日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

古墳と国造

2018-05-30 12:32:41 | 歴史コラム:古代
 今週の土曜日は千葉県の古墳ツアーをご案内するので、私の脳内は千葉の古墳のことで一杯です。

 現在レジュメを作成している最中なのですが、今現在の私の知識で千葉県の古代史についてまとめてみました。

 といっても、分量的にはほんの少しですよ。

 1.関東地方の国造と古墳との関係

 さて、古墳時代は一般的には3世紀半ばから7世紀までとされています。

 その間、400年くらいあるわけですが、もちろん400年間同じような社会がダラーっと続いていたわけではなく、各段階で歴史的な画期が存在し、古墳時代の始まりのころと終わりのころとではだいぶ社会は変化しています。

 古墳時代の最末期にようやく「日本」という国家は誕生したわけですが、それまでの間、奈良や大阪を本拠地とする中央政権(ヤマト王権)が地方の有力者たち(地方政権)を緩く支配、あるいは影響下に置いていました。

 中央による地方の支配は段階を経て進展していったわけですが、古墳時代後期には国造(こくぞう/くにのみやつこ)の設置という画期的な出来事がありました。

 国造とは何か、いつ設置されたのか・・・、などについては研究者によって様々な考え方が提示されています。

 私は「筑紫君磐井の乱」(527~28年)の後に、九州の支配をかなり進めた継体大王によってまずは西日本に置かれ、その目的は朝鮮半島を攻めるための軍事動員を容易にするためという説に賛同しています。

 もちろん賛否はあると思いますが、では、東日本にはいつ設置されたのでしょうか?

 これに関しては、関東地方では前方後円墳の築造が一斉に途絶え、一部の有力者が大型の方墳や円墳を築造し始めた時期(7世紀初頭)という説を支持しています。

 上毛野(群馬県域)においては、前方後円墳が築造されていた時代の最末期には20余りの政治勢力に分かれていたのが、前方後円墳の築造が終わり大型方墳を築くことができたのは総社古墳群の被葬者のみとなっています。

 総社古墳群では、愛宕山古墳(一辺60m)、宝塔山古墳(55m)、蛇穴山古墳(39m)というように相次いで大型方墳が築かれました。



 ※愛宕山古墳の横穴式石室(刳抜式の家形石棺が置かれた石室を見学できる)

 これらの方墳の被葬者が上毛野国造ということになり、総社の勢力は時代が下ると上野国府の誘致にも成功します。

 隣の下毛野(栃木県域の那須地方を除いた地域)の場合は、壬生町の車塚古墳(直径82mの円墳)の被葬者が国造となったと想定され、武蔵(埼玉・東京)の場合は行田市の八幡山古墳(直径80mの円墳)の被葬者が国造となったと想定できます。



 ※車塚古墳(3段築成の巨大円墳で横穴式石室も見学できる)



 ※八幡山古墳(墳丘は削られて無くなっているが「関東の石舞台」と呼ばれる見事な横穴式石室が残っている)

 上毛野や下毛野、そして武蔵はのちの令制国一国にまたがる巨大な国造ということになりますが、常陸や今週末にクラツーのツアーでご案内する下総・上総の場合は小規模な国造が乱立することになります。

 千葉県域の国造を『先代旧事本紀』から拾うと以下のようになります。



 ※『房総の古墳を歩く』を加筆転載

 これらのうち、4つの国造領域にて6世紀に大型前方後円墳が築かれています。

 すなわち、

 ・小櫃川流域の馬来田(まくた)国造領域(のちの望陀郡)には、金玲塚古墳(墳丘長100m)

 ・小糸川流域の須恵国造領域(のちの周淮<すえ>郡)には、三条塚古墳(同122m)

 ・九十九里沿岸の武社(むさ)国造領域(のちの武射郡)には、大堤権現山古墳(117m)





 ・当時広大な入海だった印旛浦(現在の印旛沼)沿岸の印波国造領域には、浅間山古墳(同78m)





 という具合です。

 これら4つの政治勢力は前方後円墳築造が終了した後はこぞって大型方墳や大型円墳を築造します。

 ・馬来田国造領域では、松面(まつめん)古墳(一辺44mの方墳)と鶴巻塚古墳(径44mの円墳)

