日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第21回:鎮西八郎為朝

2012-05-28 09:17:57 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第21回「保元の乱」では、ついに藤原頼長(山本耕史)・崇徳上皇(井浦新)勢力と、藤原忠通(堀部圭亮)・美福門院得子(松雪泰子)・信西(阿部サダヲ)勢力とが武力でぶつかり合いました(関係を簡単に表すと、崇徳上皇vs後白河天皇(松田翔太)ということになります)。

 その合戦の中で、とくに目を引いたのが、上皇側についた、為義(小日向文世)の子・鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも。橋本さとし)の活躍でした。

 矢って胴体を貫通するの?!

 今回の為朝の武勇には多くの視聴者が心を躍らせたのではないでしょうか。

清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――源経基――満仲―+―頼光
                           |(摂津源氏)
                           |
                           +―頼親
                           |(大和源氏)
                           |
                           +―頼信――――+
                            (河内源氏) |
                                   |
 +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |
 +―頼義―+―義家―――+―義親―――為義―+―義朝―+―義平
      |(八幡太郎)|         |    |
      |      +―義国―+―義重 |    +―頼朝
      +―義綱        |(新田)|
      |(賀茂次郎)     |    +―義賢―――義仲
      |           +―義康 |     (木曽)
      +―義光         (足利)+―頼賢
       (新羅三郎)          |
                       +―為朝

 為朝の活躍は、「保元の乱」を描いた軍記物(今でいう小説のようなもの)である『保元物語』に詳しく書かれており、ドラマでは為朝の射た矢が伊藤忠直(土平ドンペイ)の身体を貫通していましたが、『保元物語』でも伊藤景綱の子息伊藤六(忠直)の身体を貫通し、その兄の伊藤五(忠清(藤本隆宏))の袖を突き抜けて行ったと書かれています。

 それに恐れをなした清盛勢は退却するのですが、ひとり、山田小三郎惟行は踏みとどまり、為朝と雌雄を決します。

 しかし結果はまたもや為朝の勝利で、惟行も矢を貫通されて死にました。

 為朝はとんでもない強弓の主だったのですね。

 為朝は、まさしく源氏重代の「武」の面を濃厚に引き継いだ武将でした。

 ちなみに為朝はこのとき17歳です。

 しかしその為朝も合戦に敗れ逃亡し、やがて見つかり逮捕されます。

 その後、為朝は、伊豆大島に島流しにされました。

 『保元物語』では、嘉応2年(1170)、31歳のときに狩野茂光に攻められて自害したとあり、『国史略』では、安元2年(1176)3月6日、37歳で討ち死にしたとありますが、『吾妻鏡』では伊豆大島で死亡したとのみ記されています(『日本城郭大系5』)。

 伊豆大島には為朝の館跡(大島町大元)といわれている場所が残っています。

 なお、為朝にはすごい伝説が残っていて、伊豆大島に流された後、伊豆諸島を武力で取りまとめ、やがて沖縄に渡って、琉球王家の祖になったといわれています。

 もちろんこれは伝説にすぎないですが、このような伝説が生まれること自体、為朝が並大抵の人間ではなかったことの証左といえるでしょう。

 津本陽氏の小説に『鎮西八郎為朝』があり、この小説は上記の伝説をもとに創作が加えられたものです。

 あと、中世の時期に岩手県閉伊郡(宮古市周辺)を治めた閉伊氏も為朝の子孫を名乗っています。

 それと、今回の戦いでは、天皇側は三手に分かれて進撃したと言っていましたが、ドラマでは清盛(松山ケンイチ)と義朝(玉木宏)の軍勢しかでてきませんでした。『兵範記』では、清盛勢が300騎、義朝勢が200騎です。

 もう一手が誰だったかというと、100騎を率いた源(足利)義康です(上記系図参照)。義康は為義の従兄弟にあたり、後世、室町幕府を開くことになる足利尊氏の先祖になります。

