日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

姉帯城の戦い:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第39回

2013-07-31 12:06:34 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 沼宮内(岩手県岩手町)まで進軍した上方軍はさらに北を目指し、中山峠を越えていよいよ九戸政実の領内である糠部郡(ぬかのぶぐん)に侵入しました。そして政実麾下の姉帯城(岩手県一戸町)を攻撃し、ここに上方軍と九戸勢との戦いの火ぶたが切って落とされました。


姉帯城遠景

 天正19年(1591)9月14日付けの浅野長吉から徳川家康に宛てた書状によれば、8月30日に上方勢は「あねたい城」(姉帯城)と「弥そり城」(根反館。同じく一戸町)を1日で落城させています。書状の上からは、いともあっさりと落城したような印象を受けますが、地元ではかなりの激戦が繰り広げられたと伝わっています。

 姉帯城主姉帯氏の系譜には二つの説があります。

 一つ目は九戸の一族とするもので、江戸時代に書かれた軍記物である『九戸軍談記』では、姉帯城主姉帯兼興の弟兼信が戦陣で名乗りを上げた時に、「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類」と名乗っています。また、『南部藩参考諸家系図』によれば、兼興・兼信という兄弟がいて、その父兼実は九戸連康の子としています。しかしこれに関しては後述する兼興・兼信の年齢からすると世代が合わず、兼実は、実は政実の弟ではないだろうかと私は考えています(以下、九戸一族とした場合の仮説系図)。

九戸信仲 ―+― 政実
      |
      |  姉帯
      +― 兼実 ―+― 兼興
             |
             |
             +― 兼信

 『九戸軍談記』が述べる戦いの様子では、まず初日に姉帯城に向かって進軍中の蒲生勢の曽根内匠が兼信の伏兵に攻撃され痛撃をくらいます。そして翌日の姉帯城攻めでは、内匠は昨日の借りを返そうとしましたが、ここでも討ち負けます。城のすぐ近くでは、今度は兼興が伏兵となりましたが、そちらは蒲生勢に見破られ、兼興は城に引き返し、上方軍の総攻撃が始まりました。


姉帯城東郭東側空堀

 姉帯勢は、兼興の妻小瀧の前も戦いに加わり、兼信は城外に突出して上方勢を掻き乱し戻ってきます。しかし多勢に無勢で、ついに兼興夫妻と兼信は、城内に乱入した上方勢と散々切りあった挙句、辞世の句を残し切腹しました。兼興25歳、小瀧の前21歳、兼信23歳でした。兼興の従弟(実際は叔父か)の松山平太左衛門道長も後を追いました。


姉帯城近くの県道にある看板

 姉帯氏の系譜に関しての二つ目の説は、南部氏の一族とするもので、『奥南旧指録』には以下のとおり書かれています。

南部与次郎助政 ―+― 左衛門尉信時
         |
         |
         +― (数代不明) ―+― 大学兼貞
                    |
                    |
                    +― 某 ―+― 与次郎兼政
                          |
                          |
                          +― 五郎兼信

 助政は、通説では南部家第16代となっています。

 『奥南旧指録』によると、姉帯氏の内部でも南部信直につくか九戸政実につくか揉めており、当主の兼政は政実派、弟の兼信と伯父の兼貞は信直派でした。しかし意見の一致がなる前に上方軍が近づき、兼政が九戸城に籠ったので、兼信も伯父の兼貞も潔く討ち死にして志を後日に顕さんとして、戦うことに決めます。同志には姉帯城近隣の樋口与五右衛門・月館左京・岩館彦兵衛・野田久兵衛・小治屋(小鳥屋)摂津・吉田門助・高館播州・中里弾正・一戸毘沙門堂の別当西法院らが加わりました。

 群がる敵の大軍を相手にして、兼信と兼貞そして同志の諸将は奮闘しましたが、衆寡敵せず討たれてしまいました。

 以上が姉帯氏の系譜と姉帯城の戦いの様子で、さらに姉帯城の北方にある根曽利館(根反館)の根曽利弥左衛門も姉帯城を救援するために出陣しましたが、敵の大軍と出会い驚いて館に戻りました。根反館も攻められて落城します。

