日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【浄福寺城跡】手に手にカマやノコギリを持った山岳武装集団と行動を共にしてきました【八王子が誇る山城】

2014-09-23 12:15:11 | 歴史探訪
 ここにあった記事は、こちらに移動しました。










御城コレクション

御城コレクション









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一歩間違ったら傷害罪で捕まるところでした

2014-09-19 20:05:08 | 歴史探訪
 一昨日の水曜日は、珍しく平日休みになったので、午前中はいつものごとく朝早く起きて歴史をやって、11時15分に家を出て自転車を走らせました。

 最初に向かったのは、西八王子の図書館の並びにある「いっしん」です。



 隣の隣は、いつも行列ができている有名な「吾衛門」ですが、私のラーメン好きの同僚(私の10倍くらいラーメンに詳しい)からは「あそこのラーメンなんてカップラーメンレベルだ」との酷評を受けています。

 しかしやっぱりそれは大げさで、食べるとそれなりに美味しくて、行列ができるのも頷けます。

 でも私はやっぱり「いっしん」の「辛味噌ラーメン」が大好きです(その同僚も私と同じく好きです)。

 「吾衛門」の行列の横を颯爽と駆け抜け、「いっしん」の前に「キュッ」と自転車を留めて、衆目の中、ためらうことなく「いっしん」に入る自分のダンディズム。



 「いっしん」の「辛味噌ラーメン」は、写真の通り(写真は大盛り)、中央に辛味噌が載っており、それをお好みで溶かしながら食べるのですが、もちろん私は全部混ぜます。

 「いっしん」の「辛味噌ラーメン」は、私が幼少のころに大好物だった近所のラーメン屋の味噌ラーメンにどこか似ており(もちろんそれは辛味噌ではありませんでしたが)、そんなこともあり、この優しい味の味噌ラーメンは、府中の「かなで紅」の「鬼紅ラーメン」と並んで、私にとっては味噌ラーメンの二大巨頭になっています。

 激しいのが食べたい場合は「鬼紅ラーメン」で、優しい「辛味噌」が食べたい場合は、「いっしん」というわけです。

 さて、そんな美味しい辛味噌ラーメンを食べた後は、八王子市立郷土資料館を目指しました。

 途中、信松院があります。



 武田信玄の四女・松姫(信松尼)が開いたお寺です。

 今日は境内には入りませんが、中の墓地には信松尼の墓がありますよ。

 ちなみに、松姫は現在は「松姫マッピー」というゆるキャラで活躍しています。

 信松院を過ぎるとすぐに郷土資料館に着きます。



 郷土資料館では現在、『土偶』という企画展をやっており(28日まで)、それを見るのが目的です。

 土偶の展示は、「井上コレクション」という、地元の在野の考古学者だった故・井上郷太郎氏が資料館に寄贈した遺物からの選抜です。



 井上氏は陶芸家で、戦前からかなりの考古遺物を収集していましたが、それらが一旦空襲で焼けてしまった後も再び全国に採集に出掛けていました。



 今回の展示の量は思ったより少なめでしたが、上の写真のような面白い土偶が見られて良かったです。

 ちなみに、いつも展示してある楢原遺跡出土の「土鈴ちゃん」は、今日は他の場所に出張中でいませんでした(残念!)。

 なお郷土資料館では、以前発売して好評だった、八王子城跡の解説書『八王子城』を改訂してページを増やしたものが売っていますので、八王子城に興味がある方は是非お求めください(A5版/152ページ/フルカラー/定価550円<税込み>)。

 (現地に行かれない方には、八王子市立郷土資料館のページに通販で手に入れる方法が書いてあるのでお読みください。)

 さてこの後は、元来た道を戻り、さっきの「いっしん」の並びの中央図書館へ行きました。

 しかし図らずも、ここで私は大変不愉快な思いをしてしまいました。

 2階の郷土資料コーナーで調べ物をしていると、少し離れたコピーコーナーから、男と女性職員が何かを問答しているのが聞こえてきたのです。

 聴いていると、どうやらその男が持ち込んだ本を図書館のコピー機でコピーしようとしたところ、女性職員に見つかって、コピー機は館内資料しかコピーできないと注意されたことに対して、「何でコピーしちゃいけないんだ?」と言いだし、揉めているようです。

