日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【立川市の歴史】今日は一日中シコシコしていました

2015-08-30 18:33:47 | 歴史探訪
 今日は滝山城の下草刈りが雨で中止になったため、1日中家に籠ってシコシコと歴史の研究をしていました。

 まあ、研究と言っても私の場合は何の目的もなく、思い付くままにただただひたすら調べまくるだけです。

 先日お話した通り、私はやる範囲が広くて、すべてを同時進行します。

 なので、一個一個を見ると非常に進みが遅いのです。

 でも、こんな感じのマイペースでも10年前と比べたら少し進歩していますので、私はとくに焦らず淡々とやるだけです。

 今日の朝のうちは、昨日の夜からの続きで東京都内の中世城館跡の一覧表を作っていたのですが、昼飯を食べた後は、『新編武蔵風土記稿』を読みながら、地名などのデータベースを作っていました。

 私はデータベースの作成が大好きなのですが、こういうのは歴史研究の基本中の基本の基礎作業なのです。

 私は近世史はそれほどやらないのですが、それでも近世の古道と、近世以降の行政区画の変遷には異様に興味があります。

 ですので、今日も江戸末期から廃藩置県を経て、市町村が合併をしていく様子を調べていたのですが、立川市に関しては調べてみると意外なことが分かりました。

 おそらく、今現在で多摩地域で最も栄えている町はどこか?と聞かれたら、立川と答える人が多いと思います。

 そんな立川も、先日滝山城の会のノッチさんが子供の頃に駅前で傷痍軍人(戦争で手や足を失った方)の乞食(という言葉を敢えて使いますが)が座り込んで、「右や左の旦那様・・・」とやっていたのを見た記憶があるとブログに書いていましたが、今はそれも昔話となり、それはもう華やかな町に変わっていますね。

 多摩地域の歴史を見ると、1200年以上前に武蔵の国ができて、多磨郡に国府が置かれた時は、今の府中市の大國魂神社付近が都市となりました。

 その後、戦国時代が始まった15世紀の半ば頃には、鎌倉にいた関東地方のトップである鎌倉公方が鎌倉から退去したことにより、鎌倉公方の武蔵における統治拠点となっていた府中の街も廃れ、八王子に都市が移ります。

 しかし、八王子と言っても現在の駅前ではなく、現在の町名でいえば四谷町とか二分方町とか諏訪町とか、あの辺の陣場街道沿いが町になったんですよ。

 現在の八王子市民の方は信じられないかもしれませんが、戦国時代が始まった頃の東京都内の都市は浅草・江戸近辺と、上記の陣馬街道沿いの2ヶ所だったのです。

 その後、滝山城下、八王子城下と町は移転し、徳川が入府してくると八王子駅北口に個人資産では将軍を凌いだと思われる大人物・大久保長安が町を作り、それが昭和の時代まで多摩地域ナンバーワンの町として繁栄するわけです。

 あ、話を立川に戻します。

 立川市は昭和38年(1963)に立川市と砂川町が合併して現在の境域になったのですが、立川市と砂川町のそれまでの経歴を見て驚きました。

 というか、ああやっぱりなという感じだったのです。

 明治39年の地図を見ると、当時すでに中央線の立川駅はありましたが、駅から離れた残堀川の北岸、普済寺の北側が繁華街になっています。

 今でも地方に行くと、よく駅から少し離れた場所が中心街になっていたりしますが、これは明治の頃の全国的傾向ですね。

 鉄道ガン無視。

 当時、立川駅周辺はほとんど市街地化していなく、江戸時代の頃と景観がそれほど変わっていない様子がうかがえます。

 しかも駅南口はまだ桑畑が沢山あって良いですが、北口は荒れ地がかなり広がっていたようで、ほとんど無住に近い印象を受けますね。

 それもそのはず、合併する前の立川市は、元をたどると普済寺を中心にした柴崎村というたった一つの村だったのです。

 あの小さい国立市でさえ、上谷保村と下谷保村、それに青柳村がくっついてできたのに、旧立川市域は江戸時代はたった一つの村だったということを知って、驚きつつ興味が湧いてきました。

 普済寺は武蔵七党の一つ西党に属する立川氏の居館との伝えがありますが、それが本当だとすると、立川氏の支配地域の農業生産力はかなり低かったと想像できるので、農業以外にうまく何かをやっていなかった限り、あまり力のある氏族だったとは思えません。

 さて、つぎに旧立川市とくっついた旧砂川町を見てみましょう。

 砂川町は今でも住所表記で残っていますが、今の砂川何番という地名が東西に広がっている地域、すなわち五日市街道沿いは明治39年の時点ではかなり賑やかだった様子が分かります。

 その地域も江戸時代の17世紀半ばに玉川上水ができてからようやく開墾できるようになり、砂川村が開村して、1番から10番まで番号を振って行ったのですが、それまでは不毛の土地だったはずです。

 しかしこれは武蔵野全般に言えることで、今では中央線で立川から新宿へ向かう時に車窓から風景を眺めると見渡す限り住宅やビルが広がっていますが、その沿線は江戸初期まではほとんど人が住めない場所だったのです。

 おっと、人が住めないと言いきってしまうと語弊がありますね。

 なので少し修正しますと、一部には旧石器時代からの遺跡もあり、人はいたことはいましたが、それは絶対条件として水が取れる場所です。

 ですから、小さな川沿いとか、多摩川の段丘崖(ハケ)沿いには大昔から集落があったのです。

 ただ、武蔵野の台地は井戸を掘るのが非常に困難で(すり鉢状に巨大な穴を掘って行く独特な「まいまいず井戸」という非常に手のかかるやり方がありました)、大規模な新田開発のようなことは不可能でした。

 それが江戸時代になって各地に玉川上水を始めとする飲料用水や灌漑用水が張り巡らされてからようやく畑を作ったりできるようになり、人が安心して住める地域になって行ったのです。

 あれ、何の話をしていたんでしたっけ?

 お腹が空いたので、「LEE 辛さ20倍」(レトルトカレー)を食べに下に行ってきます。

 明日からまた6日間、お掃除頑張ってきますよ!

 そして明日は久し振りに朝から夜中までの勤務だ!

