日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第8回:摂関と藤原忠実

2012-02-27 14:39:00 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第8回「宋銭と内大臣」では、藤原忠実(國村隼)の次男、頼長(山本耕史)が登場しました。

忠実は頼長に対して、摂関家盛り返しの切り札として活躍することを望んでいましたが、その「摂関家」とは一体何なのでしょうか?

まず、摂関家の「摂関」ですが、これは摂政と関白のことです。

天皇が幼少であったり病弱であった場合は、摂政がかわりに天皇の権限を代行します。そして天皇が成長したときには、関白がその職務を補佐します。

この摂政と関白を出す家が「摂関家」といわれ、忠実・頼長らの家だったのです。

摂政の始まりは、藤原良房(804~72)で、孫の清和天皇を9歳で即位させた時点で良房は摂政となっています。

それが道長(966~1027)以降は、道長の家系(御堂流)に限定されるのですが、承徳3年(1099)、忠実(國村隼)22歳のときに、関白であった父師通が38歳の若さで没し、権大納言であった忠実は関白を継ぐことができず、摂関は断絶してしまいました。

忠実は長治2年(1105)、関白に就任することができましたが、摂関家の力は昔にようになく、忠実は摂関家の復活に力を注ぐことになります。

忠実は嘉承2年(1107)に鳥羽天皇(三上博史)が5歳で即位したときに摂政になっていますが、保安元年(1120)、清盛(松山ケンイチ)が3歳のときに、突如白河法皇(伊東四朗)によって関白をクビにされ、謹慎生活に入ってしまいました。

忠実が関白を解かれた原因は、忠実は娘の勲子を鳥羽天皇へ入内させようとして、白河法皇に無断で交渉して白河法皇の怒りを買ったことだといわれていますが、当時忠実の長男忠通(堀部圭亮)と法皇の養女璋子(檀れい)の婚儀の話も進んでおり、璋子の素行の問題により、忠実が忠通の婚儀を断ったのが白河法皇の機嫌を損ねたとも考えられます。

さて、関白の位には、保安2年(1121)に忠通がつきます。これにより忠実の摂関としての政治生命は断たれましたが、天承元年(1131)、謹慎していた忠実は鳥羽上皇に対面し、翌年には公的に復帰します。忠実は、ドラマでも見られるとおり、まだまだ朝廷で活躍を続けます。そして忠実とともに摂関家復活の希望を担う若きホープとして活動するのが、次男頼長(山本耕史)です。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第7回:位階

2012-02-20 09:42:28 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第7回「光らない君」は清盛の結婚のお話でした。

そのなかで、「しょうしいのげ」とか「じゅしいのげ」という言葉が出てきました。

これは何かというと、大宝元年(701)に制定された現代でいえば公務員の位のことで、以下の30ランクが設定されています。

1.正一位
2.従一位
3.正二位
4.従二位
5.正三位
6.従三位
7.正四位上
8.正四位下
9.従四位上
10.従四位下
11.正五位上
12.正五位下
13.従五位上
14.従五位下
15.正六位上
16.正六位下
17.従六位上
18.従六位上
19.正七位上
20.正七位下
21.従七位上
22.従七位下
23.正八位上
24.正八位下
25.従八位上
26.従八位下
27.大初位上
28.大初位下
29.少初位上
30.少初位下

忠盛(中井貴一)の「しょうしいのげ」は正四位下で上から8番目にまで昇っており、清盛(松山ケンイチ)は、今回「じゅしいのげ」(従四位下)、上から10番目に叙されました。

今回清盛が結婚した明子(加藤あい)の父高階基章(平田満)は正六位と伝わっているので、15番目か16番目のランクです。

忠盛と比べると相当差がありますが、しかも「貴族」といわれる人びとは従五位下以上の人々のことを言うのです。音楽でいえば、従五位下がメジャーデビューです。

だから清盛はもうこの時点(18歳)でかなりの高位にいるということになります。

一般の官人(公務員)は下から上がっていって、従五位下になることが一つの大きな目標になります。

そこまでが結構大変なんですが、さらに四位、三位と上がるのはもっと大変です。

三位以上は公卿(くぎょう)と呼ばれ、国政の中枢に参画します。

忠盛は今回は公卿になれませんでしたが(藤原忠実(國村隼)も釘をさしていました)、果たしてどこまで出世するのでしょうか。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第6回:海賊退治

2012-02-13 12:30:20 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
NHK大河ドラマ「平清盛」第6回「西海の海賊王」は、平忠盛(中井貴一)率いる平氏一門が海賊を討伐する話でした。

この海賊討伐は史実なのかな?とお思いの方もおられるかと思いますが、実際に平忠盛は海賊討伐をしています。

大治4年(1129)3月、忠盛に山陽・南海両道の海賊の追討が命じられ、長承3年(1134)12月には、兵衛尉平家貞(中村梅雀)が海賊追捕の賞により左衛門尉に補されています。

