日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【ドS】これでもか!的な画像連発【本領発揮】

2015-09-29 21:00:32 | 歴史探訪
 今週は日・月・火と、まだ3日しか働いていないのにもかかわらず、クタクタです。

 あと3日行けば土・日は2連休ですが、9月は1年で一番ヒマな月なのに、どういうわけか休みは6日しかありませんでした。

 土日と祝日が全部休みのサラリーマンの諸兄は、おそらく11日は休んでいますよね。

 あれれ?この差は何だ?

 疲れた・・・

 さて、今日は今年の初めくらいまでしょっちゅう通っていた国立市の道路を久し振りに走ったところ、一瞬、細長い公園が目に飛び込んできて、「あれ?あれは廃線跡くさいが、こんなところに電車走ってたっけな?」と思い、路駐して地図で確認したところ、国立駅の北側にある鉄道総合技術研究所への引き込み線の跡であることを確信しました。

 そのため再度その場所に行ってみると、説明板が有って、やはり引き込み線跡であることが分かり、「ポッポみち」という名前の歩道になっていたのです。



 反対側。



 おそらくこのブログの読者であれば、私が鉄道好きであることは薄々感づいていると思います。

 実はマニアというほどではないのですが、普通の人よりかは鉄道が好きみたいです。

 幼少の頃はプラレールで遊び、普通の男の子はプラレールで止まるのですが、私は小学生以降はNゲージ(鉄道模型)を集めました。

 中学生くらいまで遊んでいた記憶があります。

 でも今は全然詳しくなくて、ただ単に電車のデザインが好きなのです。

 これは軍用機もそうなんですが、外見が好きなのです。

 もちろん乗るのも好きですが、乗ってしまうと外見が見れないので忸怩たる思いをします。

 そして歴史めぐりをしたときに、たまたま廃線跡があると嬉しいです。

 廃線跡に特化した歴史めぐりはまだやったことがないのですが、今日みたいに偶然見つけると楽しいですね。

 今日も疲れたけど、面白いものが見れて良かったです。



















































































 以上のように、普通の人より少しだけ鉄道が好きみたいです。



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3年目の浮気は果たしてあるのか?

2015-09-28 20:06:07 | 歴史探訪
 いやー、迂闊でした。

 気が付いたら今の会社に勤めて3年目に入っていました。

 よく続いてますね。

 これも会社の仲間たちやお客様たちのお陰なんですが、何よりも油断するとうつ病になる人間にとっては、

 ・身体を動かす

 ・趣味の歴史にも非常に役立つ

 ・お客様から直接感謝される

 ・ゆるい社風

 ・いろいろな仕事があるので飽きない

 ・少しずつ無理なく難しい仕事が任されるようになる

 ・一話完結(ほぼすべての仕事がその日に終わる)

 というのが非常に良かったのかと思います。

 私はプロフィールのページでも詳説している通り、今の会社で32社目なのですが、今までで一番楽しい。

 さて、話は変わりますが、毎日の主食であるお米ですが、今までも極力安い米を買っていました。

 しかしさらに節約するためネットで探したら、30kgで5,444円のお米がありました。

 今までスーパーで買っていた安い米でも5kgで約1,300円ですから、それを30kg買うと7,800円になり、それと比べたらだいぶ安いですね。

 ただしそのお米は去年産です。

 でも背に腹は代えられないので、思い切って注文しました。

 そして3日前からそれを食べているのですが、食べ方によってはまったく問題がありません。

 精米を見ると粒が小さめなので、そこが安いお米らしさを醸し出しているのですが、炊いて見ると少し粘り気のあるモッチリとした感じで、ご飯単体で食べても美味しいです。

 ただ、カレーをかけたら今一で、母はチャーハンを作ってみたそうですが、やはり今一だったそうです。

 カレーやチャーハンはパサパサしたお米が合いますからね。

 でも上記の値段でこの味だったら私的には全然OKです。

 これでかなり食費を節約できるので嬉しいです。

 ところで今日は、「日本史大戦略」の人気ページをご紹介します。

 「日本史大戦略」で良く読まれているのは、以下のページです。

 ⇒滝の城(埼玉県所沢市)



 ⇒岡城(埼玉県朝霞市)



 ⇒鉢形城(埼玉県寄居町)



 個人的には昨日アップした

 ⇒河越城(埼玉県川越市)

 も結構力を入れて書いたので読んで欲しいです。



 おっと、何か全部埼玉の城じゃないですか!

 「日本史大戦略」では城以外にも古墳とか縄文遺跡とか、今日現在で147箇所紹介していますので、良かったら見てみてください。
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【日本史大戦略】扇谷上杉氏80年間の本拠地・河越城<長享の乱の解説付き!>

2015-09-27 18:21:55 | 歴史探訪
 今日の朝も7時間半眠って起きましたが、身体が疲れている・・・

 今日の現場は半ドンで終わったのですが、いやー、身体が動かない。

 お昼すぎに会社を出て、久し振りに花月嵐に行き、大好物の無双つけ麺とニンニク豚めしを食べました。

 もちろん仕事が終わったということで、生中も飲みましたが、生中はサービス券で無料で飲めるのです!

 素晴らしい。

 久し振りに食べた無双つけ麺とニンニク豚めしはまた格別だった・・・

 特に疲れているときはより一層美味しく感じるんです。

 そして帰宅後は、いつものように「日本史大戦略」の構築をしました。

 今日は前回の続きで、1月23日の川越探訪、中世河越城のページを作りました。

 入間川!



 川越焼きそば!



 黒田基樹ライヴ!



 東明寺!



 猫ちん!



 写真は35枚も掲載しています。

 結構長文になってしまいましたので、読むのに少し時間が掛かるかもしれません。

 山内上杉氏と扇谷上杉氏との抗争である「長享の乱」についても簡潔にニョゴニョゴしてみました。



 ⇒河越城



 ちなみに、「あれ?字は”川”越じゃないの?」と思われた方もおられると思いますが、おおよそ、中世の後北条氏時代までは「河越」で、近世の徳川が入ってからは「川越」と表記するのが一般的だと思います。

 ですので、戦国時代の城は「河越城」、江戸時代の川越藩の城は「川越城」です。

 そして、川越城は、河越城跡に築城されました。

 つまり、中世の城跡の上に乗っかっているわけで、掘ってみれば中世の遺構が出てくるはずですが、完全に市街化されているので、学術調査はまず無理でしょうね。

 そんな感じで、河越城

 お腹が空いたので下で夕飯食べてきます。
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【日本史大戦略】悲劇の将・大道寺政繁が眠る常楽寺

