日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争/鈴木拓也著:蝦夷と律令国家(古代日本)の対立の歴史

2013-03-31 15:23:25 | 雑談
 『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』は、吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズの第3巻で、奈良時代に入る直前の和銅2年(709)の征夷から「三十八年戦争」が終結する弘仁2年(811)までの律令国家の対蝦夷政策について時系列で分かりやすく解説した本です。また、「三十八年戦争」の後、全国で生きのびた蝦夷についても言及しています。

 その間のトピックスといえば、和銅2年(709)の征夷から始まって、養老4年(720)の上毛野広人(かみつけののひろひと)の殺害と神亀元年(724)の佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)殺害、大野東人(おおののあずまびと)による多賀城の設置と奥羽連絡路の建設、そして律令国家と蝦夷が泥沼の戦いを演じた「三十八年戦争」と続きます。

 「三十八年戦争」は、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が「宝亀5年から当年に至るまでの38年間、国境を侵す敵がしばしば動き、警備が絶えることがなかった」と述べたところからそう呼ばれています。

 「三十八年戦争」のクライマックスは何と言っても、奥羽に大変な影響を与えた伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の反乱を序曲にした阿弖流為(アテルイ)と坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)との戦いですが、どのような戦いを演じたかは『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』を読んでのお楽しみと言うことにしておきましょう。

 『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』は、考古学上の新たな発見も散りばめられていて、遺跡を含めた立体的な視野で律令国家の対蝦夷政策を見ることができます。

 『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』は、蝦夷と律令国家の対立の歴史について知りたい方へ向けた入門書となっています。

