日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第33回:以仁王と源頼政

2012-08-28 04:48:49 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第33回「清盛、五十の宴」では、藤原基房(細川茂樹)・藤原兼実(相島一之)兄弟が清盛(松山ケンイチ)のもとに意地悪をしにやってきて逆に撃退されていました。

 さて今回は、気になる皇族が一人出てきましたね。以仁王(もちひとおう。柿澤勇人)です。

 以仁王は、後白河上皇(松田翔太)の第三皇子で八条院子(あきこ。佐藤仁美)の猶子(養子のようなもの)になっていました。

 ドラマでは滋子(成海璃子)が以仁の親王宣下を阻んでいましたが、王から親王になれないと、皇太子になる見込みもありません。

 以仁は非常に不満そうでした。将来その不満が爆発することになりますが、それはまだ先のお話です。

 それと以仁と将来タッグを組むことになる人物に、源頼政(宇梶剛士)がいます。今回も出てきましたね。

 清盛の五十の賀の宴に、祝い言を言いに来ました。

 頼政は、義朝(玉木宏)と同じ源氏ですが、「平治の乱」では義朝を裏切って清盛側に付き、以降、清盛に媚びへつらって生きているような感じです。

 頼政は源氏の中でも多田源氏と呼ばれる流れで、以下の系図の通りとなります。


清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――源経基――満仲―+
                           |
+――――――――――――――――――――――――――+

+―+―頼光―――頼国―――頼綱―――+―明国
  |(摂津源氏)    (多田源氏)| 
  |                |
  +―頼親             +―仲政―――頼政―――仲綱
  |(大和源氏)
  |
  +―頼信―――頼義―+―義家―――――義親―――為義―+―義朝―+―義平
   (河内源氏)   |(八幡太郎)          |    |
            |                +―義賢 +―頼朝
            +―義綱                  |
            |(賀茂次郎)               +―義経
            |
            +―義光
             (新羅三郎)

 上記、多田源氏の祖の頼綱は頼国の五男でしたが、摂津国多田荘(兵庫県川西市多田)を領して多田蔵人と称しました。

 その孫の頼政は摂津国島下郡馬場(大阪府茨木市)を領し、摂津渡辺党の棟梁とされ、ヌエ退治の伝説をもっています。

 この頼政と以仁王、二人は清盛の晩年に一波乱起こし、ある意味で清盛の寿命を縮めるような働きをすることになります。今後の活躍に注目ですね。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第32回:またまた登場・藤原一族

2012-08-20 15:02:47 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第32回「百日の太政大臣」では、清盛(松山ケンイチ)がついに太政大臣まで昇りつめ、そしてすぐに辞任しました。

 ところで、私は本解説では番組に先行した内容の解説は行わないように注意してきましたが、前回は、ついつい気が緩んで、摂政の藤原基実(村杉蝉之介)の死を先走って書いてしまいました。楽しみを奪ってしまって申し訳ございませんでした。

 さて、大河ドラマ「平清盛」では、藤原の何某(なにがし)とか平の何某とか同姓の人が沢山出てきて、中々理解しづらいと思いますが、今回も藤原基房(細川茂樹)や藤原兼実(相島一之)が出てきましたね。

 基房や兼実は、平家に対して意地悪な感じで、中々良いキャラクターですが、彼らは一体誰なのでしょうか。

 ドラマを入念に見ていた人は気付いたと思いますが、彼らは基実の弟たちです。つまり、藤原忠通(堀部圭亮)の子たちです。

 兄の基実は、清盛の娘盛子と結婚していたこともあり平家寄りの人物でした。しかし弟の基房や兼実は平家が嫌いだったのですね。

 ちなみに二人の年齢ですが、清盛が太政大臣になった仁安2年(1167)の時点で、基房は23歳、兼実は19歳です。

 その若くて平家嫌いの二人がどう活躍するかは今後ドラマを見てのお楽しみです。

 ところで、基実(村杉蝉之介)が死去した後、摂関家領が誰のものになるか、注目が集まりました。

 摂政は平家嫌いの弟の基房に継がれたので、遺領も基房に継がれると、政治権力を掌握しようとしている平家にとっては大変なダメージになります。

 清盛らが悩んでいる時、清盛に智恵を授けたのが、藤原邦綱(岡本信人)です。

 邦綱は摂関家領を基実の妻(清盛の娘盛子)に継がせることができると言いました。

 これは妙案で、かくして平家は摂関家領に対しても間接的に権限を有することができるようになり、平家の財源の元が増えました。

 邦綱は今後も清盛の盟友として活躍することになります。

 なお、この摂関家領の中でも大規模(8000町歩)を誇る荘園に宮崎県から鹿児島県に渡る島津荘があります。

 島津荘は、もともとは万寿年中(1024~28)に、大宰大監(九州大宰府の役人)の平季基が、日向国の島津(宮崎県都城市付近)を開拓して、関白藤原頼通(基実・基房・兼実兄弟の先祖)に保護を求めて寄進したのが始まりといわれています。

