日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第3回

2011-07-30 20:12:57 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第3回 綾糟の服属

『日本書紀』によると、敏達天皇10年(581)閏2月、蝦夷の魁帥(首領)綾糟(あやかす)率いる数千人が辺境を荒らしました。綾糟の名は、伝説の時代を除けば文献上に蝦夷の人名が出てくる最初の例です。

しかしこの辺境を荒らしたというのは、ヤマト朝廷側の言いがかりでしょう。朝廷側の狙いは、綾糟を朝廷に召して服属を誓わせることであり、朝廷に召された綾糟は、泊瀬川に浸かり水をすすって、三輪山に向かい「子々孫々と、帝にお仕え致します」と誓いました。

三輪山とは、大神神社(おおみわじんじゃ)のことで、そこにはヤマト朝廷が祀る大物主(オオモノヌシ)がいて、蝦夷が信奉する神とは異なります。

綾糟は、蝦夷を代表して自らが信じる神では無い異宗教のヤマトの神に無理やり入信させられたというわけです。しかも、綾糟はヤマト言葉を話すことはできなかったと考えられるので、無理やり上記の言葉を発音させられたに違いありません。

これはヤマト朝廷が綾糟を嵌めたと考えて間違いないでしょう。

このように蝦夷にとっては屈辱的な事件である綾糟の入朝があった年は、聖徳太子が活躍する少し前の年です。

その聖徳太子が摂政をしたと伝わる推古天皇の在位中、関東では畿内から10~20年ほど遅れて、前方後円墳の築造が突如途絶えます。その後は、方墳や円墳を築造することになりますが、その中でも規模が大きいものは、国造(くにのみやっこ。地域の支配層で現在の都道府県内に数人)ひとつに対して古墳がひとつという割合になって行きます。

推古が崩御する前年の推古35年(627)2月、陸奥国で狢(うじな。ムジナ)が人に化けて歌を歌いました。畿内の人びとからすると、東北地方はムジナが人に化ける魑魅魍魎の世界というわけです。

艦隊これくしょん

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第2回

2011-07-29 16:38:45 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第2回 上毛野君田道の東北経略

こちらの記事は、管理人のホームページ「日本史大戦略」内に移植しました。

⇒「日本史大戦略」内「エミシの群像」はこちら


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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第1回

2011-07-28 23:09:47 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

今回から不定期で、『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』というタイトルで、蝦夷(エミシ)と朝廷の関係の歴史を述べてみようと思います。

蝦夷の初見から、岩手の英雄・阿弖流為(アテルイ)と坂上田村麻呂との宿命の戦いまで簡単にまとめてみます。

元にしている史料は主として『日本書紀』や『続日本紀』、『日本後紀』などです。

他の記事とゴッチャになるのを避けるため、「エミシの群像」というカテゴリーを作りました。

個人の感情的には蝦夷贔屓なのですが、史料の関係上、どうしても朝廷からの目線になってしまいます。その点はご了承ください。

それでは、行きます。

第1回 エミシ登場

こちらの記事は、管理人のホームページ「日本史大戦略」内に移植しました。

⇒「日本史大戦略」内「エミシの群像」はこちら

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武田家の躍進と鍛冶集団首領カンスケ

2011-07-27 20:55:51 | 歴史コラム:中世
『青銅の神の足跡』(谷川健一著)によると、鍛冶の仕事をすると、炉内の温度の変化を把握するために片目で炉内の炎を凝視し、職業病として効き目の方が悪くなり、酷くすると失明するそうです。

また、風を送る装置(ふいご)は、片足で踏んで操作するそうです。

そういう事実が伝説化して、一つ目小僧(多くは一本足)が誕生した可能性が有りますが、戦国時代の甲斐武田の軍師・山本勘助も、鍛冶屋と関係があるような気がしてきました。

