日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

浅川金刀比羅宮のある金比羅山は果たして砦の跡か?

2013-09-18 20:29:05 | 歴史探訪
 私が企画している高尾の歴史めぐりで回る史跡のうち、
 金比羅山砦と高乗寺はこのブログではまだご紹介していませんが、
 今日はまず金比羅山砦をご紹介します。

 金比羅山砦は、その名の通り金比羅山にあります。

 金比羅山と言うのは、浅川金刀比羅宮がある山で、京王線の高尾駅のホームから
 高尾山口方向に向かって線路のすぐ左側にある山です。

 すみません!

 写真はないです。

 南側の高乗寺の参道から見た金比羅山砦はこちらです。


写真1 高乗寺の参道から見た金比羅山砦

 私は「金比羅山砦」と呼んでいますが、手元にある考古学者の十菱駿武さんの資料を良く見ると、
 「金比羅砦」と、「山」を抜いて書かれています。

 まあ、どちらでも良いですが、今回はとりあえず「金比羅山砦」と
 最初に言ってしまったので、その名前で呼びます。

 金比羅山は標高256メートルで、比高はだいたい70メートルくらいです。

 山の南側は、三和団地という住宅街があり、斜面が削られています。

 行き方としては、高尾駅南口を出てから浅川中学校の脇の高乗寺参道入り口をまず目指しましょう。


写真2 高乗寺参道入口

 参道入り口から少し歩くとT字路があり、右折すると登り坂になっており、三和団地があります。

 この三和団地は急峻な金比羅山の斜面にあるので、坂を登るのが慣れていない私は、
 この坂を登るだけで結構バテるのだ。

 三和団地にお住まいの方はきっと心肺機能が強化されているのではないかと想像できますね。

 坂の途中の3つ目の角を右折し、さらに坂を登っていくと、
 ようやく浅川金刀比羅宮の下に着きます。

 そしてさらに階段を上っていき、山の斜面を登っていくと、やっと鳥居が現れます。


写真3 浅川金刀比羅宮一の鳥居

 鳥居をくぐると、また石段です。


写真4 石段

 石段を登りきると、ようやく社殿が見えてきました。


写真5 浅川金刀比羅宮

 やっと頂上に着きました!

 境内は狭いので一杯に引いて写真を撮ってもこんな感じになってしまいます。


写真6 浅川金刀比羅宮社殿


写真7 神社額

 浅川金刀比羅宮の創建年代は不明ですが、北側の元参道には安政2年(1855)銘の
 石燈篭があるようです(未確認)。

 金比羅山砦は、十菱駿武さんが1992年に竪堀を発見し、
 「金比羅砦」として公表し、砦と言われるようになりました。

 十菱さんは、廿里合戦のあった永禄12年(1569)から八王子城築城までの間に
 初沢城を修築したと考えており、その折金比羅山にも八王子城の支城網の一つとして
 築砦されたと考えています。

 なおこの場所は、東京都教育委員会の東京都遺跡地図には
 「金比羅山」という遺跡名で載っていますが、
 同じく東京都教育委員会発行の『東京都の中世城館』では、
 「当該地には数箇所に竪堀状の地形が存在しているけれども、
 林業や戦時中の軍需施設に伴うものである可能性も否定できず、
 現状では城郭遺構との判断は保留する」
 としています。

 金比羅山は本当に砦だったのか?

 この問題は、初沢城や八王子城の問題とも絡んでくるので、
 個人的にはもう少し深く研究してから考えをまとめたいと思っています。

 それでも今考えられることをお話すると、初沢城から見た場合は、
 地理的には初沢城を攻める場合の向城として利用することはできないので
 (この山を向城にすると南浅川によって背水の陣になってしまう)、
 初沢城からするとこの山を敵に取られる心配はありません。

 八王子城から見た場合は、南浅川の対岸になってしまうので、
 この位置まで支城網に取り入れる必要はないように思えます。

 なんか微妙な感じですが、高尾の戦国時代を考える上では、
 一度は見ておく必要があるでしょうね。

 次回は高乗寺をご紹介します。

 参考文献:
 『高尾・浅川の歴史遺産 十菱駿武氏講演資料』 十菱駿武
 『東京都の中世城館』 東京都教育委員会

艦隊これくしょん

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阿曽沼城:栃木県佐野市:2002年2月9日:奥州城壁癖(33)「2002年社員旅行の帰り道」

2013-09-13 21:25:45 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
阿曽沼城【探訪第1回目】 「2002年社員旅行の帰り道」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.33

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.32 佐津間城」はこちら。

 本日の天気は上々。

 だがしかし、肝心の自分の体調が思わしくない。

 今日はあまり無理はできないな…。

 私の会社の社員旅行は少し変わっていて、金曜日の夜に宿に入り夜中まで飲み食いして、
 翌土曜日の朝に解散となる。

 私は他の社員よりも早く起き、7時にはホテルを出立した。

 鬼怒川温泉発7時21分の東武特急「きぬ102号」で栃木まで行き、
 そこでJR両毛線に乗り換え、9時前には佐野に到着。

 車内からホームに降り立つと、やはり寒い!

 といっても、勿論東北の比ではないが、私の基準と照らし合わせると、
 やはり寒い部類に分類されよう。

 とりあえず、まずは道路地図を頼りに浅沼八幡宮を目指す。

 ところで、沿道にはやたらと「佐野ラーメン」の文字が目立つ。

 昼飯時はその佐野ラーメンとやらを食してみよう。

 県道67号線を東進し、相生町交差点で右折。

 路地を歩き、東武佐野線の踏切を渡ると、浅沼八幡宮にたどり着いた。

 境内に入ると、早速標柱を発見。


写真1 阿曽沼城跡の標柱

 境内にはそれ以外にも、立派な石造りの碑や、八百年祭記念碑というものもある。


写真2 石造りの碑


写真3 八百年祭記念碑

 八百年祭記念碑は、阿曽沼城築城800周年を記念して、阿曽沼氏ゆかりの方々や
 地元有志の方々によって昭和53年に建てられたものだそうだ。

 阿曽沼氏は下野以外にも、陸奥(岩手県遠野市)や安芸(広島県広島市)などにも所領を持ち、
 子孫が全国にいると思われるが、このイベントの時は全国から縁者がやってきたのだろうか。

 また、かつては城の一部を復元する計画もあったようだが、
 昨今の景気では実現は難しいかもしれない。

 阿曽沼城は、東西約187メートル・南北約235メートルの規模で、
 周りを空堀(水堀か)と土塁で囲った方形の城であった。

 大手は南にあったらしく、今でも土地の区割りからそれらしい匂いが感じ取れる。

 本丸跡と伝わる場所は小字中ノ内といい、現在旧臣上岡氏が住んでいる。

 また、城域内には、阿曽沼氏と縁の深そうな浅沼理容室という店もある。

 浅沼八幡宮は、城域の東北隅(鬼門)にあるが、かつては西南(裏鬼門)にあったという。


写真4 浅沼八幡宮
西側入り口から撮影。社殿の奥には、空堀とホントに微妙な高さの土塁が残存している

 現在見られる遺構は、八幡宮東側の空堀と土塁の跡のみである。


写真5 東側空堀
文献で見られる規模よりも実際は小さい

 唯一残る空堀の大きさだが、『佐野市史 資料編1』には、
 幅は7~8間(約12.6メートル~約14.4メートル)、
 深さは9尺~1丈6尺(2.7メートル~4.8メートル)と書かれているが、
 私が見た感じでは、上幅が約5メートル、底幅が約1.5メートル、深さが約2メートルであった。