<『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』を読むとこんな疑問が解消できる!?>

・律令国家が征夷を行った理由は何か?→P.2

・蝦夷はアイヌか?日本人か?→P.3

・蝦夷の居住範囲はどの範囲か?東北以外にいたのか?→P.4

・蝦夷が得意な戦法は何か?→P.6

・蝦夷と俘囚(ふしゅう)の違いとは?→P.8

・律令国家が設置した20箇所以上の城柵はそれぞれどこにあったか?→P.13

・阿倍比羅夫の北方遠征の目的は何か?またその成果は?→P.17

・征夷に向かう将軍に授けられた節刀とは何か?→P.18

・征夷に動員された兵力の実態は?→P.24

・城柵は単なる砦か?それとも?→P.29

・山形県と秋田県の前身である出羽国が置かれた経緯は?→P.33~41

・「征」が付く将軍と「鎮」が付く将軍の違いは何か?→P.37

・按察使上毛野広人殺害の現場はどこか?→P.45

・鎮守府はいつ創設されたのか?→P.53

・多賀城とは何か?→P.57

・「坂東」という言葉はいつから使われ始めたのか?→P.61

・俘囚が諸国に移配された初見は?→P.69

・太平洋側の陸奥国と日本海側の出羽国を結ぶ計画路とは?そしてそれは完成したのか?→P.72~80

・律令国家と蝦夷の大戦争である「三十八年戦争」はどのような経緯で始まったのか?→P.88~103

・カリスマ的指導者・阿弖流為(アテルイ)はなぜ出現したのか?→P.90

・大伴駿河麻呂が制圧した遠山村とはどこか?→P.104

・現在の盛岡市・紫波郡周辺にあったと考えられる志波村は出羽国の管轄だった?→P.108

・伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)はなぜ反乱を起こしたのか?→P.116

・道嶋大楯(みちしまのおおたて)は蝦夷ではない?→P.116

・桓武天皇の「桓武」の意味は何か?→P.140

・桓武天皇が2度の遷都と3度の征夷を行った理由とは?→P.142 P.146 P.151

・桓武天皇が征夷の際に加護を期待した関東の神とは?→P.157

・アテルイが桓武天皇の軍隊を撃破した戦いはどのようなものだったのか?→P.164

・アテルイは紀古佐美との戦いでなぜ北上川の東岸を戦場に選んだのか?→P.167

・気仙郡の成立のきっかけは?→P.174

・坂上田村麻呂が桓武天皇の第二次征討で征東副使に起用された理由とは?→P.189

・初代征夷大将軍は坂上田村麻呂ではない。では誰か?→P.197

・アテルイと坂上田村麻呂との戦いの結果は?→P.206

・坂上田村麻呂がアテルイの助命を求めたのは何故か?→P.210

・アテルイの処刑地と墓地はどこか?→P.211

・若い藤原緒嗣が桓武天皇に真っ向から征夷と造都を中止させる意見を述べられたのは何故か?→P.215

・最強の将軍・坂上田村麻呂の好々爺たる素顔とは?→P.227

・坂上田村麻呂の本物の墓が発見された!その場所とは?→P.228

・「三十八年戦争」の最後の戦いはどのようなものだったか?→P.231~242

・和我(和賀)・薭縫(稗貫)・斯波(志波)の三郡は通常の郡ではなかった?→P.233

・降伏した蝦夷を全国に散らばらせた律令国家の狙いとは?→P.249

・全国に散った蝦夷はどのような処遇を受けていたのか?→P.249~265

・天皇の諡号から「武」の文字が消えるのと軌を一にして起きたこととは何か?→P.271

<データ>

『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』

・鈴木拓也著
・吉川弘文館
・2008年
・2500円(税別)

カバーしている時代:奈良時代(8世紀)~平安時代(9世紀)
カバーしている地域:主として東北地方
ページ数:295ページ
難易度:やさしい

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)
鈴木 拓也
吉川弘文館

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日本の歴史01 縄文の生活誌(講談社学術文庫版)/岡村道雄著:旧石器・縄文時代の歴史と文化

2013-03-31 00:10:44 | 雑談
 以前ハードカバーで出ていた同シリーズの初版は、2000年の「前期旧石器ねつ造事件」発覚前のリリースだったので、事件後、それの改訂版が出され、さらにそれを講談社学術文庫版としてリリースしたのが本作品です。

 内容的には旧石器時代と縄文時代を概説したもので、分量は旧石器時代は41ページ、縄文時代は231ページ、そして補章として収められた「遺跡捏造事件について」が34ページを占めます。

 『日本の歴史01 縄文の生活誌』は、分かりやすく読みやすい文章で旧石器時代と縄文時代の歴史と文化について書かれており、ユニークな点は基本的には一般的な解説文になっていますが、ときどき文章を物語タッチに書いているところがある点です。旧石器時代や縄文時代の生活の一端を短い物語でまとめており、当時の情景が想像できとても理解しやすいです。

 また、縄文時代といえばその代表は縄文土器ですが、著者の岡村道雄氏は、土器の出現をもって学問上の時代区分、縄文時代の始まりの目安としています。

 2007年6月現在、全国には45万7千箇所の遺跡があり、そのうち1600箇所が史跡に指定され、そのなかで旧石器時代の遺跡は9箇所、縄文時代の遺跡は約160箇所あるといいます。

 縄文時代の衣食住や死との関わりあいなどについても詳述されています。

 なお、『日本の歴史01 縄文の生活誌』で述べられていない点を一点補足しますと、旧石器時代は前期・中期・後期と分かれ、後期にあたる約3万5千年前から約1万3千年前の時点では、まだ確かな化石人骨は発見されていないということですが、Wikipediaによりますと、沖縄県那覇市の山下町洞人は、約3万2千年前の6~7歳児の大腿骨と脛骨であり、それが国内最古の人骨とされています。

