日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

保渡田八幡塚古墳を楽しみ「かみつけの里博物館」で歴史への理解を深める:群馬県高崎市歴史探訪(五)

2013-05-16 19:05:33 | 歴史探訪
 (前回の記事はこちら

 時刻は14時55分。バスの時刻は16時58分ですが、私は博物館や資料館に行くとかなり時間を使うので、保渡田八幡塚古墳は30分くらいで見学してしまいましょう。

 さて、保渡田八幡塚古墳は5世紀の往時のように葺石で覆われ、埴輪も並べられており、前方部がほぼ南を向いています。



 南側には説明板があるので、ここで概要を知ることができます。



 墳丘の長さは96m、外周溝までを含めた墓域の全長は190mということで、さきほど見た井出二子山古墳よりほんの少し小さいですね。



 それでは古墳に乗りこんでみましょうか!



 外堤の上にはパンキッシュなヘアースタイルの盾持ち人埴輪がおり、侵入者を警戒しています。



 外堤に立って古墳を眺めます。



 外堀も広いですね。



 外堀を越えて内堤に立つと、埴輪祭祀の跡が復元されています。



 これは往時のものが復元されており、総勢54体の埴輪は数体ずつユニットになって儀式の様子を表現しているそうです。



 内堀の芝生の上ではシートを広げてピクニックをしている家族連れもいました。

 保渡田八幡塚古墳はご覧のように三段築成です。



 カッコいい!

 軍艦みたいですね。



 内堀を歩いて、少し違う角度から見てみましょう。



 良い眺めだ・・・。

 内堀の中をぐるっと一回りしたら、古墳に登ってみます。



 最上段で後円部を見ます。



 写真のように後円部の墳頂から前方部の最上段にかけて段差が無く繋がっているのは後期古墳の特徴ですね。

 なお、古墳時代は私は、

 前期・・・3世紀半ば~4世紀後葉
 中期・・・4世紀後葉~5世紀後葉
 後期・・・5世紀後葉~6世紀
 終末期・・7世紀

 という感じに分けています(研究者により違いはあります)。

 保渡田八幡塚古墳は、5世紀後半の築造とされています。



 後円部の墳頂に来ると、なにやら地下に降りる階段があります。

 降りてみますと・・・。

 おー!石棺だ!



 この古墳に埋蔵されていた本物の舟形石棺(部分復元)で、全長は2.8m、全幅は1.2mあります。

 これは凄いねえ。



 しばし石棺を眺めた後は、また墳頂に戻ります。



 墳頂からは井出二子山古墳が望めます。



 また、北西方向にはこんもりとした森があり、あそこが薬師塚古墳だと思われます。



 薬師塚古墳も見学してみたいですが、微妙に時間が・・・。

 やはり、博物館の見学がおろそかになってしまうと不味いので、今日は残念ですが、薬師塚古墳の見学は諦めて、かみつけの里博物館へ行ってみましょう。 



 入館料200円を払って中に入ると、まずは昼過ぎから歩きまわって喉が渇いているので、自販機でひゃっこいコーラを購入して一気に飲みます。

 ひやー、うまい。

 一息付いたら、早速見学です。

 なお、かみつけの里博物館は写真撮影NGということでしたので、写真はないです。

 展示室に入ると、中央に5世紀の榛名山東南麓(このあたりの地域)の復元模型があります。

 かなり精緻なもので、見ごたえがあります。

 右手に行くと、三ツ寺Ⅰ遺跡についての展示があり、出土品もあります。

 三ツ寺Ⅰ遺跡は、保渡田古墳群とともに、この博物館の売りですね。

 その横にはこの地域の歴史について知ることができる解説シートが置かれており、ノートを取りながら熟読します。

 あとはやはり目玉といったら埴輪でしょう。

 八幡塚古墳出土の埴輪を始めとして、色々な埴輪が展示してあります。

 私は人物埴輪を見ると、どうも自分に良く似た顔をしているなあと思うのですが、こうして改めて色々な埴輪の顔を見てみると、皆きちんと個性が有って斉一ではないんですね。

 さて、展示室はそんなに広くはないですが、結局私は1時間以上見ていました。

 こんなに長居する見学者もあまりいないと思うので、係りの人も不審に思ったかもしれませんね。

 そして博物館や資料館を訪れたときは見学と並んで資料購入も楽しみです。

 かみつけの里博物館にも面白そうな資料が沢山ある!