 ・・・そんなわけで、近世の歴史では、実は玉川上水の歴史にも非常に興味があるので、そのうち手を付けると思います。
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お城研究の最新事情

2015-08-27 20:32:34 | 歴史コラム:中世
 私は歴史が好きですが、「歴史研究の歴史」にも興味があり、「歴史研究者の歴史(人生)」にも興味があります。

 今では「中世城郭が好き」と職場や学校で言っても、それほど無体な目に会うことはないと思いますが、中世城郭の研究が活発化したのは戦後になってからです。

 現在刊行されている城の本を見ると、必ず凄く綺麗な「縄張図」が掲載されていますよね。

 こんな感じのものです。


↑中田正光作成・滝山城縄張図

 縄張図を作成して城の研究を進めるやり方は、アカデミズムのプロの研究者よりかは、「日曜研究者」みたいな人たちが牽引してきた研究方法なのです。

 私のお城の師匠である中田先生も、かつては普段、小学校の先生をやりながら、休みの日に城に行って縄張図を書きまくっていたのです。

 ですので、歴史の研究はプロだけがやるものという考えはまったくの間違いですよ。

 さて、縄張の研究によって地表面から見た城の構造は分かってきたわけですが、その後、地面の中を掘ってみる機会が増えてきました。

 それにより、お城というものがより立体的に解明されてきて、さらに古典的な文献資料による調査も当然ながら継続して続けられてきたわけですから、それが現在皆さんが読む本の中にまとめられているわけです。

 ところが、どんな学問でもそうですが、通説は覆される運命にあります。

 例えば、中世城郭の初期のもの、平安末期から鎌倉時代の武士の館については、方形の区画で土塁や空堀によって防御されていたものだというのが以前の通説で、埼玉県嵐山町にある大蔵館などはその典型と言われてきました。


↑平安末期の築造と言われていた大蔵館跡(周囲に土塁がめぐっているのは後世の造作)

 ところが、90年代以降は、方形で土塁と空堀に囲まれた居館は、関東地方では14世紀、つまり鎌倉時代が終わってからでき始め、室町時代の15世紀に一般化してきたと考えられるようになりました(『史料と遺跡が語る 中世の東京』<峰岸純夫・木村茂光/編>)。

 なぜそれが言えるのかと言うと、大蔵館と同じような館跡の発掘例が増えた結果、そこらから出土する遺物は14世紀以降の物がメインだったからです。

 したがって、現在では埼玉県川越市の河越館跡にある説明板の絵を見れば分かるように、14世紀半ばの時点でも武士の館はこんな感じだったことが分かっています。


↑河越館跡の説明板

 土塁なんてないですよね?

 これによって鎌倉時代の館も類推できると思います。

 ところで、各地の山城跡に行くと、麓にある説明板に「この城は鎌倉時代の建久年間に築城され・・・」みたいな「鎌倉時代築城説」が書かれているのをよく見かけます。

 私も城めぐりを始めた頃はそれを普通に信じていたのですが、でもよくよく調べてみると鎌倉時代には山城は作らないんですよね。

 領主は戦いをするためにその地に君臨するわけではなく、ましてや山賊ではないのですから、普通に平地に居館を作ります。

 でも小高い場所から村内を見渡す方が、何か領主っぽい構図を受けるのですが、それはまったく江戸チックな幻想に取りつかれています。

 古代にも山城はあったのですが、中世になって山城を作りだすのは全国的に戦いが恒常化した南北朝時代以降です。

 しかしもちろん、関東平野の平野部は当たり前ですが山がないので、南北朝時代の城も平城で、水が上手く利用できれば堀は水堀になります。

 これも城好きなら押さえておきたいポイントの一つですね。

 そしてもう一点。

 城好きならご存知かと思われますが、現在熱いトピックとして「杉山城問題」があります。

 これは嵐山町の杉山城が問題の出どころなのですが、杉山城で見ることのできる城の構造(各パーツ)からすると、今までは後北条氏によって築城されたと考えられていました。


↑杉山城跡

 ところが、発掘の結果、それよりも半世紀以上も前の、関東管領山内上杉氏の時代の築城だと言われるようになったわけです。

 縄張の人たちから言わせると、どう見てもこの設計は後北条氏だと言うのですが、考古学の人たちからすると、出てきたものが山内上杉なんだから、その時代に決まっていると言うわけです。

 縄張の人たちからすると、杉山城は「北条流築城術」で造られていると言うことですが、城の造り方にしても「北条流」とか「武田流」とか言う分類も今では怪しくなってきています。

 そういえば、「堀之内」という地名がある場所には必ず堀に囲まれた居館があったという考えも今では間違いであることが分かっています。

 さらに一つ。

 今までは、山城は当時は丸裸だった(上の杉山城跡の写真のように)というのが定説で、私も昔は城仲間にそういったことを語っていましたが、最近になって「やっぱり変だなあ」と思い始めていたところ、先日、古代中世史の某師匠とお話しをして合点行きました。

 というのは、山の木を全部切ってしまったら、まず保水ができずに大雨が降ったら壁面が大崩落するかもしれない。

 それと、樹木というのは、薪などの資源にもなるし、食料となる木の実だって成る。

 丸裸にしてしまったら、日差しの暑い夏はとてもではないがそこにいられない。

 などなど。

 結局のところ、山城全体が丸裸だったとは到底考えられず、必要に応じて樹木を植えたり、伐採したりしていたと考えるのが素直ですね。

 某師匠はその考えに基づいて、現在は群馬県みなかみ町にある名胡桃城の復元計画を実行中とのことです。
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日本人のルーツについて知識を整理してみちゃったの

2015-08-25 21:56:51 | 歴史コラム:原始
 昨日の夜の時点で私の所持金は98円となりましたが、今日は月に1度の「富裕の日」なので、お掃除がお休みだったのにもかかわらず、八王子へ出張ってお金を下ろしてきました。

 そして郵便局からの借金とVISAカードからの借金をいくらか返して私の趣味の一つである「借金返済」の醍醐味を堪能し、大勝軒でつけ麺を食べて帰って来たわけです。

 しかしその前に、今日も5時に起床してしまったので、午前中は「日本人のルーツ」について少し文章を書いて、午後は懸案事項となっていた生命保険と確定拠出年金の問題を片付けました。

 生命保険に関しては少し前から現在のものを見直したいと考えていたため、できるだけコストがかからないように変更し、確定拠出年金に関しては、以前勤めていた会社で社員全員に毎月少しずつ運用資金が配られ、そのときのお金がいくらか残っているので運用を再開しようと決めました。

 その会社を辞めた後、今まで放っておいたのですが、たまに運営管理会社から「もう、いつまで放ってるのよ!好い加減、けじめをつけてよ!」というお手紙が来るので、4月から久し振りに厚生年金に加入したのをきっかけにして、ようやく運用の再開を思い付いたわけです。

