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後漢の名将祭肜の活躍と倭国

2014-03-24 21:29:15 | 歴史コラム:古代
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 西暦8年、王莽が前漢の皇太子・孺子嬰から禅譲(正式に国を譲ることだが通常脅迫によって行われる)を受けて新を建国、しかし各地に群雄が並び立ち、その中のひとりである前漢の皇族の劉玄が勢力を得て、23年には皇位に就き(更始帝)、王莽を殺害しました。

 しかしその更始帝も、25年には都の長安を没落しすぐに殺されてしまいます。

 そして更始帝に代わり、これも前漢の皇族の末裔である劉秀(光武帝)が皇帝に推され、後漢を建てました。

 なお、光武帝の元号である建武は、日本でも鎌倉幕府が滅亡した後に後醍醐天皇が政権を確立したときに採用しています。

 さて、更始帝没落から光武帝即位の間の混乱に乗じ、朝鮮半島の楽浪郡でも地元の王調が郡守の劉憲を殺害し、自ら大将軍・楽浪太守と称し、楽浪郡を支配しました。

 『後漢書』によれば、前108年に衛氏朝鮮が滅亡して、朝鮮半島北部に4郡が置かれてから、朝鮮半島南部や日本列島に無数にあった、「東夷」と中国に呼ばれた国々は、はじめて漢の都に上ることになりました。

 東夷の使節の上京に関する対応を含め、東夷の国々との外交の窓口となったのは楽浪郡です。

 新しく楽浪郡の支配者となった王調に対して、東夷の国々がどのような対応をしたかは記録に残っていません。

 楽浪郡を牛耳ることに成功した王調でしたが、それも束の間、30年には光武帝により派遣された王遵によって滅ぼされ、楽浪郡は後漢王朝に帰属します。

 それまで単単大嶺から東側は楽浪東部都尉といって、郡都尉という官職の軍人が軍政を敷いていたのですが、楽浪郡が戻ってきたのを機に後漢は当該地域を地元の住民である沃沮(よくそ)や濊(わい)といった種族の酋長を県候に封じて統治させるように変更しました。

 つまり、後漢の支配が一歩後退したわけです。

 44年には「韓国の人」が、47年には高句麗(中国東北部の部族)が楽浪郡にやってきて服従しました。

 そしてついに57年正月には、倭の奴国王が後漢王朝の都洛陽に使を遣わせました。

 この奴国が日本列島内の国としては史上最初に名前が出てきた国で、現在の春日市や福岡市周辺にあたり、中心部は春日市の須玖岡本遺跡であると考えられており、そこからは王の墓も見つかっています。

 このとき光武帝は、「大夫」と称した使の者に金印を授与しており、その「漢委奴國王」と刻印された金印は、江戸時代に現在の福岡市東区志賀島で発見されて、その後国宝となっています。

 「漢委奴國王」は、一般的な説では「漢の委の奴国王」と読み、「倭」が金印では「委」となっているのは、減筆と呼ばれる処置です。

 さて、日本列島内に100余国あった国の一つである奴国が後漢王朝の都まで行けるようになったのは、実はあまり知られていませんが、後漢の祭肜(さいゆう)という武将の活躍の結果なのです。

 早くに父を亡くした祭肜は父の墓の前で生活し、任官してからは光武帝に可愛がられその近くに仕え、その後地方に出て行政官として治績を上げます。

 そして41年には、中華の地の最果てである遼東郡(遼東半島)の太守に抜擢され、強弓を引くことができて勇気もあった祭肜は光武帝の期待を裏切らず、異民族との戦いに大活躍しました。

 前述の44年の「韓国の人」や、47年の高句麗の服従は、祭肜がその地を安定させたために実現したものでした。

 その延長で、57年に奴国の使いが洛陽に行くことができたのです。

 その後も祭肜は北辺で活躍を続け、北方異民族や朝鮮の諸族の多くを後漢王朝に服従させ、69年には中央に戻ったものの、73年にはまたもや北匈奴との戦いを命じられました。