 4冊も買ってしまいました。

 さらに文房具や小物などのオリジナルグッズも売っていたので、娘にお土産として古墳の絵の描かれたバンドエイドを買いました。

 古代の呪術パワーで傷も早く治るらしいです。

 お土産を買い終わると16時半になっていました。

 博物館は17時までやっていますが、あんまり長居して気持ち悪がられると嫌なのでバス停に向かいます。

 かみつけの里博物館からバス停までは徒歩10分くらいなので、20分も余ってしまいました。

 これなら薬師塚古墳も行けたかな・・・。いや、微妙だな。

 そんなことを思いながらバスを待ち、ようやくバスが来ると高崎駅まで戻りました(帰りのバスは「系統番号6」です)。

 電車は18時7分で、30分以上時間があるので、高崎駅にくっついているお土産屋さんで家族へのお土産を選びます。

 また、このお土産屋さんが凄い人だ!

 高崎って活気がありますね。

 品ぞろえも豊富で、何を買うか迷います。

 結局、ご飯に乗せて食べる味噌(大根の刻んだのが入っている)と、上州らしくコンニャクでできた栗ようかんを買いました。

 (その後、味噌は特に娘に大好評で、あっという間に無くなりました。)

 さて、夕飯時なので駅弁でも買って車内で食べて帰ろうかなと思いますが、もしかすると車内は駅弁を食べるような環境ではないかもしれないので止めておきます。

 案の定、電車に乗り込むと、八高線は結構人が乗っていて、お弁当を食べるような雰囲気ではありませんでした。

 でもビールは飲みます。

 一日歩いた後のビールは旨いねえ。

 途中、高麗川で乗り換えて八王子に近づくと、段々カレーが食べたくなってきました。

 そうだ!ココイチのハンバーグカレーを食べよう!

 八王子で中央線に乗り換えると、西八王子で途中下車し、ココイチに行って大好物のハンバーグカレーを食べました。

 うまー。

 というわけで、今日の活動を振りかえりますと、3時間かけて電車で高崎に行って、まずは最初期の前方後方墳である元島名将軍塚古墳を訪れ、次に近世城郭である高崎城跡を見学し、お昼は城の近くの「ひゃくはち」で美味しいつけ蕎麦を食べ、天華堂書店で『続・群馬の古城』を購入、それから保渡田古墳群を見る前に伝長野業盛の墓を詣で、井出二子山古墳、ついで保渡田八幡塚古墳を見て、最後にかみつけの里博物館を見学し、帰宅途中にココイチでカレーを食べたということになります。

 6時から稼働し、帰宅は22時前で、充実した一日でした。

 あー、面白かった!

艦隊これくしょん

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上毛野西部最大勢力の墳墓・井出二子山古墳(保渡田古墳群)を訪れる:群馬県高崎市歴史探訪(四)

2013-05-14 00:26:26 | 歴史探訪
 (前回の記事はこちら

 バス停の9番乗り場のベンチで『続・群馬の古城』を読みながらバスを待っていると、市内循環バス「ぐるりん」がやってきました。13時40分発の「系統番号5」です。

 バスに乗り込むと、また少し緊張します。

 でも今度は車内前方の掲示板に次のバス停が表示されるので安心です。

 バスは街のなかを北へ向けて走り、30分くらいかけて「井出町西」に着きました。

 「ぐるりん」は料金が一律200円で、これは良心的ですね。

 バスを降りると早速古墳を目指しますが、今はまだ「かみつけの里博物館」の近くに古墳がいくつかある、という程度の知識しかないので、まずは地図に書かれた「かみつけの里博物館」を目指すことにします。

 県道から田舎道に入ると、おや、前方に何か見えます。



 古墳です!



 じゃあ、あそこに行ってみましょう!ということで歩いていると、何か標識があります。



 「伝箕輪城主長野業盛之墓」ですと!

 長野業盛といったら箕輪城(高崎市箕郷町)に拠って武田信玄と戦った武将で、確か「信長の野望」でも強い武将だったはず・・・(『日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬』によると、箕輪城は永禄9(1566)年9月29日に落城し、業盛は自刃しました)。

 その業盛の「伝」墓がこの近くにあるということです。

 標識の通りに道を左折します。

 古墳はさっきよりも近いですが、この道は古墳に近づく道ではありません。



 標識より5分くらい歩くと、小さな墓域がありました。

 「なりもりぼえん」とあります。



 その中に五輪塔があって、これが業盛の墓と伝えられるものですね。



 説明板によると、業盛は自刃後、この地の僧法如らによってここに葬られたと伝わっているそうです。

 なお、箕輪城はここから北西方向3.5km強のところにあります。

 墓に手を合わせた後、北へ向かって歩きます。

 古墳は段々近づいてきます。



 いよいよです!