「かんすけ」の「かん」とは、「鍛冶(かぬち)」や「カンチ」から来たのではないでしょうか。

山本という武将は実在の人物(武田家臣)で、それと鍛冶屋の伝承が重なって、山本勘助という伝説の軍師を生んだということは考えられないでしょうか。

では、なぜ一人の武将に鍛冶屋の伝承が重なって、それが伝説の「大軍師」となったか。

武田家の躍進の裏にチラチラ見え隠れする鍛冶集団の影・・・。

そしてその鍛冶集団の首領カンスケの隠然たる力・・・。

今後探求していきたいテーマです。

艦隊これくしょん

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北条氏康の弟たち

2011-07-26 21:50:03 | 歴史コラム:中世
『北条早雲とその一族』(黒田基樹著)によると、北条氏綱の子供は男子4人・女子6人が確認されているそうです。

男子は上から、氏康、某、為昌、氏堯です。

嫡子氏康は永正12年(1515)生まれで、後北条家第3代を継ぎました。祖父早雲と並んで、後北条氏で最も名の知れた武将でしょう。

次男の某は、残念ながら名前すら伝わっていません。恐らく早世したのでしょう。

三男の為昌は、永正17年(1520)生まれ。マイナーな存在かもしれませんが、中々の人物だったようです。

享禄5年(1532)、前年に死去した叔父氏時に代わり、玉縄城主となりました。弱冠13歳です。この年から史料上での活躍が確認されます。

それから数年後には、相模川から多摩川一帯を領し、北条氏領の半分を治めました。氏康の弟として、極めて重要な地位にいたということに加え、器量も優れていたことの証でしょう。

軍事面では、天文2年(1533)の安房里見氏の内訌に際し、海路里見義堯を援護すべく出撃しました。また、同4年の甲斐山中合戦、その翌年の武蔵入間川合戦でも、父氏綱・兄氏康・叔父宗哲(幻庵)と並んで、一軍の将を務めました。

このように若い頃から活躍し、将来を嘱望された為昌でしたが、残念ながら天文11年(1542)、23歳という若さで亡くなりました。

兄氏康としても、前年に父氏綱を亡くしているので、ショックが大きかったことでしょう。まさに右腕をもぎ取られたような気持ちだったかもしれません。

なお、為昌という諱は北条氏内でも異質な印象を受けますが、下山治久氏は、「為」は、公家の上冷泉為和から、「昌」は重臣の大道寺盛昌からとったのではないかと推測しています。

さて、最後は四男の氏堯です。

氏堯は大永2年(1522)に生まれました。氏堯も兄為昌と同様、マイナーな存在ですが、兄某と為昌が亡くなったため、氏康の唯一の弟として周囲の期待を背負う存在となりました。若いうちは叔父宗哲が後見し、30歳を過ぎた弘治元年(1555)から史料上での活躍が見られます。

外交も担当し、出羽米沢の伊達晴宗との取次ぎ役も勤めました。

軍事面では、長尾景虎(上杉謙信)の来攻に際し河越城を守り、上杉氏方が松山城を攻略した際も河越城を死守しており、その後の高麗郡での上杉氏方との戦いでは戦功をあげています。

このような活躍を見せた武将でしたが、残念ながら永禄5年(1562)の史料を最後に姿を消しました。亡くなってしまったのでしょう。

以上、氏康は言うに及ばず、弟の為昌・氏堯も優秀な人物でした。非常に興味のそそる武将たちです。

艦隊これくしょん

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ややこしい大物主(オオモノヌシ)・大己貴(オオナムチ)・大国主(オオクニヌシ)

2011-07-25 20:45:11 | 民俗コラム
古代史の本を読んでいると、いろいろな神様が出てきますが、そのなかで、

・大物主(オオモノヌシ)
・大己貴(オオナムチ)
・大国主(オオクニヌシ)

は名前が似ていて混乱します。

本を読んでいて混乱しないためにも、少し整理してみたいと思います。

『日本書紀』(神代 上)によると、大己貴神はスサノオの子です。そして、ある書ではスサノオの6代あとが大国主神、また別の書ではスサノオの6代あとが大己貴命だといい、さらに別の書では、大国主神は大物主神とも国作大己貴命とも言っています。

