日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第17回:平家に優しい藤原家成

2012-04-30 08:30:47 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第17回「平氏の棟梁」では、平家を継いだ清盛(松山ケンイチ)を、藤原家成(佐藤二朗)が歌会に誘いました。今まで見ていて分かる通り、貴族の世界で白眼視されてきた平家の忠盛・清盛父子を、家成は貴族の身からバックアップしてきました。今回も、池禅尼(宗子。和久井映見)に対して「私とあなたは従兄弟同士」と言っていましたが、家成は母方を通じて平家と親しい関係になります。

藤原鎌足―――不比等―――房前―――魚名―――末茂―+
            (藤原北家祖)       |
                          |
+――――――――――(六代略)――――――――――+


+―隆経
  |
  +――――顕季―+―長実―――――――美福門院得子(松雪泰子)
  |       |
  親子      +―家保(渡辺哲)
 (白河乳母)     |
            +――――――――家成(佐藤二朗)
            |
     藤原隆宗―+―宗子
          |
          +―宗兼―――――――池禅尼(宗子。和久井映見)
                      |
                      |
                     平忠盛(中井貴一)

 それと、上記系図でも分かる通り、家成は美福門院得子とも従兄弟関係になります。

 家成の家は祖父の代から院(院政を敷いた上皇)の近臣となりましたが、祖父の顕季が白河院の近臣になったきっかけは、上記の系図の通り、顕季の母が白河法皇の乳母だったことによります。つまり顕季は白河法皇と「乳兄弟」ということになります。

 顕季の子長実・家保兄弟も院近臣として活躍し、この「末茂流」の勢力を伸ばし、家保の子家成に至っては、鳥羽上皇が院政を開始した時に、「天下の事、一向に家成に帰す。道路目を以ってす」と称され、鳥羽院第一の近臣と言われるようになります。そして、保延4年(1138)には、32歳の若さで、院近臣として最高の権中納言に昇進しています。また家成はそこに至るまで、各国の受領(国の守(長)で、一定額の税を国に収めたあとは残りを全て着服できる)を歴任し、また祖父顕季、父家保も受領経験者であったので、その財産を引き継きながら莫大な富を蓄えて行きました。

 もともと、「末茂流」は、諸大夫層(しょだいぶそう)といって、四位・五位の位階の者を出す家柄だったので、ドラマでも美福門院が身分についてチクチク言われていたように、上級貴族から見ると卑しい家柄になります。諸大夫層から皇后を出したのも異例です。

 家成は新興貴族として政界に重きをなしていましたが、権威ある藤原摂関家の忠実(國村隼)も、絶対に他人を入れることがない宇治の経堂に家成を入れるという破格の礼遇をしています。

 ドラマでも家成は忠盛をよく庇っていましたが、家成と忠盛は仕事で一緒になることも多くあり、少年の頃の清盛は、家成の邸宅によく遊びに行ったといいます。親戚なので当たり前かも知れませんが、家成の家と忠盛の家は家ぐるみで付き合いがあったのですね。

 その家成も晩年はとんだ災難に見舞われます。前回のドラマでやっていましたが、藤原頼長(山本耕史)に邸宅を破却されたのです。

 ドラマでは美福門院得子の陰謀ということになっていましたが、実際は、最初家成の邸宅の前を無礼とされる高足駄(たかあしだ)を履いた雑色が通ったので、家成の家人が雑色をひっ捕らえて邸内に引きずり込み暴行を加えました。

 そうしたら、その雑色は頼長の家の者だったのです。

 さすがの家成も自分より権力のある頼長には頭が上がらないので、あわてて頼長に謝罪しましたが、頼長は報復に家成の邸宅の破却を行いました。摂関家は源為義(小日向文世)などの武力を持っているので、すぐにそれらを動員できますが、このとき破却に向かったのは秦公春でした。

 しかし、さすがにこの暴力事件は鳥羽法皇の気色を害し、それ以来鳥羽法皇は頼長を疎ましく思うようになったといい、頼長が政界で孤立を深める要因ともなりました。頼長の孤立化が進んだという意味で、美福門院の陰謀説が出てくるわけです(美福門院は、頼長と敵対している頼長兄・忠通(堀部圭亮)と手を組んでいます)。

