日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第10回:正盛の源義親追討(一)

2012-10-31 10:36:03 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 正盛(中村敦夫)はここまでは、武勇を発揮するという武士本来の姿としては目立った働きはしていませんでしたが、その正盛に武功を挙げるチャンスが巡ってきました。河内源氏の嫡流・源義親が国家への反逆事件を起こし、それを正盛が追討することになったのです。

 義親は、陸奥北部(岩手県)での前九年合戦(1051~62)や出羽北部(秋田県)での後三年合戦(1083~87)で勇名を轟かせた、八幡太郎義家の次男です。兄義宗の早世により義家の跡を継ぎました。

 その義親が対馬守在任中の康和3年(1101)、官物を横領し人民を殺害したとして、大宰権帥(だざいごんのそち。大宰府の副官)大江匡房に告訴されました。それ対し朝廷は義家の腹心であり、義親の子為義(小日向文世)の乳母夫(めのと。乳母の夫)でもある豊後権守藤原資通を説得・召喚に当たらせました。しかしその資通も翌康和4年、義親と一緒になって官吏を殺害してしまったのです。今度こそ義親は逮捕され(おそらく父のコネで許されることを見越して自首したのでしょう)、隠岐国に配流された(ただし、隠岐に渡らずに出雲国にとどまったともいわれます)。

 この時点では、義家は生きていたので、義親にも父のコネで復帰する道があったのですが、義親にとっては残念なことに嘉承元年(1106)7月頃義家は病没してしまいました。

 義親もおとなしくしていればまだ復帰できたかもしれませんが、短気を起こして翌年に出雲守である藤原家保の目代を殺害してしまいました。しかも近隣諸国には義親に与同する動きもみられます。

 朝廷は義親追討を決め、そこで選ばれたのが因幡守の正盛でした。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん









コメント

斯波氏と南部氏の再農民論争:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第17回

2012-10-30 13:51:15 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『祐清私記』によると、元亀2年(1571)の暮れ、斯波と南部で百姓が納米について争論となり、斯波領の百姓が南部の不来方の百姓を無体に捕らえ、境目で磔にしてしまいました。それに怒った石川高信は翌元亀3年(1572)3月3日、斯波表に出陣しました。

 しかし、高信は既述した通り前年の5月5日に死んでおり、晴政も後述する通り、元亀3年3月はちょうど川守田事件の時であるので、おそらく事件の発生と出陣した年月日が誤っているのではないかと思います。

 さて、いつのことかは分からないその事件の顛末ですが、南部勢は先年の高信出陣と同じく経ヶ森に陣を張り、九戸修理(政実か)・福士伊勢・日戸・玉山・一方井・沼宮内・川口・厨川等の人びとを連日矢合わせに出して、斯波勢は見前館に陣しました。そして斯波勢が劣勢に立たされ、今回も稗貫氏が間に入って講和を結ばせようとしました。

 ところが南部勢は今回は是非にも討ち果たすと言い聞かなかったので稗貫氏は連日家老の八重畑某を送り、南部勢は湯沢(盛岡市湯沢)・見前の割譲を条件に和睦に応じました。現在の盛岡市と矢巾町の境がこのときの南部と斯波の境となったわけです。南部勢は見前館に日戸内膳を配置しました。しかし、斯波氏もまだ猪去館(盛岡市猪去)と雫石館(雫石町雫石)はキープしています。

 この戦いの後、九戸政実の弟弥五郎が斯波氏に婿入りし、弥五郎は高田(矢巾町高田)を領し、高田吉兵衛と称しました。何度も述べている通り、九戸家と南部家は別勢力ですので、これは九戸家と斯波家の婚姻(同盟的意味もある)ということになります。九戸氏は斯波氏と同盟し、さらにその南の稗貫郡や和賀郡の北上川河東地域での勢力を伸ばす方針であったと考えられます。

 なお、『紫波町史』によれば、斯波氏には高水寺城以外にも「西御所」と呼ばれるところがあり、代々家督相続前の嗣子や隠居した者の居館になっていましたが、天正の初め頃(1573年頃)、民部大輔家政が隠居してから、民部省の中国名を称して「戸部の御所」とも呼ばれるようになったといいます。その場所は勝源院(紫波町日詰字朝日田)南西上の台地上と推測されています。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント (2)

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第42回:ぶり返す崇徳上皇の怨念

2012-10-29 14:06:03 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第42回「鹿ヶ谷の陰謀」では、後白河法皇(松田翔太)・西光(加藤虎ノ介)・藤原成親(吉沢悠)らが平家打倒の陰謀をめぐらせましたが、直前に露見しました。

 事が露見したことにより、後白河法皇は大変な目に会うことになりますが、それはまた次回以降放映されると思います。

 さて、ドラマではやりませんでしたが、鹿ヶ谷の陰謀が発覚した安元3年(1177)6月1日より少し前の4月28日、都では樋口富小路辺を出火元にした大火事が発生しました。

 火はおりからの南東の風にあおられ、東は富小路、南は樋口、西は朱雀、北は二条までの180町の広範囲を舐めつくしました。

 京都の町のおよそ3分の1が灰燼と化し、死者は1000人に及んだと言われています。

 貴族たちにとってさらにショックだったことは大内裏も焼け、大極殿以下、八省院が残らず焼失したことです。

 この火事を「太郎焼亡」と呼ぶのですが、世の中の人びとは、この大火事や鹿ヶ谷の陰謀を「保元の乱」の怨霊のせいだと考えました。

 とくに崇徳上皇の怨霊を一番恐れたのは後白河法皇です。

 そこで、当時「讃岐院」と呼ばれていた崇徳上皇(井浦新)に「崇徳院」の諡号(しごう)を贈り、「保元の乱」で命を落とした左大臣藤原頼長(山本耕史)に正一位太政大臣を贈り、そして保元元年閏9月の宣命等を焼却し、ついで8月4日、治承に改元し、22日から26にまでの間には、崇徳の御願寺・成勝寺で崇徳院供養の法華八講を行いました。

 このような崇徳上皇と頼長の怨霊を鎮める行為が行われたにもかかわらず、世の中の人びとは崇徳上皇と頼長の怨霊が鎮まったとは思いませんでした。

 少し後のことになりますが、寿永元年(1182)6月の『吉記』(吉田経房の日記)には、二条(冨浦智嗣)・六条・高倉(千葉雄大)三帝の早世、建春門院滋子(成海璃子)、六条天皇の摂政藤原基実(村杉蝉之介)の死去などは、みな頼長の怨霊の仕業であると記されています。

 そして同3年4月には、崇徳上皇と頼長を「神霊」とする霊社を「保元の乱」の古戦場である春日河原の御所跡に造り、崇徳上皇と頼長の霊を慰めようとしました。この社はのちの粟田宮です。

