日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

武蔵の北条氏照領と甲斐の武田氏領(郡内小山田氏領)を結ぶルートはどこだったのか?

2013-11-09 23:33:19 | 歴史探訪
 『多摩のあゆみ 四十号』所収「瀧山城と八王子城 ―移転についての諸問題を中心に―」によると、元亀元年(1570)ごろ、北条氏康は岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)にいた江戸衆の大身(身分の高い家臣)富永弥四郎に対して、大須賀信濃守を大至急、由井八日市へ向かわせろと命じています。

 同書では、由井八日市というのは現在の八王子市諏訪町から叶谷町のあたりの地域を指すとありますが、なんとその地域に甲斐の武田氏の兵が侵入し、蠢動を繰り返しているというのです。

 それまでは甲軍(甲斐の軍勢)が武蔵に侵攻する際には、現在の上野原町と檜原村との境にある浅間峠を越えて来ましたが、その先には北条の城である檜原城が待ち構えており、檜原城を落とさなければ甲軍は由井八日市まで進攻できません。

 しかもそのルートは檜原街道であり、由井八日市へ進む道ではなく、由井八日市は案下道(現在の陣馬街道)沿いの地域です。

 ということは、このとき甲軍は、案下道を通って侵入してきたと考えるのが素直で、そうなると旧藤野町と八王子市の境である和田峠を越えてきたことになります。

 しかしここで不思議なのは、和田峠から由井八日市までの間には浄福寺城があったはずなのに、甲軍は浄福寺城の真下を通って由井八日市まで侵攻していることです。

 また、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めの大侵攻作戦に伴う、郡内小山田信茂の東進の際は、和田峠よりもさらに南の小仏峠が使われました。

 このルートも北条氏はノーマークで、滝山城の北条氏照は、急きょ部下を迎撃に向かわせ、現在の八王子市廿里町で激戦が繰り広げられました。

 上記の武田氏の攻撃は、甲武(および武相)の国境警備も管轄の内である北条氏照にとっては衝撃的だったと思われ、それがそののちの八王子城築城の理由の一つになっていると考えられます。

 八王子城の位置は、和田峠を越えてくる敵と小仏峠を越えてくる敵の両者に対応できる絶妙な位置にあります。

 また、和田峠を見下ろす南側の山は陣馬山と呼ばれていますが、本来は「陣場山」という字があてられ、武田軍が布陣した場所であるという伝承があります。

 ただし、『東京都の中世城館』では、遺構は確認できないとしています。

 「瀧山城と八王子城」によると、和田峠下の旧家に、北条氏支配の頃、山頂に関所があってその家の先祖は関所の役人をしていたという伝承が残っています。

 そして小仏峠を見下ろす南側の山は小仏城山と呼ばれていますが、こちらも『東京都の中世城館』では山頂の平場について遺構かどうか検討を要するとあります。

 さらに陣馬山と小仏城山の間の景信山は、氏照家臣の横地景信が守備したという伝承がありますが、遺構はなく、堂所山にも氏照が鐘撞堂を置いたとの伝承があります(『東京都の中世城館』)。

 上記の話から、北から和田峠(陣馬山)・堂所山・景信山・小仏峠(小仏城山)の順に並ぶ北条氏と武田氏との国境の要地には、上記の永禄12年や元亀元年ごろの甲軍の度重なる侵攻が教訓となり、八王子城の築城よりも前に国境警備のために砦を築いたと考えて良いと思います。

 そしてさらに、小仏峠を突破した甲軍が南浅川の右岸(南岸)に進路を取った場合を想定して、かつて長井氏の居城であった初沢城を改修し、防衛ラインを強化したものと考えられます。

 小仏城山などの国境の砦は兵の数が少なく、砦も堅固でないため、優勢なる敵兵力を長時間抑止することはできないので、早期に敵兵を発見し、のろしを使った通信手段で後方の初沢城や八王子城に迅速な対応を促すことが役目であったのでしょう。

 あと、甲州方面から武蔵へ入るルートとしては、上記以外にも多摩川上流から小河内峠(奥多摩町と檜原村の境)を越えるルートや、西原峠(才原峠。上野原町と檜原村の境)を越えるルートもありましたが(『五日市町史』)、その二つのルートはともに檜原城で防衛できます。