 女性職員は、「そういう決まりになっていますから」と説明するのですが、男は、「どういう経緯でそうなったのか理由を教えてください」とか、「お金を払うんだからいいじゃないですか」とか、なんだかずっとゴネています。

 女性職員が「大学の図書館も含め他の図書館でもそうなっているはずです」と言うと、「本当にそうなのか断言できますか?」と言って食い下がります。

 5分くらいでしょうか、ずっとそれを聴いていた私は、徐々にムカムカしてきて、自分もちょうどコピーをする準備が整ったので、コピー機のところに行き、その男に向かって「どこの図書館でもそういう決まりになってんだよ!!」と怒鳴りつけました。

 済みません、最初からケンカ腰でした。

 するとその若い大学生風情の男は、「そういう決まりになった経緯を知りたい」とのたまったので、「そんなことはどうでも良いんだよ!!」と凄んであげました(今振り返ると、私の方が頭が悪い感じ^^)。

 男はさっきは「図書館の責任者を呼んできて説明させろ」とまで言って、女性職員を困らせていたのですが、ヤバイおっさんが来たと思ったのか、「責任者の方を呼ぶと図書館の方にもお手数をおかけすると思いますので、そういう決まりと言うことで分かりました・・・グニャグニャ」と言って消えていきました。

 女性職員からは「ありがとうございました」と言われてしまいました。

 私も口の利き方が乱暴で申し訳ないです。

 あ、でも男に対して手が出なくて良かったです。

 私は短気なので(別に威張れることではありませんが)、「問答無用に背後から飛び蹴り」というシチュエーションもあったかもしれませんが、そうなった場合、私も図書館に出入り禁止になるので、そうならなくて良かったです。

 いや、下手すると傷害罪か。

 テキサスの男は、腕力でカタが付く問題で口喧嘩はしないのです。

 済みません、意味不明です。

 しかしまあ、グニャグニャごねているヒマがあったら、図書館の向かいのセブンに行って、図書館のコピー機よりも高性能なセブンのコピー機を使えば済むのに、そうしなかったのは、もはや女性職員を泣かせるのが目的になってしまったからだと思われます。

 本当にいやらしい奴だ。

 そんな感じで、不愉快な気分で図書館を出ると、甲州街道(国道20号)を高尾に向けて自転車を走らせました。

 お掃除の仕事を始める前は、西八王子から高尾まで続く微妙な緩い登り坂がかなり太ももに堪えたのですが、今日は全然大丈夫です。

 やっぱり筋力が付いているのですね。

 しばらく走ると斜め右に入るところがあります。



 斜め右に入る方が江戸期の甲州街道で、往時は千人同心の屋敷があり、現在でもご子孫の方が住んでいます。



 でも今日はまっすぐ進みます。

 すると右手に原宿町会の会館があります。



 江戸初期(多分戦国時代から)、このあたりは上椚田村の範囲でした。

 ところが、上椚田村は広大だったのでそれをさらに3つに分割し、その1つが原宿です。

 原宿にはそのもの「原宿」という小字があり、現在でもこうやって町会名で残っているのです。

 会館の建物の左部分は「薬師堂」で、元々ここには、『新編武蔵風土記稿』に出てくる「家徳庵」がありました(『わがはらじゅくをみなおそう』)。



 そして会館の庭には石造物が並んでいるのですが、今日は入口が閉まっていて入れません。



 さて、原宿会館を出て自転車を漕いで少し行くと、甲州街道と鎌倉街道が交差している地点に出ました。



 鎌倉街道は字の境で、向こう側は「原」という小字です。

 現在でも狭い道ですが、往時はこの程度でも広めの道だったそうです。



 高尾方面に向かって右手の浅川方面(北方向)は以前このブログで少しご紹介したので、今日は上の写真の道路、つまり左側(南方向)に入ってみましょう。

 少し走ると、中央線の高架下をくぐります。



 しかしトンネルを出るとすぐに行き止まり(T字路)になっています。



 写真の草地は、今は亡き、沖電気の工場の跡地です。

 ここの沖電気では私は半導体のマニュアル作成の仕事をしたことがあり、元妻も働いたことがあるので、現在の草原と化した工場跡地を見ると、まさしく「つわものどもが夢のあと」という想いがこみ上げてきます。

