日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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金印に刻された「漢委奴国」は、「奴国」かそれとも「伊都国」か?そして邪馬台国の場所は・・・

2017-07-29 12:27:22 | 歴史の謎
 7月8日と9日にご案内したクラブツーリズム主催の福岡・佐賀古代史ツアーでは、探訪の最後に福岡市博物館を見学しました。

 福岡市博物館には国宝である「金印」が展示されています。



 ※稲用章撮影

 このような「国宝の中の国宝」と言っても良い逸品が国に持って行かれずに出土地に近い地元で展示されていることに私は感動しましたし、地元の方々にとっても誇れることだと思います。

 日本の古代史を調べる上で、まだ国内の文字史料が現れるより前は中国の文献史料と発掘調査の結果が素材となりますが、中国の正史『後漢書』によると、西暦57年に「倭奴国」の王が後漢王朝の都洛陽に遣いを送り、光武帝から印綬を賜ったとあります。



 ※『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(石原道博/編訳)に傍点を付け転載

新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
石原道博/編訳
岩波書店


 この『後漢書』に記載された印綬(金印とは書かれていないが王へ賜う印は金を使う)が江戸時代に志賀島で発見された金印であるとされているわけです。

 金印の印面はこのようになっています。



 ※『福岡市博物館 常設展示 公式ガイドブック』より転載

 「漢委奴国王」とありますね。

 これは上の図にも書かれている通り、「漢の倭の奴の国王」と読むのが定説の座をしめています。

 「倭」が印では「委」という字になっているのは減筆といわれる印を造るときにたまに行われる処置だということです。

 奴国(なこく)という国は、「魏志倭人伝」にも登場する国で、福岡県春日市の須玖岡本遺跡が本拠地と目されており、その奴国の王が光武帝から金印を賜ったというわけですね。

 ところが、金印の読み方に関しては上述した定説以外にも、金印発見直後の江戸時代以来の説として、「委奴」を「イト」と読み、「漢のイト国の王」、すなわち伊都国の王と解釈する説もあるのです。

 ツアー当日にお配りした私が作成したレジュメには定説の方を紹介しておいたのですが、参加者の方から「”イト説”もありますよね?」と指摘をいただきました。

 クラツーのお客さんは結構マニアックな方もいらっしゃいますので、こういう指摘を受けると私も刺激を受けるのでその後考察を深めてみました。

 ちなみに、ツアー当日福岡市博物館の職員の方が金印について解説してくださったときは、きちんと「イト説」も紹介しており、さすがだなあと思いました。

 では、金印を光武帝から賜ったのは奴国の王でしょうか、それとも伊都国の王でしょうか。

 それを考えてみましょう。

 「魏志倭人伝」を読むと伊都国は他の国と比べて特別な印象を受けます。

 というのも、まず「世々王がいた」と書かれているところです。

 奴国にも王はいたはずですが、奴国の項にはそう書かれていません。

 また、伊都国には朝鮮半島の帯方郡から来る使節が滞在する施設があり、さらに「一大率」と呼ばれる、魏王朝でいうところの「刺史」(州知事のようなもの)に該当するような広域を統べる特別官が滞在している点もプレミアム感があります。

 伊都国は九州における外洋との窓口となっており、個人的には現在の博多に似たような往時の繁栄の様を想像してしまうのです。

 遺跡を見ても、伊都国では王墓が三雲南小路王墓→井原鑓溝王墓→平原王墓と連綿と造られたのに対し、奴国王の王墓(須玖岡本遺跡)は副葬品を見ると伊都国王と充分に渡り合えますが、時代的には弥生時代中期後半(紀元前1世紀後半)になり、その前後の王墓が不明確なので、権力が長年に渡ってどの程度持続していたのか判断が難しいです。

 このため、「魏志倭人伝」の内容や現在見つかっている王墓を見る限りでは、倭国を代表する勢力としては伊都国王の方に分があり、現在の私は今では定説の座から降ろされている「イト国」と読む方を支持したいと思います。

 平原王墓の被葬者は誰か

 それともう一点、『後漢書』によれば金印拝受から50年後の107年には「倭国王帥升等」が生口(奴隷)160人を献じて後漢第6代皇帝・安帝に拝謁を願ったとあります。

 人名は帥升(すいしょう)しか出てきませんが「等」とあることから、帥升を代表者として倭国の王たちが連れだって洛陽まで行ったわけです(文面からすると王たち本人が行ったようです)。

 この帥升はどの国の王か。

 寺沢薫氏は『王権誕生』の中で伊都国の王としていますが、私も同じ考えです。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 理由は上で述べた通り、「魏志倭人伝」の記述および王墓の遺跡によって伊都国王が倭国の代表者として相応しいと思うからです。