ある説では、三柱は同一神ということなのですね。

その説を採ってしまえば疑問が解決なわけですが、そうとも言ってはいられません。

さらに『日本書紀』(神代 上)の続きを見ます。

大己貴神が国を作り終わると、不思議な光が海の中からやってきて、それが大己貴の「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)」で、日本国(やまとのくに)の三諸山に住み、大三輪の神となったといいます。

大三輪(の神)とは、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)のことですが、大神神社のホームページによると、祭神は、大物主大神、配祀が大己貴神と少彦名神で、大己貴神は大国主神と同じ神であるといいます。

ここで、

大己貴(オオナムチ)=大国主(オオクニヌシ)

となりました。

『日本書紀』(神代 下)では、大己貴神は、葦原中国の主で、ある書では、大己貴神が国を譲って退去した後、大物主神と事代主神が天孫に帰順したといいます。

大国主(=大己貴)も大物主も、天皇家の先祖が天下を取る前に栄えた勢力ということになります。

大国主(=大己貴)は、島根県出雲市の出雲大社の祭神です。

ここまでは一般的な話で、エグイ話になると以下の通りです。

『消された大王 饒速日』(神一行著)によると、福井県小浜市の弥和(みわ)神社の祭神は大歳彦明神で、それはスサノオの子オオトシであるとし、大物主はオオトシであると同時にニギハヤヒであるとします。

つまり、ニギハヤヒはスサノオの子ということです。

大物主=オオトシ=ニギハヤヒ

という説はもう少し調べてみようと思います。





御城コレクション

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アラハバキは土着の神か?外来の神か?

2011-07-24 18:47:32 | 民俗コラム
『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』(近江雅和著)では、アラハバキはスサノオが祀っていた神で、スサノオは辰韓(のちの新羅)出身の「韓鍛冶」の一団の首領としています。

スサノオの一団は、当時まだ開発がされていなかった出雲西部に入植し、高志(越)のヤマタノオロチの襲来を退け、出雲東部の首長の娘クシナダ姫を娶り、つづいて出雲東部を乗っ取り、出雲を平定したといいます。

近江氏は、埼玉県さいたま市大宮の氷川神社の摂社門客人社がかつて「荒脛巾神社」と言われたことから、出雲大社の門客人社もアラハバキだと思っているようですが、同じ「門客人社」でも、「門客人」というのは一般的な名詞かもしれません。つまり表現は同じ「門客人社」であっても、中身は違う可能性が有ります。

近江氏は、アラハバキはスサノオが朝鮮半島から持ってきた神なので、その時期は弥生時代だとしていますが、私はどうもアラハバキは縄文時代からの日本古来の神であるような気がしてなりません。しかも、出雲や西国とは関係なく、関東・東北地方の神だと思います。

大宮の氷川神社は出雲大社からの分かれだという話と、武蔵の国造(国の支配者層)が出雲国造と同族の可能性が有るという話は気になりますが、むしろ、大宮には大昔からアラハバキを主祭とする神社の原型のようなものがあって、そこにヤマト朝廷が東国に進出するに当たって、重臣だった出雲系の人びとによって氷川神社が形成され、アラハバキは端に追いやられてしまったと考えるのはいかがでしょうか。

今後もアラハバキの動向には注視していこうと思います。




御城コレクション

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奥州久慈郡はいつできたか?

2011-07-23 21:45:07 | 歴史コラム:古代
今はもうありませんが、中世の頃、奥州には久慈郡という郡がありました。だいたい現在の久慈市と野田村の領域に当たります。久慈郡の北には広大な糠部郡があり、南には、これまた広大な閉伊郡がありました。久慈郡はその間に挟まって、ひっそりと存在していました。ただ、ひっそりといっても、久慈郡の面積は郡として特段小さいわけではなく、糠部郡や閉伊郡が特別大きいので、その間に挟まれ、独特な存在感を醸し出していたわけです。