 そんなわけで、元来た道を戻ると、往時、騎馬隊が疾駆した道を現在は地元の人たちの自転車が駆けていました。



 そしてこの頃には、さっきの図書館での不快な出来事はもう忘れていたのでした。








御城コレクション

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【「石川入口」から八王子駅まで】江戸期以降戦後間もない頃までの甲州街道を歩いてみました

2014-09-17 18:52:35 | 歴史探訪
 昨日はお掃除の終業が15時半だったので、いつもはバスに乗って帰るところを、最近知った江戸期の甲州街道を歩いて八王子駅まで行ってみようと思いました。

 最近はお掃除に行くのにもコンデジを持って行っています。

 多くの人はスマホで済むと思いますが、私はガラケーなので、写真を撮ったら一々メールで自分のPCに送らなければならなくて、手間もお金も掛かるので、先日思い切って型落ちで安くなっていたキヤノンのコンデジを買ってみたわけです。

キヤノン IXY 120(ブラック)
 
キヤノン


 あ、ちなみに私は昔、キヤノンのプリンターのソフトを作っていましたが、キヤノンは「キャノン」じゃないですよ。

 「ヤ」は大きい「ヤ」です。

 これは重要なので、よくよく憶えておいてください。

 さて、それはそれとして、まずはお店を出た後、甲州街道まで来ました。

 「とうふ屋うかい」がある「石川入口」交差点です(八王子には「うかい」という高めな食事処があって、それの豆腐料理専門店が「とうふ屋うかい」です)。



 写真は石川方面に向けて撮っており、左の八王子方面と右の日野方面を繋いでいるのが甲州街道です。

 写真でも少し斜めっていますが、ここはまだ坂の途中で、正面の緑のあるところが高くなっているのが分かると思います。

 つまり現在の甲州街道は浅川の河原に下りる坂を作るために、道路の部分を掘りこんでいるのです。

 明治42年の地図を見ると、すでにその時点で掘りこみは作られていますが、当時はまだそれほど掘りこみは深くなかったようで、今のように一直線で段丘の下まで降りておらず、少し曲げて坂道を作っています。

 ではここで、いったん現在の地図をご覧ください。



 右上の方に「石川入口」交差点がありますが、そこがこのページのスタート地点です。

 それでは、横断歩道を渡って八王子方面へ向かってみましょう。



 写真中央の白い建物が崖の上にあるのが分かります。

 浅川の河岸段丘の段差です。



 こちらの写真の中央のガードレールの向こう側も段差になっています。

 八王子方面に向かって右手の段丘上には日枝神社があります。



 石段を登ってみましょう。



 この日枝神社の創建時期は不明ですが、江戸時代末期に編纂された『新編武蔵風土記稿』によると当時は上大和田村の鎮守でした。

 上大和田村は現在の大和田町4丁目から7丁目の範囲で、村の中心地から見ると日枝神社は段丘を登った上に位置し、まさしく崖の上から神様が村を見守っているという構図になり、日枝神社は村の境に位置し、当時は日枝神社境内から東側はほとんど荒野であったと考えられます(明治以降は一面の桑畑になりました)。

