日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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八王子の歴史:横山党の祖義孝は小野諸興の子孫か?

2012-06-30 15:12:55 | 歴史探訪
 古代末期から中世初期にかけて東京都八王子市をはじめ神奈川県北西部や山梨県東部の一部を支配していたのは、武蔵七党のひとつである横山党です。横山党の中心氏族は、その名の通り横山氏で、横山氏は近江(滋賀県)の小野氏の流れといわれています。小野氏の一族には、遣隋使小野妹子(おののいもこ)や、冥界で閻魔大王の補佐をしていたという伝説を持つ小野篁(おののたかむら)、歌人小野小町(おののこまち)などがいます。『群書類従』によると、小野妹子の6代あとに篁がおり、さらにその8代あとに義孝という人物がいます。その義孝が、長保6年(1004)に武蔵国横山荘(東京都八王子市)に住し、地名を取って横山と称したのが、横山氏の始まりだといいます。

 おおよそ以上が通説上の横山氏の始祖伝説ですが、横山氏は本当に近江の小野氏の子孫なのでしょうか。

 ところで、武蔵国には古来から牧場(とくに馬牧)が多く存在しました。由比牧・小川牧・石川牧・立野牧・秩父牧・小野牧などです。このうち小野牧は武蔵国小野郷(東京都多摩市)を中心に展開していました。その範囲について『日野市史 史料集』は、日野市南部から多摩市・稲城市にかけてと推測しています。史料上での小野牧の初見は延喜17年(917)で(『日本紀略』)、この当時の小野牧は陽成上皇の私牧でした。承平元年(931)には、小野牧は勅旨牧として指定され、散位小野諸興(おののもろおき)という人物が別当(長官)に任命されました(『政事要略』)。

 どうやらこの諸興が、横山党の祖・義孝の先祖(父か祖父)にあたる人物のようです。しかし、『群書類従』の小野系図に諸興の名はないです。では一体、諸興とは何者なのでしょうか。私は、諸興は近江の小野氏の流れという「伝承」を持った、武蔵国小野郷に代々住した家系の者であると推測します。

 おそらく諸興はそれより数代前から(少なくとも父の代から)武蔵国に住んでいて、国衙の在庁官人(地方自治体の役人)であると同時に、「散位」といわれていることから中央との関わりも持っていた人物でしょう。都に顔のきく武蔵国の在地の有力者というわけです。

 そう考える理由として、天慶2年(939)6月に諸興が押領使(おうりょうし)に任命されていることが挙げられます(『本朝世紀』)。通常押領使は、武力を有した在地の有力者が任命されます。もし諸興の代に下向してきたとなると、押領使に任命されるほどの力を有していたはずは無さそうです。同時代の下野の押領使・藤原秀郷をみてもわかるとおり、父祖の代からの力が必要であると思われます。

 またもうひとつの理由として、諸興の弟永興の都での大胆な行動が挙げられます。天慶元年(938)、朝廷に馬を納めるために永興が諸興の代理として上京しましたが、永興は駒牽の儀という大事な儀式を「身の障り」と称して欠席しているのです。もし永興に中央の人間の感覚があるとすれば、名誉のためには這ってでも儀式に出席するはずです。永興には朝廷の権威がわからないか、敢えて認めていないとしか思えません。認めていないとしたら、武蔵国で強大な軍事力を持っていることを背景としての行動とも受け取れます。

 諸興の名は、天慶2年(939)6月以降、史料上には現れなくなります。また、小野牧という固有名も、その2ヶ月後を最後にして、史料上にはみられなくなります。天慶2年11月に勃発した「平将門の乱」の影響によるものでしょう。

 既述した通り、諸興の子か孫の可能性のある義孝は11世紀初頭に小野郷から横山荘(東京都八王子市)に進出して横山を苗字とします。横山党の発祥です。

 八王子に発祥した横山党は、その後勢力を拡大し、相模(神奈川県)や甲斐(山梨県)へも進出します。しかし、建保元年(1213)の「和田合戦」で、姻戚関係にあった和田氏を一族を挙げて援護した結果大打撃を蒙ってしまい、ついに武蔵国南部域においては復活することはできませんでした。ただしさらにこの後、八王子の横山氏(小野氏)の後裔は、奥州和賀郡(岩手県北上市)の領主・和賀氏や稗貫郡(岩手県花巻市)の領主・稗貫氏などを輩出することになります。


八王子市元横山町の八幡八雲神社境内の横山神社


艦隊これくしょん

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