 なお、姉帯城は東西の二郭なる堅固な山城で、私は二度探訪したことがあるのですが、最初に義父に連れて行ってもらったときは、東郭と西郭の間の空堀のところでクマに遭遇しました。幸いクマの方から逃げて行って私は助かりましたが、そのときは全身から血が引ける思いをしました。

 さて、姉帯城と根反館を落として気勢を上げた上方勢はさらに北上します。

 政実が九戸城防衛の一の木戸と定めた老ヶ館は、上方勢が別将を背面の山に登らせ鉄砲を撃ち攻撃したので、防衛側は館を保つことができずに九戸城に撤退しました。

 また、政実が二の木戸と定めた浪打峠は、上方勢に加わっていた中野修理(政実の弟)が迂回路を献策したことにより、肩すかしをくらい、こちらも九戸城に撤退せざるを得なくなりました。

 そしていよいよ、上方勢は政実の本城・九戸城に襲い掛かります。

 なお、以前九戸村の古舘保男さんに聞いたところでは、糠部に侵入した上方勢は、支隊を瀬月内川方面に向かわせ、現在の九戸村域の諸館を攻略させたはずだということでした。

 確かに軍隊が行軍するときは支隊を別ルートから進軍させるのはセオリーですので、その説は当たっていると思います。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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九戸勢の防衛体制:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第38回

2013-07-28 13:51:23 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 南部信直は4月13日に嫡男利直を救援の使いとして上方に向かわせ、5月28日に上洛した利直は翌日秀吉に謁見しました。しかし、豊臣政権による九戸討伐のことは、4月23日の時点ですでに決まっていました。利直はきっと安堵して、即刻その旨を父に書き送ったに違いありません。

 その後豊臣政権は出陣の体制を整え、総大将は秀吉の甥の秀次が務め、第一陣として浅野長吉が責任者となり、蒲生氏郷、堀尾吉晴、それに徳川家からは井伊直政が加わり、総勢5万5千が北上し、途中奪回されていた二子城の和賀氏と鳥谷ヶ崎城の稗貫氏を蹴散らし、沼宮内を経由して九戸城を目指し糠部に侵攻してきました。いわゆる奥州の再仕置です。

 上方軍迫るの報を受けた九戸政実は、老ヶ館(岩手県一戸町西法寺)を一の木戸、浪打峠を二の木戸として防衛することにし、北側の搦め手側にも防衛部隊を発しました。

 老ヶ館には、館主岩館慶長の加勢として、

 ・一戸太郎左衛門
 ・小森弥左衛門
 ・西法寺左衛門助
 ・太田与五左衛門
 ・花崎弥三郎

 に500騎を率いさせ向かわせました。

 また浪打峠には、政実弟の中野造酒丞政行に円子右馬丞元綱を添えて、

 ・月館右京
 ・岩館彦兵衛
 ・中里清左衛門
 ・野田靱負
 ・吉田新兵衛
 ・高館播磨
 ・坂元九右衛門
 ・盛田安芸
 ・花崎弥十郎
 ・上野十郎右衛門
 ・高屋将監
 ・晴山治部
 ・円子金吾
 ・蛇口弥助
 ・長内弥左衛門
 ・堀野彦兵衛
 ・工藤新十郎
 ・江刺家才藤
 ・野田権右衛門
 ・坂元新吉
 ・山根彦内
 ・宮野弥三郎
 ・大野弥五郎
 ・三日市越中
 ・小間坂小左衛門
 ・車門小左衛門
 ・小袖弥七郎
 ・二子喜右衛門
 ・大野彦太郎
 ・種市伝右衛門
 ・大守左馬助
 ・長内庄兵衛
 ・鳥谷孫作
 ・田子民部
 ・諏訪新右衛門
 ・南館甚吉
 ・横浜左兵衛
 ・名久井勘兵衛
 ・野辺地久兵衛
 ・和田覚右衛門
 ・天間館源左衛門
 ・新井館兵部
 ・花松左近
 ・有戸喜右衛門
 ・葛巻多中
 ・戸来喜右衛門
 ・筑田甚兵衛