 長い時間が経過してしまっているので、埋もれてしまったのだろう。

 また、『佐野市史 資料編1』には、南西側の竹林の中にも
 空堀の跡が認められると書かれているが、あとで確認しに行ったところ、
 現在は竹林自体が存在せず、そちらの遺構はまったく破壊されていた。

 ところで、地形図を見ていて気になったのだが、阿曽沼城の北方300メートル強の場所に、
 比高15メートルほどの丘(引地観音)がある。


写真5 引地観音遠望
南方約300メートル地点より撮影

 阿曽沼城跡を見たあとは、その引地観音の丘に行ってみる。

 丘に登って阿曽沼城方面を眺めてみる。

 その眺めから想像するに、往時はこの丘からは阿曽沼城内が丸見えであった筈である。

 私が目を通した資料には、この丘が軍事的に重要だったということは何も書かれていないが、
 阿曽沼城周辺は全くの平地なので、この丘に物見の砦を築いて、
 絶えず四方を監視していた可能性があるのではないかと思う。

 ちなみに、『安蘇郡案内誌』には、正応2年(1289)、藤原有綱(足利有綱)が
 「城の鬼門にあたるこの小山を平らげ伽羅を御建立…」と書かれており、
 また、「永禄元亀の間兵火に罹りて…」とも書かれている
 (ただし、正応2年に有綱が云々というのは時代的に合わない…)。

 しかし、なんとも気になる丘である。

 さて、そろそろお昼なので、気になっていた佐野ラーメンを食べてみよう。

 適当な食堂に入り(ラーメン専門店ではない)、ラーメンを注文。

 そもそも私は佐野ラーメンというものを知らないため、佐野ラーメンを食べたのか、
 佐野でラーメンを食べたのか、どちらかわからないが、味はそこそこだった。

 このあと私は、市立図書館に行き、夕方5時過ぎまで、
 阿曽沼氏とそれに関連する城館を調べたのであった。

 ちなみに佐野市立図書館は、県道67号線を駅から見て阿曽沼城とは
 反対方向に10分くらい歩いていくと、右手に入口の看板が見える。

 2Fに郷土資料コーナーがあり、棚に読みたい資料が見当たらなくても、
 係の人に尋ねれば裏の書庫から出してくれる。

 コピーは1枚20円で、セルフサービスではない。

 阿曽沼城と下野阿曽沼氏の歴史

 藤原秀郷の末裔、足利有綱は唐沢山城に居していたが、
 南方約5キロの阿曽沼に支城を築き、四男広綱を城主に任じた。

 広綱はその地名を取って阿曽沼を姓とした。

 現在ではイメージを掴みにくいが、往時は安蘇沼という広大な沼があり、
 阿曽沼城は平城ながら、沼地に囲まれた堅固な城であったという。

 現在周辺は完全に住宅地や畑と化している(不思議と田が少ない)。

 初代広綱は、鎌倉幕府立ち上げ時の有力メンバーとして、
 吾妻鏡などにも頻繁に登場するメジャーな武将である。

 その後、『阿曽沼史話』によると、阿曽沼氏から大栗五郎と畳岡七郎という人物が分かれて、
 それぞれ城を築いたという。

 畳岡七郎の居城は、「小野寺領の近く」と書かれているので、
 阿曽沼城から東に約5~6キロの下都賀郡岩舟町の畳岡付近と思われるが、
 大栗五郎が築城した場所は、「岩船町」の「渡良瀬川を隔てて館林をのぞむ場所」
 と書かれており、場所的に矛盾している(岩舟町は、渡良瀬川河畔ではない)。

 もしかすると、阿曽沼城の北約2.5キロに、大栗町という場所があるので、
 そこに築城したのかもしれない。

 私が資料を調べた限りでは、大栗城と畳岡城は、『阿曽沼史話』にしか登場しない。

 阿曽沼氏は下野以外にも陸奥や安芸などに所領を持っていて、
 それぞれ代官を置いて、下野阿曽沼氏がそれらを遠隔統治していたと思われるが、
 建武の頃(1334年頃)には、陸奥や安芸の分家は独立していったようである
 (独立の時期については諸説あり)。

 南北朝時代、下野阿曽沼氏は、南朝に従い戦っていたが、
 北朝側の足利・小山・皆川などに囲まれ、非常に不安定な状態であったと考えられる。

 『阿曽沼氏の歴史に関する若干の問題』によると、「確証はないが、
 阿曽沼の城を棄てた事もしばしばあったと伝えられる」と書かれている。

 北朝側に攻められ、守りきれずに一時的に非難して、
 チャンスを見て奪回を果たすということも、度々あったということだろう。

 文和3年(1354)頃、足利尊氏は鎌倉公方基氏に対して、阿曽沼民部大輔の跡地に関して、
 小山氏政を考慮して善処するようにという命令を発している。

 阿曽沼本貫の地を小山氏政が欲していたらしく、これも南北朝時代の抗争のひとつであろう
 (ちなみに、下野と陸奥の阿曽沼氏は南朝側であるが、
 安芸阿曽沼氏は北朝側について戦ったという)。

 阿曽沼民部大輔の実名は伝わっていない。

 本貫の地の当主であれば、朝綱のことかもしれない。

 戦国時代の文明3年(1471)には、7代目阿曽沼弾正が、
 東方約2キロの鐙塚(あぶつか)にも城を築いた。

 『栃木の城』には、鐙塚に築城したことにより、
 もとの阿曽沼城は廃城となったと書かれているが、
 他の資料には、その後も並立していた風に書かれている。

 弾正は、阿曽沼城に住しながら、下総国古河の足利成氏(1438~1497年)に仕えていたという。

 天文15年(1546)に足利成氏の曾孫晴氏(1508~1560年)が没落したあとは、
 弾正の孫左京太夫は宗家佐野氏に属した。

 その後、玄蕃助、助左衛門尉を経て、助太夫方重に至る。

 方重は、佐野十七騎のひとりで、天正7年(1579)、北条氏直(1562~1591年)が
 唐沢山城を攻めた時に、手兵800を率いて北条の本陣を衝いて、北条軍を混乱せしめた。

