか。
 永禄12年(1569)に、小田原に遠征した武田信玄が撤退時に三増峠越えのルートを選択したのも、まさしくそのルートはこの三郎兵衛系内藤家の勢力範囲であり、彼らが北条・武田に両属している関係上、他のルートよりも安全性が高いと考えた結果ではないだろうか。

7.おわりに

 以上、内藤氏には『通史編』がいうところの2系統ではなく、3系統あることを考察し、それぞれの系譜を仮定してみた。それをまとめると以下の通りとなる。

 ①大和守系(『役帳』の津久井衆筆頭内藤左近将監の系統)

  景定 ― 法讃 ― 綱秀 ― 直行(景豊)
  大和入道

  ※代々津久井城に居城し最後まで独立勢力としての矜持を失わなかった
            
 ②遠山与力系

  朝行 ― 康行 ― 定行

  ※江戸城代遠山氏の配下として力を振るった

 ③三郎兵衛系(『役帳』の半役被仰付衆に記載されている内藤三郎兵衛の系統)

  秀勝 ― 秀行

  ※独立性がもっとも高く信玄の三増峠越え撤退ルート上で静観

 こう改めて見てみると、どの系統も諱に「行」の字が使われている。このことから内藤氏の通字は「行」であったことが分かる。そしてまだ解決できていない問題は、現存する史料上で大永4年(1524)に初めて登場する内藤氏が一体どこの出身で、どのような経緯で北条氏、そして奥三保と関わりを持ったかである。
 『吾妻鏡』文治2年(1186)3月27日の条によると、北条時政が治安維持のために京都に残していった御家人の中に内藤四郎が見えるが、『通史編』では内藤四郎の家人である権藤親家が建長4年(1252)に6代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下向し、雪之下に屋敷を与えられており、この権藤親家が内藤氏の先祖ではないかと推測している。権藤がなぜ内藤を称するようになったかなど問題点は多いが、可能性の一つとして考えても良いと思う。内藤氏は元々鎌倉にあった光明寺が津久井に移った後、その外護者となっており、内藤氏と鎌倉には何らかの関係があったようだ。内藤氏は戦国初頭は扇谷家の武将として活動し、北条氏が相模に侵攻し、鎌倉を押さえた頃に北条家に鞍替えしたのだろう。

(了)



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