日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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高尾駅北口の町づくりの礎となった設楽杢左衛門の南浅川治水工事

2014-02-16 13:35:25 | 歴史探訪
 今日のお昼は、「香味屋」に行ってきました。

 香味屋は、我が家から一番近いラーメン屋で、八王子ラーメンのお店です。

 基本メニューの「らあめん」(八王子ラーメン)もとても美味しいのですが、今日はつけ麺(+半ライス)を食べました。

 つけ麺も醤油スープで、かなりナイスなのです。

 他ではなかなか食べられない本当に純粋な醤油のスープで、チャーシューも醤油が染みていてコクがあり、とても美味しいです。

 チャーシューとご飯の相性がまた抜群!

 最後にスープを割って飲みますが、これがまた味わい深くて美味しいのです。

 冬は身体が温まります。

 さて、今日は今までで一番ローカルな話をします。

 香味屋や我が家がある高尾駅北口地域の歴史です。

 古代の頃はこのあたりは南浅川の氾濫原なので、おそらく人は住んでいなかったと思いますが、領域的には先日お話した『和名類聚抄』の川口郷の範囲になります。

 中世のころは現在「初沢城跡」と呼ばれている城が「椚田城」と呼ばれており、このあたりは椚田という地名だったようです。

 ただし、椚田はかなり広範囲な地名なので、ピンポイントでこの地域がどう呼ばれていたかは分かりません。

 室町時代の頃になると、南浅川の河岸ということで、川原村と呼ばれていたようです。

 ようやくその頃から人が住み始めたのでしょうか。

 当時の南浅川は現在の流路と違いました。

 現在は両界橋の南の方から北流して、白山神社の麓にぶつかるとそこから東流していますが、当時は両界橋のあたりから東流し、高尾駅のすぐ前あたりを流れていたそうです。

 つまり現在の国道20号線(甲州街道)のやや南に沿った線が南浅川の流路だったわけですね。

 もちろんその頃は、この地に甲州街道はありません。

 『八王子のむら』(古文書を探る会/編)によると、天正6年(1578)に、案内・狭間・初沢・原・川原・三田の6村が合併し椚田村になりました。

 慶長年間(1596~1615)には、椚田村が上と下に分かれ、この辺りは上椚田村となり、さらに上椚田村は領域が広かったため、案内・川原ノ宿・原宿に分かれました。

 この辺りは川原ノ宿で、現在も上宿・中宿・下宿という町内会があります。

 さて、その頃の川原ノ宿は、南浅川がたびたび氾濫するので、非常に住むのに不安定な地域でした。

 そのため、地元の設楽杢左衛門(したらもくざえもん)という人物が、万治年間(1658~61)頃、私財をなげうって7年とも20年ともいわれる期間をかけて、現在の流路に変更させたのです。

 もしかすると、川原ノ宿が発生したのは、杢左衛門の治水工事のあとかも知れません。

 杢左衛門の先祖は、元々今川家臣でしたが、武田側に付き、武田氏滅亡後は北条に仕官し、その北条も滅亡してしまったのでこの地に土着しました。

 杢左衛門の治水工事が現在のこの地区の繁栄の基礎になっているのですが、先日図書館で調べてみても、杢左衛門について書かれた資料は見つかりませんでした。

 なので詳しいことは分からないのです(おおよその話はフリーペーパー「高尾界隈」第24号に書かれていたのを先日偶然発見しました)。

 現在の高尾の住民にはもっと杢左衛門のことを知ってもらいたいですが、私自身がまだほとんど知らないので、今後も機会があれば調査を続けていこうと思います。

 なにしろ、こうして今の場所に住んでいられるのも、香味屋の美味しいラーメンが食べられるのも、杢左衛門や彼と一緒に汗を流した郷土の先人たちのお陰ですからね。

 彼らには本当に感謝です。

 治水工事のあとに南浅川沿いに植えた「さいかち」の木(数百本植えたなかの1本が残っているらしい)や、旧河道に建てた千体地蔵については、また後日写真を撮ってきてレポートしたいと思います(ていうか、現在の千体地蔵は我が家から徒歩2分ですが、雪が・・・)。