 放っておいてもそのお金はもらえないし、また毎年少しずつ管理費用が取られて目減りして行くのでもったいないのです。

 確定拠出年金はその名の通り「年金」ですから、最終的には60歳以降にもらえるようになります。

 私はご存知の通りこのような境遇ですので、老後のことは今からきちんと手を打っておかなければなりません。

 確定拠出年金は掛金と手数料が所得税控除され、当然ながら元本割れするリスクもあるわけですが、以前会社で運用していたときのイメージは「意外と儲かる」というものです。

 だからといって、莫大な儲けがでるというものではなく、他の投資と比べてローリスクで、普通に貯金をするよりかはお得という程度で考えておいた方が無難です。

 まあ、そんな感じで久し振りに何やら大人の社会人みたいなことをやったわけですが、夕方からはまた文章書きの続きをして、とりあえず一段落つきました。

 以下に掲載しますので、日本人のルーツについて興味のある方は読んでみてくださいね。


*   *   *



 自然人類学者で東大の名誉教授だった埴原和郎(1927~2004)が80年代に提唱した「二重構造モデル」は、日本人のルーツについて一時は定説の地位に座っていました。

 二重構造モデルというのは、その概要を簡潔に列挙すると、

 1.旧石器時代に東南アジアから人びとが渡ってきて日本列島(北海道から沖縄まで)の原住民となり、彼らが縄文人となった

 2.弥生時代になると、北東アジアから100万人規模の人びと(弥生人)が渡ってきて、列島内で縄文人と混血が進んだ(東南アジアがルーツの人たちの住んでいる場所に北東アジアがルーツの人たちが入ってきたため「二重」と言っているわけです)

 3.ただし北海道と沖縄は縄文人と弥生人との混血が進まず、現在のアイヌと琉球人は縄文人の要素を強く残している

 というものです。

 この説は非常にシンプルで分かりやすかったこともあり、一世を風靡して定説となったわけですが、この説の定説化の後、DNAによる遺伝子学からの研究が進み、また重要な資料である古人骨の新たな発見や形質学の研究の深化などもあって、この説の一部はほころびを見せています。

 例えば、1の「旧石器時代に東南アジアから」というのと、2の「100万人規模の渡来」というのは、私が調べた範囲では現在では支持を失っているようです。まずは、1の問題からお話ししましょう(ただし、旧石器時代人が我々現代人まで脈々と続いていること自体は正しいです)。

 まずは、古人骨の形質からのアプローチです。『骨が語る日本人の歴史』(片山一道著)によれば、旧石器時代の人骨発見例は全国で20余件しかなく、本州域では静岡県浜松市北区で発見された浜北人が唯一確実な旧石器人骨とされ、あとは沖縄県から出ています。しかし浜北人は一部の骨なので、あまり資料としては役に立たず、沖縄県から発見された骨たちを元に旧石器人を探ることになりますが、そうすると最大の問題点は、沖縄で発見された人骨でもって日本列島人として一般化して良いかという点です。つまり、沖縄の人骨と同じ形質の人びとが本州や北海道に住んでなければ、その資料を元に日本人を語ることはできないわけです。

 沖縄本島で発見された港川人(1万8千年前)は南方からやってきましたが、子孫が北上して九州に入り、縄文人になった可能性はありません。港川人は子孫を残してそれが琉球人に続いているとも限らず、現在の琉球人は、古代末期に本土人が渡ってきて混血が進み、元々の琉球人の特徴を持つ人たちは今ではマイノリティになってしまいました。また、よく言われる話で、「二重構造モデル」でいうところの100万人規模の弥生人の来日によって元々いた縄文人が北と南に追いやられて、それぞれアイヌと琉球人になったとされますが、DNAを調べてもアイヌと琉球人はとてもではないですがそっくりとは言えませんし、外見も全然違います(アイヌは白人と間違えられるような外見をしています)。

 『骨が語る日本人の歴史』によると、港川人の骨を調査した結果、本土域の縄文人には繋がらなかったということです。本土域の縄文人は本土域の旧石器時代人の子孫だと考えると、港川人と同じ頃の本土域には、また違ったルーツを持った旧石器人が住んでいたということになります。

 つまり、古くは民俗学者の柳田國男(1875~1962)が提唱し、今では通説とされている「日本人の先祖は南方からやってきた」という説は間違いということになります。この後述べるように、北東アジアからサハリンを経由して北海道に入ったり、朝鮮半島から九州にやってきた旧石器人が日本人のルーツであり、両者ともルーツはシベリアなのです。我々日本人の最も昔のご先祖様は、シベリアから渡ってきた人たちなのです。

 次に、DNAのY染色体の研究結果を見てみましょう。『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著)によると、DNAのY染色体はAからRまで18のグループに分かれるのですが、約3万4千年前にシベリアに石刃技法と呼ばれる石器の製造方法を用いながら居住していたP系統の人たちがその地でQ系統とR系統に分かれ、Q系統の一部が日本列島に向いました。これにより、列島内ではナイフ形石器が出現するのですが、ここで大きく東日本と西日本で石器の製作技法に違いが出て、東日本は縦長剥片剥離技術である石刃技法が確立し、西日本では、横長剥片剥離技術が生み出されることになります。これが日本列島内で起きた史上最初の「東西の文化の違い」になります。ちなみにアメリカ先住民にもQ系統は多く見られることから、アメリカ先住民と日本人が比較的近いと考えられそうですが、Q系統が分岐したのは3万年も前ですし、現代の日本人にはQ系統の影響は少ししか残っておらず、アイヌからはまったく確認されていません。


↑東京都板橋区の茂呂遺跡出土のナイフ形石器(明治大学博物館で撮影)

 ちなみに、なぜ東日本と西日本で文化の違いが出たのかというと、前述した通りシベリアからやってきた人びとのルートがサハリン経由で北海道へ入る場合と朝鮮半島経由で九州に入る場合があったためです。そうすると、その一番深いところである関東地方は両者の文化が融合する地点になりますね。

 次に、C3系統の人たちが約2万5千年~2万4千年前に、細石刃という画期的な石器を携えて北海道に渡ってきました。


↑細石刃をはめ込んだ槍の模型(「発掘された日本列島2011」で撮影)

 細石刃というのは、この写真の通り、槍の先に数ミリ×数センチの薄くて鋭利な石器を複数個装着し、石器が損傷・紛失した場合は新品を付け変えて使うという、交換式のカミソリのような発想の石器です。

 この素晴らしい発明品を携えたC3系統の遺伝子は、現代の九州人に少し多く残っており、九州以東もアイヌまで列島内にまんべんなく残っていますが、琉球人には残っていません。これは、九州と琉球の間は後期旧石器時代においては行き来が難しかったことの証左と言えますが、南方由来のC1系統は僅かながら本土域にも残っており、C1系統の人びとは舟を操る技術に長けていたため海を越えて本土域に進出ができたのでしょう。前述した通り、現在の琉球人の多数派先祖は、古代末期に本土から進出した日本人です。