 日枝神社から甲州街道に戻り、少し歩くと今度は「大和田町四丁目」交差点に来ました。



 ここでまた甲州街道を対岸に渡ります。

 「ルート16」のバイパスのガードをくぐってすぐに、左側に入る道が現れます。



 実は、江戸期の甲州街道はここを左に向かう道がそれだったのです。

 しかも江戸期と言わず、戦後間もないころまでは左側が甲州街道で、その頃は、さきほどの「石川入口」交差点から下りてくる坂もまだ一直線になっていませんでした。

 現在の道になった正確な時期は私は知りませんが、昭和42年の地形図を見ると現在と同じ道になっています。

 それでは江戸期から戦後間もない頃までの甲州街道に入って行きましょう。



 道の両脇にはお店もチラホラあります。

 明治42年の地形図を見てもここの道路の両脇は市街化されているので、古くから栄えていた通りなのでしょう。

 ちょっと歩くと水路もありました。



 前方には現代の甲州街道が見えてきました。



 ここの区間は400メートル弱で、大和田橋のたもとに通じています。



 大和田橋は多摩川の支流・浅川に架かる橋で、明治38年に木造の橋が架けられ、ここが八王子の街への入口となっていました。

 下流方面を見てみます。



 この大和田橋は、私は仕事では毎日のように車で通っていますが、実は歩いて渡るのは初めてです。



 横断歩道を渡って、上流側を渡ってみることにします。

 おっとここで説明板を発見。

 それによると、昭和20年8月2日の八王子空襲の際(B-29が180機来襲した)、大和田橋の下に避難した人びとは助かったそうです。

 大和田橋の上には、焼夷弾が落ちた跡が17箇所残っており、その場所が分かるように歩道にマーキングされているそうです。

 なるほど、ありました。



 そのうち、上りと下りの各1箇所は、透明板で覆って実際の弾痕が見られるようになっていますが、水滴が溜まっていてよく見えません。



 しかし、いつも通る大和田橋が戦争遺跡であったとは知りませんでした。

 八王子空襲の酷さは、市街地のお寺に行って話を伺うとよく聞きますが、旧市街地の80%が焼けて、死者450名、負傷者2000名という被害を出したそうです。

 浅川の上流を眺めると、あいにく今日は霞んでいて多摩地域のシンボルである大岳山と御岳山は薄らと見える程度です。



 大和田橋を渡ると、「大和田橋南詰」交差点があります。



 現在の甲州街道はここをまっすぐ行きますが、往時はここを右折して、現在の「北大通」を進んでいました。



 現在はビルが建っていて見えませんが、昔はこの道の先に大岳山が見えたはずです。

 なお、この辺は「八王子横山十五宿」の1つである「新町」の範囲で、「竹ノ鼻」という小字でした。

 『新編武蔵風土記稿』によると、河原に処刑場があったそうです。



 その正確な位置は分かりませんが、この辺りの河原で何人もの人(冤罪もあったかもしれない)の首が落とされたわけです。

 さて、「北大通」を少し進むと五中のところから左に斜めに入って行く道があります。



 こっちの斜めの道が江戸期から戦後間もない頃までの甲州街道です。

 そこには、「竹の花(鼻ではなく花)公園」があり、江戸期には一里塚がありました。



 公園脇には新町の鎮守であった永福稲荷神社があり、境内には江戸中期に活躍した八王子出身の力士・八光山権五郎の石像があります。



 説明板によると、八光山権五郎は絹問屋の跡取りでしたが、身長191センチという恵まれた体躯をしており、仕事の傍ら相撲をとっていました。

 当時は現在の日本相撲協会のような組織はなく、力士たちは全国各地で勧進相撲が行われるのを聴きつけると、自腹を切って会場まで行って相撲をとっていたのです。

 八光山権五郎の向かうところ敵はなく、ついに天皇から御杯と錦のまわしを賜るに至りました(具体的に何天皇であったかは書かれておらず、昭和28年に発行された『八王子の史蹟』(八王子市教育委員会)によれば「将軍家」から御杯を賜ったとある)。

 八光山権五郎は、旅立ちの際には必ずここ永福稲荷神社に参拝し、また帰郷した際は勧進相撲を奉納していたということで、江戸期に至っても相撲には神事の面影があったわけですね。