 周溝(古墳の周りの堀)もかなり広い。



 (後で知りましたが、写真の柵の内側は内堀でその外側、私が立っている場所は外堀が廻っています。)

 伝長野業盛の墓方面から来たので、古墳へは西からのアプローチとなり、古墳は前方部をほぼ西に向けています。



 前方部に登って、後円部を見てみます。



 おや、左手奥の方にももう一基古墳が見えますね。



 あっちは後で行ってみましょう。

 ところで、さっきから古墳、古墳と言っていますが、この古墳は「保渡田(ほとだ)古墳群」の中の「井出二子山古墳」と言い、5世紀第3四半期(451年~475年)に築造された前方後円墳で、全長は108.5mあります(外堀まで含めたら何と213m!)。

 間近で見るとかなり大きいです。

 後円部の墳頂には石棺の実物大の写真のパネルが置かれ、石棺についての説明が書かれています。



 石棺は凝灰岩をくりぬいた長さ2.9mの舟形石棺です。 

 主体部(埋葬施設)はここともう一箇所あり(北側)、そちらは全長が160cmを超えることのない規模であり成人ではない可能性があります。また主体部はもう一つあった可能性があります。

 墳頂から北方を見ると高い山が並んでいますが、どの山が何山かは分かりません。



 古墳の周りには田畑が広がっており、保渡田古墳群は結構広い平野のなかにあることが分かります。



 北側に降りて、古墳を眺めます。



 良いねえ。

 古墳の東側には、説明板がありました。



 保渡田古墳群は、この二子山古墳と八幡塚古墳と薬師塚古墳の総称だそうです(築かれたのもその順番)。



 ここから南東方向約800mの地点には三ツ寺Ⅰ遺跡という、古代の豪族の居館跡(同時代の居館跡遺跡の中では最大規模)があるのですが、ここ保渡田古墳群は、その三ツ寺Ⅰ遺跡に居館していた首長の墓だそうです。

 今日は予備知識無しで来ましたが、保渡田古墳群の概要はこれで分かりました。



 井出二子山古墳の東側には竪穴式住居と小さなお墓がありますが、これは井出北畑遺跡(井出二子山古墳の西側)にあったものを移築したものです。



 さて、この保渡田古墳群は烏川の支流の井野川の上流にあり、下流(南東方向)10km強のところには、午前中訪れた元島名将軍塚古墳があります。

 元島名将軍塚古墳は、比田井克仁氏の説では3世紀後半(『群馬県史 資料編3』では4世紀末)の古墳ですが、『群馬県史 通史編1 原始古代Ⅰ』によると、その時点における前橋台地西側の首長の墓で、その頃は前橋台地東側の前橋八幡山古墳(前方後方墳)の被葬者と前橋台地を二分する勢力でした。

 その後の上毛野地域の政治権力の行方をさらに『群馬県史 通史編1 原始古代Ⅰ』をもとに記述しますと以下のようになります。

 前橋八幡山古墳のすぐ近くにはその後、前橋天神山古墳(東国の最初期の前方後円墳)が築造されましたが、その全長は129mという、当時の東国では一番の規模を誇っており、その被葬者は前橋台地だけにとどまらず、東国全体でもトップの地位にいた人物であったと考えられます。

 前橋天神山古墳からは三角縁神獣鏡が出土されており、それ以外の上毛野のもっと小規模な古墳から出土された三角縁神獣鏡は、いったん倭王権から前橋天神山古墳の首長に分配された物をその人物がさらに地域の有力者に分配したものであると考えられています。

 その後、前橋台地と倉賀野台地を統合する形で、浅間山古墳(高崎市倉賀野町。全長175m余)の被葬者が現れます。浅間山古墳の平面プランは前橋天神山古墳と同じで、両者は同一系統であると思われます。

 それから、5世紀には太田天神山古墳(太田市)の被葬者が現れます。太田天神山古墳は、全長210mの東日本最大の古墳で、石棺は倭国の中でももっとも身分が高い階層の者しか使えない組合式長持形石棺を採用しています。