 設楽杢左衛門について何かご存知の方がおられましたら、ご教示いただければ嬉しいです。

艦隊これくしょん

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八王子市川口町の古代史

2014-02-11 16:50:24 | 歴史探訪
 八王子市内の古い地名の一つに、「川口」があります。

 現在でも川口町があり、浅川の支流の川口川が流れています。

 承平年間(931~938)に編纂された『和名類聚抄』という書物に、多摩(磨)郡のなかにある10個の郷の一つとして川口郷の名前が出てきます。

 郷というのは郡の下の行政区画です。

 当時の川口郷は現在の八王子市のだいたい全域がそのエリアでした。

 「だいたい」と言ったのは、現在の京王相模原線沿線の地域は、隣の小野郷の管轄であったからです。

 余談ですが、その京王相模原線沿線のエリア(大雑把な表現ですが)は、明治22年に市町村制が施行された時に由木村として成立し、比較的最近(?)の昭和39年に八王子市に編入されました。

 その際には、日野市にくっつきたい村民も大勢いて、かなり揉めたそうです。

 さて、話を元に戻して川口のことですが、最初川口郷が成立した時には、『八王子市史』によればその中心は現在の市役所周辺の元本郷町だった可能性があるそうです。

 八王子市民の方は分かると思いますが、市役所の場所と川口町では少し離れていますね。

 なので、もし元本郷町が川口郷の中心だったとすると、なんで「川口」という地名がかつての中心地ではなく、少し離れた今の川口町にひっそりと残ってしまったの?と疑問に思う方もおられると思います。

 私は以下のような理由で川口の地名が現在地に残ったのだと推測しています。

 現在の川口町のあたりは、川口郷が置かれるより前からかなり栄えていました。

 まあ、「栄えている」という表現が適しているかどうかは別として、古墳時代の最後の方、つまり7世紀の前半には川口町には豪族が住んでいたのです。

 なぜ川口町に豪族が住んでいたことが分かるのかというと、北浅川と川口川に挟まれた地域にはいくつかの古墳がある(あった)からです。

 川口町の川口古墳や、隣の楢原町の鹿島古墳などがそうです。

 それらの古墳の存在から、川口町周辺には豪族が住んでいて、その土地を治めていたことが分かるのです。

 しかしそうはいっても、川口町の豪族が八王子地域全体の「王」であったかというとそうではなく、八王子地域全体の王は、現在の大谷町周辺にいました(語弊があるかもしれませんが、便宜的に「王」と表記します)。

 全長39メートルを誇る、多摩地域でも最大規模の北大谷古墳の被葬者(葬られた人)が、八王子地域全体の王です。

 彼は八王子地域全体だけでなく、多摩地域全体の王だったかもしれません。

 川口町の豪族は、大谷町の王を盟主とする豪族連合の中の有力なパートナーの一人だったと考えられます。

 それが7世紀前半のあたりの話です。

 その後、朝廷は八王子に対する支配を強めるために既述した通り川口郷を置き、『八王子市史』ではその中心が市役所のあたりにあった可能性を述べているわけです。

 では、なぜ大谷町でも川口町でも、また他の場所でもなく市役所のあたりに置いたのかというと、それは当時勢力を持っていた北大谷の王や川口ほかの豪族たち、つまり地元の有力者が盤踞しているところには入っていけなかったからであり、小宮や長房などを含めた当時の諸豪族の勢力範囲のちょうど真ん中あたりであったからだと思います。

 しかし一つ不思議なのは、浅川南岸からJR中央線までの現在市内の中心となっている地域は、旧石器・縄文・弥生・古墳、そして奈良・平安時代にいたるまで、まったく遺跡が存在しないことです。

 それはなぜかというと、当該地域は浅川の氾濫原であったので、人が住めなかったからだと思います。

 ところがそうなると、その氾濫原にある元本郷町に川口郷の中心地が置かれたという説も、なんだか怪しくなってきます。

 本当に元本郷町は、川口郷の「元」の「本郷」だったのでしょうか?

 結局、川口郷について考えていたら、新たな謎が生じてしまいましたね。

 これについは今後も調査を続けていくことにします。

 (実は今日、西八の図書館に行ったのでこの件も調べてみたのですが、手掛かりが掴めませんでした。「一眞」の辛味噌ラーメンは今日も旨かったです。)

 さて、その後平安時代の後半になって、川口町には「武蔵七党」という武士団のなかの西党・日奉氏の一族がやってきて、地名を取って川口氏と称しました。

 現在でも川口町内に川口館跡と伝承される場所があります。 

 そして、それからまた時間が経過して現在にいたるわけですが、その過程でかつては八王子全体近くを表していた広域地名である「川口」は、中世の川口氏の本拠地周辺を示す地名として限定されるにいたり(川口氏の勢力範囲も関係していると思う)、川口館周辺の「川口町」と、浅川の支流の「川口川」という名前にその痕跡を残すのみとなったのではないかと考えています。

 【参考書籍】
 ・『八王子市史 下巻』
 ・『新八王子市史 資料編Ⅰ 古代・中世』

艦隊これくしょん

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