日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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大化改新以前のヤマトの東北進出

2018-06-30 09:16:49 | 歴史コラム:古代
 日本中、どの地域に行っても歴史があります。

 当たり前のことですが、歴史がない地域はありません。

 意外と地元の人よりも外部の人のほうが詳しいことも多く、外部の人が地元の人に教えてあげることにより地元の人が自分たちの故郷の歴史の面白さに目覚めるということもあります。

 そんなこともあり、私は日本中どこに住んでもその地域を楽しめる自信があるわけですが、東北地方の歴史もまた楽しくて仕方がありません。

 東北地方のなかでも個人的に思い入れがあるのが岩手県・青森県の南部地方ですが、最近は宮城県についても調べることが多くなり、もちろん他の3県にも興味があります。

 そもそも私が20年前に東北地方の歴史を始めたときは戦国時代からだったのですが、その後、古代史をやるようになったきっかけは、「蝦夷(エミシ)」とはいったい何なのか、という疑問が発端でした。

 エミシについての知識がまだ無い頃は、エミシに対して漠然と「異民族」のようなイメージを持っており、私の祖父が青森県の三戸で生まれたこともあり、自分にも何か日本人とは違う血が流れているのではないかと、そういったことに興味を持ったのです。

 エミシに関しては今までツアーや座学でたくさん話してきましたが、私の話し方が不味いこともあり、聴いてくださった方々がきちんと理解してくださっているか心許ないですし、私自身の脳内でもまだ整理しきれていない部分があるので、むしろその方が問題ではないかと思います。

 ですので、時間を見つけては学習したり考察したりしているわけですが、いま非常に関心があるのが、文献史料にはほとんど表れない、大化改新(645年)以前のヤマト人の東北進出についてです。

 大化改新以後は、国家の政策の下で城柵や郡を設置して北方へ版図を延ばしていくことが日本書紀をはじめとした史料に記されているわけですが、それ以前はいったいどのような歴史があるのでしょうか。

 考古学の成果を調べていくと、それよりも前(7世紀前半以前)に、かなりの数のヤマト人が北東北へ進出していることが分かるのです。

 熊谷公男さんの『古代の蝦夷と城柵』ではそういったことが簡潔にまとまっており、大変お勧めする書籍なのですが、今日は該書を参照しながら文献史料にほとんど表れない大化改新以前のヤマト人の北東北進出についてお話ししようと思います。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)
熊谷 公男
吉川弘文館


 ※ヤマト人という呼び方はなんだか奇妙ですが、「日本人」と呼んだ場合はアイヌと琉球人も入りますし、そもそもまだ日本という国はなかったので、ニュアンスをご理解ください。

*     *     *


 1.前方後円墳の北上

 邪馬台国が奈良にあったのか、北部九州にあったのか、おそらく一生決着しない問題だと思いますが、どこにあったにせよ、3世紀半ばに奈良において今の天皇の系譜上の先祖がヤマト王権を発足させたのは間違いないでしょう。

 そのヤマト王権は地方豪族を影響下(支配下ではありません)に置くために前方後円墳の築造を許可し、それをメンバーシップの証にしたという考え方が現在のところ定説の地位を占めていますが、私もその説には賛同しています。

 3世紀半ばに発足したヤマト王権は、4世紀末には宮城県の仙台平野にまで影響力を及ぼしました。



 ※宮城県名取市の雷神山古墳(墳丘長168mを誇る東北最大の前方後円墳)



 ※仙台市の遠見塚古墳(雷神山古墳との前後関係はまだ確定していない)

 そして遅くとも5世紀初頭にはさらにその北の大崎平野まで影響下に収め、大崎平野を流れる江合(えあい)川流域が太平洋側における前方後円墳の北限地域となりました。



 ※宮城県美里町の保土塚古墳(江合川流域の代表的古墳の一つで現状は円墳だがもともとは前方後円墳だったという説がある)



 ※同じく美里町の京銭塚(きょうせんづか)古墳(墳丘長66mの前方後方墳)