 義康は父の義国から下野国足利庄(栃木県足利市)を譲られ地名を取って「足利」を苗字としました。中央では、検非違使や鳥羽院北面を務めています。

 そして既述した通り、「保元の乱」では100騎を率いて活躍しましたが、翌年に病死しています。

 ドラマには出てこなかったですが、義康の活動も天皇方の勝利に貢献しているのですね。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第20回:「保元の乱」決戦前夜

2012-05-22 09:50:09 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第20回「前夜の決断」では、ついに「保元の乱」の決戦当日までストーリーが進行しました。

 藤原忠通(堀部圭亮)・美福門院得子(松雪泰子)・信西(阿部サダヲ)の共同戦線(お飾りのヘッドは後白河天皇(松田翔太))は、自分たちの野望を実現するために、邪魔者である藤原頼長(山本耕史)と崇徳上皇(井浦新)を消しにかかりました。つまり、罪をでっちあげて頼長を犯罪者とし、当初はほとぼりが冷めるまでじっとしていようと考えていた頼長に無理やり兵を挙げさせたのです。

 追い詰められた頼長は、皇族内で疎外されていた崇徳上皇と手を組みました。

 さて、貴族というと、都で優雅な儀式(イコール政治)を行って生活しているように思えますが、彼らも人間である以上、非常に暴力的な性格も持ち合わせ、実際に頼長は源為義(小日向文世)らの軍事力を持っていました。

 摂関家の頼長が軍事力を保持していたことから、今回の争いは、朝廷内の陰謀でライバルを蹴落とすような従来型の暗闘でおわらず、「保元の乱」という武力闘争に発展しました。

 崇徳上皇側(主導者は頼長)と後白河天皇側(主導者は信西)で勢力を二分する戦いになってしまったので、清盛(松山ケンイチ)は叔父の忠正(豊原功補)と敵対することになり、義朝(玉木宏)は父為義と敵対することになってしまいました。

 清盛と叔父の忠正の仲は、今回敵対関係になるまで、ドラマの最初の方から険悪な感じで描かれ、まさに伏線を張っていた感じでしたが、忠正はもともと崇徳上皇が生まれた時に、家司の上官である御監に任じられており、その後は、頼長に臣従しています。

 そのため、忠正が崇徳上皇・頼長ラインに味方するのはごく自然なことなのです。

 ただ、平家一門のうち、忠正が崇徳側に味方しても、平家内での大勢に影響はありませんでした。忠正は兄の忠盛(中井貴一)と比べて朝廷での出世に関しては相当の開きがあり、したがって保持している経済力・軍事力も大きくありませんでした。

 しかし、叔父の忠正だけでなく、伊勢平氏の棟梁である清盛自身が、崇徳側に付くかもしれないという予想を当時の人たちは持っていました。

 というのは、清盛の継母の池禅尼(和久井映見)が、崇徳の皇子重仁の乳母だったからです。

 もし崇徳上皇側が勝利して、重仁が即位したら、清盛は天皇の乳母の子という立場になります。

 しかし、清盛の場合は、池禅尼とは血がつながっていないので、崇徳上皇側が勝って、一番得をするのは、実は池禅尼の実子である頼盛(西島隆弘)かもしれません。

 だから、頼盛にとっては、自分が崇徳側に付き、兄の清盛が後白河側に付いて、自分たち(崇徳側)が勝利し、兄が処断されるのが一番理想の形であったと思われます。

 結果的には、頼盛は池禅尼の助言で清盛と道を同じくし、助かるわけですが。

 清盛と忠正の仲は当初から険悪な感じで描かれていますが、「保元の乱」で相対したのも、忠正が崇徳・頼長ラインに懇意だったのを利用して、平家内でのリスク分散を図った意味合いがあったのかもしれません。

 なお、忠正には、長盛(崇徳院の蔵人(秘書))・忠綱・正綱という息子たちと郎従の道行が従います。そして、忠正に殉じることになります。

艦隊これくしょん

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南部晴政、歴史に登場:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第2回