2015-09-26 11:20:21 | 歴史探訪
 今日の起床は7時半。

 やっぱり疲れているせいか、起床時間が遅かったです。

 起床後はすぐにライフワークである「日本史大戦略」の構築を始め、とりあえず1月23日に行った川越探訪のなかの常楽寺のページが完成しました。

 常楽寺には大道寺政繁のお墓があります。



 大道寺氏は後北条氏の祖・伊勢宗瑞以来の重臣で、天正18年(1590)、迫りくる豊臣政権軍に対し、群馬県安中市の松井田城に籠った政繁は抗しきれずに降伏、しかもよりによってその後、豊臣勢の道案内のような役目をしてしまいます。

 しかし結局、小田原城落城後に秀吉から切腹を命じられてしまったという悲劇の武将です。

 こういう人物に対してはあなたはどう評価するでしょうか。

 私はこういった表面的なプロフィールだけで人間を評価することはありません。



 ⇒「日本史大戦略」内の常楽寺のページ



 これで、1月23日の探訪のうち、

 ●砂久保陣場

 ●霞ヶ関遺跡(古代入間郡郡家)

 ●河越館(上戸陣)

 ●常楽寺(大道寺政繁墓)

 が完了しました。

 当日のもので残すは、河越城だけです。

 しかしこの川越探訪の後も史跡に行きまくっているので、全然ホームページの更新が間に会いません!

 でも、そろそろお腹が空いてきたので昼食のスパゲッティーを食べようと思います。
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たましいの建物を見て誰かに踏みつけられたいと思いました

2015-09-25 18:31:54 | 雑談
 ビルの壁に大きく「たましい(魂)」と書かれています。



 あー、疲れた・・・

 昨日は7時開始で25時終了、休憩は3時間取りましたが、実働15時間でした。

 1日で巨額が稼げるのは良いですが、こういうことをやると、この年齢だとかなり身体に堪えます。

 なかなか回復しないんですよね。

 ところでそうは言いつつも、今日も朝からエアコンをやりに行きましたが、今日はとても良いことがありました。

 毎週のように通っている交差点があるのですが、いつもはそこを直進していて、一度も左折したことがありませんでした。

 今日は午前のお宅に行くために、初めてそこを左折したのですが、何と!左折してすぐ右側に「三ツ矢堂製麺」があったのです!

 うわーっ、こんなところにあったのか!!

 私は三ツ矢堂製麺の「辛しつけ麺」が大好きなのです。

 実は先日、練馬に研修に行った日に小平の三ツ矢堂製麺に寄ったところ、閉店しており大変ショックを受けた矢先だったのです。

 そして好都合なことに、今日はお給料日ということもあって、昼飯は久し振りに外食しようと思いおにぎりを持ってきていませんでした。

 そのため、お昼は久し振りに三ツ矢堂製麺の「辛しつけ麺」が食べられたのです。



 ちなみに前回食べたのは、川越に行った1月23日です。

 私は今年になってからは食べたラーメン・つけ麺はすべて記録を付けているので分かります。

 昨年は300杯は食べましたが、実は今年は今日でまだ117杯目なのです。

 貧困となった今ではあまり食べることができなくなった貴重なつけ麺を食べて少し元気が回復しましたが、午後の現場が終わってお店に戻るとやはりクタクタです。

 そしてやっとの思いで家に帰ってきましたが、いやー、本当に疲れた。

 明日は休みなので、どこか出掛けようかと思っていましたが、完全休養日にしたいと思います。

 ところで、昔デスクワークだった頃は足の裏が凝って、うつ伏せに寝てチビチビだった娘に足裏を踏んでもらったりしましたが、なぜか最近また足裏が凝っています。

 マジでマッサージか鍼か何か行きたい。

 誰かに足裏を踏んでもらいたい。

 クタクタ、そして眠い。
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不用な物は捨て、整理整頓をしたの

2015-09-21 17:12:10 | 雑談
 一昨日、お掃除から帰ってきてから開始し、昨日は実働15時間、そして今日も朝から始め、さきほどようやく終わりました。

 なんでこんなに時間がかかったかというと、まず、自分の部屋以外もやったことが挙げられます。

 そして何よりも私自身がお掃除屋さんであることが挙げられます。

 というのも、今までは模様替えや整理整頓をするときは、簡単にホコリを落として掃除機を掛ける程度だったのですが、今回はなまじ掃除を知っているがために、例えば本を移動するために棚が一つ空くと、きちんと洗剤をかけて拭いてしまったのです。

 一々汚れが付いていれば落として行き、小物類もブラシでホコリを落としたり、細かいところまでやっていたら凄く時間が掛かってしまいました。

 そして本の分類は前回よりもかなり考えました。

 コピーしてきた紙の資料も畳んだり留めたり、整理をし直して、いやー、疲れた。


 ●Before(と言ってもやり始めた中途半端な状態)



 ●After



 作業中も今も音楽を聴きながらやっているのですが、神武号(ノートPC)のスピーカーの音質が良いので最近はそれでばっかり聴いていたところ、せっかく部屋にいるので、写真に写っているスピーカーで聴いています。

 小さいスピーカーと違って普通に低音が出るのでやっぱり良いですね。

 このスピーカーは普通にレコーディングスタヂオで使われている業務用です。

 かつて音楽制作をやっているときに使っていたのですが、そういう用途のものなので、非常に自然な音が出て、また各パートごとの音の分離に優れています。

 当たり前ですが、レコーディングスタヂオで癖のあるスピーカーでモニターして音を作ったら、一般のリスナーが聴いたときにおかしな感じを受ける可能性が高いので、できるだけ自然な音の出るスピーカーでモニターしなければならないのです。

 あ、余計な話はこの辺にして、部屋の中を一つひとつ解説しましょう。

 まずはメインコンソール。



 ここが私が作業する際の拠点ですね。

 今回の整理整頓でも新しく購入したものは一つも無いので、昔から使っている家具類をそのまま使っているわけですが、この台になっているテーブルは、私が子供の頃、家族で食卓として使っていたものです。

 その後、以前「ザ・自分史」でも紹介した通り、20歳くらいの時に大型のミキサーを購入したあと、少し経ってから白いスチールラックを買ってきて土台を作り、その上にこのテーブルを敷いてミキサーを置いていました。