<『日本の歴史01 縄文の生活誌』を読むとこんな疑問が解消できる!?>

●旧石器時代

・日本列島はいつ大陸と地続きになっていたのか?そして日本列島に人が渡ってこれたとしたらそれはいつだったのか?→P.14

・アジア人の原人→旧人→新人への進化は、ミトコンドリア・イブ説にそぐわない?→P.18

・愛知県豊橋市の牛川人の化石はヒトじゃない?→P.20

・日本列島の最古の人類は何万年前にいた?そして彼らはどんな石器を使っていた?→P.24

・日本列島固有の文化が明確となり、東西に大別される文化圏が形成されるのはいつ頃か?→P.29 P.46

・後期旧石器時代の生活痕である環状ブロックとは何か?→P.32

・芸術や祭祀の始まりはいつ頃か?→P.37

・旧石器時代の人びとの行動範囲はどのくらいか?→P.43

・後期旧石器時代の日本はいくつの文化圏に分かれていたのか?→P.49

・日本が酸性土壌で遺物が残りにくいのはなぜか?→P.51

●縄文時代

・人びとが土器を作り出した理由は何か?→P.52

・日本列島内の土器によって分けることができる文化圏はいくつあったのか?→P.56

・縄文文化はどの地域から始まったのか?→P.58

・定住とは何か?→P.78

・ムラから離れたところにある巨大な貝塚の正体は?→P.84 P.202

・巨大遺跡・三内丸山遺跡はいったい何が凄いのか?→P.88

・縄文時代に世襲化したリーダーはいたのか?→P.106

・縄文時代の労働時間は?→P.147

・抜歯習慣は日本中で共通だったのか?→P.151

・縄文人は何を食べて暮らしていのか?→P.167

・塩はいつから作られるようになったのか?また製塩方法は?→P.168 P.240

・縄文人は栗を栽培していた?→P.174

・縄文人はどのような家に住んでいたのか?→P.182

・三内丸山遺跡の墓が4種類あるのは何故か?→P.194

・縄文社会は階層化がどの程度進行していたのか?→P.197

・縄文人は海や川の上を何で移動していたのか?→P.206

・性器が表現された物体とは?→P.213

・縄文時代の祭祀とは?→P.221

・土偶とは何か?→P.224

・縄文人は死者とどのように接したか?また墓はどのように作ったのか?→P.226

・縄文時代後期、東北地方の縄文人たちはどこへ行ってしまったのか?→P.242

・環状列石(ストーンサークル)とはどのようなものか?→P.253

・縄文人は何へと進化したのか?→P.275

<データ>

『日本の歴史01 縄文の生活誌』(講談社学術文庫版)

・岡村道雄著
・講談社
・2008年
・1150円(税別)

カバーしている時代:旧石器時代~縄文時代
ページ数:352ページ
難易度:やさしい

縄文の生活誌 日本の歴史01 (講談社学術文庫)
岡村 道雄
講談社

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小説・七戸家国の戦い(三):戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:番外編

2013-03-28 19:09:37 | 戦国南部興亡記
 翌天正十八年春、雪が融けるのを待って、三戸の南部信直は七戸家国討伐の軍勢を催した。去年の合戦で自分の縄張りを荒らされたことに対する報復である。

 大将は八戸薩摩守政栄、副将に新田左馬助政盛。総勢二千の兵力で根城を進発した。五戸川を渡ると、近隣の又重弥五郎秀俊・戸来治部保秀・中市吉左衛門常之・木村伊勢秀茂が各々百から二百の手勢を率いて合流した。さらに前年激戦を繰り広げた伝法寺館に入ると、南河内守直政が手勢三百を率いて馳せ来たった。直政は南家当主盛義の叔父にあたり、今は下田を任されている。そのほか周辺の諸将を加え、総勢四千の兵力に膨れ上がった三戸勢は、奥入瀬川の手前で八戸政栄が率いる歩兵中心の三千五百の本隊と南直政の率いる騎兵からなる五百の支隊に分かれた。

 直政は下田に入部してから騎馬隊の統率に磨きをかけてきた。直政の率いる支隊は騎馬の強みを発揮し高速に移動し、本隊が奥入瀬川を渡河し隊列を整えている頃には既に洞内に到達していた。直政は先年の法師岡の合戦で討ち死にした甥たちと気性が似ている。性急に勝ちを求め突進する性質である。

 敵方の三千ほどの大軍が奥入瀬川を渡河したとの知らせを受けた七戸城では、慶高をはじめ籠城戦を主張する家臣も多かったが、家国は、天間館源左衛門や野辺地久兵衛らを率いて、すぐに出撃できる限界数の千の兵力で出陣した。