翌年の保延元年(1135)4月にも忠盛に西海の海賊追討が命じられましたが、このときは追討の候補者は忠盛と源為義(小日向文世)でした。しかし、為義では路次の国々が滅亡すると危惧され、西海の海賊追討に実績があり、西海にコネのある家臣も多い忠盛に追討の命は下されました。

この件が今回ドラマになった海賊退治の話です。

史実では、海賊の首領の名は日高禅司源智(ひだかぜんじげんち)でした。

ドラマの最後の方でも言っていましたが、捕まった70人のうち、検非違使に渡されたのは28人で、その中には海賊ではない人物が海賊だとされて混ざっていたといわれています。

ドラマでは清盛(松山ケンイチ)の「初陣」ということになっていましたが、元永元年(1118)に生まれた清盛は、この海賊追討時(1135)は18歳なので、設定としては妥当ではないでしょうか。

さて、ドラマでは清盛は海賊の首領・兎丸(加藤浩次)を捕りこめて手下にしていましたが、実際にこういうことはあったものと思われます。

というのは当時は日本と中国(宋)の間で貿易が盛んで、もちろん忠盛も宋と貿易しており、その際海上での通行の安全を保つにはどうしても海に精通した武力が必要でした。

なので、海賊のリーダーを味方につけて、貿易を安全に行ったことは充分考えられるのです。兎丸を味方にして、他の海賊に対抗するというわけです。

鳥羽上皇(三上博史)も中国からの輸入品の宝物をコレクションしていましたが、きっと忠盛が進上した宝物もその中に含まれていたことでしょう。

それと、高階通憲(阿部サダヲ)が中国語を話していましたが、実際通憲は、遣唐使になることを夢見て中国語の勉強をしていたということです。

*   *   *


全然関係ないですが、プリンセスプリンの「海賊姫」です。



作・編曲は私です。

よかったら聴いてみてください。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第5回:源氏と東国との関係

2012-02-06 17:04:16 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
源義朝(玉木宏)は父為義(小日向文世)に向かって、

「東国は曽祖父八幡太郎義家が武名を轟かせたところです。その地で私も腕を磨きとうござりまする」

と言い、東国(関東地方)に旅立って行きました。

為義・義朝父子に至る「河内源氏」と東国はいったいどのような関係があるのでしょうか。

まずは義朝の家の系譜を示します。

清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――経基王――満仲――頼信――頼義――義家――義親――為義――義朝――頼朝

為義や義朝の流れは大きくは「清和源氏」と呼ばれ、上記の頼信の代から「河内源氏」と呼ばれるようになります。

まずはその「清和源氏」の誕生についてですが、「清和源氏」は、皇族の経基王が源朝臣の氏姓を賜って、皇族から一家臣となることにより(これを臣籍降下という)誕生しました。

経基王は、従来から清和天皇の子貞純親王の子と言われてきましたが、『尊卑分脈』(南北朝時代から室町時代に編纂された比較的信憑性が高いといわれている系図集)を見て計算すると、貞純親王は清和天皇の4歳のときの子になってしまい、また経基王の子の満仲は父よりも年上になってしまいます。

それに対して、星野恒氏によれば、源頼信が石清水八幡宮に納めた願文の中で、頼信自身が「自分は陽成天皇の末裔である」と言っているといい、経基王は陽成天皇の孫であるといいます。

どちらが正しいかは断定できませんが、一般的には「陽成源氏」とはいわず「清和源氏」と呼ぶのが普通なので、ここでも為義・義朝たちの流れを「清和源氏」と呼ぶことにします。

さて、源経基は、厳密な意味での「平将門の乱」が起きる前年の承平8年(938)当時、武蔵介として武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)に赴任していました。この経基が武蔵介に任じられたことが、「清和源氏」と東国との関係の始まりです。

「介」というのは、国司の次官のことです。国司とはこの当時の場合は一国の行政のために国から任命されて赴任していた官職の人で、守(かみ。長官)・介(すけ。次官)・掾(じょう。判官)・目(さかん。主典)の4ランクがあります。

経基王の子満仲(みつなか)は中央で軍事貴族として活躍しており、当時「天下之一物」と言われた5人の武勇の士の筆頭でした。満仲は応和元年(961)に武蔵権守に任じられており、『尊卑分脈』には武蔵介・武蔵守と見えます(権守とは守の権官(ごんかん)で、仮の官職ですが実質は守と同等です)。また、満仲の弟満政も武蔵守となっています。