 これは98年の写真ですが、こんな感じで使っていました。

 そして今は、パソコンデスクとして活躍しているわけです。

 どんな仕事でもデスクワークの場合は広いデスクを使った方が良いですね。

 でもまた作業が始まると、資料がうず高く積まれて行くものと思われます。

 ところで98年の写真の右手の本棚に白い馬の人形が見えると思います。

 「チャグチャグ馬コ」といって、岩手県滝沢市で行われる馬のお祭りにちなむお土産なのですが、そのひとつ前の写真でも向かって左側のスピーカーの横にありますよね。

 可愛いからずっと飾っているのですが、これはそもそもバンド仲間のNoBuが故郷の秋田に帰った時にお土産でくれたものです。

 「秋田なのに何でチャグチャグ馬コなの?」と思った私はその後、岩手に行ったときに福島の「赤べこ」の人形を買って帰り彼に報復しました。

 さて、メインコンソールに向かって右手のパソコンデスクを見てみましょう。



 昔、まだディスプレイがブラウン管の時代は、パソコンデスクはこういう形が標準でした。

 このデスクは16年前に三鷹のアパートに引っ越した時にそこの大家さんからいただいたものです。

 今でも凄く役に立っています。

 プリンターの上にはお菓子がありますが、おじちゃんの部屋にお菓子は常備品なの。

 そしてもちろんお酒も。

 あ、でも最近はビール以外はまったく飲みたくなくなりました。

 そしてデスクの柱には何か貼ってありますね。



 タニタのキッチンタイマーです。

 「え、稲用さん、ここで料理するんですか?」と思ったあなたは惜しい。

 もちろん料理はしません。

 しかもキッチンでも私は料理はしません。

 なぜキッチンタイマーがあるのかというと、何か作業を開始するときには、例えばそれを30分で終わらせようと時間を設定し、時間を気にして作業するわけです。

 これをやるだけでも作業が速くなりますよ。

 あと、その下の黄色い紙には、干支が書かれています。

 私は歴史好きなのに干支が中々憶えられず、それを当時小学生だった娘に話したらこれを作ってくれたのです。

 それ以来、知りたい時はこれを参照しているのでだいぶ助かっています。

 でも未だに暗記できない・・・

 では本棚の説明に入ります。

 まずはメインコンソールに向かって右手の本棚の一番上段。



 ここは「神棚」と呼ぶことにした領域です。

 主として私のリアルの先生の著書が置かれています。

 古代・中世全体の先生である峰岸純夫先生、中世城郭の先生である中田正光先生、八王子城の先生である前川實先生の著書です。

 ですから「神棚」なわけです。

 そしてその下の2段。



 この位置はデスクに座っているときにもっとも取り出しやすい位置にあるので、もっとも参照頻度の高い本を並べています。

 右上の「地図で見る東日本の古代」は、古代史および歴史地理学マニアであればヨダレが垂れるような本で、明治時代の地形図上に主要な遺跡および官道(古道)がマーキングされている本です(以前、このブログでも紹介しましたね)。

 その左、「東京都の中世城館」は都内の中世城館を調べる上では必携資料です。

 そして、自治体史としては最高水準の「新・八王子市史」を挟んで、「有楽町一丁目遺跡」は、たかお食堂で知り合った武蔵文化財研究所の平田さんたちが作った本で、私もご厚意で名前を掲載させていただけました(こちらも以前、このブログで紹介しています)。

 「日本城郭大系」は、今となっては古い本ですが、中世城郭を調べる上での基本文献としての地位は今もって揺るぎ無いです。

 左端のクリアファイル群は、歴史探訪に行った時の資料や講演会でいただいた配布資料がまとめられています。

 そして一段下がって、真ん中あたりの黄色い本、角川の『日本史辞典』はかなり古い版のものなのですが、峰岸さんが研究で使いこんでかなり手垢が付いているものをいただきました。

 こういった使いこまれたものは、何か魂のようなものが宿っているように感じるので、私はそのスピリットを受け継いで研究をするようにしています。

 その左の赤い本も、これまた峰岸さんから頂いた本で、峰岸さんとそのお友達の片桐昭彦先生の二人の共編です。

 左隅の『日本書紀』および『続日本紀』は古代史をやる上ではもっとも使用頻度が高いので、やはりすぐに取り出せる位置になければなりません。

 では、メインコンソールの下に行きます。



 左上は『東京都神社名鑑』専用置場です(コピーですが)。

 該書は、都内の神社のカタログのような本で、神社の調査の際に基本文献となります。

 その下のたくさんコピーが並んでいるのは、中世東国や後北条氏関連の論文のコピーです。

 ほとんどの本は府中の図書館、通称「パラダイス」から借りてきて、近所の京王ストアの5円コピーでシコシコとコピーしました。

 ところで、もしあなたが後北条氏の研究をしているのなら、これを全部読み込んでから後北条氏について語ってくれたまえ!

 なんて、偉そうに言っている私自身、まだ読み切れていません。

 スミマセン、許して下さい。

 ちなみに左端にある銀色の「氏邦」と書かれている函は日本酒の函で、ちょうど隙間をふさぐのに良かったので使っているだけです。

 さて、次にコンソールに向かって左側の本棚に行きます。

 まずは上の方。



 戦国期関東地方関連が多いです。

 とくに後北条関連ですね。

 ついで、真ん中のあたり。



 左上は武田氏関連がメイン。

 右上は、このブログで大河ドラマ「平清盛」の解説を1年間やったときに買い集めた本が並んでいます。

 解説を始める時点では、平安時代末期の歴史はほとんど知らなかったのですが、解説を始めるのと同時に勉強を開始して、毎回、テレビを見た後に勉強して解説していました。

 なので今読み返すと、結構浅学に起因する早とちりとか勘違いが多いです。

 左下は邪馬台国関係。

 これだけ本を読んで得た、「邪馬台国はいったい何処にあったのか?」という疑問に対する答えは、「分かりません!」です。

 そして下の方。



 上の段は、原始時代関連。

 人類の誕生から日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代。

 下の段は、各地の博物館や資料館で買い集めてきた図録など。

 下段真ん中から少し左側にある『世田谷の地名』の上下巻は、世田谷区の教育委員会が出した本なのですが、1999年4月10日に世田谷区の資料館で購入し、東京都の郷土史に興味を持つきっかけとなった本です。

 この本が発する郷土史に対する凄い情熱に感化されてしまったわけですが、手書きであっても精緻で分かりやすい地図が中世の世田谷に対するロマンを否が応にも高め、この頃から都内の地形図も集め始めました。

 この本の編者・三田義春さんは、『世田谷の中世城塞』という本も書いているのですが、残念ながらそちらは現物が古書でえらく高くなっていて入手できず、上の写真でも写っている通りコピーで所持しています。

 『世田谷の地名』上下巻と『世田谷の中世城塞』は当該地方の郷土史をやる上では必読の書ですが、不思議なのが戦国時代および中世城郭の研究で超有名な某先生が、一般売りしている自著の中で三田さんの研究を丸ごとパクッていたことです。

 ちゃんと許可を取っていれば「パクる」は大変失礼に当たりますが、その本の中にはまったくそういった説明は無く、「あー、テレビにも良く出る高名な先生がねえ・・・」とガッカリしました。

 私の勘違いであれば良いのですが。

 次にその左の本棚に移ります。

 天板の上。



 白い本は多摩地域の歴史研究には欠かせない『多摩のあゆみ』。

 たましんで無料で配布されていますが、無料とは思えないほどに内容が充実した本で、年に4回、2・5・8・11月の15日に発刊され、窓口に置いてあります。

 もちろん、いただくときは窓口のお姉さんに向かって、たましんへの感謝の気持ちを伝えるべく最敬礼していただいたきましょう。

 その横の紺色の本は、大正時代に書かれた『武蔵野歴史地理』の復刊で、武蔵国内の歴史を知る上でやはり必携の書です。

 これは昔、三鷹に住んでいるときに三鷹の駅前の古本屋に並んでいて、セット販売なために高くて買えないため、店主になにげなく「ばら売りだったら買えるんですがね」と言ったところ、店主は激怒しました。