 なお、そこから65㎞も北に行った岩手県奥州市に一基だけポツンと角塚古墳という前方後円墳(帆立貝式と見る人もいます)が築造されていますが、これは例外として考えたいと思います。



 ※胆沢郷土資料館に展示してある角塚古墳のジオラマ

 江合川から角塚古墳の間には現在の宮城県と岩手県との県境の山々が広がっており、宮城県域からその山を越えて最初に到達するのが平泉で、平泉から衣川を越えると、角塚古墳のある胆沢扇状地(8世紀末にアテルイが活躍した地域)に出ます。



 2.続縄文人(アイヌの先祖)の南下

 ところで、話は北海道に飛びます。

 日本列島内のほとんどの地域では縄文時代が終わると弥生時代に移行したわけですが、北海道は稲作ができず、それ以外の理由もあって弥生時代に移行せず、続縄文時代に移行します。

 つまり、大陸からやってきた人びとと交わることもなく、日本列島古来の縄文人がその文化を守っていったわけです。

 北海道の続縄文人たちの中でもいくつかの文化圏があったのですが、ヤマト王権が発足したのと同じ頃から道央部を本拠地とする江別文化を担った人びとが道内に勢力を伸ばしはじめ、やがて東北地方にまで進出します。

 この江別文化を担った続縄文人がアイヌの先祖です。

 アイヌという呼び名は中世以降の呼び名ですので、古墳時代の続縄文人をアイヌと呼ぶのは正確ではなく、あまり聞きなれない言葉だと思いますが、今回はこのまま「続縄文人」と呼びます。

 彼らが使用した後北式土器の分布を調べると、彼らが一時は宮城県まで南下したことが分かります。

 6世紀には北海道に撤退していくのですが、続縄文人が北東北に住んでいた時に付けた地名が、いわゆる「アイヌ語地名」です。

 続縄文人が津軽海峡を渡って北東北に進出した頃、北東北にもともといた縄文人は弥生人化しており、さらに後述する通りヤマト人も北進しており、そのため北東北には後北式土器と弥生式土器が一緒に出土する遺跡が多く存在します。

 なぜ続縄文人が南下したのかは、オホーツク人による圧迫や気候の寒冷化が原因とされていますが、ヤマトと接触することによって鉄器を入手するためだという説もあります。

 北東北にいた弥生人は、続縄文人の南下に押される形で南方へ移動した者もあれば、続縄文人の狩猟採集の生活様式を取り入れてそのまま住み続けたり、続縄文人と同化した人びともいたことでしょう。

 現代の私たち日本人は、米を食べるのが当たり前で、なおかつもっとも美味しい食べ物だと思っていますが、地域によってはわざわざ面倒くさい稲作をしなくても美味しいものがたくさん食べられる地域があるわけです。

 3世紀から6世紀にかけて、古墳文化の及ばなかった北東北では集落遺跡が激減するため、「住居イコール竪穴住居」という考えを頑なに固持している一部の考古学者は、無住の地域が広がったように錯覚するわけですが、決して人が住まなくなったわけではなく、上述の通り続縄文人が南下して各地に展開していたのです。

 というのも、続縄文人は遺構として残ることがほとんどないテントのような平地建物に住んでいたため集落遺跡が見つからないと考える学者もおり、私もその考えに賛同します。

 3.ヤマト人と続縄文人が雑居した北東北

 さて、古墳文化の最北端である角塚古墳が築造された奥州市付近は、当時どのような情勢だったのでしょうか。



 ※日本列島最北の前方後円墳である角塚古墳

 既述した通り角塚古墳は5世紀に築造され、その近くには豪族居館らしきものも見つかっている中半入(なかはんにゅう)遺跡という大規模な集落跡も見つかっています。



 ※中半入遺跡(現在は標柱が1本立っているだけ)