 その時、北条方の勇将大畑與十郎は、佐野軍に討たれた。

 天正17年(1589)には、方重は他の佐野家家臣を率いて、
 同じく佐野家家臣の大貫越中を屋形山城に攻め、大貫父子を討ち取った。

 大貫越中は専横が目立ったため、他の家臣達に襲われる羽目になったという。

 下野阿曽沼氏滅亡の際に立って、方重の活躍は光り輝いて見える。

 方重には、助太郎、助五郎、長吉郎、五郎、三郎の5人の男子があったというが、
 阿曽沼城廃城後の行方は知られていない。

 最後に、『栃木縣史』の阿曽沼城の節に書かれている解説のとおりに家系図を記す
 (誤字と思われるものは修正)。

 あくまでも参考である。

 広綱―+―朝綱
    │ 二郎 都賀郡出井を領す
    │
    +―広親───────+―公綱─────+―公郷─────+―広勝(氏綱)
    │ 四郎 出羽守   | 四郎 出羽守 │ 四郎太夫   │ 弥二郎 下野守
    │          │        │        │
    +―景光       +―公光     +―氏光     +―弘綱
      天野伊豆守    │ 牛込丹後と称す  吉川民部と称す│ 佐野宮内と称す
      伊豆国木佐美を領す│                 │
               +―広法              +―広重
                 小四郎 吉川民部の養子となる    梅田五郎と称す

 ※註:阿曽沼氏のルーツに関しては、こちらを参照されたし。
 
===========================================

 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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廿里古戦場・廿里砦:戦国時代の高尾で戦われた後北条vs武田の合戦場の跡

2013-09-12 21:18:41 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちらです。

 廿里(とどり)町の交差点まで来ました。

 信号を渡り右折し、少し坂を登ると、左手に八王子市教育委員会が設置した
 「廿里古戦場」の説明板が立っています。

 説明板を読みますと、以下のような内容が書いてあります。

 永禄12年(1569)、甲斐(山梨県)の武田信玄は、小田原の北条氏康を討つべ甲府を出陣し、
 碓氷峠を越え関東に出て、北関東の諸城を攻撃しつつ、滝山城と多摩川を挟んで対岸の
 拝島(昭島市)まで侵攻した。

 一方、郡内の岩殿城主小山田信茂も信玄の別働隊として
 小仏峠を越えて現在の高尾地域に侵攻してきた。

 滝山城主北条氏照は、正面の信玄の本隊への対応もしながら、
 西から攻め寄せた小山田軍に対抗させるべく、横地監物・中山勘解由・布施出羽守らを急派した。

 そして10月1日、ここ廿里で北条と武田の戦いが繰り広げられた。

 さて、説明板の裏の山は、現在多摩森林科学園になっており、
 珍しい桜が植えられているということで、桜の季節は大変賑わいます。

 その森林科学園のある山とこれから訪れる白山神社の山一帯が、古戦場と言われています。

 説明板から高尾駅の方を見ます。


写真1 廿里古戦場の説明板の前から高尾駅方面を見る

 写真だと暗くてよく分からないと思いますが、右手の山が金比羅砦のあった金比羅山、
 奥の山が初沢城があった初沢山です。

 みころも霊堂が見えていますね。

 その右手が初沢城です。

 廿里町交差点まで戻って、右折して少し歩くと左手に南浅川が見えてきました。


写真2 浅川市民センター裏手の南浅川

 夏になるとこの川で近所の子供たちが水遊びをするのです。

 さらに川沿いを歩いて行くと右手に白山神社の入口が見え、
 南浅川は「川」というよりかは「せせらぎ」のような感じになります。


写真3 白山神社の前の南浅川


写真4 白山神社

 白山神社を訪ねてみましょう。

 石段を数十段上がると、拝殿があります。


写真5 白山神社拝殿

 我が家は高尾山口駅の近くの氷川神社の氏子の地域で、白山神社の氏子の地域ではないのですが、
 白山神社は近いということで毎年初詣に来ます。

 ですが、いつもこの拝殿を参拝して終わりです。

 ところが実は、白山神社の本殿はここより先の山の上にあるのです。

 拝殿の横には5分くらいで本殿に着くと書いてあります。

 それでは、山を登ってみましょう。

 鬱蒼と生い茂る木々の間の細い道を上がっていくと、ところどころに祠があります。

 山岳信仰っぽくて良い感じですね。

 登り坂は途中石段になっているところもありますが、足場はあまり良くありません。

 そしてこの季節の手ごわい敵と言ったら・・・。

 「蚊」です。

 蚊が凄い!

 蚊を追い払いながら先ほどの説明通り、5~6分登っていくと、少し広い平坦地が現れ、
 白山神社の本殿が建っていました。


写真6 白山神社本殿

 廿里の合戦の際、西から小山田勢が攻めてくるに当たり、氏照配下の横地らは
 この一帯のどこかに臨時の砦を築いたはずです。 

 緊急に砦を造らなければならないので、平坦地を造成している暇はないと思います。

 『東京都神社名鑑』によると、白山神社は享禄3年(1454)に加賀一の宮を勧請し、
 明応7年(1498)2月再建、天文22年(1553)に滝山城主大石左衛門尉綱周が
 社殿を造営したということなので、廿里合戦の際には、すでにここの平坦地はあって、
 私はここに横地勢らが本陣を構えたのではないかと考えています。

 (後述する通り、上記の来歴を証明する棟札がかつて存在しました。)

 この件は現在はまだ調査中ではっきりとしたことは言えないので、
 もう少し調べてまたご報告したいと思います。

 (9月18日追記:よく考えたらやはり本陣は最高所でないといけないので、
 この社殿の裏のさらに高い山の最高所の平場が本陣だと考えます。)

 境内からはわずかに木々の間からみころも霊堂が見えます。


写真7 中央左手に黄色い建物が見えるかな?

 境内の平坦地は、南側が今まで登ってきた斜面になり、やや緩い感じですが、
 西と東はかなりの急崖になっていて、攻め手が登ってくるのは不可能です。

 そして北側ですが、実はこの本殿がある場所は山の最高所ではなくて、
 本殿の後ろ(北側)に回ると、さらにもう一段上まで行けるようになっています。

 そこを登ってみると、祠がありました。


写真8 最高所

 ここが最高所です。

 標高は246.7メートルを数え、拝殿のあった場所からの比高は60~70メートルくらいです。

 以前、考古学者の十菱駿武さんの講演を聞いたときに、この山には遺構があると言っていました。

 この最高所から東側の尾根伝いに少し進んで行くと、堀切があるようなのです。

 しかし夏場の探訪は難しいでしょう。

 また日を改めて来たいと思います。

 山から下りて、さきほどの拝殿の横のお宅を見ると、縁側に茶トラの猫が寝そべっていました。


写真9 ん・・・


写真10 だれニャ?


写真11 わしは眠いニャ~

 ここからも高尾の町が眺められます。


写真12 白山神社から高尾の町を眺める

 白山神社は、『新編武蔵風土記稿』によると、かつて文永12年(1275)4月8日阿闍梨禅仁
 の銘がある本地仏十一面観音の板碑があり、また享禄3年(1454)・明応7年(1498)・
 天文22年(1553)造営の棟札が存在したと言います。

 また、『八王子市史 下巻』によると室町末期の薬師如来の板碑が現存するそうです。

 白山神社はかなり歴史の古い神社であることが分かりますね。

 さて、廿里の合戦の結末ですが、北条氏照の派遣した横地監物らの軍勢は、
 敢闘虚しく小山田勢の攻撃の前に敗れ去りました。

 北条軍は、金指平左衛門や野村源兵衛らが討ち死にしたと伝わっています。

 参考文献:
 『八王子市史 下巻』 八王子市史編さん委員会
 『東京都神社名鑑 下巻』 東京都神社庁 
 『高尾・浅川の歴史遺産 十菱駿武氏講演資料』 十菱駿武

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高尾の歴史:高尾には旧甲州街道と旧鎌倉街道が残り昔から交通の要衝だった

2013-09-11 16:36:36 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちらです。

 熊野神社を後にして、次は廿里(とどり)の古戦場と砦の跡を目指します。

 実は熊野神社の前の甲州街道(国道20号線)は、イチョウ並木で有名なんです。

 ちょっと歩道橋の上に登って見てみましょう。


写真1 甲州街道のイチョウ並木を歩道橋の上から見る(日本橋方面)

 これが晩秋になると、黄色いイチョウがズーッと奥まで続いてすごく綺麗なんですよ!