 島津荘は少し後の文治元年(1185)には、惟宗(島津)忠久が地頭職を安堵され、忠久は、戦国大名島津氏、そして江戸時代の雄藩島津藩の祖となる人物です。島津氏が興ったのも藤原摂関家との関係においてだったわけですね。

艦隊これくしょん

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櫛引氏の先祖:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第12回

2012-08-10 16:11:30 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 何度か登場した櫛引弥六郎は、将監の子であり、八戸政栄の母も将監の女ですから、政栄は母方の伯父と合戦に至ったことになります。しかも、弥六郎の母は新田政盛の女ですから、櫛引氏と八戸氏、そして新田氏はかなり濃密な間柄でした。また、櫛引氏は『遠野南部家文書』年不明(永禄末年頃か)10月16日付け「南部晴政書状」などで「四戸殿」と呼ばれており、当時数少ない「戸(一戸~九戸)」を氏とすることが認められる大きな一族でした。それではこの櫛引氏の先祖は誰でしょうか。

 南部氏と糠部との係わり合いの初期の伝承として、『南部史要』には、健久2年(1191)、第2代南部実光が対馬景満等に命じて、甲州の氏神正八幡宮を糠部郡滝沢村(『北辺の中世史』所収「四戸という村名について」によると十和田市の滝ノ沢)へ勧請し、貞応元年(1222)4月15日、その八幡宮を櫛引村に遷したと記されています。櫛引八幡宮が存在するのは紛れもない事実ですが、それは本当に南部氏が勧請したものでしょうか。

 『青森県史 資料編 中世1』所収の『八幡普門院系譜抜書』(櫛引八幡の別当家の系譜)によれば、別当小笠原家の初代長則(小笠原安芸、後に八幡安芸と改め)は、建保4年(1216)、主従19人で糠部へ下向し、櫛引の邑に住すとあります。また承久2年(1221)、津嶋平次郎景満、常陸国に出家した長則弟小笠原石見入道宥鑁と心を合せ、甲州南部の庄(ママ)より正八幡の尊躰を糠部郡滝沢村に遷座したとあります。

 『南部藩参考諸家系図』の普門院氏の系図には、長則の名は出てきませんが、「某」の弟に石見長純がおり、「南部の庄鎮守正八幡宮別当職となる、後に糠部へ来る」と書かれているので、長純が入道宥鑁とすると、その「某」が長則でしょう。長則の父は小笠原五郎長春といい、信濃守長清の三男とあります。長清は南部初代光行の兄です。『八幡普門院系譜抜書』にも「光行公は長則の大伯父」とあり、『青森県史 資料編 中世1』によれば、長則の父は円長といい、常陸国に住み横根法眼と号しました。ここまでの続き柄を示すと以下のとおりとなります。

 加賀美遠光 ―+― 小笠原長清 ―― 長春 ――――――+―安芸長則
        |           円長(横根法眼) |
        +― 南部光行              +―石見長純(入道宥鑁)

 私の知る限りでは、小笠原長清の子に長春という名はみあたりません。『八幡普門院系譜抜書』が記す、建保4年(1216)の長則の糠部櫛引への入部については、長清は応保2年(1162)の生まれといわれているので、その孫としての年齢からすると多少無理がありますが、長清の長男の長男くらいであれば、建保4年には辛うじて成人している年齢となります。櫛引のあたりは中世の頃は四戸と呼ばれたと考えられ、鎌倉時代の四戸の給主は不明です。他の糠部の地域は北条得宗領が多くありましたが、もしかすると櫛引のあたりは、南部光行の兄小笠原長清に与えられたのかもしれません。

 『八幡普門院系譜抜書』には、入道宥鑁は八幡を櫛引に遷したあと、常州へ帰ったとあります。宥鑁が常州へ帰ったといことは、宥鑁の領地は甲州でなく常州であり、宥鑁は『八幡普門院系譜抜書』がいうような光行の命で働いたわけではなく、光行とは関係なく、小笠原氏の一門としての糠部の小笠原領に下ってきて仕事をしたと考えられます。宥鑁の兄長則の系は糠部に土着し、やがて遅れて糠部へやってきた南部家に吸収され家臣となり、江戸時代に至り、南部家の圧力があったかどうかは分かりませんが、櫛引に土着した我が家の始祖に光行を絡めた系譜を作ったのでしょう。