 この角塚古墳の被葬者や中半入遺跡に住んでいた豪族が続縄文人(つまりアイヌの先祖)ということはありません。

 奥州市内にも元々は縄文人が住んでおり、彼らはやがて弥生文化を取り入れて弥生人となり、そしてヤマト王権に参画して、関東地方などの他のヤマトの人びとと何ら変わらない古墳や集落を構築したわけです。

 ただ、周辺には続縄文人も住んでいました。

 宮城県北部から岩手県南部にかけては、4世紀から6世紀までの200年くらいの間は、ヤマト人の村と続縄文人の村がまだら模様に混在する地帯となっていたのです。

 既述した通り、前方後円墳の築造地域は実質的には大崎平野が北限でした。

 大変労力のかかる前方後円墳の築造ができるほどの大きな力を持った勢力(豪族)は、太平洋側では岩手県より北には角塚古墳の被葬者以外に存在しなかったようですが、古墳を築造するまでに至らないまでも、古墳時代人がその文化を担って北方へ進出していた形跡は残っています。

 例えば、宮城県石巻市の新金沼遺跡という集落では、4世紀のころには関東人や東海人が進出して続縄文人との交易センターの様相を呈していましたし(弥生時代末期に関東地方に進出した東海人が古墳時代前期には石巻まで進出しているのは要注目)、律令時代以降の遺跡として有名な宮城県大崎市の名生館遺跡でも、5世紀中葉から6世紀前半にかけて大崎平野の中の拠点集落として機能していたことが分かっています。



 ※名生館官衙遺跡(中世の大崎氏居城時の空堀や土塁は残るが古代官衙の形跡は不明瞭で説明板が設置されている)

 また、大化改新直後に築造された城柵(およびその後の初期陸奥国府)である宮城県仙台市の郡山遺跡でも、第Ⅰ期官衙と呼ばれている城柵を築造するよりも前の6世紀末葉から7世紀中葉の関東の土器が見つかっています。

 こういった関東や東海の人びとの北上は日本書紀などの文献史料には直接は書かれていませんが、どのような歴史的背景を持っていたのでしょうか。

 4.蘇我政権の時代は国造が先兵となり東北へ進出したのか

 上述した通り、ヤマト王権による大化改新以前の北方進出の痕跡はたくさん残っているのですが、私は北方進出の実行部隊は関東地方の国造ではなかったかと考えています。

 例えば、既述した郡山遺跡の第Ⅰ期官衙に先行する竪穴住居から出土した関東系土器は、千葉県の印旛沼周辺で作られた土器に酷似しているのです。

 ということは、その時期は印波国造が印旛沼周辺を治めていた時期に当たるため、印波国造が仙台へ人びとを送り込んだ可能性が考えられるのではないでしょうか。

 当時のヤマト王権のトップは実質的には蘇我氏であり、蘇我政権のもと北方進出は着々と進められていたことが推測でき、印波国造は香取海を前面に控え、船団を操ることのできる氏族であったと想像できるので、その航海術を駆使して太平洋側から北方へ進出する実行部隊となっていたのではないでしょうか。

 そういった重要な任務を帯びていることから、大王でも造れないような巨大な方墳の築造を許され権威付けされたのでしょう。



 ※千葉県栄町にある一辺78mの巨大方墳・龍角寺岩屋古墳(方墳では国内2番目の大きさ)

 さらに想像をたくましくすると、当該地域に宗像大社が集中して見られるのは、北方進出の航海にあたって海人である宗像氏の協力を仰いだからではないでしょうか。

 また、日本書紀にはこういったことは直接的には書かれていませんが、637年の上毛野形名が蝦夷と戦った記述は、現在の群馬県の巨大豪族であった上毛野国造が北方へ進出した形跡だと考えられます。

※     ※     ※


 西新宿のクラブツーリズムにて毎月やっている東北地方の歴史講座の次回、7月14日(土)は、アテルイが降伏した後の歴史についてお話しします。

 興味のある方は、クラブツーリズム公式HPを見てみてくださいね。

 ⇒クラブツーリズム公式ホームページ内講座案内ページ


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