 いやー、それにしても先日「発掘された日本列島2014」で、今城塚古墳の力士の埴輪を見てから、なんだか相撲づいていますね。

 それにしても江戸時代の八王子に現在の横綱級の力士がいたとは知りませんでした。

 街歩きは新しいことを知ることができて、本当に面白いですね。

 公園では多くの子供たちが遊んでいて、なかなか最近は見ない光景だなと思いました。



 さて、道路に戻って進むと、すぐにT字路が現れます。



 大正時代にT字路になりましたが、それ以前はここを直角に左に曲がる道しかありませんでした。

 では、左折します。



 いよいよ中心街の趣きになってきました。



 そして、現在の甲州街道に出ました。



 ここを右折すると、甲州街道は西に向かって続いていきます。



 右手には市守神社があります。



 江戸期、八王子では毎月4の日と8の日に市が開かれたのですが、市守神社はその名前の通り、市場を守る神様です。

 江戸中期には大鳥神社も配祀され、現在でも酉の市が行われています。

 はい、「八王子駅入口」交差点に到着。

 左を向くと八王子駅が見えました。



 ここまで「石川入口」交差点を出てから約45分の道のりでした。

 さて、そんなわけで、ここまでわざとジュースを我慢して、異様にビールが飲みたい状態を作りだしていた私は、このあと高尾駅の「KUU」でタイムサービスで半額になっていた中生を3杯飲んで家に帰りました。

 「たかお食堂」が開いていれば良かったのですが、火曜日は定休日なので、久しぶりに「一人居酒屋」をしたわけです。

 でも45分で店を出てしまいました。

 今日はとても小さな歴史めぐりでしたが、規模の大小を問わず、歴史めぐりの最後は「飲み」で〆ないと気が済まないのだ!







 

御城コレクション

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【日本100名城】八王子城跡探訪(一)宗関寺・氏照墓/2014年9月14日【戦国北条氏】

2014-09-15 22:38:41 | 歴史探訪
 前回の記事で、登山用のズボンとTシャツを買って来たことをお話しましたが、昨日の日曜、早速それらを着こんで八王子城跡へ行ってきました。

*    *    *


 目覚めると9時を少し過ぎている。

 ちょっと寝坊だな。

 外からはセミの声がかまびすしく聞こえるし、天気も上々、まさしく秋晴れなので、ちょっと出遅れた感があるけど、八王子城跡へ行ってみようかな。

 そんなわけで、資料等の準備をして、ママチャリのタイヤに空気を入れたら早速出発だ!

 時刻は10時20分。

 まずは高尾駅北口のファミマでおにぎりとサンドイッチと缶コーヒーを購入。

 八王子城跡へは車では行ったことがあるけど、自転車で行くのは初めてだ。

 距離的には八王子駅に行くより全然近いが、何しろ途中山を越えなければならないので、それがちょっと大変そう。

 さっそく廿里の山の登り坂で自転車を降りて押して登る。

 しかし峠を越えれば今度は下り坂なので自転車なら超ラク。

 でも城山大橋の交差点を左に入ると、すぐに緩い登り坂になる。

 今度は降りずに頑張って漕ぐ。

 汗をたらしながら漕ぎ続けると、中央高速のガード下の「霊園前」バス停に到着。

 ちなみに、八王子城跡へは土・日・祝は高尾駅北口から城の入口までバスが出ているが、それ以外の日は同じく高尾駅北口からここ「霊園前」に止まるバスが走っているので、それに乗ってここで降りて歩いて行けば15分くらいで城の入口まで行ける。

 「霊園前」バス停のすぐ北側の八王子城跡入口交差点を左折すると、西に向かってまっすぐな道が延びている。



 ところで、八王子城の戦いの際は、前田利家を大将として、真田昌幸や松平康貞らがここを通過している。

 八王子城研究で著名な高尾在住の前川實さんが著した『決戦!八王子城』によると、八王子城攻めは夜中に始まった。

 天正18年(1590)6月22日の22時過ぎ、四谷(八王子市四谷町)に本陣を構えていた利家ら大手攻撃軍は物々しく進軍を開始した。

 現在の高尾街道沿いを南西に向かったのである。

 そして途中、濃霧のため一時行軍を停止したが、翌23日になったころ、現在の「石神坂」バス停辺りにあった大城戸で北条軍との戦いの火ぶたが切って落とされた。

 1時間ほどの激闘の末、大城戸を破った利家らは、横山宿や南北八日市宿に放火しながら突き進み、砦化されていた現在の梶原八幡宮からの反撃をはねのけ、ちょうどこの辺りにあった中宿大手門に攻撃を仕掛けたのである。