「兵は神速を尊ぶものだ。それに合戦は兵の多寡で決まるものではない!」

 そう息巻いて出撃する家国を見送った慶高は、

「合戦はまず数を集めることが肝要ですよ」

 と薄笑いを浮かべていた。



 七戸勢の物見が直政の軍勢を探知し、行軍中の家国に報告した。

「なに、数は四・五百人ほどだと。最初の報告と違うな。源左衛門はどう見る?」

「恐らく、後方に大軍が控えているかと。手出しをするのは危のうござる」

「久兵衛は?」

「後ろに大軍が居ようと居まいと関係あるまい。まずは目の前のそいつを叩き潰すだけだ!」

 久兵衛の意見に、家国は笑みを浮かべて大きく頷いた。

「そうだ!戦とはそういうものだ。まずはそいつらを蹴散らせ!」

 家国の号令の下、七戸勢は前進した。

 三戸勢の本隊と直政の隊が大きく離れてしまったことが、この時点では七戸勢に幸いした。倍の敵を受けた直政の軍勢は瞬く間に包囲されてしまった。直政は次々に襲い掛かる七戸の兵士を衝き、あるいは叩いた。そして、一心地ついた瞬間、

「うっ…」

 右足に激しい痛みを感じた。見ると太股から血が噴き出している。

 しかし、直政は武勇の誉れ高い男。足の付け根を素早く手拭で縛ると、馬の腹を股でしっかりと締め付け、再び槍を振るい始めた。

 だが、いくら剛毅な直政でも、血が無くなれば動いてはいられない。意識が朦朧となり、馬から落ちかけた。

 するとそのとき、南の方向からこちらに向かってくる一軍が視界に入った。左二巴の旗を靡かせたその一団は直政を取り囲んで激しく攻め立てている天間館源左衛門部隊の側面にぶつかった。

「河内守殿、あとは俺にまかされよ」

 直政軍包囲さるの報を受けた政栄が、又重秀俊の部隊を先行させて対処させたのである。秀俊も猛将として近隣に名が知れ渡っていた。

 又重秀俊の軍勢が合戦の輪になだれ込んで四半刻ほど経つと、八戸政栄率いる本隊が現れた。形勢は三戸側に一気に傾いた。ある瞬間を境に七戸の軍勢は家国の気合を持ってしても如何とも制御し難くなり、壊走を始めた。

(まずい、死ぬる…)

 家国は思った。そして、

(そういえば、こんな気持ちは去年も感じたことがあったな…)

 と去年の伝法寺館での負け戦を思い出して、少し自嘲したが、その直後に途轍もない怒りが込み上げてきた。そして、もうそのあとの事は憶えていなかった。




 家国は目覚めると布団の上に寝かされていることを知った。側には弟の慶高が座って、顔を覗き込んでいる。

「兄上を死なすと、寝覚めが悪いと思ったんでね…」

 慶高はそういうと、背中を丸めてスッーと滑るように消えていった。

 見回すと側には家臣たちの顔もある。

「源左衛門、これはどういうことか?」

「我が勢が総崩れとなったとき、慶高様の軍勢が現れました。七戸近辺の諸将を従え、二千の兵で以って押し出してきたとの由にござります。そして、八戸殿の本陣に使者を送ったかと思うと、八戸殿の兵は撤退して行きました。そのお陰で我々は命を救われたのでござります」

「なにっ、慶高が!くそっ…」

 家国は余りの悔しさと怒りのために暫く身悶えたかと思うと、またも深い眠りに落ちていった。

(続く)

艦隊これくしょん

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小説・七戸家国の戦い(二):戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:番外編

2013-03-24 19:46:34 | 戦国南部興亡記
 洞内館、羽立館と立て続けに二つの館を陥落させた七戸勢であったが、羽立館攻撃の際に受けた痛手は大きかった。しかしそれでもまだ家国は疲れた様子を見せない。

「次は伝右衛門めの本城、伝法寺館を落とすぞ」

「御屋形様、もう陽がだいぶ傾いておりまする。今日のところは城に戻りましょうぞ」

 一族の横浜慶房が家臣の意を代表して押しとどめた。

「愚か者!この程度で俺の気が済むと思うてか。諸君らにはもうひと働きしてもらう!」

 家国は怒鳴ると、興奮冷めやらぬ面持ちで、近習に引かせた馬に跨った。



 七戸勢は後藤川を渡河し、伝法寺館の東側に接近した。

 物見櫓からそれを望見していた伝右衛門らは、七戸勢のしつこさに辟易したが、目を西に転ずると、菱に井桁の旗を靡かせた一隊が近づいてくるのが見えた。味方の切田兵庫の軍勢である。しかし、そのまま館に向かってくると思ったその一隊は、あろうことか林の中に隠れてしまった。

