日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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南部信直の反撃:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第34回

2013-02-26 19:08:49 | 戦国南部興亡記
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 九戸側の挑発に対して、信直も黙っておられず、『南部史要』によると、年が明けた天正19年(1591)正月17日、桜庭光綱とその子綱英を先鋒とし、東重政・石亀直徳・楢山義隆・石井直道・大湯昌光・奥瀬定吉・下田勝政らを率い、別働隊として嫡男利直に南康義と七戸直勝をつけて、大挙して九戸城を攻撃しました。しかし、これは幾分儀式的な雰囲気がある感じがして、信直にとっては自分に味方してくれる者がどれだけいるか試す意味での出陣であったように思われます。当然、九戸城はびくともせず、信直は力攻めをせずに、あっさりと引き揚げています。


九戸城

 なお、上記の『南部史要』に登場する名前は、『南部藩参考諸家系図』と一致しないことがあり、桜庭光綱は『南部藩参考諸家系図』の光康のことと考えられ、同じく綱英は直綱(直英)のことと考えられます。ただし、光康はこのときかなり高齢であると推測できます。それと、南康義は、『南部藩参考諸家系図』によると、前回の法師岡の合戦で述べた盛義・康政兄弟の父で、すでに家督は直義(盛義の弟)が継いでいるので、合戦には出ていないかもしれません。あるいはすでに故人であった可能性もあります。合戦に出たのは、直義ではないでしょうか。また、石亀直徳・楢山義隆・下田勝政・七戸直勝は南部一族で、楢山義隆は『南部藩参考諸家系図』の義治、下田勝政は直政のことだとも思われますが、直政は七戸家国との戦いで負傷し歩行不可能になっていたので、その子の直勝のことかもしれません。七戸直勝は南康義の弟で七戸を領しました。七戸家国とは別個の七戸における信直与党でしょう。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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法師岡の合戦:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第33回

2013-02-19 23:18:16 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『南氏の研究』によると、天正18年9月18日(他にも同年6月20日、同年秋、翌年2月18日、20日の説がある)の夜半、櫛引勢は南氏の浅水城を攻撃しました。合戦が天正18年9月18日だとすると、会津まで下向してきた豊臣秀吉は既に京に帰っており、稗貫郡(花巻市)まで来た浅野長吉もちょうど南に引き返す頃となります。

 南勢は櫛引勢が攻めてくることをあらかじめ察知しており、櫛引勢が浅水に近づくと、逆に櫛引勢を攻撃、櫛引勢は不意を喰らって敗走、浅水田の沢道を退却しました。

 南家第三代当主盛義は弟康政(秀氏)とともに、勝ちに乗じて櫛引勢を追撃しましたが、剣吉館の北愛一との連絡に一刻(2時間)ほど掛かってしまい、その間櫛引勢に積極的に迫ることができませんでした。そのため、櫛引勢は余裕を持って福田付近で馬淵川を渡り、法師岡(青森県南部町(旧福地村)法師岡)付近の高地で南勢を迎撃する策を練りました。

 盛義・康政兄弟は、とりあえず南勢のみで馬淵川を渡り、法師岡付近まで追ってきましたが、北愛一の兵はなかなか来ません。そうしているうちに、櫛引勢の小部隊が南勢に向かって攻撃を仕掛けるべく前進してきたので、南勢はそれに対して反撃に出ました。櫛引勢は大して戦わず敗走したので、「櫛引勢弱し」と見た南勢は勢いに乗り追撃します。すると、突然敗走したはずの櫛引勢が反転し、それと同時に、月山神社付近の森に隠れていた櫛引勢の大部隊が南勢の背後から挟撃に出てきました。

 背後から現れた櫛引勢には弟の康政があたりましたが、南勢の動揺は隠しきれず、康政は倍する櫛引勢と果敢に戦い激戦の中で討ち死にしました。

 盛義は、遠くに弟の軍勢が討ち果たされているのを知っても、如何ともなしがたく自陣での戦いに努めました。康政を屠った櫛引勢は、今度は盛義勢に襲い掛かります。

 三方向から囲まれた盛義は、康政の討死から一刻後、月山祠付近の原野で討死し、士卒の大半もこれに殉じました。

 北愛一が合戦場に到着したのは、南兄弟が討死し、櫛引勢が引き揚げたあとでした。愛一は大いに愧じ、櫛引勢を追いましたが及びませんでした。なお、『九戸陣の研究』によると、この時北愛一とともに苫米地館の苫米地因幡が救援に駆けつけたといいます。