 貴重な古書を手に入れるのがいかに難しいか、ばら売りにしたら価値が無くなる、などの話を私は15分くらいくどくどと説教されてしまいました。

 横に奥さんもいたのですが、とても困った顔をして、私に向かって「ご免ね」という視線を送っていたので、多分この店主は他人に対して普段から怒っている人なんだろうなあと思い、私は店主が気が済むまで話を聴いていたのです。

 今考えれば、よく私はケンカを買わなかったものと我ながら感心します。

 私の機嫌が悪かったらその店は修羅場になっていたことでしょう。

 そしてあれからかなりの年月が経ち、今年になってようやく念願叶い購入できました。

 その右にひっそりと1冊あるのは『武蔵名勝図会』で、江戸時代の終わりごろに書かれたものです(もちろん復刊ですよ)。

 同じ頃に同じ著者によって書かれた『新編武蔵風土記稿』という本は武蔵国内の歴史を調べる上での基本文献なのですが、『武蔵名勝図会』の方は、『新編武蔵風土記稿』の補遺のような本です。

 『新編武蔵風土記稿』は近代デジタルライブラリーで活字版が読めるので、ぜひアクセスしてみてください(ちなみに近代の中で検索するときは「新編武蔵国風土記稿」というように「国」を付けて検索してください)。

 そしてその下は古代史関係。



 いえーい、古代史!

 (なんか説明が雑になってきた。)



 左上の段にあるオレンジ色の『国分寺を歩く』は、私も執筆に加わっています。

 ところで、今回の整理整頓で残念だったのは、床に直置きの本は無くそうと志を立てたものの、やはり直置きが出てしまったことです。



 この子たちだけが書棚に入らなかった・・・

 別に差別したわけではなく、右隅には古代史の古典と言える、戦後の名著が並んでいます。

 私は井上光貞先生のファンですが、先生は83年に亡くなっており、私が古代史に興味を持ったのはそれよりもずっと後です。

 次に、昔CDラックとして活躍していた棚に今は本を詰めています。



 最上段は蝦夷(エミシ)およびアイヌ関連とお城関連。

 蝦夷関連は、東北の本棚にも入っているのですが、ここにあるのは最近購入した本です。

 鎌倉時代後期に元寇といってモンゴル軍が九州に攻めてきたことがありますよね。

 知らない人も多いですが、その頃、サハリン方面からも元軍が侵攻を企て、アイヌと戦っているのですよ。

 もともとはオホーツク人の末裔をアイヌが虐げていて、虐げられていた彼らが元に救援を求めたのがきっかけで攻めてきたのですが、それに対してアイヌは勇猛果敢に戦ったわけです

 最終的にはアイヌが貢物を出して降参する形になったのですが、何倍もの兵力の元軍に対し、なかには日本から入手した日本製の鎧兜に身を固め颯爽と戦場で働いた者もいたりしてアイヌも相当強かったようです。

 さて次は、その左横の棚です。



 「家にあるものは何でも使え」的な精神なので雑然としていますが、天板の上は平将門関連と史跡保存関連。

 棚の中は都内および関東の自治体史で、コピーしたものがメインです。

 目黒区史2巻はあきる野市の図書館で「どうぞご自由に持ってって」コーナーに置いてあったのでいただいてきました。

 さらにその左横は、昨日、元娘部屋のクローゼットを整理していて偶然見つけたラックです。



 多分、洋服を掛けるものだと思うのですが、ちょうどA3の資料や地形図をしまう場所がなかったので、ナイスタイミングです。

 地形図やA3資料を平積みするのにベストサイズ。

 そして最後に、最初の全体写真には写っていない、カメラアングルの裏側にある本棚2つです。



 信長・秀吉・家康関連や中世の村落関連の本、それに自治体史、神社や寺、民俗、東北関連の本たちです。

 あー、説明長かったね!

 作業が終わった後はビールで乾杯!



 以上のようにお部屋が綺麗になったので、これでお友達も呼べます。

 私の部屋でビールを飲みながら歴史談義をしたい方はぜひ知らせてください。

 私を含めて、4名までは十分に対応できますよ!




 
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小さな個人店を開業した場合、ホームページは必要か?

2015-09-16 20:54:40 | 雑談
 先日、従姉から従姉の娘が店を開くのでホームページを作って欲しいとの依頼がありました。

 それを受けて、「はい、分かりました!」と前進することは可能ですが、もしかしたらホームページというものに対して誤解していないか気になりました。

 従姉に直接返信しても良いのですが、もしかしたらこの情報は他の人の参考にもなるかもしれないと思ったので、ブログの記事にします。

 ※ここに書けない内容は後日従姉に個別に連絡します

 さて、お店を開くのでホームページを作りたいと思うのは自然なことだと思います。というのも、ホームページを公開すればそれを見たお客さんがどんどん来店して儲かる気がするからです。しかし、現実は違っており、これからそれを説明したいと思いますが、まずはそもそもなぜホームページが必要か考えてみましょう。

 私はホームページは、お店の事務的な情報を公開するために必要で、それ以上でもそれ以下でもないと思っています。

 お店の事務的な情報を公開するというのは、お店について知りたいお客さんが、商品内容・金額とかお店の住所(地図)・電話番号などといった情報を得たいと思ったときに見ていただくためです。

 しかしそういった事務的な情報を公開するホームページを作っても集客にはほとんど役に立たないのです。それはなぜでしょうか。

 現実的にはホームページを作ってただ公開しておくだけでは、それを見たお客さんがどっと来店して、自然に売り上げが上がるということはまずありません。

 というのも、ただホームページを公開しているだけでは、ほとんど誰も見てくれないからです。誰も見てくれないというのは、故意に皆が無視するということではなく、Googleなどで検索しても引っかからないからで、そうするとアクセスが来ない、つまり誰からも気づかれないわけです。

 あなたもそうだと思いますが、Googleで何かをどこで買いたいか調べるときに、検索の1ページ目に出てきた中から上位数件をクリックして解決させてしまうことが多いと思います。2ページ目はあまり見ませんよね。というのも、世の中の人たちは皆忙しいので、1ページ目で良さそうなお店が出てきたら、それ以上は追及しないのです。