 ところが、出陣した祭肜は敵を恐れて進軍しなかったとして訴えられ、投獄されてしまいます。

 それまでの実績を考えると、祭肜が臆病風に吹かれたはずはなく、進軍が遅れたことがあったとしてもそれは軍略であったはずで、そこを祭肜に対して悪意を持っていた人物に付け入れられて冤罪で投獄されたものと考えられます。

 祭肜はその後、獄から出されましたが、その数日後、恥辱に耐えられず血を吐いて死んでしまいました。

 祭肜の死後、北方異民族である烏桓や鮮卑は祭肜を追慕し、都に来た際には墓に詣でて号泣しました。

 また、遼東の人びとも祠を建てて祭りを絶やしませんでした。

 そして祭肜の子孫も辺境にあってみな高い評判を得たといいます。

 さて、話を少し戻しますが、奴国の使が洛陽に行った翌月(57年2月)、光武帝は崩御します。

 その2年後に、倭国がまた使を遣わせ、107年になると、「倭国王帥升等」が、生口(奴隷)160人を献じて、第6代皇帝・安帝に拝謁を願いました。

 安帝はその前年に即位しているので、「倭国王帥升等」の来訪は、その祝いの意味もあるはずです。

 さて、「倭国王帥升等」の名前に関しては、帥升(すいしょう)か、「等」も含めて「すいしょうら」だったのか不確定ですが、一般的には「帥升」とされています。

 さらに言えば、「帥升」というのは個人名ではなく、官名である可能性も指摘されていますが、やはり一般的には名前だと考えられています。

 つまりこの帥升が、歴史上初めて現れる日本人の名前とされているわけです。

 帥升が登場したら、邪馬台国の卑弥呼の登場までもう少しです。




 



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1 コメント

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この人だ (りひと)
2017-12-28 21:39:43
ランキングでこちらの記事へ。
こちらのプログもいい読者いそうですね。
祭肜さんってもしかして日本にとっても大事な方だったんじゃないかな?祭が付くのでイメージ的にはカモさんでは?

で結局濡れ衣でやられちゃうのもどうも日本の歴史にも悪の手段の手法が似てますね。
弓なので祓いで巫覡的なお役目でもちろん護りでもありますね。そして王様も頼っていたでしょう。毘沙門天みたいなお役目です。ただ勝ちにこだわらず卑怯もしなさそうですが実際はどうなのか?気になりますね。

以前聞いた講演会でも東夷の存在が私も気になってました。また石碑でエビスと読んでいいかな?夷の字が彫ってあるのに東に変えられているのを見たことあり手でなぞったりした事思い出しましたよ。沖縄あたりも入ってきそうだったかな?詳しくはその後調べていないので東夷調べてみないといけませんね。

それと楽浪郡もそんな事あったんですね。
そもそも中国の出先機関でそこだけは周りの民族とは違う方々いらっしゃったと認識しています、もっと前は帯方郡が気になってます。

その楽浪あたりと国交を持っていた国が日本にもあったはずでその先の後漢との関係は今回の記事で理解出来ちゃいました。楽浪と同じ事が日本でも起ってそうですよね。卑弥呼の弟王の頃と武烈辺りの頃が気になりますね。

あとなんだったけ?思い出したらまた。
日本史意外は興味もまったくなくそう思い出した。生口〜人の頃に日本へ何か贈った方、この方もこの前講演会で出てましたね。古墳の遺物でそのものが出てきていないので候補になる遺物はないか?これが近いんではないか?とか。卑弥呼は長い剣を頂いたとの記事もありでそれがまだどこかで出土されていないのか?そんな話もありましたね。日本へのお返しの方が多いとかそんな話もあったんで、かなり少人数の日本人の中にまさかその方がいたとか?凄い人を贈ったけど上手くやられたとか?織物の職人はその中にいそうだと思ってましたけど弓の凄い方や巫覡とか相当優秀な方を支援に贈ったからお返しが凄かったともちょっと思ってきましたね。

とにかく記事によりなんか妄想が豊かになってます。凄く楽しめましたよ。ありがとうございます。

外交も得意な方いたはずなんですよ、奴国には卑弥呼が直接ではないはずですから。

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