2012-05-18 17:01:09 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 今回お話をするにあたって、まず前提として「南部地方」という言葉の定義をしたいと思います。私が言う「南部地方」は、北は青森県東部から南は岩手県中南部までの江戸時代の南部藩の領域のことを指します。南部藩の領域ということで、秋田県の鹿角市も含みます。

 それと、お話の中では細かい地名がたくさん出てきますので、地元の方で土地勘のある方は良いですが、そうでない方は別ウィンドウで地図サイトを開いておいて、位置を確認しながら読むと、より一層楽しめると思います。ご面倒でも、この一手間を掛けてみてください。

 つぎに、お話を進めるにあたって、主人公というか、話の軸になる人を決めなければなりません。お話する時代が60年以上に渡るので、一人の人物を主人公にすることはできず、三戸南部家当主の、晴政・信直・利直という順で、話の軸にしていこうと思います(通説では晴政と信直の間に晴継という当主がいますが、後の回でお話するとおり、私は晴継は晴政の跡を継いでいないか、継いだとしてもごく短期間なので実質当主であったとは考えていません)。ただ、一応は、晴政・信直・利直を話の軸にしようとは思いますが、南部地方は広いので、話はいろいろと飛ぶと思います。話が飛ぶのは、南部氏だけが南部地方の歴史の主役というわけではないこともあります。南部氏が南部地方の覇権を確立していく一方で、その南部氏との戦いに敗れ没落した一族がいくつもいました。彼らは時として主役の座を奪ってしまうような活躍を見せます。例えば九戸政実や和賀忠親といった武将達です。でもまずは、三戸南部家当主を中心に話を進めてみようと思います。

 さてここで、「三戸南部家」という言葉が出てきました。実は、中世の南部家にはいくつかの流れがあり、三戸以外でも、八戸や七戸、一戸などがあるのです。また、本来の本家は南部地方にいたのではなく、甲斐(山梨県)にいました。しかし、甲斐と南部地方の南部氏は、南北朝時代(14世紀)に分裂し、戦国時代には甲斐の南部氏は滅亡してしまい、後世、南部氏と言ったら、南部地方の南部氏を指すことが一般的になり、さらにその南部地方の南部一族の中で本家的地位を最終的に築いたのは、三戸の南部氏なのです。その三戸南部氏が江戸時代の南部藩に続くわけです。そのため、以降で単に「南部氏」あるいは「南部家」といった場合は、三戸の南部氏を指すこととさせてください。

 それでは、前提条件の解説はこの辺にして、本題に入りたいと思います。

 南部氏は東北地方の北端である南部地方の中の三戸(青森県三戸町・南部町・田子町)を中心に繁茂していたので、なかなか中央政府(室町幕府)にその活躍が知られることはありませんでした。しかし、のちに天下を取ることになる豊臣秀吉がまだ3歳だった天文8年(1539)、南部彦三郎という人物が室町幕府幕臣の日記に現れます。

 『大館常興日記』天文8年7月15日の条には、奥州南部彦三郎が将軍の一字を拝領したと記されています。この彦三郎は、通説上の南部家第24代当主の晴政のことで、彦三郎は将軍義晴から「晴」の字の偏諱(へんき。一字を授けること)を受けて、晴政と名乗ったのでした。晴政の元の名については、『南部史要』では安政としていますが(根拠は不明)、『岩手県史』が引く『安俵小原系図』には、晴政が偏諱を受ける2年前の天文6年に和賀氏が「南部清政」と戦ったとあります。もしかしたら清政の方が真実かもしれません。しかしもし清政だとすると近世南部家は晴政の元の名について知らなかったことになります。近世南部家が晴政に抱いていた感情がどのようなものであったのか、また晴政に対してどのような扱いをしていたのかは、後の回をお読みになれば徐々に分かってきます。なお、上記の日記の記事は重要で、ほとんど中世の時代の史料が残っていない南部氏にとっては、晴政の実在を証明する証拠の一つとなります。