 さらに想像を逞しくさせると、伊都国にある平原王墓1号墳の被葬者は帥升の子孫(孫辺りか?)ではないかと思うのです。



 ※稲用章撮影

 平原王墓1号墳はちょっと特殊な墓で、集落から仰ぎ見られる場所にはなく、まるで人目をはばかるように築造されています。

 もちろん墓域に入ってしまえば普通に目立ちますが、雰囲気的には墓に眠る王の霊が集落で生活している民や子孫を見下して加護する効果は望めないように見えるのです。

 なおかつ、40枚もの驚くべき多量の銅鏡が粉砕された形で副葬されており、どうもこの被葬者は後継者からするとあまり気持ちの良い存在ではなかったのではないかと思えます。

 なお、1号墳の副葬品には武器類があまりなく、勾玉や管玉・耳璫(耳飾り)などの装身具が多いことから被葬者は女性であると考えられているようですが、果たしてそう言い切れるでしょうか。

 1号墳の築造時期は2世紀の終わり頃ですが、「魏志倭人伝」を読むとちょうどその頃、倭国内では男の王が立ち国中がもめたためシャーマンである卑弥呼が共立されたとあるので、もめたときの王(帥升の子孫)を処刑して1号墳に葬ったのではないかと思うのです。

 あれれ、この話しの流れだと、卑弥呼が都した邪馬台国は北九州にあったという流れになってしまいそうですね!

 後になってまた変心するかもしれませんが、奈良の空気と福岡・佐賀の空気を実際に吸った感じを比べると、「肌感覚」として私は北九州説を支持したいと思うようになりました。

 さて、図らずも私が邪馬台国北九州論者であることが露呈してしまいましたが、このチラシの左側のツアーによってまた考えが変わるかもしれません。



 すでに催行は決定していますので、申し込んだのに行けなかったという悲しい事態にはなりませんのでご安心ください。

 ※後日註

 奈良のツアーと総社古墳群&大室古墳群のツアーは満席となりました。

 みなさん、どうもありがとうございます!

 大塚歳勝土遺跡&秋葉山古墳群ツアーの方はまだ少々空席があります。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 それと、上記以外の8月以降に行われる私の講座やツアーについてはホームページ「日本史大戦略」のこちらのページにまとめてありますので、興味のある方は宜しくお願い致します。

 最後に一言。

 どうも邪馬台国とヤマト王権を接続させたいと思う気持ちが強いと、邪馬台国が奈良にあったと考えたり、邪馬台国が東に遷ってヤマト王権になったと考えたくなるように思えます。

 中国の魏王朝が日本列島全部をくまなく知っていたという保証はなく、魏が把握していたのは九州地方だけであり、ヤマトの勢力のことは知らなかったと考えても良いのではないでしょうか。

 九州で邪馬台国と狗奴国がドンパチやっていたちょうどその頃、ヤマトの勢力が纒向遺跡で見られるように力を付けてきてヤマト王権を確立した、という流れのように邪馬台国とヤマト王権を別個のものとして考えても良いのではないかと私は思います。

 ただし、神武の東征の話やそれ以前にヤマトに来たというニギハヤヒの伝承、それに応神天皇が筑紫で生まれたという話などから、北九州の勢力がヤマトに入った事実はあったのではないかと考えています。



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6 コメント

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いいですねえ (りひと)
2017-08-30 11:11:22
それぞれの考えがあり、いろんな説がある。
また人間がそこから生き残っているはずもなく物や伝承等で残った物を繋げ合わせないと正解も見えてこない。

日本って一番最初に入った事とか権威ある方の説だとか定説だとかにどうしても忖度しちゃうんですけどそれは組織の弊害であって、組織にいても定説がある日本にいても疑問を感じ発する事出来るとてもいい時代だと思います。

高校の時に予備校の先生が学問とは人間を学ぶんだよおっしゃっていました。なので私は人間学ぶんなら文学が一番分かり易いと選んだのです。法学も人間のずるさを理解しないと出来ない学問ですし、人間も時代経て変わってきているのでそのままだと弊害がおきつつありますね。
考古学や歴史もそう、出てきた事実で即発想転換する流れが最近出てきているように思います。昔の事件で相当繊細に発掘もなっているようですからそれに合わせて監視やカメラなどで手が加わればすぐ専門家も分かるでしょうね。

昔の解釈で解決出来ないならば周辺の最近のニュースなどで発想変える事は大事ですね。
人気の邪馬台国については独自で好きな人が相当深い知識で研究していらっしゃいます。九州にも近畿にもその気配があるのは確かでしょうね。
今日見ていた難波宮でも木簡が万葉仮名の起源がさかのぼる最古の記載の説もありましたが、実際にそう思う人がいて書かれたのは確かでありそこに人間の意思も感じるのが文章だと感じました。

実際の答えは考古学では地層や地域などで物的証拠にもなりますので相手の意見にも耳を傾ける事さえ出来たら早く見つかるはずですね。排除していたら永遠出てこないように仕組まれているんじゃないかとも思います。自分はどっち寄りかを明確にしながらも配慮ある対応が、筆者にも博物館の方やその他の方にもあるようで今後が楽しみですね。