 毎年「八王子いちょう祭り」が実施され、今年は11月16日(土)と17日(日)に開催されます。

 街道沿いには出店も出て、美味しいものも食べられますので、興味のある方は、
 八王子いちょう祭りのページをご覧ください。

 歩道橋を降りて、今度は旧甲州街道に入って行きます。


写真2 旧甲州街道

 ここが近世(江戸時代)の甲州街道ですね。

 当時の街道らしく、結構道幅が広いです。

 道沿いには黒板塀で囲まれた旧家など、古い歴史を持った家がところどころにあります。

 江戸時代の八王子には江戸城の甲斐(山梨)方面を防衛する
 「千人同心」という人たちがいたのですが、
 この旧街道沿いには千人同心の末裔の方の屋敷があります。

 特に石川家は享保5年(1720)からずっと日記を書きつづり、
 それは『石川日記』という近世・近代の貴重な歴史史料となっています。

 現在は一般の民家なので写真を撮ることは控えましたが、
 ぜひ現地で実際に歴史ある家の佇まいをご覧くださればと思います。

 旧街道を少し歩くと今度は中世の頃の鎌倉街道と交差します。


写真3 旧甲州街道から旧鎌倉街道を見る(北側)


写真4 旧甲州街道から旧鎌倉街道を見る(南側)

 鎌倉街道とは鎌倉を中心として各地に伸びた道で、
 それら複数の道が「鎌倉街道」と呼ばれています。

 写真3の路地を歩いて行くと、浅川の支流・南浅川に出ます。

 その路地とは少しずれていますが、南浅川には「古道橋」という小さな橋が架かっています。


写真5 古道橋

 昔は橋があったかどうかは分かりませんが、おそらく橋は無く、
 南浅川の渡河地点であったのだと思います。

 南浅川から上流を見ると高尾山が見えますね。


写真6 古道橋から上流を見る


写真7 古道橋から下流を見る

 南浅川を下っていくと浅川に合流しますが、浅川はそれなりに大きな河川です。

 そして浅川はさらに大河である多摩川にそそいでいます。

 ただ京王線の聖蹟桜ヶ丘駅と中河原駅の間の多摩川を見ると、
 現在ではとても水量が少なくなっていることが分かります。

 どの地方に行っても必ず聞く話が、その地元の川を指して
 「昔はこの川はもっと水が豊富だった」という話です。

 南浅川も現在では上の写真のようになっていますが、往時はもっと水量が豊富だったのでしょうね。

 そうすると、やっぱり鎌倉街道の橋が架かっていたのかな?なんて思ったりもします。

 なお、古道橋を渡ってすぐ右手から東側が綾南公園という公園になっており、
 近隣の人びとの憩いの場となっており、私の母も毎日の散歩コースにしています。

 古道橋を渡った後は、北側の段丘上に登ります。


写真8 南浅川北側から対岸を見る

 段丘上に上がって、廿里の砦の方向に向かって路地を歩いていると、
 猫が前を横切って左手の家の駐車場に入って行きました。

 駐車場を覗き込むとこちらを向いて座っています。


写真9 警戒している!

 結構、身体の大きい猫ですね。

 もう少し近寄ろうとしたら、逃げられました!

 街角の猫を撮るって意外と難しいんですよ。

 さて、この道は写真では紹介していませんが面白い建物が建っていたりして、
 散歩コースには最適だなあと思いました。

 歩いていると、右手前方に小山が見えてきました。


写真10 廿里砦跡遠望

 さきほど鎌倉街道をご紹介しましたが、この土地は鎌倉にも十里、秩父にも十里であって、
 それで廿(二十の意味)里と名付けられたという説があります。

 また、関和彦氏の説では、高尾から京王線で20分くらいの聖蹟桜ヶ丘駅近くの落川遺跡
 (日野市と多摩市にまたがる)から「和銅七年(714)十一月二日 鳥取部直六手縄」
 と刻まれた紡錘車が出土したことから、この地には鳥取部の人たちが居住していたのではないかと
 考えられるそうで、もしかすると廿里という地名も鳥取部から来ているかも知れません。

 なお、鳥取部(とりとりべ)というは、鳥を捕まえたり飼育したりすることを役目とする
 朝廷の職のことであり、またその職に就いている人たちのことです。

 7世紀以前にあった職なのでそういう昔からこの土地は天皇家と関わりがあったのでしょうか。

 ロマンを感じますね。

 そういえば、天皇家といえば、今回は探訪していませんが、この地の近くに、

 ・大正天皇の「多摩陵」
 ・貞明皇后の「多摩東陵」
 ・昭和天皇の「武蔵野稜」
 ・香淳皇后の「武蔵野東陵」

 があり、日本史上初めて天皇が関東地方に埋葬されています。

 それらを総称して「多摩御陵(たまごりょう)」と呼んでいるのですが、
 多摩御陵もいずれご紹介したいと思います。

 さて、少し長くなってしまったので、廿里古戦場が近づいたところで今回の記事は終わりにします。

 続きはまた次回!

 参考文献:
 『八王子探訪シリーズ1 武蔵陵とその周辺』 地域生活文化研究所

 ⇒続きはこちらです。

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佐津間城:千葉県鎌ケ谷市:2001年11月23日:奥州城壁癖(32)「下総の城を行く」

2013-09-10 21:16:13 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
佐津間城【探訪第1回目】 「下総の城を行く」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.32

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.31 黒沢尻柵」はこちら。

 盛岡出身で千葉在住の大澤さんという方とメールのやり取りをしているうちに、
 下総の城館跡を案内していただけることになった。

 千葉県出身の癖に、ほとんど千葉県内の城館跡を知らない私は、
 勇躍大澤さんのもとに馳せ参じ、その教導のもと、
 下総の素晴らしい城館跡を10箇所近く堪能することができた。

 (ちなみに、大澤さんとはその後も共同で城めぐりをして、
 いろいろ教えていただいているのである。)

*    *    *

 大澤さんとは、東武野田線の新鎌ヶ谷駅で待ち合わせることとなっていた。

 しかし、事もあろうに、いきなり初対面の日から私は遅刻してしまった!

 なんてこったい。

 どういうわけか、三鷹の自宅から千葉方面に出向くと、時間の計算が狂うのだ。

 (千葉方面の友人の家に行くときも、大概時間通りに行かない。
 恐らく、私が江戸川以東の空間に赴くと時空の歪が生じるからだと思われる。)

 さて、いきなり私のお詫びから始った本日の城めぐりだが、
 一発目は私のリクエストで鎌ケ谷市の佐津間城へ。

 実は、松戸市五香六実にかつて住んでいた私は、
 佐津間のあたりは中学生くらいの頃はよくチャリを駆って遊びまわったエリアであった。

 だがしかし!