そのなぜか気になる久慈郡ですが、いつ建郡されたのでしょうか。隣の糠部郡や閉伊郡より早くできたのか、遅くできたのか。

久慈郡が糠部郡や閉伊郡より先にできたのか、後にできたのかは確定することはできませんが、「久慈郡」の初見史料は、元弘4年(1334)2月18日付けの陸奥国宣です。

『北辺の中世史』所収「鎮守府将軍清原真衡と「戸」「門」の建置」(入間田宣夫著)で入間田氏は、中央政府は奥六郡の建郡のあと、「奥大道」を北上し、糠部を治め、そこから折れて南下し、最後に閉伊郡を建郡したと述べています。中央から見て閉伊が「地の果て」になるという見方です。一方、同書「戸のまちの起源と交通」(大石直正著)で大石氏は、『続日本紀』を引いて、奈良時代初期にはすでに閉伊郡の原型らしいものがあり、海岸沿いに北上して閉伊に行くコースがあったと述べています。そうなると、閉伊郡のあとに久慈郡を作ったということになります。

実際の地勢を見てみると、糠部郡から久慈郡へ行く場合、久慈へ至る道は険しい山越えで、結構きついです(実際車で葛巻から久慈へ行ったことがあります)。単純に考えて、久慈には港があるので、八戸から海岸伝いに海路久慈へ向かうのが楽そうに思えます。一方、閉伊郡から北上し久慈に入るのも、やはり陸路は険しく海路が妥当に思えます。往古の閉伊の中心は宮古だと思われ、中央政府は、「奥大道」を使って陸路から北進するのと同時に、海路、宮古→久慈→八戸と進出したとも考えられます。糠部郡の中心が八戸だとすると、閉伊郡、久慈郡、糠部郡のそれぞれの中心地は何れも「海」との関係が濃厚ということになります。

いろいろと想いを巡らせてみても結論は早急には出せないです。久慈郡は当初は糠部郡の一部だったのが、地形上、陸路で他の糠部諸地域と交通が不便だったので、分離して独立したのかもしれません。

久慈の強みはやはり何といっても港でしょうが、『久慈市史』によれば、久慈港は海からの風を直接受け、決して良港とは言えないといいます。しかし、三陸沿岸には港に適した場所が少ないので、中央政府の人々は、宮古から北上して野田か久慈の浜にたどりついたとき、恐らくすぐにその地が欲しくなったに違いありません。

しかし、そのときそこには蝦夷(エミシ)の勢力があったと思われます。

私はエミシも海での漁業をしていたと考えているので、そうだとすると、久慈に蝦夷の拠点があってもおかしくありません。

久慈の昔についてもっと色々知りたいです。

※この話の続きをこちらに書きました。

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東京の渋谷城は謎の城:都心に眠る中世城跡

2011-07-22 23:32:32 | 歴史コラム:中世
東京の渋谷に、戦国時代、渋谷城という城があったといわれると、現在の発展した町の姿しか知らない人は驚くかもしれません。

でも、実はそれは言い伝えに過ぎず、渋谷に戦国時代の城があったという証拠はひとつも残っていないというと、今度は一転してガッカリするでしょう。

一般的に流布している話は、大永4年(1524)に後北条氏が扇谷上杉氏の江戸城を攻めた時に、同時に渋谷城も攻めて落城させたという話です(『日本城郭大系』にも書かれています)。

戦国時代の渋谷城に関する話はこれしか残っておらず、この話も神奈川県の方の渋谷の城かもわからず、今のところ東京の渋谷城の話と決めるわけにもいきません。

ただし、戦国時代ではないですが、もっと昔の古代末から中世初め、館あるいは城があったという言い伝えが残っています。

それは、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に記された、「河崎庄司次郎館跡」と「金王丸城跡」です。

河崎庄司次郎というのは、坂東八平氏のひとつ秩父氏の流れを汲む河崎基家である可能性があります。

『渋谷区史』が引く「秩父系図」によれば、基家は「河崎冠者、武州荏原郡知行」とあり、その孫の重国が「渋谷庄司、預武州渋谷郷」とあることから、それらが混乱して「河崎庄司」という名前がついたものかもしれません。