「米田殿。そこもとの婿殿の軍勢が現れたが、どうも動きが怪しいぞ」

「兵庫め、まさか七戸に与同するのでは…?」

 米田義勝は顔面蒼白となった。

 それからすぐに七戸勢の攻撃が始まった。伝法寺館も羽立館同様、周りを湿地帯に囲まれており、非常に攻撃がしにくい。それでも、七戸勢は粘り強く攻め立てた。

 暫くして一番南側を受け持っていた野辺地久兵衛の軍勢が深田に足をとられ立ち往生した。もがけばもがくほど足が沈んでいく。ようやくにして久兵衛の馬が深田から這い上がると、不意にあたりに木霊する轟音が鳴り響いた。その瞬間、久兵衛の側近が仰け反って馬から落ちた。

「今、変な方向から鉄砲の音がしなかったか?」

 家国が慶道に質すと、慶道も不安そうな表情を浮かべた。

 そこに、慌てふためいた兵が転がり込んできた。

「南方側面より敵襲!旗は菱に井桁!」

 続いて、野辺地久兵衛が馬を駆って現れた。

「御屋形様、面目ござらぬ!我が手勢は制御不能になり申した。天間館殿も危ない」

 物見櫓から我が婿切田兵庫の凄まじい斬り込みを望見した米田義勝は小躍りした。

「流石は俺が見込んだ婿だ。伝法寺殿、兵庫に続きましょうぞ!」

 その直後、城門が開け放たれ、手勢を率いた伝法寺伝右衛門と米田義勝が一斉に七戸勢に飛び掛った。

 合戦というのは一度勢いがつくと押された側がそれを巻き返すのは難しくなる。戦いの流れは完全に伝法寺側に傾いた。

 陽が沈む頃、兵たちの生きた姿は合戦場からまったく消え去っていた。



 家国が七戸城に還ると、弟の慶高が出迎えた。

「兄上、この度は大勝おめでとうござります」

 この皮肉屋の弟は病弱であったため、家中での存在感はほとんど無い。だが、家国の戦闘的な性格を危惧している家臣や、信直に密かに意を通じている家臣も若干であったがいて、彼らは慶高のもとに静かに集まりつつあった。

「ふん、馬も満足に操れぬくせに」

 そう言い放つと家国は湯殿に向かって大股に歩いて行った。

 (続く)

艦隊これくしょん

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小説・七戸家国の戦い(一):戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:番外編

2013-03-20 20:55:46 | 戦国南部興亡記
 今回から「中世南部興亡記・戦国時代編-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-」の番外編として、七戸家国を主人公にした小説を4回に分けて掲載します(他の記事も挟むので毎日連続というわけではないです)。

 総字数は多分6000字くらいだと思います。

 超短編小説ですね。

 この小説は「文月深円」というHNで公開しているものです。

 宜しかったら読んでみてください。

*    *    *


 天正十七年(一五八九)、七戸城主七戸直国が三十路も半ばで病死したあと、十八歳でその跡を継いだ彦三郎家国は、父の喪が明けるとすぐに軍勢を催し、七戸城の南方にある洞内館に攻め掛かった。洞内館は一刻も経たないうちに落城した。七戸家中の者たちは、家国の雄姿を見て十代とは思えない見事な武者ぶりだと感嘆し、七戸家の未来は明るいと思った。

 家国は攻め取った館の中を歩きながら、すぐ後ろを歩いている叔父の慶道にチラッと目をやった。

「親父は信直に諱まで貰っておった」

 家国は憎々しげに言い放った。慶道は何も答えずに、ただ笑みを浮かべただけだったが、その笑みはすぐに消えた。家国は急に思い出したように怒りを露にすることがある。慶道は普段からその点が少し気になっていた。

 家国の父直国は天正元年(一五七二)に若くして家督を継ぐと、ちょうど同じ頃南部家惣領の座についた三戸城主信直に接近し、「直」の字まで授かっていた。三戸城にご機嫌を伺いに行くことも多く、家国も幼い頃から何度か三戸城に連れて行かれた。