 その頃、ここ井野川流域では、下流域に不動山古墳と岩鼻二子山古墳が築かれ、その直後その政権は上流域に移り上並榎稲荷山古墳と、ここ保渡田古墳群が築かれるようになります。 

 保渡田古墳群は、当時の県南平野では唯一の前方後円墳であり、ここに葬られた首長は、5世紀後半から6世紀初頭にかけての上毛野地域西側の最大勢力でした。

 なお、井出二子山古墳が築造された時期の日本最大の古墳は、雄略天皇の墓とされる大阪府の岡ミサンザイ古墳(242メートル)ですが、それに次ぐのは奈良県の狐井城山古墳(140メートル)で、第3位グループとして、井出二子山古墳や埼玉県の埼玉稲荷山古墳、栃木県の摩利支天塚古墳などが110~120メートル級で名を連ねます(『古墳時代毛野の実像』所収若狭徹著「中期の上毛野―共立から小地域経営へ―」)。つまり井出二子山古墳は、築造時期においては国内でも有数の規模を持った古墳だったのですね。

 ところで、上毛野には半島の文化がかなり入りこんでいます。

 『山麓の開発王 井出二子山古墳の世界』によると、井出二子山古墳の石棺周囲からは朝鮮半島製である金銅製馬具や金製装飾具が見つかっていますが、保渡田古墳群の北西1kmの地点には、渡来人の墓(下芝谷ツ古墳)や渡来人の集落(下芝遺跡群)があります。

 上毛野一族の荒田別やその子の竹葉瀬や田道は4世紀後半に朝鮮半島で活躍しており、そのときに招聘した朝鮮人を上毛野に配置し、その人びとの子孫の遺跡が上記の遺跡かもしれません。

 さて、井出二子山古墳の北には、葺石で立派に復元されたもう一基の古墳があります!



 八幡塚古墳ですね。

 次はそこへ行ってみましょう!

 (つづきはこちら

艦隊これくしょん

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高崎城跡で心を和ませ美味なる「つけそば」と出会う:群馬県高崎市歴史探訪(三)

2013-05-10 16:58:40 | 歴史探訪
 (前回の記事はこちら

 高崎駅前に戻ってくると時刻は11時15分。

 まだお昼まで少し時間があるので、近世城郭の高崎城跡を見てみましょう!

 高崎城跡の場所は地図で見ると現在の高崎市役所があるところみたいです。駅の西口近くになります。

 少し街の中をブラブラしていると、眼前に高層ビルが現れました。



 高崎市役所です。

 立派なビルだなあ。

 さらに路地をニョロニョロ歩いていくと、これはあきらかに城跡だろうという場所にたどり着きました。



 高崎城跡の一角らしいです。

 お堀が廻ってますね。



 そこから西側のすぐのところで土塁が切れており、城の入口になっています。



 説明板がありますね。見てみましょう。



 そうか、高崎城は井伊直政の居城だったんだ!

 井伊直政は現在は「ひこにゃん」として活躍している(?)徳川四天王の一人ですね。

 私は近世城郭や江戸時代の歴史はあまり知らなくて、今日も高崎城跡を訪れるに際してまったく勉強をしてきませんでした。

 なので、新しく知識を得られることがとても楽しい!



 堀沿いの土塁には色とりどりの花が咲いていてとても美しいです。



 三の丸に入って、土塁を内側から見ます。



 近世城郭といったら石垣だと思いますが、私は中世城郭の趣を残している土塁がとても好きなのです。

 土塁には登れるようになっており、土塁の上がずっと散策路になっています。また、そこにも花が植えられています。

 さて、城内三の丸は広い公園になっていました。



 この広さがとても開放感を感じさせてくれます。

 三の丸を土塁に沿って北上すると、土塁が凸形に屈曲している個所がありました。

 最初、枡形(城門を守る施設)かなと思ったのですが、城門はありません。



 写真だと分かりづらいですね。

 土塁や空堀などの防衛ラインは一直線にするのではなく、一部を屈曲させると防御力が増すのです。

 さらに北上すると、現在の大手門(江戸時代のではなく現代の市役所の大手門)に来ました。

 一旦城外に出て、城内を眺めてみます。



 再度城に入って、そこからさらに北上すると、乾櫓(いぬいやぐら)がありました。



 乾櫓がある土塁に登ってみます。



 説明板があるので読んでみましょう。



 なるほど、もともとは本丸の土塁の乾(北西)隅にあった櫓なんですね。

 それが後世になってここに移築されたということです。



 横には東門も移築されています。



 江戸時代の貴重な文化財ですね。



 いかにも近世城郭って感じで良いです。



 江戸時代の高崎城は、現在乾櫓と東門が建っているところの入口に大手門がありました。

 さて、高崎城があった場所には、さきほどの説明板にもチラッと書いてありましたが、もともとは和田氏の居城である和田城があり、和田城は正長元年(1428)、和田義信によって築かれました。