 「じゃあ、Googleの1ページ目に表示させれば良いじゃん」と思われるかもしれませんが、1ページ目に表示させるのはとくに競合が多いキーワードの場合は大変難しいのです。個人でそれをやるにはそれなりに経験と技術と手間が必要ですし、そこまで勉強する気がないのであれば、それを専門にやっている会社に依頼するしかありません。ただ、そういった専門会社にアクセスアップを依頼すれば、ある程度の効果は期待できますが、そういった専門的なテクニックはある日突然通用しなくなることがあり、言ってみれば「水物」のテクニックが多く、安定性に欠きます。

 お店のホームページにアクセスを集めようとする場合のもう一つの方法は、ネット上に広告を表示することです。以前はバナー広告と言って、四角い広告用の画像を作って、それを有名なサイト上に貼ってもらうのが主流だったことがありますが(現在もYahoo!などでは残っていますが)、現在は、Googleなどの検索結果のページに広告を表示してもらう方法や個人のホームページやブログなどに、自動的に広告を表示してもらう方法がポピュラーになっています。

 そういうのはGoogleなどにいくらかのお金を支払ってやってもらいます。どういう仕組かというと、例えば自分がプラモデルのお店をやっているとすると、ユーザーがプラモデルに関して検索をしたときに表示されたサイトに自分のお店の広告が表示されるという仕組みです。ユーザーが魚釣りについて検索した時は、プラモデルとはまったく関係がないので表示はされません。つまりユーザーの興味と合致した広告が表示される仕組みなので効果が高いのです。

 でも広告を貼るというのは、当然ながらお金が掛かります。1か月1万円とかでも出稿できますが、始めたばかりのお店にとってはそれも負担になるでしょう。また、いくら掛ければどれくらい儲かるかはやってみないと分からないところもあります。

 では完全無料でうまく集客する方法はないでしょうか?

 そんなのがあれば皆やってますよね。

 もしお金で解決する方法が取れないのであれば、私は無料で利用できるインターネットの様々な技術(ブログ、ツイッター、フェイスブックなど)を使って地道にファンを増やすのが、急がば回れで、結局良い結果になると考えています。

 ホームページを作るのはそこそこの技術や美的センスが必要になるので、もし作るとしても、最初に話した事務的な内容のホームページを作るにとどめて、それによる売上アップは期待しない方向で考えるのが無難です。

 さて、ブログですが、例えば今あなたが読んでいるこの「gooブログ」も無料ブログです。ブログの良いところは、記事や写真の投稿が簡単で、閲覧者にとっては長文でも読みやすく、また感想を書き込めるので双方向でやり取りができ、デザインに関しても、自分で一から作らなくても既存のものから選択するだけでもそれなりのものになります。

 ですから私は古風かもしれませんが、ブログの活用をお勧めしたいです。

 ただ、お店のブログですと、商売っ気丸出しになる恐れがあり、日本人はとくに他人の商売を応援「したがらない」性質を持った人が多いので、がめつい感じの記事は絶対に書いてはいけません。

 自分の趣味とかプライベートを公開して、それを読んだ人に興味を持ってもらってあなたのファンになってもらい、「あなたに会いたいから店に行く」という方向にもっていかなければなりません。

 沢山の一見さんが来店するお店ではなく、少数でもコアなファンが来客するお店を目指すわけです。

 ただこれはお店の種類にもよるので、小売店であれば沢山お客さんがきた方が良いですよね。ただし従姉の娘はアロマサロンの開業ですので、私はアロマサロンへ行ったことが無いものの、少し調べてみた感じでは客単価が高く、少数のコアなファンの獲得でやっていけそうです。もちろん少数といっても5人10人とかではなく、小売業と比べたら遥かに少ないお客さんでやっていけそうなだけですよ。

 ですから上述した方法が良さそうです。

 しかしこれには時間がかかります。軌道に乗るまで大変なので、2年・3年とお店を持たせることができるか、その辺の気合い・体力勝負になりそうな気がします。どんなお店でも商売でも、楽に簡単に儲かる方法はないので、結局儲かるようになるまで踏ん張れるかどうかでしょう。縁があって来ていただいたお客さん一人ひとりを大事にして、地道にやっていける根気のある人が最終的に勝利者となるのではないでしょうか。

 ただ、従姉の娘の場合は「自宅兼サロン」ということですので、そうであるのならまさしく「少数のコアなお客さん」でやれそうですね。彼女の人柄が好きで、そういう人たちが集まってくれるようなお店を目指せば良さそうです。また、既存客からの紹介とか、口コミは相当な威力があるので、やはり「人柄勝負」になりそうです。

 ちなみに、従姉の娘が開業する町で「アロマサロン 町名」で検索したところ、ある一つのお店の関連ページが1ページ目を独占しています。ホームページはもちろんのこと、アメブロ(無料ブログ)、フェイスブック、ツイッター、フル動員していますね。参考になりそうです。

 それと、美容院なんかは各町の美容院を紹介するサイトがありますが、アロマサロンはなさそうですね。しかし上述の店はまた違った角度で紹介サイトの活用をしているので、それも参考になります。

 以上まとめますと、

 ・ホームページを作るだけでは儲からない
 ・ホームページはお店の事務的な内容を公開するものと割り切る
 ・ブログ、フェイスブック、ツイッターなどの活用を考える
 ・結局のところ商売は「人柄勝負」

 ということになります。

 できるのならビジネス全体を戦略的に考えた上で、上記のインターネット技術を戦術として活用するのがベストですが、頭で考えているよりまずはお店を開いてやってみることが大事だと思います。理屈をこねてばかりで行動しない人はいつまで経っても成功しませんからね。ただし、それなりのリスクは覚悟した上で行動しましょう。
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【瀬戸岡古墳群】危険運転に注意【リベンジ】

2015-09-15 21:20:59 | 歴史探訪
 今日の夕方、最後の現場からお店に戻るときに片側一車線の道を走っていると、追いついた目の前の車が時速30kmで走っていました。

 この道は確か40か50なんだよなあ、と思った私は、センターラインが白だったので、一瞬の隙をついて抜いたのですが、抜いた瞬間、センターラインがオレンジになりました。

 そしてバックミラーでさっきの車の観察をしていると、相変わらず低速でマイペースで走っています。

 もう日が暮れていたので、ヘッドライトでその車の位置が分かるのですが、その車の後ろにはヘッドライトがずずずーっと並んで渋滞を醸成していました。

 オレンジなので抜けないのです。

 皆さんきっとイライラしているだろうな・・・

 スピード違反はもちろん犯罪ですが、ああいう低速車も厳罰に処して欲しい。

 さて、時間が遡って今日の昼、少し時間があったのであきる野市の瀬戸岡古墳群を探してみました。

 瀬戸岡古墳群のあたりはしょっちゅう通るので、以前も一度見つけようと思って車でウロウロしてみたことがあったのですが、そのときは見つけることができませんでした。

 古墳群の中にいることは確かだったのですが、説明板も見つけられなかったのです。

 なので今日はリベンジです。

 滝山街道からほっそい道に入ると、やがて軽自動車が一台通れるか通れないかの道にぶつかってしまいました。

 左手が民家の基礎で、右手が畑のフェンスという構えです。

 実は、私は狭いところにキューッと入って行くのが好きなのです。

 片側2車線の道を走っているときなんかも、自分が左にいて、右前方にダンプが目一杯道幅を占拠したりしていると、そのダンプとガードレールの隙間にキューッと入って行くのが好きなのです。