 果たしてこれで崇徳と頼長の怨霊は本当に鎮められたのでしょうか。

 その後の歴史を見ると、崇徳の怨霊はまだまだ活躍(?)しているので、効き目はあまりなかったようです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント

荏原台古墳群探訪【東京都大田区・世田谷区の古墳】(下)

2012-10-28 15:19:08 | 歴史探訪
 前回の記事はこちら

 多摩川台公園の古墳群を見た後は、田園調布の住宅街を北西方向に進みます。

 歩いていると、ここの住宅街からはとても富裕な雰囲気を感じることができます。

 そんな住宅街をカメラをぶら下げて歩いている私は、かなりの確度で不審者です。

 さてそういうわけで、田園調布の住宅街のなかの古墳を探してみようと思い、まずは観音塚古墳があったところに行ってみました。

 しかしそこは完全なる住宅街。

 次に、浅間様古墳です。

 ここも完全なる住宅街。

 そして、古墳ではないですが、上沼部貝塚の跡。

 やはりここも住宅街。

 形跡はまったくないです。

 喉が渇いていますが、この住宅街には自販機が一台もありません!

 しかもコンビニもありません!

 あー、ジュース飲みたい。

 やがて、大田区田園調布5丁目から世田谷区尾山台1丁目に入りました。

 大田区の探訪は以上になります。

 世田谷区に入った一発目は、宇佐神社にある八幡塚古墳を目指します。

 前方に鎮守の杜らしき緑が見え、近づくと宇佐神社でした。



 さっそく社地に入ります。

 社殿の裏が八幡塚古墳です。



 八幡塚古墳は直径約30メートル、高さ約4.5メートルの円墳です。

 築造時期は5世紀中頃と考えられています。

 さて、喉の渇きがかなり増してきましたが、相変わらず自販機もコンビニもありません。

 喉の渇きだけでなく、身体の方も段々疲労してきました。

 少し歩いて坂道を登っていくと、これも住宅街の中にこんもりと木々が茂っています。



 狐塚古墳です。

 狐塚古墳は、尾山台クラブ広場になっています。



 看板の横の急な階段を上がっていくと、頂部に着きました。



 狐塚古墳は直径約40メートル、高さ約6メートルの円墳で、5世紀後半の築造と考えられています。

 左脚のふくらはぎがつりそうになってきたので、少し休憩しようかと思いましたが、短気なので休憩せずに、次に行こうと思います。

 少し歩いて、坂を下り、多摩川の支流丸子川から北方に延びる支谷(現在は道路)に降りると、今度は上り階段になっている!

 階段を登るのはつらいですが、何とか登り切り、少し歩くと、次に御岳山古墳がありました。

 しかし!

 中には入れないようになっています。



 御岳山古墳は直径約57メートルの帆立貝型前方後円墳とする説が有力です。

 帆立貝型前方後円墳というのはこのあと訪れる野毛大塚古墳と同じ形です。

 御岳山古墳は、東側をさきほどの支谷に、西側を等々力渓谷の谷沢川に挟まれた、多摩川方面に向かって北から南に延びる舌状台地の先端にあります。

 当時は南の多摩川方面の眺望がすこぶる良かったものと想像できます。

 御岳山古墳からは、三角板鋲留式の短甲(三角形の鉄板を鋲で綴じ合わせた鎧)と横矧板鋲留式の短甲が一領ずつ出土しており、広瀬和雄氏は「並の古墳ではない。野毛大塚古墳につづいて、5世紀中ごろに多摩川流域を統治した首長の墳墓であることは動かない」としています(『前方後円墳の世界』)。

 さて、喉の渇きが極限に達しました。

 脚も相変わらずつりそうな状態です。

 この先の等々力渓谷には横穴墓(おうけつぼ)があるらしいですが、道路地図を見ると環八通り沿いにセブンイレブンのマークがあります。

 水分補給できる!

 ヘトヘトの体を引きずりながら、ようやくセブンイレブンに到達すると、スポーツドリンクを購入して、一気に飲み干します。

 ひゃあー、生き返ったー。

 一心地ついて、環八通りを西に向かうと玉沢橋のたもとに「都史跡 等々力渓谷三号横穴」と掘られた石碑があります。



 それではイッチョ、渓谷に降りてみますか。

 渓谷に降りると、1号横穴墓と2号横穴墓の跡があり(横穴はふさがっている)、さらに降りると、3号横穴墓がありました。



 中はガラス越しに覗けるようになっていますが、暗くてよく見えません。

 ここの横穴墓は、古墳時代末から奈良時代にかけて作られたそうです。

 さて、疲労はかなり蓄積されてきましたが、頑張って今日最後の野毛大塚古墳に行ってみましょう。

 脚は左足だけでなく、右脚もつりそうになっています。

 両脚をつってしまったら歩けなくなるので、つらないように慎重にゆっくり歩きます。

 なんで数時間歩いただけで脚がつりそうになるかというと、私は普段、スーパーへ買い物に行く程度しか歩いていないからです。

 ようするに日頃の運動不足がこういうときに効いてくるわけです。

 時刻は14時40分。多摩川台公園を出てから1時間歩いています。

 そろそろと玉川野毛町公園に入って公園内を少し歩くと、ありました!

 野毛大塚古墳です。



 野毛大塚古墳は、このように帆立貝型前方後円墳となっています。



 円形部は直径約68メートル、高さ約11メートル、前方部は長さ約15メートル、幅28メートルあり、帆立貝型古墳としては、関東地方では群馬県太田市の女体山古墳につぐ規模を持っています。

 墳頂には上がれるようなっており、そこからの眺めは良いです。



 四基の埋葬施設があり、色を変えて表示してあります。



 埋葬施設の第一主体部は、長さ8.2メートルの割竹形木棺を包む粘土槨で、三角板革綴衝角付冑と長方板革綴短甲・頸甲・肩甲がセットで出土し、たいへん貴重なものとなっています(それが現在どこで見れるかは分かりません。展示はしていないかもしれません)。

 次に墳頂から降りて、古墳全体を見渡せる位置に移動してみましょう。



 野毛大塚古墳は、三段築成となっています。



 なかなか良い眺めです。



 墳丘の周りには、周溝がめぐっています。



 造出部分があるのも特徴の一つです。



 野毛大塚古墳の築造時期は、5世紀前葉で、今日見てきた、宝莱山古墳、亀甲山古墳に続いて築造されたと考えられています。



 通常の前方後円墳でなく、帆立貝型前方後円墳になっている理由は、中央の大和政権によって規制がかかったためかもしれません。

 野毛大塚古墳の被葬者である南武蔵の王は、群馬の上毛野(かみつけの)政権と大和政権の両方の影響を受けていると考えられています。

 野毛大塚古墳が築造された5世紀前葉は、上毛野政権がまだ独立心を持っていたころなので、関東で勢力を伸張しようとする上毛野政権と中央で列島統一を目論む大和政権との勢力争いのなかで、野毛大塚古墳の被葬者である当地の王は、生き残りをかけて去就を選択しなければいけない状況にあったと考えられます。