金王丸も諸説あって、上記の重国という説や、重国の兄弟の土佐坊昌俊の説などがあります。

河崎庄司次郎と金王丸は近い親族であるので、『新編武蔵風土記稿』に書かれたふたつの館と城は同一の場所であった可能性が高いです。

さて、その場所ですが、河崎庄司次郎館跡は「今其地詳ならず」とあり、金王丸城跡は「今藤掛采女抱屋敷の内に入れり」とあります。

明治42年の陸軍の地形図を見ると、金王八幡(渋谷駅東口)の西側の斜面を「堀ノ内」と呼んでいたことがわかり、『渋谷区史』が引く『渋谷風土記』によれば、藤掛采女の屋敷は堀ノ内にあったといいます。

そこの地形を見ると、西から南にかけては渋谷川で守られ、北側はやや窪地になり、東側が台地続きなので、その東側を切断すれば、大体100メートル四方の居館が築けます(現在の金王八幡の社地と少し重なります)。

そこが館跡でしょう。

しかし、それは平安末から鎌倉時代にかけての館跡だと思われ、冒頭に述べた後北条氏による渋谷城の攻略まで、300年の空白があります。

その間、当該地域の渋谷氏についても全くと言っていいほど伝承が無いのです。

後北条氏の家臣に渋谷姓がいますが、武蔵の渋谷ではなく相模の渋谷かもしれません。

もし、戦国時代の武蔵の渋谷に城があったとしても、上記の金王八幡の西側であれば狭小なので、東南の並木方面に城域を拡大して二倍の広さにするか、あるいはひょっとして、こことは全然違う場所(例えば渋谷駅の西側)にあったのかもしれません。

果たして、戦国時代の東京渋谷に城はあったのでしょうかねえ。

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山本勘助と一つ目小僧

2011-07-21 21:24:31 | 民俗コラム
歴代のNHK大河ドラマのなかで、私が一番好きなのは、2007年度の「風林火山」です。

「風林火山」の主役は、戦国時代の甲州武田家の軍師・山本勘助で、勘助は片目が見えず、くわえて片足が不自由だったにも関わらず、信玄の軍師として縦横の活躍をしたといわれています。

さて、私は柳田國男の『一目小僧その他』所収「一目小僧」を読み始めたのですが、日本の各地で残っている一つ目小僧の伝説では、一つ目小僧は足も一本であったという話が多いそうです。

それを読みながら私は、一つ目で、一本足、これはまさしく山本勘助がそうではないかと、ハッとしました。

そして、そのまま読み続けていると、やはり柳田も山本勘助に着目していました。

しかし、残念ながら少々触れるにとどまっています。

柳田の推測では、全国に残る、一つ目、一本足の「お化け」の伝説の元は、神への生贄の儀式の名残で、来年度の祭りで神と交信をする役が決定した村人を、あらかじめ片目をつぶし、片足を折っておいたことが由来ではないかといいます。

その件と山本勘助がどういう関係にあるのか?

それとも、両者は関係ないのか?

今日もまた謎がひとつ増えてしまいました。

ところで、私の近所の八王子城の落城伝説のひとつに、こういう話があります。

城を守る武将に景信という人がいて、落城の際逃げるときに藤蔓にひっかかり転倒、川に落ちて死亡しました。

景信はそのとき片目を怪我していましたが、それ以来、その川のヤマメはすべて片目になりました。

柳田によるとこれに類似した話は日本全国にあるそうです。

この伝説についても今後は留意していこうと思います。




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民俗学にも片足突っ込んでしまった

2011-07-19 18:27:30 | 民俗コラム
柳田國男著『石神問答』を読み終えても、石神あるいはシャグジに対する謎は深まるばかりで、それどころか、より一層、民俗学の面白さの深みにはまってしまったという感じです。

今日は午前中出かけたので、そのついでに午後は図書館に寄って読書をしていたのですが、『新多摩石仏散歩』(多摩石仏の会著)によると、東京都三鷹市にある真福寺というお寺に「釈宮氏(シャクジン)」と呼ぶ板碑型の石碑があるそうです。