 当時は全く城跡には興味なし。

 今になってすれば、もっと早く気付いていればなあと思う。

 大澤さんの車に乗り込んだのも束の間、佐津間城にはすぐに到着した。

 そこは、城跡の東側。

 説明板が立っている。


写真1 東側入口

 実は、写真1の右側の雑木林の中に遺構があるのだが、
 この時は気付かずに、階段を上がっていった。

 住宅街を歩きながら、あたりを探ってみる。

 そして、大澤さん曰く、今まで気にはなっていたが行ってみた事がないという路地に、
 折角だからと踏み込んでみた。

 そして、その路地から続く雑木林に入ってみると、
 そこには我々が予想していなかった立派な遺構が存在したのである!


写真2 土塁
本郭の内部の広さは30~40メートル四方ほどで、その周りは土塁で囲まれている

 写真だといつものごとく良く分からないのだが、そこはあきらかに郭跡で、
 周りは高さ1~2メートルくらいの土塁で囲まれていた。

 そして、虎口らしきものも見つけることができた。


写真3 虎口?
本郭南側の虎口跡と思われる

 持参した『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書 1 旧下総国地域』のコピーと
 現場の状況を照らし合わせてみると、どうやら虎口と見て差し支えないという結論に達した。

 そして、その脇は櫓台と見れば見えないこともない。

 ただ、立派な土塁は見ることができたが、『詳細分布調査報告書』に描かれている空堀は、
 すでに埋められてしまったようであり、はっきりとわかるものはなかった。

 しかしまあ、私の子供の頃のプレイエリアにこんな素晴らしい中世城館跡が存在したなんて…。

 結構感動ものである。

 大澤さんもこの発見に嬉しそうに土塁を飛び回っている。


写真4 大宮神社
大宮神社は城域最南端に位置する
このすぐ南側には東西に沢状の窪地が走っている
(その窪地と本郭との比高差は10メートル強)

 さて、佐津間城は、大津川西側段丘上の、
 水面との比高差約10メートル以上の崖縁に築かれた平城である。

 規模は、現在わかっている範囲では、東西約100メートル・南北約320メートルの
 南北に長い城である。

 城の防御に関しては、東側は大津川により守られているので問題は無いと思われる。

 北側と南側は、現在の地形図で見ても、沢状に窪地があり、
 それが往時は大津川に注ぐ水を湛え、天然の水堀ないしは湿地帯であった可能性があるので、
 多少は防御力はあったのかもしれない。

 問題は西側の台地続きの面である。

 地形上は守ってくれるものが無いので、人工的に空堀などで防御していたと思われる。

 ただし、現在その遺構は認められない。

 それにしても、現在わかっている縄張りを見る限りでは、
 あまりにも南北に防衛線が長いので、良い設計とは思えない。

 本郭はこじんまりとしているが、他の郭(外郭に相当する部分?)は広いことから、
 大澤さんは、緊急時は村人を収容していたのではないかと推測していた。

 ところで、地勢面で見逃すことができないのは、河川の存在である。

 『詳細分布調査報告書』にも書かれているとおり、
 手賀沼や印旛沼にそそぐ河川流域の他の城と同様、
 佐津間城においては、大津川が重要な役割を担っていたと思われる。

 場所によっては、陸地の道より、河川のほうが交通上重要であった地域もある。

 ここ佐津間城周辺もそうだったのであろう。

 ちなみに、佐津間城から大津川を下っていくと、
 約1~1.5キロおきに、高柳谷中台城、高柳城、殿山城、
 追花(おっけ)城と続き、手賀沼に到達する。

 すべて、相馬氏または高城氏との関連が考えられる城である。


写真5 東側からの遠景

 なお、佐津間城は鎌ケ谷市内で唯一、城跡として確認されている遺跡だが、
 その来歴ははっきりしていない。

 南北朝時代頃までは相馬氏の居城で、戦国時代は高城氏の城だったのではないか。

 さて、佐津間城で幸先のいいスタートを切った我々は、次は大澤さんのお薦め、
 印旛村(註:平成22年3月23日に印西市と合併し消滅)の師戸城に向かったのである。

 ※註:この探訪の翌週から仕事が激務と化し、まったく趣味の時間が取れなくなったので、
    結局、この大澤さんとの第1回探訪は、佐津間城しかアップしなかった。
    疲労困憊して、ホームページを作る気力すらなくなったのである。
    写真は当然残っているが、それを見ながら今さら文章を書くことは難しい。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.33 阿曽沼城」はこちら。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

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熊野神社:南北朝時代に大江一族毛利師親の創建と伝わる高尾の古い神社

2013-09-09 18:39:39 | 歴史探訪
 高尾と言ったら、高尾山が有名です。

 どこでどう間違ってそうなったのか分かりませんが、
 高尾山は世界で一番登山客が多い山だそうです。

 何と、その数年間260万人!

 しかし今日は高尾山は紹介しません。

 もっとマイナーな、高尾駅から徒歩圏内の史跡をいくつかご紹介します。

 まずは高尾駅北口の駅舎、これ自体が歴史的建造物なんですよね。


写真1 高尾駅北口

 あれ、全然マイナーじゃない?

 どうもすみません。

 高尾駅は明治34年(1901)、甲武鉄道の「浅川駅」として開業しました。

 この辺は当時は浅川村と言いました。

 浅川村は昭和2年(1927年)に浅川町となり、昭和34年(1959)年、八王子市に編入されました。

 そしてその2年後に浅川駅も「高尾駅」に改称されました。

 現在の駅舎は「関東の駅100選」にも選ばれているのですが、
 昭和2年(1927)の大正天皇の大葬時に造られた
 新宿御苑仮停車場の建材を利用して建てられた総檜造りの建物です。

 現在高尾駅は大規模な改修の計画が進んでいるので、もしかすると何年かの間に
 現在の駅舎はなくなってしまうかもしれません。
 (ただこの計画はあまりスムーズには進んでいないようです。)

 改修後も現在の駅舎をうまく再利用できないか考えているみたいですが、
 高尾にお越しの際には今のうちにじっくりと見ておいてください。

 さて、駅を出て直進すると甲州街道の交差点に出ます。

 その角にひっそりと小さな神社があります。

 山王社です。


写真2 山王社

 由来書きによると、この神社は江戸時代の寛政年間(1789~1801)頃からあるそうで、
 もともとは助七という村人が山に薪を取りに行ったときに猿の死骸を拾ってきて
 それを祭ったのが始まりです。

 それ以来4月の初申の日を祭日と定め、現在でも毎年祭りが行われています。

 このあたりは高尾下宿町会というのですが、我が家のある隣の町会であるにも関わらず、
 まだその祭りに関しては私は何も知りません。

 人知れず200年以上も続いている祭りはこれからも続けて欲しいですね。

 次に甲州街道を日本橋方面に向かい、熊野神社を訪れてみましょう。

 熊野神社の西側には南浅川の支流の初沢川が流れていますが、現在は暗渠となっています。


写真3 熊野神社西側の初沢川(暗渠)