 さて、以上で本日の荏原台古墳群探訪を終わりにします。

 4世紀から5世紀にかけての南武蔵の王の墓や、その後の当地の支配者の墓を見てきたわけですが、当時の大和政権や上毛野政権と絡めた群雄割拠図を想像すると非常にエキサイティングです。

 野毛大塚古墳の築造後、南武蔵の勢力がどうなったかですが、『日本書紀』には、安閑元年(534)、武蔵国造(くにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)とその同族の小杵(おき)が国造の地位を争って長年決着せず、小杵は上野(群馬県)の上毛野君小熊(かみつけののきみおくま)に助力を求め、一方の使主は中央に直訴し、結果的に小杵は誅され、国造の地位は使主のものとなったと記されています。

 そして使主は国造の地位を確定できたのと引き換えに、自分の領内に屯倉(みやけ。大和朝廷の直轄地)を4ヶ所設置させられることになりました。

 国造というのは大和朝廷支配下の地方の長官で、地元の有力者が任命されました。

 一説には、使主は北武蔵の、小杵は南武蔵、つまり今日探訪した地域の支配者であったといわれていますが、それに反論する説もあるようです。

 4~6世紀の南武蔵の歴史を考えると非常に面白い物があるので、今度きちんと考察してみたいと思います。

 そういうわけで、今日はこれでおしまいです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん









コメント

荏原台古墳群探訪【東京都大田区・世田谷区の古墳】(中)

2012-10-27 16:13:38 | 歴史探訪
 この前の記事はこちら

 浅間神社古墳のある多摩川浅間神社を出て、北へ向かいます。

 東急の多摩川駅の横を通り西へ行くと、多摩川台公園がありました。

 公園に入ってみると、黄色い帽子を被っている小学生が200人くらいいて大層な賑わいです。

 その小学生たちにまぎれて、多摩川台公園古墳展示室は建っていました。



 まずはその多摩川台公園古墳展示室を見学しましょう。

 中に入ってチラシをもらい、それでは!という時になったら、なんと先ほどの小学生の一団が数十名、先生に率いられて入館してきて、古墳展示室の中も大変な賑わいになってしまいました。

 これはタイミングが悪かった。

 仕方がないので、小学生に混ざって展示を見ます。

 古墳展示室のなかは、実物大の古墳が再現されていて、そのなかにいろいろな展示があります。

 ただ残念なのは、すべて本物では無く模刻だということ。

 しかしそれでも、雰囲気を知るにはよいと思います。

 小学生のなかには、一生懸命漢字で書かれた説明を声を出して読んでいる男の子もいます。

 友達と展示について、何かヒソヒソと真剣に話している女の子もいます。

 なかにはすぐに飽きてしまい、外に出ると言っている子もいますが、ガヤガヤと騒ぎながらもみんな展示を楽しんでいるみたいです。

 しばらくしたら、小学生の群れが出て行ったので、それから再度展示を見てみます。

 大田区の古墳の位置がボタンを押すと電気で表示される立体地図もあり、大田区内にも随分と古墳があるんだなあと改めて思いました。

 さて、古墳展示室を見た後は、いよいよここ多摩川台公園にある古墳を見てみましょう。

 今日めぐっている古墳は「荏原台古墳群」と呼ぶのですが、そのなかの大田区側を「田園調布古墳群」、世田谷区側を「野毛古墳群」と呼びます。

 田園調布古墳群のなかで多摩川台公園にある古墳は全部で10基です。

 そのひとつ目が展示室のすぐ近くでドカーンと存在を誇示している、亀甲山古墳(かめのこやまこふん)です。



 山だな。

 うん、これはひとつの山だ。

 見た目は木々が生い茂っていて、なんだかよく分かりませんが、亀甲山古墳は都内でも有数の規模を誇る前方後円墳で、国史跡です。



 全長107.25メートル、前方部幅49.5メートル、同高さ約7.5メートル、後円部径66メートル、同高さ約10メートル。

 後円部の南端は削られています。



 これだけ立派な古墳にも関わらず、まだ発掘調査がされていません。

 発掘すれば何が出てくるでしょうか?

 是非掘ってみて欲しいですね。

 築造時期は4世紀後半と想定されており、このあと見る宝莱山古墳の次の世代の首長墓ではないかと考えられています。

 写真の通り、地表から見るとなんだか良く分かりませんが、資料などで上空から撮った写真を見ると、南端が削られているものの、ちゃんと前方後円墳の形をしていますよ。

 亀甲山古墳を楽しんだ次は、公園内を北へ移動します。

 そこには、多摩川台古墳群第1号墳から第7号群までが並んで配され、谷を隔てて第8号墳があります。



 (写真は1号墳)



 (写真は5号墳)

 ほとんどがただの藪なので写真はあまり載せませんが、どれも小さな円墳です。

 ただし、1号墳と2号墳はもともと別個の円墳だったのを、あとで合体させて前方後円墳に仕立てています。

 築造時期は2号墳(合体する前)が一番古く6世紀第二四半期以前、一番新しいのは8号墳で7世紀中ごろです。

 8号墳の北側は広場になって、親子連れの姿も見受けられますが、その広場の北側に多摩川台公園内で一番古い古墳、宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)があります。



 これも山だな。

 地表から見ると、ただの山だ。



 宝莱山古墳は前方後円墳で、前方部と後円部の間の鞍部に登れるようになっています。



 宝莱山古墳は、後円部と鞍部が破壊されていて原形をとどめていませんが、全長97メートル、前方部長さ36メートル、同高さ8メートル、後円部径52メートル、同高さ11メートルで、さきほど見た亀甲山古墳より全長が微妙に短い古墳です。

 宝莱山古墳からは多くの遺物が出ており、今日の午前中に行った大田区立郷土博物館にも展示してありました。

 宝莱山古墳の築造時期は4世紀前半と考えられ、後の南武蔵の荏原郡を治めた首長の墓であったと考えられています。なお、宝莱山古墳と同じころ、多摩川を挟んだ対岸の後の橘樹郡を治めた首長は、日吉・加瀬古墳群の白山古墳の被葬者であったと考えられており、当時の二人の首長がどのような関係にあったのか興味が尽きません。