 家国は長ずるに従い、父が傾倒する信直の器量に疑問を持つようになった。信直の弾んだ所が無い鈍重な動きは臆病の証拠だと思ったし、勿体ぶるように言葉を選んで喋るのを聞くと、頭の回転が遅い奴だと思った。それに比べると、やはり三戸城内で何度か見かけた九戸実親は、容貌猛々しく、明るく快活であった。神事の際に見せた馬と弓の腕前には心から驚嘆し憧れた。

「実親殿こそ武士の鑑である」

 家国は常々そう言っていた。そして、何かしら口実をみつけては実親に会いに行き、まとわりつくようになった。そんな家国を実親も可愛がって、よく弓や馬の相手などをしてやった。

 甥の家国に目が無い慶道は、その様子を見て直国が生存している間から密かに七戸家中を工作し、九戸派を増やすことに専念していた。だからこうして、家督を継いですぐに軍勢を動かし、三戸側の城を攻撃することができたのである。

 さて、洞内館でしばしの休息をとった七戸勢は、次の目標、伝法寺の羽立館を目指した。羽立館は周りが沼地で囲まれ、洞内館と比べると遥かに強固な館であるが、八戸方面へ抜ける奥州街道を押さえるためにはどうしても奪っておきたい。

 七戸勢は奥入瀬川を渡ると、館の東側に陣取った。合戦開始の合図である鏑矢が放たれた後、天間館源左衛門・野辺地久兵衛・横浜左衛門尉慶房らが一番乗りの功名を目指し、堀を渡り土塁に取り付いて行く。

 北郡最強と謳われた七戸勢の猛攻の前に、館主津村伝右衛門は恐怖した。それでも伝右衛門は自らを奮い立たせ、援兵の米田義勝らと協力し、必死に七戸勢を押し返した。

「伝右衛門め、中々しぶといな。かくなる上は虎の子の登場だ」

 羽立館の城兵の戦いぶりを本陣から見ていた家国は、旗本部隊の投入を決めた。家国が自ら選んだ三十名の槍の手練達である。

 旗本部隊が斬り込むと形勢は一気に動いた。伝右衛門らは西の郭に追い詰められた。

「津村殿、ここは一旦伝法寺館へ退きましょうぞ。さすれば我が婿の援軍が到着するまで持ち堪えられまする」

「おう米田殿…。悔しいが、致し方あるまい…」

 後藤川に何艘かの舟が浮かべられた。伝右衛門らはそれに飛び移ると、生い茂る葦の中を漕ぎ進み、対岸の伝法寺館へと逃れていった。

 (続く)

艦隊これくしょん

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九戸政実の乱!九戸政実の三館同時攻撃:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第35回

2013-03-19 23:24:11 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 和賀稗貫勢の居城奪回を知った政実も天正19年(1591)の雪解けを待って、3月13日、信直方の拠点数ヵ所を一斉に攻撃しました。

 一つ目は、櫛引清長と一戸図書光方による苫米地館の攻撃です。

 櫛引氏は馬淵川右岸に強い勢力を持っていましたが、左岸の敵対勢力を攻める際の拠点を持っていませんでした。そこで、左岸攻撃の足がかりとして、苫米地館攻略を企図したのです。櫛引氏は、これより先、北信愛の拠る剣吉館を攻撃していますが、落城には至っていません。

 『九戸陣の研究』によると、館主苫米地因幡は用心深い人物で、櫛引氏に対して常日頃から警戒しており、一日市・烏沢・法師岡・杉沢等の村落に隠密を入れ、かつ日々巡回の兵を出してその動静を報告させていたといいます。

 因幡は、夜襲当日の夕方、櫛引城に兵が集まっているという報告を受け、高橋館の高橋駿河とともに準備万端整えて、櫛引勢が来るのを待ち構えていました。

 苫米地館は、南側を馬淵川で護られ、残りの三方を湿地で囲まれている単郭の館です。



苫米地館(青森県三戸郡南部町:旧福地村)