 いや、「キューッ」というより「ヌルッ」と入って行くイメージ。

 なのでその道にもヌルッと入って行ったわけです。

 そうやって狭い場所を通り、やがて広い場所に抜けると、まさしく胎内から生まれ出たような感覚があります。

 そのたびに新しい自分になるのです。

 そんなわけで両側に注意しながらその道を抜けると、辛うじて車が駐車できそうなスペースがあったので、そこに車を止めると、斜面になっている畑の方を見渡してみました。

 すると、遠くに何か石積みのようなものが見えます。



 以前Webで調べたときに、墳丘はなく、石室だけが露天にさらされていた画像を見た覚えがあります。

 きっとあれに違いない!

 そう思って走って見に行くと、それは石室ではありませんでした。



 あれー?

 でもこの石は怪しいなあ・・・

 そう思いつつ仕方なく車に戻り、また通りに出て注意深く走っていると、チラッと見えた路地の奥に東京都の黒い説明板が一瞬見えました。

 すぐに路駐して、その場所に走って行くと、瀬戸岡古墳群の説明板でした。



 おー、あったー!

 でもここはさっき走った超道幅の狭い道の傍らです。

 走行に注意し過ぎていて、説明板に気付かなかったのですね。

 しかしここにも露出した石室はありません。

 なぜだろう?

 ちなみに瀬戸岡古墳群は説明板によると、50基ほどの群集墳で、7世紀代の築造です。

 『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』が著された1995年の段階では、6号墳のみわずかな土の高まりが残っていたようですが、先ほど東京都遺跡地図で確認したところ、6号墳の場所はこの説明板がある場所とはだいぶ離れています。

 該書には石室が露出している古墳もあると書かれているので、これは日を改めて、きちんと時間を取ってこの辺りを歩き回る必要がありますね。

 まあでも、今日は説明板の写真を押さえられたので、それはそれで良かったと思います。

 ちなみに、瀬戸岡古墳群は平井川と秋川に挟まれた東西に長い秋留台地の北縁、平井川沿いに展開しており、石室の構造から渡来系の人びととの関連があると考えられています。

 ところで話は変わりますが、私はここのところずっと、ほぼ毎日お昼は母が握ってくれたおにぎりをを食べているのですが、それだけだと寂しいので、コンビニに行ってレジの横のところにある揚げ物や焼鳥関係を買って一緒に食べています。

 コンビニそれぞれに美味しいものがあるので、その日の気分でコンビニを選んで食べています。

 しかしその中でも、やはりセブンが一番美味しいかな。

 特に私は牛肉コロッケが安くて美味しいと思いますが、最近は揚げ鶏を良く食べます。



 170円。

 私はケンタッキーが大好きですが、あのような高価なものはコンキュウト(困窮人)は買えないので、これを食べて満足しているわけです。

 もちろんケンタッキーのような高級感はありませんが、肉は柔らかくてジューシー、塩加減もちょうど良いですよ。

 うまー。

 瀬戸岡古墳群を発見した後、これとおにぎりを食べて、今日のお昼も幸せな気分に浸っていました。

 そして最後に一点。

 ケータイ、めっかりました。

 まだ縁があったね、もうしばらく頑張ってね、とケータイに伝えましたよ。
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【19km】府中から「古甲州道」をたどって滝山城城下町の入口まで歩きました【7時間15分】

2015-09-13 21:55:29 | 歴史探訪
 今日は朝、天気予報を見たら午後は雨になっていて、せっかくの歴史探訪なのにまったくもう、と思いましたが、結論から言うと、午後少しにわか雨が降りましたが、夕方は逆に晴れ間が見える始末で、夕方まで普通に歩くことができました。

 今日は9時に府中駅をスタートし、主として古甲州道をたどり、最後は八王子市尾崎町のバス停で16時45分にバスに乗るまで、約19km歩きました。

 結構歩いたね~。

 途中、20分くらい昼休憩をして、15時半に10分くらいコンビニで休みましたが、それ以外はずっと歩きっぱなしで、だいたい7時間15分歩いたことになります。

 休憩時間が少ないように思えますが、私も同行者も歩くのは慣れているので、むしろ楽しくて休憩を取ることすら忘れてしまうのです。

 でも、だいたいこれくらいが一日に歩く距離の限度で、もちろんまだ歩こうと思えば歩けますが、そうすると疲れてしまうので、ちょうどよいポイントで切り上げたわけです。

 さて、現在皆さんが知っている甲州街道は戦後になってからできた区間が多く、それ以前の江戸時代初めから使われていた甲州街道は、現在の地図を見ると「旧甲州街道」というように、「旧」が付いています。

 今日歩いたのはそれよりもさらに古い甲州街道で、「古甲州道(ここうしゅうみち)」と呼ばれる道です。

 簡単に言うと、戦国時代から江戸初期の甲州街道で、戦国より前はどこまで遡るかは分かりません。

 古甲州道は大國魂神社の随神門から見て左手の鳥居が起点と考えて良いと思います。

 そこから西に向かって、以下の歴史スポットを探訪しながら歩きました。

 <府中市>

 ・武蔵国府の国司館跡および徳川家康御殿跡

 ・下河原廃線跡



 ・坪ノ宮神社



 ・府中用水跡を西進



 府中用水はおそらく戦国期の多摩川の支流を利用して作られたと推測。その南岸には、流れに沿って古甲州道があったはず。

 ・高倉塚古墳



 ・光明院

 ・石橋供養塔



 ・NECを迂回してさらに西進

 <国立市>

 ・日野バイパスの石田大橋を初めて徒歩で渡る



 <日野市>

 ・すき家で昼飯



 ここまでちょうど3時間歩きっぱなし。ビール最高!

 ・安養寺(田村氏館跡)

 ・八幡神社

 ・万願寺一里塚



 現在の旧甲州街道が開通する以前の戦国期および江戸初期はこの位置を甲州街道が通っていた。ここで少しパラパラ来たが、すぐに止んだ。

 ・稲荷神社

 ・中央線四ツ谷ガード下



 もしかすると明治時代の築造?