 なお、広瀬和雄氏は関東の出現期の古墳の築造時期は畿内とあまり変わらないと考えており、宝莱山古墳は3世紀後半の築造ではないかとしています。

 以上で、多摩川台公園内の古墳はすべて探訪しました。

 時刻は13時40分。

 まだ探訪する時間はたっぷりありますね。

 ところで喉が渇いてきましたが、自販機が見当たりません。

 もう少し我慢することにしましょう。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん









コメント

荏原台古墳群探訪【東京都大田区・世田谷区の古墳】(上)

2012-10-26 20:22:40 | 歴史探訪
 古墳に興味を持ち始めたのはいつのことだったでしょうか・・・。

 昔のこととか、ちょっと前のことさえも忘れてしまうので、あまり覚えていませんが、3年くらい前だったと思います。

 私は古墳に興味を持った当初から東京にある古墳を探訪してみたいと思っていました。

 しかし、東京の古墳は近いからいつでも行けると思っていたところ、いつの間にか月日が経って、結局、都内の古墳は府中にある熊野神社古墳とその周辺の古墳、それと上野の摺鉢山古墳しか見ていません(その前に宮崎県西都市の西都原古墳群は探訪しています)。

 そんな私ですが、ついに今日は大田区から世田谷区にかけて存在する「荏原台古墳群」を探訪することに決めました。

 荏原台古墳群には、都内で最大級の古墳が複数含有されています。

 古墳が現在どのようになっているか今から楽しみですね。

 さて、朝の8時40分に家を出て、高尾からは電車賃を少しでも安くするために、JRでなく京王線で新宿に行きます。

 そして山手線で五反田まで行き都営浅草線に乗り換え、西馬込に来ました。10時25分です。

 西馬込に荏原台古墳群はあるのでしょうか?

 いいえ、ないです。

 ではなぜ西馬込に来たのでしょうか?

 それは、大田区立郷土博物館を探訪するためです。

 大田区立郷土博物館は、西馬込駅から7~8分歩いたところにありました。

 入口がなんだか秘密めいています。



 入館して、パンフレットとチラシをもらい、左手を見ると縄文時代の展示がありました。



 古墳、古墳と言っておきながら、実はここに来た目的は縄文時代と弥生時代の遺物を見るのが目的の一つです。

 あ、もちろん古墳時代の遺物も見たいです。

 しかし!

 2階でいつも常設展示してあるらしい、縄文・弥生時代の遺物は今日は展示していません。

 なぜかというと、現在は「特別展 懐かし うつくし 貝細工」をやっているからでした。

 縄文時代の貝のアクセサリーの展示もあって、なかなか興味深いですが、江戸期以降の美術工芸品の数々は圧巻です。

 詳しいことは知識がないので良く分からないですが、純粋に「きれいだなあ」と思います。

 「特別展 懐かし うつくし 貝細工」は11月25日までやっていますので、興味のある方は是非どうぞ。

 そういうわけで、残念ながら縄文・弥生の展示はやっていませんでしたが、2階の隅の方にひっそりと古墳時代の展示があるではないですか。

 これから探訪しようと思っている、区内の古墳から出土した鏡や鉄製品(槍・鏃(ぞく。やじりのこと)・刀)などが展示されています。

 多摩川を挟んだ対岸の川崎市の白山古墳や観音松古墳の遺物もあります。

 白山古墳から出土したもののなかには、三角縁神獣鏡もありますよ。

 しばらく遺物に見入ったあと、次に3階に行くと、民俗的な展示でしたが、なにやら向こうの方に飛行機の模型が見えます。

 あの形はもしや・・・。

 やっぱりそうです。 

 航研機です!



 航研機は、昭和13年(1938)5月、時間にして62時間23分、距離にして1万1651.011キロメートルの周回航続距離世界記録(木更津→銚子→大田→平塚、一周402.32キロメートル、29周)を達成した飛行機です。



 当時の日本の航空機製造技術の高さを世界にアピールした機体でした。



 おっと、今日は古墳の話でしたね。

 いやー、私は飛行機も好きなので、偶然にも航研機に会えて嬉しいです。

 さて、1階に戻り、資料を3冊ほど購入したあとは、いよいよ古墳めぐりを始めます。

 正規の門から道路に出て振り返ってみると、大田区立郷土博物館はこのような佇まいでした。



 全然秘密っぽくないですね。

 西馬込駅まで戻ると、時刻は11時25分。

 西馬込から浅草線に乗って中延に行き、東急大井町線に乗り換えようとしたら、駅前にラーメン屋があります。

 味噌ラーメンが食べたいですが、外のメニューを見たら味噌はありません。そのかわりこれまた大好物のつけ麺があります。

 早速入店してオーダーすると、しばらくして出来てきたつけ麺は、ツルツル麺のストレート、これは私が一番好きなタイプだな。そしてスープは醤油とんこつで鰹節が効いていて、なかなか美味しいです。

 大盛はしないと宣言しているので、中盛(300g)を頼みましたが、今日は沢山歩くので少し多めに食べても良いでしょう。

 つけ麺を食べた後は、東急大井町線で旗の台に行き、東急池上線で雪が谷大塚を目指します。

 あ、さっきの店の名前を見るのを忘れた!

 (後でWebで検索したところ、「でびっと 中延本店」でした。デビット伊東氏の店だそうです。)

 さて、雪が谷大塚についたら、西の方向に歩きます。

 調布大塚小学校の北側へ行くと、鳥居が見えてきました。

 近づくと鳥居の横に「都旧跡 鵜木大塚古墳」の説明板が立っています。



 はい。今日の一つ目の古墳です。



 鵜の木大塚古墳(ひらがなの「の」が入る表記もある)は、発掘されていないので詳しいことは不明ですが、円墳で、直径は約27メートル、高さは約6メートルとされています。

 墳丘の南側が削平されて、稲荷神社が立っており、社殿の後ろへは侵入不可能になっています。



 この古墳の周辺は雪谷大塚町といい、また先ほど降りた駅名にもなっていますが、この古墳(古墳を塚という場合も多い)の存在が名前の由来になっています。

 神社の境内から出て、別の角度から古墳を見てみると、完全なる住宅街にこんもりと小さな山がちょっと浮いた感じに存在しているのが分かります。



 さて、次に行きましょう。

 中原街道に出てさらに西に進み、ガストのある交差点を右折し、一つ目の信号を左折して坂を下っていくと、扇塚古墳の石碑があります。



 扇塚古墳は現在は破壊されてその上にマンションが立ち、石碑だけ残っているのですが、もともとは前方後「方」墳だったのではないかといわれています。

 前方後方墳だったかどうかは、もう今では確かめられませんが、周溝から愛知県の土師器を模倣して作られた土器が出土しており、それが4世紀前半と考えられるので、築造年代もその頃と考えられます。

 そうすると都内最古の古墳かもしれません。

 佇立するマンションの下で4世紀の時代に思いを巡らせた後は、さらに西を目指しましょう。

 東急多摩川線の踏切を渡ると、来る前に道路地図をみた感じではそこは河岸(多摩川べり)の平地だとばかり思っていたのですが、なんと川沿いに丘ができているではないですか!