 櫛引・一戸勢は総勢500人で出陣。午後9時頃には馬淵川を渡り、烏沢のあたりで戦闘隊形を整え、赤々と炬火を照らしながら堂々と進撃してきました。

 一方の苫米地勢は農兵合わせて200人余りでしたが、北側大手門の脇で待ち構え、不意打ちのつもりで攻めてきた櫛引・一戸勢に対し、逆に攻勢に出たので、反対に櫛引・一戸勢の方が不意を喰らってしまいました。そして、櫛引・一戸勢は、死者50~60人を残して高橋方面に逃走しました。

 『南部諸城の研究』では、その時苫米地館は辛くも落城を免れた状況で、苫米地勢が積極攻勢に出た話は後世の作り話としています。櫛引・一戸勢が退却した理由は、攻略に手間取っている間に、剣吉館の北氏や浅水城の南氏が苫米地館救援に来るのを恐れたからであるといいます。ただし、苫米地因幡の奮闘は評価しています。

 ついで九戸党の二つ目の攻撃作戦は、櫛引清長と同様九戸与党であった七戸家国の伝法寺羽立館と伝法寺館の攻撃です。

 七戸氏は八戸政光が七戸を領してからずっと七戸を治め家国に至りました。

 『南部藩参考諸家系図』によると、家国の祖父慶国が「家督の後、天正元年十月死」、父直国が「信直公に仕て諱字を賜ふ」とあるので、家国は当時まだかなり若かったと考えられます(ただし、『祐清私記』では、根拠は不明ですが九戸城で降伏したとき(天正19年)の年齢を43歳としています)。

 その若い家国は七戸から南下して、伝法寺(津村)伝右衛門の拠る伝法寺羽立館を襲いました。



伝法寺羽立館(青森県十和田市)

 伝法寺羽立館は平地上の館で4つの郭からなり、まわりを湿地帯で護られていましたが、七戸勢の猛攻により館は陥落、伝右衛門は伝法寺館に逃れました。

 伝法寺館の方も平地の館ですが、南西部が地続きであるほかは、湿地や谷で護られ、堅固な館です。伝右衛門は寡兵でしたがよく戦い、家国を撃退させました。

 そして九戸党の三つめ作戦は、晴山治部少輔・坂本雅楽頭による一戸城の攻撃です。

 一戸城は、南部一族一戸氏の居城であり、現在も国道4号線沿いにいくつかの郭跡を見ることができます。



一戸城(岩手県一戸町)

 一戸城の一戸氏は、兵部大輔政連のとき、天正9年(1581)7月18日の夜、弟の一戸信濃政包(平館館主)によって、子の出羽とともに斬り殺されて断絶してしまいました。この政連斬殺事件は、裏で政実が絡んでいると考えられ、その後一戸氏一族の図書が九戸氏傘下となっており、政連を斬った政包も九戸派として大いに働き、天正19年には、平館方面(岩手県八幡平市:旧西根町)近隣の信直派の城館を攻略し、猛威を振るいました。

 一戸城はその後、政実の陰謀とは裏腹に信直が接収しており、晴山らが攻撃した際には、北信愛の子秀愛と浅野重吉(足沢館から移っていた)が籠っており、防戦に努めました。

 晴山らは結局、一戸城を落とすことはできませんでした。合戦後、信直は東中務少輔朝政と浄法寺帯刀重安を守将としましたが、重安が政実に内応し、結局城は九戸側勢力となります。

 そしてさらにもう一つ、又重城も政実に攻撃されたという言い伝えが残っています。



又重城(青森県三戸郡五戸町:旧倉石村)

 ただ、又重城を政実自身が攻撃するのは地理的に見て難しいと思われるので、おそらく七戸家国が攻撃したと考えられます。そうすると、伝法寺館攻撃と又重城攻撃の日付は当然重ならない事になり、どちらかが3月13日で、どちらかが別の日となるでしょう。又重城も城主木村伊勢秀清(又重満五郎)の奮戦で、九戸勢を撃退しています。

 以上見てきた通り、3月13日の九戸勢の一斉攻撃の結果は失敗に終わりましたが、信直に大きな恐怖心を与えました。信直はまさに戦慄したと考えられます。信直は自力で政実に抗しきれないことを悟り、浅野長吉に取りすがり、仕置軍の再下向を願いました。

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艦隊これくしょん

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