 地理的には烏川の東岸崖上にあり、鎌倉に幕府が置かれて以降、碓氷峠を経由して鎌倉と京都を結ぶ交通の要衝でした。

 義信は関東管領上杉憲実に従い、永享の乱(永享10年(1438))を戦っています。

 その直後の結城合戦では結城城に攻め込み、和田左京亮と大類中務丞が敵方である桃井左衛門督の伯父と称する入道と戦い、3人とも相討ちとなっています。

 また、義信の一族と思われる八郎左衛門は、尹良(ゆきよし/これなが)親王に属していたと言われますが、この尹良親王という人物がまた謎の人物で面白いのです。

 尹良親王は南朝の後醍醐天皇の孫と伝えられていますが、伝説上の人物の可能性が高く、民俗学の柳田國男も尹良親王の伝承を探究しています。

 戦国時代の後半戦では、この辺りでは上杉謙信と武田信玄が攻防を繰り広げたのですが、和田業繁は最初謙信につき、その後信玄に従っています。

 天正3年(1575)の長篠の戦いでは、業繁も和田衆を率いて出陣、君ヶ臥戸の砦を固めていましたが、味方の鳶ヶ巣山の砦が酒井忠次に落とされ、業繁は鳶ヶ巣山奪還を試みましたが失敗、潰走します。

 殿(しんがり。退却の最後尾で敵を食い止める)をつとめた七人の勇士の奮戦で和田勢は辛くも窮地を脱しましたが、業繁は鉄砲に当たってしまい、信州駒場で死にました。

 その後、業繁の跡を継いだ子の信業は、武田氏滅亡後北条氏に従い、天正18年(1590)、小田原城に籠城、和田城も豊臣軍に降り、城は廃城となりました(以上、『日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬』)。

 おっと、ついつい中世の話に夢中になってしまいましたが、近世になると井伊直政は和田城跡を改修するのではなく、一旦ぶち壊して、新たに縄張りしました。

 その近世の高崎城も現在、本丸と二の丸は完全に破壊されており、往時を偲ぶ物は何も残っていません。

 高崎城跡は重ねて言いますが、広々としていてとても雰囲気が良いです。

 いかにも平城ばかりになった近世の城の跡という感じですね。

 さて、時刻はお昼となりました。

 城を出て何か食べようかなあと思っていたところ、「つけそば」のお店が目にとまりました。

 そういえば、私はつけ麺は大好物ですが、つけそばは食べたことがありません。

 なにやらスープが甘辛いとのこと。

 私は甘辛い味が大好きです。

 いっちょ、食べてみますか!

 お店に入ると、カウンターだけの小じんまりとしたお店で、ジャズが流れています。

 おそばは大盛りも無料ということでしたが、セルフサービスでご飯も食べ放題ということなので、おそばは普通盛りにしてもらいました。

 注文してしばらくすると、初めて食べるつけそばが出てきました。

 セルフサービスのご飯をよそってきて、さっそく食べてみます。



 一口食べると、

 !!!

 これは旨い!

 辛いというほどではないですが、甘みのある凄く美味しいスープです。

 牛スジで出汁を取っているということで、良い味が出ています。

 白ゴマもたくさん入っているのですが、ゴマの風味がアクセントになって凄く良いです。

 白いご飯にも良く合う!

 夢中で食べました。

 とても美味しかったので、清算のときに思わずお店の人に声を掛けてしまいました。

 お店の名前は「ひゃくはち」と言います。



 城に近い方のスズランのすぐ東側にあります。

 (いやー、正直、後で思い出してもまたあのつけそばを食べに高崎に行きたい・・・。)

 さて、お腹一杯幸せ気分になったあとは、地図でみつけた本屋さんに行ってみたいと思います。

 少し歩くと「中央銀座」がありました。



 銀座の名のつく商店街って各地にありますね。

 しかし今日は休日だからかもしれませんが、シャッターが下りている店が目に付きます。



 少し歩くと左手に本屋さんが見えてきました。「天華堂書店」です。



 私は地方に行くと必ず本屋とか古本屋に行きます。

 地域で出版された貴重な本が売っていることが多いからです。

 天華堂書店でも、歴史コーナーで山崎一著の『続・群馬の古城』という本を見つけました。あかぎ出版という群馬の出版社の本です。

 これは買いだ!