 ・須恵国造領域では、割見塚古墳(一辺45mの方墳)

 ・武社国造領域では、駄ノ塚古墳(一辺60mの方墳)

 ・印波国造領域では、龍角寺岩屋古墳(一辺82mの方墳)



 ※岩屋古墳は方墳では国内で2番目の大きさだが、この時期だけを見ると国内で最も大きい方墳となる



 これらの古墳の被葬者が各地域の国造と想定されます。

 7世紀初頭というと、推古天皇という女帝が君臨し、若い聖徳太子がそれを補佐した時代とされていますが、私はそれを正直に信じることができず、倭国の舵取りをしていたのは蘇我馬子だと考えています。

 蘇我馬子は東日本に国造を置き、東北地方への進出を政策の重要方針の一つとしていたのではないでしょうか。

 ところで、先日武社国造および印波国造の領域を探訪してきましたが、律令時代の郡衙の跡を2ヶ所見てきました。

 武射郡衙跡である嶋戸東遺跡。





 近くには郡寺と考えられる真行寺(しんぎょうじ)廃寺跡もあり、真行寺は住所として残っています。





 両者とも説明板が残念な状態になっていますね。

 もう一ヶ所、埴生郡衙跡である大畑・向台遺跡群。





 こちらは説明板の設置は見当たりませんでした。

 2.武蔵には2つの国造がいたのか?

 さきほどお話しした中で、武蔵の国造は八幡山古墳の被葬者と想定できるとしました。

 ところが、『先代旧事本紀』によると、武蔵には无邪志国造と胸刺国造が記載されています。

 これについては、両者を同一とする説と別個とする説があり、いまだ決着していません。

 単純に古墳から探ってみると、6世紀末の段階では、のちの武蔵国の範囲には八幡山古墳の被葬者勢力しか国造になれるような強大な勢力はなく、東京都側の多摩川流域にはそれに匹敵する勢力はありません。

 そのため、武蔵国内には一つの国造しかなかったと判断することができます。

 ただし、もう数十年経ち、7世紀の半ばごろになると、多摩川流域では上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳や三鷹市天文台構内古墳が築造され、さらに多摩市には八角墳の稲荷塚古墳も築造され、かなり強力な勢力の成長を見ることができます。

 これら多摩川の勢力は、行田市の勢力を押さえて武蔵国府の誘致に成功しており、律令国家の建設にあたって国造を解体する過程で力を付けてきた勢力だと考えられます。

 多摩川流域の特異な形状の終末期古墳に関しては、クラツーでツアーも企画しますので、また別途考察しようと思います。

 3.なぜ東日本に国造が置かれたのか?

 話を少し戻して、なぜ東日本に国造が置かれたのか、その理由について考えてみます。

 設置の理由としては、西日本に置いたのだから中央政府としては東日本にも置くのは当然だと言われてしまったら身も蓋もありませんが、もう少し突っ込んで考えてみると、西日本での設置理由が朝鮮半島を攻めるための軍事的な政策の一環だとすると、東日本の場合はやはり、対東北地方政策の一環ということがいえると思います。

 岩手県域では、5世紀に角塚古墳が築造され、ヤマト王権の影響力が遥か北まで及んだことがわかりますが、その時代までは宮城県の大崎平野に流れる江合川までが強く影響が及ぶ範囲だと言えます。



 ※国内最北端の前方後円墳・角塚古墳

 一時的にヤマト王権の影響が及んだ岩手県南部ですが、6世紀になると集落数が激減してしまうので、もしかするとヤマト王権の影響下にあった当該地域の豪族の血統はここで絶えてしまったかもしれません。

 6世紀にはアイヌの二度目の南下が行われ、一関市辺りまで南下してきたことが、「ベツ」地名の分布により想定できます。

 アイヌが南下してきたために玉突きのように北東北のヤマト人が南に逃れてしまったのか、反対に気候の寒冷化によってヤマト人が西へ逃れた空白地にアイヌが進出してきたのか、どちらかはわかりませんが、7世紀にはまたヤマト人が北東北へ進出していきます。

 7世紀というのは既述した通り、東日本に国造が設置された時期で、東日本では前方後円墳は一斉に作られなくなり「選ばれた者 = 国造」が大型方墳や大型円墳を造った時代です。