決戦!八王子城―直江兼続の見た名城の最期と北条氏照 (揺籃社ブックレット 6)
前川 實
揺籃社


 この道の南側には道に並行して城山川が流れ、また北側にもやはり道に並行して小さな流れがあるので、それらが天然の水堀となり、ここから先を細い通路状にしている。

 緩い登り坂を5分ほど漕ぐとバス停がある。



 土・日・祝のみのバスが止まる「八王子霊園南門」バス停で、終点の一つ手前になるが、もしバスで八王子城跡へ行くのなら、ここで降りることをお薦めしたい。

 というのは、このバス停以降、見どころが増えるからだ。

 バス停のすぐ西側の道路は食い違いになっている。



 こういう道路の作りは、全国の戦国時代から近世にかけて作られた城下町でよく見られる光景で、わざと道を屈曲させることによって、攻めてきた敵の勢いを減じることができ、足の止まった敵に対して集中砲火を浴びせることができる。

 上の写真でも道に対する面が少し高くなっているのが分かるが、そこの高まりは土塁の跡で、横地堤と呼ばれ、現在は宗関寺の境内となっている(横地堤の名前の元になったと考えられる横地監物吉信については後述する)。



 曹洞宗・宗関寺は朝遊山と号し、『八王子市史 下巻』(P.1429~30)によると、永禄7年(1564)に下恩方の心源院6世・卜山舜悦(歴代の住職の中でも傑僧として知られる)が開山となり、北条氏照が開基となって建立されたというが、八王子市ホームページ内「八王子市の名前の由来」によると、宗関寺には次のような記録が残っているという。

 延喜13年(913)の秋、京都から妙行(みょうこう)という学僧がこの地にやってきて、深沢山(後の八王子城)の山頂で修行をしていたところ、牛頭天王が8人の童子を引き連れて現れたので、さらに修業を積んだ妙行は、延喜16年(916)に深沢山を天王峰とし、周囲の8つの峰を八王峰と呼び、それぞれに祠を建て、牛頭天王と八王子を祀る八王子信仰を始めたという。

 そしてその翌年、深沢山のふもとに一寺を建立し、それが宗関寺の元になった寺とされる。

 それからしばらく経った天慶2年(939)には、妙行はその功績により朱雀天皇から「華厳菩薩」の称号を贈られ、寺名も「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改め、深沢山にある八王子神社の神宮寺となった。

 その寺が数百年の時を経て、荒廃していたのを氏照が永禄7年に中山勘解由家範に命じて堂宇を建立させ、2年後の永禄9年に心源院の卜山舜悦を開山として曹洞宗寺院として再建させ、当初は現在地より西に500mほど行った、現在の氏照墓地近辺にあったのが明治25年に現在地に移ったという。

 さて、宗関寺が新たに開基された頃、氏照はまだ20代半ばの青年武将である(氏照の生年に関しては確定されていないが、天文9~11年<1540~42>の生まれとされる)。

 北条氏は永禄6年には三田谷(現在の青梅市)周辺に勢力を張っていた三田綱秀を滅ぼし、その地域は氏照の支配下となっており、翌年の正月8日には、下総国府台(千葉県市川市)にて、房総の覇者・里見義弘と第二次国府台合戦を戦っている。

 第二次国府台合戦では氏照も大いに活躍し、氏照の御馬廻衆・小田野源太左衛門尉周定らは氏照から感状が与えられた(「佐野家蔵文書」永禄7年2月28日付け「北条氏照感状写」ほか)。

 氏照はこの頃には、大石氏の婿養子になったときから住んでいた浄福寺城を出て、滝山城に移っているので、新たな領域支配の一環として宗関寺を開基したのだろう。

 宗関寺の場所より西側は、根小屋地区と呼ばれ、国史跡の範囲に含まれており、往時は家臣団の屋敷地であった。

 ところで、中宿大手門を突破した利家らは、ここにあった横地堤大木戸にて北条勢と激戦となったが、やがてここも突破して根小屋地区になだれ込んだ。

 そして午前3時頃には後で出てくる管理事務所の東側にあったとされる、近藤出羽守助実が守る山下曲輪へ攻めかかった。

 山下曲輪への攻撃は3時くらいだということなので、高尾街道の「石神坂」バス停付近で戦いが始まってから、約2.5km進むのに3時間も掛かっている。

 天下にその名を轟かせている利家・昌幸らが率いる「プロ」の兵士たちに対して、合戦経験で劣る農民主体の北条勢はかなり敢闘したと思う。

 よく「八王子城は1日で落城した」と言われているので、呆気なく落ちたと思っている人もいるかもしれないが、以降の解説でもお話しする通り、上方軍はかなり苦戦したのである。

 しかし結局は上方軍はプロ集団なので、臨機応変に策を練り、武将たちも指揮が上手であり、何よりも数の上でも有利だったので、最終的には「1日で落城」ということになってしまった。

 さて、話が先走ってしまったので、現在地まで戻そう。

 根小屋地区に入り、5分も漕がないうちに氏照の墓への標識があった。



 良く見ると、「八王子城址歴史資料舘」という錆びた看板もあり、昔はこちらに資料館があったようだ。



 ここで自転車を降りて、歩いて山へ向かって行く。

 少し歩くと山へ登る階段があった。



 登り口に柵がしてあるのは、通行止めということではなく、「二輪車は登るな」ということだった。

 こんな階段を自転車やバイクで登って行く人がいるのだろうか?

 3分ほど息を切らせながら階段を上ると、頂部に墓域が現れた。



 その正面中央が、氏照の供養塔だ。



 氏照重臣・中山勘解由家範は、八王子城の戦いの際に奮戦して討死してしまったが、その武勇が称賛され、孫・信治は水戸藩の家老職となり、氏照の100回忌追善法要の際にこの供養塔を建てた。

 供養塔の裏には氏照の戒名「青霄院殿透岳宗閑大居士」が刻まれており、向かって右側に「本室宗無居士」と刻まれている墓は家範の墓、左側の「中山道軒居士」と刻まれている墓は、信治の墓である。

 また、氏照の供養塔と信治の墓に挟まれた五輪塔は、これも落城の際に討死した金子三郎左衛門家重の墓といわれる。

 なお、氏照の墓は同時に自刃した兄・氏政の墓とともに小田原にもある。

 墓域は、移転前の宗関寺の観音堂跡(あるいは墓域跡)ということだが、墓石や自然石のようなものが散乱しており、少し荒れている感じがする。

 

 その中に、一際目立つ宝篋印塔がある。



 この宝篋印塔は、八王子城跡ボランティアガイドの会によると、先ほど出てきた、宗関寺の元の寺を開いた妙行(華厳菩薩)の墓だとされているようだが、平安時代中期に宝篋印塔はまだ作られていないはずだ。

 なので、もし妙行の墓だとしたら、中世になってから改めて建立された墓ということになる。

 さて、元来た道を戻り、自転車にまたがり2分も漕ぐと、右手に「国史跡八王子城跡ガイダンス施設」が現れた。



 2年ほど前にできた新しい施設だ。

 ”「北条五代」を大河ドラマに!”と書かれた幟が立てられており、私もその実現を心待ちにしている一人である。

 来年は北条氏康ならびに綱成の生誕500年なので、来年こそ大河ドラマ化にふさわしいと思っていたが、残念ながらまだまだ実現の道は遠そうである。

 ガイダンス施設の中は、こじんまりとした資料館になっており、八王子城や北条氏の歴史についてボードや映像で紹介している。



 多分、城跡内の他のトイレよりもここのトイレの方がきれいなはずなので、特に女性はここでトイレを借りてから山に入って行った方が良いかもしれない。

 ガイダンス施設を出ると、その西側は駐車場になっている。

 駐車場自体、整備されたのは八王子城が「日本100名城」に選出されてからだったと思う。

 普通車は50台駐車でき、大型バスも4台駐められるそうなので、車で来る人も安心して来れる。

 今日は日曜日なので結構車が止まっているが、まだ少し余裕がある。

 なお、この駐車場の向かいにある自動販売機が道すがら最後の自動販売機なので、もし飲み物を持ってくるのを忘れてしまった人はここで買って行こう。

 八王子城跡がある深沢山は標高446mの低い山だが、一応登ると喉も渇くので、飲み物は必携である。

 道路に出ると、その深沢山が正面に屹立していた。



 あそこに登るんだよ!