 熊野神社の社地は、街道よりも一段高くなっています。


写真4 熊野神社

 祭神は素邪那岐命(いざなみのみこと。表記は由来書きの通り)。

 由来書きによると、熊野神社の創建の由来には二つの説があります。

 一つ目は、時代は分からないのですが、諸国行脚の老夫婦が
 この地に紀州熊野本宮大社を奉斎したというものです。

 二つ目は、片倉城主毛利備中守師親が応安年間(1368~75)に創建したというものです。

 そして天正元年(1573)には、北条陸奥守氏照が再建しています。

 さて、ここで毛利師親の名前が出てきました。

 古代末期頃、横山荘(八王子市)は、武蔵七党の横山党の横山氏が領主だったのですが、
 横山氏は建暦3年(1213)の和田義盛の乱で和田氏に加担し滅亡し、
 その年のうちに、横山荘は鎌倉幕府の政所(まんどころ)別当(長官)を務めた
 大江広元のものとなりました。

 一方、広元の四男の季光は、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を所領し、毛利を氏としました。

 季光は、安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)の地頭職にもなり、
 子孫がその地に土着して師親に至るのですが、
 師親は南北朝時代に中国・九州地方で活躍しているのにもかかわらず、
 なぜか八王子市内に伝承が多く残っているのです。

 中国・九州地方を転戦していた師親が果たして八王子にやってきたということはあるのでしょうか?

 実はこの件に関してはまだ研究中であり、はっきりとした答えは出せないのですが、
 当時の武将は意外と日本全国を飛び回ったりしていたので、
 師親の八王子来住ももしかしたらあったのかもしれないと考えています。

 でもまだはっきりとは言えないです。

 なお、中国地方の大大名になった毛利元就は師親の子孫です。


写真5 熊野神社社殿

 さて、熊野神社境内には境内神社として他にもいくつかの神様が祀られています。


写真6 神様6柱

 写真6の神様は、右から

 ・天満宮
 ・山王様
 ・上の稲荷宮
 ・抱蒼神
 ・八阪宮
 ・お杓文字様

 です。

 民俗マニアには、抱蒼神(疱瘡神)やお杓文字様(おしゃもじさま)は堪らないのではないでしょうか。

 なので、現地の由来書きをそのままお見せします。


写真7 お杓文字様の由来

 こういう地元密着の面白い話が書いてある神社って好感が持てますね。

 境内神社は他に二つあります。

 一つ目が神武天皇を祭る神社です。


写真8 神武天皇を祭る神社

 そして二つ目が、「下の稲荷宮」です。
 (前述の上の稲荷宮と対応していますが、上と下の意味は分かりません。)


写真9 下の稲荷宮

 熊野神社境内には、縁結びの木があります。


写真10 縁結びの木

 根元がカシとケヤキの相生の木で、かなり立派な木です。

 由来書きによると、この木にまつわる次のようなラブストーリーがあるのです。

 16世紀の終わりごろ、八王子領主北条氏照の家臣篠村左近之助に安寧姫という美しい姫がいて、
 氏照も安寧姫のことを大変可愛がり、城下の月夜峰で催される宴にはいつも側に置いていた。

 宴ではよく獅子舞が演じられ、そのなかに一際上手に笛を吹く狭間の郷士の息子という若者がいた。

 氏照も笛の名手であったので、その若者をよく宴に呼んで笛を楽しんでいた。

 安寧姫も宴に侍っていたから、必然的に安寧姫とその若者とは顔を合わせることが多くなり、
 いつしか二人は恋仲になってしまった。

 そしてこの木の下で密かに逢瀬を重ねていたという。

 その後二人がどうなったのかは、誰も知らない。

 お話は以上なのですが、名将の氏照のことなので、きっとこの二人を夫婦にしたのではないかと
 私なんかは勝手に想像してしまいます。

 現在、この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石を二つ置くと
 願いが叶うそうです。

 ところで、熊野神社のすぐ東側には中世のころは鎌倉街道が走っており(この後探訪します)、
 南浅川の渡河地点でもあるので、熊野神社は戦略上少し気になる位置にあります。

 さて次は、永禄12年(1569)の武田氏と後北条氏の合戦のあった
 廿里(とどり)砦および廿里古戦場を訪ねてみましょう。

 参考文献:
 『八王子探訪シリーズ1 武蔵陵とその周辺』 地域生活文化研究所

 ⇒次回の記事はこちらです。

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小野諸興と小野牧:多摩の中世:第1回

2013-09-08 23:39:55 | 歴史探訪
 本コーナーには「多摩の中世」というシリーズ名をつけた。

 中世の開始時期をいつにするかは研究者によって考えがまちまちだが、私は白河上皇が院政を始めた応徳3年(1086年)以降が適当ではないかと考えている。

 しかし今日のお話は、それよりも百数十年前の時代のお話だ。

 多摩が長い古代を抜けて中世に移り変わっていく時代を語る上では、まずこの人を挙げなければならないという人物がいる。

 小野諸興である。

 『政事要略』によると、承平元年(931)11月7日付け太政官符にて、陽成上皇の私牧だった小野牧を勅使牧にして小野諸興を別当にし、毎年40疋の貢馬をさせることにした。『日野市史 史料集 古代・中世編』が指摘している通り、武蔵における他の勅使牧が貢ぐ馬の数は、由比・小川・石川の三牧合計で30ないし60疋、立野牧が20疋であるので、小野牧はそれらの牧の倍の規模を持っていたことが分かる。

 当然、貢馬の数の何十倍かの数の馬を飼っていたはずなので、そうすると馬の数は凄い数になる。
武蔵野つれづれによると、信濃国諸牧場で飼われていた馬の数は貢馬の20倍であるので、それを小野牧に当てはめると800疋という数になる。

 小野牧の場所に関しては現在まで定説がないようだ。例えば『八王子市史 下巻』では、湯殿川流域の小比企町・館町説、または町田市の鶴見川上流の鶴川・小野路付近説を有力としており、『日野市史 史料集 古代・中世編』では、日野市南部から多摩市・稲城市にかけてと推測している。

 恐らく小野牧と一口に言っても、広大な一つのまとまった敷地を牧場にしていたのではなく、西は八王子市東部・日野市南部から東は稲城市・町田市北部までに至る、浅川・多摩川の南岸の多摩丘陵の地のなかで、一方に柵を造れば馬を囲い込める谷戸地形、もしくは舌状台地をうまく利用して、例えば40匹ずつ、合計20か所の牧場を設定して馬を飼っていたのではないかと私は考えている。それらの総称で小野牧というわけだ。しかし私は馬の生態や飼い方はまったく知らないので、この考えは見当はずれな推測かもしれない。

 さて、その小野牧の別当(長官)の小野諸興は、その姓からして「小野」という地に住していた多摩の有力な土豪であると考えられる。

 諸興の住していた小野は、府中市本宿の小野神社周辺という説と、多摩市一ノ宮の小野神社周辺という説があるが、小野牧が多摩川右岸であるので、後者の地が小野氏の本拠地であると考えられる。