 ここは面白い地形だ。

 その丘の上に浅間神社があり、その社地が古墳なのです。

 この古墳は、浅間神社古墳と呼称されています。



 古墳とは関係ないですが、驚いたことに境内には多摩川に向かって見晴らし台があり、その眺めが素晴らしい!



 東急東横線の線路も望めて、ここは鉄道の撮影にも良いのではないでしょうか?



 全車両がすべて一枚に収まります(でも電柱は入ってしまいますが)。

 もっと腕が達者な人が撮れば、良い写真が撮れる気がします。

 我が家がある上流を望んでみます。



 今日は見えませんが、条件が良ければ富士山も見えるそうです。

 ここの浅間神社は、通称を多摩川浅間神社といい、以下の由緒を伝えています。

 文治年間(1185~89)、源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時に、頼朝の妻の政子は頼朝の身を案じ多摩川のほとりまできた。

 政子が亀甲山(これから私が訪れる亀甲山古墳)に登ると富士山が見える。

 政子はかなたにあるであろう浅間神社に頼朝の武運長久を祈り、身に付けた正観音像をこの丘に立てたところ、村人は像を富士浅間大菩薩と呼ぶようになった。



 ところで古墳の方ですが、古墳は前方後円墳と考えられ、前方部は約39メートルの幅、後円部は約32メートルの直径です。

 埋葬施設は、竪穴式構造とされます。

 築造時期は5世紀末から6世紀初頭と考えられています。

 神社の社殿改築で多くの埴輪が出土しましたが、その模刻はこれから訪ねる「多摩川台公園古墳展示室」で見ることができます(本物は多摩川浅間神社が所有しています)。

 さて、それでは次にその多摩川台公園古墳展示室を探訪してみましょうか。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第9回:受領とはなにか?

2012-10-25 11:25:05 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 さきに国司には四等あると述べましたが、そのなかの最上位である守(親王任国の場合は介)が受領(ずりょう)と呼ばれます。現在で言えば都道府県知事のようなものですが、国司は国内の軍事・警察や宗教にも携わります。

 受領は非常に旨味のある職で、国の住民から税を取ったら、国家に収めた規定分の残りを全て自分のものにすることができました。

 受領を何度か経験すると大変富裕になります。そしてその財力でもって宮殿の造営や宮廷の行事、あるいは寺社の造築などを請け負い、その功によってまた受領にしてもらえるようにしていました(これを成功(じょうごう)といいます)。

 受領の強欲さを表す有名な話として『今昔物語集』には以下の話が載っています。

 藤原陳忠(のぶただ)は、信濃守の任期を終えて帰京する途中、谷底へ乗馬もろとも転落してしまった。郎等が心配していると、谷底から「かごに縄をつけて降ろせ」という声が上がってきたのでその通りにすると、かごにヒラタケが満載され戻ってきた。やがて陣忠自身も這い上がってきたのだが、手にはヒラタケを一杯抱えていた。あきれる郎等たちに向って陳忠は「受領は倒るるところに土をもつかめ、というではないか」と言い放った。

 こういった強欲な受領が多かったのです。

 受領になるのは低い位の貴族であり、公卿になった人の出世のコースとしては、若い時(位が低い時)に受領を何回も歴任して、巨万の富を上げておいて、それから公卿に上るというケースが見受けられます。なお、公卿というのは上級貴族で、太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議といった役職に任じられた者がそう呼ばれ、国政の最高会議である太政官での議政に参加します。公卿は総勢十数名から20名ほどいました。

 受領は遥任(ようにん)といって、本人は現地に赴かず、配下の者(縁者か手下)を現地に向かわせて遠隔統治をしましたが、受領の候補は、五位に昇ったら自分より目上である受領のもとに手伝いに出て、現地の支配を助けて地方統治のスキルを身に付けました。

 正盛(中村敦夫)も最初の受領である隠岐守になる以前は、遥任で在京する受領の要請で現地に下向し、地方統治の実務経験を得ながら来たる受領任命に備え下積み生活を送っていたのです。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん









コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第8回:正盛が世に出たきっかけはなにか?(二)

2012-10-24 10:55:35 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 白河法皇(伊東四朗)がこの件だけで心が完全に癒されたとは到底思えないにしても、正盛(中村敦夫)の行動に白河はきっと感じ入ったことでしょう。ただの所領寄進ではなく、白河の本当に大切な故人の御堂に寄進することは、うがった見方をすると、人の気持ちを見透かした賢い投資です。

 これにより正盛は院近臣の道を歩むことになり、白河に大いに気に入られたことにより、寄進の翌年から康和3年(1101)9月までのどこかの時点であまり旨みのない隠岐守からはるかに実入りの大きい若狭守に遷任され、ついで若狭守を重任(二期つづけて国司を務める)したあと因幡守に転じ、そしてこの先の項で述べる源義親追討に抜擢されることになります。

 なお、それまで正盛は白河に対して何のコネクションも持っていなかったようであり、その正盛がどうして白河に近づけたかというと、それには祇園女御(松田聖子)や院近臣の藤原為房(優秀な実務官僚で大江匡房・藤原伊房と共に「前の三房」と称された)、あるいは同じく院近臣の藤原顕季(白河の乳母の子。すなわち白河とは乳兄弟)とすでに縁があり、その縁を頼って白河に所領の寄進をしたと考えられています。正盛は為房が加賀守だったときに検非違所に補され、また顕季が播磨守だったときに厩別当を務めているのです。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント

大浦為信の挙兵:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第16回

2012-10-23 09:31:55 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『弘前市史』が引く『愚耳旧聴記』によると、元亀2年(1571)5月4日の深夜、大浦為信は南部(石川)大膳守高信の居る石川城(青森県弘前市石川)を攻め、翌朝高信は切腹して果てました。これが大浦為信の津軽攻略戦の始まりとされている戦いです。『奥羽・津軽一族』では、為信の挙兵は、南部晴政の指示によったものとしていますが、私もその線に同意します。なぜ晴政は勲功第一の弟を滅ぼそうと考えたのでしょうか。

 まず高信それ以前、父安信が没した後、岩手郡に手を伸ばし一方井氏の娘を側室として信直を産ませていました。その後南部氏は鹿角の経営が安定したので津軽への侵攻を考えます。そのとき手を挙げたのが高信でした。高信の石川城入部の年代は諸説があって不明ですが、三戸南部氏の近親者として初めて津軽への進出を果たします。