 ・日野宮神社(日奉氏館伝承地その1)



 武蔵七党の一つ、西党の祖・日奉氏を祀る。日奉氏の居館跡との伝承がある。

 ・成就院



 ・日奉氏館伝承地その2



 ここも日奉氏の居館跡との伝承あり。多摩川対岸を見る。ここは景勝の地。戦国期も見張り台があってもおかしくない。

 <八王子市>

 ここ以降は私の持参した資料は範囲外となり、八王子市内に詳しい同行者が主導となる。

 ・真福寺



 ・谷地川旧河道



 谷地川は現在はまっすぐ流れているが、昭和55年に改修する以前は蛇行するグニャグニャ川だった。

 ・御嶽神社



 ・西蓮寺



 ・龍光寺



 龍光寺の西側から北に向かっては、古河越道が通っているので、いずれは歩いてみたい。

 そして、左入橋の交差点で終了。



 この交差点の一つ北側の交差点から滝山城の城下町に入って行き、城下町が展開するのだ。

 ・・・てな感じで、非常に濃厚な探訪で、とんでもなく楽しかったです。

 以上、今日は速報としてお届けしました。

 写真ばっかりで説明が少ないから意味が分からないですね!

 まあそれはそれとして、打ち上げはたかお食堂でやりましたよ。

 ビールが最高に旨い!

 あ、昼も飲んでるけど。

 今度はもっと参加者を募ってやりたいと思っており、私も同行者も多摩地域の各地に仲間と一緒に歩きたい場所があるので、我々と同行したい方がいればぜひご連絡ください。

 古代・中世・近世・近代と、時代を自由自在に行き来するマニアックな解説をしますよ!
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歴史の謎を調べていたら自らの不覚を悟る結果となりました

2015-09-07 23:00:34 | 歴史の謎
 本当に歴史は分からないことだらけで、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど、謎は深まります。

 さっきも夕飯を食べようと思って下に降りたら、テレヴィの「ぶっちゃけ寺」で織田信長の死の謎をやっていましたが、本当に謎だらけです。

 ですから私は掃除を集中してやっている間以外は、歴史について考えていることが多いです。

 しかも意識的に考えている時間以外にも、潜在意識にも課題を投げて解決を依頼しているので、多分私の脳内では24時間歴史についての考察が続いているのだと思います。

 ちなみに、潜在意識をバカにすると損しますよ。

 潜在意識を上手く利用できるようになると、仕事でも勉強でも、色々なことの効率が格段にアップします。

 潜在意識についてここで詳しく説明することはしませんが、言い出したついでに一冊だけ極めつけにお薦めの本をご紹介します。

潜在意識が答えを知っている!
マクスウェル・マルツ
きこ書房


 さて今日は、前回の記事を書いた後、飛鳥時代を調べていました。

 飛鳥時代というのは、飛鳥(奈良県)に大王(おおきみ。当初はまだ天皇<すめらみこと>とは呼ばれていない)の宮殿があった西暦592年から710年までを指します。

 その間のもっとも有名な人と言えば、ズバリ聖徳太子ですね。

 私なんかは、聖徳太子というと一万円札と五千円札を同時期に独占した「金・銀独占選手」として記憶に残っており、また「ギャグマンガ日和」ではジャージを着て小野妹子と隋に行き、煬帝(正体はタコタコ星人)に塩をかけて殺害し、中国人民を救った人物として印象深いです。

タコタコ星人(ギャグマンガ日和)


 ※ちなみに娘がまだチビチビの頃、一緒に「ギャグマンガ日和」を見ていてタコタコ星人が出てきたら娘は恐ろしさの余り目をギュッとつむったのですが、その表情が今でも忘れられません

 聖徳太子は、その後「太子信仰」が流行ったこともあり、日本国民にとっては超スーパースターなわけですが、『日本書紀』で書かれている太子の事績が本当に厩戸皇子(聖徳太子の本名)がやったことかどうかは分からないのです。

 ちなみに「太子信仰」は「たいししんこう」ですが、弘法大師空海の信仰は「だいししんこう」ですよ。

 不思議なのは、以前もこのブログでも書いていますが、聖徳太子は推古天皇という女帝を補佐して政治を摂ったということになっているのに、その肝心の推古天皇自体の存在が怪しいのです。

 倭(当時はまだ日本とは称していない)は600年に初めて遣隋使を送っています。

 この事実自体、『日本書紀』では意図的に無視して書いていないのですが、中国の歴史書である『隋書』によると、倭の遣いの話では、倭の王には妻がいて、後宮には6~700人の女性がいると言っています。

 600年というと、推古天皇の治世のはずなのですが、なぜ倭からの使者は倭の王のことを男だと言ったのでしょうか。

 これには、隋に対して女性が王だと恥ずかしいので(決して男尊女卑ではなく当時の観念です)男にしたということも考えられますが、いずれ返礼の使者が倭にやってきたらバレちゃいますね。

 実際、2回目にあたる607年の遣隋使(代表小野妹子)が帰国する際に一緒に倭に来た隋の裴世清は倭の王に謁見しているのですが、特になんとも言っていないので会ったのは男の王のはずです。

 裴世清に対して国を挙げて偽装工作をしたと考えるのは無理でしょう。

 そう考えると、やはりこの時期の倭の大王は男だったと考える方が無難です。

 この時期は蘇我氏の力が大きかったので、大山誠一氏は、585年に敏達が死んだ後は蘇我馬子が大王になり、ついで舒明、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と大王位が続いたと推測しています。

 天皇は万世一系だと信じている人はこれを聴くと気分が悪くなると思いますが、そもそも、そもそもですよ、大王が一つの家で世襲するものだと言う考えが当時有ったかどうかは分からないのです。

 飛鳥の朝廷は畿内の有力な豪族たちが持ち回りで代表者、つまり「大王」を出していたと考える余地は残っているはずです。

 実際、蘇我氏の時代より少し遡りますが、実在する大王級の巨大前方後円墳の場所と築造年代を調べると、『日本書紀』に記されている歴代大王と整合性が取れず、複数の勢力で持ち回りで大王をやっていたと考える方が素直なのです。

 それが、『日本書紀』が編さんされた8世紀初頭の時点では、政治的な理由で天皇家は万世一系にする必要があったので、過去の歴史を改竄したと考えられるわけです。

 私は飛鳥時代に蘇我氏が果たした役割は大きいと思っています。

 ただ、その蘇我氏がなぜそれだけの権力を得られるようになったかは謎です。

 蘇我氏の出自は渡来系と考える人もいますが、当時は渡来系の人だらけなので、それを特別視する必要はありません。

 しかも『隋書』には日本列島内に中国人の国があるとも書かれており、飛鳥の朝廷はまだまだ列島全体の支配には遠い状況にあるのです。

 以前は埴原和郎氏の「弥生人100万人渡来説」が通説でしたが、それはあり得ない話で、私はむしろ古墳時代の方が渡来人は多かったのではないかと思います。

 そういう人たちの協力で日本の国造りは進められました。

 蘇我氏で実在が確実視されるのは、645年の乙巳の変(大化改新)で殺された入鹿の曾祖父に当たる稲目ですが、この人物が急激に出世したのはちょうど継体大王が没したあとの「不明瞭な時代」においてです。