 7世紀の北東北の人口増加は、彼ら東日本の国造たちが主体となって北東北へ進出していった結果ではないでしょうか。

 『日本書紀』では、637年に上毛野君形名が蝦夷と戦った記事が掲載されていますが、これなどはまさしく上毛野国造家が北東北へ進出した記録が『日本書紀』に取り込まれたものと思います。

 こういった東日本の国造たちの北東北進出がベースとなり、7世紀半ばの渟足柵(ぬたりのき)と磐舟柵(いわふねのき)および仙台市太白区の郡山遺跡が築造されたのでしょう。

 東日本の国造勢力が築いた古墳は、例えば既述した上毛野・下毛野・武蔵・下総・上総の古墳を見ると、当時の大王の墓よりも大きいものばかりなのです。

 これは東日本の豪族たちが無許可で大きな古墳を作ったのではなく、東北地方進出に協力してくれる見返りとして大王墓よりも大きな古墳の築造を許したものと考えられます。

 既述した巨大方墳を築いた印波国造ですが、その支配地域には6世紀までは大型古墳が築かれておらず、言ってみれば有力豪族の空白地域でした。

 それが6世紀以降急成長するのです。

 これなども、香取海を中継地点として東北地方に進出する政策を中央政府が打ち出したことと関係があるように思われ、かつ645年の乙巳の変以降の大化改新で活躍したとされる中臣鎌足が常陸出身という説とも絡んできて、なおかつ香取神宮や鹿島神宮の創建の問題も絡みあうのではないかと考えています。

 ただ、今のところはまだ考察が進んでいませんので、進展したらまたご報告します。



 ※香取神宮拝殿

 なお、先日香取神宮を訪れたときに人懐っこい猫ちんと遭遇しましたよ。









最後の前方後円墳 龍角寺浅間山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」109)
白井 久美子
新泉社



コメント (2)   この記事についてブログを書く
« 【東国を歩く会】「第18回歩... | トップ | 【クラブツーリズム】千葉の... »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
関東気になりますね。 (りひと)
2018-06-28 16:27:55
ムサって音はどの字が最初なのでしょうね。ムという音で古そうなのは牟かな?大国さんの別名であったようにも。でサは狭?スサノオの佐か?
廃寺の名前も気になりますね。

ムサシって以前確かに複数の字で複数いるって話聞いた事ありますけどなんとなく調べたくない所でいつか出てくるだろうなあとは思ってました。

おまけに今超頭痛いんで。
こんな時は古墳見に行きますか?って気晴らししてきたです。


そう多摩に八角墳あるんですよね。斉明辺りが好きなんで八角もかなり気になってます。
相当大きな国あったと思うんですよね。

今はなんだか時期が悪いようなのでもう少ししたら調べてみます。

直感ではムサって出雲とも関係しそうにも思いますね。だとしたら間違いなくその後やってきた民族になり変わってるでしょうね。以前聞いた話では相当争いがあったと。頭痛いタイミングなのでなんか霊感とか念とか飛ばせるような一族が関わっていそうですね。

エリア的には鹿島香取から上の東北に水運で動ける民族でもあるはず。歴史では出てこないけど鋸山ば聖武時代に接点あればその後も相当関東は栄えていたとは思いますね。 鋸山の石が青砥だったかな?荒川までは古代に行っているとなるとかなり古くから水運使って物を動かしてきているようにも思いますね。そうそう皇子も千葉では結構祀られてますよ。垂仁さんか崇神の息子さん。
そんな皇子が来てるなら揉めるわけですよね。問題はどちらが土地に密着かだけ。そこが分かると色々な事が見えて見えてくるでしょうね。1250
関東の古代史をやると畿内と東北が繋がりますね (稲用)
2018-07-01 11:01:25
古代の日本においては、あまり漢字は気にすることはないと思いますよ。音のほうが大事ですね。
八角墳はこれから調べようと思っているテーマなんですが、多摩に八角墳があるというのは極めて重大なことだと思います。
武蔵は出雲の神社が多く祀られており、古代において出雲とどのような関係があったのか興味深いですね。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史コラム:古代」カテゴリの最新記事