 さて、ここで私は一点、謎が生じてしまいました。『DNAでたどる日本人10万年の旅』では石刃技法の担い手をQ系統とし、細石刃の担い手をC3系統としていますが、実は旧石器の分類ではそれらに先行する「台形様石器群」という旧石器があり、「台形様石器群」を残した最初期の日本列島人について、『DNAでたどる日本人10万年の旅』では何も説明がなく、同書掲載のY染色体の系統図を見ても該当する系統がないのです。これはいったいどういうことでしょうか。

 そうすると面白い仮説が立てられます。台形様石器群を造った人びとは、実はホモ・サピエンスが列島に渡って来る前から住んでいた別のホモ属(例えば北京原人と同じホモ・エレクトスの子孫)ではないか?という説です。そして彼らはその後、ホモ・サピエンスがやってきたあと、ホモ・サピエンスと混血することなく絶滅したので我々の体内にその形跡がないのではないかと考えられるのです。

 2000年に発覚した「前期旧石器捏造事件」以降の現在の定説では、日本列島にはホモ・サピエンス以前の人類は住んでいなかったというのがほとんどの学者の共通認識になっています。

 ところがそんな中で、竹岡俊樹氏の『旧石器時代人の歴史』には非常に刺激的な記述があります。該書によれば、約30万年前にホモ・エレクトス(北京原人やジャワ原人もこの仲間)が日本列島に来て、その子孫であるホモ・ハイデルベルゲンシスへと続き、3万年前にホモ・サピエンスが渡ってきてお互い顔を合わせることとなったとしているのです。

 それでは、30万年前に大陸から列島に人が渡ってきた可能性は考えられるのでしょうか。約2万年前の最寒冷期においても海面が最大120m下がったのにも関わらず、朝鮮海峡や津軽海峡は陸化しませんでした。では他の時代がどうだったのかというと、『倭人への道』では河村善也氏の研究を引用し、列島に大陸の動物が渡ってきた時期は3度想定され、1度目は60~50万年前、2度目は40~30万年前、3度目は7万年前と説明しています。ただし、サハリン経由の流入を考えた場合、間宮海峡の緯度まで人類が到達するのは13万年前以降なので、1度目と2度目は北周りでは人は動物を追いかけて列島に入ってこなかったはずです。中国の周口店では60~50万年前の北京原人化石が発見され、朝鮮半島では全谷里(チョンゴニ)遺跡で35~30万年前の前期旧石器の存在が確認されており、30万年前にはナウマンゾウが列島に渡ってきているのが確認されているので、竹岡俊樹氏が述べたように大陸から人類が日本列島に渡ってきた可能性は高いでしょう。

 その様子は、遺跡から発掘される旧石器からもうかがうことができます。列島各地で発見される旧石器のなかには、ホモ・サピエンスが造ったのではない物が見つかっているからです。また、それとは別に当然ホモ・サピエンスが造った旧石器もあれば、両者の特徴が折衷している旧石器もあり、折衷している旧石器は北と南から入ってきた文化が最終的に交わる場所である関東地方に多いのがまた面白いです。

 さて今日は、冒頭に埴原和郎の「二重構造モデル」を紹介し、その中の論点の一つである「日本人はどこから来たのか?」について述べ、またそれに関連して、ホモ・サピエンス以外の人類が日本列島にいた可能性が高いことを述べました。

 今日は以上になりますが、日本人のルーツについて考えるには、上でも参照している以下の本がお薦めです。

『DNAでたどる日本人10万年の旅 多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』 崎谷満著 2008年
DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?
崎谷 満
昭和堂


『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』 竹岡俊樹著 2011年
旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ (講談社選書メチエ)
竹岡 俊樹
講談社


『倭人への道 人骨の謎を追って』 中橋孝博著 2015年
倭人への道: 人骨の謎を追って (歴史文化ライブラリー)
中橋 孝博
吉川弘文館

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江戸期、江戸から「都市八王子」へ向かう際、日野台地から浅川河畔に降るにはどういう道がついていたのか?

2015-08-23 16:33:05 | 歴史探訪
 今日も13時過ぎには仕事が終わってしまったので、さて、お昼は何を食べようか、と思いつつお店を後にしました。

 ともかく、ビールが飲みたい。

 お店を出るときは日高屋に寄ろうと思っていたのですが、歩き始めると八王子の田田(二郎系)が食べたくなったので、八王子駅に行くバスに乗車しました。

 ところが、バスの中で、「ビールを飲むのならたかお食堂がいいな」と思い付き、高尾に帰ったのですが、時刻が微妙に14時を過ぎています。

 一応、ランチ営業は14時までなのですが、今日は日曜だし、もしかするとやってるかもしれないと思い、店の前に行くと「準備中」の札が出ていました。

 うーん、残念。

 それなら、西海でギョーザを食べようと思い引き返したところ、「あ、そうだ、タカミのハンバーグにしよう!」と、一体二転三転では収まらずに結局、グルメシティの2階にある「タカミ」に行きました。

 グルメシティの2階にはレストランなどの食事処が数件入っていて、昭和な感じがとても良いところです。

 「ムナル」のインドカレーも美味しいですが、私はとくに「タカミ」のハンバーグが大好きで、高尾に住んで11年の間に、年に3回くらい食べています。

 昼に行くとランチ価格で800円で食べられるのでお得なんですが、喫煙もできる店なので、私はわざと空いている時間に行くのです。

 ですので、あまり行くチャンスが無く、今日はふいに思い出して食べたくなったわけです。



 取り立てて凄くスペシャルなハンバーグなわけではないのですが、デミグラスソースの本当にいかにも洋食屋さんのハンバーグみたいな感じで、これが思い出すと凄く食べたくなるのです。

 スープは洋風のスープではなく味噌汁で、面白いのは右上の白いものです。

 以前、知人を連れて来た時に「これってチーズ?」と聴かれたのですが、実は木綿豆腐なのです。

 この素晴らしい組み合わせはタカミならではで、通い始めた11年前から変わっていません。

 そして写真には写っていませんが、ジュースも一杯付きます。

 なお、ビールの中瓶は500円で、グラスもちゃんと冷えていて、お通しで美味しいマカロニサラダが付いてきましたよ。

 さらに今日は、喜ばしいことに大好きなプリプリがずっとかかっており、なおかつ私の近くに喫煙者が居ませんでした。

 ナイス。

 ハンバーグについての思い出と言えば、私がまだ保育園に通っていた頃、当時住んでいた松戸市稔台に「するが」という洋食屋さんがありました。

 私はそこのハンバーグステーキが大好きで、私の中でのハンバーグステーキのデファクトはそこのハンバーグなのです。

 今はもうそのお店は無いのですが(十数年前に行った時にすでに無かった)、そのお店でタバスコの瓶の蓋についていた赤い液体を指で取って舐めたところ、その辛さに泣きだした記憶があります。