 愛一が遅れたのは、愛一の祖父(信愛の父)致愛と、南盛義の祖父長義がかつて領地争いを起こし、それ以来両家の仲が険悪であったので、意図的にやったという説があります。しかし、とっくに両家は婚姻も結んでおり(信愛の妻は南長義の娘)、その説は信じられません。愛一は、戦下手と評価されている武将です。

 なお、討ち死にした南盛義は、既述した通り浅水南氏第三代の当主であり、当主とその弟が同時に死んだことは、南氏のみならず、南氏を頼りにしている三戸の南部信直にとっても、かなり衝撃を与えた事件であったことが想像できます。それだけに、九戸側にとって櫛引清長の功績は非常に大きいといえます。

 南氏は、盛義のあと次弟の直義が継いでます。

 この法師岡の戦いは、既述した通り発生日にはいくつかの説がありますが、いずれにせよ、豊臣政権の惣無事令に抵触することには変わりありません。櫛引氏も信直の敵方として、当時の文書にも九戸氏と並び称されているので、櫛引氏は九戸氏と合体し、反豊臣的な動きを露骨にしていたと考えられます。


法師岡の古戦場跡


 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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九戸政実の決起:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第32回

2013-02-12 19:57:23 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 私は以前述べたように、九戸氏は小笠原氏の子孫であるという説を支持しますが、そうすると室町時代の九戸氏と南部氏は糠部郡を二分する別個の勢力ということになります。糠部郡はあまりにも広大であったので、ひとつの郡主にまとまることが難しく、九戸と南部はその地位をめぐって長年対立したり、ときには同盟を結ぶなどして、お隣同士で何とかやってきたと考えられます。しかし信直は(正確にはその軍師である北信愛の考案だと思われますが)、九戸氏を南部氏の分家に設定させ、糠部郡内での争いを分家が本家に反旗を翻した戦いということにして豊臣政権に申請し、糠部郡の郡主の地位を得ました。

 そもそももし九戸氏の祖が南部家初代光行の子だとしても、それから三百数十年も経っていたら、現実的にはもう他人ではないでしょうか。

 秀吉が信直の訴えを聞いたわけは、もはや九戸氏が南部氏の分家であるとか、分家が本家に謀反を起こしたとか、そういうこととは関係ないとしか思えません。

 秀吉と信直の間には、何か高度に政治的な取引があったに違いません。

 それは何か。残念ながらそれはこの記事を執筆中にはまだ突き止めるができていないので、今後の研究の課題にしたいと思いますが、九戸家は小田原に参陣していないので、南部家の分家であろうが無かろうが、改易される運命にあったことは確かです。

 さて、『八戸家伝記』によれば、天正9年(1581)7月に、政実とその弟実親が逆意を企てているとの噂が流れました。「逆意」というのも江戸時代に根付いた、九戸が南部の分家であるという考えを現しているので、事実は「逆意」ではありません。

 八戸氏は九戸氏とは血縁的にも近しい関係で、この頃は八戸家内でも九戸氏に加担する一派がいて、治義の三男入道守頓がその筆頭格でした。そのため、八戸家当主の政栄は、守頓を九戸に密通したという罪で捕らえ、田名部に送り幽閉し、翌年2月10日に殺害してしまいました。守頓の死は公には病死とされています。

 また、『源氏南部八戸家系』によれば、政実が「謀反」を企てたのは、天正18年(1590)2月であるといいますが、『八戸家伝記』には、上記の「守頓事件」の後、天正19年(1591)2月初めに政実が実際の軍事行動に出たというように記されています。

 状況的に見ると、和賀稗貫勢がそれぞれ二子城と鳥谷ヶ崎城で年を越して、まだ再仕置軍が攻め上ってくる前の天正19年2月というのが時期的に見てちょうどいいですが、『源氏南部八戸家系』によれば、このとき政実は金田一(岩手県二戸市金田一)を放火し、九戸城に籠り、2月24日には、八戸政栄が九戸の党である櫛引氏の八幡村をまず放火し、ついで付近の僧坊を焼きました。つづいて7月には、政栄は島森城(島守館・青森県八戸市南郷区(旧南郷村)島守)を攻め、敗れたとされています。島守館は館主島守安芸が九戸城に籠ったあとの天正19年5月に落城したと伝わっているので、『源氏南部八戸家系』がいう天正19年7月の攻撃は、それ以前のことを誤って伝えたものと考えられます。