これでけではありません。満仲の母は、これまた武蔵守であった藤原敦有(敏有)の娘で、満仲の娘は、武蔵で力のあった別の系統の源氏(仁名源氏)と結婚しています。

まさにこの当時の経基一族は、武蔵国との関係が濃厚だったのです。

そしてその勢力は、満仲が天元5年(982)に常陸介に任じられていることから、武蔵国だけにとどまらず、常陸国(茨城県)にまで及びました。

満仲の三男頼信は、既述した通り「河内源氏」の祖とあおがれる人物ですが、頼信も上野介と常陸介(二期)に任じられています(ここで上野国(群馬県)にも縁ができました)。

頼信の母の兄弟である藤原保昌の先祖も関東地方を基盤とする軍事貴族だったので、頼信は母の実家の勢力もバックに持っていたことになります。

その頼信が現役の時代、関東で大きな事件が発生しました。「平忠常の乱」です。

平忠常は桓武平氏で、上総・下総(千葉県)に勢力を持っていましたが、やがて公然と朝廷に反するようになり、万寿4年(1027)には、それが顕在化しました。

その追討を命じられたのは、平直方と中原成通でした(中原成通はその後解任されます)。

それに対して、忠常は講和を求めてきますが、関東での勢力の伸長を目論んでいた直方は武力による討滅を望みます。

そのため、直方は更迭され、それに代わって追討を命じられたのが甲斐守であった頼信でした。

頼信は忠常と交渉し、それにより忠常は頼信のもとに降伏して「平忠常の乱」は収束します。頼信の武名は天下に轟きました。

さきに更迭された平直方は、それでも当時は武士としてその名が都に聴こえた存在であり、頼信の子頼義が弓の達者なのを見て心服し、自分の婿にしました(当時は嫁に出すのではなく、婿を取る招婿婚(しょうせいこん)が一般的でした)。

直方の婿になった頼義は、鎌倉の屋敷を譲られたといいます。屋敷をもらうということは、その地域の権力も併せて譲渡されたことを意味します。後世、頼義の子孫の頼朝が鎌倉で幕府を開きますが、河内源氏が頼義以来、鎌倉を自分の領地としていたことも要因のひとつと思われます。頼義は当時としては珍しく、妻は直方の娘だけでした。直方の娘は子宝に恵まれています。

さてその頃、奥州の奥六郡(岩手県中部)には俘囚(ふしゅう。朝廷に属した蝦夷)の安倍頼良が勢力を持っていましたが、頼良は税を納めなくなり、自分の領地の南限である衣川を越えて南下を企てました。そしてそれに対し、討伐に向かわされたのが頼義です。

この戦いを「前九年の役」(1051~62)と呼ぶのですが、この戦いは、関東に一定の影響力を持っていた河内源氏が頼義の代になり、その目を奥州に向け、奥州での利権を欲するために安倍氏を攻撃したというのがその実態だという説もあります。

頼義は、出羽国(秋田県)方面に力のあった清原氏の助けを借りて、何とか安倍氏を滅ぼしました。そしてこの戦いには、頼義の子八幡太郎義家が参加していました。八幡太郎という呼び名は、義家が石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服したことによります。

さて、ここまででドラマでも再三名前が出てくる「八幡太郎義家」に辿り着きました。

ついで、安倍氏が滅んだ後の奥六郡では、清原氏が統治者となっていましたが、その清原氏に一族での争いが生じました。そこに介入したのが義家です。その戦いを「後三年の役」(1083~87)と呼びます。

その混乱で、清原氏に連れ子として入っていた藤原清衡が奥六郡の統治者となり、平泉の藤原四代へと続くのですが、戦った義家に対しては、朝廷はそれを「私戦」と断じ、恩賞を出しませんでした。

義家に恩賞がないということは、その家臣たちも褒美がもらえないことになります。そのため義家は私財をなげうってともに戦った家臣たちに与えました。このことにより、家臣たちは感激し、より一層義家に尽くすことになります。義家は、代償は大きかったですが、それでも家臣たちの「心」という大きな物を得たことになります。

「後三年の役」のあと、義家の家臣である宇都宮氏は下野国(栃木県)に移住し、宇都宮氏のように東国に縁ができて移住する家臣も多かったようです。

武家の棟梁・源義家は承徳2年(1089)、白河上皇(伊東四朗)によって院の昇殿を許されました。白河上皇は、義家を重用しました。

しかしその義家もその後、弟の義綱とそれぞれの家臣同士の所領争いが発端で不和になります。そしてその頃、前回述べた次男義親の不始末も発生しています。

嘉承元年(1106)、義家は没し、天仁2年(1109)には義家の跡継ぎと目されていた四男の義忠が暗殺されました。この暗殺の犯人とされたのは、義綱の三男義明で、義明は父義綱ともども、追討を命じられた為義(小日向文世。義親の子)によって討たれます(義綱は逮捕の後流罪、義明は討死)。

河内源氏は為義が継ぎました。そして、時代は大河ドラマ「平清盛」で描かれる世界に入っていきます。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







コメント (1)