 今では普通のタバスコじゃ物足りなくなってしまいましたが、保育園児にはハードルが高かったようです。

 そしてお店の名前の「するが」というのも(もしかしたら漢字表記で「駿河」だったかもしれない)、当時は意味が分からなくて多分母に聞いたはずですが、母は普通の人なので、「天武天皇の時代に画定された令制国の一つで、現在の静岡県の一部だよ」とは答えなかったと思います。

 なので、ずっと「するがってどういう意味だろう?」と思っていましたが、多分小学6年で歴史を習ったときにその正体を知ったのではないかと思います。

 マスターが駿河出身だったんですかね。

 とても懐かしい思い出です。

 ところで話は変わりますが、私のお店の近くの「石川入口」交差点近辺の地形がとても気になるのです。



 写真の左方向に行くと、坂を下って行って浅川に出て大和田橋を渡るとそこは八王子市街です。

 つまり、八王子市街から見ると国道20号(甲州街道)が浅川の段丘を登ってくる途中なのですが、1300年くらい前の武蔵の国府と甲斐の国府を結ぶ官道はここを通っておらず、戦国時代の「古甲州道」もここではないです。

 それが江戸時代に甲州街道を整備した時は、ここがルートとなり、現在の国道20号線となります。

 明治39年の地図で確認すると、当時ここの坂はすでにあって、段丘を登り降りする坂を造るために掘り割ってなだらかにして道を造った様子がうかがえます。

 ただそれ以前の資料は手元にないので分かりませんが、上の写真で分かる通り、もともとここは平坦で、左から右に登って行く甲州街道も、また手前と奥を結んでいる多摩大橋通りもわざわざ大規模に掘り割って道を通したように見えるのです。

 そうするとこの大規模な掘割は江戸期に行われたのかどうか?

 これが知りたい。

 この掘割の坂がないと、写真右手の日野台地側から左手の浅川河岸に降りるには比高10mの急崖を降りなければなりません。

 天下の五街道のひとつである甲州街道が江戸を離れて、「都市八王子」に入る寸前のこの場所は、江戸時代の頃は一体どうなっていたのでしょうか?

 このように、普段通る道も良く見ると気になることだらけなので、私みたいな人間はどこを歩いていても、どこを運転していても、飽きることはないのです。

 ちなみにこの手前方向に進むと、八高線の上を渡るのですが、そこの橋には「あかはけ橋」という名前が書いてあります。

 「はけ」というのは多摩地域ではよく聞く言葉で、河畔の崖の意味で、「あか」はおそらく関東ロームの赤土から取って、関東ロームが露出した浅川河岸の崖の近くなので、「あかはけ橋」という名前にしたのではないかと考えています。

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【滝山城跡】ここに来れば仲間がいるよ!【保全ボランティア】

2015-08-16 18:12:41 | 歴史探訪
 今日は「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」のメイン活動である滝山城跡の下草刈りに行ってきました。

 先月行った時はこのブログでもお伝えした通り、直射日光を浴び続けて熱中症寸前になり、掃除の仕事の5倍くらいバテバテになりましたが、今日やった本丸南西側の帯郭は木々が日光を遮ってくれて、前回よりはだいぶ楽に作業をすることができました。

 しかしそうは言っても掃除の仕事の2倍の疲労度です。

 さて今回は、言葉だけでは分かりづらいと思いますので、中田先生が描いた縄張図を元に、どの場所をやったのか説明します。

 まずは全体図!



 で、やった場所の拡大図!



 本丸は北段と南段に2段に分かれていますが、本丸南段③の左側の帯郭の平場および本丸南段との切岸(斜面)で、②の左下まで刈って行きました。

 と言っても、私が参加した部隊でやった場所ですので、もう一つの部隊は別の場所をやっていました。

 そして話は飛んで、ひとまず帯郭の一部を刈って、②の左下方向から③の左下方向を見ます。



 あんまり良く分からないと思いますが、左側の高くなっている場所が本丸で、③の櫓台跡は上図では壁面が南北一直線に描かれていますが、実際に刈ってみるとかなり西側に張り出した感じになっており、上の写真で私がカメラを構えている方向に対して横矢が効いているのが分かりました。

 現場でこれに気付いた中田先生が、この場所を見学者にはっきりと見せたいと考え、この部分の刈り込みに注力したわけです。

 次に見ていただきたいのは、②の左下部分です。

 こちらもやる前は草ぼうぼう。



 写真の斜面の上が本丸南段になります。

 ここを刈ってみると・・・

 何と!

 ただの斜面だと思っていた場所に一段腰曲輪が現れました!



 新しい遺構の発見です!

 これは誰も知らない遺構なので、中田先生の図にも描かれていません。

 あ、でも写真では分かりづらいですね。

 城跡は草を刈ってみることにより今まで知られていなかった遺構が現れることがあり、こういうことも城跡保全活動の醍醐味の一つであります。

 おそらく400年以上前にこの場所を造った人びとの霊も「おーっ、よく発見してくれたね!そこは俺たちが造ったんだよ!」と喜んでくれていると思います。

 ちなみに私が立ってカメラを構えている場所には、石敷きに使ったであろう石が何個か露出しています。



 おそらく数十センチか1メートルくらい掘れば、この下からは石敷きの通路が出てくるでしょう。

 実際、同時期の城で滝山城とも至近にある津久井城では、発掘調査の結果、かなり石敷きが発見されています。

 さて、刈った後に本丸南段に登って上から見下ろしてみることにします。



 右側の高まりが、縄張図の①の場所です。

 ちなみにこの場所に私が登って行く様子をノッチさんが撮影していました。



 前半はこのブログにも度々登場するS源寺さんが刈った草を抱えて捨てに行くシーンで、後半は私が疲労感を漂わせながら重そうなお尻で本丸南段まで登って行く様子が撮られています。