島守館


 政栄が島守館を最初に攻撃したのは、信直に豊臣政権から「自分仕置」が許されてからの後のことだと考えられるので、天正18年の初冬か、翌年の雪解け以降でしょう。なお、その戦いに先立って、島守館は種市勢の攻撃も受けているといいます。

 政実が豊臣政権と通交した記録は残っていません。あるいは、盟友としていた伊達政宗もぎりぎりまで豊臣の傘下になることを拒んだので、その政宗からの情報で、政実も反豊臣的行動を取ったのかもしれません。しかし、政実とは違い、政宗は結果的には豊臣政権に加わり、その後の繁栄の礎を築いています。

 なお、政実らの動きは、この翌年には「九戸一揆」と呼ばれていました(『伊達家文書』天正19年比定8月15日付け「簗田詮泰書状」)。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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九戸氏のルーツ:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第31回

2013-02-08 21:43:59 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 一般に多く流布している家系図によると、九戸氏の先祖は南部家初代光行の五男行連であるといわれています。しかし私は後述する通りこれは誤りと考えており、そういった家系図は、江戸時代中期以降に南部家によって作られた架空の家系図がもとになっていると考えます。

 南部藩に伝わる最古の系図とされる『寛永系図』が編纂された時点(寛永18年(1641))では、系図上に行連の名はありません。したがって、行連の名を生みだし、九戸家を南部家の分家として公式に認定してしまうのは、それよりも後のことです。九戸家が南部家の分家であるという系図を南部氏が捏造した理由は、主な家臣をみな南部氏と同祖にし、家中に一体感を出して結束を固め、忠誠心を高めるためであったと考えられます。九戸行連が系図上に登場した後の文政元年(1818)には、政実の弟康実の系統の中野家は南部を称することが許されています。

 なお、永禄6年(1563)に書かれた室町幕府の『諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下覚書』という史料(幕府家臣の一覧)に、九戸氏は南部氏と別個に書かれているので、室町幕府は九戸と南部を別の勢力として認めていたという意見がありますが、例えば北条氏は氏康・氏政父子が並んで書かれているので、それをもって九戸と南部が別個の勢力であったという証拠にはなりません。

 しかし、地元の九戸では、政実は小笠原氏の子孫であるという説が根強く残っており、それが真実だとすると、やはり九戸氏は南部氏の一族ではありません。ただし、南部氏の祖光行と小笠原氏の祖長清は兄弟です(長清が兄)。

 九戸氏は果たして本当に小笠原氏なのでしょうか。

 江戸時代に書かれた『九戸軍談記』という書物で、九戸城の戦いの前哨戦である姉帯城の戦いの際に、政実同族の姉帯兼信が戦場で名乗りをあげたときの台詞は以下の通りです。

 「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類姉帯大学兼興が舎弟五郎兼信と申す者なり!」

 「ゆふき」というのは結城のことで、小笠原美濃守正安とは、小笠原政康のことです。

 何故「結城惣大将」なのかというと、この意味は、元弘3年(正慶2年・1333)12月18日に九戸は結城親朝に与えられたので、九戸氏はその結城氏の子孫だと考えることもできますが、私は「永享12年(1440)の結城合戦に信濃国守護(惣大将格)として出陣した小笠原政康」という意味ではないかと考えています。

 『九戸軍談記』は軍記物ではありますが、上記の台詞から、江戸時代になっても九戸家が南部家の子孫ではなく、小笠原家の子孫であることが、民間に知識として残っていたことを表わしていると考えられます。政実が小笠原氏の子孫だというのは信憑性が高いのではないでしょうか。小笠原家では嘉吉2年(1442)に政康が死ぬと、その跡目を巡って内紛が起きているので、このとき政康の子のだれか(庶子であり系図に残っていない人物)が九戸に移ってきたと考えられます。

 既述した通り、もとをたどると南部家の祖光行と小笠原家の祖長清は兄弟です。平安時代末から鎌倉時代初期の甲斐国(山梨県)の武将加賀美(加々美)遠光の子らです。もし九戸家が小笠原家の子孫だとすると、南部・小笠原ら兄弟の子孫どうしが、お互い糠部地方にやってきて、永い期間に渡り勢力争いを演じていて、その総決算が「九戸政実の乱」ということになります。