 今さっき、私は「通説上の南部家第24代当主の晴政」と言いました。「通説上の」という断りをわざわざ付けたのは、24代目というのが南部家の示す「公式の見解」上での代数であり、実は史料的裏付けが取れていないからです。しかし、ここではとりあえず南部家の見解に従っておきましょう。

 ところで、24代と言ったら相当な代数ですね。16世紀に24代目なので、初代はいつまで遡れるのでしょうか。初代は光行という人物で、平安末期から鎌倉時代初期にかけて生存した人物です。12世紀から13世紀にかけての頃です。

 でも、その光行にも当然先祖はいます。南部氏はいったいどこまで先祖を遡れるのでしょうか。以下に光行に到る系図を示します。

清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――源経基――満仲―+―頼光
                           |(摂津源氏)
                           |
                           +―頼親
                           |(大和源氏)
                           |
                           +―頼信――――+
                            (河内源氏) |
                                   |
 +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |
 +―頼義―+―義家―――+―義親―――為義―――義朝――――頼朝
      |(八幡太郎)|
      |      +―義国―――義康―――(六代略)―――尊氏
      +―義綱         (足利)
      |(賀茂次郎)
      |
      +―義光―――――義清―――清光―――遠光――+―光朝
       (新羅三郎) (武田)      (加賀美)|(秋山)
                             |
                             +―長清
                             |(小笠原)
                             |
                             +―光行
                              (南部)

 南部氏は「清和源氏」の流れの「河内源氏」の流れで、さらにその流れの「甲斐源氏」と呼ばれる人びとです。「河内源氏」という括りでは、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏と同祖となり、また「甲斐源氏」では甲斐の武田信玄と同祖となります。

 光行は、父加賀美遠光から甲斐国南部郷を譲り受け、苗字を南部としました。南部氏の発祥です。

 その甲斐の南部氏がどうして糠部(ぬかのぶ。一戸から九戸の「戸」の地方)の領主になったのかというと、鎌倉時代、奥州には得宗領といって、北条家の領地が数多くあったのですが、南部氏は北条得宗家に忠実に仕え、糠部にあった得宗領の代官のような形で糠部と縁ができたのがきっかけだと私は考えています。

 光行の子の実光(南部家第2代)は、時の最高権力者である執権北条時頼の臨終間際の枕元に呼ばれた7名の中のひとりに名を連ねており、いかに南部氏が得宗家から信任されていたかが分かります(『吾妻鏡』弘長3年(1263)11月20日条)。

 その後、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇が一時的に政権を握ると、甲斐の南部一族の師行・政長兄弟が後醍醐天皇の臣下として糠部を中心に活動を開始し、政長はそのまま糠部に土着し、糠部における南部家の本家的地位につきました。その系統は八戸根城の南部氏(江戸時代の遠野南部氏)です(南北朝時代の南部氏の活躍についてお知りになりたい場合は、本ブログ内に「北の南朝 南部師行・政長兄弟」という文章を書いていますので、左記カテゴリーからアクセスしてみてください)。

 同じ頃、のちに南部藩につながる三戸の南部氏の祖はどうしていたかというと、実は史料で確認することができず、上記の師行あるいは政長の下で働いていた一族の「誰か」が三戸に入部して三戸の南部氏が発生したと考えられます。

 初めて三戸に入部した人物は、南部家の公式の見解上での生存年代や事績の豊富さから言って、通説上の第13代の守行を候補として挙げても良いような気がしますが、守行は史料で確認できない人物で、江戸時代に書かれた記録上での事績は豊富であっても、その中に信用できるものは一つもありません。つまり守行は架空の人物の疑いがあります(守行だけでなく南部家の歴代の中には架空の人物が含まれていると私は考えていますが、厳密に言うと名前だけは実在で事績が架空という場合が多いと思います)。