 ところで、そもそも本丸に入るには3つのルートがあり、こちらの方面は、西側の小宮曲輪から侵入してきた敵を防ぐように造られています。

 上の全体図を見ていただいて、小宮曲輪から弁天池の北側を周って本丸を目指す敵は、14番の位置で立ち往生します。

 というのもその場所には普段は連絡用の木橋が架かっていたはずで、いざとなったらそれを切り離し、そうすると敵は深い谷を越えるのが難しくなります。

 それでも何とかそれを乗り越えると、ウネウネと本丸南側を目指す過程で、各段ごとに櫓があり、矢の集中砲火を浴びるのです。

 上の写真に移っている拡大図の①もそうですし、あとは、拡大図の②と③にも櫓があり、これは攻撃側にとっては非常に嫌なはずです。

 ちなみに②の場所はこんな感じです。



 本丸の土塁がこの部分だけ膨らんでおり、かなり大きな櫓が構築できたはずです。

 そして人が立っている場所(中田先生チラリズム)は、今回発見した腰郭になります。

 さて、こんな感じで今日も疲れた分、達成感はいつも以上に強かったです。

 しかし思えば、かつてまだ私が体調が悪かった時、確かその時も夏だったと思いますが、当時の妻と道の駅で弁当を買って滝山城で食べたのが初めての訪問だったのですが、その時も初めて見る滝山城のスケールの凄さにただただ驚嘆し、それから数年経ってまさか自分がその滝山城の保全に加わるとは思ってもいませんでした。

 他の会員の方が、「結局お金じゃないんだよね。皆と会えるから来るんだよね」と話したのはまさしく至言で、そのために私も今日も参加したのです。

 もしこれをご覧の城マニアの中に、先人と同じように城を守ること(合戦で守ると言うことではなく保守をするということ)に興味がある方がおられましたら、是非一度試しにご参加ください。

 この達成感・充実感を一度味わったら止められなくなりますよ!

 ※詳細に関しては、会のノッチさんのブログをご覧ください!

よみがえる滝山城―戦国の風雲をかけぬけた天下の名城
中田 正光
揺籃社


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昨日と今日は久し振りに歴史の研究に没頭できました

2015-08-15 20:48:22 | 歴史探訪
 今日の午後は、八王子研究団体連絡会が主催した「北条五代百年と八王子」という講演を聴いてきました。

 私の所属する「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」も関連していますので、会からは「できれば行ってね」とのお達しがあり、まあ私の場合はそれとは関係が無くても、お題が非常に興味をそそる内容だったので楽しみにして行ったわけです。

 会場に着くと、滝山城の会のメンバーは、N山理事長、O熊先生、S山さん、T橋さん、O森さん、N嶺さんがいらっしゃいました。

 講演内容は2部構成で、第1部が「北条氏は伊勢国造の子孫だった」(大野聖二さん)、第2部が「北条五代百年と八王子」(橋本敬之さん)です。

 橋本さんは伊豆の国市からお越しで、私も同市内の韮山城には行ったことがあるのですが、伊豆の国市と八王子市は歴史的に見てもつながりがあって、とくに私は伊豆のローカルな話が楽しかったです。



 ↑韮山城下の猫ちん



 ↑韮山城から見る富士山

 橋本さんのお話によると、韮山城からはっきりと富士山が見えることは少ないらしく、もしかすると上の写真が撮れたのは運が良かったのかもしれません。

 さて、講演が終わるとたかお食堂でT橋さんとビールを飲んで帰ってきました。

 今日も面白い歴史話ができて楽しかったです。

 しかしそれにしても、たかお食堂には珍しく早い時間帯に若者がたくさん来ていましたね。

 ところで私は、昨日・今日・明日とお掃除が3連休なわけですが、昨日の一日と今日の午前中は時間がたっぷりあったので、久し振りに歴史の研究に没頭できました。

 以前から、蝦夷(エミシ)に関して知り得た最新の情報をまとめたいと思っていたのですが、それが少し進みました。

 といっても、6500文字程度ですが。

 それらの記事は私のホームページである「日本史大戦略」にアップしましたので、よろしければ読んでみてください。

 「エミシの群像」(タイトルはこのブログ内にある記事と一緒ですが内容はまったく異なります)

 第1回 はじめに

 第2回 エミシとは誰か

 第3回 北東北の古代史

 以前からお話している通り、一口に東北地方と言っても北と南ではかなり歴史的様相が異なり、上の話は北東北(青森・岩手・秋田)の話ですので、当該地方出身の方(私も祖父が青森県出身)はぜひ自分のルーツが何なのかを上の話を読んで意識するようにしていただければと思います。

 さて、そんなわけで明日は滝山城跡の下草刈りに行ってきますよ!

 今回ももちろん、体験参加は大歓迎です。

 アポなしのいきなり参加でも大丈夫なので、9時半までに中の丸にお越しください。

 中の丸が城跡の中のどこにあるのか分からない方でも案内図が随所にありますので、まずは身一つ(長袖・長ズボンの動きやすい格好+軽登山靴)でお越しください。

 ただし、飲み物はふんだんに用意しましょう!

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【大塚歳勝土遺跡】一騎打ちの死闘を演じた後は恨みを後世に残すことなく仲良く談笑しました【茅ヶ崎城】

2015-08-08 21:39:52 | 歴史探訪
 本日は、神奈川県横浜市南区にある神奈川県埋蔵文化財センターに出張ってきました。

 いつものごとく、今日は概報をお伝えします。

 ゆっくりと7時20分に家を出て、八王子では横浜線に乗り換えです。



 そして桜木町まで行って、今度は横浜市営地下鉄ブルーラインに乗り換えました。

 実は横浜市営地下鉄に乗るのは初めてです。

 八王子と横浜は近代以降は八王子で生産した絹を横浜港から輸出していた関係があって密接な仲だったのですが、私はあまり横浜方面には行かないので、ついに43歳になって初めて横浜市営地下鉄に乗車する機会を得たわけです。

 そして、阪東橋という初めて知った駅で降りて、横断歩道を渡っていると、前方のビルの自動ドアの向こうに、何か高速でシャカシャカ動くものが透けて見えました。

 よく目を凝らして見てみると、メガネをかけてピンクの手袋をしたおじちゃんが自動ドアを拭いていたのです。

 私と同じ、掃除のおじちゃんですね。

 しかしそのスピードの速さには驚きました。

 今まで見たことが無いくらいの超高速で機敏に屈伸を繰り返しながら柔らかい手首で雑巾を操って窓を拭いているのです。

 私も頑張れば最大瞬間スピードでこれくらいは出すことはできると思いますが、それを継続するのは無理です。

 いわば、短距離走のスピードでマラソンを走るようなものですね。

 うちのお店にスカウトしようかと思いましたが、おそらくこれだけの動きができる人なので、社内でも優遇されていると想起され、1000石くらいの知行では心は動かないと思います。

 さて、そんなわけで神奈川県埋蔵文化財センターにやってきました。

 今日はここで、公益財団法人かながわ考古学財団が主催する「平成27年度考古学特別講座 かながわ考古学財団の調査成果から見た相模の中世城郭 -小田原八幡山遺構群と津久井城跡(本城曲輪群地区)-」が開かれます。

 しかし少し早く着いたので、センター内を見学してみると、1階のエントランスのところにも少し展示があったのですが、3階にまとめてなかなかの優品が展示してありました。



 ところがです。

 この部屋は冷房を付けていないのです!

 扇風機が1台回っていましたが、熱中症対策が叫ばれているなか、省エネのためにエアコンを付けないというのは、ある種、「この暑い環境で展示品を見るだけ、あなたは本気ですか?」と試されているようです。

 そのような昭和40年代みたいな雰囲気のなか、展示品を見て講義の部屋に入ってみると、すでに腕には玉のような汗が噴き出ていました。

 開始時刻になって部屋を見渡すと、聴講者は100人くらいいましたが、珍しく若者が多いです。

 さて、講義内容はタイトル通りで、今日は簡単に感想を述べます。

 小田原城に関しては、現在中世の頃の石積みはあまり無いのですが、支城である八王子城にあれだけの石積みがあるので、本城である小田原城が八王子城以下であるはずがない、というお話を聴いて、「なるほど」と思った後、「いや、待てよ」と思い直しました。

 というのも、後北条氏時代の小田原城の惣構えの総延長は9kmなのですが、八王子城は実はもっと凄くて14kmあるのです。

 ということは、ご隠居の弟である氏照は、実は本家である小田原城を凌ぐものを作ろうと画策していた、いや野望があった可能性があると私は考えたのです。

 そうであれば、小田原城をしのぐスペシャルな外観を八王子城が持っていても良いのでは?と、会ったことのない陸奥守殿が不敵な笑みを浮かべる様子が頭に浮かびました。

 陸奥守、すなわち氏照はもちろん戦国大名北条氏領の一部を任されているわけですが、その権限はほぼ独立大名に近く、本家も基本的には内政に干渉しないのです。

 ですので、そのような超強力な力を持っていた氏照が何を考えるか、いろいろ面白い想像ができるわけですね。

 氏政・氏照・氏邦・氏規は、一般的には仲良し兄弟のイメージがありますが、古文書を丹念に読んでいくと、決してそのようなほのぼのとした感じではないのです。

 もちろん、他の大名家よりも結束は固かった様子はありますが、それでもやはり兄弟のそれぞれが偉くなると、周りにもいろいろな人が集まってきますし、良からぬ考えを抱いても不思議ではありませんね。

 実際、4人のうち、氏邦はまずお母さんが違いますし、氏照もその可能性があり、そうすると4人とも腹違いという可能性もあるかもしれません。

 本城である小田原城は北条領国内ではあまりにも地理的に偏った場所にあります。

 おっと、これ以上はここでは喋りません。

 次の津久井城跡に関しては、地表面ではほとんど石敷きは見えないのですが、掘ってみると石敷きの遺構がかなりあるということに驚きました。

 しかし私が一番驚いたのは、戦国時代の話ではなく、津久井城跡から平安時代の瓦が一点出ているという点です。

 平安時代に瓦を葺ける建物は、国衙や郡家、それにお寺以外にありません。

 役所関係はまず考えられないので、そうするとあの山には古代寺院があった可能性があるのです。

 そうすると、相模原市の古代末期の様子が格段と面白味を増すのです。

 これ以上はここでは喋りません。

 おっと、またか。

 さて、講義の最後には何とサプライズがあり、「ジャンケンで勝ったら発掘調査報告書を無料であげるよ大会」が行われました。

 私は非常にジャンケンに自信が無いのですが、どうしたことか、今日は1対1でのジャンケンを2回勝ち抜いて、3回目の集団ジャンケンでも勝って、「小田原城跡八幡山遺跡群Ⅱ(第2次調査)」を見事にゲットしたのです。
 


 やったー!

 そんなわけで、講義が終わり駅まで戻る途中、駅の近くのすき家に昼飯を食べに寄りました。

 そしてほとんど食べ終わる頃に、一人のお客さんが私の席の隣に来たのですが、何とその方はさっき私と一騎打ちの死闘を演じた方だったのです!

 「おめでとうございます」とその方はにこやかに座り、それから城の話をしました。

 こういう偶然って面白いですね。

 その方は元々山登りから興味が城に行った方なので、普通の城マニアとは違った考えを持っていて面白かったです。

 というのも、「城を見るのは夏が良い」と言うのです。

 普通、城マニアは草が枯れた晩秋以降の遺構の状態がはっきり分かる時期を好むのですが、その方は真夏の樹木の緑色と石垣の黒い影とのコントラストに惹かれるというのです。

 なるほど、見る人が違えば、城跡というのはまた違った魅力があるわけですね。

 今度もっと時間があるときにゆっくりと話したい気分でしたが、20分くらい話をして店を出ると、私はまた地下鉄に乗り、今度はセンター北駅まで行きました。

 せっかく横浜に来たので、以前から行きたかった場所に行くためです。

 その一つ目は、大塚・歳勝土遺跡です。

 大塚・歳勝土遺跡は現在は国史跡の公園になっており、弥生時代中期の集落跡(大塚遺跡)とその墓域(歳勝土遺跡)が復元されています。

 私は以前から述べている通り古墳も大好きなのですが、古墳ができる前のそのルーツとも言えるお墓である「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」にも大変興味があるのです。

 しかしなかなか方形周溝墓を見ることはできず、4年くらい前に八王子市教育委員会の方に、「横浜の大塚・歳勝土遺跡に行けば見れますよ」と教えて頂いていたにもかかわらず、ついに今まで行けなかったのが、ついにこの日、念願が叶いました。



 本物の方形周溝墓の遺構の上に盛土で復元しているのですが、私は感極まり、しばらく方形周溝墓に見とれていました。

 方形周溝墓は、その名前の通り、方形の低い土盛をして、木製の棺に家長の遺体を収めてその中心に埋めます。

 そして周りには溝が巡っているのですが、溝の中には家族を埋葬します。

 当時はおそらく2人の幼児のうち1人は死んでいたと思いますが、幼児の場合は土器に入れて埋葬します。

 歳勝土遺跡は弥生時代中期なので、まだ各方形周溝墓の大きさはそれほど変わらないのですが、後期の遺跡を見ると、その大きさにも違いが顕著に出てきて、ムラの中での格差が大きくなってきたと考えられています。

 ちなみに、方形周溝墓という名称は、大場磐雄先生(故人)が八王子の宇津木向原遺跡で見つけたものを命名したのが始まりですよ。

 したがって、方形周溝墓は八王子市が名前発祥の土地なのです!