 『南部藩参考諸家系図』によると、九戸氏が本拠地の九戸郡(九戸村)から現在の二戸市の九戸城(別名白鳥城)に移ったのは、政実の4代前の光政の時と言われますが確証はありません。

 簗部善次郎氏は著書『二戸郡九戸郡 古城館趾考』の中で、一戸実相寺(当時は金田一にあった)の古文書をもとに、九戸氏は明応年間(1492~1501)には金田一を領しており、実相寺の檀家の領域により、九戸城の場所を含め現在の二戸市の一部に九戸氏が進出していたことが分かると述べています。そして享禄3年(1530)の頃にはすでに九戸城を築城していたと推測しています。

 そうすると、九戸城へ移ったのは政実の父信仲の時かもしれません。

 九戸城は、二戸市福岡の馬淵川右岸にあり、その規模は南部信直の居城であった三戸城をしのぎます。この遺跡をひとつ取って見ても、往時の九戸氏の強大な勢力を想像するに余りあります。


九戸城跡

 九戸氏は本来の地元である現在の九戸村域にも多数の館跡を残しており、大名館あるいは熊野館がその居館と伝わり、伊保内館は政実の弟伊保内正常の居館と言われています。


大名館跡



熊野館跡登り口



伊保内館跡土塁


 次回の記事はこちらです。

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九戸政実:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第30回

2013-02-07 14:50:51 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 ここにあった記事は、こちらに移動しました。

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天正の和賀稗貫一揆:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第29回

2013-02-05 21:03:26 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 最初旧葛西領で上がった一揆の火の手は和賀・稗貫にも飛び火して、和賀稗貫の旧領主・旧臣たちも決起しました。『奥羽永慶軍記』によれば、葛西・大崎・和賀・稗貫の武士たちが云うには、「我々先祖は当国に入部して以来、十代、二十代と子孫が相続し、秀吉より与えられた所領ではない。秀吉によって所領が没収されるのはおかしい。この恨みは忘れない。秀吉を討つことはできないとしても、代官・目代を討つことはできる。奴らを葬り、討ち死にして七生までも怨みを泉下に報ずべし」ということで一揆を起こしたといいます。

 和賀稗貫連合軍は、多田(和賀)薩摩守義忠、稗貫孫二郎広忠を大将として、和賀勢は、

 ・一門鬼柳伊賀守
 ・同清三郎
 ・須々孫上野介義村
 ・嫡子因幡守
 ・二男相模守
 ・三男七郎(十六歳)
 ・安倍玄蕃頭
 ・晴山隼人
 ・梅沢匠作
 ・轟木兵庫頭
 ・成田藤内
 ・江釣子民部
 ・小田島雅楽頭
 ・更木主水
 ・八重樫掃部
 ・同孫十郎
 ・小原左助
 ・河原田某
 ・都鳥相模守
 ・鴾田信濃守
 ・筒井内膳
 ・同縫殿助

 など、稗貫勢は、

 ・矢沢三河守
 ・小山田備中守
 ・似田内主計
 ・桜田安芸守
 ・小林治部少輔
 ・根子内蔵介
 ・高橋駿河守
 ・十二町目某
 ・瀬川讃岐守
 ・八重畑美濃守
 ・北湯口伊豆守

 など、合計2000余人、まず二子城を襲い、代官の後藤半七を血祭りに挙げてから(『奥南旧指録』)、10月23日、鳥谷ヶ崎城を襲いました。

 一方、三戸に帰っていた信直は鳥谷ヶ崎城危機の知らせを聞き、浅野庄左衛門を死なせてしまっては上方に申し訳が立たないと、三戸の留守に北左衛門佐信愛・南遠江守直義・東中務少輔朝政を残し、500騎を率いて、11月7日に鳥谷ヶ崎に着陣しました。和賀稗貫勢は、それを見て鳥谷ヶ崎城の囲みを解いて、豊沢川を隔て、八反清水・物見ヶ鼻・上館の頭に陣を取ります。