 『本朝世紀』によると、天慶2年(939)6月21日、諸興を始めとして数名が各国の押領使に任命された。押領使は軍事をつかさどる地方官で、その土地に代々根を張っている有力な人物が任命されることが多いと考えられる。このとき諸興は武蔵権介でもあった(仮の官ではあるが武蔵国のナンバーツー)。

 この年の11月21日には、平将門が常陸国府を襲撃するという、それまで国家反逆のグレーゾーンにいた将門がついに一線を越えてしまう事件が起きる。朝廷は将門やその他の関東の危険な人物の活動を抑止する目的で諸興らを押領使に任命したのだろう。

 さて、諸興らの押領使任命の後、朝廷が懸念した将門の叛乱は現実のものとなったわけだが、「平将門の乱」に際して諸興がどのような活躍をしたのかは不明である。

 諸興の活動の形跡は闇の中に消える。

 そしてそらからしばらくして、八王子に横山氏が現れる。武蔵七党の横山党だ。横山氏は本姓を小野姓と称する。小野諸興と横山党はどのような関係にあるのだろうか。それは次回考察してみる。

 なお、諸興の本拠地と思われる多摩市の小野神社はセオリツヒメを祀っているが、過去にアラハバキを祀っていた形跡がある。多摩の有力者小野諸興とアラハバキとはどのような関係にあったのであろうか。しかし、このアラハバキの話題は次回以降には続かないのであった・・・多分・・・。

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黒沢尻柵:岩手県北上市:2001年8月11日:奥州城壁癖(31)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-09-06 19:43:05 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
黒沢尻柵【探訪第2回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.31

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.30 岩崎城」はこちら。

 ⇒黒沢尻柵の探訪第1回目はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 岩崎城跡を見て、少し時間が有るのでオマケで立ち寄ったような黒沢尻柵であったが、
 思いのほか杉坂さんは喜んでくれた。

 杉坂さんは、前九年の役に思い入れがあるようなので、
 ここもそれ関連の史跡ということで喜んでくれたのだろう。

 さて、そこから今度は駅西口へまわって諏訪町へ出て、
 義妹に教えてもらった飲み屋に16時過ぎに突入。

 多分、本日最初の客だと思う。

 早速、生を注文。

 これが、美味いのなんのって!

 今日はホントに暑く、しかも早朝から動きっぱなしだったので、
 この日のビールは今年で一番の美味しさだ。

 その後、美味い酒と料理をつまみつつ、しばしご歓談。

 明日、杉坂さんの仕事が朝早い関係で、今日は早めにお開きにしなければならないので、
 2時間ちょっとしか話ができなかったのは残念であった。

 というわけで、杉坂さんとの第2回合同城めぐりも成功裏に終わったのであった。

 さて、次回は何処へ行きましょうか。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.32 佐津間城」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

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『多摩のあゆみ』は、八王子周辺の多摩地域の歴史や文化について書かれた内容の濃い無料書籍

2013-09-04 12:51:27 | 歴史探訪
 八王子周辺の多摩地域の歴史を調べる上で大変役に立つ本があります。

 しかもその本は、何と無料でもらえるのです!

 その本とは、たましん地域文化財団が発行している『多摩のあゆみ』です。

 たましんというのは、多摩信用金庫のことで、多摩地域に密着した銀行です。

 『多摩のあゆみ』は、多摩地域の歴史や文化について専門的なことを分かりやすく解説した本で、
 著名な研究者も寄稿していますので、大変信頼性が高い内容になっています。

 西八王子の中央図書館の2階に行くとバックナンバーが揃っているのですが、
 最新号は151号で、特集は「大久保長安没後四〇〇年」です。

 『多摩のあゆみ』は、2・5・8・11月の15日に発行されます。

 そしてこの本はどこに行けばもらえるのかというと、
 各地にあるたましんの支店に行くともらえます。

 私も今日、最新号をもらってきました。

 無料なので薄い冊子なのかと想像されるかも知れませんが、最新号は126ページもあります。

 こんな内容の濃い本を無料で配るたましんって凄い太っ腹ですね。

 何でもケチる今の時代には珍しい取り組みだと思います。

 私もたましんに口座を持っていますが、たましんを応援したい気持ちになります。

 ところで、以前私は古本屋で『多摩のあゆみ』をまとめて何冊か買ったことがありました。

 無料の本でも古本屋では値段を付けて売っているのですね。

 実際お金を払ってでも買う価値がある本なので、無料というのは本当にありがたいです。

 たましんにはとても感謝しています。

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岩崎城:岩手県北上市:2001年8月11日:奥州城壁癖(30)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-09-03 22:14:05 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
岩崎城【探訪第2回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.30

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.29 飛勢城(二子城)」はこちら。

 ⇒岩崎城の探訪第1回目はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 飛勢城(二子城)の次は、今回の合同城めぐりのラスト(のはずだった)、岩崎城である。

 三の丸にある枡形など、私の知る岩崎城の見所を案内しつつ、
 模擬天守のある本丸へとゆっくりと向かう。


写真1 模擬天守

 岩崎城に来るのは私は2度目だが、前回来た時は公民館の中に入れず、
 今回初めて入ることができた。

 公民館の中には、和賀氏関連や近世のキリシタン関連、
 それに先の大戦のものなどが展示されており、
 特に我々が驚いたのは、柏山明助のものと伝わる兜である。

 もし、本物であれば凄いなあ。

 最上階まで上がると、ここもまた素晴らしい眺めであった。


写真2 模擬天守最上階から北側の眺め


写真3 模擬天守最上階から南側の眺め

 そういえば義父は初日の出をここで拝んだと言っていた。

 公民館の中では、資料の販売も行っているが、
 和賀氏関連の史跡案内のパンフレットを無料でいただけたのはラッキーだった。

 写真も豊富でわかりやすい。

 杉坂さんは、『和賀一族の興亡』シリーズを3冊すべて購入した。

 この本は私もお薦めである。

 (註:北上市立博物館発行の『和賀一族の興亡』シリーズは、
 和賀氏についての最新の研究成果を上手にまとめたナイスな本である。
 3冊目の「総集編」は和賀氏の城館跡について詳細に述べられている。
 現在入手できるかどうかは分からないが、
 もし入手可能であれば3冊セットでゲットすることをお薦めする。)

 ところで、公民館の中に和賀郡に縁のある人の絵が掲げてあったので、
 その中で特に私のホームページと関連のある人を4人紹介しよう
 (写真提供は4枚とも杉坂さん。というのも私のデジカメはこの時フルメモリーだった)。

 和賀主馬忠親


写真4 和賀主馬忠親

 飛勢城(二子城)最後の城主義忠の子。

 和賀氏再興の望みを伊達家に託して旗をあげたが、
 事は思うに任せず、最後は岩崎城に籠城して抵抗。

 しかし南部軍には抗し難く伊達領へ脱出。

 伊達領内にて自刃して果てたという。

 岩崎弥右衛門義彦


写真5 岩崎弥右衛門義彦

 義翁の子で、岩崎氏は代々岩崎城の城主を務めていたという。

 慶長の一揆の際、花巻襲撃が万が一失敗した場合のことを考え、
 伊達領に近い岩崎城に篭って戦えるよう籠城の準備をするとともに、
 伊達家との連絡業務に従事していたという。

