日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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利根川と荒川の歴史について少し調べてみました

2013-01-30 21:34:51 | 歴史の謎
 東京には多摩川や荒川といった大河川が流れており、江戸時代以前は利根川も流れていました。

 その利根川ですが、江戸時代の初めに現在の流路になるまで、どのような変遷を辿っていたのか、また昔の利根川と切っても切れない仲である荒川との関係はどうだったのか、そういったことを知りたくて、Webで調べてみました。

 そうしたところ、株式会社クボタが発行していた「アーバンクボタ」という本で昔の利根川について分かりやすく書いてある記事を見つけました。

 アーバンクボタ 19号

 それによると、関東平野ができたのと同じ頃の約10万年前、利根川は生まれ、約6万年前は、現在の荒川と同じような流路に落ち着きました。

 当時の荒川は、利根川の支流でした。

 当時利根川が流れていた場所は荒川低地と呼ばれる場所で、大宮台地の西側です。大宮台地の東側は中川低地と呼ばれます。

 それが縄文時代にあたる4000年前ごろに、台地を飛び越して中川低地(の北の加須低地)に流路が延びて、中川低地を南流するようになります。

 そのころの気候は温暖だったので、水量が増え多量の土砂が堆積されはじめ、河床が埋もれて高くなる一方で、加須低地は「造盆地運動」(これについはまだ私は説明できません)をして相対的に低くなりました。そのため流れが加須低地の方に行ってしまったというわけです。

 それから時間が経って、中世の頃は現在の大落古利根川の流路を利根川は流れており、一方の荒川も現在の元荒川の流路を流れていました。両方とも中川低地ですね。

 その中川低地を流れていた荒川が、再度大宮台地の西側の荒川低地を流れるようになったのは、江戸時代になって利根川が銚子方面に付け替えられた「利根川の東遷」と同じころです。

 荒川は熊谷市久下で和田吉野川の河道に付け替えられて、入間川に接続するようになりました。こうして、現在の利根川と荒川が誕生します(北区にある荒川の岩淵水門より下流の荒川放水路は昭和初期の完成です)。

 つまり先日お伝えした板橋区の赤塚城の北側を流れる荒川は、赤塚城が機能していた中世のころは入間川と呼ばれていたのです。そして入間川の下流が隅田川です。

 以上、利根川と荒川の歴史を述べてみましたが、図がないと分かりにくいかもしれませんね。

 上記の「アーバンクボタ 19号」の「先史時代の利根川水系とその変遷」は、図も載っていて分かりやすいので、興味のある方は読んでみてください(「アーバンクボタ」は他にも興味深い記事が沢山掲載されていてお勧めです)。

 東京は国内一の河川集中地域なので、他にもまだたくさん川の謎が潜んでいます。

 これからももっと東京の川について調べてみようと思います。

艦隊これくしょん

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