 さて、いくつかの国境越えのルートを紹介しましたが、上述のルートはいずれも大軍が侵攻するには不適当なルートで、冒頭で述べた由井八日市の武田氏の蠢動も含め、武田側からは郡内の小山田氏の兵が1000人程度で侵攻してくるのが通常のケースであったと考えられます(上野原の加藤氏が先兵となっていたのでしょう)。

 ところで、私はようやく最近になって山歩きが楽しいと感じるようになりましたが、まだ高尾山もバッチリなレベルではないので、そのうち歩けるようになったらということになりますが、上記の内、いくつかの踏査にチャレンジしてみようと思っています。

 ただし、檜原村の方には車を持っていないのでなかなか行くのは難しいですね。

 車欲しいなあ~。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん





コメント

初沢城(東京都八王子市)と「おだわら道」についての前川實さんの講演を聞いてきました

2013-11-09 13:42:02 | 歴史探訪
 今週は、新撰組の某有名隊士のご子孫の邸宅へ行って、お風呂を磨いてきましたよ!

 さて、今日の午前中は八王子のクリエイトホールで行われた、「中世「初沢城」の構造と役割 北条氏の軍用道路「おだわら道」の要所」という講演を聞きに行ってきました。

 講師は、郷土史研究家で「八王子城の謎を探る会」主宰の前川實さんです。

 前川さんは『決戦!八王子城 直江兼継の見た名城の最期と北条氏照』などいくつかの本を書いている方です。

 私もこのブログで初沢城やその周辺の史跡を紹介していますが、にわか仕込みの私と違って、さすがキャリア40年の前川さんの話は、昔の初沢城周辺を実際に歩いて知っているだけあって、重みが違いました。

 今回前川さんの話を聞いて、初沢城に対して大きく二つ、認識を改めました。

 一つ目は、初沢城は今まで考えていたより大きな規模を持っており、地方の中世城郭としてかなり立派なものであったということ。

 二つ目は、長井氏滅亡後の後北条氏の段階になっても、初沢城は機能していたと考えるようになったことです。

 一つ目に関しては、前川さんが若いころに実際に歩いた経験として、現在の紅葉台団地ができる前は、そこには二つの小さな丘があって、その頂部からは麓を走る「おだわら道」を監視できたということで、紅葉台団地まで含めて城域と考えても良いと思うようになりました。

 これは二つ目の件と絡んできますが、初沢城の規模が紅葉台団地までを含有することになると、初沢川の谷を挟んだ西側の高乗寺の裏山も城跡であるらしいので、この初沢城を中心とした城郭群が後北条氏によって計画的に造られた大規模な城郭群である可能性が出てきました。

 そうなると、金比羅山砦もやはり後北条氏の段階で使用されていた可能性が濃厚です。

 二つ目に関しては、私は16世紀の初めの段階で初沢城は廃城となり、後北条氏は初沢城を使用していなかったと思っていたのですが、城域を何十年にわたって丹念に歩いた前川さんの調査により、異常なほどに郭と考えられる削平地が多いことから、初沢城はやはり後北条氏の手が確実に加わっているという認識を持つようになりました。

 今日の講演では、「おだわら道」という「いざ鎌倉!」ならぬ「いざ小田原!」のための軍用道路の話がメインだったのですが、そういう南北を走る道とともに、西の甲州方面から来る東西の道も絡めてみると、より一層初沢城や八王子城周辺が重要な位置であるということが分かりました。

 今日は2時間という短い講演でしたが、かなり勉強になり自分の浅学を思い知ったので、今後も初沢城跡をもっと歩くとともに、東西南北の道を絡めた初沢城の戦略的意味を考え、八王子城を含めたこの類まれな「一大城郭群」の謎を解いていきたいと思います。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん





コメント

青森県出身の戦国武将・南部晴政の実像に迫る

2013-11-03 14:52:02 | 雑談
 久しぶりに一本文章を書きました。

 青森県出身の戦国武将・南部晴政についてです。

 南部晴政の経歴を約1万字(原稿用紙25枚分)にまとめてみました。

 通説で言われている勇猛な武将という評価は果たして本当でしょうか?

 『南部史要』や古文書を読み解き、晴政の実像に迫ります。

 こちらにありますので、よろしければ読んでみてください。

コメント (2)