 岩崎城籠城戦にて討死。

 子の弥十郎義高は伊達家に、弥左衛門義昌は南部家に仕えたという。

 江釣子民部


写真6 江釣子民部

 江釣子館館主で、岩崎弥右衛門の娘婿。

 のちに高橋民部少輔吉資と称す。

 怪力無双の人物で、沼にはまった和賀忠親の乗馬を、
 素手で掴みあげて沼地から引きずり出し、
 忠親を救ったという伝説が残っている。

 子の周防守吉久は、南部家に仕えたという。

 黒沢尻五郎正任


写真7 黒沢尻五郎正任

 安倍貞任の弟。

 前九年の役では黒沢尻柵に拠った。

 黒沢尻(北上)の隠れた英雄。

 さて、この後我々は、また義父に迎えに来てもらい、北上駅まで送ってもらった。

 予定ではこのあとすぐに飲みに入るはずだったのだが、
 杉坂さんが前九年の役にも興味があるということなので、
 北上駅の東口近くにある、黒沢尻柵跡(安倍館公園)に立ち寄ることにした。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.31 黒沢尻柵」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

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果たして大江(毛利)師親は片倉城を築城したり広園寺を開基したりしたのか?新たなテーマの発見

2013-09-01 17:44:19 | 歴史探訪
 前回の記事はこちらです。

 さて、「高尾界隈」を読んで興奮状態になった私は、
 自転車を駆って八王子中央図書館へやってきました。

 私が読みたかった『多摩のあゆみ』143号の特集は「中世多摩の荘園と武士」で、
 以下の四つの論文が掲載されています。

 ・「多摩郡の武士と所領形成 -横山氏を中心として-」 鎌倉佐保
 ・「鎌倉幕府の成立と多摩の武士団」 清水亮
 ・「鎌倉・室町期の長井氏と横山荘」 徳永裕之
 ・「戦国時代の椚田長井氏」 黒田基樹

 とりあえず斜め読みしたあと、コピーを取りました。

 そしてそれ以外の『多摩のあゆみ』もチェックして
 (たまにチェックはしていますが、チェック漏れがあるようです)、
 興味がある論文はコピーしました。

 私は高尾周辺や八王子の郷土史を元に、ちょっと面白い企画を考えているので、
 それの実現のために他の郷土史関係もチェックしました。

 色々と面白い本がありましたよ。

 それと、以前都内23区の神社を調べた時に、
 『東京都神社名鑑』の上巻をパラダイスでコピーしたのですが、
 同書は八王子中央図書館にもありました。

 今度は下巻のとりあえず八王子市の部分だけをコピーしたのですが、
 それを読んでみて、また新たなテーマが私の中で鎌首をもたげてきました。

 それは何かと言うと、八王子市内の片倉城の築城や広園寺の開基は、
 大江師親という人物によるものというのが通説であります。

 師親は長井氏と同族であっても毛利家の系統であり、
 毛利家は安芸(広島県)に行ってしまい、
 師親(元春)は南北朝時代に中国や九州で活躍しています。

 その師親がなぜ遠い武蔵にやってきて片倉城を築いたり、広園寺を開基したのか?

 これは私は後世の付会ではないかと、一蹴するつもりでいたのですが、
 『生きている八王子地方の歴史』によると、
 広園寺のある「山田」という地名は、安芸の毛利家の本拠地と同じ名前であり、
 師親が安芸から持ってきたというのです。

 それは本当でしょうか?

 それとも、偶然両所とも「山田」なのでしょうか?

 これはかなり考え込む題材ですね。

 そして、『東京都神社名鑑』を読んでみたところ、
 前も読んでいたのに覚えていなかった点として、
 我が家の近所の氷川神社と熊野神社が、師親の勧請あるいは創建との伝承があるのです。

 もちろん片倉城にある住吉神社も師親の勧請といわれています。

 片倉城や広園寺や各神社の師親伝承が意味するものは、いったい何なのでしょうか。

 もしかするとそれは事実なのでしょうか。

 毛利家は戦国時代に中国地方を統一する大大名になりましたが、
 もし師親伝承が後世の付会だと考えるにしても、
 八王子の人々が故意に八王子と毛利家を結び付ける理由が見つかりません。

 八王子の人々は毛利家と結び付けて何のメリットがあるのでしょうか。

 明治以降、八王子の有力者は、長州閥と関係があったのでしょうか。

 このように今日は地元八王子の歴史に関して、
 とても面白いテーマを発見した日でした。

 果たして大江(毛利)師親は片倉城を築城したり広園寺を開基したりしたのか?

 今後もこのテーマを追いかけて行きたいと思います。

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「高尾界隈」の快挙、中世八王子の領主・長井氏の特集

2013-09-01 16:49:31 | 歴史探訪
 先月はちょっと南部に偏りすぎてブログのバランスが悪くなったので
 (ていうか、いつも悪いんですが・・・)、
 少し地元の八王子の歴史でも載せようかと思って今日は朝から古い『八王子市史』を読みながら、
 長井氏(大江広元の後裔)に関する文章をまとめていました。

 そして、昼飯を食べた後、今日の新聞を見ようとしたら、
 「高尾界隈」という高尾駅周辺の情報紙が目につきました。

 見ると、何と特集は「八王子800年」を記念して、長井氏を取り上げているではないですか!

 超タイムリー!

 古代末期の八王子には武蔵七党の一つ横山党が繁茂していたのですが、
 建暦3年(1213)の和田合戦で、横山党は和田義盛を応援して滅亡しました
 (今年は和田氏滅亡800年および横山党滅亡800年ですね)。

 そのあと八王子を所領したのが鎌倉幕府の政所別当・大江広元で、
 広元の次男時広が出羽国置賜郡長井荘(山形県米沢市・長井市周辺)
 の地頭職に任じられ、長井氏を称します。

 その長井氏の系統が八王子に土着し、戦国時代まで続きます。

 「高尾界隈」が「八王子800年」と言ったのは、
 大江広元が八王子を所領してから800年ということです。

 長井氏は私のいつもの散歩コースになっている初沢城や高乗寺とも縁が深いのですが、
 現在の高尾の住民はあまり長井氏のことを知らないかもしれません。

 八王子が本格的に発展したのは徳川入府後なので、
 それ以前のことはあまり知られていないと思います。

 そこにきて「高尾界隈」の長井氏の特集。

 これは快挙だと、思わずリビングで声を上げてしまいました。

 記事の内容は、長井氏に関する城跡やお寺の紹介なんですが、
 文章の内容もきちんとしていて、長井氏について良くまとまっています。

 そしてその最後に、参考文献として『多摩のあゆみ 143号』が載っていました。

 『多摩のあゆみ』は多摩信用金庫(銀行なのに歴史に力を入れている)が出している本で、
 その143号に黒田基樹さんの論文を始め興味深い論文が載っているようなのです。

 これは読まなきゃ!

 と思い、アイスコーヒーを一気飲みした後、暑い中、
 自転車を漕いで西八王子の中央図書館に行ってきました。

 次回に続く。

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