 なぜ高信が津軽に行ったのかというと、兄晴政と仲が悪く居場所がなかったことが原因で、高信は津軽に自分の居場所を作るために出陣し、また晴政も煙たい弟を遠くに出せるということでそれを許したものと考えられます。

 さて、すでに高信の息子の田子信直は北信愛や南長義に擁立されて晴政に反旗を翻しており、その勢力は当然ながら高信とは連絡を取り合い、バックアップの約束を取り付けていたと考えられます。そのため、三戸領内に敵を抱え、しかも津軽にも敵がいるという状況を打破するために晴政が考えた手が大浦為信を使うという手であったのでしょう。

 為信は挙兵の時点では南部宗家に仕える武将の一人として晴政の要請によって高信を滅ぼしただけであり、自らが津軽全土を支配することまでは考えていなかったのではないでしょうか。為信が津軽全土を我が物にしようと考えついたのは、この翌年に晴政が死亡したことが契機となっていると考えられます。晴政の死により、為信は南部からの独立を志したのではないでしょうか。

 為信は『南部藩参考諸家系図』によると、七戸氏の流れの久慈治義の子で、文武の達人と言われた兄信義とは母が違い(為信の母は家女)、その母のことで兄と不和になり久慈を出奔し津軽に至り、大浦氏の養子となったとあります。また同母と思われる弟の五郎も為信に従っています。

 『奥羽・津軽一族』によると、大浦氏は南部氏の一族、金沢右京亮家光であり15世紀の人物です。家光は金沢の合戦で切腹し、家臣の大曲和泉が3歳の遺児(のちの家信)を抱えて下久慈(岩手県久慈市)に逃れました。そして3代目にあたる光信が津軽西根(青森県鰺ヶ沢町種里)に入部し、その後大浦に進出したようで、為信の養父信濃守為則は6代目に当たります。

 金沢という地名に関しては、『奥羽・津軽一族』は弘前市であるということですが、家臣の氏が大曲であることから、これは秋田県横手市から大仙市にかけての金沢ではないでしょうか。南部氏が八戸根城南部氏であればその所領にも近く可能性が高いです。なお、鰺ヶ沢町にも金沢という地名があります。そして、この金沢の南部家(後の大浦・津軽家)は、南北朝時代の南部信濃守の末裔ではないでしょうか。

 父高信の討ち死に対して信直も黙っていられず、『封内事実秘苑』によると、8月2日、信直は瀬田石隠岐を先陣に津軽に攻め入りました。しかし、九戸政実が一戸大和守の居る一戸城を攻めたので、信直は引き揚げます。隠岐も高畑城に攻めかかりましたが、落とすことができず退却しました。なお、『青森県史 資料編 中世2』所収『国文学研究資料館所蔵津軽家文書』によると、一戸大和守は名を宗綱といい、政実が一戸大和守の居る一戸城を攻めたのは永禄10年(1567)のこととしています。

 しかし信直の反撃は、私は翌年の元亀3年(1572)ではないかと思っており、事実、『津軽一統志』では南部勢の出陣は元亀3年のこととしています。なぜ元亀2年ではなく、3年なのでしょうか。

 それは後述する通り、晴政の死を私は元亀3年と考えているからです。元亀2年の時点で晴政と戦っている信直は津軽にまで兵を向かわせる余裕はなかったように思えます。しかし、翌年晴政が死んだことにより信直は津軽に兵を動すことができたと考えます。

 さて、浅水の南慶儀は、八戸政栄に対して大浦為信挙兵について手紙を書いており、七戸方面の守りを固めた方が良いとしています(『南部家文書』元亀3年比定3月24日付け「南慶儀書状」)。津軽の件は三戸南部氏内では衝撃的な事件であり、6月1日にも慶儀は政栄に手紙を書いています(『南部家文書』元亀3年比定6月1日付け「南慶儀書状」)。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント (16)

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第41回:乙前(祇園女御)は100歳

2012-10-22 11:10:41 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第41回「賽の目の行方」では、清盛(松山ケンイチ)の陰謀により、西光(加藤虎ノ介)の二人の息子が流罪になり、後白河法皇(松田翔太)をおびえさせました。

 清盛は後白河の側近の西光を陥れるため、加賀にある比叡山の系列の宇河寺に対して、西光の息子加賀守藤原師高とわざとトラブルを起こさせ、比叡山との強訴に発展させ、強訴の要求を後白河が退けられなかったことにより師高らを流罪にさせたのです。

 この陰謀の手口はよくあるパターンで、ターゲットとなる人物に直接手を出すことが難しい場合は、ターゲットの手足となる人物で隙のある人物に対して攻撃を加え、ターゲットを牽制するという手段です。

 ターゲットがそのことにより、「次は俺にくるかもしれない」と思い、震え上がることも計算済みです。

 それと今回は、乙前(松田聖子)が出てきましたね。

 乙前は憶えているかと思いますが、もと祇園女御で、白河法皇(伊東四朗)の妃でした。

 祇園女御という女性は謎の人物ですが、角田文衞氏は『待賢門院璋子の生涯 椒庭秘抄』のなかで、祇園女御は藤原顕季(白河の乳母の子)の縁者で、三河守源惟清(これきよ)の妻であったらしいと述べています。

 惟清は当初は法皇に目をかけてもらっていましたが、のちに法皇を呪詛した罪で流罪になっています。

 法皇を呪詛したというのは実は冤罪で、法皇が惟清を流罪にした理由は、法皇が惟清と妻との間を引き裂き、惟清妻(祇園女御)を我がものとして、禍根を残さないようにするためであったと推測されます。

 なお、「女御」というのは天皇の後宮における公式な身分の一つで皇后・中宮に次ぐ身分ですが、祇園女御の場合は正式に女御に任命されたわけではありませんでした。

 祇園女御は、だいたい11世紀の末から12世紀の初めころに法皇の妃になったということなので、そうすると今回登場した乙前は、なんと100歳くらいの年齢になります。

 100歳であの若さ。

 若さの秘訣をお伺いしたい。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第7回:正盛が世に出たきっかけはなにか?(一)

2012-10-21 13:29:25 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 白河法皇(伊東四朗)は身内や他人に対する好悪がはっきりしており、並いる子らのなかでも娘の郁芳門院媞子(ていし)を特に可愛がっていました。媞子の母は、これも白河に溺愛され、死んだときに遺骸から離れられなかった中宮賢子です。

 ところが、嘉保3年(1096)8月7日、媞子は21歳で病没してしまいます。

 白河の悲しみようはひどく、たまらず二日後に出家してしまいました。

 そしてこの白河の悲しみに沈んだ心の隙間にスッと入っていき癒したのが、当時隠岐守だった正盛(中村敦夫)です。

 正盛がどのようにして白河の心の隙間に入り込んだかというと、白河は亡き媞子のために御堂を建立したのですが(六条院御堂)、媞子の一周忌が過ぎたころに、正盛は伊賀国山田村・鞆田村・柘植郷の田畠家地20町余りを六条院御堂に寄進したのです。