例のお墓の鏡が壊れているのを考えると、間違いなく被葬者をよく思っていない方が作る事に関わっているのでしょうね。とすると逆に今で考えれば作らずに済ませる事も十分出来たはずです。現在は結構作らないとか簡素にってありがちですから。
とすると、大概的にはその地で作らないとまずい方だったはずですし中は見る方は限られているので人間性がでやすいとも思われます。
私も人間性の観点からも大事なお墓になりそうに思います。鏡とかを入れた方々は思いもあり実務者はあまり好意的にみていない方々が関わっていれば勢力争いでしかないでしょうね。人間の行動はどこかにそういう部分が出る物ですから。祭事葬送の部分は専門家じゃないと出来ないし、今までやってきた事を覆すような事はよっぽど怨霊とかを恐れない方しかできないはず。なのでそうした専門家の部分に専門家以外の部外者が入り込んだ時代だとも思えましたよ。
場所の選定も気になるようですので地図見てみようと思います。イト国は大倭のにんべんのない字で音の数と同じ漢字の数でありおそらく古いはず、とするとにんべんがない字は存在した事になりますね。

個人的には倭文とか大養徳とか大の付く大倭とか今探っている所です。また大と小の字がつく
物もかなり気になるワードであります。大養徳(ヤマト)は三文字で音と同じなんでそこも考えるとイト国は小の女性の首長の関連ないか気になります。実際に女性だけの骨の古墳もあるらしいです。シャーマン的要素は女性が母系から継承していそうな個人的見解からですけど。そして鏡を壊せるのはその意味を理解出来ていない方ですね。
どうもこの家系は男性が危うい事も多く、そのポジションを狙う者からしたら魅力はあったでしょう。円墳一族だろうとは思いますけど、弟さんの国がイト国だったのかなあ?ともただ義理だとしたらシャーマン気質はないのでその後荒れるのも間違いないですね。卑弥呼は姉妹?いよいよ宗像見たくなりました。7432、7757
大倭 (稲用)
2017-08-31 18:58:40
古代史の楽しいところは史料の制約が多い分、自由な発想でロマンを楽しむことができることだと私は講座やツアーの時に話しています。そして他人の説を攻撃したりしないのは大人のマナーですね。
大倭・・・驚きました。私も数年前からずーっと気になっている言葉なんです。魏志倭人伝の全文の中で一番気になっている言葉です。これが解明できれば邪馬台国所在地論争も決着つくかも?大げさかもしれませんが、極めて気になる言葉ですね。
倭奴国 (ぶーさん)
2019-04-07 17:06:07
金印の読みは わのなこく でしょう。
後漢が他国に金印を賜う場合、印面は「何国の誰」という形で与えています。 他の金印も同様です。
伊都国は魏志倭人伝の中では倭国内で上位の国であったかもしれませんが、所詮は倭国内の一つの国です。
この金印を与えたのは後漢であり、この時代に伊都国が存在していた明確な記述はありません。ただ後漢の時代の日本は「倭国」と呼ばれていた事は後漢書より明白です。
なお、「奴」を「な」と読んだかどうかは分かりません。
Unknown (稲用)
2019-04-07 18:19:25
ぶーさん、こんにちは。

お説、ありがとうございます。このへんはいろいろな考えをお持ちの方がいて、とても面白いですね。
私は自説も述べますが、他の方々の考えを聴くのも好きです。それによって自分の考えも広がりますし、古代史の場合は考えても正解にたどり着けないことだらけですから、その思考を楽しむことにしています。
なお、歴史には答えがある、と考えるか、答えがない、と考えるのかは根本的な価値観の違いなので、これについて他人と議論することはありません。価値観の違いは絶対に折り合いませんからね。
返事感謝 (ぶーさん)
2019-04-08 21:52:34
稲用さま 私の唐突なコメントに返事を頂き有り難うございます。金印の印面についてちょっと調べ事をしていてここを見つけました。
倭人伝は読めば読むほど気になる事が出てきます。たとえば伊都国ですが、「世々王ありて皆女王国に統属する」とあります。
卑弥呼が女王になったのは185年頃と考えてますので、伊都国が女王国に統属している期間は5〜60年ほどでしょう。ところで、世々の王が「皆」女王国に統属していたのなら伊都国が出来たのは卑弥呼が女王になった後ではないでしょうか?それはつまり57年の金印を伊都国は受ける立場にないのでは。
細かい事が気になっています。
Unknown (稲用)
2019-04-11 09:17:03
ぶーさん、こんにちは。

たまたまなんですが、最初のコメントをいただいたときにちょうど金印を含めたその時代のことを考えており、お陰様で一つの気づきを得ることができました。
古代史の楽しみはいろいろな人の話を聴くことですね。
どうもありがとうございました。

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