 このように三戸南部氏のルーツは謎に包まれており、16世紀に入る頃までは、三戸周辺の一部地域を領有するにすぎない弱小勢力であって、それが晴政の父安信の頃に急激に力をつけます。そしてそれと同じ頃、糠部での南部家の本家的地位にあった八戸の根城南部氏が没落します。三戸南部氏が興隆して根城南部氏が没落した原因については現在研究中であり、当時の三戸周辺には工藤氏が力を持っていたので、現在のところは工藤氏の活動が何かの鍵を握っているのではないかと考えています。

 さて、今回は晴政が歴史上に登場することと南部氏の先祖についてお話しました。次回以降で、南部地方の戦国時代について掘り下げていこうと思います。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第1回:はじめに

2012-05-17 06:30:42 | 戦国南部興亡記
 まったくの私事で恐縮ですが、私の妻は岩手県北上市の出身です。

 私たちは1996年8月に結婚したのですが、それ以来、最低でも年に3度(年末年始・GW・夏季)は私も一緒に妻の実家に帰っていました。

 最初に行き始めた頃は時間を持て余していたのですが、もともと歴史が好きだった私は、空いた時間に北上の戦国時代を調べてみることにしました。

 そうしたら、戦国時代の北上には和賀氏という一族がいたことがすぐに分かりました。

 そのため、現地で資料を購入したり、図書館で調べることを始めたら、和賀氏は南部氏に滅ぼされたことを知りました(正確には少し違うことがあとで分かりましたが)。また、北上市は江戸時代、南部藩と伊達藩の境界ラインに位置し、妻の実家は南部藩域であることが分かりました。

 そうすると今度は南部氏にも興味が湧いてきます。

 南部氏に興味を持ち始めたちょうどその頃、偶然入った北上の書店に『南部史要』といって、明治の終わりごろに原敬の肝煎りで編纂された南部氏の歴史書の復刻版が並んでいました。『南部史要』は平安末期から鎌倉初期にかけて生存した初代光行から幕末・明治の第41代利恭までの代々の事跡が書かれた本です。

 「これで南部氏の歴史についてはすべて分かる!」と思って勇んで購入してみたところ、中世の時期の記述が貧弱です。後で分かったことですが、南部藩に繋がる三戸の南部氏(南部氏はいろいろな系統がある)には中世の史料がほとんど残っていないのです。そのため『南部史要』の中世の記述は、近世(江戸時代)の記録を元に書かれたのですが、自家を持ち上げるために嘘の記述も平気でなされています(ただ、故意に嘘をついたというよりかは明治時代の研究水準もあり、知らずに誤った記事を書いてしまったと言った方が正確かもしれません)。

 さてそれはそれとして、『南部史要』入手以来、私は和賀氏とともに南部氏の調査にも入りました。

 そしてまたそのころ、遠野市にも興味が出てきて、中世の遠野に阿曽沼(あそぬま)氏という一族がいたことを知りました。

 そのため、遠野の博物館に行ったときに、博物館の人に「阿曽沼氏の資料はありますか?」と聞いてみたのですが、「何もないよ」と即答されました。後で考えると、実際博物館には阿曽沼氏の同時代資料は何もないとは思いますが、『遠野市史』なども刊行されていることですので、そういう本を図書館で調べてみたらどうですか、くらいは教えてくれても良かったのではないかと思います。

 さて、それから私は十数年かけて、義父や現地の友人たちの協力もあって、平安末期から近世南部藩成立までの約400年間の南部氏および南部地方(北は青森県東部から南は岩手県中南部まで)の歴史をまとめることができました。

 これから皆さんにお話させていただこうと思うのは、その時代のなかで一番エキサイティングであろう戦国時代についてです。

 登場する主な氏族は、南部氏、九戸氏、斯波氏、稗貫氏、和賀氏、阿曽沼氏です。

 ところで、私が以前勤めていた会社で社長と話したときに、「東北地方の歴史が好きです」と私が言ったところ、社長は「東北なんかに歴史なんて無いじゃん」と言い放ちました。その会社はその後株式上場しました(そういう認識の社長の会社でも上場できるんですね)。