 継体が没した後は、『日本書紀』では、安閑、宣化、欽明と兄弟で相続したことになっているのですが、この辺もどうも事実がはっきりせず、結果的に欽明が少し長く在位し、欽明のもとで稲目は大変な力を持つわけです。

 しかし、欽明が在世中の6世紀中葉については、『日本書紀』では朝鮮半島のことばっかり書いていて、国内がどうだったかはあまり書かれていません。

 そして前述した大山氏の説だと、欽明のあとは敏達が継ぎ、その次はついに稲目の息子の馬子が大王の位に就いたわけです。

 さて、話がとりとめなくなってきたので今日はこの辺でやめておきますが、最後に一点。

 私は史跡めぐりをすると現地で遭遇した人に声を掛けるのですが、今年のGWに群馬探訪をしたときに、前橋八幡山古墳で一人の男性と知り合いました。

 その方は都内の某有名大学の教授だったのですが、今日、飛鳥時代を調べていて大山誠一編の『聖徳太子の真実』を読んでいたら、何と!その先生の論文が収められているではありませんか!

聖徳太子の真実 (平凡社ライブラリー)
大山誠一編
平凡社


 これは不覚だった・・・

 その本はGWよりも前に読んでいたのにもかかわらず、前橋八幡山古墳の墳丘の上でまったく思い出しませんでした。

 でも何かとても嬉しかったので、さっきその先生にメールしちゃいました。

 こういう偶然って面白いなあ。

 さて、明日は7時開始です。

 田田のお陰で少しは疲労が抜けたかな?
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【ワーキングプアの夢】本当はコンスタントに週2日休みたいの【貧民のつぶやき】

2015-09-06 17:31:27 | 歴史探訪
 昨夜は結局、1時くらいに寝て、今日は6時半に目が覚めました。

 ところが、疲労感が抜けていない。

 やっぱり、休みは週に2日は欲しいですね。

 ところで先日、産業医の面談がありました。

 うちの会社は残業時間が80時間を越えると産業医が飛んできて「いったいどうなってんのー?フガフガ」と詰問されるのですが、私は確か78時間くらいだったものの、「まあ、たまには話をしようぜ!」ということで産業医がやってきたわけです。

 その面談の中でも、先生は疲れを溜めないためには5日働いて2日休む、というペースが良いと言っていました。

 私も全く同感です。

 でもそうすると生活できないんですよね。

 先生は私の先日の健康診断の結果を眺めた後、重箱の隅をつつくように若干高めの数値を指摘しましたが、「ああ、そういうのは医者が勝手に決めた閾値なので、多少高めでも本人が気にしなければまったく問題はありませんよ」と言ったら、数値の話はそれ以上してきませんでした。

 ついで、「働き過ぎで疲れるでしょう?」と聴かれたので、「もちろん働き過ぎると疲れますが、人間の身体はむしろある程度動いたほうがエネルギーが貯まるんです」と答えたので、先生は閉口してしまいました。

 そして先生が一番興味を抱いたのは、私がどうやってうつ病を克服したかというくだりです。

 私はそこらへんのヘッポコ開業医よりもうつ病については詳しいという自負があるので、滔々と語りました。

 結局、30分も話してしまいましたが、先生にとって有益な話であったなら私もお役に立てて嬉しいの。

 それと、私はアルバイト・ランク「下」で入社して、「中」を経由して今は「上」なんですが、その上に行くと今度は地域限定正社員になってしまいます。

 なぜか先生は、「地域限定正社員になる気はない?」と聴いてきたので、これは産業医が聴くことではないと思ったものの、素直に「旨味がないので成る気はありません」と答えました。

 もちろん旨味があれば私もそれを目標にしたいですが、私がリサーチした限りでは現状の方が私にとっては有益なのです。

 ただこれは今後の展開次第ではまったく考えないわけでもないですが、私は歳が行っているのでちょっと難しい話かもしれませんね。

 さてそんなわけで、今日も朝から一日歴史をやっていたわけですが、冒頭お話した通り、もう一日休みたい。

 ただ、肉体は疲れていますが、精神的なストレスはほとんど感じない仕事ですので、そういう面では心配は無いです。

 ところで、今日の研究内容は、縄文土器の編年でした。

 編年というのは、簡単にいえば土器の特徴で分類して、土器同士を比べてどちらが古いか新しいかで、古い順から並べて行く作業です。

 かなり昔に偉い先生によって土器の編年は完成していますので、今日はその表を見ながら、実際の土器の写真を見て特徴を掴んだりして、土器の変遷を楽しんでいたのです。

 あ、研究ではなく鑑賞でしたね、スミマセン。

 縄文時代は1万年以上の長い期間があるので、それはもう土器の登場から弥生時代寸前まででかなり変遷があります。

 器種といって、鉢とか壺とかそういった外見上のバリエーションも沢山ありますし、模様の付け方も移り変わります。

 また、地域によっても違いがあるのでそれも楽しいですね。

 でも実際のところ、縄文土器はどういう使われ方をしたのでしょうか?

 例えば下の写真の土器は見た目が深鉢なので、きっと煮炊きに使ったのだろうとか現代の人は考えるのですが、それらの推理がすべて当たっているとは限りませんね。



 これは前期(7000年くらい前以降)の諸磯式と呼ばれる土器です。

 多摩丘陵の遺跡では結構出てくるそうですが、模様はまだシンプルですね。

 そして中期(5500年くらい前以降)になると、模様が進化します。



 これは勝坂式土器ですが、この中期の頃の土器が一番装飾がゴージャスかもしれません。

 縁の部分に大ぶりな把手(とって)が付いているのもありますが、何とそこに人面をくっつけるものも出てきます。

 手元に写真が無いのでお見せできなくて残念ですが、どうして把手の部分を人の顔にしてしまうのでしょうね?

 いや、把手だと思っていること自体が間違いかもしれないですよ。

 そもそもその部分を片手で掴んで持ち上げるほど土器は軽くないと思いますし、強度の問題で壊れたりしないのでしょうか?

 また、右上の土器のように浅い鉢も出てきます。

 見た目的には今で言う鍋料理とかに使えそうですが、実際はどうだったんでしょう。

 あと、この時期には「芸術は爆発だ!」的な火炎式土器が作られましたが、関東地方の名産ではないです。

 そして後期(4500年くらい前以降)になるとこんな感じ。



 デザインはまたシンプルなものになりますが、より洗練されたスタイリッシュな感じになります。

 この頃には左下に写っているような「注口土器」と呼ばれる急須というかケトルというか、そんな感じの器種も現れます。

 こんなものは現代の生活で使っても遜色がないように見えますね。

 ちなみに上の写真は多摩市にある東京都立埋蔵文化財調査センターで許可をもらって撮ってきたものです。

 あ、そろそろお腹が空いたので、レトルトのスープカレーを食べようと思います。

 追伸:

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