 を、兵2000とともに向かわせました。

 さらに搦め手側の防衛部隊は、政実の弟伊保内美濃守政常と久慈備前直治を大将として、

 ・大沢帯刀
 ・堀野刑部
 ・佐藤外記
 ・上野民部
 ・中村七左衛門
 ・西野勘助
 ・古館小市郎
 ・仲平九郎
 ・坂元式部
 ・池田五郎左衛門
 ・夏井久膳
 ・同弥八郎
 ・戸田監物
 ・山内伊三郎
 ・軽米宇左衛門
 ・鳥谷孫左衛門
 ・名久井尾助
 ・野瀬又左衛門
 ・中村私藤次
 ・新谷孫左衛門
 ・椛木平七
 ・桐嶋筑後
 ・同左近
 ・福田権兵衛
 ・安倍千代松
 ・上斗米民部
 ・橘伝内
 ・小泉又四郎
 ・野田市助
 ・種市孫右衛門
 ・母袋子孫平次
 ・岩泉又三郎
 ・桐内山三郎
 ・新井里平馬

 ら、1000名という陣容です。

 対する信直は3月の政実側の一斉攻撃の後、一戸月館に陣し、中野修理に命じて志和・岩手郡の味方を募りました。しかし、政実が浪打に兵を出すと、吉田兵部と福田掃部が政実側につき、それにより信直は四戸に陣を移します。

 浄法寺氏や阿曽沼氏も政実に味方する構えを見せましたが、上方軍が下向すると、志和・岩手の諸氏や阿曽沼氏は信直の味方につきます。そのほか出羽の小野寺義通や秋田実季、仁賀保勝利、津軽の津軽為信、蝦夷ヶ島の松前志摩守も九戸城攻撃のために出陣しました。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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「発掘された日本列島2013」および明治大学博物館に見学に行ってきた

2013-07-13 15:51:52 | 歴史探訪
 夏といえばアレですね。

 ビール?

 カキ氷?

 いや、それも良いですが、

 「発掘された日本列島」

 も良いですよ!

 そんなわけで、「発掘された日本列島2013」を見学しに、両国の江戸東京博物館に行ってきました。



 私は2010年から毎年行っていますので、今年で4回目になります。

 Amazonの本の購入履歴を見ると、2008年12月26日に『日本の歴史1 神話から歴史へ』(井上光貞著)を購入しており、原始時代について書かれた本を買ったのはおそらくそれが最初だと思われるので、そのころに原始時代への興味が鎌首をもたげてきたということになります。

 それから約1年半後の「発掘された日本列島2010」でおそらく初めて(子供のころの社会科見学は抜きにして)土器や石器をマジマジと見たということになります。

 さて、チケット売り場で600円払って常設展示のチケットを購入し、長大なエスカレーターに乗ってまずは6階に行き、ゲートをくぐります。



 そこから今度は5階に降りると「発掘された日本列島2013」の会場があります。

 おや、入ってすぐのところに何やら大きな物体が見えますね。



 早速入ってみましょう。



 大きな物体の正体は、特集の「陵墓の埴輪」でした。

 陵墓とは皇族の墓として定められている古墳で、立ち入りはおろか調査さえも基本的にできない古墳です。

 それら陵墓の遺物の中から貴重な埴輪が一堂に会しました。

 まずは今では卑弥呼の墓か?との呼び声も高い、奈良県桜井市の箸墓古墳の壺形埴輪です。



 一見、ただの土師器の壺ですが、底に孔が開いてあることから埴輪であることが分かります。

 ちなみに私は箸墓古墳が卑弥呼の墓だというのは現在のところ微妙ではないかと思っています。

 しかしあの時代に傑出した規模の280mもの墓を誰かのために造ったのは事実なので、それが誰なのかと考えると、やはり卑弥呼か、それとも台与か・・・、となってくるのは確かです(まあもちろん邪馬台国大和説の場合ですが)。