 東北に歴史は無い。

 これが一般の人びとの感覚でしょうか。

 もしそうだとしたら、私がお話することが少しでも東北の歴史の認知度アップに役立てられたらと思います。

 冒頭、私の妻は岩手県北上市出身と言いましたが、私の父方の祖父も青森県三戸町の出身です。同じ南部地方ですね。

 このように南部地方に縁のある私に、これからしばらくの間、南部地方の戦国時代をお話させていただけないでしょうか。

 あまり地元の歴史をご存知でない方にとっては、ご自身の郷土を知る機会になると思いますし、また南部地方と関係ない全国の他の地域の方々で、信長・秀吉・家康ら戦国の三傑などの話に食傷気味の方には新鮮な話になると思います。

 それでは、次回から本題に入りたいと思います。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第19回:源義平の源義賢(大蔵館)襲撃

2012-05-14 09:58:18 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第19回「鳥羽院の遺言」では、鳥羽法皇(三上博史)が、ついに崇徳上皇(井浦新)と和解することなくこの世を去りました。

 鳥羽の死から歴史は「保元の乱」へと急展開するのですが、「保元の乱」に先だって、関東でも源氏の内訌が発生しました。

 源氏というのは一族内での殺し合いが物凄く多い人たちで、今回義平が義賢を殺したのもその中の一つです。

 ドラマでは少し前から為義(小日向文世)と義朝(玉木宏)の仲が険悪になってきて、今回決定的な破局を迎えたように描かれていますが、元木泰雄氏は、義朝が関東に下された時点(ドラマでは第5回「海賊討伐」の時点)で、義朝は廃嫡されていた、つまり為義の跡継ぎから外されていたと見ています。

 当時義朝は無官でしたが、弟の義賢(よしかた。阪本浩之)は、東宮帯刀先生(とうぐうたてわきせんじょう)といって、皇太子体仁親王(近衛天皇)の警備隊長という栄職に任じられていました。この時点で為義は、義賢を跡継ぎに考えていたということです(しかしこのあと義賢は失職し、為義は今度は四男頼賢に目を付けます)。

清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――源経基――満仲―+―頼光
                           |(摂津源氏)
                           |
                           +―頼親
                           |(大和源氏)
                           |
                           +―頼信――――+
                            (河内源氏) |
                                   |
 +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |
 +―頼義―+―義家―――+―義親―――為義―+―義朝―+―義平
      |(八幡太郎)|         |    |
      |      +―義国―+―義重 |    +―頼朝
      +―義綱        |(新田)|
      |(賀茂次郎)     |    +―義賢―――義仲
      |           +―義康 |     (木曽)
      +―義光         (足利)+―為朝
       (新羅三郎)

 坂東に下向した義朝は、それからの数年間で南関東に力を蓄え、久安2年(1146)ごろ、鎌倉の館を長子・悪源太義平(波岡一喜)に渡し上京します。一方義賢は、仁平3年(1153)に上野国多胡郡(群馬県南部)に下向し、さらに武蔵国の桓武平氏(秩父平氏)秩父重隆の「養君(やしないぎみ。婿だが主君)」となり、武蔵方面に勢力を伸ばしていきました。

 当時坂東北部には、為義叔父の義国が勢力を張っており、それは義国の子の新田義重と足利義康に継承されていました。義賢はそういう難しい土地に放り出されたわけです。

 坂東北部を治めるべく働く義賢に対して、義朝も妻(熱田大宮司の娘)の姪を足利義康にめあわせ、新田義重の娘を義平の妻に迎え、婚姻政策で坂東北部に手を伸ばしてきました。

 この南から北へ勢力を伸ばそうとする義平(バックには義朝がいる)と、北から南へ勢力を伸ばそうとする義賢が衝突したのが、今回ドラマになった、義平の義賢襲撃事件です。久寿2年(1155)8月のことでした。