 もしあなたが古墳好きであれば、いずれは方形周溝墓にまで興味が行っちゃうかもしれませんね。

 古墳時代の高塚古墳だけを見て満足していてはまだまだです。

 あ、スミマセン、生意気なことを言って。

 さて、方形周溝墓で心の底から湧きあがる喜びに満たされた後は、隣にある同時代の集落跡である大塚遺跡に行きました。

 大塚遺跡は環濠集落なので、土塁と堀を越えて中に入ると、竪穴式住居が林立している姿が眼前に現れました。



 うわー、凄い・・・

 建物の中を覗いてみると、外見はまだ縄文時代チックですが、中には柱があって、梁も渡してあって現在の住居とあまり変わりません。

 そして面白いことにみんな玄関を南に向けているのです。

 しかもムラ長らしき人の建物は一回り大きく、集会所も兼ねていたようで、逆にかなり小ぶりなものもあるので、すでに格差社会は到来していたわけです。

 ちなみに、中世の城郭は空堀の内側に土塁がありますが、弥生時代の環濠集落は空堀の外側に土塁があるんですよ。

 ところで、公園内には私の他、熱心に写真を撮って歩いている方がいたので話しかけてみると、特段歴史に詳しいわけではないけど、買物のついでにフラッと立ち寄ったということでした。

 ただ私と同様、この公園の様子には圧倒されたと仰っていました。

 公園内の最も奥まったところにムラ長の家があったので、その方と話している中で、私は「ムラの一番最奥部に一番偉い人がいたんですね」と話してしまったのですが、後でパンフレットを見てみたら、現在の公園は遺跡の半分くらいの面積だったようで、ムラ長の家の奥にも集落は続いていたようです。

 適当なことを言ってスミマセンでした!

 その方としばらく語り合ったあと、次に向かったのは横浜市歴史博物館です。

 いやー、ここは素晴らしい!

 市の博物館なのに、展示のレヴェルは県立に引けを取りません。



 企画展、常設展ともに面白く、1時間半ほど滞在しました。

 もちろん最後はミュージアムショップに入って、いつものごとく資料を大人買いして散財しました。

 はぁ、明日からまた食費を削ろう・・・

 そして本日の最後は、博物館の南、鶴見川の支流・早渕川を挟んで対岸にある茅ヶ崎城跡です。

 横浜市内ではその面白さでは小机城が横綱級とされていますが、茅ヶ崎城も大関級として有名です。

 ところが今まで行ったことが無かったのですが、地図で場所を確認してみると、幸運なことに博物館の近くだったので訪れることができました。



 こちらも詳細はまた後日アップしますが、4つの郭からなる丘陵上の城で、遺構の残りも良く、公園として整備されているので歩きやすいです。

 ただ、今は真夏なので草が生い茂ってる場所もあって、それは仕方が無いことですね。

 私も滝山城跡の保全をしているので分かりますが、草刈りをしたくても人手が足りずにできないところって一杯あるんですよね。

 でもこれだけきちんと見れるようになっているので、とてもありがたいです。

 ちょうど最後にエントランス部分の説明板を撮影して帰ろうと思ったところでデジカメの充電池が無くなり、今度は「グリーンライン」に乗って中山駅まで移動、横浜線、ついで中央線を乗り継いで高尾まで戻ってきて、お腹がペコペコだったのでたかお食堂で中瓶を一気に空けて、大好物のカレーを食べて今日も無事に死なずに済みました。

 明日も掃除は休みだ、わーい、と思いたいところですが、夜は歯医者に行って歯石取りをするのでちょっと憂鬱です。

 歯石の除去って痛いんだよねえ。

 史跡の翌日は歯石。

 いや、このダジャレの方が痛い。

 ※後日註

 2017年11月18日(土)に、クラブツーリズム主催で、大塚歳勝土遺跡を探訪するツアーが催行されます。



 このチラシの右下のがそうです。

 他に、海老名市の秋葉山古墳群や相模国分寺跡などもめぐりますよ。

 興味がある方は、下記リンクからどうぞ。

 ⇒クラブツーリズムの公式サイト

 なお、総社古墳群&大室古墳群のツアーは満員御礼で無事終了し、邪馬台国のツアーもすでに満席となっており、みなさんに感謝しております。


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「日本史大戦略」に河越館および上戸陣をアップしました

2015-08-02 21:00:08 | 歴史探訪
 昔は、明日が仕事が休みだと、夜更かしをしてリラックス気分を味わっていましたが、最近は早寝早起きさんになってしまったので、昨日も22時半くらいには寝てしまい、今日は目覚まし時計のセットをしなかったのにもかかわらず、5時半に起床してしまいました。

 今はむしろ、休日の早朝に起きて、その日は何も用事が無かったりすると、「今日はこれからたくさん自由時間がある!」と思い、とてもワクワクするのです。

 しかしそれでも、一日中家にいると必ず午後は昼寝をします。

 ゆっくり昼寝ができるというのも、これまた最大の贅沢ですね。

 さて、今日の夕方は、去る1月23日に行ってきた川越探訪の続きをアップしました。

 もう探訪から半年以上経ってしまった!

 今回は、河越館および上戸陣です。



 河越館跡は、現在は国史跡となり史跡公園として整備されています。



 平安時代の終わりごろ、秩父平氏がこの地に進出してきて河越氏を名乗り、1368年に河越氏は滅亡するのですが、戦国時代の「長享の乱」では、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するための最前線の基地として、いわゆる「上戸陣」を構築します。



 それら各時代の遺構が残っており、なかなか見ごたえのある史跡公園ですよ!

 よかったら、「日本史大戦略」内の河越館および上戸陣をご覧ください。

 さて、今後の予定はこの日に探訪した常楽寺・川越氷川神社・川越城をアップし、

 ・2月1日 高坂館跡(埼玉県東松山市)と稲荷塚古墳(嵐山町)
 ・2月14日 柏原城跡(埼玉県狭山市)
 ・2月28日~3月1日 安土城跡と観音寺城跡
 ・3月14日 忍城とさきたま古墳群(埼玉県行田市)
 ・GW 上野国(群馬県)探訪

 という具合に、まだまだたくさんアップが控えています。

 秋になったらまた史跡探訪活動が活発化すると思いますので、それまでにはアップしたいと思います。

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