真福寺は、十数年前私が住んでいたアパートの大家さんの菩提寺だったにも関わらず、その石碑は私は未見でした。

というか、十数年前はそういった石碑に興味が無かった・・・。

石碑といえば、『道祖神を考える』(石川博司著)によれば、私の住む多摩地方には、1300基の庚申塔があるそうです。

庚申塔も今までノーマークでした。

そういった石神・石仏もそうですが、各所に残る「塚」にも興味が出てきて、気をつけると、塚はそこらじゅうにあることが分かりました。

「塚」といえば、先日から話題にしている「十三塚」ですが、我が家の比較的近所にもある(あった?)そうで、『武蔵野の民話と伝説』(原田重久著)によれば、東京都稲城市大丸の十三塚は、鎌倉幕府が滅亡する時の分倍河原合戦で、新田氏に敗れた北条氏の武士を葬った塚だそうです。

そこを発掘した人は発掘直後急死したので、祟りにあったと言われています。

あと、「一つ目小僧」も気になりだしたら、東京の武蔵野地域にも一つ目小僧の伝説が残っているということを知りました(『武蔵野の民話と伝説』)。

もともとは歴史学が好きで、それに考古学、宗教学、神話学、人類学と、いろいろな学問を少しずつ加味してきて、それに新たに民俗学が加わった形です。

それだけ手広くやって、結果はいつ出るんでしょうかねえ。




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斬り殺された13人の武士を葬った十三塚

2011-07-17 20:28:32 | 民俗コラム
柳田國男の『石神問答』を読み進めていくと、「石神」と「シャグジ」が別の物であると述べられていました。

石神は、『延喜式』の時代(10世紀初頭)の記録に既に見られるといい、多くは「イシカミ」、「イワガミ」と呼び全国にありますが、サグジ(シャグジ)と混同しているようだといいます。関東では「シャグジン」と呼ぶ場合があります。

サグジ(シャグジ)は、東国にあり、西国や奥羽ではみつからないといいます。駿河等では杓子が転じてオシャモジとなりますが、オシャモジとシャグジと同神であるといいます。

さて、柳田は『石神問答』で、シャグジなどとともに「十三塚」にこだわります。

十三塚は、文字通り、13個の塚が並んでいるものですが、一つが大きくてあとの12個が小さい場合や、13個無くても十三塚と呼ぶことがあります。

伝承としては、戦国時代に討ち死にした武士を葬ったという類の話が多いようで、私も数年前に北東北の城館跡を巡った時に「十三塚」という地名に遭遇しています。

岩手県久慈市の宇部館跡がある場所の字は「十三塚」といい、その由来は、天正19年(1591)の九戸政実の乱の際に、政実弟の久慈備前守政則の家臣13人が乱入し、切り伏せられたのを葬ったことによるということでした(『岩手県中世城館跡分布調査報告書』)。

私が該地を訪れた時は、十三塚には興味がなかったので、塚を探すことはしませんでした。今となっては、せっかく行ったのにもったいないことをしたと思います。

柳田は『石神問答』とは別に『十三塚』という文章も書いています。一時は柳田があまりにも「十三塚、十三塚」というので、「十三塚男」、「十三翁」と考古学方面から言われたらしいです。




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柳田國男著『石神問答』

2011-07-16 21:11:47 | 民俗コラム
東京都練馬区に西武新宿線の上石神井(かみしゃくじい)という駅があります。

石神井川という川も流れ、中世の頃は石神井城という城もありました。

その地名の一部の「石神」(しゃくじ)って何だろうか?石の神様なのかな?と以前から気になっていたのですが、先日、『遠野物語』で有名な民俗学者の柳田國男が、『石神問答』という文章を書いていることを知りました。