 さて、晩年に邸宅を破却された家成でしたが、仁平4年(1154)5月29日に正二位で没しているので、ドラマだと没するシーンがあればですが、次回に没することになります(そういうシーンがあるかどうかは分かりません)。

 家成の跡は子の隆季や成親らが活躍し、娘は清盛の嫡男重盛に嫁いでいます。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第16回:平忠盛の子供(清盛の兄弟)たち

2012-04-23 10:09:55 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第16回「さらば父上」では、清盛(松山ケンイチ)の父忠盛(中井貴一)が亡くなりました。

第1回から、ほぼ主役といった役柄だっただけに、突然の死にショックを受けた方もいたかもしれません。

忠盛は、永長元年(1096)生まれなので、仁平3年(1153)1月15日に没したときは、58歳でした。なお、清盛はこのとき36歳です。

現代の感覚だとまだ若いと思いますが、伊勢平氏の嫡男として生まれ、位階は正四位上まで昇り、公卿(上級貴族)まであと一歩というところまで躍進した、とても充実した人生だったと思います。

冷徹な政治家であった藤原頼長(山本耕史)も忠盛の死に対して、「数国の吏を経て、富は巨万を累(かさ)ね、奴僕は国に満ち、武威は人に軼(すぐ)る。然るに人となり恭倹にして、未だ嘗(かつ)て奢侈の行有らず、時の人、これを惜しむ」とその人柄を評しています。

さて、ドラマでは、ここ数回で結構突然的に清盛の弟たちが出てきましたね。なので、ここで一旦整理してみましょう。

忠盛の子供たちの忠盛没時の年齢は以下の通りとなります。

・清盛(松山ケンイチ) 元永元年(1118)生まれ 36歳
・家盛(大東駿介) 保安4年(1123)頃生まれ すでに死没 母宗子
・経盛(駿河太郎) 天治元年(1124)生まれ 30歳 母源信雅娘
・教盛(鈴之助) 大治3年(1128)生まれ 26歳 母藤原家隆娘(待賢門院璋子女房)
・頼盛(西島隆弘) 長承2年(1133)生まれ 21歳 母宗子

あと、このあとドラマには出てくるかわかりませんが、忠度(ただのり。天養元年(1144)生まれ・10歳)がいます。

忠盛の正室は、家盛・頼盛母の宗子(和久井映見)です。忠盛の跡は、家盛がすでに没していたため、清盛が継いで安定したように見えますが、まだ宗子の二男頼盛がいます。ドラマでは頼盛はあまり清盛に心服していない様子でした。頼盛はこのあと、いったいどういう動きをするのでしょうか。

なお、忠盛は上記の子供たちの母親以外にも、秋萩という名の半物(はしたもの。中程度の召使)と、「四条の宮のうちに侍ける女」とも男女関係を持っています。結構女性遍歴があるのですが、正室の宗子との関係は壊れなかったみたいですね。

■参考文献
本記事は、『増補改訂 清盛以前』(高橋昌明著)を参照しています。該書は維衡から始まる伊勢平氏を忠盛の代まで詳述した書で、示唆に富む考察に溢れています。とくに正盛・忠盛は分量が多くその中でもさらに忠盛を大きく取り上げています。伊勢平氏の忠盛までの代に興味がある場合には、手にしない訳にはいかない書だと思います。

増補改訂 清盛以前 (平凡社ライブラリー)
高橋 昌明
平凡社


それと、ドラマでは、藤原頼長が美福門院得子の陰謀で、藤原家成(佐藤二朗)の家を破壊していましたが、そのとき活躍したのは実は頼長の彼氏(男色相手)の秦公春(はたのきみはる)です。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第15回:摂関家内の確執

2012-04-16 05:25:47 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第15回「嵐の中の一門」の冒頭、清盛(松山ケンイチ)の弟・家盛(大東駿介)が死亡しました。

ドラマでは、意識が朦朧としてきて落馬し、死んだことになっていますが、史実では久安5年(1149)2月13日の鳥羽法皇(三上博史)の熊野詣に、家盛は病を押して供奉したところ、参詣の途中で症状が悪化し、3月13日に再発すると、都を目前とした15日に宇治川の落合の辺りで亡くなったとされています。

ドラマでは家盛贔屓の一族たちが悲しんでいましたが、実際もしこのとき家盛が死ななかったら、清盛の相続は危ういものになっていた可能性があります。少なくとも、このあと起こる保元の乱で、清盛と家盛は敵対し、家盛には叔父の忠正(豊原功補)らが付いて、清盛側の勢力が少なくなった可能性があります(実際清盛と忠正は敵対します)。

清盛にとっては、家盛の死は、グッドタイミングすぎます。したがって、清盛派による毒殺などの可能性も捨てきれません。

家盛の死の真相は謎のままです。

それと、摂関家からも何やら不穏な空気が流れてきましたね。

藤原忠通(堀部圭亮)と頼長(山本耕史)兄弟の確執です。

ドラマでは急に仲が悪くなったような印象がありましたが、実際は以前から二人の仲は悪かったのです。

忠通と頼長は、兄弟といっても23歳も年が離れており、親子のような感覚だったと思います。

兄の忠通には、長く男子が生まれなかったので、天治2年(1125)に忠実(國村隼)の命により、弟の頼長を養子にしました。このとき忠通はまだ29歳だったので、男子が生まれる可能性は高かったわけですが、父の忠実はこの当時、関白を罷免されて宇治に籠居しており、手元で頼長を育てているので、忠通よりも頼長の方が可愛く、おそらくこのときから摂関の地位が頼長に行くように画策を始めたのではないでしょうか。

このままもし忠通に男子が生まれなければ、忠実の思惑通りになったのですが、康治2年(1143)、忠通に待望の男子が生まれます(これより先、大治2年(1127)に男子が生まれていますが夭折しています)。忠通は俄然、摂関の地位を生まれてきた息子に継がせたいと思うようになります。

それからしばらくして、忠実は忠通に対して、「摂関を頼長に渡せ」と言うようになります。忠通はもちろんその都度断ります。

兄弟の仲がさらに険悪になったのは、ドラマでもやっていた近衛天皇への入内の件です。

久安6年(1150)正月10日、頼長が養女の多子を入内させると、翌月には美福門院得子と結んだ忠通が養女呈子の入内工作を開始し、4月には実現します。その前の3月には多子は皇后となっており、呈子も引き続き中宮になります。

この入内・立后競争で、兄弟の仲は修復不能になりました。

忠通から摂関の地位を奪うことができないと考えた忠実は、藤原家のトップを意味する「氏長者(うじのちょうじゃ)」を忠通から奪い、頼長に与えました。摂関の地位は天皇を通じて任じられますが、氏長者はあくまでも藤原氏のものなので、忠実が自由にできたのです。

ここに摂関と氏長者が分裂するという事態が出現しました。頼長には膨大な荘園や主従関係にある貴族や武士団が引き継がれました。久安7年(1151)正月10日には頼長に内覧(天皇が見ようとする文書を事前に見ることができる)が宣下され、関白と内覧が並立する事態が生じます。

さて、この摂関家内の確執は、このあとドラマでクローズアップされる「保元の乱」の要因のひとつになります。

「保元の乱」の回までは、あと何回かあると思いますが、皇族・貴族・武士たちのそれぞれの思惑が交錯し、京都内の内戦の勃発に向けて、世の中は動いていくことになります。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第14回:男も好きな男

2012-04-09 12:59:32 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第14回「家盛決起」では、一緒にテレヴィを見ていた今度中学生になる娘が、「これはNHKで放送しちゃダメでしょ!子供に説明できないような内容はダメだよ!」と思わず叫んだシーンが放映されました。

それは何かというと、男色シーンです。

藤原頼長(山本耕史)が、清盛(松山ケンイチ)の弟の家盛(大東駿介)を押し倒していました。

これは一体、史実なんでしょうか。

私の知る限りでは、頼長と家盛が男色の間柄にあったということは聞いたことがありません。

ではなぜ、ドラマはそのような脚本にしたのでしょうか。

実は頼長は、そっちの世界では超有名人なのです。

当時の貴族のなかには日記を書く人がいたのですが、頼長も『台記』という日記を記していて、その中に自分の男色経歴をきちんと書いています。

日記というのは現代人のそれとは違って、子供や子孫に対する教科書的な意味も含まれているので、当然ながら子供や子孫が、その男色っぷりを知ることになるのですが、それにも関らずきちんと記しています。

そのへんの神経は、現代人とは違っているのかもしれません。

そもそも、男色は政治的色合いもありました。

女性の場合、美貌で権力者に取り入り、陰で権力を握ったりすることがあることを簡単に想像できますが、男の場合も、容姿を武器にして男色でもって出世するという手段もあったのです。

頼長はドラマでも演じられている通り、冷徹でストイックな男でしたが、そんな彼も「彼氏」だった秦公春(はたのきみはる)が死亡した時は、公事を放棄し、父忠実(國村隼)の制止にもかかわらず、兵仗を辞しています。男性関係では意外とナイーブなところがあったのですね。

歴史上には両刀使いがよく現れます。有名なところでは織田信長もそうですし、武田信玄もそうです。そういう趣味は、昔はとりたてて大声で話すようなことでもない代わりに、特別隠しておくことでもなかったようです。

密かな男のたしなみといったところでしょうか。

皆さんもご存じのとおり、現代でも一部の業界ではそういう趣味が普通にまかり通っています。

私は男色経験はありませんが、両刀使いの歴史についてもいつか時間があったら調べてみたいと思っています。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第13回:神を利用する僧侶たち

2012-04-02 13:36:11 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第13回「祇園闘乱事件」では、強訴(ごうそ)で担ぎ出されてきた延暦寺の鎮守の神輿(しんよ)に対して、清盛(松山ケンイチ)は矢を命中させました。そしてその件が、延暦寺の僧侶と貴族たちに大きな波紋を巻き起こしました。

第2回でも述べましたし、ドラマでも言っていましたが、白河法皇(伊東四朗)の思うどおりにならなかった三つ(三不如意)のうちの一つが、比叡山の僧侶たちの強訴です。

比叡山延暦寺は、一言で「延暦寺」といっても、内実は東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よがわ)という三つの地域(三塔)に分かれていて、それぞれが政治的意思を表明して行動することがありました。

それらの「塔」は決して仲が良いわけではなく、武力闘争にも発展しています。

延暦寺の強訴の中身は、ある塔が別の塔の要人を流罪(島流し)にして欲しいなどの要求、つまり延暦寺内の派閥争いに関わったものもあります。

それに対して朝廷は「あちらを立てればこちらが立たず」と、対応に苦慮したと思いますが、もちろん延暦寺内の他派の追い落としだけでなく、自分たちに都合の悪い朝廷の人物を罷免させて欲しいという要求もありました。

今回のドラマでも、ささいなケンカを発端にして事件が大きくなり、清盛と忠盛(中井貴一)を流罪にせよと、延暦寺が主張するに至りました。

ドラマでは、清盛が神輿を射たことが、祟りを恐れる貴族たちの大きな注目の的になっていましたが、なぜそんなに貴族たちは祟りを恐れたのでしょうか。

ドラマでも言っていましたが、摂関家の藤原忠実(國村隼)の父師通は、嘉保2年(1095)の美濃守源義綱の罷免を要求した延暦寺・日吉神社の強訴の際に武士にそれを防がせ、そのとき武士が放った矢が神輿や神人(じにん)に命中してしまったのです。

その4年後の承徳3年(1099)、師通は38歳の壮年で死亡します。

貴族たちは、4年前の神輿を射立て神人を殺害したことによる祟りであると噂しました。

なので、今回のドラマでも清盛が射た矢が神輿に当たったことを、いささかオーバーとも思えるほど恐怖していたのです。

平安時代末期は、まだまだ神様の力が強いと思われていた時代です。その神様の力を僧侶たちは都合よく使っていたのですね。

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