 やったね!

 さて、午後のバスの時間は13時40分で、今はまだ12時半です。

 城内に戻って図書館に行ってみようかとも思いますが、喫茶店でコーヒーでも飲みながら『続・群馬の古城』を読もうかなとも思います。



 しかし結局、お金を使うのももったいないので、西口のバス停まで戻り、バス停のベンチで缶コーヒーを飲みながら読書をすることにします。

 1時間の読書タイムです。

 それにしても、高崎って良い街だなあ。

 広々としていて、小奇麗で、人の数もちょうど良くて活気があります。

 見たところ、食べ物屋さんも結構あって、美味しそうなラーメン屋もあったのでグルメの方にも満足してもらえそうです。

 まあ、私はさっきの「ひゃくはち」のつけ蕎麦がまた食べたいですが!

 (つづきはこちら

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元島名将軍塚古墳(前方後方墳)で狗奴国の幻影を見る:群馬県高崎市歴史探訪(二)

2013-05-09 15:06:29 | 歴史探訪
ここにあった記事は、「日本史大戦略」に移動しました。

⇒こちら
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群馬県高崎市歴史探訪(一):八高線に乗り武蔵七党の故地を北上する

2013-05-06 17:52:21 | 歴史探訪
ここにあった記事は、「日本史大戦略」に移動しました。

⇒こちら
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織田信長がほぼ天下人になった際にベースになったものは何か?

2013-05-01 17:32:49 | 歴史コラム:中世
 織田信長は戦国時代に日本の中枢部を統一した武将として有名ですが、彼がほぼ天下人になれたのは、先祖代々継続して行ってきた仕事の結果によるものでした。

 平清盛にせよ源頼朝にせよ、また足利尊氏や徳川家康など、天下を取った人びとは、まるで彼一代で偉業を成し遂げたように思われがちですが、みな父祖の働きがベースになって天下を取ることができました。

 唯一、豊臣秀吉のみ異例ですが、彼とて普通の農家よりは屋敷が広く、広範囲にわたって父親譲りの人脈を有していたようです。

 さて、信長の先祖に関しては、越前(福井県)の織田剣神社の神官であったという説が正しいようですが、現在残っている家系図は、他の家の家系図同様、後世に創作されたもので、確実なところとしては、信長の曽祖父良信以降と見ておいた方が無難です。

 その良信は、尾張「下」半国守護代・織田大和守家の家臣でしたが、愛知県一宮市の妙興寺領5箇所を横領しています(祖父信貞・父信秀も引き続き横領を重ねます)。

 信長の家系(織田弾正忠家)は判明しているだけで曽祖父の代には早くも武力を使って私領を増やし始めていたのです。

 しかも良信が横領した土地は、尾張「上」半国守護代・織田伊勢守家の勢力下です。武力による切り取り自在の戦国時代ならではの仕業ですね。

 つぎに、祖父の信貞(定)は、大永4年(1524)に港町で交通の要衝、かつ宗教上でも重要な町である津島を占領しています。

 これにより織田弾正忠家は経済的に大きく雄飛します。こののち織田弾正忠家がさらに勢力を伸ばして行くのも、経済的感覚に優れた信貞の津島占領が大きな要因になっています。

 ついで、父の信秀の代になると主家である織田大和守家とほとんど対等に付き合うようになり、ときにはそれと戦いもし、信秀の経済力はあいかわらずもの凄く、家老の平手政秀(信長の教育係として有名ですね)ですらかなりの財をなしていたと尾張を訪問した公家の山科言継は記録に残しています。

 信秀は皇居修理のために朝廷に多額の献金をしており、これがのちに信長が上京した際に朝廷に好意的に対応されることに繋がります。

 また信秀は、縦横無尽の働きで、尾張国内(ときには隣国までも)の領地を増やしていきました。

 このように先祖代々の働きがベースになって信長はほぼ天下人になることができたのです。

 ですから、あなたも子孫に資産なり人脈なり知識なりを受け継がせることができれば、もしかしたらあなたの子や孫が天下を取ることになるかもしれませんよ。

尾張・織田一族
谷口 克広
新人物往来社


艦隊これくしょん

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