早速、古本で取り寄せて読み始めたのですが、該書は、「石神」やその他の民俗学的な事柄をめぐって、柳田が知人との間で交換した手紙を編集した本です。

それによると、シャクジ(シャグジ・サグジ・サゴジ)という神は関東や中部などに分布し、「石神」と書き、その名の通り御神体が石であることが多いそうです。

御神体が石の場合は、石棒であることもあるので、その場合は男根信仰(性器信仰)との関係が想像できます。

男根信仰は現在でもとくに東北地方に残っており(駒形神社や金精(こんせい)様)、縄文時代の遺跡からも石棒が出土することから、縄文時代から受け継がれている信仰のようです。

ちなみに男根を拝んで何の御利益を得るかと言うと、それは良縁や懐妊、安産などです。

冒頭述べた、練馬の石神井でもその地で出土した石棒が御神体になっているそうです。

また、杓子と表し、オシャモジサマと呼んでいるのも何か関係がありそうだと柳田は睨んでいます。

柳田は当初は、シャグジを石神と書くのは当て字で、シャグジという言葉は本来別の意味が有ったのではないかと想像し、アイヌ語を疑ったり(後でそれは誤りでやはり日本語であると理解している)、また「十三」がついた地名が全国に沢山あり、十三塚の上にシャグジが祀ってあることがあるらしいとから、十三との関連も探っています。

シャグジの正体は何か?

もう少し『石神問答』を読んでみます。

ところで、シャグジとはあまり関係がないと思いますが、柳田が「我が皇祖神は日神にませども 直ちに日輪を崇祀することは古史に聞かざる所なり 武蔵の日奉氏は国津神の末なるかと覚ゆ」と書いているのが気になりました。

日奉(ひまつり)氏は、武蔵七党のひとつ西党の氏族で、東京都日野市周辺に盤踞していましたが、それより昔は、朝廷内において太陽を祀る日奉部(ひまつりべ)であったといいます。

その日奉氏が「国津神」(天皇家が日本を支配する前に、日本列島内で勢力を持っていた一族)の後裔ではないかというのです。

太陽を祀ることは古い歴史で聴いたことがないと言っていますが、日奉部がそれに該当するのではないでしょうか。私は日奉部について詳しいことを知らないので、日奉部とは何か?というところから疑問が生じてしまいました。

この件についてはもっと詳しく知りたいのですが、『石神問答』には上述の言葉がさらりと書かれているだけでそれ以上のことは分かりません。

柳田国男全集〈15〉 (ちくま文庫)
柳田 国男
筑摩書房

(「石神問答」が収められた『柳田国男全集〈15〉』は↑から購入できます)
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Y染色体と蝦夷(エミシ)

2011-07-15 17:34:44 | 歴史コラム:原始
以前、DNAのY染色体の話をして、旧石器時代はQ系統とC3系統の人びとが日本列島にやってきて後期旧石器時代の文化を作ったことを示しました。

それでは、旧石器時代につづいて、縄文時代になっても大陸から人はやって来ているのでしょうか。

『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著)によると、縄文時代になってすぐの頃(1万5000年前から1万2000年前)に、D2系統という人びとが日本に渡ってきています。Q系統とC3系統は、サハリン経由と朝鮮半島経由の二つのルートで入ってきたと思われますが、D2系統は朝鮮半島経由のみであったようです。

このD2系統というのはD系統の亜型ですが、D系統はアフリカを出た後、インドから東南アジアへ入り、そこから北上して華北(中国北部)に達したと推定されます。そこからD1、D3は西南方向に向かい、D2は遼東半島から朝鮮半島に進み、九州に渡りました。

D2系統は、日本国内では、青森39%、新潟48%、東京40%、北琉球・沖縄39%など、のきなみ高い集積率が見られ、とくに北海道アイヌには88%も見られます。

なお、中国に残ったD系統は、その後O系統に圧迫されてほとんど滅亡してしまい、朝鮮半島でもほぼ滅亡しています。

さらに、南九州にはルートは不明ながら、C1系統の人びとが貝文文化を運んできました。そして、数は少ないですが、N系統の人びとも縄文時代に日本列島に入ってきています。