 (次回に続く)



 

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青森県八戸市から恋人が上京してきたので会ってきました

2014-09-06 16:37:11 | 歴史探訪
 青森県の八戸市から、私の心の中の恋人が上京してきました。

 そのため、朝から彼女に会いに隅田川のほとり、両国まで出張ってきました。

 しかし実を言うと、毎年恒例の要件で両国まで行ったことにより、偶然彼女と遭遇したというのが事実であります。

 それでは、彼女をご紹介します。





















 風張1遺跡からお越しの、合掌土偶さんです。



 彼女は現在、「国宝」という役職に就いているのですが、いつもは八戸市の「八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館」に勤務しています。

 忙しい中、わざわざ東京までやってきたわけです。

 何の用で東京に来たのかというと、『発掘された日本列島2014』に出演するためです。



 『発掘された日本列島』には、私は原始時代に興味を持った2010年から毎年来ており、今年で5回目の訪問です。

 思い返すと、その中で一番面白かったのは2010年で、関連する書籍を販売するコーナーも設けられて、私も土偶の本などを買って帰りました。

 2011年以降、震災の影響があって少し寂しくなった感がありましたが、今年はまた盛大な感じになりました。

 合掌土偶さんの出演が私的には一番嬉しかったのですが、継体天皇の墓の可能性の高い今城塚古墳からやってきた、力士の埴輪くんも初対面でしたがすぐに仲良くなりました。



 古墳時代って、栄養状態があまり良くなかったと思いますが、やっぱり当時から体格に恵まれた人っていたんですね。

 それにしても、良い表情です。



 彼には是非、東京に来たからには、国立市発祥の「すた丼」を食べさせてあげたいです。

 絶対気に入ると思いますよ!

 今回は、20周年記念ということで、他にも北海道の白滝遺跡群出土の巨大な黒曜石の塊とか、佐賀県の吉野ケ里遺跡出土の甕棺とか、各地の有名遺跡から出土した素晴らしい遺物が大集合していて、やっぱり著名な遺物は見る者を圧倒するんだなあと思いました。

 ところで、「発掘された日本列島2014」の展示とは別に、新宿区の市谷加賀町二丁目遺跡で発見された縄文人骨などを紹介するコーナーもあって、それの復顔も展示してあります。



 5000年以上も前の人ですが、現代人となんら変わらない顔立ちですね。

 彼の母系の先祖はDNA鑑定によるとシベリアから来たそうです。

 ちなみに、上記の遺跡については新宿区のホームページで動画付きで紹介されているので、ぜひ見てみてください。

 ⇒こちら

 さて、そんなわけで1時間くらい見学して、図録を買おうと思ってミュージアムショップに行ってみると、なんとここにも合掌土偶さんの勢力が及んでいました。



 なんと、彼女は「いのるん」ちゃんという芸名で活動もしていたのですね。

 いやー、私がサラリーマンだったら、このネクタイ買っていたと思います。



 そんなわけで、今年も「発掘された日本列島」は面白かったです。

 午後は国分寺に用があったので、久しぶりに「旬助」で濃厚味噌つけ麺(+「4辛トッピング」)を食べて、駅ビルの上で地形図を買って家に戻りました。

 すると、発送をお願いしていた『多摩のあゆみ』のバックナンバーが届いていました。

 『多摩のあゆみ』のバックナンバーについては、過去にこちらで書きましたが、今回はさらに、前回よりも古いものを23冊お願いして、在庫があった分の12冊を送っていただくことができました。

 これから読むのが楽しみです。

 そろそろ風呂を沸かして、風呂からあがったらビールを飲みながら夕飯を食べて、その後はアイスを食べて歴史をやる、というのが今日のこれからのスケジュールです。






御城コレクション

御城コレクション






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