 つぎに佐紀古墳群のなかの日葉酢媛命陵古墳(奈良県奈良市)の盾形埴輪です。



 現高は116.5cmですが、上部が失われているとされ、もともとは150cm以上あったと考えられるそうです。

 そして3つめは、古市古墳群(大阪市羽曳野市・藤井寺市)の応神天皇陵古墳の蓋(きぬがさ)形埴輪です。



 さらに日本で一番の墳長を誇る(486m)大阪府堺市の仁徳天皇陵古墳の馬形埴輪です。



 あともう一点、西都原古墳群(宮崎県西都市)の女狭穂塚古墳から出土した円筒埴輪です。



 女狭穂塚古墳は私も見たことがあるんですが、墳長176メートルの九州一の大きさの古墳で、鬱蒼と木々が生い茂っており、外から見た感じでは「山」です。

 そのほかにも貴重な埴輪が何点か展示してありますので、可能であればぜひ会場に足を運ばれて実物をご覧になってみると楽しいと思います。

 ところで、ご紹介が遅れましたが、今回のメニューはこうなっています。



 さて、それでは今回の展示の中で私がとくに面白いと思ったものを何点かご紹介しましょう。

 まずは、全国の男根ファン垂涎の大型の石棒です。



 東京都国立市の緑川東遺跡からの出土で、縄文時代中期末葉~後期初頭(約4000年前)の石棒です。

 どれも1m以上あり、これはかなり立派な部類に入ると思います。

 つぎに、ミミズク土偶です。



 茨城県つくば市の上境旭台貝塚出土で、縄文時代後期後葉(約3500年前)の土偶です。

 写真だと暗くて分かりづらいですが、下腹部の穴はへそではなく女性器でしょう。

 土偶は基本的に女性をかたどった物で、胸やお尻や性器が強調して作られます。

 土偶も石棒も縄文時代の呪術道具だと考えられるので、縄文時代の初期宗教(神道ができる前の日本の宗教)を探求している私にとっては、土偶も石棒も将来的には本格的に研究をしてみたいテーマの一つであります。

 つぎにご紹介するのは、愛知県名古屋市の白川公園遺跡出土の装飾石皿です。



 縄文時代晩期前半(約3000年前)で、縁の部分の帯状のデザインが素敵ですね。

 やはり昔の人も今の人と一緒で、生活用具であっても「可愛い」とか「おしゃれ」とかそういうものを使いたいと思ったわけですね。

 ちょっとした何気ないデザインにも作った人や使った人の愛情が注がれていると思います。

 つぎは古墳時代へ飛んで、徳島県徳島市の犬山天神山古墳出土の石棺と人骨です。



 人骨は女性ですが、女性でありながら集団を率いたリーダーであったと考えられているそうです。

 『日本書紀』を読むと分かる通り、原始時代は女性の酋長も結構活躍していて、古墳時代まではその名残もあったようです。

 つぎに静岡県浜松市の鳥居松遺跡からは、私の仲間のような人の墨書土器が出ました。



 「イナマロ」さん、あるいは「イネマロ」さんですか。

 自分のHNにしようかな。

 ところで大地の中に何百年以上、千年以上埋まっていても、金はその輝きを失わないそうで、掘り出した時点でキンピカに光っているそうです。その一例が同じく鳥居松遺跡出土の金銀装円頭大刀です。



 黄金色に輝いているでしょう?

 さきほどは縄文時代の呪術に関係する土偶や石棒をご紹介しましたが、8~9世紀の遺跡である富山県高岡市の下佐野遺跡からは、川辺で行われた祭祀の道具である「人形(ひとがた)」が出土しました。



 ちゃんと顔が書いてあるんですよ。



 う~ん、ミステリー。

 というわけで、今回の「発掘された日本列島2013」の私がセレクトした面白遺物のご紹介は以上になりますが、ほかにも沢山の展示があるので、東京近辺にお住まいの方はぜひ江戸東京博物館に行ってみてください(7月25日(木)まで)。

 展示は東京の後、

 ・福島県文化センター
 ・松本市立博物館
 ・高槻市立今城塚古代歴史館
 ・九州国立博物館

 を回りますので、その近辺の方も見に行けるチャンスがあります。詳細は、文化庁のこちらのページをご覧ください。

 さて、今年も「発掘された日本列島」を満喫したので、このあとは御茶ノ水の明治大学博物館に寄って帰ろうと思います。

 総武線に乗って両国から御茶ノ水へ移動します。



 明治大学博物館は御茶ノ水駅を降りて3~4分のところにあります。



 今日は2度目の探訪になりますが、入場料無料でかなり貴重な遺物を見ることができます。

 今日は岩宿遺跡関連は韓国に出張中で留守でした。

 旧石器時代の石器を生でじっくりと見たい場合は明治大学博物館が適していると思います。



 東京都の旧石器時代遺跡のエース、板橋区の茂呂遺跡の石器もあります。



 土偶は少ないかな。



 他にも銅鐸があったり、



 銅剣、銅矛、銅戈などもあります。



 今の私はちょうどこの時代の土器に興味があります。



 宮ノ台式土器です。



 弥生時代中期後半で、このころ南関東地方の集落は環濠集落になり、「クニ」の成立までもう一歩!みたいな感じになります。

 古墳時代の五領式土器も揃っています。



 明治大学博物館には、考古関係だけでなく、サディスティックな展示もあって、今回は怖くて見れなかったのですが、人を切ったり刺したりするのに興味がある人も楽しめる展示内容になっています。

 というのは半ば冗談ですが、考古関係の展示は充実しており、しかも無料なので御茶ノ水の近くまでお越しの際にはちょろっと寄ってみることをお勧めします。

 なお、展示内容や開館日(日曜は休み)など詳しい情報は、明治大学博物館のページをご覧ください。

 というわけで、今日も楽しい探訪でした。

発掘された日本列島2013 新発見考古速報
文化庁編
朝日新聞出版


艦隊これくしょん

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葛巻・階上の戦い:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第37回

2013-07-07 11:34:55 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『南部藩参考諸家系図』によると、葛巻城(岩手県葛巻町)の葛巻政祐の妻は九戸政実の女でした。当然、政実は政祐とその父信祐を誘いましたが、政祐は妻を離縁し、南部信直側につきました。政実はそれを怒り、葛巻城を攻撃します。

 葛巻には、八幡館(現在の八幡神社の場所)、鏡沢館(現在の宝積寺境内一体)、それと葛巻館(鏡沢館の東側)がありその総称として葛幕城と呼んでいます。


八幡館中腹から北東側の眺望

 葛巻城の戦いは、政祐の弟直茂がその驍勇をもって活躍し、九戸勢を撤退させることができました。

 葛巻勢は久慈勢と戦ったという言い伝えもあり、葛巻町から久慈市(旧山形村)に少し入ったところに合戦場という地名があり、そこが葛巻勢と久慈勢が戦った場所と伝わっています。

合戦場一里塚

 久慈勢は、道仏館(青森県階上町道仏)を攻撃したとも伝わっており、道仏館は久慈備前政則(九戸政実弟)と櫛引清長らに攻められたといいます。この戦いも館主赤松民部吉時の奮戦により九戸勢は撃退されました。赤松民部吉時は『階上町史』によると政実の妹の婿です。

 道仏館は現在館神社が祀られている場所が唯一の郭ですが、全体を二重の空堀で囲んでおり、北側の部分は四重にもなっています。南側は道仏川が流れており水堀の役目を果たしています。道仏館は単郭式であっても険阻な地形をうまく利用して作られた堅固な館です。


道仏館空堀

 ※葛巻氏に関しては以下の書籍に系図が掲載されています。

南部藩参考諸家系図 第2巻
星川正甫,前沢隆重
国書刊行会


 次回の記事はこちらです。

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