ところで、日本語は世界を見渡しても同類のものが琉球語以外に無いそうですが、D2系統の人びとが多く残っているのも日本だけなので、縄文時代にD2系統の人びとによって、日本語の基礎が作られたのかもしれません。

それと、D2系統は、漁撈文化を持っていました。『DNAでたどる日本人10万年の旅』では、日本の伝説上の先住民であるツチグモが漁撈の民と伝わることに触れ、ツチグモはD2系統ではなかったかと推測していますが、私は蝦夷(エミシ)がこの時点での日本人、つまりQ系統とC3系統にD2系統が加わった人びとであると思います。先日もお話したとおり、エミシも海神を祀っていたので、それにより漁撈をしていたことが分かります。

さて、縄文時代の次は弥生時代ですが、弥生時代になると、いよいよ渡来系弥生人の登場となります。弥生時代のY染色体グループについてはまた後日お話したいと思います。

艦隊これくしょん

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結局、白鳥信仰とは何か?【谷川健一著『白鳥伝説』を読む】

2011-07-14 16:13:42 | 民俗コラム
ここ何日か頻繁に参照している谷川健一著『白鳥伝説』ですが、そもそも読むきっかけになったのは、「白鳥信仰って何だろう?」という謎でした。

該書はそのタイトルとは裏腹に、なかなか白鳥伝説に関することが出て来ず、下巻の後半になって、ようやく主題に移ったかのように見えます。

先日、和賀郡(岩手県北上市周辺)の中世領主和賀氏に白鳥信仰があると書きましたが、和賀氏は和賀郡に下向する前は、刈田郡(宮城県南部の白石市近辺)にいました。

該書によると、刈田郡には熱狂的な白鳥信仰があり、蔵王町宮の刈田嶺神社は、俗に白鳥大明神と称しています。

刈田嶺神社はヤマトタケルを祀っていて、それはヤマトタケルが死後、白鳥になって空に飛び立ったことから白鳥信仰が発生したように思えますが、それなら全国の他の場所でも白鳥信仰が発生していてもおかしくありません。

しかし、該書を読む限りでは、刈田郡にしか「信仰」と呼べるものはないという印象を受けました。

ただし、該書では出てきませんが、既述した通り和賀郡にも白鳥信仰はあります。

和賀氏はもともと武蔵七党の横山氏で、現在の東京都八王子市近辺にいて、ついで埼玉県熊谷市に移り中条氏を名乗り、源頼朝の平泉攻略(文治5年(1189))のあと、刈田郡を賜りました。その後、和賀郡に移ったわけですが、和賀郡に所領を得た時期は史料上で確認することはできません。しかしそれは、仁治4年(1243)より前です。つまり刈田郡から和賀郡への移動は、半世紀ほどの時間しか経っておらず、和賀氏(苅田氏)が、白鳥信仰を奉ずるようになったのは、半世紀の期間の中です。

短期間で和賀氏(苅田氏)が信奉するようになった白鳥信仰ですが、そのルーツははっきりしません。谷川氏は縄文時代にさかのぼる「東」の白鳥信仰が、「西」から来た物部氏の白鳥信仰と合体したと自論を述べています。

谷川氏は、「白鳥」という地名については各地を調べたようですが、信仰に関する調査はそれほどできなかったようです。地名に関しては、物部氏との関連を執拗に迫ってきます。そして、物部氏は白鳥信仰があったと、以前は推測だったのが、該書の終わりの方では断定となっています。

物部氏が白鳥信仰を奉じていたという根拠については非常に散漫な関連性となっており、該書を良く読んでも納得できるものではありませんでした。

結局該書を読み終わっても、「白鳥信仰って何だろう?」という謎は深まる一方ということになってしまいました。

さて少しネガティヴな感想となってしまいましたが、該書はここ数日参照してきたとおり、総合するととても面白い本なので、上下巻の内容を別のテーマでまとめて、タイトルを変えて出せばもっと良かったのではないかと思いました。

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白鳥伝説 (上) (集英社文庫)
谷川 健一
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谷川 健一
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