 このころ正盛は40歳前後と考えられます。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント

南部晴政の領内での戦い:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第15回

2012-10-20 16:07:50 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 鹿角をめぐって安東氏との対外戦争を勝ち抜いた南部晴政以下の糠部の諸将でしたが、鹿角合戦の翌年か翌々年には三戸内で南部晴政とその家臣が戦う事態になってしまいました。

 永禄の末年頃(1570年頃)、晴政は浅水を攻めるため八戸氏に援軍を依頼しており、七戸殿もそれに加勢し、東政勝も同心しています(『遠野南部家文書』年不明6月24日付け「南部晴政書状」、年不明7月21日付け「南部晴政書状」)。また、東政勝は晴政が四戸(ここでは浅水のことか)に出馬したことを八戸氏に伝えています(『遠野南部家文書』年不明7月26日付け「東政勝書状」)。さらに、年は不明ですが、晴政は五戸・浅水・見吉(剣吉)を攻め、七戸殿には野佐口(野沢)を、八戸には見吉に向けて軍勢を進めて欲しいと言っています。浅水の南氏を挟撃する作戦でしょう。

 浅水の南長義は、通説上の三戸南部氏第22代政康の三男で、浅水に所領を得て浅水城を築城したと伝わっています。政康という人物は三戸南部氏の分家である可能性があって宗家を継いでいないかもしれず、長義がその三男であったことは、史料的裏付けは取れませんが、各地に残る神社の棟札や江戸時代に記された系図などを勘案して、最低限長義が三戸南部氏の流れをくむ者であった可能性は非常に高いです。

 浅水には工藤屋敷跡と伝わる館跡があり、三戸南部氏が入る以前は工藤氏が領していたらしいですが、浅水に長義が入ったあとも一時的に工藤氏に占拠されていた模様なので、そのときの館跡かもしれません。浅水にいつ三戸南部氏が入ってきたかというと、南長義による宝福寺開基の伝えからして、開基した大永4年(1524)からそう遠くない以前と考えられます。入部が武力で行われたのか、平和理に行われたのかについては興味のあるところですが、ここでは「政略結婚によって」という仮説を以下に述べてみましょう。

 『南部史要』には、通説上の第23代安信の代の大永4年に、「長義に五戸浅水城を守らしめて工藤大炊介に備え」たとあります。浅水には「工藤屋敷」、「浅水館」、「浅水城」の遺跡が知られていますが、その時、長義が入った場所は、工藤屋敷、浅水館、浅水城のうちのどこでしょうか。もし工藤屋敷と呼ばれている場所に入ったのであれば、工藤屋敷という伝承名は残らなかった可能性があり、工藤屋敷のすぐ隣の浅水「館」は、その形状から工藤屋敷よりも古い感じがするので、長義は浅水「城」に入ったと考えられます。

 なぜ長義が工藤屋敷を踏襲しなかったのかというと、戦略的意味があったかもしれませんが、それよりも単純に、「工藤屋敷には別の人物が居てそこに入ることができなかったから」と考えられないでしょうか。そうだとすると、南長義と工藤氏(恐らく工藤大炊助)は同時期に共存していたと考えられ、両者は親族であったと想像できます。つまり、三戸南部氏が浅水に入ったのは政略結婚によってであると考えられるわけです。長義は工藤大炊助の女を娶ったのではないでしょうか。

 さて、晴政は浅水を攻める一方で、南長義の婿である北信愛のいる剣吉や同じ北氏の館である森之越(森越)も攻めており、四戸殿(櫛引氏)が人馬別(苫米地)に出陣しています。南部町(旧名川町)森越にある森ノ越館跡には空堀が残り、この館にはのちに北十左衛門が入っています。

 北十左衛門は、実は桜庭安房光康の子であり、信愛のもとへ養子に入りました。実父光康の勇猛さと養父信愛の知謀を兼ね揃えた知勇兼備の武将であり、大坂の陣では豊臣側につき大坂城へ入城し、豊富な金を使って兵装を整え、「南部の光武者」と言われたといいます。豊臣側についた理由については、当主利直と仲違いしたことによる恨みからという説と、利直から密命を帯びて入城したという説があり、真相は不明です。十左衛門は、大坂城落城ののち、捕らえられて処刑されましたが、館跡の「北十左衛門の首塚」の説明によると、盛岡仙北原に晒してあった十左衛門の首を何者かが持ち出し、館跡の一角に埋葬したといいます。それを地元では首塚と呼んでいます。


森ノ越館跡(青森県南部町森越)の北十左衛門首塚

 さて、以上のように晴政は三戸領内で本来は家臣とされる武将たちと戦いを演じていました。そして何と晴政が敵対していた勢力の頭は、つい先頃の鹿角合戦で奮戦した甥の田子信直だったのです。

 通説では信直は晴政の長女の婿になり、晴政から南部家を譲られる約束をされていたにもかかわらず、晴政に実子の晴継が誕生してしまったため晴政に疎まれ、信直は実家の田子に戻ったとされています。そしてそれが晴政と信直の確執の始まりとされています。しかし、この通説は果たして本当でしょうか。

 晴政は生年も没年も史料で確かめることができないのですが、第2回でお話したとおり、晴政は中央の記録である『大館常興日記』天文8年(1539)7月15日の条に現れ、それによると上洛した晴政は将軍義晴より「晴」の字をもらっています。

 仮にこのとき晴政が30歳だったとして、さらに長女が20歳のときに誕生しているとすると、長女の誕生年は1529年となり、信直の誕生年(1546年)とは17歳の差が生じます。妻が夫より17歳も年長というのは、この時代あり得るのでしょうか。

 もちろん晴政やその長女の生年が分からない以上はこれも仮説になってしまいますが、信直は晴政の長女を娶ったというのは近世南部藩のねつ造ではないかと思えるのです。晴政長女と信直の結婚の話は、信直の南部家相続の後ろ暗さを少しでも緩和するために近世南部藩が作った話ではないでしょうか。

 鹿角合戦という大きな戦いに勝ち抜いた糠部の諸将がなぜ分裂してしまったかというと、もしかすると鹿角合戦の恩賞に不満があったのかもしれませんが、一番の原因は北信愛とその舅の南長義の野望にあります。信愛と長義は南部家中で権力を握りたかったのです。そのため、南部宗家と同盟している九戸政実の一派である櫛引氏と戦っていた八戸氏も巻き込んで南部宗家に牙を剥いたのです。八戸氏は本来は糠部南部家の惣領であるにも関わらず晴政に臣従させられてしまっていたので、南部宗家に対して密かに思うところがありました。つまり、北・南・八戸の諸氏は結託して信直を推戴し、南部宗家晴政に対して「謀反」を起こしたのです。