 『八幡普門院系譜抜書』と『青森県史 資料編 中世1』の註によると、長則の嫡男八幡安芸源宥は八幡宮を守り、二男源清(一説には政清)は櫛引■■(■は文字不明)の祖となり、子なくして光行公御四男宗朝公の御子を子とし、三男源長(清高)が大佛の祖となったといいます。長男が宮仕えに専念するため、二男源清が長男にかわって櫛引周辺を領し、櫛引氏の祖となったということですが、この人物は上述の櫛引弥六郎の先祖だと思われます。光行の四男宗朝の子を跡継ぎにしたというのは、世代的に無理がありますが、光行の四男(『文化系図』での四戸孫四郎宗朝)の子孫を跡継ぎにしたとすれば、『南部史要』などで、宗朝が「四戸、金田一、櫛引、足沢諸氏の祖」であるといわれるのも、光行の四男の名前が宗朝であったというのは別としても、ある意味で事実を伝えたものとなります。そして、光行四男の家系から櫛引氏へ入った人物は、南部一族でもっとも早く糠部へ行った人物かもしれません。

 以上に述べた推測は、天正年間に櫛引氏が滅んでしまったこともあって証するには至りませんが、永禄から天正年間の櫛引氏の行動とも照らし合わせ、櫛引氏が三戸の南部氏に対して思うことがあったことは、想像に難くありません。

 また、九戸氏も小笠原氏だという言い伝えがあるので、そうなるとこれから後にお話する「九戸政実の乱」で、櫛引氏が九戸氏の強力なパートナーだったことも考え合わせ、「九戸政実の乱」は、甲斐源氏の中の南部光行の系統と小笠原長清の系統との糠部での対決だったと想像することもできます。


櫛引城跡(青森県八戸市櫛引)空堀


 次回の記事はこちらです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第31回:後白河上皇と二条天皇

2012-08-06 16:08:01 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第31回「伊豆の流人」では、伊豆で静かに暮らす頼朝(岡田将生)が描かれ、また二条天皇(冨浦智嗣)と池禅尼(和久井映見)が没しました。

 かつて鳥羽院(三上博史)は忠盛(中井貴一)に命じて、千体の観音堂である得長寿院を造らせましたが、今回は平家が持っているその造営のノウハウを利用して、後白河上皇(松田翔太)が清盛(松山ケンイチ)に蓮華王院を造らせました(この造営の功によって重盛(窪田正孝)が正三位に叙されています)。

 ドラマでは、二条天皇はついに蓮華王院に行幸しませんでしたが、『人物叢書 平清盛』によると『百練抄』に二条が行幸したと記してあるということです。

 ところで、二条とその父である後白河は何で仲が悪かったのでしょうか。後白河は大治2年(1127)の生まれで、二条は康治2年(1143)の生まれです。何と二条は後白河が17歳のときの子なんですね。

 他の歴史上の人物でもそうですが、父と子の年齢があまりにも近いと、父と子は同等な対抗心を燃やしやすい傾向にあります。父と子が経験や能力・知識などで同じようなレヴェルになって競ってしまうのです。

 父としてみれば「俺はまだ若い」という自負もありますし、子としてみれば「俺は父を超えた」という思い上がりがあり、それに周りに追従する人たちも現れて、それぞれ派閥を作って競い合います。

 二条は、筋を通す性格で、それに対して後白河は自由奔放な人柄だったので、二人の性格は合いませんでした。

 しかし、性格が合わないからといって憎悪することもないわけで、そこは父の後白河がちょっと大人げなかったのではないかと思います。

 まあ、後白河からすると、自分の思い通りの政治ができないというストレスが大きかったせいもあると思いますが。

 二条の崩御は永万元年(1165)7月28日で、8月17日には清盛が大納言に任じられています。大納言までくれば、あとは右大臣、左大臣そして太政大臣で人臣は極められます(ただし、左右大臣の補佐として内大臣という位もありますし、藤原摂関家の摂政・関白は別格です)。なお、清盛はどんどん出世して行っていますが、六条天皇の代の最初に政治を主導したのは、摂政の藤原基実(村杉蝉之介)です(忠通(堀部圭亮)の子)。

 基実の正室は清盛の娘盛子だったので、この夫婦は平家と摂関家がタッグを組む際の強力な結節点となっていましたが、基実は翌永万2年(1166)に赤痢のため24歳で亡くなってしまいます。基実の死は清盛にとってもかなりショックだったようです。

 ※次回の大河ドラマ「平清盛」はオリンピックのために1週飛ばして8月19日の放送になります。

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