 ところで、義平が襲った場所は埼玉県比企郡嵐山町大蔵の大蔵館ですが、私は2004年2月29日に、八戸の友人と一緒に訪れています。



 館は東西170メートル、南北215メートルの方形で(『日本城郭大系』)、南西隅には大蔵神社があり、土塁や空堀が良く残っています。



 近くには畠山重忠の菅谷館跡もあって、私たちは東武東上線の武蔵嵐山駅から歩いて行きました。駅からは少し距離がありますよ。

 なお、このような東国の方形の館は、以前は中世初期の典型的な館であると言われていたのですが、現在の研究では、東国の方形居館は、14世紀に姿を整え始め、15世紀に普及したと言われるようになっています(『史料と遺跡が語る 中世の東京』)。

 さて、為義と義朝の不仲はこれで決定的になってしまいました。この結末は果たしてどうなってしまうのでしょうか。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第18回:崇徳の父は白河?鳥羽?

2012-05-07 06:22:40 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第18回「誕生、後白河帝」では、長年に渡って崇徳上皇(井浦新)と不和であった鳥羽法皇(三上博史)が崇徳に和解を持ちかけそうな雰囲気になりました。

 結局それは叶いませんでしたが、そもそも鳥羽法皇と崇徳上皇の仲が険悪になった理由をおさらいしておきましょう。

                美福門院得子
               (松雪泰子)
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                 +―――近衛天皇
                 |  (北村匠海)
 72       73      74|
 白河法皇――――堀河天皇―――鳥羽法皇
(伊東四朗)―+       (三上博史)
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  |    |         +―――後白河天皇
  |    |         |  (松田翔太)
  |    |(養女)     |
  |    +――――――――待賢門院璋子
  |            (檀れい) 
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  |              +―――崇徳上皇―――重仁親王
  |              |  (井浦新)
  |              |
  +――――――――――――――+

 この長いトラブルの元は、鳥羽法皇の祖父の白河法皇(伊東四朗)の女好きな性癖(白河法皇は男も好きでしたが)に行きつきます。

 白河は、養女の璋子(たまこ。檀れい)を孫の鳥羽法皇に嫁がせました。

 ところが白河は璋子と密通を繰り返し、子を産ませたのです。それが崇徳上皇(井浦新)でした。

 崇徳上皇は璋子の子なので、表面上は、璋子の夫である鳥羽法皇の子であることになっています。しかし、鳥羽は崇徳が叔父にあたることから、「叔父子(おじご)」と呼んで忌み嫌うようになります。

 この、崇徳の父は白河であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んだという話は、この時代の少し後の鎌倉時代初期に書かれた説話集『古事談』に記載されており、それが世間に広まりました。

 『古事談』を読んだ人々は、みなこの話を信じたわけで、ドラマもこの話を取り入れているのですが、研究者の間では、この話は「嘘」であり、崇徳の実父は鳥羽であると考えている人もいます。

 美川圭氏もそのひとりです。崇徳が即位したのは保安4年(1123)、退位したのは永治元年(1141)ですが、美川氏によれば、鳥羽が崇徳を実子でないと考えていれば、もっと早い段階(白河崩御(1129)直後など)に天皇位を退位させていたのではないかと考えられるといいます。退位させなかったわけは、崇徳在位中は鳥羽は崇徳を「叔父子」などと露ほども思っていなかったからだとします。

 今回のドラマでもやっていたとおり、近衛の次の天皇を決める際、崇徳の子重仁親王が一番の候補になりました。そこで、それに反対する勢力が、「叔父子」説を流布させ、鳥羽法皇に信じ込ませ、叔父子の子である重仁などに天皇位は渡せるものかと鳥羽に思わせたというのです。その反対勢力というのは、美福門院得子(松雪泰子)、藤原忠通(堀部圭亮)です。

 このように崇徳が白河の子であったという説には反対意見もあるのですが、白河法皇や璋子の性癖、そして鳥羽と崇徳との確執(結局、鳥羽は死ぬまで崇徳と対話しなかった)を考えると、やはり「叔父子」説は本当のような気がします。鳥羽が白河法皇没後、崇徳をすぐに退位させなかったのは、政治的安定を求めたからではないでしょうか。いずれは退位させるとして、すぐに退位させて政治的不安定を招くことを回避したのではないかと思います。

 結局、真相は闇の中ということになります。

艦隊これくしょん

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天武天皇の正体は?

2012-05-03 14:44:52 | 歴史の謎
 古代において天皇位をめぐるもっと大きな内乱であった「壬申の乱」(672)の勝利者として有名な第40代天皇の天武は、古来より謎が多い天皇とされています。

 まず、当時の各代の天皇のなかで異例なこととして、生年が分かりません。天智天皇の弟ということになっていますが、天智天皇の何歳年下なのか分からないのです。

 なので、昔から天武天皇の年齢の研究はいろいろな人がやっていますが、定説というものはありません。

 また、天智天皇の娘を4人も妻にしているのも異常です。

 つきつめて考えると、そもそも天武天皇は天智天皇の弟(舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子)なのか?もしかすると、違うのではないかと考えられます。

 では、天武天皇の正体はいったい誰なんでしょうか?

 7世紀の後半から8世紀の初めにかけて、藤原氏を覇権に導いたのは藤原鎌足の子・不比等(ふひと)ですが、不比等には貞慧(定恵。じょうえ)という兄がいました。

 貞慧は、皇極天皇2年(643)に生まれ、11歳のときに遣唐使として唐に渡り、天智称制4年(666)に帰国直後病死したといわれています。24歳でした。

 しかしこの貞慧がどうも怪しい。

 本当は貞慧は帰国後、死なずに活動していたのではないでしょうか。

 貞慧帰国後の大事件といったら、壬申の乱(672)です。

 もし貞慧が生きていたとしたら、30歳です。

 ちょうどいい年齢ではないでしょうか。

 天武天皇になるとしたらです。

 そう、貞慧は生きながらえて、天武天皇になっていたのではないかと私は思ったのです。

 私以外にも貞慧が天武だと思った人がいるかWebで調べてみたところ、他にもいるようですが、決定的な証拠を提示している人はいないようです。

 不比等は、万世一系の天皇家による日本国統治という構想を考えて『日本書紀』で具現化しましたが、その不比等の兄が天武天皇だったとしたら・・・。

 しかしここでもう一段階あります。貞慧は、実は不比等と肉の兄弟でない可能性が高いのです。

 というのは、『多武峰略記』によると、貞慧の母は最初孝徳天皇の妃でしたが、妊娠した状態で鎌足に譲られたというのです。

 つまり、不比等の兄・貞慧の本当の父親は孝徳天皇だった・・・。

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敏達――押坂彦人大兄皇子―+――――――舒明
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             |       +――――天智―――大友皇子(弘文)
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             |       +――――天武(通説)
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             +茅渟王―+―皇極・斉明
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                  +―孝徳――――天武(貞慧。本説)

 天智天皇は、中大兄皇子として実権を握っていた時代(653)に、孝徳天皇の反対を押し切って、皇極や皇后・百官を率いて難波の宮から大和の飛鳥に戻ってしまいました。

 取り残された孝徳は、難波にて天智を怨んだまま崩じています。

 貞慧が天武だとすると、実の父の仇ともいえる天智の跡をついだ弘文天皇(大友皇子)を殺し、天皇位を奪還したというのが壬申の乱の筋書きになります。

 天武が壬申の乱を起こして天皇位を奪うことができた理由については色々考えられますが、「天武=貞慧=孝徳の子」の線でいくと納得できることもあるのではないでしょうか。

 「天武=貞慧=孝徳の子」という事実がなぜ後世に伝わらなかったかについては、また今後考察してみたいと思います。




御城コレクション

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