 救援が来たことを知った庄左衛門らは、それに力を得、城から討って出ます。それに対し、和賀稗貫勢は八重樫掃部を繰り出し、南部勢からは八戸弾正少弼直栄・桜庭安房直綱・東彦八郎・南少弼盛義ら100騎が打ちだし乱戦となりました。八重樫勢はそれを支えることができず退きます。信直は今が勝機とばかり、豊沢川を渡り突き進みます。和賀稗貫勢は奮戦しましたが過半が討たれ、獅子ヶ鼻を経て八森まで後退しました。それを見た信直は追撃をやめ、鳥谷ヶ崎城に入ります。そして庄左衛門に、一揆勢は再び襲ってくるだろうから、一度我々ともに三戸に行き、来春に改めて攻めることを提案しました。庄左衛門はそれを受け入れ、南部勢とともに一旦三戸に引き退きます。庄左衛門は『奥南旧指録』によれば、足沢館(岩手県二戸市足沢)に、『八戸家伝記』によれば月館(岩手県一戸町月館)に入ったといいますが、地理的に考えて足沢館に拠ったと考えて良いでしょう。

 空城になった鳥谷ヶ崎城には和賀稗貫勢が入城し、この年は和賀義忠以下の武士たちと稗貫広忠以下の武士たちは、それぞれ二子城と鳥谷ヶ崎城で年を越し、束の間の喜びをかみしめました。


二子城跡展望台から北を望む



鳥谷ヶ崎跡

 なお、上記の和賀稗貫一揆軍による二子城・鳥谷ヶ崎城の奪還と、信直の庄左衛門救出は軍記物に記されていることから史実かどうか検討する余地がありますが、『盛岡南部家文書』の天正18年11月29日付け「浅野重吉書状」には、「葛西・大崎表一揆蜂起ニ付而、貴所早速和賀邊迄御出候由乃承候」とあることから、上記の事件は細かいところは別としても大筋は史実であります。

 次回の記事はこちらです。

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アイヌ語地名は全国に分布するのか?そしてアイヌとエミシの関係は?

2013-02-02 11:03:51 | 歴史の謎
 北東北にアイヌ語地名があることと、マタギ言葉とアイヌ語が近いということは、アイヌの先祖が北東北にいたということの証しになります。実際、江戸時代の津軽藩にはアイヌがいました。

 そのアイヌ語地名は、北海道と北東北以外にもあるのでしょうか?

 本州でのアイヌ語地名の分布範囲は北東北だけで、南東北にも少しあるみたいですが、関東以西でアイヌ語地名と言われているものは、私はすべてこじつけであると考えています。

 北海道や北東北で多く見られる「~ナイ」や「~ベッ」が濃密に分布する地域がアイヌ語地名の分布範囲で、関東以西にそういう地域が見られないことから、関東以西にアイヌ語地名はないと考えるのです。

 全国にアイヌ語地名が分布するという説は、明治時代にバチェラーらが唱えた説で、すでに古い学説となっており、現在のアイヌ語研究者の多くはその説を取っていないそうです(『蝦夷の古代史』)。しかし、Webで調べてもその説を信じる方が多いようなので、なぜか民間には多く流布されてしまっているようです。

 北東北に多くのアイヌ語地名を残した人びとは、古代の蝦夷(エミシ)でしょう。

 古代においても、エミシは日本語をしゃべらず、「夷語」を話したと記されています。

 北東北に多くのアイヌ語地名を残した人びとが古代の蝦夷であるのなら、古代の蝦夷は中世のアイヌ、そして現在のアイヌに発展したと考えてよいのでしょうか?

 私は別のページで「たまに、アイヌはエミシの子孫だという意見も見られますが、私はエミシの子孫は律令国家人(日本人)と同化してしまったので、エミシからアイヌになったとは思っていません」と述べましたが、北東北のアイヌ語地名の存在を考慮すると、考えが変わりました。

 現在私は、古代の蝦夷(エミシ)は律令国家人(主に関東からの移住者)と混血をして現在の東北人になった人びとと、律令国家人と混血せずに中世の蝦夷(エゾ)=アイヌ、そして現在のアイヌに発展した人びとに分かれたのではないかと考えています。

 上でも出てきましたが、エミシとアイヌとの関係を考える上で、以下の書籍が参考になります。

蝦夷の古代史 (平凡社新書 (071))
工藤 雅樹
平凡社

 こちらに『蝦夷の古代史』の詳細なレビューを書いておきました。

 さらに詳しく、続きをこちらに書きました。


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