 その反晴政連合に対して、晴政には強力な同盟軍として九戸党(当然櫛引氏もその一派)がついていました。信直以下の宗家に対する謀反はやがて「九戸政実の乱」に発展していくことになります。

 信直以下の盛岡南部藩は、九戸政実を本家に楯ついた謀反人ということにしていますが、謀反人は信直自身だったのです。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第6回:正盛に至るまでの伊勢平氏(二)

2012-10-20 12:58:28 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 さて、上総国の介として現地に赴き土着した高望王の孫に平将門(たいらのまさかど)がいました。

 将門は、下総国豊田・猿島両郡(茨城県南西部の坂東市周辺)を根拠地に勢力を張っていましたが、女性関係や父の遺領のことで同族と私戦を繰り返し、その後、国衙(国の役所)によって圧迫された地元の有力者を保護して国衙と戦うなどした結果、勢い余って国家への公然たる反抗になってしまい、関東を独立させ「新皇」として君臨することを目論みましたが、やがて鎮圧されて滅びてしまいました(「平将門の乱」。939~940。「平将門の乱」についてはこちら)。

 この「平将門の乱」を鎮定したのが、将門の従兄弟である貞盛で、貞盛もしくは貞盛の四男維衡(これひら)が伊勢国(三重県)に進出し、伊勢平氏が成立することになります。なお、伊勢平氏の祖は貞盛ではなく、維衡といわれます。

桓武天皇―――葛原親王―+―高棟王
            |
            +―高見王―+
                  |
+―――――――――――――――――+

+―高望王―+―国香―――貞盛―――維衡―――正度―――正衡―+
      |          (伊勢平氏)        |
      +―良兼―+―公雅                |
      |    |         +―――――――――+
      |    +―公連      |
      |    |         +―正盛―――忠盛―――清盛
      |    +―女
      |      |       
      +―良将―――将門      
      |(良持)
      |
      +―良正
      |
      +―良文
       (関東(坂東)八平氏の祖)

 当代きっての学者・大江匡房は、『続本朝往生伝』の中で当時の代表的な武士を「天下之一物」として5名挙げていますが、その中に維衡も含まれています(なお、あとの4名は、源満仲、源満正(政)、源頼光、平致頼です)。

 維衡の子正度(まさのり)、孫正衡(まさひら)はほとんど歴史上には現れませんが、代々武芸を生業としていたはずです。そして維衡の曾孫が正盛(中村敦夫)です。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第5回:正盛に至るまでの伊勢平氏(一)

2012-10-19 14:52:57 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 伊勢平氏は清盛(松山ケンイチ)の祖父正盛(中村敦夫)の代から一気に朝廷にとって有力な武士に成長しました。

 正盛に至る伊勢平氏は桓武平氏の流れであり、桓武平氏は、第50代の桓武天皇(在位781~806)の曾孫の高望王が、天皇家の口減らしの意味もあり平朝臣の氏姓を授けられ臣籍に降り、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ上総国(千葉県)に下向し、周辺に勢力を拡たのがそもそもの始まりです。

 上総介というのは「上総」の国の「介」であり、介というのは国司(こくし。国の幹部行政官)のひとつで、国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等に分かれます。

 通常、国司の中で一番偉いのは「守」ですが、上総国・常陸国(茨城県)・上野国(群馬県)の三国は、親王任国といって、親王が守に任じられ、一般の廷臣は介以下に任じられました。

 親王は遥任(ようにん)といって現地には出向かないので、実務上、介に任じられた人物がその国の最高責任者となりました。

 ただし、その後、時代が下り清盛のころになると、親王任国の介も通常の国の守も遥任となることが常態となり、目代(もくだい)という代官が現地に派遣されるようになります。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第4回:白河法皇の恣意的な人となり

2012-10-18 13:00:56 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 父の遺言を無視して、弟ではなく子に皇位を継がせたように、自らの野望を具現化することを念じていた白河法皇(伊東四朗)は、いったいどれだけの権力を持っていたのでしょうか。その絶大な権力を示す逸話「三不如意」は、ドラマでも何度か放映され、このブログでも何度かお伝えしましたが、ここでもう一度復習します。

 「三不如意」とは、法皇の思い通りにならなかったものとして、賀茂川の水(頻繁に氾濫しており治水に苦労した)、双六の賽、山法師(比叡山延暦寺がたびたび強訴を起こした)の三つが挙げられ、逆にいえばそれ以外のことはすべて法皇の思い通りになったということです。

 それでは、このような絶大な権力を持った白河法皇はどのような人となりだったのでしょうか。

 白河の恣意的な性格は「雨水の禁獄」と呼ばれる次のエピソードによって知られています。

 天仁3年(1110)、白河は法勝寺で法会を行おうとしましたが、酷い雨で延期となってしまいました。

 次の開催日も雨天で延期になります。

 そしてその次も雨天で延期。さらに四度目も雨天になりましたがついに降りしきる雨のなか法会を決行し、キレてしまった白河は雨を容器に入れて、獄舎につないだということです。

 普通の大人はこういうことはしませんよね。ギャグだと思われるかもしれません。

 また白河は他人に対して好悪の情が激しく、気に入ると身分が低い者でも引き立てて使いました。

 応徳元年(1084)、32歳のときに中宮の賢子(かたこ)が28歳で亡くなったときには、最期まで看とり、遺体を抱いて離れようとしなかったほどの激情家でもありました。しかも翌年になっても悲しみのあまり夜御殿(寝所)に籠りっきりになってしまったほどです。

 白河は、最愛の中宮賢子を亡くしてから、身近に奉仕する女房たちに次々と手をつけるようになり、御落胤と噂される子が多数出てくることになりました。

 ところがその後、祇園女御(松田聖子)が現れて、法皇の荒淫も一時軽減されます。しかし、祇園女御が現れた時期は11世紀末から12世紀始めころなので、その後ずっと祇園女御一筋というわけにもいかず、他の女性に手を付けることは結局止められずに、それで清盛も御落胤ではないかと疑われるわけです。

 そして白河は両刀使いでした。

 白河の近臣でも男色によって出世したと伝わる人物が何人かいます。「左右なき切者」といわれた北面の武士・藤原盛重がそうですし、権大納言まで昇りつめ「天下の威勢傍に人なきが如し」といわれた藤原宗通もそうでした。

 清盛(松山ケンイチ)が生まれたころは、このような個性的な「治天の君」が日本を引っ張っていたのですね。

 続きはこちら

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント