日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第12回:平氏と源氏はなぜライバル?

2012-03-26 06:12:25 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第12回「宿命の再会」では、久しぶりに会った清盛(松山ケンイチ)と源義朝(玉木宏)が、お互い「自分たちこそが強い武士だ」と主張して譲らず、掴みあいのケンカになってしまいました。

どうして平氏と源氏はこのようにライバル心むき出しに争うようになってしまったのでしょうか。そのきっかけはいったい何だったのでしょうか。

実は、そもそも平氏や源氏などの「武士」がこの世に発生した時から、両者はライバルとなる宿命を背負っていたのです。

武士の発生の理由については研究者の中からいくつか考えが出されていて、そのうちのひとつに、「平将門の乱」に関連した人びとの子孫が代を重ねるにつれて「兵(ツワモノ)の家(イエ)」を形成していって武士になったという考えがあります。

桓武平氏である平将門は、最初は一門内での争いを演じましたが、やがてそれが発展し、坂東の諸国を占領し、「新皇」として坂東で独立宣言を行うに至りました(天慶2年(939))。

それら一連の事件のなかで、将門の挙動が怪しいということ(実はそれは誤解だったのですが)を最初に朝廷に報告したのが、清和源氏の祖・武蔵介源経基で、将門の討伐で実際に将門を討ち滅ぼす活躍をしたのが、藤原秀郷と桓武平氏の平貞盛です。

この、
・清和源氏・源経基
・藤原秀郷
・桓武平氏・平貞盛
の三者が、主な武士のルーツと考えられています(他に貞盛の叔父良文の流れも上総氏・千葉氏・三浦氏などになり有名です)。

三者とも武士として順調な滑り出しをしましたが、安和2年(969)の「安和の変」で源経基の子満仲が藤原秀郷の子千晴を追い落とし、それにより秀郷流の力は減じられました。

秀郷流の力が減じられたことにより、浮き出てきたのが、桓武平氏と清和源氏です。

桓武平氏の貞盛の四男維衡(これひら)の家系は伊勢(三重県)に軸足を移し、伊勢平氏となり、正盛(中村敦夫)の代から急成長します。

一方、清和源氏の系統は、満仲の三男頼信が河内源氏の祖となり勢力を蓄えますが、頼信の孫の八幡太郎義家の代で、「後三年の役」(1083~87)の負担や、任せられた陸奥国の年貢を納めることができなかったことなどで、少し勢力を失います。

そして一族の内紛もあり、さらに勢力を失い、紆余曲折のあと為義(小日向文世)が継いだころは、平氏に比べて劣勢に立たされていました。

それでも、伊勢平氏はもとより、河内源氏も「平将門の乱」以来の歴史の重みを背負った武士の代表として世間に認知され続けます。

世間から武士の代表として河内源氏と伊勢平氏の二つが認知されてしまうと、自動的にその二つはライバルという形になってしまいます。

両雄並び立たず、というわけです。

正盛・忠盛(中井貴一)の伊勢平氏は、白河法皇(伊東四朗)・鳥羽法皇(三上博史)などの「院」勢力と結びつき、一方の為義の河内源氏は、藤原摂関家と結びついて、お互いしのぎを削りました。

伊勢平氏と河内源氏のライバル争いは、最終的には河内源氏の源頼朝が天下をとることにより、河内源氏の勝利で終わりますが、それはドラマの範囲を超えたところです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

ガンジーとは?

2012-03-21 20:14:30 | 雑談
先日、娘が小学校で使うということで、織田信長や上杉謙信など、歴史上の人物の画像をパソコンでプリントしていました。

「パパ、ガンジーって漢字でどう書くの?」

「ガンジーはインド人だからカタカナだよ」

娘は友達に頼まれたということで、ガンジーの画像もWebで探してきてプリントしていました。

そして翌日、娘は学校から帰ってくるなり、

「パパ!違ってたよ!」

「違ってたって何が?」

「ガンジーじゃなくて、鑑真(がんじん)だった!」

私は決してわざとやったわけではありませんが、娘が学校で友達にプリントした資料を見せたシーンを想像して爆笑しました。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第11回:神奈川県の武将・波多野義通登場

2012-03-19 08:41:49 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第11回「もののけの涙」では、清盛(松山ケンイチ)最愛の妻明子(加藤あい)が亡くなりました。どんな権力者でも強い武将でも身内の死に対する悲しみは我々一般人と変わりありません。清盛にも悲しみを乗り越えて生きて行って欲しいです。

さて、ドラマでは得子の陰謀が展開されていましたが、まずはいつもの系図を示します。



得子は自分の息子(近衛天皇)に皇位を継がせるため、崇徳天皇に譲位を迫りました。

得子が言うには、崇徳は天皇を引退したあと院政を敷いて政治をやり、近衛天皇の次に崇徳の息子重仁を即位させればよいということでした。

それにウカウカと乗ってしまった崇徳天皇は、譲位の宣命を聞いていて、「皇太子に譲る」のではなく「皇太弟に譲る」と言っていることに気が付きました。

天皇は上皇になったらだれでも院政を敷けるわけではなく、皇太弟に継がせた場合は、院政は敷けないのです。

つまり自分の政(まつりごと)ができない。

崇徳は「違う、違う、違う!」と言って転げていました。

「たばかりおったなー、得子ーっ・・・」

崇徳上皇は、鳥羽上皇の死を契機としてとんでもない行動に出ますが、それはまた後日のお楽しみです。

ところで、前々回、前回と坂東の武者が立て続けに出てきましたが、今回も相模国の武将・波多野義通(コング桑田)が出てきましたね。

波多野義通の館で接待を受けた義朝(玉木宏)は気勢を上げていました。

「皆の者、これより波多野一族は我が家臣ぞ!」

その場には、三浦義明(菅田俊)と上総常澄(きたろう)も居流れていました。

東国での義朝の力はかなりのものになってきています。

波多野氏は「平将門の乱」(939~40)で、将門の首を取った下野(栃木県)の藤原秀郷の後裔です。

源氏や平氏は武門として有名ですが、この秀郷流も各地に武家を輩出しており、例えば奥州にも進出しています。平泉の藤原氏もそうですし、遠野の阿曽沼氏も秀郷流、斯波郡の北上川河東で勢力を誇った河村氏も波多野氏の流れです。

藤原秀郷の5代あとが佐伯経範で、経範は平忠常の乱(1028)のころに源氏の郎等になり、前九年の役(1051~63)に源頼義に従って戦っています。経範の4代あとが波多野義通です。

義朝は東国において、三浦義明(菅田俊)の娘に長男義平を、波多野義通(コング桑田)の妹に二男朝長を産ませていましたが、このころは男が女の家に通う結婚形式が普通だったので、義平は母の実家の三浦家で育てられ、朝長も母方の松田亭で育てられました。

武家の棟梁の御曹司とされる義朝としてみれば、行く先々に歓迎されるままに子種を残していったことになり、もしかすると系図に乗っていない子供も何人もいたかもしれませんね。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第10回:千葉県の武将・上総常澄登場

2012-03-12 15:05:21 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
先週は、神奈川県の武将・三浦義明(菅田俊)が登場しましたが、今回(第10回)「義清散る」では、千葉県の武将・上総常澄(きたろう)が登場しました。坂東武者が続けて登場したことになります。

源義朝(玉木宏)は、ドラマでは東国において積極的に軍事介入をして、家臣を増やしていったと言われていましたが、上総常澄も義朝に応援を頼み、「聞きしに勝るご武勇。我ら上総一族を義朝さまの家臣に!」と叫んでいました。

これは一体どういう事件をもとにドラマに取り入れているかということですが、まず上総と名乗る一族の実態は桓武平氏で、清盛(松山ケンイチ)と同祖となり、先週述べた三浦義明と同じく、平将門の叔父・良文の流れになります。

その子孫に、「第5回:源氏と東国との関係」で述べた、平忠常がいて、忠常の玄孫(4代後)が今回登場した常澄になります。

『尊卑文脈』によると、忠常の家系には上総介に任じられる者がいたので、それを苗字にして「上総」を称したものと思われます。

常澄は、相馬御厨(そうまみくりや。千葉県北西部の伊勢神宮の土地)に関して、一族の千葉常胤と争っていました。そこに当時「上総の曹司」と呼ばれていた義朝が介入したのです。

義朝が「上総の曹司」と呼ばれていた理由については分かっていませんが、若いころ上総(千葉県中部)に住んでいたことが想定できます。

義朝は上総常澄と千葉常胤の相馬御厨をめぐる紛争を一時的に解決させ、このあと発生する「保元の乱(1156)」では、上総常澄の子広常と、千葉常胤は義朝の家臣として活躍することになります。

ドラマでも言っていた通り、義朝のもとに東国出身の家臣が増えてきましたね。彼らが今後ドラマの中でどういう動きをするのか楽しみです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第9回:神奈川県の武将・三浦義明登場

2012-03-05 09:58:27 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第9回「ふたりのはみだし者」では、清盛(松山ケンイチ)の生涯に付きまとう雅仁親王(松田翔太。のちの後白河法皇)が登場しました。

 雅仁親王は、大治2年(1127)の生まれなので元永元年(1118)生まれの清盛より9歳年下になります。

 ここまでの天皇家の人びとの関係を整理すると以下の通りです。



 さて、雅仁親王の登場、そしてドラマ冒頭での清盛嫡男重盛の誕生(保延4年(1138))も重要ですが、今回坂東生まれの一視聴者として嬉しかったのは、相模(神奈川県)の三浦義明(菅田俊)が登場したことです。

 源義朝(玉木宏)・鎌田正清(趙和)主従が木登りをしていたところに駆けつけて、「近頃となりの荘園のものどもが我らの土地を荒らし手を焼いております。義朝様のお力をお借りできますれば、これほど心強きことはござりませぬ」と言上しました。

 三浦氏は、清盛と同じ桓武平氏で、平将門の叔父の良文の流れ(三浦氏の系図は下記参照)ですが、この時点ですでに源氏とはコネがありました。

桓武天皇―――葛原親王―+―高棟王
            |
            +―高見王―+
                  |
+―――――――――――――――――+

+―高望王―+―国香―――貞盛―――維衡―――正度―――正衡―+
      |          (伊勢平氏)        |
      +―良兼           +―――――――――+       
      |              |
      +―良将―――将門      +―正盛―――忠盛―――清盛
      |(良持)
      |
      +―良正
      |      *         三浦
      +―良文―――忠頼―――忠通―――為通―+―為継―+
                          |(為次)|
                          |    |
                          +―為俊 |
                               |
                     +―――――――――+
                     |
                     +―義継―――義明―+―義澄
                      (義次)     |
                               +―女
                                 |
                                 +――義平
                                 |
                           源為義―――義朝

             *…系図によっては現れない

 平氏の三浦氏がなぜ源氏に仕えるようになったかというと、源氏の家系については、第5回:源氏と東国との関係で述べましたが、そこに出てくる頼信の兄頼光の郎等(家臣)に、良文の子あるいは孫の忠通がなったことが源氏との縁の始まりです。

 忠通は、村岡次郎とも称し、頼光の四天王の一人に数え挙げられており、その後、頼信とも出会い、頼信の人柄に惚れて頼信の臣下になっています。

 忠通の子為通が、相模国鎌倉郡・三浦郡を領して三浦を号しました。

 為通は前九年の役(1051~62)に源頼義に従って参陣したとも伝えられ、子の為次(為継)は八幡太郎義家に従って後三年の役(1083~87)で戦っています。

 後三年の役では、同じ桓武平氏の鎌倉景政が目に矢を受けた際に、為次は景政の顔に足を掛けて矢を抜こうとし、その無礼に激怒した景政に斬られそうになったというエピソードが残っています。

 為次の兄弟の為俊は、白河上皇に北面の武士として仕えています。

 そして為次の孫義明が、今回ドラマに登場してきたというわけです。

 義朝(玉木宏)は、義明の娘を娶り、永治元年(1141)には、長男の悪源太義平が誕生しています。

 義朝はドラマでは東国を流浪しているように見えますが、実際は先祖伝来の鎌倉の館を拠点として政治活動をしていたと考えられます。

 義明は前述の言上のように、となりの荘園とゴタゴタがあり、義朝に手を貸してもらいということでしたが、実際に天養元年(1144)には、義朝による「大庭御厨濫行事件」が起きており、義朝は大庭御厨(おおばみくりや。御厨とは伊勢神宮の荘園)をめぐってのゴタゴタに便乗して略奪などを行っています。

 義明は、今回のドラマのギリギリ範囲内のことなので詳細は書きませんが、治承4年(1180)の頼朝挙兵時に頼朝側について戦い、居城の衣笠城で壮絶な討死をします。享年は89歳という非常な高齢でした。

 さて、今回の大河ドラマ「平清盛」は、どうしても畿内が話しの中心になってしまいますが、脇役でも坂東の武者が出てくると同じ坂東出身の者としてはとても嬉しいですね。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント